木村竹志
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県有田市 |
生年月日 | 1961年7月10日(63歳) |
身長 体重 |
172 cm 70 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1982年 ドラフト3位 |
初出場 | 1983年6月11日 |
最終出場 | 1987年10月21日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督歴 | |
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この表について
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木村 竹志(きむら たけし、1961年7月10日 - )は、和歌山県有田市出身の元プロ野球選手(投手)、監督、実業家。株式会社ヘルサー代表取締役、NPO法人和歌山野球振興協会・夢クラブ理事長、公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)理事[1]。
本名同じ。旧本名並びにプロ野球選手・独立リーグ監督時の登録名は石井 毅(いしい たけし)。
来歴・人物
[編集]選手時代
[編集]箕島高校では1年生秋にアンダースローへ転向してエースとなる。嶋田宗彦(のち阪神)とバッテリーを組み、1979年には甲子園春・夏連覇を達成した。特に夏の選手権大会3回戦では星稜高校と延長18回の名勝負を繰り広げた。甲子園では通算14勝。
卒業後、嶋田と共に社会人野球の住友金属へ入団。第53回都市対抗野球大会で優勝し、自身も橋戸賞を受賞した。
1982年度プロ野球ドラフト会議で西武ライオンズに3位指名され契約金6000万円、年俸580万円(金額は推定)で入団した[2]。プロ入り後は腰痛が原因で、十分な成績を残すことが出来ず、1984年はアメリカ1Aのサンノゼ・ビーズに野球留学した。1988年限りで引退。
引退後
[編集]引退後は夫人の実家である木村家の養子となり、姓名判断により現在の名前に改める[3]。故郷・和歌山で少年野球指導で活躍。2003年12月24日、和歌山野球振興協会・夢クラブを設立し、同協会が運営する「和歌山スポーツアカデミー」理事長をつとめ、その他様々な協会・委員会に名を連ね、青少年の育成に努める。
2007年11月、夢クラブなど3つのNPOが協力してプロ野球(独立リーグ)への参加を目指すクラブ野球チーム紀州レンジャーズ(2009年より関西独立リーグに参加)の設立構想が明らかとなり、12月3日に設立準備委員会が記者会見を開いて構想を発表した[4]。木村は設立準備委員会の委員長を務めることが明らかにされた。2008年にチームが発足すると監督に就任。6月、チームの運営会社となる株式会社紀州レンジャーズの取締役球団代表に就任することが発表された。11月、翌年のプロ化へ合わせ、監督は藤田平に交代し、球団代表専任となる。
2009年6月17日、関西独立リーグの運営会社「株式会社ステラ」の撤退に関連して、新たに設立されたリーグ運営会社「株式会社関西独立リーグ」の代表取締役に就任したが、8月10日に三重スリーアローズ代表の壁矢慶一郎に交代することが発表された。しかし、壁矢は選手の待遇方針をめぐる意見の相違を理由に10月2日に代表を辞任(三重球団もリーグを脱退)したため、10月5日に木村が代表代行に就任することが発表された。リーグの代表は今後外部から招聘するとしていた。2010年3月に、鳥居厚生が代表となったがそのシーズン限りで退任、以降は木村がリーグ解散まで代表を務めていた。
2009年12月4日、退任した藤田の後任として監督に復帰することが発表された。監督としての登録名は旧名の「石井毅」となった[5]。2013年のリーグの解散まで監督を務めた。
その後、2013年に兵庫ブルーサンダーズが進めようとした芦屋学園との提携にリーグ代表として木村が反対したことから、関西独立リーグはその年限りで解散した。
2014年には、第2回 IBAF 15Uワールドカップの日本代表でコーチを務めた。背番号は31。
2015年1月30日、日本学生野球協会より学生野球指導資格の回復認定を受けた[6]。
2018年8月6日の第100回全国高等学校野球選手権記念大会2日目・第1試合の開始直前にて、甲子園レジェンド始球式を務める[7]。そのエスコート役として、星稜高校元エースで同試合球審担当の堅田外司昭も参加した[8]。
横浜DeNAベイスターズの中川虎大は親戚にあたり(中川の母といとこ同士)、自身の母校である箕島高校からプロ入りしている。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1983 | 西武 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 15 | 4.0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.75 |
1984 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 182 | 43.0 | 46 | 7 | 12 | 0 | 4 | 27 | 0 | 0 | 24 | 22 | 4.60 | 1.35 | |
1985 | 16 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | -- | 1.000 | 123 | 29.2 | 26 | 5 | 12 | 1 | 1 | 19 | 0 | 0 | 13 | 13 | 3.94 | 1.28 | |
1986 | 42 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 1 | 2 | -- | .833 | 235 | 57.2 | 48 | 5 | 19 | 2 | 1 | 46 | 0 | 0 | 17 | 16 | 2.50 | 1.16 | |
1987 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 1 | -- | .500 | 43 | 9.1 | 12 | 3 | 3 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 7 | 7 | 6.75 | 1.61 | |
通算:5年 | 85 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 4 | 4 | -- | .667 | 598 | 143.2 | 132 | 20 | 49 | 3 | 6 | 104 | 0 | 0 | 61 | 58 | 3.63 | 1.26 |
記録
[編集]- 初登板:1983年6月11日、対日本ハムファイターズ10回戦(後楽園球場)、8回裏に2番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初奪三振:同上、9回裏に木村孝から
- 初セーブ:1985年9月8日、対阪急ブレーブス21回戦(西武ライオンズ球場)、7回表1死に2番手で救援登板・完了、2回2/3を無失点
- 初勝利:1985年9月30日、対南海ホークス23回戦(西武ライオンズ球場)、4回表に2番手で救援登板、4回2/3を1失点
背番号
[編集]- 32 (1983年 - 1988年)
- 33 (2010年 - 2013年)
登録名
[編集]- 石井 毅 (いしい たけし、1983年 - 1988年、2010年 - 2013年)
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 団体概要 - 全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)公式サイト
- ^ 朝日新聞、1982年12月16日付朝刊、19面、14版
- ^ “理想は地域密着の「ボールパーク」…木村竹志さん”. ZAKZAK (2009年6月25日). 2009年6月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月15日閲覧。
- ^ “来春、県内でプロ野球チーム結成 独立リーグ参入目指す”. 紀伊民報. 2007年12月3日閲覧。 [リンク切れ]
- ^ “関西独立リーグの紀州 木村代表が監督を兼任”. スポーツニッポン (2009年12月4日). 2009年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年12月5日閲覧。
- ^ 元西武監督、甲子園アイドルも!学生野球資格回復を認定 - 『スポニチアネックス』2015年1月31日5時30分 ※回復者全235名のリストより、「木村竹志(53)西武」の記載あり(人名、年齢、NPB最終所属球団の順)。
- ^ 元箕島エース・木村竹志氏始球式 元星稜・堅田球審と友情握手 - デイリースポーツオンライン2018年8月6日付
- ^ 延長18回の箕島投手、名勝負の仲間見守る聖地で始球式 高校野球:朝日新聞デジタル 2018年8月6日記載
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 石井毅 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 木村竹志 - 野球日本代表 侍ジャパンオフィシャルサイトのプロフィール