藤原顕輔

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藤原顕輔
Fujiwara no Akisuke.jpg
藤原顕輔像
時代 平安時代後期
生誕 寛治4年(1090年
死没 久寿2年5月7日1155年6月8日
別名 六条
官位 正三位左京大夫
主君 鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇
氏族 藤原北家魚名流
父母 父:藤原顕季、母:藤原経平の娘
兄弟 長実家保顕輔藤原宗通室、
高階能遠の娘、藤原盛輔の娘、家女房
顕賢清輔頼輔重家季経顕成親輔、長覚、藤原基実室、藤原兼実
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藤原 顕輔(ふじわら の あきすけ)は、平安時代後期の公家歌人修理大夫藤原顕季の三男。官位正三位左京大夫六条と号す。小倉百人一首では左京大夫顕輔

経歴[編集]

康和2年(1100年)1月に白河上皇院判官代に任ぜられて以降、院の近臣として昇進した。加賀守中務権大輔を経て、元永元年(1118年)12月正四位下に昇る。大治2年(1127年)1月、讒言により白河院の勘気を蒙って昇殿を止められたが、白河院崩御の翌年(1130年関白藤原忠通の娘聖子崇徳天皇中宮に冊立されると、中宮亮となり官界に復帰。保延3年(1137年)10月従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)1月左京大夫任じられ久安4年(1148年)7月正三位に至った。久寿2年(1155年5月7日薨去。享年66。

周辺に優れた歌人が多く、永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相家歌合や久安6年(1150年)の「久安百首」など、多数の歌会歌合で活躍し、父から六条藤家の象徴である人麻呂影供(ひとまろえいぐ)を受け継いだ。天養元年(1144年)6月に崇徳上皇から勅撰集撰進の命を受けて、仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。

金葉和歌集』(14首)以下の勅撰和歌集に84首が入集しており[1]、家集には『左京大夫顕輔卿集(顕輔集)』がある。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『勅撰作者部類』

関連項目[編集]

外部リンク[編集]