ドイツによるナチス・ドイツを原因とする賠償

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ドイツによるナチス・ドイツを原因とする賠償(どいつによるなちす・どいつをげんいんとするばいしょう)の項目では、第二次世界大戦の結果によってドイツに発生した戦争賠償および、ナチス・ドイツの迫害を原因として発生した賠償・補償について記述する。

戦争中の協議[編集]

対独賠償請求問題は戦争中から連合国間の懸案事項であった。1944年の第2回ケベック会談ではモーゲンソー・プランによる徹底的な工業設備徴収で賠償を行う案が検討された。1945年2月のヤルタ会談アメリカイギリスソビエト連邦の三大国が対独賠償請求で合意した。しかし第一次世界大戦の賠償で発生したトランスファー(振替)問題、すなわちドイツが賠償支払いを実行するための外貨調達が困難であった事例を回避するためと、ドイツの戦争能力を弱体化するために、賠償は通貨ではなく工業設備、資源、工業製品、労働者の徴用などの現物で行われることが定められた[1]

占領期[編集]

1945年8月2日に締結されたポツダム協定では、ドイツの賠償について3部で以下のように明記された。

  • ソ連に対する賠償は、ソ連の占領地域から徴収することで行われる。
  • ソ連の徴収分からポーランドに対する賠償も行われる。
  • アメリカ・イギリスを含む他の請求国は西側占領地域からの徴収で賠償を行う。徴収量は6ヶ月以内に定める。
  • ソ連は西側占領地域からの徴収を分配されなければならない。西側占領地域の使用可能な産業資本設備のうち、平時に必要ないものは徴収される。このうち10%はソ連が受け取り、さらに15%は食糧・石炭・金属等の物資と交換でソ連が入手できる。
  • アメリカ・イギリスはブルガリアフィンランドルーマニア・東オーストリアソ連占領地域の東部ドイツに存在するドイツ資産と、その地域に存在する企業への請求権を放棄する。ソ連はそれ以外の地域への請求権を放棄する。

この協定でソ連は東欧と占領地域からドイツ資産を排他的に徴収できる権利を手に入れ、イギリスとアメリカ、フランスはその占領地域と中立国にあるドイツ資産から西側連合国の賠償を受け取ることになった[1]。ソ連とポーランドは8月16日に賠償受け渡しに関する協定を締結している。

1946年1月14日のパリ賠償協定では、ソ連とポーランドを除く賠償配分を取り扱う連合国巻賠償機関(Inter Allied Reparation Agency)の設立が定められるとともに、賠償の徴収機関が1947年から1949年までの間に定められた。また、ソ連への賠償引渡しも、ソ連の徴収が合意限度を超えているとして打ち切られた[2]。1949年、ドイツには二つの分断国家、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、正当な継承国が決定されない状況下のため賠償問題の解決は統一後まで一時棚上げされることになった[3]

西ドイツによる賠償[編集]

ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とアメリカ・イギリス・フランスは1952年のボン協定と1954年のパリ協定の6章で平和条約が締結されるまでの間賠償問題を一時棚上げすることに合意した[4]。また1953年のドイツ債務協定で、第一次世界大戦の賠償のために発行したドーズ外債ヤング外債の利払い継承を宣言するとともに、ドイツ統一まで被占領国・国民の賠償権を延期することが定められたが、ソ連・チェコスロバキアポーランドは署名しなかった[4]

西ドイツの経済復興は被占領国国民の間で賠償請求にまつわる議論を呼び起こした。1959年から1964年の間に12の国家と、戦争中の相手国国民請求に対する補償の一括支払いを行う条約を締結した。また、1952年9月10日にはイスラエルと1933年のナチ党の権力掌握後に発生したユダヤ人被害者に対して補償を行う条約(en:Reparations Agreement between Israel and West Germany)を締結した。同日にはユダヤ人対独物的請求会議en:Claims Conference)とハーグ議定書を調印し、個人的請求についての合意を行った[5]

1956年6月26日には人種・宗教・政治的信条に基づくナチスの迫害による被害者の請求への補償を定めた連邦補償法de:Bundesentschädigungsgesetz)が定められた。ただしこの適用範囲は西ドイツが外交関係を持つ国に限られたため、1961年から1976年の間にユーゴスラビア、チェコスロバキア、ハンガリー、ポーランドとの間で一括支払協定が結ばれたが、これらの国は国民のための賠償請求権を将来にわたって放棄した[5]

西ドイツによる賠償は、賠償・補償請求は被害者の国籍国によって行われるものであり、個人請求は国内制定法によって定められたものに限られた。これは個人は国際法に基づく請求の権利を持たず、また国内制定法の制定はあくまで道徳的な義務の遂行であり、法的義務ではないという見解によるものであった。この考えは国際法違反を理由とした個人請求を退けた判決などに見られ、ドイツ統一後でも踏襲されている[6]

東ドイツによる賠償[編集]

ドイツ民主共和国(東ドイツ)はドイツ帝国ヴァイマル共和政とナチス・ドイツ、すなわちドイツ国の継承国ではない国家であるとして一切の賠償・補償要求に応じなかった[3]。この立場をソ連も承認し、1953年8月22日の協定で1954年1月1日をもって「ドイツ」に対する賠償請求権をすべて放棄することを宣言した。なお、この協定にはポーランドの「同意」もあり、1970年のワルシャワ条約でポーランドの対独賠償放棄が再確認された[5]

統一後の賠償[編集]

1990年9月12日のドイツ最終規定条約により、ドイツの戦争状態は正式に終了した。しかしこの条約には賠償について言及された点は存在していない。このため統一後のドイツ連邦共和国はドイツの戦後問題が最終的に解決されたとしており、法的な立場からの賠償を認めていない[7]。ただし、道義的な立場としての賠償は行っており、1991年にはポーランドおよびソ連の継承国ロシア連邦ウクライナベラルーシの間でナチス被害者のための金銭引渡し条約を締結し、その後にはバルト諸国チェコ、アメリカとの間でも同様の条約を結んでいる[8]

ドイツ統一後、東側社会に住む人々にほとんど補償が行われていないことが社会問題化しはじめた。またアメリカでは、外国人不法行為請求権法に基づき、ナチス時代のドイツ企業に対する補償要求が高まった。アメリカでの相次ぐ裁判とそれに伴う悪評に疲弊したドイツ企業は、一定の金額を支払うことで訴訟リスクを回避する道を求めるようになった[9]。2000年7月17日にアメリカとドイツは協定を結び、ドイツ企業に対する訴訟を取り扱う財団設立で合意した。この協定には多数の訴訟代理人が同意し、訴訟権却下に応じた。8月12日に『財団「記憶・責任・未来」』(de:Stiftung „Erinnerung, Verantwortung und Zukunft“)の創設が国会決議され、以降の支払いはドイツおよびドイツ企業の道義的・政治的責任に基づいて拠出された100億ドイツ・マルクから支払われることとなった。財団は7つの協力組織の請求に基づいて協力組織に金銭を支払い、2001年末までに請求を行った者に対し、協力組織が支払うという形式で処理を行っているが、これはあくまでも道義的・政治的責任認めつつも法的義務を認めておらず、公式には賠償とはされていない[10]

脚注[編集]

  1. ^ a b ホフマン、299p
  2. ^ ホフマン、299-300p
  3. ^ a b ホフマン、300p
  4. ^ a b ホフマン、301p
  5. ^ a b c ホフマン、302p
  6. ^ ホフマン、303-304p
  7. ^ ホフマン、304-305p
  8. ^ ホフマン、304p
  9. ^ ホフマン、305p
  10. ^ ホフマン、306p

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

関連項目[編集]