志免鉱業所
志免鉱業所 | |
---|---|
志免鉱業所の遺構。手前が斜坑口、奥が竪坑櫓。 | |
所在地 | |
所在地 | 福岡県糟屋郡志免町 |
座標 | 北緯33度35分26秒 東経130度29分11秒 / 北緯33.590524度 東経130.486430度座標: 北緯33度35分26秒 東経130度29分11秒 / 北緯33.590524度 東経130.486430度 |
生産 | |
産出物 | 石炭 |
歴史 | |
開山 | 1889年(明治22年) |
閉山 | 1964年(昭和39年) |
所有者 | |
企業 | 日本国有鉄道 |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
志免鉱業所(しめこうぎょうしょ)は、福岡県糟屋郡志免町にあった炭鉱である。 糟屋炭田(かすやたんでん)の炭鉱の一つ。志免炭鉱とも呼ばれる。
採掘開始から閉山にいたるまで終始国営であった日本国内唯一の炭鉱として知られる。戦後は日本国有鉄道の所有となり、アクセスは香椎線であった。1964年(昭和39年)閉山。
志免鉱業所竪坑櫓、斜坑口などの遺構が現在も残されている。2009年(平成21年)12月8日、竪坑櫓が国の重要文化財に指定された。付近の斜坑ロ等は,県指定史跡に指定された。産業考古学会の推薦産業遺産の認定がされると、登録有形文化財の認定がされ、重要文化財の指定と、経済産業省の近代化産業遺産の認定が、竪坑櫓だけではなく、斜坑の坑口や二股排気風洞で使われていた、水上飛行機(飛行艇)のプロペラーを使った廃風機等の、全ての残存施設が認定された。
歴史
[編集]新原採炭所、海軍採炭所
[編集]志免鉱業所の歴史は、1889年(明治22年)、新原(しんばる、現・須恵町)に設立された新原採炭所に端を発する。新原採炭所は、当時の海軍艦艇の燃料であった石炭の確保を目的として、海軍自身によって開発された。
1898年(明治21年)に新原の地が予備炭山に指定され、翌年には第一坑(竪坑※特記以外は斜坑。以下同)及び第二坑(竪坑)が同地に開坑している。第一坑(竪坑)、第二坑(竪坑)、第四坑が新原(現・須恵町)に設けられ、第三坑は桜原(さくらばる現・宇美町)に設けられた。現在JR新原駅近くに新原公園として整備され海軍炭鉱創業記念碑等が保存されている場所が第四坑(斜坑)の坑口と、初期の海軍炭鉱の本部庁舎跡地である。
志免において採掘が始められたのは、1906年(明治39年)、第五坑の採掘開始からである。その後も坑口の新設は続き、旅石(現・須恵町)の第六坑、志免町の第七坑、第八坑(※本卸はスキップ斜坑)、志免竪坑が設けられている。他粕屋町仲原、酒殿に排気坑口、酒殿に排気竪坑が開設。明治期の主力坑は主に新原に所在していたが、昭和初期までには第一坑から第三坑までの坑口 は既に採掘を終えて閉鎖され、採炭の中心地は志免地区の坑口に移行した。それに伴い事務所(庁舎)の位置も1929年(昭和4年)に新原から志免へと移転している。
日本国有鉄道
[編集]終戦後、海軍から国鉄へと事業が移管されると、正式名称についても志免鉱業所へと変更され、志免の名を冠するようになった。
昭和30年代より国鉄鉄道路線の電化,内燃(ディーゼル)化の進展等の動力近代化計画によるエネルギー革命により赤字へ転落(昭和38年度はトンあたり▲1,830円の赤字[1])。また国は炭鉱のスクラップアンドビルドを進めていたが、志免は生産効率においてスクラップ基準に該当するものであった[1]。
そのため国鉄が鉱業所の売却を決定、志免鉱業所調査委員会が結成されるが国労が猛反発、いわゆる「志免闘争」へ発展した。
年表
[編集]海軍時代
[編集]- 1888年(明治21年) 1月 新原(しんばる、現・須恵町)が海軍により予備炭山に指定される。
- 1889年(明治22年) 1月 海軍より海軍技師を現地に派遣。
- 7月 新原採炭所第一坑開坑 (竪坑。深さ約30m.櫓は木造。現・須恵町新原)。
- 地元では「新原炭鉱、海軍炭鉱」と呼ばれるようになる。海軍時代は志免に移転後も、新原炭鉱と呼ばれていた。
- 10月 新原採炭所第二坑開坑 (竪坑.深さ約50m。櫓は木造.現・須恵町新原)。
- 12月 新原(第一坑)に事務所開設。
- 1890年(明治23年) 3月 新原採炭所官制発布 新原採炭所設立、佐世保鎮守府所管となる。
- 1893年(明治26年) 1月 第三坑開坑 (斜坑.現・宇美町桜原)。
- 1900年(明治33年) 6月 第一坑、第二坑廃坑。
- 8月 海軍採炭所官制発布,海軍採炭所に改称、海軍艦政本部に所属。
- 1901年(明治34年) 9月5日~ 海軍採炭所が糟屋郡桜原へ移転[2]。
- 11月 第四坑開坑(斜坑.現・須恵町新原)。
- 1904年(明治37年) 1月 博多湾鉄道 西戸崎〜須恵間開通(現・JR九州香椎線)。
- 1905年(明治38年) 6月 博多湾鉄道 須恵〜新原間開通(同上)。
- 11月 第三坑の作業を第四坑に合併。
- 1906年(明治39年) 9月 第五坑開坑、(斜坑)志免村(現・志免町)での採炭を開始。
- 1909年(明治42年) 7月 博多湾鉄道 酒殿〜志免間開通(後の旧国鉄香椎線旅石支線。1985年廃止)志免貨物取扱所として志免駅開業。後の東構内で廃止後の現在、コンクリート工場(※新日本コンクリート㈱国鉄のPC枕木;コンクリート枕木等の製造工場)や町道、スーパーマーケットなどに利用されている位置である。
- 1911年(明治44年)11月 第六坑開坑(斜坑。現・須恵町旅石)。
- 1912年(明治45年) 4月 海軍煉炭製造所条例改正に伴い、大嶺炭田の海軍練炭製造所採炭部が管轄下に入る。
- 1916年(大正 4年) 3月 博多湾鉄道 志免〜旅石間開通(後の旧国鉄香椎線旅石支線.1960年廃止)。
- 1919年(大正 7年) 4月 第七坑開坑(斜坑.現・志免町)(第5坑構内)。
- 1920年(大正 8年) 3月 筑前参宮鉄道 吉塚〜筑前勝田間開通(後の国鉄勝田線、1985年廃止)新志免駅開業(※後の西構内。現在の志免鉄道公園の範囲で旅客ホームなど.戦時統合で西鉄になった時に志免駅として統合)
- 1921年(大正10年) 4月 管轄組織名称が「海軍燃料廠 採炭部」に改称。呉鎮守府所管となる。
- 1923年(大正12年) 3月 大嶺炭鉱の管轄を大蔵省に移管。
- 1929年(昭和 4年)10月 志免新庁舎落成。事務所を志免に移転。
- 1931年(昭和 6年)10月 第三坑採掘終了。
- 1935年(昭和10年) 5月 第八坑開坑(斜坑。現・志免町)(第五坑構内)竪坑櫓(ドラム式の三井田川炭鉱の伊田竪坑の竪坑櫓に似ている反転式スキップの櫓を擁し、国内では嘉穂町(現・飯塚市)の住友忠隈鉱業所(忠隈炭鉱)で使われていた事が判明している珍しい斜坑であった.
- 1937年(昭和12年) 8月 第七坑坑内出水。
- 1938年(昭和13年) 3月 第七坑下層採炭作業を休止。
- 6月 第七坑ガス爆発事故 死者50名。
- 1941年(昭和16年) 4月 管轄組織名称が第四海軍燃料廠に変更。
- 4月 酒殿坑開坑(斜坑.現・粕屋町)
- 7月 立坑開坑(竪坑.現・志免町)
- 同年 竪坑櫓着工.
- 1943年(昭和18年) 竪坑櫓完成.竪坑(地下部)本体掘削開始。
- 1945年(昭和20年) 9月 第七坑坑内水害被災。竪坑(地下部)本体完成(鉄筋コンクリート捲き、深さ430m。地下水平坑道は壺下から15m上に設置。普通の竪坑は底部である壺下を、半球形状にコンクリートで建設するが、この海軍炭鉱の志免竪坑は、壺下の設計図が側壁のみがコンクリート建築の指示をされ、壺下の底部は土などの儘のように描かれていて、更に地下深く竪坑を伸ばせるように造られていた。
国鉄時代
[編集]- 1945年(昭和20年) 12月 第四海軍燃料廠の管轄が運輸省へと移管、「運輸省門司鉄道局志免鉱業所」となる。
- 通称で志免炭鉱と云われるようになる。
- 1946年(昭和21年) 5月 第八坑坑内火災発生。
- 6月 志免庁舎火災により消失。
- 12月 運輸省直轄となる。運輸省志免鉱業所へと改称。
- 1949年(昭和24年) 3月 第七坑水害復旧。
- 5月 新庁舎落成。
- 6月 「日本国有鉄道志免鉱業所」に名称を変更。
- 1951年(昭和26年)12月 第四坑廃止。
- 1953年(昭和28年) 5月 第六坑を第五坑へ統合。
- 1954年(昭和29年)11月 臨時公共企業体合理化審議会が鉱業所の売却を公式意見として答申。
- 1955年(昭和30年)11月 行政管理庁 第一回勧告(附帯事業の国鉄経営本体からの切り離し)。
- 1956年(昭和31年) 1月 国鉄経営調査会答申(黒字化要求、本体からの切り離し、売却、合理化の選択を求める)。
- 1958年(昭和33年) 4月 行政管理庁、第二回勧告(国鉄本体以外の資産の切り離しを勧告)。
- 4月 志免鉱業所調査委員会(通称 青山委員会)発足および第一回の答申(国鉄からの切り離し)。
- 7月21日 志免鉱業所調査委員会第二回答申(昭和33年内の切り離し 三井、住友、住友への事業譲渡)。
- 1959年(昭和34年) 1月 運輸大臣,国鉄経営分離認可。
- 6月6日 志免闘争最大の暴動が発生。急遽、志免炭鉱臨時調査団が構成され現地へと派遣。
- 阿世賀輝雄国鉄労働組合志免支部委員長を筆頭に、当時の国鉄総裁と志免鉱業所調査委員会員の立ち入りを、座り込み等で阻み、当時の国鉄総裁と志免鉱業所調査委員会の委員たちが国労の座り込みによって現地に入れず。これによって小競り合いとなり県警機動隊が出動、国労側負傷者 重傷1名、軽傷49名、警官側負傷者 重傷2名、軽傷80名、双方合わせ計132名が負傷。
- 8月 志免炭鉱臨時調査団の調査結果が公表される。
- 9月25日 払い下げの入札参加申請をしていた三井・三菱・住友の各社が参加を辞退。
- 6月6日 志免闘争最大の暴動が発生。急遽、志免炭鉱臨時調査団が構成され現地へと派遣。
- 1964年(昭和39年) 6月30日 閉山。
- 7月1日 本部事務の業務を志免炭鉱整理事務所へ名称変更。竪坑、竪坑櫓、斜坑、スキップ櫓などの施設は、通商産業省の特殊法人である石炭合理化事業団(後に組織の名称が略称をNEDOとする、通産省の特殊法人新エネルギー総合開発機構に改組され、後に省庁改編で経済産業省の特殊法人から独立行政法人と改組され、更に国立研究開発法人に改組された新エネルギー・産業技術総合開発機構となっている)に移管された。
歴代所長
[編集]新原採炭所
[編集]- 宮地忠久 大機関士(初代所長):1896年1月17日 - 1899年11月8日
- (心得)藤沼牣 大機関士:1899年11月5日 - 1900年9月29日
海軍採炭所
[編集]- 山田猶之助 少佐:1900年9月16日 - 1903年8月31日
- 稲葉宗太郎 少佐:1903年8月26日 - 1905年4月8日
- 鈴木富三 機関大佐:1905年4月8日 - 1910年6月7日
- 室田魁 主計中監:1910年6月6日 - 1912年6月3日
- 山崎位 主計中監:1912年6月3日 -1915年3月5日
- 徳永晃 主計中監:1915年2月27日 - 1918年11月19日
- 秋葉鉱太郎 主計大監:1918年11月21日 - 1919年12月17日
- 宇土兵蔵 主計大佐:1919年12月13日 - 1921年3月27日
海軍燃料廠採炭部
[編集]- 宇土兵蔵 主計少将(初代部長):1921年3月28日 - 1921年12月17日
- 斎藤芳太郎 主計少将:1921年12月15日 - 1922年11月15日
- 橋爪修蔵 主計大佐:1922年11月15日 - 1923年12月3日
- 服部正之 主計大佐:1923年12月4日‐1924年12月13日
- 棚町五十吉 主計大佐:1924年12月10日 - 1925年11月27日
- 淡輪敏雄 主計大佐:1925年11月26日 - 1927年4月21日
- 長田正義 主計大佐:1927年4月21日 - 1929年12月21日
- 元松直人 主計大佐:1929年12月9日 - 1932年12月12日
- 大束建夫 主計大佐:1932年12月10日 - 1935年10月18日
- 金谷隆一 主計大佐:1935年10月18日 - 1937年12月18日
- 加納金三郎 主計大佐:1937年12月18日 - 1938年11月21日
- 片岡覺太郎 主計少将:1938年11月21日 - 1941年3月31日
第四海軍燃料廠
[編集]- 上田儀右衛門 機関大佐(初代第四海軍燃料廠長):1941年4月1日 - ?
- 倉富朋五郎 大佐
- 猪俣昇 技術大佐→技術少将 ? - 1945年11月
運輸省門司鉄道局志免鉱業所
[編集]- 猪俣昇(嘱託,初代所長):1945年12月 - 1946年12月
運輸省志免鉱業所
[編集]- 高井軍一:1946年12月 ‐ 1949年7月
日本国有鉄道志免鉱業所
[編集]- 竹内谷雄:1949年8月 ‐ 1951年8月
- 有川董勤:1951年8月 ‐ 1953年11月
- 平出彬:1953年11月 ‐ 1955年10月
- 久留義恭:1955年10月 ‐ ?
現在
[編集]閉山後永らく放置されていたが、“志免竪坑櫓解体委託業務調査”が町で行われると、地元九州産業考古学会、産業考古学会、土木学会、日本産業技術史学会、日本建築学会、北海道産業考古学会、東京産業考古学会、鉱山研究会などから次々と保存要望がなされ、地元志免町において日本産業技術史学会の志免大会や、九州産業考古学会などのシンポジウムが複数回にわたり開催され、さらに2003年に北海道赤平市で開催された国産鉱山ヒストリー会議において本鉱業所に関する複数の発表がなされた上、著名な日本国外在住の学者が学会終了後に本鉱業所に立ち寄り、絶賛したことから、地元の保存会も立ち上がり残存施設の保存が実現した。現在敷地の東半分の動力職場跡地が志免町の福祉施設となっている。
竪坑櫓は土木学会A評価、産業考古学会の推薦産業遺産に認定されたのち、経済産業省の近代化産業遺産として大臣認定をされ、文化庁から登録有形文化財への登録を経て文部科学省から国の重要文化財に指定され、保存に向けた修繕が行われている。斜坑ロ等のその他の残存施設も県指定史跡に指定され、全体的に整備されつつある。
遺構
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 「時の話題 志免鉱業所はなぜ閉山するのか」『国有鉄道』21(12)(174)、交通協力会、1963年12月、14頁、doi:10.11501/2276757。
- ^ 『官報』第5459号,明治34年9月11日.
参考文献
[編集]- 海軍燃料廠採炭部(編纂)『海軍炭鉱五十年史』第四海軍燃料厰、1943年
- 復刻版;文献出版;1981年
- 田原喜代太(編著)『志免炭鉱九十年史』田原喜代太、1981年
- 日本国有鉄道志免鉱業所十年史編集委員会(編集)『日本国有鉄道志免鉱業所十年史』日本国有鉄道志免鉱業所十年史編集委員会、1956年
- 『日本海軍将校履歴集』「国立国会図書館所蔵資料集」[要文献特定詳細情報]
- 『官報』[要文献特定詳細情報]
- 山田大隆・大石道義・長渡隆一「志免炭鉱の技術と歴史」『国際鉱山ヒストリー会議赤平大会論文集』2003年
- 斎藤和美・平島勇夫・大石道義・徳永博文・長渡隆一「志免炭鉱に残された物」『産業考古学』92号、産業考古学会
- 猪俣昇「運輸省門司鉄道局志免鉱業所下層炭開発に就いて」『日本鉱業会誌』日本鉱業会、1964年、
- 猪俣昇「鉱山通風用の水上飛行機プロペラー使用通風」『九州鉱山学会誌』九州鉱山学会[要文献特定詳細情報]
- 猪俣昇「第四海軍燃料廠」『日本海軍燃料史』[要文献特定詳細情報]