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|strength1=[[航空母艦|空母]]1、[[戦艦]]3、[[軽巡洋艦]]3、[[駆逐艦]]17、基地航空隊{{Efn|[[クレタ島]]に臨時配備されていた[[:en:815_Naval_Air_Squadron|第815海軍飛行隊]](イラストリアス)など。}}
|strength2=戦艦1、重巡洋艦6、軽巡洋艦2、駆逐艦17
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|casualties1=軽巡1損傷軽微{{Efn|イタリア戦艦の砲撃が至近弾となった軽巡[[オライオン (軽巡洋艦)|オライオン]] (''{{lang|en|HMS Orion, 85}}'') {{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=32}}。}}<br/>[[雷撃機]]1機{{Efn|[[:en:829_Naval_Air_Squadron|第829海軍航空隊]](フォーミダブル)の所属機。}}
|casualties1=[[雷撃機]]1機
|casualties2=重巡洋艦3、駆逐艦2沈没、戦艦1大破|}}
|casualties2=重巡洋艦3、駆逐艦2沈没、戦艦1大破<br/>戦死約2,300名、捕虜約1,100名|}}


'''マタパン岬沖海戦'''<ref>福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、262ページ</ref><ref>『世界の艦船 増刊第41集 イタリア戦艦史』海人社、1994年、126ページ</ref>(マタパンみさきおきかいせん、{{lang-en-short|Battle of Cape Matapan}}, {{lang-it-short|Battaglia di Capo Matapan}})は、[[第二次世界大戦]]中の1941年3月に[[地中海]]で[[イギリス海軍]]及び[[オーストラリア海軍]]と[[イタリア海軍]]の間で行われた[[海戦]]。
'''マタパン岬沖海戦'''<ref>福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、262ページ</ref><ref>『世界の艦船 増刊第41集 イタリア戦艦史』海人社、1994年、126ページ</ref>(マタパンみさきおきかいせん、{{lang-en-short|Battle of Cape Matapan}}, {{lang-it-short|Battaglia di Capo Matapan}})は、[[第二次世界大戦]]中の[[ギリシャ・イタリア戦争]]において、1941年(昭和16年)3下旬に[[地中海]]で[[イギリス海軍]]及び[[オーストラリア海軍]]を基幹する[[連合国_(第二次世界大戦)|連合国軍]]と、[[イタリア海軍#第二次世界大戦|イタリア王立海軍]] ([[:en:Regia_Marina|Regia Marina]]) の間で行われた[[海戦]]{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=71b-72|ps=三、一九四一年三月二十八日のマタパン岬沖海戦}}([[:en:Battle_of_the_Mediterranean|地中海攻防戦]]){{Efn|name="列強臨戦129"|'''第二五、クリート島爭奪戰'''{{Sfn|列強の臨戦態勢|1941|pp=129-130|ps=原本235-237頁}}(中略)ギリシヤが未だ余喘を保つてゐた三月の末頃イギリス地中海艦隊は[[クレタ島|クリート島]]の[[:en:Souda_Bay|スダ灣]]を根城として暴威を振つてゐた。三月廿六日、イタリー艦隊は[[スダ湾襲撃|夜陰に乗じてスダ灣に奇襲を試み]]碇泊地中のイギリス艦隊に砲撃を加へ一隻を撃沈したと公表してゐるが、これは廿八日夜の遭遇戰の前哨戦であつた。<br/> 夜襲とは小癪なとイギリス艦隊も腹を立て奮然攻撃に出たものと解される。イタリーの發表では、この海戰で「[[ザラ級重巡洋艦|中型巡洋艦]]三隻、驅逐艦二隻、合計五隻を失つたが、敵方の大型巡洋艦一隻の側に大型砲彈を命中せしめて撃沈し、外他の二隻にも大損害を與へた」と言つてゐる。これに對してイギリスは「廿八日の海戰においてイタリーの[[:it:Classe_Littorio|リツトリオ級主力艦]](三五,〇〇〇トン)[[ヴィットリオ・ヴェネト_(戦艦)|一隻]]に損害を與へ、巡洋艦二隻に致命的打撃を與へた」と公表してゐる。夜の海戰の事であるから戰果について的確な數字を擧げ得ないのは當然であらうが、彼此綜合して見るとイタリーの巡洋艦三隻は大損害を受けて基地に歸る途中沈没したものであらう。乗組員の多數が救助されたと發表してゐるのはそのためだと思はれる。イギリスは自國艦隊の損害沈没については一切口を緘してゐるし、海戰の模様に就いても何も語つてゐないが、これだけの犠牲を出したのであるから相當大掛りな海戰で、激闘が交へられた事は想像に難くない。}}

[[ギリシャ]]と[[アレクサンドリア]]間で運行されていた連合国輸送船団を撃滅するためイタリア艦隊が出撃し{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=25}}、これを[[イギリス連邦|英連邦]]の各艦で編成された[[地中海艦隊_(イギリス)|地中海艦隊]] ({{lang|en|Mediterranean Fleet}}) が迎撃した{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=98a-103|ps=マタパン岬沖海戦}}。[[艦隊航空隊]]の[[雷撃機]]([[フェアリー_アルバコア|アルバコア]]、[[フェアリー_ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]])によりイタリア新鋭戦艦[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]] (''{{lang|it|Vittorio Veneto}}'') と重巡洋艦1隻が大破、さらに地中海艦隊の追撃によりイタリア側の損害が拡大する{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=101}}。[[夜戦]]で[[ザラ級重巡洋艦]]3隻と[[駆逐艦]]2隻が沈没し、多数の将兵が戦死{{Efn|重巡3隻([[ザラ (重巡洋艦)|ザラ]]、[[フィウメ (重巡洋艦)|フィウメ]]、[[ポーラ (重巡洋艦)|ポーラ]])と駆逐艦2隻([[:it:Vittorio_Alfieri_(cacciatorpediniere)|ヴィットリーオ・アルフィエーリ]]、[[:it:Giosuè_Carducci_(cacciatorpediniere)|ジョズエ・カルドゥッチ]])が沈没した{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=112-123|ps=第二期/一九四一年一月~六月の年表 A.イタリア海軍の艦艇の損失}}。}}。
イギリス海軍は[[地中海戦域_(第二次世界大戦)|地中海戦線]]の優勢を固めるとともに{{Efn|name=""列強臨戦130|'''第二六、獨伊空軍の英艦隊急襲'''{{Sfn|列強の臨戦態勢|1941|pp=130-131|ps=原本237-239頁}} 此頃ドイツは英本土の空襲を間斷なく繼續しながらも、空軍に綽々たる余裕をもち、地中海、[[北アフリカ戦線|北阿作戰]]におけるイタリー危しと見て救援に馳せ向つたのである。これに氣を得たイタリー空軍もドイツ空軍と協力して隋所にイギリス艦隊を空爆してゐる。廿八日エーゲ海においてイタリー空軍はイギリスの護送船團、艦隊並に碇泊中の船舶を強襲し、航空母艦一隻及び巡洋艦二隻に猛爆を加へ、内巡洋艦一隻を撃沈した。廿九日にはドイツ空軍がマルタ島のハルフア飛行場を爆撃してゐるし、東地中海では獨伊共同でイギリス艦隊に猛攻を加へ、イタリーの雷撃機は巡洋艦一隻に魚雷を命中せしめ、爆撃機も航空母艦一隻に爆彈三個を命中せしめた。防禦の手薄な航空母艦のことであるから損傷は大きかつたであらう。<br/> 以上の如く地中海の海上では空海入亂れての激戰が續けられたが、卅日に至つてまたもや東地中海で伊英の海戰が表はれた。イギリスはこの海戰の戰果を次の如く數字を擧げて詳細に公表してゐる、「英軍は伊巡洋艦フィウメ、ポラ、ザラ(各一萬トン、八吋砲八門搭載、一九三〇-三一年完成)の三隻並に驅逐艦[[:it:Vincenzo_Gioberti_(cacciatorpediniere)|ヴインチンツオ・ジョベルチ]](一,七三九トン、一九三六年完成) [[マエストラーレ_(駆逐艦)|マエストラーレ]](一,四四九トン、一九三四年完成)の二隻を撃沈した」と、これに對してイタリーは[[軽巡洋艦|乙級]]巡洋艦[[ジョヴァンニ・デレ・バンデ・ネーレ_(軽巡洋艦)|ジオヴアンニ・デレ・バンデ・ネーレ]]號(五,〇六九トン、一九三一年竣工)を撃沈したものと推定されるとのイギリスの發表を全然否定し、クリート島附近のイギリス艦隊の損傷をイギリス海軍省が如何に發表するか深甚なる注意を以て期待すると公表してゐる。<br/> お互に駈引もあらう、[[プロパガンダ|逆宣傳]]もあらうから公表の何割かを割引して受取らねば大勢を見誤る惧れはあるが、地中海における伊英艦隊の爭覇戰は、イタリーがイギリス艦隊に與へた打撃の代償としては寧ろ大きに過ぎる犠牲を拂ひ、イタリーは艦隊だけで決戰するに足る比率を割つてしまつたといふ感が深く、地中海の制海権は依然としてイギリスの手中に存すると言つても強ち正鵠を失した見方ではあるまいと思ふ。/ ここに於てかイタリーはドイツと協力して、空軍及び潜水艦によるイギリス艦隊撃攘の作戰をとるに至つたのである。勿論小競はあつた。それは四月十六日トリポリ近海の海戰の如く双方驅逐艦を失つた程度のものであつた。}}、[[戦艦]]に対する[[航空母艦]]の優位性を内外に示すことになった{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|pp=85a-92|ps=マタパン岬沖海戦}}。


== 背景 ==
== 背景 ==
{{see also|バルカン戦線 (第二次世界大戦)}}
{{see also|バルカン戦線 (第二次世界大戦)}}
[[1940年]][[10月28日]]、[[イタリア]]は[[アルバニア]]から[[ギリシャ]]への侵攻を開始した([[ギリシャ・イタリア戦争]])。だが、そのイタリア軍は[[ギリシャ軍]]に撃退され、逆にアルバニアへ侵攻された。これを見かねた[[ドイツ]]が武力を背景にした外交で枢軸国への強制参加を着々と進め、[[1941年]][[3月1日]]に[[ブルガリア]]が、[[3月25日]]には[[ユーゴスラヴィア]]が枢軸国に加わった。そして、[[バルバロッサ作戦|ソ連侵攻]]を控えたドイツ軍はイギリス軍の脅威を排除するため[[ギリシャの戦い|ギリシャ侵攻]]を予定していた。
[[1940年]](昭和15年)[[10月28日]]、[[イタリア王国]]は[[アルバニア]]から[[ギリシャ]]への侵攻を開始した{{Sfn|呪われた海|1973|p=229}}([[ギリシャ・イタリア戦争]]){{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=38-39|ps=(五)ギリシャ侵攻}}。だがイタリア軍は[[ギリシャ軍]]に撃退され、逆にアルバニアへ侵攻された{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=86-89|ps=イタリアのギリシャ侵攻}}。これを見かねた[[ナチス・ドイツ]]が武力を背景にした外交で[[枢軸国]]への強制参加を着々と進め、[[1941年]](昭和16年)[[3月1日]]に[[ブルガリア]]が、[[3月25日]]には[[ユーゴスラヴィア]]が枢軸国に加わった。そして、[[バルバロッサ作戦|ソ連侵攻]]を控えたドイツ軍はイギリス軍の脅威を排除するため[[ギリシャの戦い|ギリシャ侵攻]]を予定していた。


イタリア王立海軍は[[イタリア半島]]南部の[[ターラント]]に[[主力艦]]を集結させて存在感を示したが([[現存艦隊主義]])、[[11月12日]]深夜から[[11月13日|13日]]未明にかけて[[地中海艦隊_(イギリス)|地中海艦隊]] ({{lang|en|Mediterranean Fleet}}) 所属の装甲空母[[イラストリアス (空母・初代)|イラストリアス]] (''{{lang|en|HMS Illustrious, R87}}'') に奇襲される{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|pp=68-72|ps=英空母機、タラント軍港を奇襲}}。旧式の[[艦上攻撃機]]により、イタリア戦艦3隻が戦闘不能となった{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=71a|ps=二、一九四〇年十一月十一日~十二日のタラント港夜間攻撃}}([[タラント空襲]]){{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=82-86|ps=タラント夜襲}}{{Efn|大破着底3隻([[リットリオ (戦艦)|リットリオ]]、[[カイオ・ドゥイリオ (戦艦)|カイオ・ドゥイリオ]]、[[コンテ・ディ・カブール_(戦艦)|コンテ・ディ・カブール]])、健在3隻([[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]]、[[ジュリオ・チェザーレ_(戦艦)|ジュリオ・チェザーレ]]、[[アンドレア・ドーリア (戦艦・2代)|アンドレア・ドーリア]]){{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=242-247|ps=(1)タラント港奇襲}}。}}。
1941年2月14日、[[ミラノ]]でイタリア海軍の参謀長[[アルトゥーロ・リッカルディ]]とドイツ海軍の[[エーリヒ・レーダー]]が会談を行った。ドイツ側はエジプト・ギリシャ間の補給路に対する攻撃を求めたが、リッカルディはそれには反対した。


[[:en:Regia Aeronautica|イタリア王立空軍]] ([[:it:Regia_Aeronautica|Regia Aeronautica]]) も地中海の[[制空権]]を握っておらず、同盟国を支援するため[[ドイツ空軍_(国防軍)|ドイツ空軍]] ({{lang|de|Luftwaffe}}) が助っ人として[[地中海戦域_(第二次世界大戦)|地中海戦域]]に登場した{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=97}}{{Efn|name=""列強臨戦130}}。
イギリス軍は2月25日には[[ドデカネス諸島]]の[[カステロリゾ島]]占領を試み([[アブステンション作戦]])、3月にはギリシャへの陸軍部隊の移送([[ラスター作戦]])を開始した。このようなイギリス軍の動きもあり、ドイツや作戦実行を求めていた[[アンジェロ・イアキーノ]]中将<ref>[[:it:Ammiraglio di squadra|Ammiraglio di squadra]]。英訳は[[:en:Squadron vice-admiral|Squadron Vice Admiral]](フランス語の[[:fr:Vice-amiral d'escadre|Vice-amiral d'escadre]]より転じて。)。</ref>などの圧力もあって、イタリア海軍は3月16日に作戦実行を決めた。そして、3月26日にイタリア艦隊は出撃した。
1941年(昭和16年)1月10日、{{仮リンク|第10航空軍団 (ドイツ空軍)|label=第10航空兵団|en|10th_Air_Corps|de|X._Fliegerkorps}}の[[Ju_87_(航空機)|Ju-87 スツーカ]] ({{lang|de|Junkers Ju 87 Stuka}}) は[[MC4作戦]](エクセス作戦)に従事中のイギリス地中海艦隊を攻撃し{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=80}}、イラストリアスを撃破して戦線離脱に追い込んだ{{Sfn|呪われた海|1973|p=231}}{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|pp=82-85|ps=袋だたきの英空母}}。イラストリアスに配備されていた[[艦隊航空隊]]のうち、[[:en:815_Naval_Air_Squadron|第815海軍飛行隊]]などが[[クレタ島]]に配置転換された{{Efn|イラストリアスの[[:en:824 Naval Air Squadron|第824海軍飛行隊]]は空母[[イーグル_(空母・初代)|イーグル]] (''{{lang|en|HMS Eagle}}'') と陸上基地に配置転換し、[[:en:819_Naval_Air_Squadron|第819海軍飛行隊]]は第815海軍飛行隊に統合された。}}。

同年2月14日、イタリア海軍の{{仮リンク|アルトゥーロ・リッカルディ|en|Arturo Riccardi|it|Arturo_Riccardi}}{{仮リンク|海軍参謀長 (イタリア)|label=海軍参謀長|en|Chief_of_Staff_of_the_Italian_Navy|it|Capo_di_stato_maggiore_della_Marina_Militare}}と、[[ドイツ海軍_(国防軍)|ドイツ海軍]] ({{lang|de|Kriegsmarine}}) の[[エーリヒ・レーダー]]元帥が[[ミラノ]]で会談を行った。ドイツ側は、エジプト・ギリシャ間の補給路(イギリス地中海艦隊の輸送船団)をイタリア艦隊で阻止するよう求めたが、イタリア側は反対した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=86}}。

イギリス海軍は大破したイラストリアスの代艦として{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=98b}}、[[イラストリアス級航空母艦|姉妹艦]]の[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]] (''{{lang|en|HMS Formidable, R67}}'') を地中海艦隊に配備した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=85b}}。戦力を再編すると同時に、2月25日には[[ドデカネス諸島]]の[[カステロリゾ島]]占領を試み([[アブステンション作戦]])、3月にはギリシャへの陸軍部隊の移送([[ラスター作戦]])を開始した。このようなイギリス軍の動きもあり、ドイツや作戦実行を求めていた[[アンジェロ・イアキーノ]]中将{{Efn|中将([[:it:Ammiraglio di squadra|Ammiraglio di squadra]])。英訳は[[:en:Squadron vice-admiral|Squadron Vice Admiral]]。フランス語の[[:fr:Vice-amiral d'escadre|Vice-amiral d'escadre]]より転じて。}}などの圧力もあって、{{仮リンク|イタリア海軍総司令部|en|Supermarina|it|Supermarina}}は作戦実行を決定した。アレクサンドリアの英戦艦2隻が損傷中などの誤情報もあり、[[3月26日]]にイアキーノ提督が率いるイタリア艦隊はイタリア各地から出撃、洋上で集結した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=86}}{{Efn|旗艦ヴェネトの護衛は第10駆逐隊([[マエストラーレ_(駆逐艦)|マエストラーレ]]、[[グレカーレ (駆逐艦)|グレカーレ]]、[[リベッチオ_(駆逐艦)|リベッチオ]]、[[シロッコ_(駆逐艦)|シロッコ]])だったが、出港後に第13駆逐隊(グラナティーレ、フチニエーレ、ベルサリエーレ、アルピーノ)へ交代したという。}}。

イタリア艦隊は、イアキーノ提督(旗艦ヴェネト)直率の主力部隊(戦艦[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]]と随伴駆逐艦、[[:it:Luigi_Sansonetti|ルイージ・サンソネッチ]]提督〈重巡[[トレント (重巡洋艦)|トレント]]、[[トリエステ (重巡洋艦)|トリエステ]]、[[ボルツァーノ (重巡洋艦)|ボルツァーノ]]、駆逐艦部隊〉)、[[:it:Carlo Cattaneo (ammiraglio)|カルロ・カッタネオ]]上級少将の偵察艦隊(カッタネオ提督〈重巡[[ザラ (重巡洋艦)|ザラ]]、[[フィウメ (重巡洋艦)|フィウメ]]、[[ポーラ (重巡洋艦)|ポーラ]]、駆逐艦部隊〉、{{仮リンク|アントニオ・レグナーニ|en|Antonio_Legnani|it|Antonio Legnani}}提督〈軽巡[[ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ (軽巡洋艦)|ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ]]、[[ジュゼッペ・ガリバルディ (軽巡洋艦)|ジュゼッペ・ガリバルディ]]、駆逐艦部隊〉)に分割されていた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|pp=26-27}}。


== 経過 ==
== 経過 ==
=== 戦闘前 ===
=== 戦闘前 ===
[[3月26日]]未明、[[クレタ島]]北岸の{{仮リンク|スダ湾 (クレタ島)|label=スダ湾|de|Souda-Bucht|it|Baia_di_Suda}}に停泊していた連合軍艦隊に、イタリア王立海軍の{{仮リンク|MAS (イタリア海軍)|label=特別攻撃艇|en|Decima Flottiglia MAS|it|Xª Flottiglia MAS (Regno d'Italia)}}が[[コマンド部隊|特殊作戦]]を決行{{Efn|name="列強臨戦129"}}、タンカー1隻と英重巡洋艦[[ヨーク (重巡洋艦)|ヨーク]] (''{{lang|en|HMS York, 90}}'') を航行不能とした([[スダ湾襲撃]])。
イギリス軍は通信傍受や[[暗号解読]]などにより、イタリア海軍による船団攻撃を予期した。航行中であったAG9船団(エジプトからギリシャへ向かう船団)は船団を引き返させ、3月27日にギリシャから出発予定であったGA8船団はギリシャに留め置いた。3月27日夕方、[[アレクサンドリア]]からは[[アンドルー・カニンガム (ハインドホープの初代カニンガム子爵)|アンドルー・カニンガム]]提督率いる、3隻の戦艦、1隻の空母を基幹とする[[地中海艦隊 (イギリス)|地中海艦隊]]が出撃した。さらに、[[エーゲ海]]で行動中であった巡洋艦部隊も合流が命じられた。

イギリス軍は通信傍受や[[暗号解読]]などにより、イタリア王立海軍による船団攻撃を予期した。航行中であったAG9船団(エジプトからギリシャへ向かう船団)は引き返させ{{Efn|軽巡2隻([[カルカッタ_(軽巡洋艦)|カルカッタ]]、[[:en:HMS_Carlisle_(D67)|カーライル]])や駆逐艦([[ディフェンダー_(駆逐艦・2代)|ディフェンダー]]、[[ジャガー_(駆逐艦)|ジャガー]]、[[ヴァンパイア_(駆逐艦・初代)|ヴァンパイア]])が護衛していた。}}、[[3月27日]]にギリシャから出発予定であったGA8船団 ({{lang|en|GA 8 convoy}}) はギリシャに留め置いた{{Efn|軽巡[[ボナヴェンチャー_(軽巡洋艦)|ボナヴェンチャー]] (''{{lang|en|HMS Bonaventure, 31}}'') や駆逐艦([[:en:HMS_Decoy_(H75)|デコイ]]、[[ジュノー (駆逐艦)|ジュノー]])などが護衛していた。}}。[[ショート サンダーランド]]飛行艇が進撃中のイタリア艦隊を発見したので、イギリス側も対応策を講じる{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=86}}。
同[[3月27日|27日]]夕方以降、[[アレクサンドリア]]から[[アンドルー・カニンガム (ハインドホープの初代カニンガム子爵)|アンドルー・カニンガム]]提督率いる[[地中海艦隊 (イギリス)|イギリス地中海艦隊]]が出撃した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=86}}{{Efn|この時点でのイギリス地中海艦隊は、[[クイーン・エリザベス級戦艦]]3隻([[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]]、[[ヴァリアント (戦艦)|ヴァリアント]]、[[バーラム (戦艦)|バーラム]])と空母フォーミダブルを基幹としていた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=28}}。}}。さらに、[[エーゲ海]]で行動中であった[[:en:Henry Pridham-Wippell|ウィッペル]]中将指揮下の巡洋艦部隊([[:en:Force B|Force B]])にも地中海艦隊本隊(A部隊)への合流が命じられた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=28}}。
[[File:Www2mR130BMatapan.GIF|right|450px]]
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=== 最初の戦闘 ===
=== 最初の戦闘 ===
[[3月28日]]払暁、イギリス海軍のA部隊({{lang|en|Force A}})所属の空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]] (''{{lang|en|HMS Formidable, R67}}'') より、[[艦上攻撃機]]([[フェアリー_アルバコア|アルバコア]]、[[フェアリー_ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]])が偵察に向かった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=29}}。アルバコアはイタリア巡洋艦部隊の存在を掴んだ{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=86}}。
28日朝、イギリスの巡洋艦部隊(軽巡洋艦[[エイジャックス (軽巡洋艦)|エイジャックス]]、[[オライオン (軽巡洋艦)|オライオン]]、[[グロスター (軽巡洋艦・2代)|グロスター]]、[[パース (軽巡洋艦)|パース]]、駆逐艦4隻、プリダム・ウィッペル中将指揮)が3つに別れていたイタリア艦隊の一つ(重巡洋艦[[トリエステ (重巡洋艦)|トリエステ]]、[[トレント (重巡洋艦)|トレント]]、[[ボルツァーノ (重巡洋艦)|ボルツァーノ]]、駆逐艦3隻、第3戦隊司令官ルイージ・サンソネッチ上級少将<ref>[[:it:Ammiraglio di divisione|Ammiraglio di divisione]]。英訳はvice admiral。ただし、職席は戦隊司令官に限定される。</ref>指揮)と遭遇し、8時12分にイタリアの重巡洋艦が砲撃を開始した。イギリス軍は東へ向かい、イタリア軍はそれを追撃したが、イギリス軍の動きを罠と考えたイアキーノは8時55分にサンソネッチに対し追跡を中止するよう命じた。そのため、サンソネッチの部隊は北西に向かい戦闘は中断した。この戦闘では両軍とも命中弾は得られなかった。
イタリア側も、旗艦[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]] (''{{lang|it|Vittorio Veneto}}'') から{{仮リンク|IMAM Ro.43 (航空機)|label=IMAM Ro.43|en|IMAM_Ro.43|it|IMAM_Ro.43}}水上機が発進して偵察を実施、連合国軍巡洋艦部隊を発見した。3つに別れていたイタリア艦隊の一つ、第3戦隊司令官{{仮リンク|ルイージ・サンソネッチ|en|Luigi_Sansonetti|it|Luigi_Sansonetti}}上級少将{{Efn|上級少将([[:it:Ammiraglio di divisione|Ammiraglio di divisione]])。英訳は{{lang|en|vice admiral}}。ただし、職席は戦隊司令官に限定される。}}が指揮する巡洋艦部隊(重巡洋艦[[トリエステ (重巡洋艦)|トリエステ]]、[[トレント (重巡洋艦)|トレント]]、[[ボルツァーノ (重巡洋艦)|ボルツァーノ]]、駆逐艦3隻)がイギリス巡洋艦部隊の攻撃にむかった。


クレタ島の南方海面で最初に直接砲火を交えたのは、ウィッペル提督(旗艦[[オーリーオーン|オライオン]])の[[:en:Force B|B部隊]] ({{lang|en|Force B}}) すなわち連合国軍巡洋艦部隊と{{Efn|B部隊:軽巡洋艦[[オライオン (軽巡洋艦)|オライオン]] (''{{lang|en|HMS Orion, 85}}'') 、[[エイジャックス (軽巡洋艦)|エイジャックス]] (''{{lang|en|HMS Ajax}}'') 、[[グロスター (軽巡洋艦・2代)|グロスター]] (''{{lang|en|HMS Gloucester, C62}}'') 、[[パース (軽巡洋艦)|パース]] (''{{lang|en|HMAS Perth, D29}}'') 、駆逐艦4隻([[ヘイスティ (駆逐艦・2代)|ヘイスティ]]、[[ヘレワード (駆逐艦)|ヘレワード]]、[[アイレクス (駆逐艦)|アイレクス]]、[[ヴェンデッタ (駆逐艦・初代)|ヴェンデッタ]])。}}、サンソネッチ提督の巡洋艦部隊であった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=30}}。8時12分、イタリア重巡洋艦(トリエステ、トレント、ボルツァーノ)が距離23,000メートル前後で砲撃を開始した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=30}}。B部隊は[[クイーン・エリザベス級戦艦]]が戦場に到着するまでの時間を稼ぐため距離をとろうとし、イタリア重巡部隊はそれを追撃した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=30}}。イギリス軍の動きを罠と考えたイアキーノ提督は8時55分にサンソネッチに対し追跡を中止するよう命じた。そのため、サンソネッチ部隊は北西に向かい戦闘は中断した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=30}}。この戦闘では両軍とも命中弾は得られなかった。
北西に向かったサンソネッチの部隊を追跡したプリダム・ウィッペルの部隊は、イタリアの戦艦[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]]と遭遇した。10時55分、ヴィットリオ・ヴェネトは砲撃を開始した。また、サンソネッチの部隊も攻撃のため向きを変えたが、イギリス艦隊は南へ逃走した。ヴィットリオ・ヴェネトが航空攻撃を受けたことで戦闘は停止した。ヴィットリオ・ヴェネトの砲撃で命中弾は出なかった。


北西に向かったサンソネッチの部隊を追跡したB部隊は、イアキーノ提督が座乗する戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと遭遇した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=31}}。10時55分、旗艦ヴィットリオ・ヴェネトは距離27,000メートル前後で砲撃を開始した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=31}}。また、サンソネッチ部隊も攻撃のため向きを変えたが、B部隊は南へ逃走した。ヴィットリオ・ヴェネトが航空攻撃を受けたことで戦闘は停止した。ヴィットリオ・ヴェネトの砲撃はB部隊旗艦オライオン (''{{lang|en|HMS Orion, 85}}'') に挟夾となり、機関故障を起こした軽巡[[グロスター (軽巡洋艦・2代)|グロスター]] (''{{lang|en|HMS Gloucester, C62}}'') や掩護の駆逐艦[[ヘイスティ (駆逐艦・2代)|ヘイスティ]] (''{{lang|en|HMS Hasty, H24}}'') などが危機に陥ったが、結局、命中弾は出なかった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=32}}。
攻撃したのは9時38分に空母[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]から発進していた[[フェアリー アルバコア|アルバコア]]6機で、11時27分にイタリア艦隊に対して攻撃を開始した。ヴィットリオ・ヴェネトに向けて発射された魚雷はすべて外れたが、敵空母の存在が明らかとなったことで11時40分にイアキーノ提督は撤退を決めた。

A部隊(本隊)では「新手のイタリア巡洋艦部隊接近」の偵察報告をうけて、B部隊を救うためフォーミダブルより[[フェアリー_フルマー|フルマー戦闘機]]2機と[[フェアリー アルバコア|アルバコア雷撃機]]6機が発進した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=87}}。1時間ほど飛行して戦場に到着すると、英連邦巡洋艦がヴィットリオ・ヴェネトにより窮地に追い込まれていたので、さっそくイタリア新鋭戦艦を攻撃する{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=87}}。11時27分、フォーミダブル第一次攻撃隊はイタリア新鋭戦艦に対して攻撃を開始した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=87}}。さらにイタリア艦隊の上空にいた[[Ju_88_(航空機)|Ju 88]] 2機のうち、1機が英戦闘機フルマーに撃墜されている{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=87}}。ヴィットリオ・ヴェネトに向けて発射された魚雷はすべて外れたが、敵空母の存在が明らかとなったことで11時40分にイアキーノ提督は撤退を決めた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=32}}。フォーミダブル第一次攻撃隊は戦果こそなかったが、味方巡洋艦部隊の危機を救ったのである{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=88}}。

また[[ロドス島]]より発進したイタリア空軍の[[サヴォイア・マルケッティ_SM.79|SM.79雷撃機]] 2機がフォーミダブルを襲撃したが、回避されている{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=32}}。


=== イギリス軍の航空攻撃 ===
=== イギリス軍の航空攻撃 ===
[[File:FlotaBritánicaEnMatapánMarzoDe1941--P00090.108.jpeg|right|thumb|250px|空母フォーミダブルを含むイギリス艦隊。]]
[[File:FlotaBritánicaEnMatapánMarzoDe1941--P00090.108.jpeg|right|thumb|250px|空母フォーミダブルを含むイギリス艦隊。]]


イギリス地中海艦隊は、[[イタリア半島]]にむけて撤退するイタリア艦隊を追撃した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=33}}。イギリス側は航空攻撃でイタリア艦隊(特に戦艦ヴェネト)に損害を与えて速度を落とさせることを企図した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=33}}。
12時5分、[[クレタ島]][[マレメ]]から発進した[[フェアリー ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]3機がイタリアの重巡洋艦ボルツァーノを攻撃したが失敗に終わった。15時20分、フォーミダブルから発進したアルバコア3機による攻撃がおこなわれ、ヴィットリオ・ヴェネトの左舷に魚雷1本が命中した。


12時5分、[[クレタ島]][[:en:Maleme|マレメ]]から発進した[[フェアリー ソードフィッシュ|ソードフィッシュ]]3機がイタリア重巡洋艦ボルツァーノ (''{{lang|it|Bolzano}}'') を攻撃したが失敗に終わった{{Efn|大破したイラストリアスから降りた[[:en:815_Naval_Air_Squadron|第815海軍飛行隊]]がクレタ島に配備されていた。}}。15時20分、フォーミダブルから発進した第二次攻撃隊(アルバコア3機、ソードフィッシュ2機、フルマー2機)がイタリア艦隊を襲撃する{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=88}}。偶然にもギリシャから飛来した[[イギリス空軍]] ({{lang|en|Royal Air Force}}) の[[ブリストル_ブレニム|ブレニム双発爆撃機]]がイタリア艦隊を攻撃しており、イタリア側の注意が分散した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=88}}。アルバコア3機による攻撃がおこなわれ、ヴィットリオ・ヴェネトの左舷に魚雷1本が命中した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=88}}。左舷側の[[スクリュー|推進器軸]]を破壊されたヴィットリオは、一時的に航行不能となる{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=89}}。イギリス側は[[:en:829_Naval_Air_Squadron|第829海軍飛行隊]]のアルバコア1機(飛行隊長ダニエル・ステッド少佐)が撃墜された{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=89}}。
19時30分頃、フォーミダブルから発進したアルバコア6機とクレタ島マレメから発進したソードフィッシュ2機がイタリア艦隊を捕捉した。この攻撃隊の攻撃で19時58分に重巡洋艦[[ポーラ (重巡洋艦)|ポーラ]]の右舷に魚雷1本が命中した。


もしヴィットリオ・ヴェネトがこのまま動けなくなったら、[[ライン演習作戦]]で舵を破壊されたドイツ戦艦[[ビスマルク (戦艦)|ビスマルク]] (''{{lang|de|Bismarck}}'') と同じ運命を辿った筈である{{Efn|ビスマルクの舵を破壊したのは、空母[[アーク・ロイヤル (空母・初代)|アーク・ロイヤル]] (''{{lang|en|HMS Ark Royal, 91}}'') から発進した[[:en:810_Naval_Air_Squadron|第810海軍飛行隊]]と[[:en:818_Naval_Air_Squadron|第818海軍飛行隊]]のソードフィッシュから放たれた魚雷であった{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=92}}{{Sfn|壮烈!ドイツ艦隊|1985|pp=121-127|ps=英雷撃機の殊勲}}。}}。だがヴェネトは奇跡的に応急修理に成功し、18ノット程度を出せるようになった{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=89}}。イアキーノ提督は旗艦ヴェネトの周辺に重巡洋艦と駆逐艦を配置し、[[輪形陣]]となって退却を再開する{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=89}}。19時30分頃、フォーミダブル第三次攻撃隊(アルバコア6機、ソードフィッシュ2機)と、クレタ島マレメから発進したソードフィッシュ2機がイタリア艦隊輪形陣を捕捉、夜間雷撃を敢行する{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=89}}。探照灯の妨害や、対空砲火や煙幕をくぐりぬけ、19時58分に重巡洋艦[[ポーラ (重巡洋艦)|ポーラ]] (''{{lang|it|Pola}}'') に魚雷1本が命中した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=90}}。ポーラは航行不能になった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=35}}。
20時48分、イアキーノは第1戦隊司令官[[:en:Carlo Cattaneo (admiral)|カルロ・カッタネオ]]上級少将に対し損傷したポーラの援護に向かうように命じた。そして、重巡洋艦[[ザラ (重巡洋艦)|ザラ]]、[[フィウメ (重巡洋艦)|フィウメ]]、4隻の駆逐艦がポーラの元へ向かった。

イギリス地中海艦隊主力(A部隊)の位置を知らなかったイアキーノ提督は、偵察機の報告(旗艦ヴェネトより後方約130キロメートル)と、陸上基地からの情報(旗艦ヴェネトより後方約300キロメートル)を比較して、後者を信用した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=90}}。20時48分、イアキーノ提督は第1巡洋艦戦隊司令官{{仮リンク|カルロ・カッタネオ|en|Carlo_Cattaneo_(admiral)|it|Carlo Cattaneo (ammiraglio)}}上級少将に対し、損傷したポーラの援護に向かうように命じた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=35}}。ザラに将旗を掲げるカッタネオ提督は直率の重巡洋艦[[ザラ (重巡洋艦)|ザラ]] (''{{lang|it|Zara}}'') 、[[フィウメ (重巡洋艦)|フィウメ]] (''{{lang|it|Fiume}}'') 、駆逐艦4隻([[:en:Italian_destroyer_Vittorio_Alfieri|アルフィエーリ]]、[[:en:Italian_destroyer_Giosuè_Carducci|カルデッシ]]、[[:en:Italian destroyer Alfredo Oriani|オリアーニ]]、[[:en:Italian_destroyer_Vincenzo_Gioberti|ギオベルティ]])を率いてヴェネト輪形陣から分離し、反転してポーラの元へ向かった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=35}}。


=== 夜間の戦闘 ===
=== 夜間の戦闘 ===
20時15分、先行していたプリダム・ウィッペルの巡洋艦がレーダーで重巡洋艦ポーラを探知した。22時10分には戦艦[[ヴァリアント (戦艦)|ヴァリアント]]のレーダーもそれを捉えた。続いて重巡洋艦ザ、フィウメなど捉えられた。
20時15分、先行していたB部隊の巡洋艦がレーダーで重巡洋艦ポーラを探知した。22時10分には戦艦[[ヴァリアント (戦艦)|ヴァリアント]]{{Efn|ヴァリアントには、[[フィリップ_(エディンバラ公)|フィリップ]]王子(のちの[[エリザベス2世]]王配)が海軍士官として勤務していた。}}のレーダーもそれを捉えた。続いてポー救援のため接近中のカッタネオ部隊など捉えた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=36}}。A部隊の大型艦は[[単縦陣]]を形勢しており、空母フォーミダブルが分離したのち、砲撃戦の準備をおこなう


22時27分、戦艦[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]]が重巡洋艦フィウメに対して砲火を開いた。戦艦ウォースパイト、ヴァリアント、[[バーラム (戦艦)|バーラム]]の砲撃を受けた重巡洋艦フィウメ、ザラ、駆逐艦[[ヴィットーリオ・アルフィエーリ (駆逐艦)|ヴィットーリオ・アルフィエーリ]]の3隻は短時間で大破炎上した。
22時27分、戦艦[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]](カニンガム提督旗艦)が重巡洋艦フィウメに対して砲火を開いた。イギリス戦艦3隻(ウォースパイト、ヴァリアント、[[バーラム (戦艦)|バーラム]]の砲撃を受けたイタリア側3隻(フィウメ、ザラ、ヴィットーリオ・アルフィエーリは短時間で大破炎上した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=37}}


フィウメは23時頃に沈没した。ザラも、駆逐艦[[ジャーヴィス (J級駆逐艦)|ジャーヴィス]]に魚雷を打ち込まれて29日2時40分に沈んだ。ヴィットリオ・アルフィエーリは23時15分に駆逐艦[[スチュアート (駆逐艦)|スチュアート]]によって沈められた。
フィウメは23時頃に沈没した。ザラも、[[:en:14th_Destroyer_Flotilla|第14駆逐艦隊]] ({{lang|en|14th Destroyer Flotilla}}) の英駆逐艦[[ジャーヴィス (J級駆逐艦)|ジャーヴィス]] (駆逐隊司令[[:en:Philip_Mack|フィリップ・マック]]大佐)に魚雷を打ち込まれて[[3月29日]]2時40分に沈んだ{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=37}}カッタネオ提督はザラ沈没時に戦死した。イタリア駆逐艦[[:it:Vittorio_Alfieri_(cacciatorpediniere)|ヴィットリオ・アルフィエーリ]] (''{{lang|it|Vittorio Alfieri}}'') は23時15分に豪州海軍駆逐艦[[スチュアート (駆逐艦)|スチュアート]] (''{{lang|en|HMAS Stuart}}'') などによって沈められた{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=37}}


また、イタリア駆逐艦[[ジョズエ・カルドゥッチ (駆逐艦)|ジョズエ・カルドゥッチ]]も駆逐艦[[ハヴォック (駆逐艦)|ハヴォック]]の攻撃で23時30分に沈没した。そして、重巡洋艦ポーラも乗員の救助後に駆逐艦ジャーヴィス[[ヌビアン (駆逐艦・2代)|ヌビアン]]が魚雷を打ち込み、29日4時10分に沈没した。
また、イタリア駆逐艦[[:it:Giosuè_Carducci_(cacciatorpediniere)|ジョズエ・カルドゥッチ]] (''{{lang|it|Giosuè Carducci}}'') 駆逐艦[[ハヴォック (駆逐艦)|ハヴォック]] (''{{lang|en|HMS Havock, H43}}'') などの攻撃で沈没した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=37}}。そして、重巡洋艦ポーラも乗員の救助後に駆逐艦ジャーヴィス[[ヌビアン (駆逐艦・2代)|ヌビアン]]が魚雷を打ち込み、29日4時10分に沈没した{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=38}}
カニンガム提督(旗艦ウォースパイト)はイタリア艦の沈没地点を敵側に連絡したので、イタリア側は[[病院船]][[:it:Gradisca (nave ospedale)|グラディスカ]] (''{{lang|it|Gradisca}}'') を派遣して救助をおこなった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=38}}。


== 参加艦艇 ==
== 参加艦艇 ==
=== イギリス海軍 ===
=== イギリス海軍 ===
<!-- 英語版ウィキペディア、木俣滋郎『大西洋、地中海の戦い』(2004)28頁参照 -->
地中海艦隊(A部隊、B部隊、D部隊)
地中海艦隊(A部隊、B部隊、D部隊)
*A部隊 アンドルー・カニンガム提督(地中海艦隊司令長官代理)
*A部隊({{lang|en|Force A}}) アンドルー・カニンガム提督(地中海艦隊司令長官代理)
:* 戦艦:[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]](旗艦)、[[バーラム (戦艦)|バーラム]]、[[ヴァリアント (戦艦)|ヴァリアント]]
:* 戦艦:[[ウォースパイト (戦艦)|ウォースパイト]](旗艦)、[[バーラム (戦艦)|バーラム]]、[[ヴァリアント (戦艦)|ヴァリアント]]
:* 空母:[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]
:* 空母:[[フォーミダブル (空母)|フォーミダブル]]([[:en:Denis Boyd|デニス・ボイド]]提督、{{lang|en|William La Touche Bisset}}艦長)
:** [[艦隊航空隊]]:[[:en:803 Naval Air Squadron|第803海軍飛行隊]]、[[:en:806_Naval_Air_Squadron|第806海軍飛行隊]]、[[:en:826_Naval_Air_Squadron|第826海軍飛行隊]]、[[:en:829_Naval_Air_Squadron|第829海軍飛行隊]]
:* 第10駆逐艦戦隊:駆逐艦:[[スチュアート (駆逐艦)|スチュアート]](HMAS)、[[グレイハウンド (駆逐艦・2代)|グレイハウンド]]、[[グリフィン (駆逐艦)|グリフィン]]、[[ハヴォック (駆逐艦)|ハヴォック]]、[[ホットスパー (駆逐艦)|ホットスパー]]
:* 第14駆逐艦:[[ジャーヴィス (J級駆逐艦)|ジャーヴィス]]、[[ジェーナス (駆逐艦・2代)|ジェーナス]]、[[ヌビアン (駆逐艦・2代)|ヌビアン]]、[[ホー (駆逐艦・2代)|ホー]]
:* [[:en:10th_Destroyer_Flotilla|10駆逐艦隊]]:駆逐艦:[[スチュアート (駆逐艦)|スチュアート]] (HMAS) 、[[グレイハウンド (駆逐艦・2代)|グレイハウンド]]、[[グリフィン (駆逐艦)|グリフィン]]、[[ハヴォック (駆逐艦)|ハヴォック]]、[[ットスパー (駆逐艦)|ホットスパー]]
:* [[:en:14th_Destroyer_Flotilla|第14駆逐艦隊]]:駆逐艦:[[ジャーヴィス (J級駆逐艦)|ジャーヴィス]]、[[ジェーナス (駆逐艦・2代)|ジェーナス]]、[[ヌビアン (駆逐艦・2代)|ヌビアン]]、[[モホーク (駆逐艦・2代)|モホーク]]
*B部隊 ヘンリー・プリダム・ウィッペル提督
*B部隊({{lang|en|Force B}}) ヘンリー・プリダム・ウィッペル提督
:* 軽巡洋艦:[[エイジャックス (軽巡洋艦)|エイジャックス]]、[[オライオン (軽巡洋艦)|オライオン]]、[[パース (軽巡洋艦)|パース]] (HMAS)、[[グロスター (軽巡洋艦・2代)|グロスター]]
:* 第2駆逐艦戦隊: 駆逐艦:[[イスティ (駆逐・2代)|イスティ]]、[[ヘレワード (駆逐艦)|ヘレワード]]、[[アイレクス (駆逐艦)|アイレクス]]、[[ヴェンデッタ (駆逐艦・代)|ヴェンデッタ]] (HMAS)
:* 軽巡洋艦:[[ジャックス (軽巡洋艦)|ジャックス]]、[[オライオン (軽巡洋艦)|オライオン]]、[[パース (軽巡洋艦)|パース]] (HMAS) 、[[グロス (軽巡洋艦・2代)|グロス]]
:* [[:en:2nd_Destroyer_Flotilla|第2駆逐艦隊]]:駆逐艦:[[ヘイスティ (駆逐艦・2代)|ヘイスティ]]、[[ヘレワード (駆逐艦)|ヘレワード]]、[[アイレクス (駆逐艦)|アイレクス]]、[[ヴェンデッタ (駆逐艦・初代)|ヴェンデッタ]] (HMAS)
*D部隊
*D部隊({{lang|en|Force D}})
:* 駆逐艦:[[ジュノー (駆逐艦)|ジュノー]]、[[ジャガー (駆逐艦)|ジャガー]]、[[ディフェンダー (駆逐艦)|ディフェンダー]]
:* 駆逐艦:[[ジュノー (駆逐艦)|ジュノー]]、[[ジャガー (駆逐艦)|ジャガー]]、[[ディフェンダー_(駆逐艦・2代)|ディフェンダー]]
輸送船団
* {{lang|en|AG 9 convoy}}(アレキサンドリア発、ギリシャ行き)
* {{lang|en|GA 8 convoy}} (ギリシャ発、アレクサンドリア行き)


=== イタリア海軍 ===
=== イタリア海軍 ===
<!-- イタリア語版ウィキペディア、木俣滋郎『大西洋、地中海の戦い』(2004)26-27頁参照 -->
本隊(アンジェロ・イアッキーノ中将)
本隊(総指揮官:[[:it:Angelo_Iachino|アンジェロ・イアッキーノ]]中将)
*艦隊旗艦 - 戦艦:[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]]
*艦隊旗艦(アンジェロ・イアッキーノ中将) - 戦艦:[[ヴィットリオ・ヴェネト (戦艦)|ヴィットリオ・ヴェネト]](大破)
:*第8駆逐隊 - 駆逐艦:グラナティーレ、フチニエーレ、ベルサリエーレ、アルピーノ
:*第13駆逐隊({{lang|it|XIII Squadriglia cacciatorpediniere}})- 駆逐艦:[[:it:Granatiere_(cacciatorpediniere_1938)|グラナティーレ]]、[[:it:Fuciliere_(cacciatorpediniere_1937)|フチニエーレ]]、[[:it:Bersagliere_(cacciatorpediniere_1939)|ベルサリエーレ]]、[[:it:Alpino_(cacciatorpediniere_1939)|アルピーノ]]
*第3戦隊(ルイージ・サンソネッチ上級少将)
:*第1巡洋艦隊 - 重巡洋艦:[[トレント (重巡洋艦)|トレント]]、[[トリエステ (重巡洋艦)|トリエステ]]、[[ボルツァーノ (重巡洋艦)|ボルツァーノ]]、
*第3巡洋艦隊({{lang|it|III Divisione Incrociatori}})([[:it:Luigi_Sansonetti|ルイージ・サンソネッチ]]上級少将) - 重巡洋艦:[[トレント (重巡洋艦)|トレント]]、[[トリエステ (重巡洋艦)|トリエステ]]、[[ボルツァーノ (重巡洋艦)|ボルツァーノ]]、
:*第7駆逐隊 - 駆逐艦:コラツィエーレ、カラビニエーレ、アスカリ
:*第12駆逐隊({{lang|it|XII Squadriglia cacciatorpediniere}}) ​- 駆逐艦:[[:it:Corazziere_(cacciatorpediniere_1939)|コラツィエーレ]][[:it:Carabiniere_(cacciatorpediniere_1938)|カラビニエーレ]][[:it:Ascari_(cacciatorpediniere)|アスカリ]]
*偵察隊(カルロ・カッタネオ上級少将)
偵察隊([[:it:Carlo_Cattaneo_(ammiraglio)|カルロ・カッタネオ]]上級少将)
:*第1隊 - 重巡洋艦:[[ザラ (重巡洋艦)|ザラ]](沈没)、[[フィウメ (重巡洋艦)|フィウメ]](沈没)、[[ポーラ (重巡洋艦)|ポーラ]](沈没)
*第1巡洋艦({{lang|it|I Divisione Incrociatori}})(カルロ・カッタネオ上級少将) - 重巡洋艦[[ザラ (重巡洋艦)|ザラ]](沈没)、[[フィウメ (重巡洋艦)|フィウメ]](沈没)、[[ポーラ (重巡洋艦)|ポーラ]](沈没)
:*第9駆逐隊 - 駆逐艦:ヴィットリーオ・アルフィエーリ(沈没)、ジョズエ・カルドゥッチ(沈没)、アルフレード・オリアーニ、ヴィンチェンツォ・ジョベルティ
:*第9駆逐隊({{lang|it|IX Squadriglia cacciatorpediniere}}) - 駆逐艦:[[:it:Vittorio_Alfieri_(cacciatorpediniere)|ヴィットリーオ・アルフィエーリ]](沈没)、[[:it:Giosuè_Carducci_(cacciatorpediniere)|ジョズエ・カルドゥッチ]](沈没)、[[:it:Alfredo_Oriani_(cacciatorpediniere)|アルフレード・オリアーニ]][[:it:Vincenzo_Gioberti_(cacciatorpediniere)|ヴィンチェンツォ・ジョベルティ]]
*第8巡洋艦隊({{lang|it|VIII Divisione Incrociatori}})([[:it:Antonio_Legnani|アントニオ・レグナーニ]]上級少将) - 軽巡洋艦:[[ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ (軽巡洋艦)|ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ]]、[[ジュゼッペ・ガリバルディ (軽巡洋艦)|ジュゼッペ・ガリバルディ]]
*第8戦隊(アントニオ・レグナーニ上級少将) 
:*第16駆逐隊({{lang|it|XVI Squadriglia cacciatorpediniere}}) - 駆逐艦:[[:it:Nicoloso_da_Recco_(cacciatorpediniere)|エマヌエレ・ペッサーノ]]、[[:it:Emanuele_Pessagno_(cacciatorpediniere)|ニコロソ・ダ・レッコ]]
:*第2巡洋艦隊 - 軽巡洋艦:[[ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ (軽巡洋艦)|ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィ]]、[[ジュゼッペ・ガリバルディ (軽巡洋艦)|ジュゼッペ・ガリバルディ]]
:*第16駆逐隊 駆逐艦:エマヌエレ・ペッサーノ、ニコロソ・ダ・レッコ


== その後 ==
== その後 ==
海戦の結果、イタリア海軍内部では、[[現存艦隊主義|艦隊保全主義]]の考えがいっそう強くなり、もっぱら本国周辺で活動するようになった。その反面、東地中海で、イギリス海軍の制海権に対抗するものは、ドイツ空軍だけという状況になった。
マタパン岬沖海戦は、[[:en:Fast_battleship|新鋭高速戦艦]]1隻が大破し、[[ザラ級重巡洋艦]]3隻と駆逐艦2隻をうしなったイタリア王立海軍の大敗北であった{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=38}}。本海戦の結果、イタリア海軍内部では、[[現存艦隊主義|艦隊保全主義]]の考えがいっそう強くなり、もっぱら本国周辺で活動するようになった{{Sfn|三野地中海の戦い|1993|p=103}}。東地中海で、イギリス海軍の制海権に対抗するものは、ドイツ空軍だけという状況になった{{Efn|name=""列強臨戦130}}

本海戦でほとんど損害をうけなかったイギリス海軍だが{{Sfn|ヨーロッパ列強戦史|2004|p=38}}、間もなく試練が訪れる。連合国軍は4月下旬にギリシャからの撤退を余儀なくされ([[第二次世界大戦時のギリシャ]]){{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=105-110|ps=ギリシャ情勢とクレタ島をめぐる戦い}}、5月下旬の[[クレタ島の戦い|クレタ島攻防戦]]で陸軍・海軍とも大損害を受ける{{Sfn|列強の臨戦態勢|1941|pp=131-132|ps=原本239-241頁(第二七、トリポリその他西地中海の海戰)}}{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=39,256-261}}。マタパン岬沖海戦で連合国勝利の立役者となった戦艦ウォースパイトや空母フォーミダブルも、スツーカの[[急降下爆撃]]で大破し、戦線を離脱した{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=72|ps=四、一九四一年五月二十日~六月一日のクレタ島からのイギリス陸軍撤退作戦}}{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=93}}。


==連合軍の勝因==
==連合軍の勝因==
イギリス海軍は、あらためて[[航空母艦]]の有用性を証明した{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=66}}。本海戦において、地中海艦隊の空母フォーミダブル (''{{lang|en|HMS Formidable, R67}}'') および同艦の攻撃隊により、イタリア王立海軍は大打撃を蒙る{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=313}}。最新鋭の[[ヴィットリオ・ヴェネト級戦艦]]([[:it:Classe_Littorio|リットリオ級戦艦]])ですら、[[航空母艦]]にその地位を脅かされた{{Efn|ただし、攻撃隊に[[戦闘機]]を付随させる必要や、防御側に空母や戦闘機がいた場合の対処については、深く認識しなかったようである{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|p=91}}。}}。また[[イラストリアス級航空母艦]]を含めイギリス海軍の空母は、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]や[[アメリカ海軍]]の大型空母と比較して搭載機数が少なく{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=45-48|ps=(4)英空母の能力と航空機の比較}}、[[艦上機]]の性能でも見劣りした{{Sfn|マッキンタイヤー、空母|1985|pp=46-49|ps=英海軍、空母搭載機の調達に悩む}}。それでもイギリス海軍の[[艦隊航空隊]]は旧式機を活用して、地中海でイタリア艦隊を相手に効果的な攻撃を行った{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|p=47}}。
連合軍の勝因は戦力の優位だけでなくイギリス海軍のレーダーによるものが大きかった。今回の海戦の勝敗を分けたのはレーダー装備の有無、その性能差によるところが大きい<ref>世界の艦船増刊第67集</ref>。
イタリア海軍は、大型商船改造空母[[アキラ (空母)|アクィラ]] (''{{lang|it|Aquila}}'') 、[[スパルヴィエロ (空母)|スパルヴィエロ]] (''{{lang|it|Sparviero}}'') の建造を急ぐ。だが、2隻とも[[イタリアの降伏]]までに完成しなかった{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=362-364|ps=●航空母艦の有無の問題}}。

またイギリス海軍のレーダーも、勝敗を大きく左右した{{Sfn|三野、地中海の戦い|1993|pp=359-360|ps=●レーダーの威力}}。[[夜戦]]において海戦の勝敗を分けたのはレーダー装備の有無、その性能差によるところが大きい<ref>世界の艦船増刊第67集</ref>。

== 出典 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}

=== 脚注 ===
{{reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
<!-- ウィキペディア推奨スタイル、著者五十音順 -->
* <!-- キマタ2004 -->{{Cite book|和書|author=木俣滋郎|chapter=(2)マタパン岬の海戦|title=大西洋・地中海の戦い {{small|ヨーロッパ列強戦史}}|publisher=光人社|series=光人社NF文庫|date=2004-02|origyear=1986|ISBN=978-4-7698-3017-7|ref={{SfnRef|ヨーロッパ列強戦史|2004}}}}
* <!-- タラント1998 -->V・E・タラント 『戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦―』 井原裕司訳、元就出版社、1998年、ISBN 4-906631-38-X
* <!-- ハンブル1985 -->{{Cite book|和書|author1=リチャード・ハンブル 著|author2=実松譲 訳|date=1985-12|title=壮烈!ドイツ艦隊 {{smaller|悲劇の戦艦「ビスマルク」}}|publisher=サンケイ出版|series=第二次世界大戦文庫(26)|isbn=4-383-02445-9|ref={{SfnRef|壮烈!ドイツ艦隊|1985}}}}
* <!-- ベッカー1973 -->{{Cite book|和書|author=カーユス・ベッカー|coauthors=松谷健二 訳|date=1973-07|chapter=第4部 地中海の戦い|title=呪われた海 {{smaller|ドイツ海軍戦闘記録}}|publisher=フジ出版社|series=|isbn=|ref={{SfnRef|呪われた海|1973}}}}
* <!-- マッキンタイヤー1985 -->{{Cite book|和書|author=ドナルド・マッキンタイヤー 著|coauthors=寺井義守 訳|date=1985-10|chapter=3.独・伊の主力艦、英空母に敗る|title=空母 {{smaller|日米機動部隊の激突}}|publisher=株式会社サンケイ出版|series=第二次世界大戦文庫23|isbn=4-383-02415-7|ref={{SfnRef|マッキンタイヤー、空母|1985}}}}
* <!-- ミノ1993 -->{{Cite book|和書|author1=三野正洋|author2=|date=1993-06|chapter=|title=地中海の戦い|publisher=朝日ソノラマ|series=文庫版新戦史シリーズ|isbn=4-257-17254-1|ref={{SfnRef|三野、地中海の戦い|1993}}}}
<!-- 日本語版では日本語文献優先 -->
* Jack Greene and Alessandro Massignani, ''The Naval War in the Miditerranean'', Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
* Jack Greene and Alessandro Massignani, ''The Naval War in the Miditerranean'', Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
* Geoffrey Bennett, ''Naval Battles of World War Two'', Pen & Sword Books, 2003, ISBN 0-85052-989-1
* Geoffrey Bennett, ''Naval Battles of World War Two'', Pen & Sword Books, 2003, ISBN 0-85052-989-1
* V・E・タラント 『戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦―』 井原裕司訳、元就出版社、1998年、ISBN 4-906631-38-X



==出典・引用・脚注==
*[http://dl.ndl.go.jp/ 国立国会図書館デジタルコレクション] - [[国立国会図書館]]
<references />
**{{Cite book|和書|author=中外商業新報政治部 編|date=1941-12|title=烈強の臨戦態勢 <small>経済力より見たる抗戦力</small>|chapter=第四章 今次大戦に於ける海戦の様相|url={{NDLDC|1460267}}|publisher=東洋経済新報社|ref={{SfnRef|列強の臨戦態勢|1941}}}}

== 関連項目 ==
* [[:it:Naviglio_militare_italiano_della_seconda_guerra_mondiale|イタリア王立海軍艦隊一覧、戦闘序列]]
* [[:en:List of task forces of the Royal Navy|イギリス海軍任務部隊一覧]]
* [[フィリップ (エディンバラ公)]] - 戦艦ヴァリアントに乗艦して本海戦に参加。
* [[大艦巨砲主義]]
* 洋上で行動中の[[戦艦]]に対し、航空機の優位性が明白になった[[航空戦|海空戦]]。
** [[ライン演習作戦]]
** [[マレー沖海戦]]
** [[レイテ沖海戦]]


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2021年8月8日 (日) 14:01時点における版

マタパン岬沖海戦

軽巡洋艦パース、エイジャックス、オライオン
戦争第二次世界大戦
年月日1941年3月27日-3月29日
場所地中海ギリシャマタパン岬
結果:連合軍の勝利
交戦勢力
イギリス海軍 オーストラリア海軍  イタリア海軍
指導者・指揮官
アンドルー・カニンガム
ヘンリー・プリダム・ウィッペル
アンジェロ・イアキーノ
カルロ・カッタネオ 
ルイージ・サンソネッチ
アントニオ・レグナーニ
戦力
空母1、戦艦3、軽巡洋艦3、駆逐艦17、基地航空隊[注釈 1] 戦艦1、重巡洋艦6、軽巡洋艦2、駆逐艦17
損害
軽巡1損傷軽微[注釈 2]
雷撃機1機[注釈 3]
重巡洋艦3、駆逐艦2沈没、戦艦1大破
戦死約2,300名、捕虜約1,100名
地中海の戦い

マタパン岬沖海戦[2][3](マタパンみさきおきかいせん、: Battle of Cape Matapan, : Battaglia di Capo Matapan)は、第二次世界大戦中のギリシャ・イタリア戦争において、1941年(昭和16年)3月下旬に地中海イギリス海軍及びオーストラリア海軍を基幹とする連合国軍と、イタリア王立海軍 (Regia Marina) の間で行われた海戦[4]地中海攻防戦[注釈 4]

ギリシャアレクサンドリア間で運行されていた連合国輸送船団を撃滅するためイタリア艦隊が出撃し[6]、これを英連邦の各艦で編成された地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) が迎撃した[7]艦隊航空隊雷撃機アルバコアソードフィッシュ)によりイタリア新鋭戦艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) と重巡洋艦1隻が大破、さらに地中海艦隊の追撃によりイタリア側の損害が拡大する[8]夜戦ザラ級重巡洋艦3隻と駆逐艦2隻が沈没し、多数の将兵が戦死[注釈 5]。 イギリス海軍は地中海戦線の優勢を固めるとともに[注釈 6]戦艦に対する航空母艦の優位性を内外に示すことになった[11]

背景

1940年(昭和15年)10月28日イタリア王国アルバニアからギリシャへの侵攻を開始した[12]ギリシャ・イタリア戦争[13]。だがイタリア軍はギリシャ軍に撃退され、逆にアルバニアへ侵攻された[14]。これを見かねたナチス・ドイツが武力を背景にした外交で枢軸国への強制参加を着々と進め、1941年(昭和16年)3月1日ブルガリアが、3月25日にはユーゴスラヴィアが枢軸国に加わった。そして、ソ連侵攻を控えたドイツ軍はイギリス軍の脅威を排除するためギリシャ侵攻を予定していた。

イタリア王立海軍はイタリア半島南部のターラント主力艦を集結させて存在感を示したが(現存艦隊主義)、11月12日深夜から13日未明にかけて地中海艦隊 (Mediterranean Fleet) 所属の装甲空母イラストリアス (HMS Illustrious, R87) に奇襲される[15]。旧式の艦上攻撃機により、イタリア戦艦3隻が戦闘不能となった[16]タラント空襲[17][注釈 7]

イタリア王立空軍 (Regia Aeronautica) も地中海の制空権を握っておらず、同盟国を支援するためドイツ空軍 (Luftwaffe) が助っ人として地中海戦域に登場した[19][注釈 6]。 1941年(昭和16年)1月10日、第10航空兵団英語版ドイツ語版Ju-87 スツーカ (Junkers Ju 87 Stuka) はMC4作戦(エクセス作戦)に従事中のイギリス地中海艦隊を攻撃し[20]、イラストリアスを撃破して戦線離脱に追い込んだ[21][22]。イラストリアスに配備されていた艦隊航空隊のうち、第815海軍飛行隊などがクレタ島に配置転換された[注釈 8]

同年2月14日、イタリア海軍のアルトゥーロ・リッカルディ海軍参謀長英語版イタリア語版と、ドイツ海軍 (Kriegsmarine) のエーリヒ・レーダー元帥がミラノで会談を行った。ドイツ側は、エジプト・ギリシャ間の補給路(イギリス地中海艦隊の輸送船団)をイタリア艦隊で阻止するよう求めたが、イタリア側は反対した[23]

イギリス海軍は大破したイラストリアスの代艦として[24]姉妹艦フォーミダブル (HMS Formidable, R67) を地中海艦隊に配備した[25]。戦力を再編すると同時に、2月25日にはドデカネス諸島カステロリゾ島占領を試み(アブステンション作戦)、3月にはギリシャへの陸軍部隊の移送(ラスター作戦)を開始した。このようなイギリス軍の動きもあり、ドイツや作戦実行を求めていたアンジェロ・イアキーノ中将[注釈 9]などの圧力もあって、イタリア海軍総司令部英語版イタリア語版は作戦実行を決定した。アレクサンドリアの英戦艦2隻が損傷中などの誤情報もあり、3月26日にイアキーノ提督が率いるイタリア艦隊はイタリア各地から出撃、洋上で集結した[23][注釈 10]

イタリア艦隊は、イアキーノ提督(旗艦ヴェネト)直率の主力部隊(戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと随伴駆逐艦、ルイージ・サンソネッチ提督〈重巡トレントトリエステボルツァーノ、駆逐艦部隊〉)、カルロ・カッタネオ上級少将の偵察艦隊(カッタネオ提督〈重巡ザラフィウメポーラ、駆逐艦部隊〉、アントニオ・レグナーニ英語版イタリア語版提督〈軽巡ルイージ・ディ・サヴォイア・ドゥーカ・デッリ・アブルッツィジュゼッペ・ガリバルディ、駆逐艦部隊〉)に分割されていた[26]

経過

戦闘前

3月26日未明、クレタ島北岸のスダ湾ドイツ語版イタリア語版に停泊していた連合軍艦隊に、イタリア王立海軍の特別攻撃艇英語版イタリア語版特殊作戦を決行[注釈 4]、タンカー1隻と英重巡洋艦ヨーク (HMS York, 90) を航行不能とした(スダ湾襲撃)。

イギリス軍は通信傍受や暗号解読などにより、イタリア王立海軍による船団攻撃を予期した。航行中であったAG9船団(エジプトからギリシャへ向かう船団)は引き返させ[注釈 11]3月27日にギリシャから出発予定であったGA8船団 (GA 8 convoy) はギリシャに留め置いた[注釈 12]ショート サンダーランド飛行艇が進撃中のイタリア艦隊を発見したので、イギリス側も対応策を講じる[23]。 同27日夕方以降、アレクサンドリアからアンドルー・カニンガム提督率いるイギリス地中海艦隊が出撃した[23][注釈 13]。さらに、エーゲ海で行動中であったウィッペル中将指揮下の巡洋艦部隊(Force B)にも地中海艦隊本隊(A部隊)への合流が命じられた[27]

最初の戦闘

3月28日払暁、イギリス海軍のA部隊(Force A)所属の空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) より、艦上攻撃機アルバコアソードフィッシュ)が偵察に向かった[28]。アルバコアはイタリア巡洋艦部隊の存在を掴んだ[23]。 イタリア側も、旗艦ヴィットリオ・ヴェネト (Vittorio Veneto) からIMAM Ro.43英語版イタリア語版水上機が発進して偵察を実施、連合国軍巡洋艦部隊を発見した。3つに別れていたイタリア艦隊の一つ、第3戦隊司令官ルイージ・サンソネッチ英語版イタリア語版上級少将[注釈 14]が指揮する巡洋艦部隊(重巡洋艦トリエステトレントボルツァーノ、駆逐艦3隻)がイギリス巡洋艦部隊の攻撃にむかった。

クレタ島の南方海面で最初に直接砲火を交えたのは、ウィッペル提督(旗艦オライオン)のB部隊 (Force B) すなわち連合国軍巡洋艦部隊と[注釈 15]、サンソネッチ提督の巡洋艦部隊であった[29]。8時12分、イタリア重巡洋艦(トリエステ、トレント、ボルツァーノ)が距離23,000メートル前後で砲撃を開始した[29]。B部隊はクイーン・エリザベス級戦艦が戦場に到着するまでの時間を稼ぐため距離をとろうとし、イタリア重巡部隊はそれを追撃した[29]。イギリス軍の動きを罠と考えたイアキーノ提督は8時55分にサンソネッチに対し追跡を中止するよう命じた。そのため、サンソネッチ部隊は北西に向かい戦闘は中断した[29]。この戦闘では両軍とも命中弾は得られなかった。

北西に向かったサンソネッチの部隊を追跡したB部隊は、イアキーノ提督が座乗する戦艦ヴィットリオ・ヴェネトと遭遇した[30]。10時55分、旗艦ヴィットリオ・ヴェネトは距離27,000メートル前後で砲撃を開始した[30]。また、サンソネッチ部隊も攻撃のため向きを変えたが、B部隊は南へ逃走した。ヴィットリオ・ヴェネトが航空攻撃を受けたことで戦闘は停止した。ヴィットリオ・ヴェネトの砲撃はB部隊旗艦オライオン (HMS Orion, 85) に挟夾となり、機関故障を起こした軽巡グロスター (HMS Gloucester, C62) や掩護の駆逐艦ヘイスティ (HMS Hasty, H24) などが危機に陥ったが、結局、命中弾は出なかった[1]

A部隊(本隊)では「新手のイタリア巡洋艦部隊接近」の偵察報告をうけて、B部隊を救うためフォーミダブルよりフルマー戦闘機2機とアルバコア雷撃機6機が発進した[31]。1時間ほど飛行して戦場に到着すると、英連邦巡洋艦がヴィットリオ・ヴェネトにより窮地に追い込まれていたので、さっそくイタリア新鋭戦艦を攻撃する[31]。11時27分、フォーミダブル第一次攻撃隊はイタリア新鋭戦艦に対して攻撃を開始した[31]。さらにイタリア艦隊の上空にいたJu 88 2機のうち、1機が英戦闘機フルマーに撃墜されている[31]。ヴィットリオ・ヴェネトに向けて発射された魚雷はすべて外れたが、敵空母の存在が明らかとなったことで11時40分にイアキーノ提督は撤退を決めた[1]。フォーミダブル第一次攻撃隊は戦果こそなかったが、味方巡洋艦部隊の危機を救ったのである[32]

またロドス島より発進したイタリア空軍のSM.79雷撃機 2機がフォーミダブルを襲撃したが、回避されている[1]

イギリス軍の航空攻撃

空母フォーミダブルを含むイギリス艦隊。

イギリス地中海艦隊は、イタリア半島にむけて撤退するイタリア艦隊を追撃した[33]。イギリス側は航空攻撃でイタリア艦隊(特に戦艦ヴェネト)に損害を与えて速度を落とさせることを企図した[33]

12時5分、クレタ島マレメから発進したソードフィッシュ3機がイタリア重巡洋艦ボルツァーノ (Bolzano) を攻撃したが失敗に終わった[注釈 16]。15時20分、フォーミダブルから発進した第二次攻撃隊(アルバコア3機、ソードフィッシュ2機、フルマー2機)がイタリア艦隊を襲撃する[32]。偶然にもギリシャから飛来したイギリス空軍 (Royal Air Force) のブレニム双発爆撃機がイタリア艦隊を攻撃しており、イタリア側の注意が分散した[32]。アルバコア3機による攻撃がおこなわれ、ヴィットリオ・ヴェネトの左舷に魚雷1本が命中した[32]。左舷側の推進器軸を破壊されたヴィットリオは、一時的に航行不能となる[34]。イギリス側は第829海軍飛行隊のアルバコア1機(飛行隊長ダニエル・ステッド少佐)が撃墜された[34]

もしヴィットリオ・ヴェネトがこのまま動けなくなったら、ライン演習作戦で舵を破壊されたドイツ戦艦ビスマルク (Bismarck) と同じ運命を辿った筈である[注釈 17]。だがヴェネトは奇跡的に応急修理に成功し、18ノット程度を出せるようになった[34]。イアキーノ提督は旗艦ヴェネトの周辺に重巡洋艦と駆逐艦を配置し、輪形陣となって退却を再開する[34]。19時30分頃、フォーミダブル第三次攻撃隊(アルバコア6機、ソードフィッシュ2機)と、クレタ島マレメから発進したソードフィッシュ2機がイタリア艦隊輪形陣を捕捉、夜間雷撃を敢行する[34]。探照灯の妨害や、対空砲火や煙幕をくぐりぬけ、19時58分に重巡洋艦ポーラ (Pola) に魚雷1本が命中した[37]。ポーラは航行不能になった[38]

イギリス地中海艦隊主力(A部隊)の位置を知らなかったイアキーノ提督は、偵察機の報告(旗艦ヴェネトより後方約130キロメートル)と、陸上基地からの情報(旗艦ヴェネトより後方約300キロメートル)を比較して、後者を信用した[37]。20時48分、イアキーノ提督は第1巡洋艦戦隊司令官カルロ・カッタネオ英語版イタリア語版上級少将に対し、損傷したポーラの援護に向かうように命じた[38]。ザラに将旗を掲げるカッタネオ提督は直率の重巡洋艦ザラ (Zara) 、フィウメ (Fiume) 、駆逐艦4隻(アルフィエーリカルデッシオリアーニギオベルティ)を率いてヴェネト輪形陣から分離し、反転してポーラの元へ向かった[38]

夜間の戦闘

20時15分、先行していたB部隊の巡洋艦がレーダーで重巡洋艦ポーラを探知した。22時10分には戦艦ヴァリアント[注釈 18]のレーダーもそれを捉えた。続いてポーラ救援のため接近中のカッタネオ部隊などを捉えた[39]。A部隊の大型艦は単縦陣を形勢しており、空母フォーミダブルが分離したのち、砲撃戦の準備をおこなう。

22時27分、戦艦ウォースパイト(カニンガム提督旗艦)が重巡洋艦フィウメに対して砲火を開いた。イギリス戦艦3隻(ウォースパイト、ヴァリアント、バーラム)の砲撃を受けたイタリア側3隻(フィウメ、ザラ、ヴィットーリオ・アルフィエーリ)は短時間で大破炎上した[40]

フィウメは23時頃に沈没した。ザラも、第14駆逐艦隊 (14th Destroyer Flotilla) の英駆逐艦ジャーヴィス (駆逐隊司令フィリップ・マック大佐)に魚雷を打ち込まれて3月29日2時40分に沈んだ[40]。カッタネオ提督はザラ沈没時に戦死した。イタリア駆逐艦ヴィットリーオ・アルフィエーリ (Vittorio Alfieri) は23時15分に豪州海軍駆逐艦スチュアート (HMAS Stuart) などによって沈められた[40]

また、イタリア駆逐艦ジョズエ・カルドゥッチ (Giosuè Carducci) も英駆逐艦ハヴォック (HMS Havock, H43) などの攻撃で沈没した[40]。そして、重巡洋艦ポーラも乗員の救助後に英駆逐艦(ジャーヴィス、ヌビアン)が魚雷を打ち込み、29日4時10分に沈没した[41]。 カニンガム提督(旗艦ウォースパイト)はイタリア艦の沈没地点を敵側に連絡したので、イタリア側は病院船グラディスカ (Gradisca) を派遣して救助をおこなった[41]

参加艦艇

イギリス海軍

地中海艦隊(A部隊、B部隊、D部隊)

  • A部隊(Force A) アンドルー・カニンガム提督(地中海艦隊司令長官代理)
  • B部隊(Force B) ヘンリー・プリダム・ウィッペル提督
  • D部隊(Force D

輸送船団

  • AG 9 convoy(アレキサンドリア発、ギリシャ行き)
  • GA 8 convoy (ギリシャ発、アレクサンドリア行き)

イタリア海軍

本隊(総指揮官:アンジェロ・イアッキーノ中将)

偵察艦隊(カルロ・カッタネオ上級少将)

  • 第1巡洋艦隊(I Divisione Incrociatori)(カルロ・カッタネオ上級少将) - 重巡洋艦:ザラ(沈没)、フィウメ(沈没)、ポーラ(沈没)

その後

マタパン岬沖海戦は、新鋭高速戦艦1隻が大破し、ザラ級重巡洋艦3隻と駆逐艦2隻をうしなったイタリア王立海軍の大敗北であった[41]。本海戦の結果、イタリア海軍内部では、艦隊保全主義の考えがいっそう強くなり、もっぱら本国周辺で活動するようになった[42]。東地中海で、イギリス海軍の制海権に対抗するものは、ドイツ空軍だけという状況になった[注釈 6]

本海戦でほとんど損害をうけなかったイギリス海軍だが[41]、間もなく試練が訪れる。連合国軍は4月下旬にギリシャからの撤退を余儀なくされ(第二次世界大戦時のギリシャ[43]、5月下旬のクレタ島攻防戦で陸軍・海軍とも大損害を受ける[44][45]。マタパン岬沖海戦で連合国勝利の立役者となった戦艦ウォースパイトや空母フォーミダブルも、スツーカの急降下爆撃で大破し、戦線を離脱した[46][47]

連合軍の勝因

イギリス海軍は、あらためて航空母艦の有用性を証明した[48]。本海戦において、地中海艦隊の空母フォーミダブル (HMS Formidable, R67) および同艦の攻撃隊により、イタリア王立海軍は大打撃を蒙る[49]。最新鋭のヴィットリオ・ヴェネト級戦艦リットリオ級戦艦)ですら、航空母艦にその地位を脅かされた[注釈 19]。またイラストリアス級航空母艦を含めイギリス海軍の空母は、日本海軍アメリカ海軍の大型空母と比較して搭載機数が少なく[51]艦上機の性能でも見劣りした[52]。それでもイギリス海軍の艦隊航空隊は旧式機を活用して、地中海でイタリア艦隊を相手に効果的な攻撃を行った[53]。 イタリア海軍は、大型商船改造空母アクィラ (Aquila) 、スパルヴィエロ (Sparviero) の建造を急ぐ。だが、2隻ともイタリアの降伏までに完成しなかった[54]

またイギリス海軍のレーダーも、勝敗を大きく左右した[55]夜戦において海戦の勝敗を分けたのはレーダー装備の有無、その性能差によるところが大きい[56]

出典

注釈

  1. ^ クレタ島に臨時配備されていた第815海軍飛行隊(イラストリアス)など。
  2. ^ イタリア戦艦の砲撃が至近弾となった軽巡オライオン (HMS Orion, 85) [1]
  3. ^ 第829海軍航空隊(フォーミダブル)の所属機。
  4. ^ a b 第二五、クリート島爭奪戰[5](中略)ギリシヤが未だ余喘を保つてゐた三月の末頃イギリス地中海艦隊はクリート島スダ灣を根城として暴威を振つてゐた。三月廿六日、イタリー艦隊は夜陰に乗じてスダ灣に奇襲を試み碇泊地中のイギリス艦隊に砲撃を加へ一隻を撃沈したと公表してゐるが、これは廿八日夜の遭遇戰の前哨戦であつた。
     夜襲とは小癪なとイギリス艦隊も腹を立て奮然攻撃に出たものと解される。イタリーの發表では、この海戰で「中型巡洋艦三隻、驅逐艦二隻、合計五隻を失つたが、敵方の大型巡洋艦一隻の側に大型砲彈を命中せしめて撃沈し、外他の二隻にも大損害を與へた」と言つてゐる。これに對してイギリスは「廿八日の海戰においてイタリーのリツトリオ級主力艦(三五,〇〇〇トン)一隻に損害を與へ、巡洋艦二隻に致命的打撃を與へた」と公表してゐる。夜の海戰の事であるから戰果について的確な數字を擧げ得ないのは當然であらうが、彼此綜合して見るとイタリーの巡洋艦三隻は大損害を受けて基地に歸る途中沈没したものであらう。乗組員の多數が救助されたと發表してゐるのはそのためだと思はれる。イギリスは自國艦隊の損害沈没については一切口を緘してゐるし、海戰の模様に就いても何も語つてゐないが、これだけの犠牲を出したのであるから相當大掛りな海戰で、激闘が交へられた事は想像に難くない。
  5. ^ 重巡3隻(ザラフィウメポーラ)と駆逐艦2隻(ヴィットリーオ・アルフィエーリジョズエ・カルドゥッチ)が沈没した[9]
  6. ^ a b c 第二六、獨伊空軍の英艦隊急襲[10] 此頃ドイツは英本土の空襲を間斷なく繼續しながらも、空軍に綽々たる余裕をもち、地中海、北阿作戰におけるイタリー危しと見て救援に馳せ向つたのである。これに氣を得たイタリー空軍もドイツ空軍と協力して隋所にイギリス艦隊を空爆してゐる。廿八日エーゲ海においてイタリー空軍はイギリスの護送船團、艦隊並に碇泊中の船舶を強襲し、航空母艦一隻及び巡洋艦二隻に猛爆を加へ、内巡洋艦一隻を撃沈した。廿九日にはドイツ空軍がマルタ島のハルフア飛行場を爆撃してゐるし、東地中海では獨伊共同でイギリス艦隊に猛攻を加へ、イタリーの雷撃機は巡洋艦一隻に魚雷を命中せしめ、爆撃機も航空母艦一隻に爆彈三個を命中せしめた。防禦の手薄な航空母艦のことであるから損傷は大きかつたであらう。
     以上の如く地中海の海上では空海入亂れての激戰が續けられたが、卅日に至つてまたもや東地中海で伊英の海戰が表はれた。イギリスはこの海戰の戰果を次の如く數字を擧げて詳細に公表してゐる、「英軍は伊巡洋艦フィウメ、ポラ、ザラ(各一萬トン、八吋砲八門搭載、一九三〇-三一年完成)の三隻並に驅逐艦ヴインチンツオ・ジョベルチ(一,七三九トン、一九三六年完成) マエストラーレ(一,四四九トン、一九三四年完成)の二隻を撃沈した」と、これに對してイタリーは乙級巡洋艦ジオヴアンニ・デレ・バンデ・ネーレ號(五,〇六九トン、一九三一年竣工)を撃沈したものと推定されるとのイギリスの發表を全然否定し、クリート島附近のイギリス艦隊の損傷をイギリス海軍省が如何に發表するか深甚なる注意を以て期待すると公表してゐる。
     お互に駈引もあらう、逆宣傳もあらうから公表の何割かを割引して受取らねば大勢を見誤る惧れはあるが、地中海における伊英艦隊の爭覇戰は、イタリーがイギリス艦隊に與へた打撃の代償としては寧ろ大きに過ぎる犠牲を拂ひ、イタリーは艦隊だけで決戰するに足る比率を割つてしまつたといふ感が深く、地中海の制海権は依然としてイギリスの手中に存すると言つても強ち正鵠を失した見方ではあるまいと思ふ。/ ここに於てかイタリーはドイツと協力して、空軍及び潜水艦によるイギリス艦隊撃攘の作戰をとるに至つたのである。勿論小競はあつた。それは四月十六日トリポリ近海の海戰の如く双方驅逐艦を失つた程度のものであつた。
  7. ^ 大破着底3隻(リットリオカイオ・ドゥイリオコンテ・ディ・カブール)、健在3隻(ヴィットリオ・ヴェネトジュリオ・チェザーレアンドレア・ドーリア[18]
  8. ^ イラストリアスの第824海軍飛行隊は空母イーグル (HMS Eagle) と陸上基地に配置転換し、第819海軍飛行隊は第815海軍飛行隊に統合された。
  9. ^ 中将(Ammiraglio di squadra)。英訳はSquadron Vice Admiral。フランス語のVice-amiral d'escadreより転じて。
  10. ^ 旗艦ヴェネトの護衛は第10駆逐隊(マエストラーレグレカーレリベッチオシロッコ)だったが、出港後に第13駆逐隊(グラナティーレ、フチニエーレ、ベルサリエーレ、アルピーノ)へ交代したという。
  11. ^ 軽巡2隻(カルカッタカーライル)や駆逐艦(ディフェンダージャガーヴァンパイア)が護衛していた。
  12. ^ 軽巡ボナヴェンチャー (HMS Bonaventure, 31) や駆逐艦(デコイジュノー)などが護衛していた。
  13. ^ この時点でのイギリス地中海艦隊は、クイーン・エリザベス級戦艦3隻(ウォースパイトヴァリアントバーラム)と空母フォーミダブルを基幹としていた[27]
  14. ^ 上級少将(Ammiraglio di divisione)。英訳はvice admiral。ただし、職席は戦隊司令官に限定される。
  15. ^ B部隊:軽巡洋艦オライオン (HMS Orion, 85) 、エイジャックス (HMS Ajax) 、グロスター (HMS Gloucester, C62) 、パース (HMAS Perth, D29) 、駆逐艦4隻(ヘイスティヘレワードアイレクスヴェンデッタ)。
  16. ^ 大破したイラストリアスから降りた第815海軍飛行隊がクレタ島に配備されていた。
  17. ^ ビスマルクの舵を破壊したのは、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) から発進した第810海軍飛行隊第818海軍飛行隊のソードフィッシュから放たれた魚雷であった[35][36]
  18. ^ ヴァリアントには、フィリップ王子(のちのエリザベス2世王配)が海軍士官として勤務していた。
  19. ^ ただし、攻撃隊に戦闘機を付随させる必要や、防御側に空母や戦闘機がいた場合の対処については、深く認識しなかったようである[50]

脚注

  1. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 32.
  2. ^ 福田誠、光栄出版部 編集『第二次大戦海戦事典 W.W.II SEA BATTLE FILE 1939~45』光栄、1998年、ISBN 4-87719-606-4、262ページ
  3. ^ 『世界の艦船 増刊第41集 イタリア戦艦史』海人社、1994年、126ページ
  4. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 71b-72三、一九四一年三月二十八日のマタパン岬沖海戦
  5. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 129–130原本235-237頁
  6. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 25.
  7. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 98a-103マタパン岬沖海戦
  8. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 101.
  9. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 112–123第二期/一九四一年一月~六月の年表 A.イタリア海軍の艦艇の損失
  10. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 130–131原本237-239頁
  11. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 85a-92マタパン岬沖海戦
  12. ^ 呪われた海 1973, p. 229.
  13. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 38–39(五)ギリシャ侵攻
  14. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 86–89イタリアのギリシャ侵攻
  15. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 68–72英空母機、タラント軍港を奇襲
  16. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 71a二、一九四〇年十一月十一日~十二日のタラント港夜間攻撃
  17. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 82–86タラント夜襲
  18. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 242–247(1)タラント港奇襲
  19. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 97.
  20. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 80.
  21. ^ 呪われた海 1973, p. 231.
  22. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 82–85袋だたきの英空母
  23. ^ a b c d e マッキンタイヤー、空母 1985, p. 86.
  24. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 98b.
  25. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 85b.
  26. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, pp. 26–27.
  27. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 28.
  28. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 29.
  29. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 30.
  30. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 31.
  31. ^ a b c d マッキンタイヤー、空母 1985, p. 87.
  32. ^ a b c d マッキンタイヤー、空母 1985, p. 88.
  33. ^ a b ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 33.
  34. ^ a b c d e マッキンタイヤー、空母 1985, p. 89.
  35. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 92.
  36. ^ 壮烈!ドイツ艦隊 1985, pp. 121–127英雷撃機の殊勲
  37. ^ a b マッキンタイヤー、空母 1985, p. 90.
  38. ^ a b c ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 35.
  39. ^ ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 36.
  40. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 37.
  41. ^ a b c d ヨーロッパ列強戦史 2004, p. 38.
  42. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 103.
  43. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 105–110ギリシャ情勢とクレタ島をめぐる戦い
  44. ^ 列強の臨戦態勢 1941, pp. 131–132原本239-241頁(第二七、トリポリその他西地中海の海戰)
  45. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 39, 256–261.
  46. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 72四、一九四一年五月二十日~六月一日のクレタ島からのイギリス陸軍撤退作戦
  47. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 93.
  48. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 66.
  49. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 313.
  50. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, p. 91.
  51. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 45–48(4)英空母の能力と航空機の比較
  52. ^ マッキンタイヤー、空母 1985, pp. 46–49英海軍、空母搭載機の調達に悩む
  53. ^ 三野、地中海の戦い 1993, p. 47.
  54. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 362–364●航空母艦の有無の問題
  55. ^ 三野、地中海の戦い 1993, pp. 359–360●レーダーの威力
  56. ^ 世界の艦船増刊第67集

参考文献

  • 木俣滋郎「(2)マタパン岬の海戦」『大西洋・地中海の戦い ヨーロッパ列強戦史』光人社〈光人社NF文庫〉、2004年2月(原著1986年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
  • V・E・タラント 『戦艦ウォースパイト―第二次大戦で最も活躍した戦艦―』 井原裕司訳、元就出版社、1998年、ISBN 4-906631-38-X
  • リチャード・ハンブル 著、実松譲 訳『壮烈!ドイツ艦隊 悲劇の戦艦「ビスマルク」』サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫(26)〉、1985年12月。ISBN 4-383-02445-9 
  • カーユス・ベッカー、松谷健二 訳「第4部 地中海の戦い」『呪われた海 ドイツ海軍戦闘記録』フジ出版社、1973年7月。 
  • ドナルド・マッキンタイヤー 著、寺井義守 訳「3.独・伊の主力艦、英空母に敗る」『空母 日米機動部隊の激突』株式会社サンケイ出版〈第二次世界大戦文庫23〉、1985年10月。ISBN 4-383-02415-7 
  • 三野正洋『地中海の戦い』朝日ソノラマ〈文庫版新戦史シリーズ〉、1993年6月。ISBN 4-257-17254-1 
  • Jack Greene and Alessandro Massignani, The Naval War in the Miditerranean, Chatham Publishing, 1998, ISBN 1-86176-190-2
  • Geoffrey Bennett, Naval Battles of World War Two, Pen & Sword Books, 2003, ISBN 0-85052-989-1


関連項目