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小式部内侍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小式部内侍

小式部内侍(こしきぶ の ないし、生年不詳 - 万寿2年(1025年)11月没[1])は、平安時代中期の女流歌人。父は橘道貞[1]、母は和泉式部[1]寛弘6年(1009年)頃より、母と共に彰子に出仕した[1][2]

経歴

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母同様、恋多き女流歌人として、藤原教通藤原頼宗藤原範永藤原定頼など、多くの高貴な男性との交際で知られる[1]。当初は藤原頼宗が言い寄ったが、藤原教通と婚姻関係となり、寛仁2年(1018年)教通の子を産んだとされる[1]。教通との間には静円、範永との間には娘をもうけている。万寿2年(1025年)、藤原公成の子(頼忍阿闍梨)を出産した際に死去した[1]。享年は28歳前後とされる[1]。藤原範永との間に娘を産んだとする説もあるが、確たる史料はない[1]

内侍が死去した際、母の和泉式部が詠んだ歌は、哀傷歌の傑作として有名である。

とどめおきて誰をあはれと思ふらむ 子はまさるらむ子はまさりけり — 『後拾遺和歌集』哀傷

小式部内侍の逸話は、下記の「大江山」の歌のエピソード、また教通との恋のエピソードを中心に、『十訓抄』や『古今著聞集』など、多くの説話集に採られている。また『無名草子』にも彼女に関する記述があり、理想的な女性として賞賛されている。

伝承 

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母の和泉式部は小式部内侍を妊娠した時に郷里の因幡国湖山へと戻っていた。和泉式部は安産祈願の為、現在の鳥取市鹿野町鹿野にある住吉神社へ17日間に亘って参詣し、内侍は鹿野町水谷で誕生したとされる。住吉神社の西にはその際の産湯に使われたとされる井戸が残っている[3][4]

歌人として

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大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立 — 小倉百人一首

この歌は『金葉和歌集』にも収録されているが、そちらは「ふみもまだ見ず」となっており、百人一首とは語順が異なる。

「教導立志基」より『小式部内侍』
小林清親

当時、小式部内侍の歌は母が代作しているという噂があった。小式部内侍は歌合に歌を詠進することになったが、母は再婚相手で丹後守に任じられた藤原保昌とともに丹後に下っていた。そのため、四条中納言(藤原定頼)は小式部内侍に「代作を頼む使者は出しましたか。使者は帰って来ましたか」などとからかったのだが、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだ。意味としては「大江山(大枝山)を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので(または、大江山に向かって行く野の道・大江山の前の生野への道が遠くて、大江山の向こうの)、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」であり、「行く野・生野」「文・踏み」の巧みな掛詞を使用しつつ、当意即妙の受け答えが高く評価された。四条中納言もまた小倉百人一首に選ばれているほどの歌人であったが、当時歌を詠まれれば返歌を行うのが礼儀であり習慣であったにもかかわらず、狼狽のあまり返歌も出来ずに立ち去ってしまい恥を掻き、この一件以後小式部内侍の歌人としての名声は高まったという。

家集はないものの、『後拾遺和歌集』などに8首入集している[1]。しかし、8首のうち6首は、禖子内親王の女房だった「小式部」の作とされる[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典 第2巻』岩波書店、1984年1月、606頁。 
  2. ^ 小式部内侍 日本大百科全書(ニッポニカ)”. 小学館. 2025年8月31日閲覧。
  3. ^ 小式部内侍産湯の井戸”. いこーよ. アクトインディ. 2019年8月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月25日閲覧。
  4. ^ 住吉神社(小式部内侍産湯の井戸)”. 鳥取市鹿野往来交流館 童里夢. 西いなば地域を観る 鹿野町の寺社. ふるさと鹿野. 2019年8月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年8月25日閲覧。