コンテンツにスキップ

ノート:赤報隊事件/下書き

ページのコンテンツが他言語でサポートされていません。
赤報隊事件
2人の記者が殺傷された朝日新聞阪神支局
場所 朝日新聞阪神支局(兵庫県西宮市与古道町)他
日付 1987年5月3日憲法記念日
午後8時15分
概要

2人の新聞記者が殺傷され、2人の首相が脅迫されたテロ事件で、次の事件がある。

朝日新聞東京本社襲撃事件
朝日新聞阪神支局襲撃事件
朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
中曽根康弘竹下登両元首相脅迫事件
江副浩正リクルートホールディングス会長宅銃撃事件
愛知韓国人会館放火事件
死亡者 1人
負傷者 1人
犯人 「赤報隊」を名乗る。
動機 靖国参拝教科書問題国家秘密法などとの関連が指摘されている。
テンプレートを表示

赤報隊事件(せきほうたいじけん)とは1987年から1990年にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件である。

概要

[編集]

ここでいう「赤報隊事件」とは、1987年から1990年にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こした以下の事件を指す。

  • 朝日新聞阪神支局襲撃事件
  • 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
  • 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
  • 中曽根康弘・竹下登両元首相脅迫事件
  • 江副浩正リクルート会長宅銃撃事件
  • 愛知韓国人会館放火事件

特に朝日新聞阪神支局襲撃事件では執務中だった記者二人が殺傷され、言論弾圧事件として大きな注目を集めた。

警察庁は、「赤報隊」が犯行声明を出した一連の事件を広域重要指定事件に指定した[1]。当該事件はこの指定番号から「警察庁広域重要指定116号事件」とも呼ばれる。精力的な捜査が行われたにもかかわらず、2003年までにすべての事件が公訴時効を迎え、事件は未解決となった。

経緯

[編集]

「日本民族独立義勇軍」による事件

[編集]

「赤報隊」は当初「日本民族独立義勇軍 別働赤報隊」と名乗っていたが、赤報隊事件より前に「日本民族独立義勇軍」を名乗っていた事件が発生している[2]。警察庁広域重要指定事件の対象とはなっていない。いずれも未解決事件になっている[3]

  • 1981年12月8日 - 神戸米国領事館放火事件
  • 1982年5月6日 - 横浜元米軍住宅放火事件
  • 1983年5月27日 - 大阪ソ連領事館火炎瓶襲撃事件
  • 1983年8月13日 - 朝日新聞東京・名古屋両本社放火事件

「赤報隊」による事件

[編集]
朝日新聞東京本社襲撃事件
1987年1月24日午後9時頃、朝日新聞東京本社の二階窓ガラスに散弾が二発撃ち込まれた[4]。その後、「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って犯行声明が出された。そこでは自分たちを「われわれは日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、さらに「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」「一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日は悪質である」と朝日新聞に激しい敵意、恨みを示し、マスコミを標的としたテロの継続を示唆する内容だった[5]
朝日新聞阪神支局襲撃事件
1987年5月3日、午後8時15分、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局に、散弾銃を持った男が侵入し、2階編集室にいた29歳記者と42歳記者に向け発砲した。29歳記者は翌5月4日に死亡[6]殉職により記者のまま次長待遇昇格)、42歳記者は右手の小指と薬指を失った。犯人は現場にいたもう1人の25歳記者には発砲せずに逃走した。勤務中の記者が襲われ、死亡するのは、日本の言論史上初めてであった[7]5月6日時事通信社共同通信社の両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明が届いた。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった[8][9]
朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
1987年9月24日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃された。無人の居間兼食堂と西隣のマンション外壁に一発ずつ発砲した[10]。その後、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦後日本の民主主義体制への敵意を示す犯行声明文が送りつけられた[11]
朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
1988年3月11日、静岡市追手町の朝日新聞静岡支局の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見され、この事件は未遂に終わった[12]。犯行声明では「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社中日新聞東京本社(東京新聞)も標的にする旨が記されていた[13]。しかし、実際に毎日・中日の2社を対象とした事件はなかった。
中曾根・竹下両元首相脅迫事件
静岡支局事件と同じ1988年3月11日の消印(静岡市内で投函)で、群馬県の中曽根康弘前首相の事務所と、島根県の竹下登首相の実家に脅迫状が郵送された[14]。中曾根には「靖国参拝教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫[15]、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝を要求する内容だった[16]
江副元リクルート会長宅銃撃事件
1988年8月10日午後7時20分頃、リクルート事件で世間を騒がせていた江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃一発が発砲された[14]。犯行声明はその動機を「赤い朝日に何度も広告をだして金をわたした」からだとしている。また、「反日朝日や毎日に広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と企業を標的にした内容も犯行声明には記されていた[17]。ただし、リクルート社が他紙に比べ、朝日に多く広告を出していたわけではなかった[18]
愛知韓国人会館放火事件
1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋の愛知韓国人会館(民団系)が放火される事件が発生[14]。犯行声明では当時の韓国盧泰愚大統領を「ロタイグ」と日本語読みした上で、その来日に反対し、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅した[19]

時効

[編集]

警察は全国的な捜査を行ったが、2002年に阪神支局襲撃事件[20]2003年には静岡支局爆破未遂事件が公訴時効となり[21]、全事件が未解決のままとなった。兵庫県警察捜査一課西宮警察署に連絡要員を置き、時効後も真相解明を目指している[22]。捜査資料は、事件に関係する人物が浮上した時に照合するため保管されている[23]

社会の反応

[編集]

事件への批判

[編集]

記者2人を殺傷した朝日新聞阪神支局襲撃事件は、言論弾圧事件として大きな注目を集め、新聞・雑誌等では当時、「表現の自由」に対するテロリズムであるという報道がなされていた[6][24][25][26]井上ひさしは、記者の生命を奪う行為は、個人の生命を「最大の尊重を必要とする」とした日本国憲法第13条に外れ、「主権在君から主権在民という日本の歴史の流れに逆らう」犯人こそ「反日分子」だと批判した[27]

「言論の自由」をめぐる動き

[編集]

1988年、朝日新聞労働組合は阪神支局襲撃事件の追悼集会を行った。以降毎年5月3日に、「言論の自由を考える5・3集会」が開催され、言論の自由、報道の自由を考え、平和民主主義憲法を語り合う場となっている[28]

朝日新聞社は、名古屋本社寮襲撃事件の後、言論をテーマにした「『みる・きく・はなす』はいま」の掲載を始めた。社会面に毎年5月3日と10月の新聞週間の前後に掲載されている(時効後は5月)[29]。10年分の連載が『言論の不自由』にまとめられている。

2006年4月13日、阪神支局の新局舎3階に「朝日新聞襲撃事件資料室」が開設された。記者2人が殺傷された阪神支局事件を中心に、言論機関を狙ったテロに関する資料を展示している。市民に公開することで、事件を多くの人に語り継ぎ、言論の自由など民主主義の大切さを伝えるのが目的である[30][31]。開館から2012年3月末までの見学者は、社員を含めて4,000人を超えた[32][29]。展示物は、死亡した記者と重傷を負った記者が銃撃された編集室から採取された散弾粒、血に染まった原稿用紙、重傷を負った記者が身につけていた、散弾粒のあとが残るボールペンと財布、2人が座っていた応接セット、警察が鑑定のため切り取ったあと(四角い穴)が残る4通の犯行声明文、犯人が声明文に使用したワープロ、用紙、封筒の同型品、犯人が身につけていた目出し帽や靴、着衣の類似品、遺影、事件に関連した写真・年表・書籍など、朝日新聞が遺族や関係者から提供を受けたもの[30][31]。一般公開はされていないが、血染めのブルゾンや散弾で体が蜂の巣状になったことのわかるレントゲン写真もある[33] 。見学には予約が必要。

事件への便乗・協調の動き

[編集]

1997年暮れに「ある組織の者」と名乗り、朝日新聞神戸支局に殺害された記者の遺族の様子を尋ねる電話があった。捜査に挙がっていない散弾銃について「もう処分した」と話し、記者が「犯人を知っているのか」と聞くと「どうでもええやないか」と切った。後に、電話の主は関西在住で50歳代の男性で、大学時代に三島由紀夫を研究するサークルを創立していたことがわかった。名古屋本社寮事件のころ、「事件は東に走る」と話し、「極刑の待ち受けたるを知りつつも尚も征かん草莽の士は」という歌を詠んだ。兵庫県警の任意の事情聴取に「おとりになって、捜査の目を引きつけようとした。赤報隊が逃げおおせられれば、本望だ」と話したという[34]

右翼のほか保守派の一部には犯人の主張に共感を覚える者がいた。たとえば、中村粲産業経済新聞社の『正論』2001年5月号で、朝日の歴史教科書問題報道を「朝日は銃弾を撃ち込まれ、その後暫くは大人しくしていたようだが、昨今の朝日の傍若無人とも思える偏向紙面を見ると、まだお灸が足りないやうだ」と評した。朝日の“テロを容認するのか”との抗議申し入れを受け、編集部は「誤解を招く表現だった」として、6月号で謝罪文を掲載した。中村は10月号で「朝日新聞の売国偏向報道の累積が銃撃事件の引き鉄になつたと、因果関係を示唆したに止まる」と反論した。また、「…お灸が足りないやうだ」の意図について、「赤報隊がお灸をすえるつもりだったかもしれないと客観的に叙述しただけだ」と、朝日新聞社116号事件取材班に答えている[35]

経団連襲撃事件に関わった元自衛隊員は、阪神支局襲撃事件直後右翼団体機関紙に「靖国・教科書問題で内政干渉の水先案内を買って出た朝日新聞社」という記事を執筆した。その中で「朝日は襲撃さるべくして襲撃された」と述べた。2002年、「民族派精神」、武道を教えるための私塾を開き、「日本の教科書が外国にとやかく言われる筋合いはない。国家をおとしめるやつは我慢ならん」と話した[36]

模倣犯による犯行など

[編集]

1996年8月、10月、12月に社会科教科書の執筆者や出版社社長宅、会社に「偏向教科書糾弾期成会 日本主義劇団 冥途の飛脚」、「関西日本原理主義劇団 冥途の飛脚」を名乗り脅迫状が送りつけられた[37][38]。「貴社の歴史教科書は偏向自虐的な内容で、祖国日本に対する反逆罪を構成致します」「ボンクラ大臣は選挙にうつつを抜かしていても、我々は、覚めた目で事態を注目しています」「飽くまでも合法市民団体だが、会員・会員外の別を問わず、反日マスコミへの如何なる糾弾にも反対せず」「敵の偏向売国勢力が、偏向自虐的教科書を作り続けて来た挙げ句に、従軍慰安婦問題を、事もあろうに、中学校の教科書に一斉に掲載しました。これは、彼らににとって、勢い余っての勇み足であり、我々にとっては、反撃に転ずる天与の機会であり、神風であります」「これを突破口として、南京事件や、更に偏向史観全体を粉砕することです」「赤報隊精神も想起しましょう」などと書かれていた[39][40]

2009年2月「赤報隊」と印字された紙、実弾がNHKに送りつけられる事件が発生した。6月鹿児島県大分県の右翼団体には「赤報隊 をりようしてください」と印字された紙が郵送された。両者は文字の特徴が似ていて、同一人物の可能性が高いとみられている[41]

2009年2月22日午後、NHK福岡放送局の玄関付近で卓上コンロのカセットボンベが何者かの手で爆破される事件が発生した。防犯カメラにはニット帽にサングラス、マスク姿の男が玄関に入り、自動ドア前にバッグを置き、立ち去る姿が映っていた[42]。この後、NHK放送センター渋谷)や、長野、福岡、札幌の各放送局に旧日本軍制式銃の三八式歩兵銃実弾が「赤報隊」の名のワープロ文とともに送付される事件が発生した[43]。また、NHK広島放送局にも、「赤報隊」と記された紙片と旧日本軍使用の三八式歩兵銃の実弾が同封された封筒が届いた。

公訴時効成立後の2010年にも、「赤報隊」を称しての不審物送りつけが在日公館などに対して繰り返し行われている[44]

2011年7月1日、菅直人首相の事務所に首相辞任を求める脅迫文と刃物が郵送される事件が起きた。6月27日の消印で大阪府内から投函されていた。脅迫文には「天誅を下す」と記され、「赤報隊一同」を名乗っていた[45]。また、2011年6月30日、小沢一郎元民主党代表事務所に政界引退などを迫る内容の脅迫文が千枚通しと共に送りつけられた。消印は6月28日、大阪府内で投函され、「赤報隊」を名乗っていた。菅首相脅迫事件と筆跡、内容が似ており、同一犯とみられている[46]

朝日新聞社への恫喝

[編集]

朝日ジャーナル』が原理運動を取り上げた記事を掲載した時、4万6000件の抗議電話が朝日新聞東京本社にかかり、朝日新聞編集委員宅に脅迫状が届いた。見知らぬ男数人が『朝日ジャーナル』記者宅周辺をうろつき、一日100件を超える無言電話があった。阪神支局、名古屋本社寮襲撃事件後、「爆弾を仕掛けた」「記者がまた殺されるぞ」という脅迫電話が300件かけられた。1999年1月24日、朝日新聞東京本社広報室に、「一二〇周年おめでとうございます。警戒モードに入っていますか。一二年前のことを思い出して下さい」という匿名電子メールが届いた[47]。2007年5月24日、朝日新聞さいたま総局には「社員の1人や2人殺されても仕方がない。第2、第3の阪神支局事件は必ず起きる」と社員の殺害をほのめかす脅迫文が送りつけられた[48]

朝日新聞を批判するウェブサイトでは、「(記者の実名)記者一人の生け贄では少なすぎる」と書かれていた。2ちゃんねるの「朝日新聞襲撃事件の時効を祝おう」には、「赤報隊はよくやった」「皆殺しにすればよかったのに」と2ちゃんねらーによる書き込みがあった[47]

2010年3月12日、「朝日新聞に挑戦状」と題した脅迫文が朝日新聞水戸総局にファクシミリで送りつけられる事件が発生した。「20年以上前の阪神支局に赤報隊の散弾銃襲撃事件を忘れたか。即死した記者みたいになりたいか」などと書かれていた。水戸地検は9月17日、脅迫文を送信した医師を脅迫罪で起訴した。起訴状などによると、医師は出身大学に関する朝日新聞の記事に不満を持っていた[49]

真相解明への取り組み

[編集]

当局による捜査

[編集]

当局は、事件との関連性が疑われる阪神支局における取材上のトラブルの有無など[50][51]、関連性が疑われる他の事件(1988年5月のYP体制打倒同盟脅迫状事件、1986年 - 88年の亜細亜独立義勇軍関西部隊脅迫状事件[52]、1991年12月8日に起きた米軍横須賀基地の車両放火事件[53]など)、犯人との関連が疑われる組織・団体、物証などについての捜査を進めた。

また、捜査当局は犯行声明の分析言語学者ら(複数)に依頼した。それによると、犯行声明の筆者は「ある程度知的な三〇代以上の人物」という分析結果が多数を占めた。捜査当局は、「反日」という言葉(「反日分子」「反日マスコミ」「反日企業」など19か所ある)にも注目して捜査した[54]

一連の事件では複数の男が目撃され、兵庫、愛知、静岡県警、警視庁は似顔絵や服装写真を作り、犯人を追った[55]。延べ50万人が捜査対象になった[56]

右翼・新右翼

[編集]

捜査対象には、 右翼団体[57][58][59][27][40]新右翼[60][61][62]などが含まれる。1996年5月、朝日新聞の取材に対し國松孝次警察庁長官(当時)は、犯人について新右翼の捜査をしていることを認めた。1998年1月、警察庁で警視庁兵庫県警愛知県警静岡県警の合同捜査会議が開かれ、動機から思想犯として右翼関係9人(後に1人追加され10人[63])のリストが示された。9人は全員事件との関わりを否定したが、捜査幹部の一人は「彼らの周辺に容疑者がいる可能性は、今も否定できない」と話した[47]

犯人らは自らを「日本民族独立義勇軍」の関係者であるかのように示唆していたが、この名称を名乗る団体は、1981年から1983年にかけて朝日新聞や米ソ領事館にテロ攻撃をしかけている。この犯行声明が一水会に送られ、同会の幹部らが同調的な動きを示していたこともわかっており、警察は同会周辺を徹底的に捜査した[64]

宗教団体

[編集]

宗教団体[65]も捜査対象となった。朝日新聞社の発行する『朝日ジャーナル』などが統一教会(世界基督教統一神霊協会)の「霊感商法」批判を展開していた[66]ことに対し統一教会側からの反発が強かった[67]ことや、上記の統一教会の名を使った脅迫状(事件直後に「とういつきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」[68][69]という脅迫状が事件で使われた銃弾と同一の薬莢2個と同封されて届いた)、『朝日ジャーナル』の編集長をしていた筑紫哲也宛に脅迫状が届いていた[67]ことなどから、統一教会の関係者の関与も疑われ、捜査の対象になった[40]

物証

[編集]

事件では多くの物証が残された。

阪神支局で使われた凶器は、銃身を30センチ程度に切り詰める改造を施された散弾銃と見られている[70]。犯人は二発発砲したにも関わらず、現場に空薬きょうが残されていないことから、2連銃身式の散弾銃が使用されたと推測される。ただし事件に遭遇した記者は銃口は一つと証言しており、自動銃であった可能性も捨てきれない[71]。 捜査関係者は「現場に残された散弾粒の中に幾つか未燃焼の火薬があり、改造の不備でうまく発火しなかったと見られ、密造銃の可能性が極めて高い」と語った[72]。警察は、20万人の銃所持者と9万人の弾購入者を捜査した[73]

朝日新聞1988年3月15日付朝刊は、ピース缶爆弾に使用された物の遺留品について報じている。静岡支局事件で使われたピース缶爆弾は、秋葉原で18品目中13品目そろえられることから、捜査当局は秋葉原電気街で部品を購入と推理、捜査した。爆弾は合板に固定したピース缶(黒色猟用火薬、釘)、乾電池、スイッチ、電線などで出来、松屋百貨店の紙袋に入っていた。

この他、犯行に使われた疑いのある車両[55]・ワープロ[56]、犯行声明が入れられていた封筒[74]、犯人が着用していた可能性のある服・靴[75]、指紋・掌紋[40][76]などについて捜査している。

報道機関の活動

[編集]

襲撃事件直後に「特命取材班」が結成され[77]、時効後も赤報隊の正体を追っている。1989年、取材班は『襲撃事件取材マニュアル』(84ページ)を作成し、全国の支局に配布した。冒頭には「赤報隊の正体を解明する糸口はどこにあるかわかりません。どんなささいな情報も逃さず取材班へ」と書かれている[78]。2001年5月から1年間「15年目の報告」と題した特集記事を毎月紙面化した(『新聞社襲撃 テロリズムと対峙した15年』岩波書店に収録)。

事件の背景・犯人像に関する推測

[編集]

犯人像

[編集]

犯人像について兵庫県警警備課次席は「犯人は右翼だと思う。犯行声明に書かれていた『日本民族独立義勇軍』という名は、一般には知られておらず、勉強していなければ出てこない名称だ」とした[79]ゲプハルト・ヒールシャー[80]堀幸雄[81]らも、犯人を右翼と示唆している。

確かに赤報隊の主張には右翼・新右翼との類似性が認められる。しかし細かい所では矛盾するところも多く、真犯人を右翼関係者とする意見には異論も多い[82]野村秋介も「赤報隊は右翼ではない」と主張している[83]

捜査幹部は「『赤報隊』が静岡事件で、3月10日の旧陸軍記念日を意識して行動していた形跡が窺えることから、旧日本軍関係者まで捜査範囲を広げた」と語った[84]。ある公安関係者は「朝日新聞を批判し、反権力的な思想を持つグループの中から有力な容疑者が浮かび上がってきた」「本当の動機を持ち、陰で実行犯を操る黒幕こそ真犯人」と述べている[85]

井上ひさしは「赤報隊」を名乗った犯人が朝日新聞などを「反日分子」としたことに注目し、犯人が「大日本帝国憲法の信奉者」であるとした[65]

目撃情報
[編集]

犯人らしき人物の目撃情報として次のような事項が報道されている。

  • 阪神支局事件
    • 身長160-165cm 中肉中背、やや細目、20-40歳、黒の目出し帽[65][86]
    • 事件の40分前、阪神支局をのぞき込むヤクザか右翼の感じがするがっちりとした体格 の男が目撃される[87]
  • 名古屋本社寮事件 身長約170cm がっちりした体格、3・40代、黒の目出し帽。「何か音がしたろ」と関西なまりで話す][65][86]
  • 静岡支局事件 60歳ぐらい、ぼさぼさの髪。松屋百貨店の紙袋を持つ[86]
  • リクルートホールディングス元会長宅事件 身長160cm 細身、肩が広い、20-25歳、野球帽、黒縁の眼鏡、白いマスク姿[65]

動機

[編集]

原寿雄は事件に対し、中曽根首相の靖国神社公式参拝、国家秘密法推進、「皇国史観国家主義に基づく歴史教科書」に朝日新聞が強く反対し、「中曽根批判の先導的役割を果たした」ことを「事件との関連で重視する」とした[88]牧太郎も、中国韓国の批判による中曽根の靖国参拝中止、教科書の修正が赤報隊脅迫の原因との見方を示した[89]堀幸雄は犯人が復古主義を志向していることを示唆している[81]

靖国と教科書
[編集]

中曽根に出された脅迫状に「貴殿は総理であったとき靖国参拝教科書問題で日本民族を裏切った」とあったことから、捜査幹部は「靖国と教科書」を動機の本筋と見ている[90]。また、捜査当局は靖国参拝、教科書問題への不満からの抗議と判断している[91]。ある捜査幹部は「犯人が右翼思想の持ち主なら、靖国神社参拝や教科書問題をめぐる中曽根政権の対応に忸怩たる思いがあったはずで、そうした気持ちが爆発したのが116号事件ではないか」と語った[92]

国家秘密法批判
[編集]

1979年国際勝共連合などがスパイ防止法制定促進国民会議を発足させ[93]、1984年4月自民党のほとんどの国会議員民社党の一部議員、経済界法曹界保守派や保守的文化人らがスパイ防止法制定促進議員・有識者懇談会をスタートさせた[94]。1985年6月自民党国家秘密法案を国会に提出し、同法案をめぐって激しい論争が起きた[93][95]。最高刑を死刑とするメディア統制法に対し新聞界では反対運動が広がり、朝日、毎日、東京、神奈川新聞琉球新報信濃毎日新聞北海道新聞、共同通信などが反対キャンペーンを張り、朝日は社説で廃案を主張した。1986年11月25日の紙面は「国家秘密法増える反対議会」と題し、全国調査の特集を組むなど朝日新聞が法案を強く批判していた。捜査当局はこのことに触発された可能性もあると見ている[96][97]

参考文献

[編集]
  • 歴史学研究会『太平洋戦争史 1 満州事変』青木書店、1971年。 
  • 鈴木邦男『テロ 東アジア反日武装戦線と赤報隊』彩流社、1988年。ISBN 978-4882021308 
  • 『謀略としての朝日新聞襲撃事件 赤報隊の幻とマスメディアの現在』エスエル出版会、1988年。 
  • 鈴木邦男『赤報隊の秘密』1990年。ISBN 978-4846303563 
  • 朝日新聞社『朝日新聞社史 昭和戦後編』朝日新聞社、1995年。 
  • 朝日新聞社会部『言論の不自由』径書房、1998年。ISBN 978-4770501653 
  • 朝日新聞社116号事件取材班『新聞社襲撃―テロリズムと対峙した15年』2002年。ISBN 978-4000223744 
  • 俵義文『ドキュメント「慰安婦」問題と教科書攻撃』高文研、1997年。 
  • 一橋 文哉『「赤報隊」の正体』新潮社、2002年。ISBN 978-4104128068 
  • 別冊宝島編集部『迷宮入り! 昭和・平成 未解決事件のタブー』2007年。ISBN 978-4796622387 
  • 朝日ジャーナル『追及ルポ 霊感商法』朝日新聞社、2002年。ISBN 978-4022680860 
  • 鈴木邦男「第三章、「潜在右翼」の発見」『公安警察の手口』ちくま新書、2004年。ISBN 978-4480061980 
  • 別冊宝島編集部『漫画と重大証言で完全推理!昭和・平成コールドケース』宝島社、2008年。ISBN 978-4796666336 
  • 朝日新聞. (1987年5月5日) 
  • “暴力を憎む(社説)”. 朝日新聞. (1987年5月5日) 
  • “許せない言論機関への暴力(社説)”. 毎日新聞. (1987年5月5日) 
  • 朝日新聞. (1987年5月7日) 
  • “言論は暴力に屈服しない(社説)”. 読売新聞. (1987年5月7日) 
  • 朝日新聞. (1989年3月13日) 
  • 朝日新聞朝刊. (1989年5月3日) 
  • “時の流れと闘い続く 116号事件、阪神支局襲撃から6年”. 朝日新聞. (1993年5月3日) 
  • 朝日新聞. (1995年5月3日) 
  • 朝日新聞. (1996年5月3日) 
  • 朝日新聞. (1997年1月24日) 
  • 朝日新聞朝刊. (1997年4月28日) 
  • 朝日新聞朝刊. (1997年5月3日) 
  • 朝日新聞朝刊. (1999年5月3日) 
  • 朝日新聞. (2000年5月3日) 
  • 朝日新聞. (2002年1月8日) 
  • 朝日新聞. (2002年5月3日) 
  • 朝日新聞. (2003年3月11日) 
  • 神戸新聞. (2004年5月4日) 
  • “地域とともに 朝日新聞阪神支局の新局舎が完成”. 朝日新聞. (2006年4月12日) 
  • “襲撃事件 風化させぬ 朝日阪神支局の資料室公開”. 産経新聞. (2006年4月13日) 
  • 鈴木琢磨 (2007年5月1日). “特集ワイド - 朝日新聞阪神支局襲撃20年 戦いは終わらない”. 毎日新聞 
  • 朝日新聞. (2009年2月3日) 
  • “NHK不審物、旧日本軍実弾と判明――すべて同種”. 朝日新聞. (2009年2月28日) 
  • 朝日新聞. (2010年9月18日) 
  • 共同通信. (2010年12月21日) 
  • 朝日新聞. (2012年5月3日) 
  • 週刊文春. (1997-5-15). 
  • 警察庁 (1988年). “"昭和63年 警察白書"”. 2013年5月4日閲覧。
  • 朝日新聞 読者とともに『人権と平和』-自由のために”. 朝日新聞 (2011年). 2011年10月6日閲覧。
  • MSN産経ニュース (2011年7月4日). “「辞任しろ」菅首相の事務所に脅迫文”. 2013年5月26日閲覧。
  • MSN産経ニュース (2011年6月30日). “「警告に従わないと処刑」小沢一郎元代表に脅迫文”. 2013年5月26日閲覧。
  • 朝日新聞労働組合. “言論の自由を考える5・3集会”. 2013年5月11日閲覧。
  • 朝日新聞社 (2012年). “「みる・きく・はなす」はいま~阪神支局襲撃事件から25年”. 2013年5月12日閲覧。
  • 47NEWS (2009年10月20日). “右翼団体にも「赤報隊」文書 NHK実弾送付と同一犯か”. 2013年5月26日閲覧。
  • "朝日新聞襲撃事件 時効直前!赤報隊の闇に迫る". JNN報道特集. 28 April 2002.

脚注

[編集]
  1. ^ 警察庁 1988.
  2. ^ 鈴木邦男 1990, p. 147-152.
  3. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 74.
  4. ^ 朝日新聞社会部 1998, p. 229,239.
  5. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 259.
  6. ^ a b 朝日新聞 & 1987-5-5.
  7. ^ 朝日新聞社 1995, p. 814.
  8. ^ 朝日新聞 & 1987-5-7.
  9. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 260.
  10. ^ 朝日新聞社会部 1998, p. 239.
  11. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 261.
  12. ^ 朝日新聞 & 1989-3-13.
  13. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 262.
  14. ^ a b c 朝日新聞社会部 1998, p. 240.
  15. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 263.
  16. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 264.
  17. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 265.
  18. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 111.
  19. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 266.
  20. ^ 朝日新聞 & 2002-5-3.
  21. ^ 朝日新聞 & 2003-3-11.
  22. ^ 神戸新聞 & 2004-5-4.
  23. ^ 朝日新聞 & 2012-5-3.
  24. ^ 毎日新聞 & 1987-5-5.
  25. ^ 読売新聞 & 1987-5-7.
  26. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 3.
  27. ^ a b 朝日新聞 & 1997-5-3.
  28. ^ 朝日新聞労働組合.
  29. ^ a b 朝日新聞社 2012.
  30. ^ a b 朝日新聞 & 2006-04-12.
  31. ^ a b 産経新聞 & 2006-04-13.
  32. ^ 朝日新聞 2011.
  33. ^ 毎日新聞 & 2007-05-01.
  34. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 80-81.
  35. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 56-57.
  36. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 81-82.
  37. ^ 朝日新聞 & 1997-1-24.
  38. ^ 俵義文 1997.
  39. ^ 俵義文 1997, p. 276-278,284,290-291.
  40. ^ a b c d 週刊文春 & 1997-5-15.
  41. ^ 47NEWS & 2009-10-20.
  42. ^ 朝日新聞 & 2009-2-3.
  43. ^ 朝日新聞 & 2009-2-28.
  44. ^ 共同通信 & 2010-12-21.
  45. ^ MSN産経ニュース & 2011-7-4.
  46. ^ MSN産経ニュース & 2011-6-30.
  47. ^ a b c 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 118.
  48. ^ 2007年5月24日共同通信
  49. ^ 朝日新聞 & 2010-9-18.
  50. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 100.
  51. ^ 「サンデー毎日」(1997年5月11日・18日合併号)
  52. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 108-110.
  53. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 78-79.
  54. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 60.
  55. ^ a b 朝日新聞 & 1993-5-3.
  56. ^ a b 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 42.
  57. ^ 朝日新聞朝刊 & 1989-5-3.
  58. ^ 朝日新聞 & 1995-5-3.
  59. ^ 朝日新聞 & 2000-5-3.
  60. ^ 朝日新聞.
  61. ^ 朝日新聞 & 1996-5-3.
  62. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 74-78.
  63. ^ 別冊宝島編集部 2008.
  64. ^ 別冊宝島編集部 2007, p. 98-99.
  65. ^ a b c d e 朝日新聞朝刊 & 1997-5-3.
  66. ^ 朝日ジャーナル 2002.
  67. ^ a b エスエル出版会 1988, p. 78-80.
  68. ^ 鈴木邦男 2004.
  69. ^ [1]衆議院会議録情報 第108回国会 法務委員会 第3号
  70. ^ 一橋 文哉 2002, p. 30.
  71. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 38.
  72. ^ 一橋 文哉 2002, p. 32.
  73. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 116.
  74. ^ 朝日新聞朝刊 & 1997-05-03.
  75. ^ 朝日新聞朝刊 & 1989-05-03.
  76. ^ 朝日新聞 & 2002-1-8.
  77. ^ 朝日新聞朝刊 & 1997-04-28.
  78. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 105.
  79. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 164.
  80. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 224-225.
  81. ^ a b 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 214-215.
  82. ^ 別冊宝島編集部 2007, p. 100.
  83. ^ 鈴木邦男 1988.
  84. ^ 一橋 文哉 2002, p. 28.
  85. ^ 一橋 文哉 2002, p. 45.
  86. ^ a b c 朝日新聞朝刊 & 1999-5-3.
  87. ^ 朝日新聞襲撃事件 時効直前!赤報隊の闇に迫る.
  88. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 4-5.
  89. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 218-219.
  90. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 48.
  91. ^ 週刊文春 & 1997-5-15, p. 42-43.
  92. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 71.
  93. ^ a b 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 63.
  94. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 65.
  95. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 64.
  96. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 8.
  97. ^ 朝日新聞社116号事件取材班 2002, p. 62.

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]