藤原敦忠
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藤原 敦忠(ふじわら の あつただ、延喜6年(906年) - 天慶6年3月7日(943年4月18日))は平安時代中期の公家・歌人。藤原北家・本院左大臣藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。通称は枇杷中納言・本院中納言。
経歴
延喜21年(921年)従五位下に叙爵。侍従、少・中将を経て、承平4年(934年)蔵人頭。天慶2年(939年)参議に任ぜられ公卿に列し、同5年(942年)従三位・権中納言に至る。
美貌であり、和歌や管絃にも秀でていたとされる。『後撰和歌集』や『大和物語』などに、雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)ほか多くの女流歌人との贈答歌が残されている。『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に30首入集[1]。家集に『敦忠集』がある。管弦では、敦忠の死後、同様に管弦の名手であった源博雅が音楽の御遊でもてはやされるのを見た老人たちが、敦忠の生前中は源博雅などが音楽の道で重んぜられるとは思いもしなかったと嘆いた、との逸話が『大鏡』で語られている[2]。
比叡山の西坂本に音羽川を引き入れた別業(別荘)を有していたという。
逸話
敦忠は北の方(藤原玄上の娘)を非常に愛していたが、ある時北の方に対して自らが短命でまもなく死ぬであろう事、死後にはその北の方が敦忠の家令である藤原文範と夫婦になるであろうことを予言し、事実その通りになったという[2]。