今井尚哉
いまい たかや 今井 尚哉 | |
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生誕 |
1958年8月 栃木県 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京大学法学部卒業 |
職業 | 内閣総理大臣秘書官 |
親戚 |
今井善衛(叔父) 今井敬(叔父) |
今井 尚哉(いまい たかや、1958年8月 - )は、日本の通産官僚。内閣総理大臣秘書官。
日本機械輸出組合ブラッセル事務所所長、資源エネルギー庁資源・燃料部政策課課長、経済産業省大臣官房総務課課長、経済産業省貿易経済協力局審議官、資源エネルギー庁次長などを歴任した。
概要
栃木県出身の通産官僚である[1]。通商産業省や経済産業省においては、主として産業政策・エネルギー畑を歩んだ[1]。福島第一原子力発電所事故以後は、関西電力大飯発電所再稼働に道筋をつけるなど[2]、原発再稼働に尽力したことで知られている。第1次安倍内閣の下で内閣官房に出向し事務担当の内閣総理大臣秘書官を務め[1][3]、その後は経済産業省の本省にて大臣官房総務課課長や貿易経済協力局審議官を経て[3][4]、外局の資源エネルギー庁で次長に就任するなど[4]、要職を歴任した。安倍晋三に乞われ、第2次安倍内閣の発足とともに政務担当の内閣総理大臣秘書官に就任している[5]。第3次安倍改造内閣が掲げた「一億総活躍社会」というスローガンを発案したことでも知られている[6]。
来歴
生い立ち
1958年8月に栃木県にて生まれた[1]。勤務医の父の下で、栃木県宇都宮市にて育った[1]。栃木県立宇都宮高等学校を卒業後、上京して東京大学に進学し、法学部にて学んだ[1]。1982年、東京大学を卒業した[7]。同年4月、通商産業省に入省した[1]。
官僚として
通商産業省においては、主として産業政策・エネルギーを所管する職務に就くことが多かった[1]。2001年の中央省庁再編後は、経済産業省にて勤務した。2003年、日本機械輸出組合にてブラッセル事務所の所長に就任したため[3]、ベルギーのブリュッセル首都圏地域に渡った[註釈 1]。その後、経済産業省の外局である資源エネルギー庁において、資源・燃料部の政策課で課長に就任した[1]。第1次安倍内閣の発足にともない、内閣官房に出向し、内閣総理大臣秘書官となった[1][3]。このとき、内閣総理大臣であった安倍晋三の知遇を得た[1]。
第1次安倍改造内閣が退陣すると、経済産業省に戻った。2008年12月、大臣官房にて、いわゆる「官房三課長」の一つである総務課の課長に就任した[3]。また、政策審議室の室長にも併任された[3]。その後、貿易経済協力局の審議官などを務めたが、2011年6月には審議官としての職務を続けながら資源エネルギー庁の次長に就任した[4]。福島第一原子力発電所事故を受け菅第2次改造内閣が脱原発を模索する中、原子力発電所の再稼働を目指し奔走した[4]。関西電力大飯発電所再稼働をめぐっては、仙谷由人、斎藤勁ら菅第2次改造内閣や野田内閣の政権幹部を説得するだけでなく、嘉田由紀子、橋下徹ら地方公共団体の首長に直談判して説き伏せるなど[2]、再稼働への道筋をつけた。これらの活動から「経産省に今井あり」[5]と評されるようになり、同期入省の日下部聡、嶋田隆とともに「経産三羽烏」[5]と称された。
2012年の第2次安倍内閣の発足にともない、安倍晋三に乞われ政務担当の内閣総理大臣秘書官に就任した[5]。なお、独立行政法人である経済産業研究所においてコンサルティングフェローを務めていたが、2013年6月30日に退任した[8]。
政策・主張
- 原発再稼働
- 東北地方太平洋沖地震に端を発した福島第一原子力発電所事故以降、民国連立政権では原発政策を「三プラス二会合」[註釈 2]にて検討することになったが、その場に出席して再稼働させるよう力説した[4]。菅第2次改造内閣にて内閣官房副長官だった仙谷由人、野田内閣にて内閣官房副長官だった斎藤勁の説得に全力を注いだ[2]。のちに斎藤は「大飯の再稼働は今井さん抜きではありえなかっただろう」[2]と語っている。
- また、滋賀県知事の嘉田由紀子や大阪府知事の橋下徹など、関西広域連合の首長らが再稼働に否定的だと見るや、単独で説得に赴いている[2]。滋賀県知事公館にてブラックアウトと経済や人命への影響を説き、嘉田を翻意させることに成功した[2]。今井の説得に応じた理由について、嘉田は「ピーク時の真夏の消費電力三千キロワットが、今は二千五百キロワットまでカットできているけど、あのときは先行きが見えませんでしたから、折れる以外になかった」[2]と回顧している。また、東京都で行われた橋下と前原誠司との会合にも足を運び、橋下に対して原子力発電の重要性を力説[5]、のちに橋下は再稼働容認を表明した[5]。
- 新三本の矢
- 第3次安倍改造内閣が掲げる「一億総活躍社会」とのスローガンを考案した[6]。また、経済産業省に指示して新たな経済政策の素案を提出させたが、それを見た安倍晋三からわかりやすい数値目標を設定するよう指摘されたため、「GDP六百兆円」[6]「出生率一・八達成」[6]を発案した。その後、後付けでこの数字の根拠となるデータを見つけるよう関係省庁に慌てて指示し、数日でアベノミクスの「新三本の矢」政策を取りまとめた[6]。
- 新三本の矢の狙いについて「今度のアベノミクスは、安保から国民の目をそらすことが大事」[6]と説明しており「心地よく受け止められるより、悪い評判のほうが印象に残りやすいので、そのほうがいい」[6]としている。
人物
- 安倍晋三
- 第1次安倍内閣にて内閣総理大臣秘書官となったことから、安倍晋三の知遇を得た[1]。ともに内閣総理大臣秘書官を務めた井上義行は、今井の叔父の今井善衛と安倍の祖父の岸信介とが商工官僚同士だった縁から両者が接近したと指摘している[4]。また、井上は、安倍の姻族である牛尾治朗も今井の活用を進言していたと指摘している[4]。
- 第1次安倍改造内閣退陣後も、長谷川榮一とともに安倍を高尾山登山に誘うなど、今井と安倍は交流を深めた[4]。第46回衆議院議員総選挙直前、政権交代が確実されている状況であるにもかかわらず、安倍の事務所ではベテランの政策担当秘書が突然辞任し人材が払底していた[5]。そのため、安倍は今井に着目し、新政権にて政務担当の内閣総理大臣秘書官に就任するよう要請した[5]。これを受け、今井は第2次安倍内閣発足とともに政務担当の内閣総理大臣秘書官に就任した[5]。
略歴
- 1958年 - 栃木県にて誕生。
- 1982年 - 東京大学法学部卒業。
- 1982年 - 通商産業省入省。
- 2003年 - 日本機械輸出組合ブラッセル事務所所長。
- 2006年 - 内閣官房内閣総理大臣秘書官。
- 2008年 - 経済産業省大臣官房総務課課長。
- 2008年 - 経済産業省大臣官房政策審議室室長。
- 2011年 - 資源エネルギー庁次長。
- 2012年 - 内閣官房内閣総理大臣秘書官。
家族・親族
叔父の今井善衛は[1]、『官僚たちの夏』の主人公のモデルとしても知られており、商工官僚を経て通商産業省で事務次官を務めた。また、同じく叔父の今井敬は[1]、新日本製鐵の社長を経て経済団体連合会の会長を務めた。これらの経緯から、尚哉は当初より「永田町や霞が関界隈でサラブレッド視されてきた」[1]という。また今井善衛の妻は山崎種二の娘であり、安倍晋三夫人である安倍昭恵の叔母が山崎種二の三男(山崎誠三)に嫁いでいるため今井家と安倍家は縁戚に当たる。
脚注
註釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 森功「首相を振りつける剛腕秘書官研究」『文藝春秋』93巻14号、文藝春秋、2015年12月1日、295頁。
- ^ a b c d e f g 森功「首相を振りつける剛腕秘書官研究」『文藝春秋』93巻14号、文藝春秋、2015年12月1日、297頁。
- ^ a b c d e f 「職歴」『RIETI - 今井 尚哉』経済産業研究所。
- ^ a b c d e f g h 森功「首相を振りつける剛腕秘書官研究」『文藝春秋』93巻14号、文藝春秋、2015年12月1日、296頁。
- ^ a b c d e f g h i 森功「首相を振りつける剛腕秘書官研究」『文藝春秋』93巻14号、文藝春秋、2015年12月1日、298頁。
- ^ a b c d e f g 森功「首相を振りつける剛腕秘書官研究」『文藝春秋』93巻14号、文藝春秋、2015年12月1日、293頁。
- ^ 「学歴」『RIETI - 今井 尚哉』経済産業研究所。
- ^ 「今井尚哉」『RIETI - 今井 尚哉』経済産業研究所。
関連項目
外部リンク
- RIETI - 今井 尚哉 - 経済産業研究所の公式サイト