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哲宗 (朝鮮王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
哲宗 李昪
李朝
第25代国王
哲宗大王御真
王朝 李朝
在位期間 1849年7月28日 - 1864年1月16日
道升(トスン、도승)
大勇齋(テヨンジェ、대용재)
諡号 熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王、
忠敬王(清国による)[1][2]
廟号 哲宗
生年 道光11年6月17日
1831年7月25日
没年 同治2年12月8日
1864年1月16日
全渓大院君
龍城府大夫人廉氏
陵墓 睿陵
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哲宗(チョルジョン[3]、てっそう、철종1831年7月25日 - 1864年1月16日)は、李氏朝鮮の第25代国王(在位:1849年 - 1863年)。(ビョン、)、初名は元範(ウォンボム、원범)。は熙倫正極粹徳純聖欽命光道敦元彰化文顕武成献仁英孝大王(清国からの諡号は忠敬王[1])。大韓帝国時代の1908年哲宗章皇帝を追贈される。別名は江華道令강화도령)であった。

生涯

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正祖の異母弟と同時に庶弟・恩彦君庶子の一人である全渓大院君と龍城府大夫人廉氏の三男、すなわち英祖の庶次男荘献世子の曾孫として生まれた。恩彦君には本来息子が3人いたが、2人の息子は権力争いの犠牲となり、全渓大院君だけが生き残った。全渓大院君にも3人の息子がいたが、長男・懐平君は自身の推戴事件のため処刑され、そのため元範(のちの哲宗)らは連座して江華島へ流されていた。父全渓大院君恩彦君の妾全山郡夫人李氏で息子だったが、彼も全渓大院君の妾の息子で庶子であった。

純祖の王妃・純元王后は、憲宗が後嗣のないまま死去すると、安東金氏が権力を維持するため、豊壌趙氏一派が王位を立てる前に、江華島にいた憲宗の再従叔父となる元範を宮廷に呼び入れ、徳完君に冊封した。

1849年6月9日、徳完君は昌徳宮において19歳で朝鮮国王に即位した。大王大妃となった純元王后は、哲宗が政治に対する知識がなく年も若いという理由で垂簾聴政を始めた。哲宗はその3年後に親政をしたが、一切の権力は勢道政治勢力である安東金氏に握られていた。

安東金氏一派の権力濫用により、国内では貪官汚吏が跋扈し、三政(田政・軍政・還穀)は大いに乱れた。また洪水と日照り、火事などの災害も頻発したことから、民衆の間では飢餓が蔓延した。このため民衆の反乱が全国的な規模で起きたが、朝廷では反乱が起きる根本的な原因を知ろうともせず、哲宗にも安東金氏の勢力を抑え対抗する力はなかった。苦痛で喘ぐ民衆の間では、崔済愚による、すべての人が天であると主唱する東学思想が急速な勢いで広まった。また、キリストの前での平等を唱えるカトリックも、一般民衆のみならず両班層にまで浸透し、宮女の中にカトリック信者がいたほどであった。

哲宗自身は、民心に気を配り、カトリックに対しても寛大であった。しかし哲宗の権力を支持していた南人が、執権層の老論僻派によるカトリック弾圧で粛清され、哲宗自身も安東金氏による勢道政治の中では自分の政治権力を行使できないということを悟り、酒色にふけるようになった。1863年12月、在位14年、33歳(数え年)で後継者のないまま死去。江華島での生活をよく懐かしんでいたと言われている。陵墓は睿陵。哲宗の死後、17代孝宗の系統から王が出ることはなく、孝宗の弟(16代仁祖の三男麟坪大君)の8世孫である高宗が王位を継ぎ、その系統が李王家となる。

から贈られた諡号は、「忠敬王」である[2]。諡号に「忠誠の忠」の文字を使用しており、朝鮮国王は従順であって欲しいという清の希望を読み取れるが、この諡号は、治世中の公式記録から徹底して取り除かれており、『朝鮮王朝実録』、朝鮮国王の行状、『陵誌文』といったほとんど全ての公式記録から取り除かれ、外交文書以外にはほとんど使用されなかった。『朝鮮王朝実録』は、清から諡号を授かった事実を記録するのみで贈られた諡号を記録していない。その理由は、「夷狄」とみなした清からの諡号を恥辱に感じていたからであり、表向きは清に対して朝貢冊封事大をおこない、恭順の姿勢を装うが、清に対する反発が拭い難く根付いていた[2]

家系

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宗室

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上記のように5男6女は子供を残すことなく夭折、10代まで生き残ったのは永恵翁主1人のみだった。その永恵翁主の死去により、哲宗の直系子孫は断絶した。

系図

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哲宗の親類・近親・祖先の詳細

荘献世子(哲宗の曽祖父)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
懿昭世孫(哲宗の祖父の兄)
 
22代正祖(哲宗の祖父の兄)
 
恩彦君(哲宗の祖父)
 
恩信君(哲宗の祖父の弟)
 
恩全君(哲宗の祖父の弟)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23代純祖(哲宗の祖父の兄・22代正祖の子)
 
全渓大院君(哲宗の父)
 
南延君(養子)(哲宗の祖父の弟・恩信君の子)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
孝明世子(翼宗)(哲宗の祖父の兄・22代正祖の孫)
 
25代哲宗
 
興宣大院君(哲宗の祖父の弟・恩信君の孫)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24代憲宗(哲宗の祖父の兄・22代正祖の曾孫)
 
 
 
 
 
26代高宗(哲宗の祖父の弟・恩信君の曾孫)
 
 
 
 

哲宗が登場する作品

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テレビドラマ

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脚注

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  1. ^ a b “조선 후기 왕들, 청나라로부터 받은 시호 철저히 숨겼다”. 朝鮮日報. (2007年9月11日). オリジナルの2013年10月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131013094349/https://www.chosun.com/site/data/html_dir/2007/09/11/2007091100074.html 
  2. ^ a b c “清の諡号を隠した朝鮮後期の国王たち”. 朝鮮日報. (2007年9月16日). オリジナルの2007年10月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20071009174825/http://www.chosunonline.com/article/20070916000002 
  3. ^ 発音は「チョルチョン」(参考:철종 哲宗” (朝鮮語). 국어사전. NAVER. 2017年10月20日閲覧。 “발음 : 철쫑”
先代:
憲宗
李氏朝鮮国王
第25代:1849年 - 1863年
次代:
高宗