レーベンスボルン

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レーベンスボルンの誕生の家(1943年、上部は親衛隊の旗)
レーベンスボルンで生まれた子供の洗礼の様子

レーベンスボルンドイツ語: Lebensborn)は、ナチ親衛隊(SS)がドイツ民族の人口増加と「純血性」の確保を目的として設立した女性福祉施設。一般的に「生命の泉」または「生命の泉協会」と翻訳されることが多い。ユダヤ人絶滅のための強制収容所と対照をなす、アーリア人増殖のための収容所である[1]。未婚女性がアーリア人の子を出産することを支援し、養子仲介なども行なっていた。

概要

ドイツの年間出生数は1920年には89万4928人にのぼったが、第一次世界大戦に敗戦し200万人の戦死者が出たことで1932年には年間出生数は51万2793人に激減した。また、大戦後の世界恐慌による生活苦によって堕胎施術が流行し、1937年には出生数を超える60万から80万の堕胎が行われた。1934年3月、ナチス福祉局(NSV)は母子援助制度を開始し、女性の出産育児に対する経済支援を展開した。父親が十分な養育費を支弁できない家庭への経済援助策として、ドイツ児童手当制度(Das Deutsche Institut für Jugendhilfe e.V.)も同時期に開始された。人口政策的な目的を有する「児童扶助(Kinderbeihilfe)」が導入されたのは、ドイツにおいてこれが初であった[2]

1935年12月、SS長官兼ドイツ警察長官ハインリヒ・ヒムラーは、母子家庭の支援団体の名目でレーベンスボルン(別名:生命の泉協会)を首都ベルリンに設置した。1936年8月15日、レーベンスボルンは最初の施設「高地荘」をバイエルン州エーベルスベルク郡シュタインヘーリンクに開設した。高地荘は設立当初は母親30人・子供55人を常時受け入れ可能な規模の施設であったが、1940年までに受け入れ可能人数が倍増され、SS医官グレゴール・エープナードイツ語版が運営責任者として任についていた。レーベンスボルンは、親衛隊本部のひとつであるカール・ヴォルフ親衛隊全国指導者個人幕僚部の隷下にあった。入所要件として人種的、係累的条件を満たす必要があった点はSSと類似していた。施設の維持は「民族的義務」と喧伝され、運営費用の多くはSS兵士からの寄付でまかなわれていた。

高地荘の成功を受け、レーベンスボルンの母子保護施設は国内外の各地に続々と設置されていった。

子供たちのその後

子供たちは親たちの戦争犯罪とは無関係であったが、第二次世界大戦後、親世代の戦争犯罪を理由に非難されると、自身の出自を意識するようになっていった。1960年代に入り、当時の子供たちが思春期、青年期を迎えると、その多くは罪の意識を感じるとともに、社会に拒絶された自分たちの親を恥じるようになった。[要出典]

ドイツ国内の施設

ノルウェーでの実施

「生命の泉」計画はドイツ国内を中心に展開された政策だが、ヒトラーはノルウェー人などの北方人種を「より純粋なアーリア人」とみなし[3][出典無効]、ドイツ人のアーリア化を推進するため、ドイツ人ナチ党員男性とノルウェー女性との性交渉を積極奨励した(他のナチスドイツ占領地域では、このような行為は禁じられていた)。そのため、ノルウェーではドイツ人の父とノルウェー人の母の混血児を対象としたレーベンスボルン施設が存在した。1940年から1945年までの間に、ノルウェー国内10カ所に設置されたレーベンスボルン運営の産院で出生した子供は約8000人おり、その他の施設で出生した約4000人と合わせ、約12000人の子供が駐留ドイツ兵とノルウェー人女性との間に生まれたとされる。[要出典]

ドイツ降伏後に当時のノルウェー政府が「対敵協力者」の処分を決定し、上述のノルウェー人女性約14000人は逮捕され、そのうち約5000人が18か月間強制収容所に入れられた。ドイツ兵と結婚した女性についてはノルウェー国籍を剥奪され、出生した子供には極めて政略的な「知能鑑定」が行われ、恣意的な診断を受けた。

ドイツ兵と占領地の女性の間に生まれた子供は、フランスで約8万人、オランダでも1万人以上いたと推定されているが、このように政府が「公式に迫害」したのはノルウェー政府だけだったと言われる[要出典]1999年12月、こうした迫害を受けた混血児122人が、「欧州人権規約」に反するとして、ノルウェー政府に国家賠償を求める訴えを起こした。このうち7人については事実関係が認められたものの、裁判では時効により損害賠償は却下された。しかし2000年に、当時のヒェル・マグネ・ボンデヴィーク英語版首相がこの問題について公式に謝罪し、2002年ノルウェー国会は公式謝罪と補償を政府に促す決議を全会一致で採択した。2004年7月、迫害の内容に基づき、各被害者に対し2万ノルウェー・クローネから20万ノルウェー・クローネの補償が決定した。

スウェーデンのポップグループABBAのメンバーだったアンニ=フリッド・リングスタッドも、ドイツ人ナチ党員の父とノルウェー人の母の間に生まれた子であった。彼女はノルウェーでナチス・ドイツ崩壊直後に生まれたが、ナチ残党への追及を避けるため母と共にスウェーデンへ逃れ、そこで成長したため知的障害者施設への収容は免れた。彼女もまた、実の父が存命中にもかかわらず、父は死んだものと聞かされて育てられていた[4]

占領地域下での子供の拉致

「生命の泉」計画ではポーランドチェコフランスなどの占領地域での子供の拉致が政策的に行われていた。ポーランドではおよそ5万人から20万人の子供が拉致され、検査を経て「アーリア人」の条件を満たすと判断された子供は出生証明書を書き換えられ、選定された新しい家族の元に送られた。子供たちの多くは、本来の肉親の元に帰されることはなく、また自らがポーランド人であることも知らなかった。

取り扱ったフィクション作品

レーベンスボルン的施設が登場する作品

  • MONSTER - 旧東欧共産圏版レーベンスボルンともいうべき作中架空施設・511キンダーハイムの出身者ヨハン・ヴィルヘルム・リーベルトと、日本人脳外科医の対決を描いた漫画作品。
  • ゴルゴ13 (第51巻、文庫版では第43巻)「毛沢東の遺言」 - 日本軍の細菌部隊が同盟国ナチスドイツのレーベンスボルンを真似て設立した超高度東洋種族創出所によって誕生させられた東郷狂介(中国名:小東郷)。その足取りを追う中国弁公室(中国人民解放軍弁公室第四処"国防情報局")と、主人公の対決が描かれる。
  • 狂四郎2030 - 国策により社会の敵とされているM型遺伝子異常の子供たちを収容し、特殊軍事訓練を課す関東厚生病院という施設が作中に登場(主人公も出身者の一人)。
  • 定められし運命 - 2012年のフランス映画。ナチスドイツ占領下のアルザスで育った二人の少女が、労働奉仕施設からやがてレーベンスボルンへ送られる。ドゥニ・マルバル監督。

脚注

注釈

出典

  1. ^ 10.08.24 ナチスの「生命の泉」”. 大田俊寛. 2019年2月8日閲覧。
  2. ^ 齋藤純子. “ドイツの児童手当と新しい家族政策” (PDF). 国立国会図書館調査及び立法考査局. 2019年2月8日閲覧。
  3. ^ 谷 2000, p. 117.
  4. ^ 以上、出典:「ナチス将校が父 『ドイツの子』――半世紀の差別、謝罪、補償へ」2003年6月25日付「朝日新聞」、BBCニュース2001年12月5日付、2003年2月4日付け記事、「ドイチェ・ヴェレ」2001年2月12日付記事
  5. ^ 徳岡正肇. “[TGS 2018]「My Child: Lebensborn」がついに日本語化。感情を揺さぶられる体験を日本語で堪能しよう”. 4Gamer.net. Aetas, Inc. 2019年2月8日閲覧。
  6. ^ 「ナチスの子を育てるゲーム」はなぜ生まれたのか? 『My Child Lebensborn』開発者インタビュー”. 電ファミニコゲーマー (2019年1月16日). 2019年1月18日閲覧。

参考文献

  • 鎌田明子 『性と生殖の女性学』 世界思想社、2006年、79ページ以下
  • 谷喬夫『ヒムラーとヒトラー 氷のユートピア』講談社〈講談社選書メチエ〉、2000年2月。ISBN 4-06-258176-0 
  • “Norway's "lebensborn"”. BBC NEWS (BBC). (2001年12月5日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/crossing_continents/1691452.stm 2019年2月8日閲覧。 
  • “Norway's Nazi legacy”. BBC NEWS (BBC). (2003年2月4日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/correspondent/729902.stm 2019年2月8日閲覧。 
  • Children of Shame – Norway’s Dark Secret”. DW.com(ドイチェ・ヴェレ). 2019年2月8日閲覧。

関連項目

外部リンク