ランボルギーニ・イオタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。125.15.29.24 (会話) による 2015年6月21日 (日) 13:04個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概要)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ランボルギーニ・イオタ
イオタモデルのミウラ
概要
製造国 イタリアの旗 イタリア
販売期間 1969年
設計統括 ボブ・ウォレス
ボディ
乗車定員 2人
ボディタイプ 2ドアクーペ
駆動方式 MR
パワートレイン
エンジン 水冷 V12 DOHC 3,929cc
最高出力 440ps/8,500rpm[1]
変速機 5MT
テンプレートを表示

イオタJota )は、ランボルギーニ1969年に1台だけ製造した実験車両(通称「J」)、および同社のミウラをもとに製作された「J」のレプリカ車両の通称である[1]

名称について

この車両は製造当初、FIAの競技規定 付則J項にちなんでJと呼ばれていた。その後、この個体の存在が広く知られるようになると、外見がよく似た「ミウラ」を改造して「J」に似せた個体がランボルギーニ社内外で生み出されるようになった。これらの個体は「Jota」(ラテン文字の字母「J」のスペイン語における名称)と呼ばれるようになり、そこから派生してオリジナルの「J」も「Jota」と呼称されるようになった(ただしJotaのスペイン語での発音は「イオタ」ではなく「ホータ」となる)。なお、イタリア語には「J」の文字がないため(日本=Giapponeが有名な例)、「iota」とも表記される。

オリジナル「J」

概要

ランボルギーニの走行実験を担当していた責任者ボブ・ウォレスの指揮の下、1969年11月から「ミウラ改良のための先行開発」を名目とし、競技規定 付則J項(車両規定項目)のプロトタイプ・クラス車両規則を満たしながら製造された実験車両がオリジナルの「J」である[1]。名目がレーサー開発でないのはレース出場禁止が当時の社是であったことによる[1]

オリジナルの「J」は外見や寸法、パワートレインをミウラから流用していたが、一方で車両の基本となるシャーシ部分はリアセクションの一部を除き、サスペンションの形式やジオメトリ、ステアリングラックのマウント位置も全く異なる独自の設計を採用していた[1]。トレッドも広げられており、ブレーキもベンチレーテッド・タイプのディスクとされた。ホイールはフロント9in、リア12in幅のカンパニョーロ(現テクノマグネシオ)製である。

シャーシの材質は鋼鉄であるが、部分的には軽合金も使用して軽量化が図られていて、シャシーとボディーパネルはブラインドリベットで接合されている。パネル表面の多数のリベットは薄いアルミのエッジからの破断防止のために打たれており、このリベットが「J」や「イオタ」とミウラの外観上の大きな差異にもなっている。

ボディーはルーフこそミウラと共通の鋼鉄製だが前後カウルがアルミニウム製に変更されている[1]。ヘッドランプがミウラのポップアップ式からアクリルで覆われた固定式に変更されている[1]。フロントのグリル面積も拡大され、グリルの両側にはチンスポイラーが追加された。給油口もフロントフェンダーに露出する形に変更された。スペアタイヤや実用性のないトランクも装備されているが、これらは当時の競技車両規定を満たすためのものであった。

エンジントランスミッションはベースとなるミウラと同じく横置のイシゴニス式で排気量も3,929ccのままである。ただしオイル供給方式はドライサンプに変更されている[1]。圧縮比を11.5に向上しキャブレター変更により公称の最高出力は440ps/8,500rpmとなった[1]

その他消火器やキルスイッチを装備する等厳密にJ項を満たしている[1]

1971年ゲルハルト・ミッターがドライブしてニュルブルクリンクでのマイナーレースで走ったとされている[1]が、これは1980年代に発行された社史を執筆したジャーナリストの勘違いが元になっている。実際は1968年のホッケンハイムのレースで、旧西ドイツディーラーのステインウインターからほぼノーマルのミウラでミッターは出場している。

「J」の売却と廃車

オリジナル「J」はボブ・ウォレスのチームによって3万kmほどの走行実験を行なった後[1]、シャシーNo.4683を与えられ[2]、1972年8月2日ジャリーノ・ジュリーニという人物に売却された。それからヴァルテル・ロンキという人物を経て、レーシング・チーム『スクーデリア・ブレシア・コルサ』(Scuderia Brescia Corse )のオーナーで車のコレクター、アルフレッド・ ベルポナー(Dr Alfredo Belponer )が購入した。しかしこの取引を担当した自動車販売業者エンリコ・パゾリーニ(Enrico Pasolini )がミラノ東部にある開通前のブレシア高速道路にて高速テスト中、230km/h前後で5速にシフトアップしようとした瞬間、急にノーズが浮き上がり横転して車両火災が発生、「J」は廃車となってしまった。

エンリコ・パゾリーニは1ヶ月程の入院となった。オリジナル「J」は修理不能な程のダメージを負い、その残骸はランボルギーニが回収した後、エンジン等の再生可能パーツを取り外して別の個体に載せ変えたという。

この個体に搭載されていたエンジンNo.20744はウェットサンプに改造され、現在アメリカの個人オーナーが愛車のミウラNo.4878に搭載している[3]

レプリカ

工場を訪れてオリジナル「J」を見た顧客からの要望により、「J」売却から遡ること約1年間に、ランボルギーニはミウラを元にした「J」のレプリカを数台製造しSVJの名で生産証明が発行された[1]。ネコ・パブリッシング刊「Rosso」の取材によるとシャシーNo.4088、4860、4934、4990、5084、5090、5113の7台がSVJという見解になっている。またシャシーNo.4808、4892、5100も、SVJに非常に近く調査中である。[4]

このように、現存する「イオタ」は全てレプリカということになる。先述のランボルギーニ純正のレプリカ以外にも個人オーナーによりイオタ化されたミウラが多数存在する。

  • No.4860
    • ランボルギーニのドイツディーラー社長であったヘルベルト・ハーネの注文で新車のミウラP400SVをベースとして製作され、1971年4月29日にSVJとして工場から出た[1]。エンジンは「J」のスペアとして製作された440ps仕様[1]
  • No.4892
    • 1971年7月ミウラP400SVとして販売された後1972年頃工場に戻されてSVJに改装された。1977年京都トミタ・オートにより日本に輸入され、岡崎宏司によりテストレポートが執筆され1977年9月号のモーターファン誌上に掲載され、各地スーパーカーショーで「本物のイオタ」として展示された[1]。エンジンはミウラSVを基本にライトチューンが行なわれたというがウェットサンプのままである[1]。日本に輸入されていた時のタイヤはピレリ・レーシングのオールウェザーであった[1]。輸入後、オーナーの手により各部にモディファイを施され、これに試乗した福野礼一郎はその仕上がりを絶賛している[1]奈良県東京都のオーナーを経て、2010年にアメリカに売却された。
  • No.4934
  • No.5090
    • 新品のミウラP400SVをベースに製作され1972年8月25日に工場を出た[1]。エンジンはドライサンプ、400ps[1]
  • No.5100
    • 新品のミウラP400SVをベースに製作され1972年8月31日に工場を出た[1]。エンジンはドライサンプ、400ps[1]
  • No.4990
    • 1972年4月18日に工場を出たミウラP400SVをベースに1972年秋頃SVJに改装されハイチの富豪に売却された。エンジンはミウラSVを基本にライトチューンが行なわれたというがウェットサンプのままである[1]。1998年現在は日本にある[1]
  • No.3781「SVR」
    • 1968年11月30日に工場を出たミウラP400をベースとし、ヘルベルト・ハーネの注文でSVJに改装され1975年11月工場を出た。当時の最新ロープロファイルタイヤ「ピレリP7[1]」装備のため、後輪用にノーマルと同じパターンの3ピース[1]ディープリムホイールがカンパニョーロ[1]によって作られ、それに合わせてリアフェンダーがかなり拡げられている[1]。ハーネは自分のディーラー工場でレカロのシート、AUTOFLUGのシートベルト、ブラウプンクトのオーディオ、BBSのホイール、ウォルター・ウルフがオーダーした極初期のカウンタックLP400に装着されていたものと同形のリアウイング[1]を取り付け、よりレーシーな外観に仕上がっている。この車はSVRと呼ばれ、一人のオーナーを経て当時30万米ドルで日本人に売却され、1976年6月2日に日本に上陸した。長らく愛知県小牧市のショップで保管されており、かつてはNo.4892と同様に各地のスーパーカーショーで展示されて回った。現在オーナーは代わったものの未だ日本にある。
  • No.3033

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad 『幻のスーパーカー』pp.97-120「幻のランボルギーニ」。
  2. ^ シャシーNo.5084というのが全世界的な通説であったが、(株)ネコ・パブリッシング刊「Rosso」の取材で正しいNo.が明らかになった。
  3. ^ (株)ネコ・パブリッシング刊「Rosso」2008年11月号35ページ参照。
  4. ^ 現存する「SVJ」には「jota」のスクリプト(バッジ)が取り付けられているが、これらは全てオーナーが独自に取り付けたものである

関連項目


ランボルギーニ S.p.A. ロードカータイムライン 1963-
タイプ 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 0 1 2 3
MR(含ミッドシップ4駆) V12 ミウラ カウンタック ディアブロ ムルシエラゴ アヴェンタドール レヴエルト
イオタ レヴェントン ヴェネーノ チェンテナリオ エッセンツァ シアン カウンタック
V8/V10 シルエット ジャルパ ガヤルド ウラカン
2+2 ウラッコ
FR GT 350GT
2+2 400GT イスレロ ハラマ
エスパーダ
クロスカントリー4WD
SUV
LM002 ウルス
オーナー
親会社
フェルッチオ・ランボルギーニ ロセッティ、
レイマー
イタリア政府管理下 ミムラン クライスラー メガテック Vパワー アウディ
試作レーシングカー: ランボルギーニ・イオタ(1969)、ランボルギーニ・ハラマRS(1973)、ランボルギーニ・ウラッコ・ラリー(1973)
コンセプトカー: ランボルギーニ・エストーケ(2008)、ランボルギーニ・エゴイスタ(2013)、ランボルギーニ・アステリオン(2014)、ランボルギーニ・テルツォ ミッレニオ(2017)
人物: フェルッチオ・ランボルギーニジャンパオロ・ダラーラマルチェロ・ガンディーニパオロ・スタンツァーニ
公式WEBサイト: Automobili Lamborghini Holding Spa