加納藩
加納藩(かのうはん)は、美濃国(現在の岐阜県岐阜市加納)に存在した藩。藩庁は加納城[1]。
藩史
関ヶ原の戦い後、岐阜の領主であった織田秀信は西軍に与したために改易となり、岐阜城は破却されることとなった。翌慶長6年(1601年)、徳川家康は娘婿の奥平信昌に10万石を与えて、中山道の要衝である加納に岐阜城の遺材などを用い加納城を築かせた。これが加納藩の立藩である。信昌は長篠の戦いで活躍し、家康の長女亀姫を正室としていた。家康としては、織田信長以来の重要な拠点に親族を入れることで、豊臣氏や西国大名の牽制を狙ったのである。
信昌は慶長7年(1602年)に隠居して、家督を三男の忠政に譲った。しかし忠政には10万石のうち6万石しか譲らず、残りの4万石は隠居料としてなおも信昌が支配し、実権も握り続けた。信昌は治水工事や城下町の整備などに尽力し、加納藩の藩政を確立した。信昌は元和元年(1615年)3月14日に、忠政はそれより前の慶長19年2月2日に35歳で早世していた。このため家督は忠政の子・忠隆が継いだが、忠隆も父と同じく寛永9年(1632年)1月5日に25歳の若さで死去した。嗣子が無く、加納藩における奥平氏は断絶した。
代わって加納には信昌の娘婿である大久保忠職が5万石で入ったが、寛永16年(1639年)に播磨国明石藩へ移封となった。入れ替わりで松平光重が7万石で入る。光重は年貢徴収制度の確立のために五人組制度を設立した。光重は厳しい取り立てを行なうことで年貢徴収を確実なものとしたが、同時に代官の不正も許さず、不正があった代官は厳しく処罰された。光重の後は子の光永が、そして孫の光煕が継いだが、正徳元年(1711年)に山城国淀藩へ移封された。
代わって備中松山藩から安藤信友が6万5,000石で入る。信友は寺社奉行・老中などの要職を歴任した。ところが、その跡を継いだ信尹は無能で、奢侈を好んで藩財政を悪化させた。そのために綱紀も乱れ、家中で宝暦騒動が発生する。さらに百姓も度重なる年貢や御用金要求に耐えかねて強訴に及んだ。江戸藩邸の家老たちは信尹を幽閉して事態打開を図ったが、この一連の騒動が幕府に露見し、信尹は不行跡のために妾腹の嫡男・信成に家督を譲って強制隠居、所領も6万5000石から5万石に減封されることとなった。
宝暦6年(1756年)、信成は磐城平藩へ移され、代わって武蔵国岩槻藩主・永井直陳が3万2000石で入る。第4代藩主・尚佐は若年寄に昇進し、第5代藩主・尚典は武家諸法度に倣って「条々」・「定」・「覚」から成る家中制度を制定し、家臣団統制を強めた。最後の藩主・尚服は大政奉還直前に若年寄に任じられたが、戊辰戦争では岩倉具定に帰順して新政府側に与した。明治2年(1869年)、版籍奉還により尚服は加納藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で加納藩は廃藩となり加納県となった。明治5年(1872年)、加納県は岐阜県に編入された。
廃藩置県後、藩主家である永井氏は子爵に列せられた。
加納藩では和傘の生産が盛んで、年間50万本も生産されていた。
歴代藩主
奥平家
譜代。10万石。
大久保家
譜代。5万石。
- 大久保忠職(ただもと) 従五位下 加賀守
松平(戸田)家
譜代。7万石。
安藤家
譜代。6万5000石→5万石。
永井家
譜代。3万2000石。
- 永井直陳(なおのぶ) 従五位下 伊賀守
- 永井尚備(なおみつ) 従五位下 伊賀守
- 永井直旧(なおひさ) 従五位下 伊賀守
- 永井尚佐(なおすけ) 従五位下 肥前守
- 永井尚典(なおのり) 従五位下 肥前守
- 永井尚服(なおこと) 従五位下 肥前守
幕末の領地
明治維新後に、厚見郡1村(加納藩預所管轄の旧幕府領)が加わった。
脚注
- ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(297ページ)
先代 (美濃国) |
行政区の変遷 1601年 - 1871年 (加納藩→加納県) |
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