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対して[[琉球大学]]理学部の中村衛は、[[石垣島]]と[[多良間島]]の中間に位置する[[断層#正断層|正断層]](仮称:石垣島東断層)の活動により地震および津波が起こったと推測し<ref name="1771yaeyama"/>、シミュレーションの結果から、マグニチュードを7.5と見積もっていた。しかし、更なるシミュレーションの結果、[[琉球海溝]]内の断層の活動により、深さ6km、''M''8程度の[[津波地震]]が起こった可能性が高いとしている<ref>[http://seis.sci.u-ryukyu.ac.jp/hazard/EQ/1771yaeyama2/1771tsunami_2.html 1771年明和津波(八重山地震津波)はモーメントマグニチュード8の海溝型巨大地震であった] 琉球大学理学部 中村衛研究室</ref>。阿部勝征(1999)は、津波マグニチュード''M''t8.5と推定している<ref name="Abe1999">[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/52/3/52_3_369/_article/-char/ja/ 阿部勝征(1999)] 阿部勝征(1999): 遡上高を用いた津波マグニチュードMtの決定 -歴史津波への応用-, 地震, 第2輯, 第52巻, 369-377.{{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/52.369}}</ref><ref name="Abe">阿部勝征 「津波地震とは何か」『月刊地球』Vol.25, No.5, p340</ref>。中村衛(2014)はMw8.7程度のプレート境界地震とするのが妥当としているが、分岐断層や海底地すべりの可能性も考慮すべきだろうとしている<ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2014/session/PDF/S-SS34/SSS34-P27.pdf 中村衛(2014)]}} 中村衛(2014): 1771年八重山津波の断層モデルの再検討, 日本地球惑星科学連合2014年大会講演要旨,SSS34-P27.</ref>。
対して[[琉球大学]]理学部の中村衛は、[[石垣島]]と[[多良間島]]の中間に位置する[[断層#正断層|正断層]](仮称:石垣島東断層)の活動により地震および津波が起こったと推測し<ref name="1771yaeyama"/>、シミュレーションの結果から、マグニチュードを7.5と見積もっていた。しかし、更なるシミュレーションの結果、[[琉球海溝]]内の断層の活動により、深さ6km、''M''8程度の[[津波地震]]が起こった可能性が高いとしている<ref>[http://seis.sci.u-ryukyu.ac.jp/hazard/EQ/1771yaeyama2/1771tsunami_2.html 1771年明和津波(八重山地震津波)はモーメントマグニチュード8の海溝型巨大地震であった] 琉球大学理学部 中村衛研究室</ref>。阿部勝征(1999)は、津波マグニチュード''M''t8.5と推定している<ref name="Abe1999">[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/52/3/52_3_369/_article/-char/ja/ 阿部勝征(1999)] 阿部勝征(1999): 遡上高を用いた津波マグニチュードMtの決定 -歴史津波への応用-, 地震, 第2輯, 第52巻, 369-377.{{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/52.369}}</ref><ref name="Abe">阿部勝征 「津波地震とは何か」『月刊地球』Vol.25, No.5, p340</ref>。中村衛(2014)はMw8.7程度のプレート境界地震とするのが妥当としているが、分岐断層や海底地すべりの可能性も考慮すべきだろうとしている<ref>{{PDFlink|[http://www2.jpgu.org/meeting/2014/session/PDF/S-SS34/SSS34-P27.pdf 中村衛(2014)]}} 中村衛(2014): 1771年八重山津波の断層モデルの再検討, 日本地球惑星科学連合2014年大会講演要旨,SSS34-P27.</ref>。

東北大学遠藤和久准教授らが奄美大島から南西諸島へ至る10島で2,900個のサンゴを放射性炭素年代測定法で調べた結果、浜辺や陸地にあがったのは1,000個で、石垣島付近の2島に限られ、そより北見されかった<ref>[http://geology.gsapubs.org/content/early/2013/09/06/G34823.1.abstract Localized tsunamigenic earthquakes inferred from preferential distribution of coastal boulders on the Ryukyu Islands, Japan] Geology, September 6, 2013, {{doi|10.1130/G34823.1}}</ref>。地震による津波の範囲が限定的であったことが明確となり、過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けられた<ref>「南西諸島で過去2300年 全域襲う津波発生せず」『読売新聞』2013年9月22日15面</ref>。


=== 波源域 ===
=== 波源域 ===
松本(1992-1993)らは<ref>松本剛、木村政昭:[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/45/4/45_4_417/_article/-char/ja/ 1771年八重山地震津波発生域における精密地形調査と津波発生のメカニズムに関する一考察] 地震 第2輯 Vol.45 (1992-1993) No.4 P417-426</ref>海底音響探査により海底地すべりを発生させた可能性が高い地形を発見し、北緯23度55分 - 24度00分、東経124度10分 - 124度20分付近と北緯23度40分、東経124度30分付近の2箇所が波源域であった可能性が高いとしている。
松本(1992-1993)らは<ref>松本剛、木村政昭:[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/45/4/45_4_417/_article/-char/ja/ 1771年八重山地震津波発生域における精密地形調査と津波発生のメカニズムに関する一考察] 地震 第2輯 Vol.45 (1992-1993) No.4 P417-426</ref>海底音響探査により海底地すべりを発生させた可能性が高い地形を発見し、北緯23度55分 - 24度00分、東経124度10分 - 124度20分付近と北緯23度40分、東経124度30分付近の2箇所が波源域であった可能性が高いとしている。

== 名称 ==
[[1771年]]は[[琉球暦]]が使われており[[乾隆]](けんりゅう)<ref group="注">当時は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)が、沖縄は第二尚氏王統第14代[[尚穆王]]が治める王政であり、[[清]]の高宗[[乾隆帝]]の[[元号]]を用いていた。</ref> 36年卯歳だったため、従来は'''乾隆大津波'''又は'''八重山大津波'''と呼ばれていた。しかし、当時([[1609年]]〜[[1879年]])は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していたため、牧野清が[[1968]]に著した八重山の明和大津波<ref name=makino1968 />で日本暦で呼んでから明和の大津波と呼ばれるようになった<ref name="bo-sai" />。


== 被害 ==
== 被害 ==
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{{see|津波石}}
{{see|津波石}}


== 名称 ==
== 復興 ==
琉球王朝は被害地域の復興のため、被害の大きかった地域に、他の島から入植させる政策を取った。最も被害が大きかった白保村には[[波照間島]]から418人、隣接する宮良村には[[小浜島]]から320人の島民が移り住んだ。
[[1771年]]は[[琉球暦]]が使われており[[乾隆]](けんりゅう)<ref group="注">当時は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)が、沖縄は第二尚氏王統第14代[[尚穆王]]が治める王政であり、中国[[清]]の高宗[[乾隆帝]]の[[元号]]を用いていた。</ref> 36年卯歳だったため乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていた。当時は[[薩摩藩]](島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)。牧野清昭和43(1968年)に著した八重山の明和大津波<ref name=makino1968 />で日本暦に直されてから明和の大津波と呼ばれるようになった<ref name="bo-sai" />。

もともと違う[[方言]]を話していた地域から移り住んだため、これらの地区の方言、風習、芸能には[[21世紀]]になっても石垣市街の中心部とは違いが見られる。また、移住者は自分たちのために[[御嶽 (沖縄)|御嶽]]と呼ばれる祈祷の場を新たに設けたため、村内に複数の御嶽が存在する。


== 伝説 ==
== 伝説 ==
[[石垣島]]の[[白保]]村では、この大地震に関する伝説がある。ある日白保の漁師達が漁で[[人魚]]を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。村の中ではこの情報が確かなものか議論するが、結局信じる人々は[[於茂登岳]]に避難し、信じない人々は村に残るという決断を下す。そして津波は起こり、村は津波に飲み込まれてしまう。生き残った人々で[[白保村]]を再興、現在に至ると伝えられる。
[[石垣島]]の[[白保]]村では、この大地震に関する伝説がある。ある日白保の漁師達が漁で[[人魚]]を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。村の中ではこの情報が確かなものか議論するが、結局信じる人々は[[於茂登岳]]に避難し、信じない人々は村に残るという決断を下す。そして津波は起こり、村は津波に飲み込まれてしまう。生き残った人々で白保村を再興、現在に至ると伝えられる。

下地島の[[通り池]]にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている([[通り池#伝説]]参照)。


[[宮古列島]][[下地島]]の[[通り池]]にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている([[通り池#伝説]]参照)。
== 歴史 ==
奄美大島から南西諸島へ至る10島で2,900個のサンゴを放射性炭素年代測定法で調べた結果、浜辺や陸地にあがったのは1,000個で、石垣島付近の2島に限られていた。過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けらた<ref>「南西諸島過去2300年 全域襲う津波生せず」遠藤和久東北大学准教授ど。読売新聞2013年9月22日15面</ref><ref>[http://geology.gsapubs.org/content/early/2013/09/06/G34823.1.abstract Localized tsunamigenic earthquakes inferred from preferential distribution of coastal boulders on the Ryukyu Islands, Japan] Geology, September 6, 2013, {{doi|10.1130/G34823.1}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2016年11月17日 (木) 10:56時点における版

下地島帯岩。八重山地震の津波で打ち上げられたとされる。
伊良部島・下地島の佐和田の浜。点在する巨岩は八重山地震の津波で運ばれたとされる。

八重山地震(やえやまじしん)とは1771年4月24日明和8年3月10日)午前8時頃に発生した地震大津波。推定マグニチュード7.4-8.7。津波により先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害をうけた。そのため、元号を取って明和の大津波ともよばれる。

概要

震源八重山列島近海、深さは不明。地震の規模をしめすマグニチュードは7.4とされていたが[1]、その推定の根拠は不明な点が多い[2]。これは河角廣(1951)が規模MK = 5.1を推定し、マグニチュードに換算したものであるが、河角は震央位置を示していない[3]

フィリピン海プレートユーラシアプレートの下に沈み込むために生ずる、歪みがもとで発生した海溝型地震と考えられている。これほどの津波が起きた原因については、海底で地すべりが起こったという説が最も有力である。しかし海底調査も行われたが、地すべりの地点は現在でも特定されていない。

対して琉球大学理学部の中村衛は、石垣島多良間島の中間に位置する正断層(仮称:石垣島東断層)の活動により地震および津波が起こったと推測し[2]、シミュレーションの結果から、マグニチュードを7.5と見積もっていた。しかし、更なるシミュレーションの結果、琉球海溝内の断層の活動により、深さ6km、M8程度の津波地震が起こった可能性が高いとしている[4]。阿部勝征(1999)は、津波マグニチュードMt8.5と推定している[5][6]。中村衛(2014)はMw8.7程度のプレート境界地震とするのが妥当としているが、分岐断層や海底地すべりの可能性も考慮すべきだろうとしている[7]

東北大学遠藤和久准教授らが奄美大島から南西諸島へ至る10島で2,900個のサンゴを放射性炭素年代測定法で調べた結果、浜辺や陸地にあがったのは1,000個で、石垣島付近の2島に限られ、それより北では発見されなかった[8]。地震による津波の範囲が限定的であったことが明確となり、過去2,400年間で9回津波が来襲したという別の調査の結果が裏付けられた[9]

波源域

松本(1992-1993)らは[10]海底音響探査により海底地すべりを発生させた可能性が高い地形を発見し、北緯23度55分 - 24度00分、東経124度10分 - 124度20分付近と北緯23度40分、東経124度30分付近の2箇所が波源域であった可能性が高いとしている。

名称

1771年琉球暦が使われており乾隆(けんりゅう)[注 1] 36年卯歳だったため、従来は乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていた。しかし、当時(1609年1879年)は薩摩藩(島津藩)に服属していたため、牧野清が1968年に著した『八重山の明和大津波』[11]で日本暦で呼んでから明和の大津波と呼ばれるようになった[12]

被害

明和大津波遭難者慰霊之塔(石垣島宮良)
ファイル:01碑文IMG 3334.jpg
明和大津波遭難者慰霊之塔 碑文
ファイル:01災害関連諸記録抜粋IMG 3335.jpg
明和大津波災害関連諸記録抜粋

地震動

石垣島における震度は4程度と推定され、地震動による被害はなかったとされている。地震動の記録としては『琉球旧海主日記』に「本国及久米、慶良間島地震アリ、宮古島及八重山島ニテ又地震アリテ、海浪騰湧シ、土地人民ニ損害多シ」とあり、石垣島の状況を記した岩崎卓爾著『ひるぎの一葉』には「朝五ツ時頃、地ヤヤ強ク震フヤ海潮遠ク退キ」とある[13]

地域 推定震度[14]
琉球 沖縄(e), 慶良間島(e), 久米島(e), 宮古島(e), 石垣島(S), 与那国島(e)
S: 強地震(≧4),   E: 大地震(≧4),   e: 地震(≦3)

津波

震害はなかったが、地震により最大遡上高30m程度[15]の津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約12,000人・家屋流失2,000戸以上という惨事になった。石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、婦女、小児がこれを捕えているところに、しばらくして東方洋中に二条の暗雲が立ち込め、砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』[16][17]

八重山では死者9400人あまり、生存者18607人で、14の村が流され、住民の3分の1が死亡している[18]。耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷。飢饉疫病などにより明治時代初頭の人口は地震前の1/3程度にまで減少した。津波発生の翌年六月初ごろより、疫癘の流行が白保村から始まり、環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、古老らによって「イキリ」と伝承されているが、これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)[17]

石垣島における津波の最大遡上高は、『大波之時各村之形行書』は宮良村で「二十八丈二尺」85.4m に達したと記録している[11]。また、牧野清(1968)は津波が石垣島の宮良湾から名蔵湾へ縦断したという話があるとし、これが85mの遡上高を示唆する言い伝えとされることがあるが、古文書記録には存在せず記録を整理した牧野の著書によるものである[15]。なお、計測方法は「戸高」と呼ばれる家の戸板をスケールとして溯上高の測量を行ったと考えられる方法であり精度誤差が大きい事と、遡上高85mを記録した場所より低い標高の井戸が被害を受けていないことから85.4mの遡上高は否定され、日本史上最高の遡上高とするのは不適切である[15]

GPSによる測量や数値計算の結果などから、遡上高の最大は石垣島南東部で30m程度と推定されている[15][19]多良間島の津波の遡上高は18メートル程度と推定されている[20]。また、石垣島における津波石の分布と年代調査を行った加藤祐三(1987)[21]は、遡上高を25m程度としている。

宮古島北西にある下地島など地域の島の高台には津波で打ち上げられたと伝えられている帯岩などの巨石(津波石)が残る。島が一つ津波に飲み込まれて消えたという伝承があるが真偽は不明である。

津波の被害状況
地域 推定波高・遡上高
古文書の記録『大波之時各村之形行書』死者 / 流家 / 遡上高 メートル換算[12] 河名(2000)[2][22][23]
大川村 現・石垣市 大波の時左の通引崩 / 男女四百十二人/家数百七十四軒 / 潮上り戸高三丈四寸 9.2m 9m
石垣村 現・石垣市 男女三百十一人 / 家数四十八軒 / 潮上り戸高三丈四寸 9.2m 9m
新川村 現・石垣市 男女二百十三人 / 家数百三十九軒 / 潮上り戸高二丈七尺 8.2m 8m
登野城村 現・石垣市 男女六百二十四人 / 家数百八十四軒 / 潮上りとたけ四丈三寸 12.2m 12m
平得村 現・石垣市 男女五百六十人 / 家数百七十八軒 / 潮上り戸高八丈六尺 26.0m 12m
真栄里村 現・石垣市 男女九百八人 / 家数百七十六軒 / 潮上りとたけ六丈四尺 19.4m <12m
大浜村 現・石垣市 男女千二百二十七人〔ママ〕千二百八十七人 / 家数二百十軒 / 潮上りとたけ十四丈五尺八寸 44.2m 30m/20m
宮良村 現・石垣市 男女千五十人 / 家数百四十四九軒 / 潮上り戸高二十八丈二尺 85.4m
白保村 現・石垣市 男女千五百四十六人 / 家数二百三十四軒 / 潮上り戸高十九丈八尺 60.0m 30m
桃里村 現・石垣市 潮上りとたけ三丈二尺 9.7m 25m
仲興銘村 現・石垣市 男女二百八十三人 / 家数五十二軒 / 潮上りとたけ三丈五尺四寸 10.7m
嘉良嵩 現・石垣市 潮上りとたけ十三丈一尺五寸 39.8m
野原 現・石垣市 潮上りとたけ十五丈四尺 46.7m
伊原間村 現・石垣市 男女六百二十五人 / 家数九十軒 / 潮上りとたけ十丈八尺 32.7m 33m
玉取崎 現・石垣市 潮上りとたけ十丈六尺 32.1m
安良村 現・石垣市 男女四百六十一人 / 家数百八十四軒 / 潮上りとたけ十八丈六八尺三寸 56.4m
平久保村 現・石垣市 男女二十五人 / 家数十五軒 4m
野底村 現・石垣市 男女二十四人
浮海村 現・石垣市 男女二十三人
川平村 現・石垣市 男女三十二人
崎枝村 現・石垣市 男女五人
屋良部村 現・石垣市 潮上りとたけ一丈九尺 5.8m
玉取崎 現・石垣市 潮上りとたけ十丈六尺 32.1m
名蔵村 現・石垣市 男女五十人
富崎村 現・石垣市 潮上り戸高二丈九尺八寸 9.0m
竹富村 現・竹富町 男女二十七人
黒島 現・竹富町 男女二百九十三人、但、居村並公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死 / 家数八十五軒 5m
新城村 現・竹富町 男女二百五人、但、居村並公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死 / 家数百八十四軒
波照間村 現・竹富町 男女十四人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
南風見村 現・竹富町西表島 男女十一人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死 / 家数七軒 5m
崎山村 現・竹富町 男女二十三人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死 / 家数二軒
西表村 現・竹富町 男女六十二人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
上原村 現・竹富町 男女三十六人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
鳩間村 現・竹富町 男女二人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
古見村 現・竹富町 男女百五十一人、但、公事並私用ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
仲間村 現・竹富町 男女五人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
小浜村 現・竹富町 男女九人、但、公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死
与那国嶋 現・与那国町 人命ノ怪我無之村所並御嶽井数田畑諸作無別条候
多良間島 現・多良間村 大波揚は多良間島も宮古と同様『宮古島在番記』 15m
宮古島 現・宮古島市 宮国、新里、砂川、友利四ヶ村人家引き流される『宮古島在番記』 10m

また房総半島では、『諸色覚日記』に安房館山(現・館山市)の記録として「三月十日昼四ツ時房州、布良相浜の海辺は、不思議なことに度々汐の差引あり。船を残らず畑の際まで引揚げた。」とあり[17]土佐では『世用日記一』に同日、室津に浪入りがあったと記されている[24]

竹富島は、サンゴ礁に囲まれており津波の被害は受けなかったが、石垣島に行っていた竹富島民が石垣島で被災した[25]

津波石

宮古島の南東部海岸のマイバーバマには1771年の津波のほか、過去の津波によって運ばれた複数の津波石が存在している[26][27]

復興

琉球王朝は被害地域の復興のため、被害の大きかった地域に、他の島から入植させる政策を取った。最も被害が大きかった白保村には波照間島から418人、隣接する宮良村には小浜島から320人の島民が移り住んだ。

もともと違う方言を話していた地域から移り住んだため、これらの地区の方言、風習、芸能には21世紀になっても石垣市街の中心部とは違いが見られる。また、移住者は自分たちのために御嶽と呼ばれる祈祷の場を新たに設けたため、村内に複数の御嶽が存在する。

伝説

石垣島白保村では、この大地震に関する伝説がある。ある日白保の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚から大津波が来ることを教えられた。村の中ではこの情報が確かなものか議論するが、結局信じる人々は於茂登岳に避難し、信じない人々は村に残るという決断を下す。そして津波は起こり、村は津波に飲み込まれてしまう。生き残った人々で白保村を再興、現在に至ると伝えられる。

宮古列島下地島通り池にもこの大地震に関するともされる伝説が残っている(通り池#伝説参照)。

脚注

  1. ^ 当時は薩摩藩(島津藩)に服属していた(1609年〜1879年)が、沖縄は第二尚氏王統第14代尚穆王が治める王政であり、の高宗乾隆帝元号を用いていた。

出典

  1. ^ 国立天文台 編『理科年表 平成24年(机上版)』丸善出版、東京、2011年11月30日、732頁。ISBN 978-4-621-08439-7 
  2. ^ a b c 1771年八重山地震津波(明和の大津波) 琉球大学理学部 中村衛研究室
  3. ^ Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482
  4. ^ 1771年明和津波(八重山地震津波)はモーメントマグニチュード8の海溝型巨大地震であった 琉球大学理学部 中村衛研究室
  5. ^ 阿部勝征(1999) 阿部勝征(1999): 遡上高を用いた津波マグニチュードMtの決定 -歴史津波への応用-, 地震, 第2輯, 第52巻, 369-377.JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/52.369
  6. ^ 阿部勝征 「津波地震とは何か」『月刊地球』Vol.25, No.5, p340
  7. ^ 中村衛(2014) (PDF) 中村衛(2014): 1771年八重山津波の断層モデルの再検討, 日本地球惑星科学連合2014年大会講演要旨,SSS34-P27.
  8. ^ Localized tsunamigenic earthquakes inferred from preferential distribution of coastal boulders on the Ryukyu Islands, Japan Geology, September 6, 2013, doi:10.1130/G34823.1
  9. ^ 「南西諸島で過去2300年 全域襲う津波発生せず」『読売新聞』2013年9月22日15面
  10. ^ 松本剛、木村政昭:1771年八重山地震津波発生域における精密地形調査と津波発生のメカニズムに関する一考察 地震 第2輯 Vol.45 (1992-1993) No.4 P417-426
  11. ^ a b 八重山の明和大津波 著・出版:牧野清 (1968)
  12. ^ a b 1771年・八重山地震・明和の大津波:防災システム研究所
  13. ^ 文部省震災予防評議会 『大日本地震史料 増訂』 1943年
  14. ^ 宇佐美龍夫 『わが国の歴史地震の震度分布・等震度線図』 日本電気協会、1994年
  15. ^ a b c d 後藤和久、島袋綾野、「学際的研究が解き明かす1771年明和大津波」 (PDF) 『科学』岩波書店 2012年2月号 pp.208-214
  16. ^ ひるぎの一葉 国立国会図書館サーチ
  17. ^ a b c 『新収 日本地震史料 三巻 自宝永元年至天明八年』
  18. ^ 石垣市史叢書13 八重山島年来記」p83-84 石垣市 平成11年2月13日発行
  19. ^ 最大波高は30メートル 「先島は地震の常襲地帯」 明和大津波で後藤博士が講演 「名蔵湾へ波抜けは伝承」八重山日報、2012年7月25日
  20. ^ 沖縄県多良間島での八重山地震津波(1771)の挙動 日本地質学会学術大会講演要旨 Vol.95 (19880402) p. 127,NAID 110003031199
  21. ^ 加藤祐三:八重山地震津波 (1771) の遡上高 地震 第2輯 Vol.40 (1987) No.3 P377-381
  22. ^ 河名俊夫(2000): 琉球列島南部の宮古諸島と八重山諸島における1771年明和津波の遡上高と岩塊の移動、及び沖縄県南部における大潟台風の高潮と古津波による岩塊の移動. 東海・東南海・南海地震津波研究会津波防災対策現地調査ガイドブック.
  23. ^ 河名俊男(2006) (PDF) 河名俊男, 島袋永夫, 中田高, 正木譲, 島袋綾野(2006): [講演要旨] 石垣島南部(四箇・平得・真栄里・大浜)における1771年明和津波の遡上高 ~とくに戸高に関連して~, 歴史地震, 第21号, 246.
  24. ^ 『日本の歴史地震史料 拾遺』p.152
  25. ^ 竹富島ビジターセンター掲示物
  26. ^ 小元 久仁夫:沖縄県宮古島の南東海岸に打ち上げられた津波石の分布と較正年代 地学雑誌 Vol.121 (2012) No.6 p.xiv
  27. ^ 小元 久仁夫:沖縄県宮古島南東部,マイバーバマに打ち上げられた津波石の分布とハマサンゴ化石の較正年代 地学雑誌 Vol.121 (2012) No.6 p.1043-1051

参考文献

  • 武者金吉 編『大日本地震史料 増訂 第二巻 自元祿七年至天明三年』文部省震災予防評議会、1943年。  pp.452-484 国立国会図書館サーチ
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 第三巻 自宝永元年至天明八年』日本電気協会、1983年。  pp.768-778, NCID:BN00729837
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺』日本電気協会、1989年。  pp.324-326
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺』日本電気協会、1994年。  p.344-355
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺』東京大学地震研究所、1999年3月。  pp.137-152
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』東京大学地震研究所、2008年6月。  pp.233-265

関連項目

外部リンク