フランシスコ・ボルハ

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聖フランシスコ・ボルハ。アロンソ・カノ画。1624年

聖フランシスコ・ボルハ (西: San Francisco de Borja, 1510年10月28日 - 1572年9月30日) は、スペインイエズス会士。第3代イエズス会総長。カトリック教会聖人で祝日は10月10日。象徴は帝冠を被った頭骨。地震に対する守護聖人。

生涯[編集]

フランシスコ・ボルハは、バレンシアガンディア近郊で生まれた。彼は第3代ガンディア公フアン・ボルハアラゴン王女フアナの長男だった。母フアナの父アルフォンソは、アラゴン王フェルナンド2世と愛妾アルドンサ・ルイス・デ・イボッラ・イ・アレマニの庶子であった。また、彼の父は、若死にしたフアン・ボルハの長男である事から、フランシスコはローマ教皇アレクサンデル6世の曾孫にあたる。

小さい頃から信仰深かったフランシスコは聖職者になりたいという望みを持っていたが、家族は彼を神聖ローマ皇帝カール5世の宮廷へ送り込んだ。彼はそこで頭角を現し、皇帝に同行して幾度も従軍し、1526年9月にマドリードポルトガル貴族の婦人レオノール・デ・カストロ・メロ・エ・メネゼスと結婚した。2人の間には8子が生まれた。1539年、皇后イザベラの遺体を警護して埋葬地グラナダへ向かった。彼はそこで、美しかった皇后でも命を失えば儚く崩れていく様を見て、「2度と命ある君主に仕えまい」と決めた。しかし、まだ若い貴族だった彼はカタルーニャ副王に命じられ、よく同地を治めた。

父が亡くなると、フランシスコはガンディア公位を継承したが妻子と共に故郷へ隠棲し、祈りの毎日を過ごすようになった。そこで、スペインを訪れていたピエール・ファーヴルに出会い、イエズス会の精神に大きな魅力を感じた。

1546年、妻レオノールが死ぬと、フランシスコは世俗の生活を捨てて修道者となる事を決意し、イエズス会への入会を願った。彼はきちんと身辺整理をし、長子カルロスに自分が持っていた称号をすべて譲った。彼は高貴な一族の出身で、有能であり、ヨーロッパ中にその名が知れ渡っていた為、枢機卿の授与が打診されたがこれを拒み、無名の巡回説教師として生きたいと望んだ。だが、やはりもって生まれたリーダーとしての資質は隠せず、周りの人々は彼に指導的立場に立つよう求めた。1554年、フランシスコはスペインでの総長代理となり、1565年には2代総長ディエゴ・ライネスの後を継いでイエズス会総長となった。

フランシスコの総長としての目覚しい働きは、歴史家らをして「イグナチオ・デ・ロヨラ以降で最高の総長」と言わしめる事になった。彼はローマ学院 (Collegium Romanum) を創設したが、これが現在のグレゴリアン大学となった。ここで多くの宣教師が養成され、世界各地へと赴いた。さらに彼は歴代のローマ教皇や王達のアドバイザーとなり、修道会全体を強力に指導した。これほどの地位にあっても、彼個人は慎ましい生活を送り、生前から聖人の誉れが高かった。

1572年10月1日にローマで亡くなり、1671年列聖された。

参考文献[編集]

関連項目[編集]