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ブレイディは1973年に17歳で[[アーセナルFC]]に入団し、同年10月6日の[[バーミンガム・シティ]]戦でリーグ戦デビューを飾った。アーセナルでは卓越したパスセンスでゲームメーカーを務め、デヴィッド・オレアリーらと共に1979年の[[FAカップ]]優勝に貢献、同年に[[PFA年間最優秀選手賞]]を受賞した。また1979-80シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]では準々決勝で[[イタリア]]の[[ユヴェントスFC]]を下し準優勝に貢献した(決勝で[[スペイン]]の[[バレンシアCF]]に0-1で敗退)。
ブレイディは1973年に17歳で[[アーセナルFC]]に入団し、同年10月6日の[[バーミンガム・シティ]]戦でリーグ戦デビューを飾った。アーセナルでは卓越したパスセンスでゲームメーカーを務め、デヴィッド・オレアリーらと共に1979年の[[FAカップ]]優勝に貢献、同年に[[PFA年間最優秀選手賞]]を受賞した。また1979-80シーズンの[[UEFAカップウィナーズカップ]]では準々決勝で[[イタリア]]の[[ユヴェントスFC]]を下し準優勝に貢献した(決勝で[[スペイン]]の[[バレンシアCF]]に0-1で敗退)。


この活躍が認められ、1980年、当時国外の選手の起用が認められるようになったばかりのセリエA、ユヴェントスに移籍すると、入団早々からスタメンの座を掴み1981年と1982年の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]連覇に貢献した。特に1981-82シーズンは[[フィオレンティーナ]]と優勝争いが縺れ込んでいたが、最終節の[[USカタンザーロ]]戦において自らペナルティキックを決め、20回目のスクデット獲得に導いた。
この活躍が認められ、1980年、当時国外の選手の起用が認められるようになったばかりのセリエA、ユヴェントスに移籍すると、入団早々からスタメンの座を掴み1981年と1982年の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]連覇に貢献した。特に1981-82シーズンは[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]と優勝争いが縺れ込んでいたが、最終節の[[USカタンザーロ]]戦において自らペナルティキックを決め、20回目のスクデット獲得に導いた。


しかし1982年に[[フランス]]の[[ミシェル・プラティニ]]の加入が決定すると入れ替わるようにユヴェントスを退団し、[[UCサンプドリア]]に移籍した。その後は1984年に[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]、1986年に[[アスコリ・カルチョ]]といったイタリアのクラブを渡り歩き、1987年に[[ウェストハム・ユナイテッドFC]]に移籍。1990年に現役を引退した。
しかし1982年に[[フランス]]の[[ミシェル・プラティニ]]の加入が決定すると入れ替わるようにユヴェントスを退団し、[[UCサンプドリア]]に移籍した。その後は1984年に[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]、1986年に[[アスコリ・カルチョ]]といったイタリアのクラブを渡り歩き、1987年に[[ウェストハム・ユナイテッドFC]]に移籍。1990年に現役を引退した。

2023年5月28日 (日) 13:33時点における版

リアム・ブレイディ
名前
愛称 Chippy
ラテン文字 Liam Brady
基本情報
国籍 アイルランドの旗 アイルランド
生年月日 (1956-02-13) 1956年2月13日(68歳)
出身地 ダブリン
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1973-1980
1980-1982
1982-1984
1984-1986
1986-1987
1987-1990
イングランドの旗 アーセナル
イタリアの旗 ユヴェントス
イタリアの旗 UCサンプドリア
イタリアの旗 インテル・ミラノ
イタリアの旗 アスコリ
イングランドの旗 ウェストハム・U
235 (43)
076 (15)
057 0(6)
058 0(5)
017 0(0)
089 0(9)
代表歴
1974-1990 アイルランドの旗 アイルランド 72 0(9)
監督歴
1991-1993
1993-1995
2008-2010
スコットランドの旗セルティックFC
イングランドの旗ブライトン・アンド・ホーヴ
アイルランドの旗アイルランド代表(コーチ)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

リアム・ブレイディ(Liam Brady、1956年2月13日 - )はアイルランド出身のサッカー選手、サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF)。愛称のChippyとは、彼の好物であるフィッシュ・アンド・チップスに由来している[1]

経歴

選手時代

ブレイディは1973年に17歳でアーセナルFCに入団し、同年10月6日のバーミンガム・シティ戦でリーグ戦デビューを飾った。アーセナルでは卓越したパスセンスでゲームメーカーを務め、デヴィッド・オレアリーらと共に1979年のFAカップ優勝に貢献、同年にPFA年間最優秀選手賞を受賞した。また1979-80シーズンのUEFAカップウィナーズカップでは準々決勝でイタリアユヴェントスFCを下し準優勝に貢献した(決勝でスペインバレンシアCFに0-1で敗退)。

この活躍が認められ、1980年、当時国外の選手の起用が認められるようになったばかりのセリエA、ユヴェントスに移籍すると、入団早々からスタメンの座を掴み1981年と1982年のセリエA連覇に貢献した。特に1981-82シーズンはフィオレンティーナと優勝争いが縺れ込んでいたが、最終節のUSカタンザーロ戦において自らペナルティキックを決め、20回目のスクデット獲得に導いた。

しかし1982年にフランスミシェル・プラティニの加入が決定すると入れ替わるようにユヴェントスを退団し、UCサンプドリアに移籍した。その後は1984年にインテル・ミラノ、1986年にアスコリ・カルチョといったイタリアのクラブを渡り歩き、1987年にウェストハム・ユナイテッドFCに移籍。1990年に現役を引退した。

アイルランド共和国代表としては1975年から1990年までに72試合に出場し9得点を記録した。しかしクラブチームでの実績にも関わらず、国際舞台での活躍とは縁がなく、1988年のUEFA欧州選手権1988は怪我により不参加。またFIFAワールドカップ・イタリア大会予選突破に貢献したものの、1990年の本大会直前に代表から引退したため、選手生活を通じてワールドカップへの出場は叶わなかった。

監督時代

引退後は指導者の道へ進み、1991年から1993年までスコットランドセルティックFC、1993年から1995年まではイングランドのブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFCの監督を務めた後、1996年7月からは古巣のアーセナルのユースアカデミーの監督に就任した。

2008年3月7日、アーセナルの職務と兼任する形でアイルランド共和国代表のアシスタントコーチに就任し[2]マルコ・タルデッリと共に監督のジョバンニ・トラパットーニを補佐した。2010年2月、ブレイディはUEFA欧州選手権2012予選に挑むアイルランド共和国代表のスタッフとして残留しないことを表明[3]し、同年4月に契約満了により退任した。

エピソード

タイトル

アーセナル
ユヴェントス
  • セリエA: 1980–81, 1981-82
個人

脚注

外部リンク