宥和政策

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宥和政策(ゆうわせいさく、Appeasement(慰撫)、宥和主義(ゆうわしゅぎ)とも)とは戦争に対する恐れ、倫理的な信念、あるいは実用主義などに基づいた戦略的な外交スタイルの一つの形式で、敵対国の主張に対して、相手の意図をある程度尊重する事によって問題の解決を図ろうとすること。危機管理においては、抑止の反対概念として理解される。

日本では主に、イギリス首相チェンバレンの対ドイツ政策を指す言葉と理解され、「平和主義が戦争を起こした。ナチスのような外交的手段が通用しない相手に対して、平和主義による解決には限界がある」という典型例として、反戦平和主義およびそれを主張するものを批判する論拠とされ、また軍備増強やそのための憲法改正を全面肯定する論拠ともされている。

宥和政策は第二次世界大戦の勃発を防げなかった一因でもあり、これを語るときは否定的な意味合いで用いられているが、広義の意味での宥和政策は価値中立的な政策であり、また、1930年代特有の政策ではないと言える。

ナチス政権下のドイツに対する宥和策

歴史的背景

第一次世界大戦による甚大な被害への反省と恐怖から、ヨーロッパでは「あらゆる戦争に対して無条件に反対する」という平和主義が台頭した。

第一次世界大戦の結果、1919年パリで結ばれたヴェルサイユ条約は、ドイツに対して、1320億金マルクという天文学的賠償額を要求し、全植民地と領土の13パーセントを剥奪、戦車・空軍力・潜水艦の保有禁止、陸軍兵力の制限(10万人以下)、参謀本部の解体、対仏国境ラインラント地域非武装地帯化など、ドイツの経済や安全保障にとって非常に厳しいものとなった。この反動で、ヴェルサイユ体制打破を掲げるヒトラーナチスがドイツ国民の支持を得ていった。ヒトラーは1933年の「全権委任法」成立と1934年の総統就任により、完全なドイツの独裁者となる。

ドイツへの譲歩

赤は1933年の、オレンジは1943年のドイツ

1935年、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約の取り決めを一方的に破棄して再軍備と徴兵制の復活を発表した(ドイツ再軍備宣言。陸軍の人員を12倍にし、空軍を創設)。平和主義を求める世論に縛られている各国は、このドイツの行動を黙認した。1936年、ドイツはラインラント進駐を行い、ヴェルサイユ条約は完全な死文となった。1938年にはオーストリアを併合(アンシュルス)と勢力を広げる。

1938年、ヒトラーがズデーテン地方チェコスロバキアの要衝)を要求したことを受け、イギリス・フランス・ドイツ・イタリア4カ国の首脳会議(ミュンヘン会議)がミュンヘンでおこなわれた。イギリスのチェンバレン首相は、平和主義のためと、戦争準備の不足からドイツの要求をのんだ。なお、チェコスロバキアの代表は、会議に参加することも許されず、意見を提出することすら認められなかった。

ヨーロッパ中は、世界大戦が回避され、平和が訪れたという喜びに包まれた。特に立役者チェンバレン首相は讃えられ、パリでは街のひとつを「チェンバレン」と名付ける動議が提出されたほどであった。

ドイツ側の国内事情

ミュンヘン会談はヒトラーにとっても大きな賭けであった。ミュンヘンの宥和が成立しなかった場合は、チェコに侵攻する計画(緑計画)が発動される予定であったが、軍人達は対チェコ戦に悲観的な見通しを持っていた。ズデーデン地方にはマジノ線に匹敵すると言われた要塞線が存在し、ドイツ軍の大きな妨げになると予想されていた。

また対英仏戦の発生も懸念されていたが、防備も十分ではなかった。独仏国境の防衛線「ジークフリート線」も3週間と持たないという見通しすら存在した。

また、元参謀総長ルートヴィヒ・ベックを始めとする反ヒトラー派は、ヒトラー排除のクーデターを計画していた。彼らは対チェコ戦の開始をきっかけに計画を実行するつもりであったが、ミュンヘン会談により計画は延期された。

こうした内情は一切イギリス側には伝わらず、政策に影響を与えることはなかった。

ミュンヘン会談後の宥和政策

チェコ併合後、ドイツ人食事の提供を拒したアメリカのレストランオーナー。

ミュンヘン会談の結果、チェコスロバキアは要塞線やシュコダ社の軍需工場をはじめとする工場地帯を失い、ドイツに抵抗する力を無くした。1939年3月にはドイツの策動により、チェコスロバキアからスロバキアカルパト・ウクライナが独立。スロバキアはドイツの保護国に、カルパト・ウクライナはドイツの同盟国ハンガリー王国に編入された。残ったチェコもドイツの要求に屈し、併合された。

これはミュンヘン会談の合意を完全に踏みにじるものであった。イギリスの世論は沸騰し、反独気運が高まった。チェンバレンは強硬な抗議を行ったが、軍事的措置はとらなかった。

次なるポーランド回廊を巡るドイツの要求に対し、イギリス・フランスはポーランドと同盟を結ぶことによってポーランドを援助し、ポーランドはドイツの要求に抵抗した。

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻、英仏はついにドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。当時西部戦線のドイツ軍兵力が29個師団だったのに対し、英仏は110個師団を有して英仏側が優勢であったが、英仏はポーランド援助やドイツ本土侵攻といった手段はとらず、防備にのみ務めた。高機動力を誇るドイツ軍の前にポーランド軍はいとも簡単に粉砕され、ポーランドはドイツとソビエト連邦によって東西に分割された。宥和政策と優柔不断な外交によりポーランドは大国と交わした条約を遵守されることなく侵略・占領されたのである。

第二次世界大戦後の宥和政策の評価

この政策の是非を巡っては長い間論争が続いている。

チャーチルは著書『第二次世界大戦回顧録』のなかで、「第二次世界大戦は防ぐことができた。宥和策ではなく、早い段階でヒトラーを叩き潰していれば、その後のホロコーストもなかっただろう。」と述べている。

一方、近年のイギリスでは「チェンバレンは宥和政策で稼いだ時間を、軍備増強のために最大限有効活用した。宥和政策がなければ、イギリスは史実よりさらに不十分な軍備のまま開戦し、ドイツを叩き潰すどころか史実よりもさらに苦境に追い込まれ、極言すればスピットファイアなしでバトル・オブ・ブリテンを戦う(そして破れる)ことになっていただろう」という肯定的な意見もある。

そして当時の英国経済は、世界恐慌の傷が癒えぬまま純経済的には不利なブロック経済を維持し続けたために破綻寸前の状態で、ドイツほどではないにせよ「軍備増強せずに軍事的に滅ぼされるか、軍備増強して経済的に滅びるか」の二者択一に近い状態にあり、強硬政策を取りにくかったことをも考慮する必要がある(事実、英国経済は戦時中に破綻、戦後の植民地放棄・大英帝国崩壊につながった)。

また、ミュンヘン会談以前の英国(特にエドワード8世をはじめとする上流層)、そして仏国国内では、ソ連の脅威を背景とした反共主義がかなりの勢力を持っていた。そこにヒトラーのカリスマが加わった結果、両国首脳部には反共・親ナチス派がかなり多く、むしろチャーチルのような反共・反ナチス派の方が少数派であった。だが、ナチスはソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上で世界大戦に突入し、まず英仏に牙を向けた。そうした反共・親ナチス派が、己が読みを外した責任を恣意的にチェンバレン個人と、そして宥和政策・平和主義全般に転嫁して保身を図った要素も無視できない。

またこの問題は現代でも、独裁的で攻撃的な政権に対する対応を語る上でしばしば議論され、一般層のルサンチマンや、より単純な勧善懲悪感情にも合致するため、一定の支持を得ている。近年では、2003年英などによるイラク戦争開戦について、米国のブッシュ政権はミュンヘン会議を例に挙げ、「ヒトラーに対して宥和政策をとったことがアウシュビッツの悲劇を生み出した。サダム・フセインも先制攻撃しないと大変なことになる」とイラク侵攻を正当化する根拠とした。しかし、イラク侵攻はフセイン政権を先制攻撃で倒したにもかかわらず、「ブッシュのヴェトナム」と呼ばれるほど泥沼化し、イラク情勢は2012年現在、なお完全には解決していない。

いずれにせよ、実行しなかった政策の結果を知ることは出来ないため、これらの論争の決着は難しい。

関連項目