Template‐ノート:和暦/利用実態調査/1336

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説明[編集]

  • 事象の説明を書く。
  • 記事の引用は変更してはいけない。
  • 検証したら年号と月日、検証に使った資料を書く。
  • 明治5年までは、記入する年号と月日は旧暦とする。なお、改元年は、参照した資料に応じて旧元号でも新元号でも可。
    • 月日を特定できる場合のみ、西暦も可。その場合「(西暦)」と注記する (特にユリウス暦の場合は「(ユリウス暦)」と注記する)。
    • その他の和暦または西暦の日付がわかるときは、同様に記入してよい。
  • 1873年 (西暦) 以降は、記入する年号と月日は西暦 (グレゴリオ暦) とする。
  • 年や日付に異説がある場合、両方を記入する (どちらかを除去することはしない)。
  • 見出しの年号や月日は記事に書いてあったものなので、正しいとはかぎらない。

略記できる資料[編集]

以下の資料は略記する。ページ番号は不要。

新国史
『新・国史大年表』第3巻 一二八二〜一四五五、日置英剛編、国書刊行会、2008年、初版。

記載[編集]

(1336年)[編集]

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南北朝時代に入ると、大江氏の一族で毛利氏当主・毛利時親1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に安芸国に下向した際に同行し、安芸国に入った。
粟屋氏 2010-07-31T05:10:56Z
だが1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に足利尊氏によって建武政権は倒され、後醍醐天皇は同年暮れに吉野に逃れる。
吉田定房 2010-01-30T22:58:26Z
鎌倉幕府滅亡後に開始された後醍醐天皇建武の新政から離反した足利尊氏は、南北朝時代1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に湊川の戦い新田義貞楠木正成らを破り京都へ入り、施政方針を定めた建武式目を制定する。
建武式目 2010-10-21T10:35:04Z
1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)、後醍醐天皇建武政権に反旗を翻した足利尊氏が九州に下向、それに従う少弐頼尚は松山城を攻略し、その子・少弐頼房を城主に据えた。
松山城 (豊前国) 2010-01-26T00:23:45Z
この城が最初史料に現れるのは1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)の事で『吉川家文章』によると6月9日足利氏に属していた安芸国周防親家が水田城で合戦になり、追い落としている。
吹田城 2010-08-26T05:36:44Z
しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千田胤貞千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、〔…〕、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏新田義貞双方に属し1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。
千葉県 2010-11-23T13:49:43Z
1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)北朝方に東条城が焼き払われている。
豊地城 2010-09-24T14:36:03Z

(1337年)[編集]

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太平記1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在している事が分かる(ただし巖邑府誌では霧城とは当時の遠山氏諸城の通称で、太平記の霧城が現在の岩村城の場所にあったかは分からないとしている)。
岩村城 2010-10-28T13:07:00Z
尊氏が京都に攻め上ると、武敏は再度蜂起して足利方に反抗し、京都を脱出していた武重は1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)帰国して弟武敏とともに足利方の一色頼氏・少弐頼尚を攻めた。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
さらに1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)には文観が先達となって後醍醐天皇が行幸し「栗天奉寺」と命名され、勅願寺となっている。
世尊寺 2010-07-10T23:24:05Z
1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z
1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年) - 日法上人、龍口法難刑場跡に「敷皮堂」なる一宇を建立、これが龍口寺の創建という。
片瀬 (藤沢市) 2010-11-27T11:43:35Z

7月[編集]

後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)7月、北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されているが、この間の経緯に関しては一旦北朝に仕えた後に南朝に出奔したとする考えと、後醍醐天皇の吉野行きに同行もしくは直後に天皇の後を追って吉野に向かったもので解官は定房が南朝に仕えて京都に戻る見込みが無い現状の追認に過ぎないとする考えがある。
吉田定房 2010-01-30T22:58:26Z

(1338年)[編集]

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Template:''日本の城郭概要表 一宮城(いちのみやじょう)は、徳島県徳島市一宮町に位置する日本
一宮城 (阿波国) 2010-10-24T17:07:01Z
阿波国守護である小笠原長房の四男小笠原長宗が、一宮宗成を滅ぼし1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社分霊を城内に奉祀した。
一宮城 (阿波国) 2010-10-24T17:07:01Z
尊氏は後醍醐から三種の神器を接収して光明天皇を即位させ、2年後の1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)に征夷大将軍に任命されて正式に武家政権を成立させた。
建武式目 2010-10-21T10:35:04Z
1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年) 南部師行は北畠顕家とともに足利尊氏討伐に遠征した。
根城 2010-10-28T13:07:26Z
build_y = 1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)以前
山崎城 (山城国) 2010-09-24T14:38:43Z
1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)、室町幕府は興福寺と東大寺それぞれに関所を設置する権利を認めた。
兵庫関 2010-03-04T09:28:59Z

(1339年)[編集]

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武重・武敏兄弟の死後、菊池氏勢力は沈滞の時期を迎えたが、吉野南朝を建て移り住んだ後醍醐天皇の皇子懐良親王1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)征西将軍として九州に下向した。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
後醍醐天皇は1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)に吉野の地で崩御し、跡を後村上天皇が継いだが、その後の戦いで南朝方有力武将が次々に戦死し、〔…〕楠木正行正時兄弟が足利方の高師直の軍勢に討ち取られた。
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z
Template:''日本の城郭概要表
勝竜寺城 2010-03-22T06:55:22Z
ファイル:… 1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきたが、『よみがえる日本の城』によると「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝の正当性を強調するための創作である可能が高い」としている。
勝竜寺城 2010-03-22T06:55:22Z

(1340年)[編集]

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1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)大西城小笠原義盛白地城大西氏を降して、一宮城に集中攻撃をかけてきた。
一宮城 (阿波国) 2010-10-24T17:07:01Z
しかし1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)〔…〕、安東氏政権は崩壊したという。
東日流外三郡誌 2010-10-28T14:05:40Z
build_y = 1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)
白河小峰城 2010-10-28T12:40:42Z
白河小峰城は、南北朝時代1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)に、結城親朝が小峰ヶ岡に築城して小峰城と名づけたのが始まりとされる。
白河小峰城 2010-10-28T12:40:42Z

(1341年)[編集]

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途中伊予国に滞在した懐良親王は、宇都宮貞泰を連れて1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)薩摩谷山に上陸、〔…〕
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年) 出雲源氏惣領塩冶高貞が幕府の追討を受ける。
月山富田城 2010-10-28T11:38:00Z
しかし、〔…〕1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)の大津波によって十三湊は壊滅的な被害を受け、安東氏政権は崩壊したという。
東日流外三郡誌 2010-10-28T14:05:40Z
室町時代初期の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年) 室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・畠山満泰が、〔…〕
二本松城 2010-10-28T12:39:15Z
後見役の曽祖父はそうした争乱の最中の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)に没し、安芸国吉田荘の支配は元春が引き継ぐことになった。
毛利元春 2010-09-21T18:19:35Z
創建年 = 1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)
龍峰寺 2010-06-25T10:10:35Z
龍峰寺は、室町時代初期(南北朝時代)の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)に現在の海老名市立海老名中学校(国分南3丁目)のあたりに創建され、昭和初期に清水寺の寺地に当たる現在地に移された。
龍峰寺 2010-06-25T10:10:35Z

(1342年)[編集]

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しかし、南北朝時代1342年(南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。
島津氏 2010-11-20T20:21:49Z

(1343年)[編集]

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途中伊予国に滞在した懐良親王は、〔…〕1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年)肥後国宇土において15代菊池武光に迎えられた。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年) 佐々木高氏京極氏、道誉)が守護となり、吉田厳覚守護代とする。
月山富田城 2010-10-28T11:38:00Z
1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年)-。
月山富田城 2010-10-28T11:38:00Z

(1344年)[編集]

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『師郷記』によると1344年(南朝:興国5年、北朝:康永3年)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。
原田城 2010-08-26T14:55:17Z
少弐頼尚:1344年(南朝:興国5年、北朝:康永3年) -?
対馬国 2010-11-12T00:20:03Z
南北朝時代1344年(南朝:興国5年、北朝:康永3年)に木山松丸城として史料にその名が初出するが、その所在地は今日とは異なり、戦国期に入って現在の寺迫字城の本に築城されたと推定される。
木山城 (肥後国) 2009-09-18T14:52:59Z

(1346年)[編集]

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当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。
守護大名 2010-11-25T13:47:36Z
build_y = 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
姫路城 2010-12-02T12:09:20Z
File:…:揚羽蝶]] 姫路城の築城者は南北朝時代1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範とする説が有力であり、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。
姫路城 2010-12-02T12:09:20Z
築城は南北朝時代赤松則村(円心)が姫路山上に築いた称名寺をもとに1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城説が有力である。
姫路城 2010-12-02T12:09:20Z

(1348年)[編集]

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後醍醐天皇は、〔…〕、跡を後村上天皇が継いだが、その後の戦いで南朝方有力武将が次々に戦死し1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)には四條畷の戦い楠木正成の子、楠木正行正時兄弟が足利方の高師直の軍勢に討ち取られた。
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z
銅の鳥居は1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の軍勢により焼かれ、その後に再建された(時期は不明だが、〔…〕
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z
蔵王堂 - 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の軍勢により焼かれたとあり、〔…〕
吉野城 2010-10-26T12:46:35Z
明王院広島県福山市) -  南北朝時代(1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年))
五重塔 2010-11-16T01:12:32Z
墓所のある場所は、楠木正行が1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)、四條畷の戦いで戦死した地。
小楠公御墓所 2010-01-16T04:09:55Z
〔…〕1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年) - 少弐頼尚
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)〔…〕
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1349年)[編集]

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1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)〔…〕
鎌倉公方 2010-11-26T01:06:42Z
このころ中央では尊氏と弟足利直義の間に対立が深まり1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)直義の養子足利直冬が九州に下向してきたため、九州は三勢力に分断された。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z
文献史料上、最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。
村上水軍 2010-05-15T02:31:51Z
1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年) - 足利基氏鎌倉公方となり、片瀬もその支配下となる。
片瀬 (藤沢市) 2010-11-27T11:43:35Z

(1350年)[編集]

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1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)には小笠原長宗は病死し、息子の一宮成宗が城主となっており、細川頼之軍は手始めに夷山城を攻め、野田山城を焼き討ちした。
一宮城 (阿波国) 2010-10-24T17:07:01Z
1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)に、足利直冬は熊谷直平に南朝へ協力するように要請した。
熊谷直平 2009-07-22T04:33:19Z
念阿弥 慈恩(ねんあみ じおん、ねんなみ じおん1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)? - 没年不詳)は日本の南北朝時代から室町時代にかけての剣客
念阿弥慈恩 2010-02-05T14:51:55Z

(1351年)[編集]

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暫く三竦みの状態が続いたが1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)直義の失脚により直冬が九州を去ると、〔…〕菊池武澄等の働きによって大宰府を攻略した。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)、北畠顕信守永親王を奉じて挙兵する。
藤島城 2010-04-22T00:23:00Z

2月[編集]

1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)2月、直平は安芸守護であった武田信武に従って足利尊氏の北朝方として活動したが、5月には南朝に鞍替えした。
熊谷直平 2009-07-22T04:33:19Z

12月[編集]

1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)12月、安芸国多治比の保内地頭職を得て、志道村、山県郡宮庄の地頭ともなった。
熊谷直氏 2009-02-16T16:36:13Z

(1352年)[編集]

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建武の新政南北朝時代に入ると、河村氏新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国河村秀経らは新田義興脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。
河村城 2010-08-23T11:41:15Z
1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年) - 南宗継に和田郷、深見郷の地頭職が与えられる。
境川 (東京都・神奈川県) 2010-11-27T10:37:17Z
1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)、室町幕府内部の内紛に乗じて南朝軍が京都を占領して、北朝の崇光天皇ら主だった皇族を拉致してしまう(正平一統)。
皇位継承 2010-09-12T20:22:46Z
1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)、観応の擾乱における軍事兵粮の調達を目的に、国内の荘園・国衙領から年貢の半分を徴収することのできる半済の権利が守護に与えられた。
守護大名 2010-11-25T13:47:36Z
その最初は1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)に侍所頭人佐々木秀綱の家臣の若宮氏がその地位にあったことが知られている。
所司代 2010-09-23T03:03:19Z
南北朝時代には、上杉憲顕能憲に仕えていた信濃国の大石信重1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)〔…〕、以後大石氏の支配下に入る。
草花村 2010-07-27T02:59:34Z

(1353年)[編集]

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1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z
〔…〕1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年) - 一色直氏
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

5月20日[編集]

1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)5月20日 - 北条時行、龍口で処刑される。
片瀬 (藤沢市) 2010-11-27T11:43:35Z

(1356年)[編集]

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build_y = 1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)
山形城 2010-10-28T12:38:05Z
1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)斯波兼頼が羽州探題として山形に入部、〔…〕、初期の山形城が築城される。
山形城 2010-10-28T12:38:05Z
南北朝時代には、〔…〕1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)に入間・多摩両郡内に十三郷を与えられ武蔵国目代職に補任され、以後大石氏の支配下に入る。
草花村 2010-07-27T02:59:34Z

(1357年)[編集]

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〔…〕1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)には、初期の山形城が築城される。
山形城 2010-10-28T12:38:05Z
1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)〔…〕
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1358年)[編集]

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暫く三竦みの状態が続いたが、〔…〕、勢力を伸ばした懐良親王は1358年(南朝:正平13年、北朝:延文3年)武光・16代菊池武政菊池武澄等の働きによって大宰府を攻略した。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
さらに『類聚抄』の記事によれば四辻善成はもともと一条家に伝来していた「京極北政所自筆水源小巻帚木一巻」を二条良基から受け取って手許に置いていたが、〔…〕1358年(南朝:正平13年、北朝:延文3年)〔…〕、「水源」と呼ばれていることから現在では失われてしまった河内方の注釈書「水原抄」のことであると理解されることの多かったこの記事について、小川剛生は「本写本『従一位麗子本』の伝来についての記録であろう」としている
従一位麗子本源氏物語 2010-11-28T07:11:56Z

(1359年)[編集]

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懐良親王 Template:''main 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年)、征西大将軍として九州に赴いた後醍醐天皇の皇子懐良親王と親王を奉じた菊池武光は、筑後高良山福岡県久留米市)と毘沙門岳に城を築いて「征西府」とした。
九州平定 2010-12-01T01:45:10Z
〔…〕1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年) - 菊池武光
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年)〔…〕
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1361年)[編集]

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僧侶もひそかに肉食をするようになり、特にウサギは鳥と同様の扱いになって、『嘉元記』の1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年)の饗宴記録にもウサギ肉について記載されている。
日本の獣肉食の歴史 2010-10-14T08:50:42Z
〔…〕1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年) - 大友氏時
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1361年(南朝:正平16年、北朝:康安元年) - 阿蘇惟澄
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1362年)[編集]

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その後両者は度々合戦となったが1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)細川頼之軍と戦って破れ、細川頼之との間で和睦を結び、一宮成宗は息子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城隠居した。
一宮城 (阿波国) 2010-10-24T17:07:01Z
代々の城主であった十河氏とは、讃岐国山田郡を支配していた、植田氏の支族で1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に細川清氏の陣に最初に馳せ参じたのが、十河吉保でこの時の様子を『南海通期』によると、 Template:''Cquote3 とあり十河吉保がこの地の惣領となった。
十河城 2010-11-12T12:23:49Z
1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年) - 阿蘇惟村
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
この館の築造については、〔…〕1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年))によって築かれたとする説をはじめ諸説がある。
府内 (豊後国) 2010-07-19T14:55:47Z

1月[編集]

その後、南北朝時代1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)1月、室町幕府管領細川清氏は、讒言によって征夷大将軍足利義詮により追放され、四国に逃れ讃岐国の白峰城に立て篭もり叛乱を起こした。
勝瑞城 2010-11-19T05:31:57Z

(1363年)[編集]

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1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年) 行阿、二条良基に招かれて「源氏物語」の奥義を伝授する。
河内方 2010-09-23T09:28:38Z
1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に秋月城から勝瑞城に移り、その後阿波国守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。
勝瑞城 2010-11-19T05:31:57Z
上杉憲顕が1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に鎌倉公方足利基氏の執事(管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した一族から犬懸(いぬかけ)、山内(やまのうち)、宅間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)の4家が出た(頭に居住地名を冠している)。
上杉氏 2010-11-29T15:52:57Z

(1364年)[編集]

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1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年) 行阿、原中最秘抄に加筆する
河内方 2010-09-23T09:28:38Z
1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年) 山名時氏出雲国守護となる。
月山富田城 2010-10-28T11:38:00Z
1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年)-。
月山富田城 2010-10-28T11:38:00Z

(1365年)[編集]

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また1365年(南朝:正平20年、北朝:貞治4年)の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏円城寺氏の争いなど、千葉宗家千葉六党家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。
千葉県 2010-11-23T13:49:43Z

(1367年)[編集]

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前半部は足利義満が将軍であった1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)〔…〕、各種記録などから政務に関係する主だったものを抜き出して集成したもので、政所関係者の手によるものと言われている。
花営三代記 2010-03-18T16:33:59Z
〔…〕1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)
鎌倉公方 2010-11-26T01:06:42Z
1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)〔…〕
鎌倉公方 2010-11-26T01:06:42Z

(1368年)[編集]

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1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年):武蔵平一揆
一揆 2010-11-14T12:02:39Z
1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)に出された応安の半済令は、従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。
守護大名 2010-11-25T13:47:36Z

5月[編集]

さらに1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)5月、筑紫安楽寺での修行において剣の奥義を感得した。
念阿弥慈恩 2010-02-05T14:51:55Z

(1370年)[編集]

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Template:''main ファイル:…(『前賢故実1903年菊池容斎筆)]] 今川貞世(了俊)は1370年(南朝:建徳元年、北朝:応安3年)頃、管領細川頼之より渋川義行の後任の九州探題として推挙され、3代将軍足利義満によって正式に任命された。
九州平定 2010-12-01T01:45:10Z
菱紋が現れたのは1370年(南朝:建徳元年、北朝:応安3年)頃と見られている。
菱紋 2010-10-09T05:43:04Z
その1370年(南朝:建徳元年、北朝:応安3年)頃に成立されたとされる『太平記』に大内修理亮が直垂に「大菱」を入れたという記述がある。
菱紋 2010-10-09T05:43:04Z

(1371年)[編集]

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以後、大宰府に征西府が置かれ九州における公的機関の様を呈していたが1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)今川貞世が武光を破って九州を平定した。
菊池氏 2010-11-28T11:31:01Z
現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)〔…〕
古事記 2010-11-29T12:09:30Z

(1372年)[編集]

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1372年(南朝:文中元年、北朝:応安5年)に直氏は病死したが、嫡子がなかったため、九州探題であった今川了俊の指示によって、その所領は本庄熊谷氏の熊谷直明に預けられた。
熊谷直氏 2009-02-16T16:36:13Z
現存する『古事記』の写本で最古のものは、〔…〕1372年(南朝:文中元年、北朝:応安5年)にかけて真福寺
古事記 2010-11-29T12:09:30Z
羽黒山山形県鶴岡市) - 南北朝時代1372年(南朝:文中元年、北朝:応安5年))、29.4m
五重塔 2010-11-16T01:12:32Z

(1373年)[編集]

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1373年(南朝:文中2年、北朝:応安6年)〔…〕
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1374年)[編集]

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1374年(南朝:文中3年、北朝:応安7年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z

(1375年)[編集]

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こののち貞世は応安7年7月に肥後国菊池郡水島の地に陣をもうけ1375年(南朝:天授元年、北朝:永和元年)には同地での会戦に備えて、当時九州で勢力を築いていた豊後国守護大友親世、筑前国守護少弐冬資大隅国守護島津氏久3名の来援を呼びかけた。
九州平定 2010-12-01T01:45:10Z
広世は備後国人で、同族であった長井氏の当主・長井貞広の養子となっていたが、貞広は九州探題今川了俊に従って九州を転戦中の1375年(南朝:天授元年、北朝:永和元年)に筑後で討死。
福原広世 2010-08-28T03:13:29Z

(1377年)[編集]

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1377年(南朝:天授3年、北朝:永和3年)に家督相続。
伊達政宗 (大膳大夫) 2010-10-20T18:26:07Z

(1378年)[編集]

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宗澄茂:1378年(南朝:天授4年、北朝:永和4年)-?
対馬国 2010-11-12T00:20:03Z

(1379年)[編集]

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〔…〕1379年(南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - 今川貞世
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z
1379年(南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - 阿蘇惟村
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1380年)[編集]

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1380年(南朝:天授6年、北朝:康暦2年)頃から父・伊達宗遠置賜郡に侵攻し、〔…〕、置賜を伊達氏の拠点とした。
伊達政宗 (大膳大夫) 2010-10-20T18:26:07Z
1380年(南朝:天授6年、北朝:康暦2年)〔…〕
肥後国 2010-11-20T06:56:30Z

(1381年)[編集]

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〔…〕1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)までの幕府法令や補任状、各種記録などから政務に関係する主だったものを抜き出して集成したもので、政所関係者の手によるものと言われている。
花営三代記 2010-03-18T16:33:59Z
貞世はこれらに対し、体制を挽回して1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)には菊池武朝を隈部城から追放し、九州南部へ転進した島津氏久・島津伊久に対しては五男今川満範を派遣して国人一揆を結成させ、永徳2年(1382年)に帰順させた。
九州平定 2010-12-01T01:45:10Z
1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)写)、道祥本(上巻のみ。
古事記 2010-11-29T12:09:30Z
父元春は1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)に所領を兄の毛利広房に譲り、隠居したと推測される。
福原広世 2010-08-28T03:13:29Z
当初は南朝方の城として幕府軍の攻撃を受け1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)に今川了俊によって攻略されている。
木山城 (肥後国) 2009-09-18T14:52:59Z

(1383年)[編集]

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1383年(南朝:弘和3年、北朝:永徳3年)
即位灌頂 2010-07-18T15:29:40Z

(1384年)[編集]

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build_y = 1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)
若松城 2010-11-29T12:43:13Z
1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)、蘆名7代の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが若松城のはじまりとされる。
若松城 2010-11-29T12:43:13Z

(1385年)[編集]

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〔…〕1385年(南朝:元中2年、北朝:至徳2年)には長井氏を滅ぼして、置賜を伊達氏の拠点とした。
伊達政宗 (大膳大夫) 2010-10-20T18:26:07Z
1385年(南朝:元中2年、北朝:至徳2年)に嫡子・広房が安芸国西条にて討死するに及び、孫の光房に跡を継がせ、その成長まで後見することとなる。
毛利元春 2010-09-21T18:19:35Z

(1387年)[編集]

5月[編集]

1387年(南朝:元中4年、北朝:嘉慶元年)5月、守護斯波義種に反抗する村上頼国小笠原清順高梨朝高長沼太郎らが善光寺で挙兵して平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めた際に、麓のこの地で合戦となった。
漆田原の戦 2010-08-05T18:52:53Z

(1388年)[編集]

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〔…〕1388年(南朝:元中5年、北朝:嘉慶2年))のもとにあり、〔…〕
従一位麗子本源氏物語 2010-11-28T07:11:56Z