ロジャー・ダルトリー
ロジャー・ダルトリー Roger Daltrey | |
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基本情報 | |
出生名 | Roger Harry Daltrey |
生誕 | 1944年3月1日(80歳) |
出身地 | イングランド ロンドン、ハマースミス |
ジャンル | ロック、ハードロック、アート・ロック、ポップ・ロック |
職業 | シンガー、ソングライター、ミュージシャン、俳優、映画作家 |
担当楽器 | ボーカル、ギター、ハーモニカ、パーカッション |
活動期間 | 1959年 - 現在 |
レーベル | Various |
共同作業者 | ザ・フー, RD クルセーダーズ |
ロジャー・ダルトリー(Roger Daltrey、CBE、1944年3月1日 - )は、イギリスのミュージシャン。ザ・フーのリード・ボーカリストとして最も有名である。歌手としてだけではなく俳優としても成功し、多くの映画や演劇、テレビドラマに出演した。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第61位[1]。「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第27位[2]。
来歴
生い立ち - プロデビューまで
西ロンドン、イースト・アクトンのハマースミス病院に生まれる[3]。奇しくもこの7ヵ月後には同じ病院で後にバンドメイトとなるジョン・エントウィッスルも生まれている[4]。戦時中は母・アイリーンと共にスコットランドに疎開し、終戦後復員した父・ハリーと共にシェパーズ・ブッシュに移った。その後妹のジリアンとキャロルが生まれている。少年時代は成績優秀で前途有望と見られていたが、元々ルールを守って教師に従うという考えは自称「学校反逆者」であった彼の頭になく、大人たちの手に負えないテディ・ボーイであった。1959年にロックンロールの洗礼を受けるとたちまち夢中になり、労働者階級の家庭でギターを買う金もなかったダルトリーは、父の工具を使ってアコースティック・ギターを自作する。そして地元の仲間たちと最初のバンド、サルグレイヴ・レヴェルズを結成。地元のコンテストで優勝したりもした。15歳の時、トイレで喫煙していたことが表向きの理由で通っていたアクトン公立中学校を退学となる[3]。
1961年夏、板金工として働きながら自身のバンド、ザ・ディトゥアーズでプロ・デビューを夢見ていたダルトリーは、中学時代の後輩でベースを抱えて歩いていたジョン・エントウィッスルを街で見かけ、ディトゥアーズに勧誘する。当時、エントウィッスルはスコーピオンズというバンドにいたが、今のバンドを抜けても失うものはないと判断し、ダルトリーと活動を共にすることを決めた[5]。1962年、前任のリズムギタリストに代わり、エントウィッスルのバンドメイトだったピート・タウンゼントが加入する[6]。タウンゼントの加入はエントウィッスルの要請によるものだったが、それ以前にダルトリーが先に目を付けており、ディトゥアーズへの加入を持ちかけていた[7]。当初はダルトリーがリードギタリストであったが、日中の仕事でしばしば手を負傷していたこともあり、1963年には自身の所有していたエピフォンのエレキギターをタウンゼントに売り、ボーカルの方に専念するようになる[8]。
当時のディトゥアーズはダルトリーが絶対的なリーダーであり、彼の音域でカバーできない曲を演奏レパートリーから外すなど、バンドを意のままにした[8]。そのようなダルトリーに対しタウンゼントも意見をすることがあり、この頃から2人の間に、プロ・デビュー以降も続くことになる緊張感が芽生え始める[9]。ただし、ダルトリーはただ威張りくさるだけではなく移動の車の運転や楽器の準備、エージェントとの交渉など、ローディーの仕事を一手に引き受けていた。本人も「ピートに任せてたら、あいつは一日中ベッドに転がってマリファナにふけって、ライブなんかまともに出来やしなかったはずさ。誰かが奴らの面倒を見る必要があり、俺がその役目を果たしてたんだ」と語っている[10]。
1964年2月、バンド名をタウンゼントのクラスメートであるリチャード・バーンズが提案したザ・フーに変更。4月に前任のドラマーに代わりキース・ムーンが加入。バンドは同年7月にメジャー・デビューを果たす。
1964年 - 1983年
初代マネージャーのピート・ミーデンの命により、バンドはモッズ・バンドとして売り出され、バンド名もザ・フーからハイ・ナンバーズに変更した。モッズではないのにモッズとして振舞わなければならなかったことに、ダルトリーは少なからず抵抗感があったという[11]。結局ミーデンの戦略は外れ、デビューシングルは不発に終わる。バンドもミーデンに不満を持っていたことから、新しいマネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプの元で再始動することとなり、バンド名もザ・フーに戻した。
1965年、ザ・フー名義でのファースト・シングル「アイ・キャント・エクスプレイン」は全英チャートの8位につけるヒットとなり、上々のスタートを切った。だが、この頃バンド内では深刻な対立がおき始めていた。タウンゼントは当時受けたインタビューで「ロジャーがサウンドの仕上がりに文句を付け、そのことで喧嘩になることが多い」と、バンドの内情を打ち明けている。これに加え、一切ドラッグに手を染めなかったダルトリーに対し、他の3人がドラッグにはまっていたことも両者の対立を深める要因となっていた[12]。同年9月のデンマークでのツアー中、楽屋でハイになったムーンにダルトリーが激怒、彼の錠剤をトイレに流してしまい、襲いかかってきたムーンを殴って気絶させるという事件が起きる[13]。他の3人は全員一致でダルトリーの解雇を決めたが、3枚目のシングル「マイ・ジェネレーション」が全英チャートに16位で初登場し、好調な売り上げを見せると(最高位2位)ダルトリーは3人に謝罪し、マネージャーらの説得も功を奏し、バンド脱退という最悪の事態は何とか免れた[12]。この騒動はその後も尾を引き、プレスからはダルトリーに代わりボズ・バレル(後のキング・クリムゾンのボーカリスト/ベーシスト)が加入するのではないかという飛ばし記事も書かれた[14]。
バンド内の対立はこれで収まったわけではなく、1966年の5月3日には再びダルトリーが脱退を表明し[15]、20日に戻ってくるまでバンドはダルトリー抜きでギグをこなした[16]。そのダルトリーが戻った同日に今度はムーンがメンバーと衝突し脱退を宣言、実際に1週間ほど仕事を放棄した[17]。尚、エントウィッスルも当時ザ・フーを脱退し、ムーディ・ブルースへの加入を画策しており[18]、バンドとして非常に不安定な時期だったが、1967年から1968年にかけて行った全米ツアーを経て、「バンドが団結することが出来た」とダルトリーは振り返っている[19]。
1971年にはエントウィッスルが、1972年にはタウンゼント(厳密にはミハ・バーバー関連で正式なソロは1980年)ぞれソロ・アルバムを発表するが、ダルトリーはあくまでザ・フーのシンガーとしての立場にこだわり、ソロ活動に興味を示すことはなかった。それが変わったのは1973年。往年のポップ・シンガー、アダム・フェイスとその相棒のデヴィッド・コートニー、そして彼らがマネージメントをしていた新人ソングライターのレオ・セイヤーに出会ったことがダルトリーをソロ活動へ向かわせるきっかけとなった[20]。楽曲、プロデュースを彼等3人にゆだねて製作されたダルトリーのファースト・ソロ・アルバム『ダルトリー』はバラードが中心となり、ザ・フーとは違った彼の一面を見せる作品となった。シングル・リリースした「ギヴィング・イット・オール・アウェイ」が全英5位という、ザ・フーの各メンバーのソロ作品中最高のヒット作となる[21]。アルバムも全英6位まで上昇している(全米は45位)。
1975年、ダルトリーは俳優デビューを果たす。1969年にザ・フーが発表したロックオペラアルバム『トミー』の映画化にあたり、主人公のトミーを演じたのである。この映画がダルトリーの俳優としての才能を開花させ、以降様々なドラマ、映画に出演するきっかけとなった。『トミー』の成功により、ダルトリーは一躍時の人となり、プロモーションのためにアメリカを訪れると、若い女の子たちに囲まれもみくちゃにされたという[22]。また同年、自身2枚目のソロ・アルバム『ライド・ア・ロック・ホース』をリリースする。前作とは打って変わってハードな楽曲がならび、売り上げは前作を大きく上回り、全英14位、全米28位にまで上った[23]。
ソロ活動が充実する一方、ザ・フーの方はこの頃より軋みが生じるようになる。1975年、タウンゼントが『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』のインタビューで自身に対し厳しい意見をぶつけると、今度はダルトリーが同じ紙面でタウンゼントを痛烈に批判した[24]。2人の不仲が表沙汰になり、ザ・フー解散説がまことしやかにささやかれるようになる。さらに、ムーンが長年の不摂生により、以前のようなツアー活動ができなくなり、ザ・フーとしての活動は停滞気味になる。そのような中での1977年、3枚目のソロ・アルバム『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』を発表。アルバムにはポール・マッカートニーやハンク・マーヴィンなど、豪華ゲストが多数参加した。さらにエントウィッスルも参加しているが、売り上げは前作ほどは伸びず、全英45位、全米46位に終わった[23]。
1978年、キース・ムーンが急逝。1979年、元フェイセズのケニー・ジョーンズが新ドラマーとして加入、新生ザ・フーとして再始動する。しかし、間もなくダルトリーとジョーンズの間に軋轢が生じはじめる。ダルトリーはジョーンズのドラム・プレイを好かず、マネージャーにジョーンズをやめさせるようタウンゼントを説得してほしいと頼むほどに彼を嫌った[25]。ダルトリーは「キースは俺のボーカル・ラインに沿ってドラムを叩いてくれたがケニーは違う」と主張し、タウンゼントを悩ませた[26]。
1980年、映画『McVicar』(日本未公開)に主演。同映画のサウンドトラック盤『マックヴィカー』には、ザ・フーのメンバー全員が参加しており、便宜上はダルトリー4枚目のソロ・アルバムという扱いではあるが、むしろザ・フーの課外活動の意味合いが強い。本作はダルトリーのソロ史上最高の売り上げ(全米22位、全英39位)を記録した[23]。
求心力を失っていたザ・フーは、1982年12月に最後のコンサート・ツアーを行った後、1983年6月に正式に解散を表明する[27]。
1984年以降
1984年、解散後初となる5枚目のソロ・アルバム『パーティング・シュッド・ビー・ペインレス』をリリース。シングル「Walking In My Sleep」が全英56位、全米62位につけるも、内容が大人しく地味だったためかアルバム自体は全米102位に終わり、セールス的には奮わなかった[28]。しかし、翌1985年に、タウンゼントが楽曲提供したシングル「アフター・ザ・ファイヤー」がヒット。日本でもスズキ・カルタスのCMソングに起用された。同曲を収録した6枚目のアルバム『月の影』は、プロデューサーにアラン・シャックロックを、当時人気絶頂のブライアン・アダムスをゲストに迎え、さらにダルトリー自身もソングライティングに積極的に関わった意欲作となり、チャートでは全米42位、全英52位につけた。このアルバムを引っ提げ、ソロでは初のコンサート・ツアーを敢行する。ツアーではザ・フーの楽曲も披露し、盛況であった[29]。
1987年、前作同様アラン・シャックロックと組んで制作した7枚目のソロ・アルバム『今宵、シネマで』をリリースするもチャート・インを果たせず[28]。しばらくソロでの音楽活動から遠ざかるが、1989年のザ・フーのデビュー25周年記念ツアーを経て、良い刺激を受けたダルトリーは再びソロ・アルバム製作に意欲を燃やす。1992年、8枚目のソロ・アルバム『Rocks In The Head』をリリース。だがプロモーション不足と北米限定での発売ということもあり、前作同様チャート・インを果たせなかった[29]。その後、ダルトリーのソロ名義でのオリジナル・アルバムは2018年まで製作されなくなる。同年、フレディ・マーキュリー追悼コンサートに出演、「アイ・ウォント・イット・オール」を歌唱した。
ザ・フー結成30周年となる1994年、オーケストラを従えてザ・フー時代のナンバーを演奏するソロ・ツアーを敢行。初日のカーネギー・ホール公演にはタウンゼントやエントウィッスルも参加した。当時不安神経症を抱えていたタウンゼントは参加を断ろうとし、ダルトリーを激怒させたが、その後気を取り直して参加を決めた[30]。このコンサートの模様を収録した『ア・セレブレーション - ザ・ミュージック・オブ・ピート・タウンゼンド・アンド・ザ・フー』は年内に発売された。収録曲の中にはタウンゼントのソロ・ナンバーをダルトリーが歌ったものもあった[31]。
1996年、ザ・フーのロックオペラ『四重人格』(1973年発表)の再演ツアー以降、ザ・フーとしての活動が主軸になるが、2009年、北米およびカナダで久々にソロ・ツアーを行う。バンドメンバーの中にはタウンゼントの弟でミュージシャンのサイモン・タウンゼントも含まれた。2010年にはエリック・クラプトンと共にジョイント・ツアーを敢行。2011年にはソロ・ツアーで『トミー』を再演する[32]。2012年4月にはソロで来日し、東京・横浜・大阪・名古屋で公演を行っている。
2014年、ウィルコ・ジョンソンとコラボレートしたアルバム『ゴーイング・バック・ホーム』をリリース(全英3位)。
2018年、26年ぶりのソロ・アルバム『アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー』を発表(全英8位、全米194位)。アルバムにはタウンゼントも参加している。
音楽スタイル
ややハスキーがかったパワフルな声質を持つが、本人は自分の声を気に入っていないという[33]。ザ・フーのコンサートでは、タウンゼントのギター破壊が注目を集めたが、ダルトリーもまたコードを軸にマイクを投げ縄の如く振り回すパフォーマンスで観客を魅了した。上記のとおり、元々はリードギター担当だったため、ギターも弾けるが、ザ・フーではあくまでボーカルに徹し、ハーモニカとタンバリン以外の楽器は使用してこなかった。だがソロ活動や近年のステージではギターを弾きながら歌うこともある。
自ら作詞作曲を行うことはあまりなく、ダルトリーがザ・フーのために書いた曲は、「エニウェイ・エニハウ・エニホエア」[34]、「シー・マイ・ウェイ」[35]、「アーリー・モーニング・コールド・タクシー」[36]、「ヒア・フォー・モア」[37]の4曲のみである。このうち「アーリー・モーニング・コールド・タクシー」は、実際にはデイヴ・ラングストン(バンドのツアー・マネージャー)が単独で書いたものである。当初、ダルトリーは「サイ(ラングストンのニックネーム)と2人で書いた」と言ってこの曲を提出したが、ラングストンが耐え切れずに暴露してしまった。タウンゼントはダルトリーに作者としてのクレジットは諦めるよう説得したが、結果的にダルトリーの名はクレジットに残されている[38]。
タウンゼントはダルトリーがなぜもっと曲を書かないのか理解できなかったと言い、「多分ロジャーは、解釈者、声、楽器として存在する方が楽しかったんだろうね」と推測している[38]。ソロにおいても外部ミュージシャンに作曲を依頼することが多く、自作曲はそれほど多くない。なお、ダルトリーが一番気に入っているザ・フーのナンバーは「ビハインド・ブルー・アイズ」(アルバム『フーズ・ネクスト』収録)であるという[39]。
人物
最年長であったダルトリーは、初期のザ・フーにおいては絶対的なリーダーであり、小柄な体格にもかかわらず腕っ節が強く、必要な場合には暴力も使いバンドを牽引した。タウンゼントは「ロジャーはすべてを自分の思うようにした。もし彼に反対したら、普通は拳を食らったよ(Giuliano, p. 26)」と証言している。やがてタウンゼントが作曲家として頭角を現すようになり、バンドの主導権はダルトリーからタウンゼントに次第に移っていったが、後年、このことがダルトリーとタウンゼントの間に個人的確執を生む事になる[20]。しかし、タウンゼントは「私とロジャーはしぶしぶながらもお互いに敬意を抱いていたと言っていい。そしてそれは今でも続いている」と語っている[9]。また近年のインタビューで、ザ・フーの解散理由について尋ねられ「当時のピートはツアーのプレッシャーについてよく話しており、このままでは彼が自殺してしまうのではと思い、ザ・フーの解散を決めた」と答えており、タウンゼントを慮って解散させたことを打ち明けている[40]。タウンゼントが2003年に児童ポルノサイトにアクセスした容疑で警察から捜索を受けた時も、一貫してタウンゼントを擁護した[41]。タウンゼントはダルトリーに感謝の念を表している[42]。32歳の若さで死亡したキース・ムーンについては、彼を救ってあげられなかったことを非常に後悔していると語っている[39]。さらに「キースにとって安心できる存在は、ザ・フーの中では僕だけだった」とも語っており、リーダーの座をタウンゼントに譲ってからも、ダルトリーがバンドの精神的支柱であったことを窺わせている[33]。
上記のとおり、他のメンバーとの仲が悪くなろうとも、ボーカリストとして喉を大事にするためにドラッグには一切手を出さないなど、生真面目な性格である一方で(但し、「自分はマリファナどまりだった」とも語っており、全く手を出さなかったわけではない様である[33])、タウンゼントからは「(ダルトリーは)面白いと思ったら、ファンと一緒になって悪い事でも何でもやった」とも指摘されている[43]。インターネットを積極的に活用しているタウンゼントとは対照的に、ダルトリーはインターネットに否定的であり、「インターネットによりミュージシャンは何の見返りもなく働かされている」と批判している[44]。
私生活では2度の婚姻を経験している。1度目はメジャー・デビューする前の1964年3月、当時16歳の恋人とだった。同年8月には第一子も授かった[45]。しかし結婚生活はすぐに破綻し、1年も経つとダルトリーはバンド用のバンで寝泊りするようになる[12]。1968年1月に離婚届を申請し、1970年5月に正式に離婚した[46]。現在の妻であるヘザー・テイラーとは前妻と別れて間もない1968年に出会っており、1971年に結婚[19]。3人の子供を授かっている[47]。
妹のキャロルは癌により32歳の若さで死去している[48]。このため健康には人一倍気を遣っており、体調面においてはかなりナーバスになるという[49]。2015年にウイルス性髄膜炎に感染し、ザ・フーのツアーを中断したが、回復後のインタビューでは「闘病中はひどい苦痛の中にいたが、逆に心が平穏になった。もし死が訪れても喜んで受けれただろうね」と語っている[50]。なお、タウンゼントは17歳の頃、わずかな期間だがキャロルと交際していたことがある[51]。
慈善事業
ダルトリーはザ・フーとしても個人としても、慈善事業に積極的に関わっている。ダルトリーは若年層の癌患者を支援する団体、ティーンエイジ・キャンサー・トラストの名誉後援者としてその名を記されており、また同団体のためのロイヤル・アルバート・ホールでのチャリティ・ライブを発起した[52]。このコンサートは2000年からほぼ毎年開催されており、ザ・フー以外にもポール・マッカートニー、オアシス、ポール・ウェラー、ジミー・ペイジ、ロバート・プラント、ロン・ウッドら豪華なアーティスト陣がゲスト出演している[53]。このコンサートでこれまでに2千万ポンドの収益を上げている[54]。ザ・フーでは、「アンコール・シリーズ」と銘打った公式海賊盤のインターネット販売を2002年のツアー分から行っているが(入手はこのサイトから可能)、ここからの収益は全て上記の団体に寄付される[55]。
2014年、イギリスの音楽誌『Music Week』主催のアワードで、長年のチャリティ活動の功績により功労賞を受賞する。授賞式ではポール・ウェラーからアワードを手渡され、さらにポール・マッカートニーがビデオ・メッセージでダルトリーを讃えた[56]。
ディスコグラフィ
アルバム
- 『ダルトリー』 - Daltrey (1973年)
- 『ライド・ア・ロック・ホース』 - Ride a Rock Horse (1975年)
- 『ワン・オブ・ザ・ボーイズ』 - One of the Boys (1977年)
- 『マックヴィカー』 - McVicar (1980年)
- 『パーティング・シュッド・ビー・ペインレス』 - Parting Should Be Painless (1984年)
- 『月の影』 - Under a Raging Moon (1985年)
- 『今宵、シネマで』 - Can't Wait to See the Movie (1987年)
- Rocks in the Head (1992年)
- 『ア・セレブレーション - ザ・ミュージック・オブ・ピート・タウンゼンド・アンド・ザ・フー』 - A Celebration: The Music of Pete Townshend and The Who (1994年)
- 『ゴーイング・バック・ホーム』 - Going Back Home (2014年) ※ウィルコ・ジョンソンとの共作
- 『アズ・ロング・アズ・アイ・ハヴ・ユー』 - As Long As I Have You (2018年)
- 『ザ・フー「トミー」オーケストラル』 - The Who's Tommy Orchestral (2019年)
出演作品
映画
- 『トミー』 - Tommy (1975年)
- 『リストマニア』 - Lisztomania (1975年)
- 『レガシー』 The Legacy (1978年)
- McVicar (1980年)
- Murder: Ultimate Grounds for Divorce (1984年)
- Pop Pirates (1984年)
- 『マッチ売りの少女』 - The Little Match Girl (1987年)
- 『三文オペラ』 - Mack the Knife (1990年)
- Buddy's Song (1991年) ※プロデューサー兼任
- 『ティーン・エージェント』 - If Looks Could Kill (1991年)
- Lightning Jack (1994年)
- 『ヴァンピレラ』 - Vampirella (1996年)
- 『ブラックプール・ストーリー』 - Like It Is (1998年) ※カメオ出演
- 『ジョージ・ベスト 伝説のドリブラー』 - Best (2000年)
- .com for Murder (2001年)
- Johnny Was (2006年)
テレビ
- 『間違いの喜劇』 - The Comedy of Errors (1983年)
- 『ベガーズ・オペラ』 - The Beggar's Opera (1983年)
- Buddy (1986年)
- Crossbow (1987年)
- Gentry (1987年)
- How to Be Cool (1988年)
- 『ミッドナイトDJ』 - Midnight Caller (1991年)
- 『ハリウッド・ナイトメア』 - Tales from the Crypt (1993年)
- 『暗黒の戦士 ハイランダー』 - Highlander (1993-98年)
- 『新スーパーマン』 - Lois & Clark: The New Adventures of Superman (1996年)
- 『スライダーズ』 - Sliders (1997年)
- 『レプリコーン 妖精伝説』 - The Magical Legend of the Leprechauns (1999年)
- The Bill (1999年)
- Rude Awakening (1999-2000年)
- 『ドラキュラ・イン・ブラッド 血塗られた運命』 - Dark Prince: The True Story of Dracula (2000年)
- 『ザ・シンプソンズ』 第250話 - The Simpsons episode "A Tale of Two Springfields" (2000年)
- 『ウィッチブレイド』 - Witchblade (2001年)
- 『ザット'70sショー』 - That '70s Show (2002年)
- 『マイティ・ブーシュ』 - The Mighty Boosh (2005年)
- 『CSI:科学捜査班』 シーズン7(第9話) - CSI: Crime Scene Investigation (2006年)
- The Last Detective (2007年)
- 『ワンス・アポン・ア・タイム』 - Once Upon a Time (2012年)※ノンクレジット
- 『アメリカお宝鑑定団ポーンスターズ』 シーズン8(第1回) - Pawn Stars (2013年)
出典・脚注
- ^ Rolling Stone. “100 Greatest Singers: Roger Daltrey”. 2013年5月26日閲覧。
- ^ “Rocklist.net...Q Magazine Lists..”. Q - 100 Greatest Singers (2007年4月). 2013年5月21日閲覧。
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- ^ “Roger Daltrey Performs 'Tommy': Concert Review” (英語). 2017年8月6日閲覧。
- ^ a b c DVD『キッズ・アー・オールライト』収録のロジャー・ダルトリーインタビューより。
- ^ ザ・フーの2ndシングル。タウンゼントとの共作。
- ^ ザ・フーの2ndアルバム『ア・クイック・ワン』収録曲。
- ^ デイヴ・ラングストンとの共作。ザ・フーの3rdアルバム『セル・アウト』のアウトテイク。リイシューCDに収録。
- ^ ザ・フーのシングル「シーカー」B面曲。
- ^ a b フー・アイ・アム・p.117
- ^ a b “ザ・フーのロジャー・ダルトリー 亡き盟友キース・ムーンについて語る”. 2017年8月6日閲覧。
- ^ “ロジャー・ダルトリー「ピート・タウンゼントの命を救いたくてザ・フーを解散した」”. 2017年8月6日閲覧。
- ^ “ザ・フーのロジャー・ダルトリー、“ピートは小児性愛者ではない””. 2017年8月6日閲覧。
- ^ “Townshend pays tribute” (英語). 2017年8月6日閲覧。
- ^ ザ・フーのドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』より。
- ^ “フーのロジャー・ダルトリー、インターネットは「歴史上最大の搾取」だと語る”. 2017年8月6日閲覧。
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- ^ a b Roger Daltrey - IMDb
- ^ フー・アイ・アム・p.410
- ^ フー・アイ・アム・p.348
- ^ “フーのロジャー・ダルトリー、闘病中に死を受け入れて平穏を感じたと語る”. 2017年8月6日閲覧。
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- ^ “Patrons” (英語). 2017年8月6日閲覧。
- ^ “Royal Albert Hall previous shows” (英語). 2017年8月6日閲覧。
- ^ “Royal Albert Hall” (英語). 2017年8月6日閲覧。
- ^ “The Who To Offer Live Bootlegs” (英語). 2017年8月6日閲覧。
- ^ “ロジャー・ダルトリーのチャリティー活動にポール・マッカートニーも称賛”. 2017年8月6日閲覧。
参考文献
- 『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』(アンディ・ニール、マット・ケント著、佐藤幸恵、白井裕美子訳、シンコーミュージック刊、2008年)ISBN 978-4-401-63255-8
- 『フー・アイ・アム』(ピート・タウンゼント著、森田義信訳、河出書房新社刊、2013年)ISBN 978-4-309-27425-6
- レコード・コレクターズ増刊『ザ・フー アルティミット・ガイド』 (ミュージック・マガジン刊、2004年)
外部リンク
- 公式ウェブサイト(英語)
- Roger Daltrey - IMDb(英語)
- Roger Daltrey Lyrics