ウォルター・クロンカイト

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ウォルター・クロンカイト
Walter Cronkite
2004年
生誕 Walter Leland Cronkite, Jr
1916年11月4日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ミズーリ州セントジョセフ
死没 (2009-07-17) 2009年7月17日(92歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
教育 テキサス大学中退
職業 テレビジョンジャーナリスト
アンカーマン
代表経歴CBSイブニングニュース』アンカーマン(1962年4月 - 1981年3月
配偶者 Mary Elizabeth "Betsy" Maxwell(1940年 – 2005年死別)
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ウォルター・リーランド・クロンカイト・ジュニアWalter Leland Cronkite, Jr1916年11月4日 - 2009年7月17日)は、アメリカジャーナリストアンカーマンである。そのリベラルかつ愛国的な姿勢から、「アメリカの良心(the most trusted man in America)」と呼ばれた。

プロフィール[編集]

ジャーナリズムの世界へ[編集]

ミズーリ州セントジョセフでウォルター・レランド・クロンカイトとヘレン・レナの間に生まれ、テキサス州で育つ。テキサス大学を中退。地方紙の記者としてジャーナリズムの世界に入る。

その後オクラホマ州の地方ラジオ局の報道レポーターや、ブラニフ航空の地上職員などを経て、1937年にアメリカを代表する通信社の1つであるUP通信に入社する[1]

従軍記者[編集]

イギリス空軍爆撃機の搭乗訓練を受けるクロンカイト(右から3番目/1943年

1939年9月に勃発し、1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機にアメリカも参戦した第二次世界大戦には、従軍記者としてフランスドイツなどのヨーロッパ戦線を、ロンドンを拠点として取材、ロンドン大空襲ノルマンディー上陸作戦バルジの戦いなどのレポートを行った。また、終戦後にはドイツ高官に対する戦争裁判であるニュルンベルク裁判や、各地で行われた戦争裁判も取材した[1]

また、冷戦が始まりつつあった1947年からは第二次世界大戦の連合国の友邦の1つであったが、独裁者スターリンの指導下で西側諸国との対立が進んでいたソビエト連邦首都モスクワに特派員として駐在した。

テレビへ[編集]

1950年に、その後アメリカ3大テレビネットワークの一つとなるCBSに入社し、黎明期のテレビジャーナリズム界での活動を開始した[1]1952年にはイギリスエリザベス2世女王の戴冠式の中継を行った。

『CBSイブニングニュース』[編集]

取材中のクロンカイト(右端)

1962年4月16日から1981年3月6日にかけて、CBSの看板番組であり「アメリカのテレビジャーナリズムの象徴」とも言われたニュース番組『CBSイブニングニュース』の2代目アンカーマンを務め、当時視聴率面でトップだったNBCの『ハントリー・ブリンクリー・レポート』(『NBCナイトリーニュース』の前番組)を追い抜いた。真摯な報道姿勢からアメリカ国民の70%以上が支持し、別名「大統領よりも信頼できるニュースアンカー」と呼ばれるなど一躍アメリカを代表するジャーナリストの一人となった。

エンディングの「And that's the way it is.(では、今日はこんなところです)」は名ゼリフとして知られる[注 1]。これに対し、彼の後を継いだダン・ラザーは「That's the part of world tonight.(今夜世界では、こんな事ありました)」という言い回しを使った。

ちなみに、2006年9月4日から2010年1月2日の放送まで、番組オープニング時の「This is the CBS Evening News with Katie Couric.(ケイティ・クーリックがお伝えする『CBSイブニングニュース』です)」というタイトルコールはウォルターの声であった。

ケネディ暗殺[編集]

1963年11月22日に、テキサス州ダラスで遊説中に起きたジョン・F・ケネディ大統領暗殺ケネディ大統領暗殺事件)を伝える速報番組の中で、悲しみのあまり涙で言葉を詰まらせながらも速報を伝えるウォルターの姿がアメリカ中に流された[1]。以後、この時のウォルターの姿がケネディ大統領暗殺の悲劇に対するアメリカ人の感情を象徴するものとして引用されるようになった。

ベトナム戦争[編集]

フエで大学教授のインタビューを行うクロンカイト(1968年)

ケネディ政権時代の1960年代前半にアメリカが本格介入したベトナム戦争に対して、当初は客観的な立場からの報道を続けていたものの、1968年1月に南ベトナム解放民族戦線による南ベトナムへの攻撃「テト攻勢」が行われた直後に、南ベトナム各地を取材で訪れてからは、「民主主義を擁護すべき立場にある『名誉あるアメリカ軍』には、これ以上の攻勢ではなく、むしろ交渉を求めるものであります」と厳しい口調でアメリカ軍の介入を批判、アメリカの世論に大きな衝撃と影響を与えた。

これを知らされた当時のリンドン・B・ジョンソン大統領は、「クロンカイト(の支持)を失うということは、アメリカの中産階級(の支持基盤)を失うということだ(If we've lost Cronkite, we've lost Middle-America)」と嘆いたという。その後民主党内の保守派の多くもベトナム戦争の継続に懐疑的になり、この直後にジョンソンは2期目の大統領選への出馬を断念するに至った。

引退[編集]

スピーチを行うクロンカイト(2002年

その後も『CBSイブニングニュース』のアンカーマンとして活躍するほか、大統領選挙特別番組をはじめとする様々な番組の進行役を務めたが、1980年2月14日に同番組からの降板を表明、翌1981年3月6日に降板した。

引退後[編集]

その後『CBSイブニングニュース』のアンカーマンはダン・ラザーに引き継がれたが、CBSやCNNなどの特派員や執筆活動を通じてジャーナリストとしての活動を継続した[1]。また同時にジャーナリスト養成学校で教鞭を取り、後進の育成にあたった。1981年には、ジミー・カーター大統領によって大統領自由勲章を授勲された。

1995年には、映画『アポロ13』に本人役でカメオ出演2006年3月には、宇宙飛行士でない人間として初めてNASA大使に選ばれた。2009年7月17日ニューヨーク州の私邸にて脳疾患により死去した[2]

注釈[編集]

  1. ^ のちにTBSで報道キャスターを務めた古谷綱正筑紫哲也がこれを真似て、同じ言い回しを使っていた。また諸口あきらも、自身のラジオ番組の終わりの部分で似た様なコメントをしていた

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 『クロンカイトの世界』ウォルター・クロンカイト著 浅野輔訳 阪急コミュニケーションズ 1999年
  2. ^ CNN.co.jp『米CBSの名キャスター、クロンカイト氏死去 92歳[リンク切れ]』2009年7月18日

外部リンク[編集]

メディア
先代
ダグラス・エドワード
CBSイブニングニュース アンカー
1962年4月 - 1981年3月
次代
ダン・ラザー