お市の方
おいちのかた お市の方 | |
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浅井長政夫人像(高野山持明院所蔵) | |
生誕 |
[通説では]於市、市 天文16年[注釈 1](1547年) |
死没 |
天正11年4月24日(1583年6月14日)(満36歳没) 越前北ノ庄城 |
死因 | 自害 |
墓地 | 西光寺(福井県福井市) |
別名 | 市姫、小谷の方、小谷殿、秀子 |
宗派 | 天台宗 |
配偶者 | 浅井長政、柴田勝家 |
子供 | 茶々、初、江 |
親 | [通説では]織田信秀、[通説では]土田御前 |
親戚 | 織田信長、信行、秀孝、お犬の方、ほか異母兄弟 |
お市の方(おいちのかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されている[1]。
戦国大名・織田信長の妹(または従妹[注釈 2])で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ[3]、母は土田御前とされている。信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉という[注釈 3]。初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。
子に茶々(豊臣秀吉側室)[注釈 4]、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。また、今上天皇の先祖に当たる人物でもある[注釈 5]。
生涯
前半生についてはほとんど記録がなく不明である[注釈 6]。
婚姻時期については諸説あるが、通説では、永禄10年(1567年)9月[5]または永禄11年(1568年)早々[6]の1月から3月[7]ごろ[注釈 7]、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされる[注釈 8][注釈 6]。 この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている[注釈 9]。
その後、長政との間に3人の娘を儲ける。この時期長政には少なくとも2人の息子が居たことが知られているが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられている[注釈 10]。
元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしい。永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思える[10]。一方で、末娘の江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、延宝7年(1679年)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したとある[11]。
長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。市は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝[注釈 11]によって救出され織田家に引き取られる。その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを過ごしたという。この時の信長の市親子に対する待遇は大変厚く、市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。信包も市や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。
また、近年の研究成果によると、市と三姉妹は信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられた可能性が高いとされており[注釈 12]、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は信長の岐阜城へ転居することになる[13]。
信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、清洲会議で承諾を得て、柴田勝家と再婚した。従来の通説では、神戸信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状に「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、勝家のお市への意向を汲んで清州会議の沙汰への勝家の不満を抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたとの説もある[注釈 13]。婚儀は本能寺の変の4か月後の8月20日に、信孝の居城岐阜城において行われた[5]。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。
天正11年(1583年)、勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、夫と共に越前北ノ庄城内で自害した[注釈 14](北ノ庄城の戦い)。満36歳で自殺する。
辞世は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ郭公かな」[15]
墓所は西光寺(福井県福井市)。菩提寺は自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)。戒名は自性院微妙浄法大姉、東禅院殿直伝貞正大姉(自性院照月宗貞とも伝わる)。また、小谷城跡(滋賀県長浜市)のある小谷山山頂に旧跡がある。
人物
- 小谷寺には、市の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられる。
- 長女の淀殿は父・長政の十七回忌、母・市の七回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせた[16]。この肖像画は(高野山 持明院)に伝えられており、戦国末から安土桃山時代にかけての貴婦人の正装の典型的なものである。下着を3枚かさね着にし、肩と裾だけに片身替わりの模様のある小袖を着て、その上に白綾の小袖をかさね、一番上の美しい模様の着物を肌ぬぎにしている。平安時代の宮廷の女官が着た十二衣のかさね着などと比べると、同じ正装でも著しく簡略化され、開放的になってきたことがわかる[17]。
- 『朝倉家記』によると金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたという広く知られた逸話があるが、この逸話は後世の創作と言われている[18]。もっともその頃の風習から、大名間の政略結婚において、女性は実家から婚家へと送り込まれた外交官・間諜としての側面があったため、市は、両家をとりまく状況の変化を情報として得て、それを実家に伝達をする役割を果たしていたことが窺える[19]。
- 『溪心院文』によれば、37歳の時点で、実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの体であった[20]。
- 3人の娘たちの行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際には庇護を受ける羽柴秀吉に直筆の書状を送り、3人の身柄の保障を求めた(『溪心院文』)[21]。また、血統の存続を考えての行動でもあった。なお、徳川家に嫁ぎ多くの子を成した江(崇源院)により、その血筋は現在に至るまで続いている(崇源院#系譜参照)。
伝説
三重県阿山郡阿山町下友田・浄光寺の稲増家の墓所に浅井長政の墓碑がある。稲増家の始祖治朗郎左衛門は浅井家の重臣であったが、浅井家滅亡ののち、「日比」、さらに「稲増」と苗字を改めて、享保年間に入って、伊勢・伊賀を支配する藤堂家に仕え、伊賀忍術の皆伝を受けたという。現在地には、今も江戸時代以来の稲増屋敷が残されているが、同家の土蔵にお市の方の「のど仏」が納められていると伝えられている[22]。
系譜
徳川家光の系譜 |
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明正天皇の系譜 |
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お市の方を主題とする作品
脚注
注釈
- ^ 満36歳没とだけ伝えられており、生年は没年から逆算したものである。後述のように生年には異説がある。
- ^ 市は通説では信長の妹であるが、江戸時代の『織田系図』に信長の従兄弟・織田広良(與康)の娘と記され、『以貴小伝』では「いとこにておはせしを妹と披露して長政卿におくられしにや」と記述されるなど従妹[2]とするものがあり、信長の叔父・織田信光の娘との説もある。
- ^ 信包の生母を土田御前とする場合はこれに信包も加わる。また、信長や信包の市に対する待遇が姉妹の中では大変厚かったことから、信長・信包の同腹の妹であるという説もある。
- ^ 長女の茶々(淀殿)は通説では浅井長政との娘だが、『浅井氏家譜大成』を根拠として、茶々は連れ子という説があり、当時では晩婚であったために長政以外の男性に嫁いだ可能性がある。
- ^ 明正天皇は独身で子がなかった。しかし、三女・江の娘・豊臣完子は九条幸家に嫁いで九条道房を生み、その子孫が大正天皇皇后・節子で昭和天皇の母であるため、今上天皇と血が繋がっている。
- ^ a b 市の年齢は天文16年出生説に従うと20代となり、戦国期大名家中における女性の初婚年齢は平均13〜14歳で初婚としては遅く、市の生年が誤りであるか初婚でない可能性が指摘される他、市と長政の婚姻を永禄4年とする説も提唱されている[4]。
- ^ 宮島敬一は永禄10・11年説はないとしたうえで、婚姻は永禄2年6月以降遅くとも永禄6年を下らない時期とする[8]。
- ^ 江戸時代前期の寛文の末に書かれた軍談物『浅井三代記』では、兄・信長の「娘分」として永禄7年(1564年)に近江国浅井長政に嫁いだとされる。
- ^ 奥野論文で存在が指摘された永禄8年12月に出された和田惟政から三雲定持・成持父子に充てられた書状(「福田寺文書」)の中に六角義賢が惟政に信長と長政の縁組の斡旋を指示したとする記述がある。当時、和田は足利義昭の上洛のために信長との交渉にあたっており、六角氏もこの時点では義昭方であった(後に離反する)[9]。
- ^ 『浅井氏家譜大成』によると、長男の万福丸は長政の先妻の子。次男の万寿丸は実母不明だが側室の子とされる。
- ^ 信長によって結婚の際に織田家から付けられた家臣。
- ^ 『渓心院文』[12]
- ^ 『南行雑録』所収堀秀政宛て天正10年10月6日勝家書状「覚書」[14]
- ^ 勝家と夫婦であった期間は6か月ほどに過ぎない。
出典
- ^ 足立尚計著『風の俤 福井の客人たち』能登印刷出版部 2001年8月 ISBN 4-89010-385-6
- ^ 西ヶ谷 2000, p. 246.
- ^ 神田 2008, p. 97.
- ^ 長浜市長浜城歴史博物館, 太田浩司「北近江の戦国史」.
- ^ a b 西ヶ谷 2000, p. 247
- ^ 奥野高廣「織田信長と浅井長政との握手」『日本歴史』248号、1969年。
- ^ 宮本 1986.
- ^ 宮島敬一『浅井氏三代』吉川弘文館、2008年、177頁。
- ^ 久保尚文「和田惟政関係文書について」『京都市歴史資料館紀要』創刊号、1984年。/所収:久野雅司 編著「足利義昭」、戒光祥出版、2015年、ISBN 978-4-86403-162-2。
- ^ 神田 2008, pp. 104–105.
- ^ 永田恭教「江と信長-知られざる前半生-」『歴史読本』56巻7号、2011年。
- ^ 宮本 2010, pp. 66–74.
- ^ 宮本 2010, pp. 74–75.
- ^ 高柳光寿『戦史ドキュメント 賤ヶ岳の戦い』〈学研M文庫〉2001年、25-26、226-227頁頁。(原本 春秋社 1978年)
- ^ 桑田 1972, p. 15.
- ^ 桑田忠親『淀君』吉川弘文館、1958年、5-6頁。
- ^ 桑田 1972, p. 169.
- ^ 神田 2008, p. 106.
- ^ 神田 2008, p. 107.
- ^ 宮本 2010, pp. 93–94.
- ^ 宮本 2010, pp. 90–92.
- ^ 北川 2008, pp. 197–198, 「それからのお市と娘たち」.
参考文献
- 桑田忠親『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年。
- 宮本義己「信長の婚姻大作戦」『歴史読本』31巻16号、1986年。
- 宮本義己『誰も知らなかった江』毎日コミュニケーションズ、2010年。
- 西ヶ谷恭弘『考証織田信長事典』東京堂出版、2000年、246-247頁。ISBN 4490105509。
- 長浜市長浜城歴史博物館 編『戦国大名浅井氏と北近江-浅井三代から三姉妹へ-』サンライズ出版、2008年。
- 神田裕理; 北川央 著「お市との婚姻」「それからのお市と娘たち」、小和田哲男 編『浅井長政のすべて』新人物往来社、2008年。ISBN 9784404035066。