北町 (練馬区)

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北町
練馬駐屯地創立記念行事の戦車体験試乗。
練馬駐屯地創立記念行事の戦車体験試乗。
北町の位置(東京都区部内)
北町
北町
北町の位置
北緯35度46分1.35秒 東経139度39分50.12秒 / 北緯35.7670417度 東経139.6639222度 / 35.7670417; 139.6639222
日本の旗 日本
都道府県 東京都
特別区 練馬区
面積
 • 合計 1.634 km2
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[2]
 • 合計 25,958人
 • 密度 16,000人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
179-0081[3]
市外局番 03[4]
ナンバープレート 練馬

北町(きたまち)は、東京都練馬区町名。現行行政地名は北町一丁目から北町八丁目。郵便番号は179-0081[3]

概要・地理

練馬区の北東部に位置し、古くは旧川越街道宿場町だった。北部を板橋区徳丸上板橋赤塚新町(通称・赤塚)など[5]、南部を練馬区平和台田柄など[6]と接している。かつては田柄川田柄用水が流れ(後述)、終戦を挟んで東武啓志線も通った(後述)。

下練馬宿が置かれた、区内唯一の宿場町だったこともあり、東武東上線東武練馬駅周辺や旧川越街道を中心に商業が賑わっている。旧川越街道沿いには東上線沿線最長の北一商店街や、きたまち商店街 、ニュー北町商店街などが連なる。また区内の工場の約12%(区内第1位)が集中するなど、東武練馬駅付近を中心に工業も比較的盛んである。四丁目は陸上自衛隊練馬駐屯地となっている(後述)。

町内は東上線のほか、地下鉄有楽町線・副都心線、さらに川越街道国道254号)、富士街道環八)という2つの大きな幹線道路が通る。両道路に接する「トーホーボール」(所在地)やNTT北町ビル、旧島忠家具センターがあったビルは古く、地元のランドマーク的存在。国際興業バスの練馬北町車庫があり、北町小学校のブランコからバスの洗車が見られ、水飛沫が飛んでくる。自衛隊駐屯地内では、夏の盆踊り(納涼祭)や運動会が開かれる(後述)。

旧川越街道の商店街では毎年、「きたまち阿波踊り」が開かれ、7万人程を集める。また2019年(令和元年)11月24日には「下練馬宿まつり・将軍綱吉と練馬大根~練馬だいこん献上絵巻 再現劇」が行われ、2020年(令和2年)10月2日は「徳川御殿鷹狩りショー」が行われた。旧北町にはかつて徳川綱吉御殿があり(北町小学校横のグリーンベルトに記念碑がある)、将軍になる前に脚気を患いここに御殿を建て療養したことや、その徒然に練馬大根を栽培し5代将軍になったときに大根を献上させ諸大名にふるまったこと、剰え鷹狩りにも利用し度々この地に逗留していた逸話があることに因む。

また旧田柄川緑道は桜の名所になっている。

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目 世帯数 人口
北町一丁目 2,638世帯 4,483人
北町二丁目 3,223世帯 6,326人
北町三丁目 1,541世帯 2,752人
北町四丁目 938世帯 938人
北町五丁目 1,225世帯 2,368人
北町六丁目 1,454世帯 2,536人
北町七丁目 1,543世帯 2,859人
北町八丁目 2,100世帯 3,696人
14,662世帯 25,958人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[7]

丁目 番地 小学校 中学校
北町一丁目 全域 練馬区立北町小学校 練馬区立北町中学校
北町二丁目 全域
北町三丁目 1~13番
その他 練馬区立北町西小学校
北町四丁目 全域
北町五丁目 全域
北町六丁目 全域 練馬区立練馬東小学校
北町七丁目 全域
北町八丁目 全域 練馬区立北町中学校

歴史

概略

宿場町として
旧・武蔵国豊島郡下練馬村。江戸時代から旧川越街道の宿場町として下練馬宿が置かれ賑わった。下練馬宿は川越のある北西(下赤塚)側から上宿・中宿・下宿の3つから成り、本陣、脇本陣、問屋場が揃っていた。本陣は後述する「下練馬の大山道道標・東高野山道標」(1753年,宝暦3年建立)の近くにあった。参勤交代で通る大名や鷹狩りに行く綱吉、富士や大山への参詣者、秩父巡礼者らが利用した(後述)。ただ宿泊者は少なく、休憩利用が多かったという。

区域と地名
下練馬村時代は、下練馬宿を中心に西の方馬喰ケ谷戸、大松、久保、その南の農作地帯であった池ノ端、田柄谷、池ノ上、伊勢原、大山街道の北側になる御殿、桜台、庚申塚、大山、富士山、田柄前などと呼ばれた区域である[8]。その後北豊島郡練馬町を経て、1932年昭和7年)に板橋区に編入された際、旧練馬町を練馬北町・練馬仲町・練馬南町に分けた。戦後は練馬の冠が外れた後、仲町と南町は消え、北町はそのまま残った。

町の発展
北町が大きく変ったのは、田柄川の河川改修を含めた耕地整理を始めた事や、その終了後1940年(昭和15年)東京第一陸軍造兵廠練馬倉庫が一万坪(3万3000㎡)の土地にできた事がきっかけである。

練馬は純農村地帯で、下練馬村も農地が多かった。だが武蔵野台地に位置し水利が良くないため農地としては適さず、地主も農作を諦めて土地を貸すなどした者もいた。洪水にも悩まされた。そうした中で後述の田柄用水事業も行われた。昭和初期から戦前にかけて、農業振興が目的であったが耕地整理事業が北町地区で施行され、整った道路形態の名残りを留めることになった[8]。農作に関して言うなら、赤塚近くの久保に1902年(明治35年)練馬大根種子販売合資会社が設立され、本格的に練馬大根種子の販売に乗り出した様子が伺える[8]

1914年(大正3年)東上線が開通したが、上板橋駅の次は成増駅で当地に駅はなかったため、この町の発展は遅々たるものであった。かえって機関車の出す煙の火の粉のため、東武練馬付近の農家の藁屋根に移り火して全焼したり、枕木が燃え出すなど東上鉄道の経営不振と相まって余り評判がよくなかった[8]。結局、1920年(大正9年)東武鉄道との合併、1929年(昭和4年)電化を経て2年後、1931年(昭和6年)12月に東武練馬駅がやっとできた。1941年(昭和16年)後の都立北野高校(当時・東京府立北野高等女学校)が徳丸に開校し、乗降客も多くなった[8]

陸軍練馬倉庫ができた翌1941年(昭和16年)、川越街道新道が開通(計画は1937年《昭和12年》)。同倉庫や朝霞の士官学校に通ずる道路として重要となり、倉庫敷地も拡張されていった。

戦後
戦後は倉庫跡が練馬駐屯地などになり官舎もできた。駅周辺や旧街道の周辺などでも宅地化は急速に進み、商店なども増え、1960年代(昭和30年代後半)以降の商店街は一時雑踏と殷賑を極めた[8]。1980年代初頭頃まで前に進めず前が見えないほどで、ラッシュ時のホームと見紛う位に買い物客でごった返した。

因みに北町のマーケットには1981年(昭和56年)当時、「北町百貨店(1956年,昭和31年)、マルニストアー(昭和31年)、有山総合食品市場(昭和32年)、練馬ショッピングセンター西友(昭和38年)、東武練馬センター、東武ストア等がある」と区史に記述されている[8]

下練馬宿

 

田柄川

1977年(昭和52年)まで、北町には田柄川が流れ、田柄用水も戦前の昭和初期まで通っていた(同時期廃止)。田柄川は石神井川の支流の自然河川で、田柄用水は人工的に開削された。田柄用水は、田柄川と旧川越街道の間を並行して流れ、現在の国道254を渡って旧北町1丁目と旧仲町1丁目の境(現在の錦1丁目26と平和台1丁目4の交差点)辺りで田柄川に合流していた。また田柄川は自衛隊駐屯地の西側と東側などに支流をもち南北に流れていて、田柄用水と田柄川を南北に直線で繋ぐ水路敷も多くあった。水路敷は、現北町3丁目で支流を含めて2箇所、同1丁目で支流を含めて5箇所ほどあった(田柄用水の流路図[9])。

それも同川は、北町地区では1973年(昭和48年)に2丁目で暗渠化・緑道工事が始まり[10]、1977年(昭和52年)までに完成(田柄川全体は1981年《昭和56年》)。旧田柄川緑道(グリーンベルト)として整備され、川はその姿を消した。それまで同川は時々大水を起こし、南北の交通を遮断したり、橋を流したりした[8]。同緑道は1970年代頃から桜の名所になっており、今もその下を下水道幹線として流れている。

東武啓志線

戦時中の1943年(昭和18年)、軍用路線が上板橋 - 陸軍第一造兵廠構内(現在の陸上自衛隊練馬駐屯地内)間に開通した。戦後は東武啓志線練馬倉庫駅と改称した。1959年(昭和34年)廃線。啓志線は上板橋方面から川越街道を越えて富士街道を現在のトーホープラザビルに沿って進み、自衛隊駐屯地内に入った。駐屯地内から見つかった線路の一部は北町地区区民館で展示されている(練馬区立北町小・中学校にも寄贈された)。当時、旧北町1丁目(現・錦2丁目)を蒸気機関車が走り、子供たちが耳を塞いで見物している写真は練馬区が保管している。

空襲

1944年(昭和19年)以後、米空軍の本土空襲に際しては練馬区も対象となり、1945年(昭和20年)4月1日、同3日から14日にかけ大型爆撃機B29延べ150機の空襲で区内各地に被害を出した。軍倉庫も火災を起し、その余波は中宿(北町1丁目の西半)を中心とした民家におよび、多数の焼失家屋を出した。なお敵機撃墜の目的でこの地区の南、丸久保付近には高射砲陣地が設けられていた[8]

1945年8月15日に終戦となるや、軍倉庫の物資中、戦時中献納した金属製の用品などが野積みの状況であったので、その発掘等が盛んに行なわれ、屑金属拾いが殺到する時期もあった[8]。練馬区は農地が多く住宅の密集地が少なかったことなどから、他区に比べてさほど大きな被害は受けなかった。しかし、このことがかえって多くの引揚げ者をはじめとする人々の招致につながることとなり、深刻な住宅問題が生まれるきっかけとなった[8]

富士山信仰と史跡

町内を通る富士街道は、かつて「ふじ大山道」と称し、大山や富士山などへの参詣者が通った[8]。起点となる旧川越街道との交差点(北町若木トンネル上)に「下練馬の大山道道標・東高野山道標」(1753年,宝暦3年建立)が置かれている[11]。富士参詣の歴史を偲ばせる北町浅間神社(明治期に築かれる)には富士塚(練馬のお富士さん)がある。1993年(平成5年)に「下練馬の富士塚」として練馬区有形民俗文化財に登録された。既述の通り、大山や富士山への参詣者は下練馬宿を休憩に利用した。因みに練馬春日町駅の高層ビルや練馬北町陸橋ができる前、トーホーボールと東京ガスの間の富士街道交差点から富士山が望めた(2021年時点で富士街道からやや反れてしまうが練馬春日町駅環八交差点やその南西先の環八沿いまで行かないと眺望できない)。

東武練馬駅前の旧川越街道沿いに「北町観音堂」があり、1682年(天和2年)建立で区内最大270cmの北町聖観音座像が鎮座している。台座には川越街道の二十九の地名が刻印されている。同像は練馬区指定有形民俗文化財である。他にも通行者のための馬頭観音像、区指定登録有形文化財の北町の仁王像など小さな像が多くある。

自衛隊練馬駐屯地

4丁目は全体を自衛隊の練馬駐屯地が占めている。戦時中に東京第一陸軍造兵廠の練馬倉庫として造成されたが、戦後は区画整理され、1951年(昭和26年)警察予備隊(自衛隊)が久里浜より倉庫跡に移転し、練馬駐屯地となった。旧敷地内の一部は北町小学校(1962年開校)、練馬北町電話局、都立養育院の練馬分院(1961年東村山へ移転)、国際興業バス車庫、車検場、トーホーボール(旧北町)、東京ガス(旧北町)などができた[8]。川越街道(254号)を挟んで官舎が立ち並ぶが、1990年代後半頃から順次高層化して建て替えられた。

同駐屯地の第1音楽隊が古くから近隣の小学校などで巡回演奏している。また夏に開かれる「練馬駐屯地 納涼祭」の歴史も古く[12]、盆踊りや花火、出店のほか、各部隊のパフォーマンスなどが披露され賑わう。また町内会対抗の運動会も同駐屯地内で開催されている。

因みに第1音楽隊は練馬駐屯地に駐屯し、東京、埼玉・神奈川・千葉・茨城・山梨・静岡の7都県を演奏担任区域にし、自衛隊の各種行事や定期演奏会、ファミリーコンサート、各地での巡回演奏など年間100回ほどの音楽演奏を行っている。因みに過去には東京五輪(1964年)や、震災被災者への慰問演奏なども行っている。

交通

鉄道

各駅の所在地は東武練馬駅(板橋区徳丸)、下赤塚駅・地下鉄赤塚駅・(板橋区赤塚新町)、平和台駅(同区早宮)である。

路線バス(国際興業バス)

  • 自衛隊前停留所、北町二丁目停留所、北町三丁目停留所
    • 石03系統 - 石神井公園駅北口行、練馬北町車庫行
    • 石03-2系統 - 練馬北町車庫行
    • みどりバス北町ルート - 東武練馬駅入口行(みどりバス)
  • 北町小学校停留所、北町二丁目東停留所、東武練馬駅入口停留所、北町消防出張所停留所、北町三丁目東停留所、消防訓練場停留所、新大宮バイパス西停留所、北町三丁目西停留所(みどりバス)
  • 平和台二丁目停留所
    • 光01系統- 光が丘駅行、練馬北町車庫行
    • 光02系統 - 光が丘駅行、池袋駅東口行
    • 赤01系統 - 練馬駅行、赤羽駅西口行
    • 赤85系統 - 平和台駅行、赤羽駅西口行
  • 平和台郵便局停留所
    • 光01系統 - 光が丘駅行、練馬北町車庫行
    • 光02系統 - 光が丘駅行、池袋駅東口行
    • 赤01系統 - 練馬駅行、赤羽駅西口行
    • 赤85系統 - 平和台駅行、赤羽駅西口行
  • 平和台駅停留所
    • 光01系統- 練馬北町車庫行、光が丘駅行
    • 光02系統 - 池袋駅東口行、光が丘駅行
    • 光04系統 - 練馬北町車庫行、光が丘駅行
    • 赤01系統 - 練馬駅行、赤羽駅西口行
    • 練95系統 - 練馬駅行、練馬車庫行
    • 赤85系統 - 赤羽駅西口行
  • 東中学校入口停留所
    • 赤01系統 - 練馬駅行、赤羽駅西口行
    • 練95系統 - 練馬駅行、練馬北町車庫行
  • 北町六丁目停留所
    • 光01系統 - 練馬北町車庫行、光が丘駅行
    • 光02系統 - 池袋駅東口行、光が丘駅行
    • 光04系統 - 練馬北町車庫行、光が丘駅行

道路

施設

東武練馬駅や線路周辺には1970~80年代頃まで「旅館 富士屋」(線路沿いステーキフジの近く、所在徳丸)、「さかゑ庵」(駅北口交番の所に看板が出ていた)など旅館が点在していた。宿場町だったことの名残りやキャバレー(ロンドンなど)その他の風俗店がいくらかあったからだとみられる。また1951年(昭和26年)に自衛隊(当時警察予備隊)が移転して来てからは、自衛隊員対象の飲食店が多くなった[8]。東武練馬駅周辺や商店街には今も隠れ家的なバーやスナックの数は多い。

北町一丁目

(かつてあった施設)

  • 下練馬宿元本陣周辺 - 元の本陣周辺は駅からはかなり離れているが、高度経済成長期以降に西友、ロッテリアなどができ、平和台駅もなかったため広域から集客し、東武練馬・北町地区の中心の一つとして賑わい、雑踏を極めた。
    • ユータカラヤ東武練馬店(2020年6月14日までで閉店。下練馬宿の元の本陣があった《後に本陣は東武練馬駅付近へ)。旧練馬ショッピングセンター西友として1963年5月開店、80年代頃2階は衣料品売り場で窓沿いの西角に玩具・プラモデルコーナーがあった)
    • ロッテリア(西友の並び東先。北町地区初の大手チェーン系ファストフードだった)
    • 北町文化劇場(映画館。旧西友の近くの線路寄り)

北町二丁目

  • 関東運輸局東京運輸支局練馬自動車検査登録事務所(車検場)
  • 防衛省北町高層宿舎
  • 練馬区役所第八出張所
  • きたまち商店街・ニュー北町商店街(旧川越街道沿い)
    • 新宿中村屋東武練馬駅前店
    • 牛角東武練馬店
    • 北町アーケード・ショッピングセンター(テレ東系アド街で取り上げられる)
    • 伊勢屋(テレ東系アド街で取り上げられる)
  • ティップネス東武練馬店(矢作医院のあった場所に80年代終わりにレヴァンとしてオープン。当時ジャグジーができ始めた頃で斬新だった)
  • 東武ストアフエンテ練馬店(イオンができるまで東武練馬周辺で最大スーパー。2階も東武ストアの衣料・日用品売り場で、現在のフエンテ入り口を入って直ぐ右手側に縦に上りエスカレーターがあり、階段が左側にあった。アーケード部分の2階は洋食レストランが入り、アーケード通路の壁《ファミマ側》に沿って縦に細い階段があった《駅沿い道路側から上った》。居酒屋は2000年頃オープン)
  • 北町上宿公園

(以下閉店、かつてあった店)

  • モスバーガー(2000年にファミマ北町2丁目店斜向い、ホワイト急便のある場所から当時板橋サティに移転)
  • ぎゃっぷ(若者向け衣料品店、辰尾整形外科の斜向い)
  • マツヤ(玩具・雑貨店。ラジコンやガンプラ、チョロQ、人生ゲームハイアンドロー、ドンジャラ、キキララなどのファンシーグッズ、縫い包み、ジグソーパズル、ガラスケースの中にゲームウォッチやルービックキューブ、ブーブークッション、変わり種の貯金箱などを売っていた。100円ショップなどを経て辰尾整形外科クリニックに)
  • バッティングセンター(南口駅沿い,1979年頃取り壊されダイエイビルになる)
    • ダイエイビルの旧店舗(2Fしまむら。1F家電店《商店街側から入り直ぐ右側》、貸しレコード店・雑貨店・書店《同左中央》、軽食店《駅側から入り直ぐ左》、後に大貫書店支店《駅側から入り直ぐ右》など)
  • 安楽亭(北町観音堂裏の地下)
  • 練馬ペットセンター(アーケードの中。犬、ハムスター、金魚、熱帯魚、ヒメドジョウ、浴槽型の池に鯉、ザリガニ、アカハライモリ、ミドリガメ、セキセイインコ、紅雀・コキンチョウなどのフィンチ、カブトムシ・オオクワガタなどがいた。東武練馬駅下りホームに看板が出ていた)
  • CGC(三徳系食品スーパー。1970年代半ばにCGCとして旧民家から駐車場になった場所に開店。現駐車スペースは野菜売り場で毎日曜朝市が開かれた。バブル頃にカラオケボックスになり、99ショップを経てローソン北町2丁目店)
  • 北町病院(北町では最も大きな病院の一つだった)
  • 矢作医院(院長が元軍医。1980年代終わりのバブル期にレヴァンに)
  • 若草(レコード店、南口出て直ぐ現在ドコモショップ)
  • 大貫書店(西京信用金庫の正面)
  • カミヤ(文房具店、大貫書店の近く)
  • 文房具店(旧川越街道沿い、旧マツヤの並び、現在100均ミーツの場所)
  • 和菓子店(個人経営の和菓子店。現辰尾整形外科クリニック《リハビリテーション》)
  • 今川焼き屋(旧北町病院の1丁目側向かいの角。ガラス張りで焼いているところを見られ近くを通ると甘い匂いがした)

(* すたみな太郎 所在地は徳丸。1980年前後オープン。東武練馬駅上りホームからバルコニー席が見えた)

北町三丁目

北町四丁目

北町五丁目

  • カルチャーパビリオン平安練馬

北町六丁目

元は丸久保と呼ばれたところで、近くに戦争中高射砲をもった防空陣地があった[8]

北町七丁目

北町八丁目

白瀧呉服店

産業

農業

北町の農業は区内では小規模な部類に入り、耕作地のほとんどはキャベツを生産している。

工業

  • 工場数 99(2003年(平成15年)12月現在、「練馬区統計書平成17年版 工業統計調査」より)
  • 従業者数 695人
    • 常用労働者 638人
    • 事業主・家族従業者 57人
  • 製造品出荷額等 142億9934万円
  • 付加価値額 72億1845万円

北町では練馬区内の工場の約12%(区内第1位)が集中し、製造品出荷額等の約14%(第2位。1位は東大泉)を生み出すなど練馬区で最も工業が盛んな地域の一つである。特に東武東上線付近の一丁目・三丁目・五丁目では町内の工場の約57.5%、労働者の約81%が集中し、製造品出荷額の約91%を占めている。工場は従業者数が1人〜9人の小工場が約91%と圧倒的で、30人を超えるのは3工場のみ。

史跡・名所

  • 徳川綱吉御殿之碑(一丁目)
  • 下練馬の大山道道標・東高野山道標(一丁目)
  • 北町浅間神社(練馬のお富士さん、二丁目)
  • 北町観音堂(二丁目、1682年,天和2年建立。区内最大270cmの北町聖観音座像があり、練馬区指定有形民俗文化財)
  • 北町電車の見える公園
  • 北町上宿公園
  • 藤棚園の藤棚 - 宿場町だった北町一丁目の旧川越街道沿いにあった染物店(茶屋という説あり)の店先に藤棚があり、川越街道の名物だった。戦前に成増兎月園に移り、1960年に平和台の練馬東小に寄贈。

イベント

#概要・地理参照

きたまち阿波踊り

自衛隊納涼祭などその他

  • 自衛隊「練馬駐屯地 納涼祭」 - 盆踊り、花火、出店、各部隊のパフォーマンスなど。
  • 駐屯地内 町内会対抗運動会
  • その他単発イベント「下練馬宿まつり・将軍綱吉と練馬大根~練馬だいこん献上絵巻 再現劇」(2019年11月24日)、「徳川御殿鷹狩りショー」(2020年10月2日)

脚注

  1. ^ 練馬区統計書 - 町丁別土地面積、気温、降水量の推移、住民基本台帳による世帯数と人口など”. 練馬区 (2016年10月1日). 2018年1月4日閲覧。
  2. ^ a b 世帯と人口(人口統計) - 町丁目別”. 練馬区 (2017年12月5日). 2018年1月4日閲覧。
  3. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2018年1月4日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2018年1月4日閲覧。
  5. ^ その他板橋区西台若木とも接する。
  6. ^ その他早宮春日町とも接する。
  7. ^ 区立小中学校 学区域一覧”. 練馬区 (2017年8月24日). 2018年1月4日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『練馬区史 現勢編』より。
  9. ^ 田柄用水の流路図
  10. ^ 北町地区では1973年(昭和48)に2丁目で暗渠化・緑道工事が始まり、1974年(昭和49)に3・5丁目、1975年(昭和50)に7・8丁目の境、1976年(昭和51)に3・5丁目の残り、1977年(昭和52)に1丁目が完成(練馬区史 田柄川緑道整備施行進捗図より)。
  11. ^ 大山道道標は大山阿夫利神社への、東高野山道標は練馬区高野台長命寺への道標。
  12. ^ 駐屯地で開かれる「納涼祭」はその名称は変わっている可能性がある。

関連項目

外部リンク

脚注