三遊亭圓朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)は、江戸噺家三遊派の大名跡。円朝とも表記。
- 初代三遊亭 圓朝は、三遊派の総帥、宗家。三遊派のみならず落語中興の祖として有名。敬意を込めて「大圓朝」という人もいる。現代の日本語の祖でもある。本項目で詳述。
- 2代目三遊亭 圓朝になることになっていたのは、初代三遊亭圓右。「名人圓右」の呼び声も高く、明治期から大正期に活躍した。圓朝の2代目を襲名することが決定したものの、一度も披露目をせずに病のため亡くなった。そのため「幻の2代目」とも称される。→三遊亭圓右の項目を参照のこと。
目次 |
[編集] 宗家
初代三遊亭圓朝は、三遊派の中興の祖である。その為宗家といわれる。この名跡は1900年以降、藤浦家が預かる名跡となっている。宗家当主は、映画監督・藤浦敦。著書『三遊亭円朝の遺言』(ISBN 978-4404023964)がある。また、新作落語をいくつか書いている。2007年10月に上演された歌舞伎「人情噺文七元結」では「落語三遊派宗家」という名で監修者として名を連ねた(中村勘三郎奮闘公演。新橋演舞場)。この芝居はフィルムに遺され翌2008年にシネマ歌舞伎化(映画化)もされている[1]。もちろんこの演目は大圓朝の落語を歌舞伎化したものである。
圓右の2代目圓朝襲名が不発に終わって以降、宗家を名乗るに相応しい落語家が現われない為、代々藤浦宗家はこの名をどの落語家にも名乗らせていない。(後述)
上記、宗家は圓朝のパトロンとして信頼の厚かった藤浦三周が名跡を預かったことに始まるが、その子息・藤浦富太郎の遺言で直系の絶えた今、現在は継承されていない。 もともと圓朝顕彰会として、故・6代目三遊亭圓生、林家彦六らが「圓朝忌」として法要と奉納落語をしていたのが、現在の「圓朝まつり」の原型である。富太郎亡き後は圓朝の法事は、「圓朝まつり」の際に行われ、宗家として主宰側で関わっている者はいないというのが事実である。
[編集] 初代
初代三遊亭 圓朝(さんゆうてい えんちょう)、(天保10年4月1日(1839年5月13日) - 1900年(明治33年)8月11日)は、幕末から明治期に活躍した落語家。本名は出淵 次郎吉(いずぶち じろきち)。
[編集] 概要
落語家であり、歴代の名人の中でも筆頭(もしくは別格)に巧いとされる。また、多くの落語演目を創作した(後述)。
滑稽噺(「お笑い」の分野)より、人情噺や怪談噺など、(笑いのない)真面目な、(いわば)講談に近い分野で独自の世界を築く。圓朝の噺が三遊派のスタイル(人情噺)を決定づけた。よく、「三遊派は人情噺ができないと真打にしない」ということが昔は言われたものだが、その人情噺とは圓朝自作の二作(芝浜と文七元結)のことである。
あまりの巧さに嫉妬され、師匠2代目圓生から妨害を受けた。具体的には、圓朝が演ずるであろう演目を師匠圓生らが先回りして演じ、圓朝の演ずる演目をなくしてしまうのである。たまりかねた圓朝は自作の演目(これなら他人が演ずることはできない)を口演するようになり、多数の新作落語を新たに作った。
初代談洲楼燕枝とは年齢が1歳下のライバルであった。
[編集] 圓朝による新作
圓朝による新作落語はほぼすべてが極めつきの名作といってよく、現代まで継承されている。圓朝が生きたのは江戸時代でなく明治であるが、彼の新作落語は例外的に「古典落語」に分類される。それどころでなく、古典落語の代表とされる。
人情噺では前述のとおり、「芝浜」と「文七元結」、怪談では、「牡丹燈籠」「四谷怪談」「真景累ヶ淵」「乳房榎」などを創作した。また海外文学作品の翻案は「死神 (落語)」。
[編集] 近代日本語の祖
近代の日本語の祖でもある。というのも、近代日本語の特徴の一つである言文一致体を一代で完成させたからである。当時、速記法が日本に導入された。圓朝は自作の落語演目を速記にて記録し公開することを許した。記録された文章は新聞で連載され人気を博した。これが作家二葉亭四迷に影響を与え、1887年「浮雲」を口語体(言文一致体)で書き、明治以降の日本語の文体を決定づけたのである。のみならず現代中国語の文体も決定づけた。魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も(中国語の)言文一致体で綴った。すなわち白話運動であり、ここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされたのである。
[編集] 来歴・略歴
- 1839年5月13日 初代橘屋圓太郎(初代圓橘)の息子で江戸湯島で生まれる。
- 1845年3月 橘屋小圓太の名で江戸橋の寄席「土手倉」で初高座。
- 1847年 父圓太郎と同じく2代目三遊亭圓生の元で修行する。
- 1849年 二つ目昇進。
- 1850年 歌川国芳の内弟子で画工奉公や商画奉公する。
- 1855年 圓朝を襲名し真打昇進。
- 1858年 鳴物入り道具仕立て芝居噺で旗揚げ。
- 1864年 両国垢離場の「昼席」で真打披露。
- 1872年 道具仕立て芝居噺から素噺に転向。
- 1875年 「落語睦連」の6代目桂文治と共に相談役に就任。
- 1886年1月8日 時の有力者で元勲・井上馨外務大臣などの共に身延山参詣(1886年1月8日)、北海道視察(8月4日より9月17日)に同行した。
- 1887年4月26日 井上馨邸(八窓庵茶室開き)での歌舞伎天覧時に招かれ、また井上馨の興津の別荘にも益田孝らと共に招かれている。
- 1891年6月 席亭との不和で寄席の出演を退く。(新聞紙上での速記のみに明け暮れる。)
- 1892年 病の為に廃業し、「無舌居士」と号した。
- 1897年11月 弟子の勧めで高座に復帰。
- 1899年9月 発病。
- 同年10月 木原店で演じた「牡丹燈籠」が最後の高座となる。
- 1900年8月11日 午前2時死去・病名は「進行性麻痺」と「続発性脳髄炎」。法名「三遊亭圓朝無舌居士」
墓:東京谷中さんさき坂・臨済宗国泰寺派全生庵、台東区谷中五丁目4番7号(東京都指定旧跡)
[編集] 弟子
- 四天王
- 初代橘家圓之助(圓朝の最古参の弟子、本名:中村代次郎)
- 3代目橘家圓太郎(2代目桂文楽(後の5代目桂文治)一門より移籍)
- 4代目橘家圓太郎(「ラッパの圓太郎」)
- 初代三遊亭圓遊(「ステテコの圓遊」2代目五明楼玉輔一門より移籍)
- 初代三遊亭金朝(芝居噺。後に上方に行く)
- 2代目三遊亭金朝(本名:赤田滝次郎)
- 初代三遊亭萬橘(「ヘラヘラ節の」最初は圓朝一門、その後2代目三遊亭圓橘一門に移籍)
- 三遊一朝
- 5代目司馬龍生(俗称:豊次郎)
- 6代目司馬龍生(5代目桂文治一門から2代目三升家小勝を経て移籍、最後は5代目司馬龍生一門に移籍、本名:永島勝之郎)
- 初代三遊亭圓左
- 4代目橘家圓喬
- 5代目朝寝坊むらく(司馬才次郎一門から2代目三遊亭圓生を経て移籍)
- 2代目三遊亭小圓朝
- 初代橘家圓三郎(3代目朝寝坊むらく一門より移籍、坐り踊りの名人。)
- 2代目三遊亭圓馬(竹沢釜太郎、初代柳亭左龍一門より移籍)
- 初代橘ノ圓
- 2代目三遊亭新朝
- 4代目三遊亭新朝(圓朝一門、その後2代目三遊亭圓生一門へ、再び圓朝の門に復帰)
- 三遊亭圓丸(本名:安井国太郎)
- 三遊亭ぽん太(本名:加藤勝五郎)
- 三遊亭圓鶴(三遊一朝の弟、本名:倉片順六)
- 三遊亭圓寿(圓朝一門で林朝から圓寿となる、俗に「親子」)
- 三遊亭圓寿(元三遊亭一朝、本名:諏防間定吉)
- 三遊亭圓理(初代圓馬一門の市楽から市馬後に圓朝一門で圓理、本名:坪井金四郎)
- 三遊亭圓徳
- 3代目春風亭柳朝(初代談洲楼燕枝一門、3代目春風亭柳枝一門を経て移籍)
- 三遊亭亀朝
- 三遊亭亀朝(圓朝の従兄弟で圓理から喜朝後に漢字表記を亀朝となる。)
- 三遊亭圓條(圓朝の門、後に初代三遊亭圓右へ移籍)
- 圓次郎(亭号不明、橘家と推測される、久朝から圓次郎となる。)
- 三遊亭圓麗(2代目小圓朝の父)
他
[編集] 圓朝祭・圓朝まつり
「えんちょうまつり」と称するイベントが毎年開かれている。それぞれ「圓朝祭」と「圓朝まつり」であるが、両者は無関係である。
[編集] 圓朝祭
ホール落語の興行である。有楽町で開催される(過去には渋谷・霞が関にて開催)
[編集] 東横落語会
ホール落語の代表である東横落語会は、毎年8月、圓朝にちなんだ落語興行を「圓朝祭」と題して開催した。会場は、東横落語会の他の回と同じく東横ホール(歌舞伎興行でも知られる。現在は消滅)。東横落語会の終結(1985年)とともに終了した。現在、他の会社(株式会社ロット)が独自に「渋谷東横落語会」を開催しているが、同社は特に同名のイベントを開催していない。
[編集] ジュゲムスマイルズ
東横落語会の圓朝祭が終了したのち、ジュゲムスマイルズは、独自に「圓朝祭」という落語会を開いている。同社は中央大学落語研究会OBで一貫して落語に関わってきた大野善弘の会社である。会場は2008年からよみうりホール。2007年まではイイノホールであった。2008年からは「お笑い夢のエンチョウ戦」と題する色物のイベントもともに開催する。
[編集] 圓朝まつり
谷中・全生庵で開催される。もちろん前述のとおり大圓朝の墓所である。
[編集] 谷中圓朝まつり(1か月間)
谷中圓朝まつりは、初代の命日8月11日を含む、毎年8月に、1ヶ月間にわたり開かれる。怪談噺創作の元になった幽霊画を一般に公開する。拝観料が必要である。下谷観光連盟と圓朝まつり実行委員会の共催。
[編集] 圓朝寄席
円楽一門会の落語家による落語会。師匠(前名三遊亭全生)所縁の全生庵にて行われる。後述の落語協会・奉納落語会とは全く無関係で、必ず別の日にずらして行われる(圓朝命日の8月11日近辺であることは間違いない)
[編集] 圓朝まつり(特定の1日)
[編集] 圓朝忌
2001年までは、圓朝忌という名前で、命日(8月11日)当日に法要を行っていた。この日に現役落語家による落語の奉納も行われた(前述の「圓朝寄席」とは別)。法要であるから、落語家自身(と寺)によるごく内輪の小規模なイベントであり、開催日も8月11日から動かなかった。圓朝忌は、2000年までは、落語協会だけでなく落語芸術協会と隔年交替で主催していた。落語芸術協会の財政事情の逼迫により、落語芸術協会は撤退した。2001年は落語協会の単独開催となった。
[編集] 圓朝まつり
2002年以降、落語協会は、圓朝忌を企画替えし、大勢の人が集まるイベントと変えた。サービスする相手を、仏様(大圓朝)から、大勢のファンに変えたのである。新しいイベントは(日本俳優協会の俳優祭のような)落語協会の楽しいファン感謝イベントである。俳優祭のように、落語協会所属落語家が屋台の模擬店を出す。そこで、スター落語家自身が客と直接接して、わたあめを作ったり、ビールを注いだりする。もちろんCD、本、手ぬぐいなどグッズも落語家自身が客に直接手売りする。イベント名も円朝忌から「圓朝まつり」と変えた。一般に「圓朝まつり」とは、特にこの一日のみを指す。2005年には約一万人が訪れる大イベントに成長した。開催日は命日8月11日を中心とする特定の日曜日一日とした。当然だが開催日毎年変わる。
2007年のみ、「圓朝記念・落語協会感謝祭」という名となった。なぜこの年だけ名を変えたかは内部者にもよくわからないという。
- 実行委員長
2008年は8月10日(日曜日)に開催され、大勢のファンで賑わった。
奉納落語会(前述「圓朝寄席」とは無関係)も仏様に向けてでなく、ファンに向けてのものに変わり、近年は有料となった。2008年には春風亭小朝が奉納落語会に上がる。
[編集] 次代
2代目(になるはずだった人物)は襲名実現直前に死去したため“幻の2代目”といわれたことは前述した。
以前から、藤浦宗家は春風亭小朝に三遊亭圓朝を襲名させようとしているという噂が立っていた。宗家は、自身の著書『三遊亭円朝の遺言』で小朝と対談し、あなたがこれからの落語界のリーダーになりなさいよ、と小朝本人にけしかけていたからである。2008年に、小沢昭一が公刊書で堂々と、小朝に圓朝襲名を薦めた(橘蓮二の写真集『落語十一夜』 ISBN 978-4062145671 ご丁寧に藤浦宗家を名差しして、よろしくお願いします、といっている)。その直後、泰葉は、週刊文春2008年05月22日号で、小朝に圓朝襲名の話が実際にあったこと、しかし小朝がそれを固辞したこと(および、それを小朝との離婚原因にかこつけた)を暴露した(泰葉「離婚の真相を文春だけに話します」。この記事には宗家のコメントも載っている)。
この名跡が藤浦家のものになったのは、生前、圓朝の借金の担保にしたからである。また、歌舞伎など他の伝統芸能の例から見ても、現在、この名跡を襲名する(即ち、名と宗家の地位を藤浦家から買い受ける)ためには非常に多額の金銭が必要であり、その財力がある落語家の数はごく僅かに限られる。小朝は実力面だけでなく財力面からもその条件をクリアしていたと思われるが、反面、宗家以外の各方面(席亭など)から了承をとる作業が大変に煩雑でありすぎることから、小朝は今後もこの名跡に興味を示さないのではないかという観測もある。
[編集] 関連項目
- 落語家一覧
- 文七元結
- 芝浜
- 死神
- 2代目松林伯圓(同時期に活躍した講釈師で講談中興の祖と呼ばれる。)
- 日本お笑い史
- 落語天女おゆい
- 怪談(真景累ヶ淵を原作にした2007年の映画)
- 巷説百物語(後巷説百物語で名を偽って百物語に参加する)
[編集] 外部リンク
- 円朝全集の青空文庫化が可能か著作権を検討した経過。

