「W・E・B・デュボイス」の版間の差分

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{{Infobox 作家
{{short description|アメリカの社会学者、歴史学者、社会主義者、活動家、作家。}}
| name = W・E・B・デュボイス<br />''W. E. B. Du Bois''
{{Infobox scientist
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|image = WEB DuBois 1918.jpg
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|alt = W・E・B・デュボイスの公式写真。あご髭と口髭を蓄えている。50歳頃
| caption = 1918年
|caption = W・E・B・デュボイス(1918年)
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| birth_name = ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス<br />(William Edward Burghardt Du Bois)
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[[ファイル:WEB Du Bois.jpg|right|200px|thumb|W・E・B・デュボイス]]
'''ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス'''(William Edward Burghardt Du Bois、[[1868年]][[2月23日]] - [[1963年]][[8月27日]])は、[[アメリカ合衆国]]の[[社会学者]]、[[公民権運動]]指導者、[[汎アフリカ主義]]、[[ブラック・ナショナリズム]]の先駆者、[[全米黒人地位向上協会]]の創立者。[[アフリカ系アメリカ人]]のイデオローグだが、父が[[ハイチ]]出身であるため[[ハイチ系アメリカ人]]でもある。


'''ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイス'''(''William Edward Burghardt Du Bois''、{{IPAc-en|dj|uː|ˈ|b|ɔɪ|s}} {{respell|dew|BOYSS|'}};<ref>{{cite book|title=W. E. B. Du Bois: Biography of a Race 1868–1919|first=David Levering|last=Lewis|publisher=Henry Holt and Co.|year=1993|page=11|location=New York City|url=https://books.google.com/books?id=tSoFQEbmhyMC&pg=PA11|quote=(デュボイスは)常に彼の姓の「正しい」発音を主張していた。彼はいつも「私の名前の発音はデュボイス(Due Boyss)です。アクセントは最後の音節にあります。」と発音を知らない人に根気強く説明した。|isbn=9781466841512}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://twitter.com/duboisumass/status/1062097731529924608|title=Image of letter to W. E. B. Du Bois with his handwritten annotations on how to pronounce his name|author=W. E. B. Du Bois Center @duboisumass|date=2018-11-12|website=Twitter.com|language=en|access-date=2019-05-12}}</ref>、1868年2月23日-1963年4月27日)はアメリカの[[社会学|社会学者]]、[[社会主義者]]、[[歴史家|歴史学者]]、[[公民権|公民権運動家]]、[[パン・アフリカ主義|パン・アフリカ主義者]]、作家、編集者。{{仮リンク|グレート・バリントン (マサチューセッツ州)|label=マサチューセッツ州グレート・バリントン|en|Great Barrington, Massachusetts}}で生まれ、比較的寛容かつ{{仮リンク|人種統合|label=統合|en|racial integration}}されたコミュニティで成長し、[[ベルリン大学]]と[[ハーバード大学]]を卒業して[[博士|博士号]]を取得した最初の[[アフリカ系アメリカ人]]となった。その後[[アトランタ大学]]で歴史・社会学・経済学の教授となった。アフリカ系アメリカ人のコミュニティに対する貢献から、{{仮リンク|ブラック・エリート|en|Black elite}}の一員であるとされ、また黒人優生学の一部の側面を支持していると見做されていた。デュボイスは[[全米黒人地位向上協会]](National Association for the Advancement of Colored People、NAACP)が1909年に設立された際の創立メンバーの1人でもある。
==生い立ちおよび教育==
デュボイスは、[[マサチューセッツ州]][[グレート・バリントン]]の村でアルフレッドとメアリー・デュボイス夫妻の間に生まれた。父親のアルフレッドは[[ハイチ]]出身であった。メアリーはネイティブ・アメリカンと黒人の混血、アルフレッドは白人と黒人の混血の[[ムラート]]だが、縮れた頭髪に黒人の血筋がうかがえるものの、外見的には白人と見分けがつかなかったとされ、デュボイス自身も晩年は浅黒さが抜けて肌が白くなっている。


NAACP結成以前からデュボイスは黒人の平等な権利を求めるアフリカ系アメリカ人活動家グループ、{{仮リンク|ナイアガラ運動|en|Niagara Movement}}のリーダーとして全国的に有名になっていた。デュボイスとその支持者たちは{{仮リンク|アトランタの妥協|en|Atlanta compromise}}に反対していた。これは[[ブッカー・T・ワシントン]]によって構築された合意で、南部の黒人たちが労働力を提供し白人の政治的支配に従う代わりに南部の白人たちは黒人たちが基礎教育を受けることと経済的機会を得ることを保障するというものであった。デュボイスはこの妥協に従うのではなく、完全なる市民権と政治的代表の増加を主張し、それはアフリカ系アメリカ人の知的エリートによってもたらされると考えていた。デュボイスはこの知的エリートのグループを[[:en:Racial uplift|Racial uplift]]下の概念として[[:en:Talented Tenth|Talented Tenth]]と呼び{{訳語疑問点|date=2020年6月}}、アフリカ系アメリカ人が指導力を強化するには高等教育の機会が必要であると考えていた。
デュボイスは高校時代、人種問題に対する関心を通して知的発展に拍車がかかった。彼は必死に学問に励み、[[ハーバード大学]]への入学を望んだ。しかしながら経済的問題でこの夢は叶わなかった。代わりに彼は[[テネシー州]][[ナッシュビル]]の[[フィスク大学]] (Fisk University) に入学した。


デュボイスが主に反論を加えたのは[[人種主義|レイシズム]]であり、彼は[[リンチ]]、[[ジム・クロウ法]]、教育と雇用における[[アメリカ合衆国の人種差別|差別]]に強く抗議した。彼の理念にはあらゆる場所の有色人種、特に植民地に住むアフリカ人とアジア人が含まれていた。デュボイスはパン・アフリカ主義の提唱者であり、ヨーロッパ勢力からアフリカの植民地が独立する戦いを行うために幾度も[[汎アフリカ会議|パン・アフリカ会議]]の組織化を支援した。デュボイスは何度かヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅した。[[第一次世界大戦]]後、彼は{{仮リンク|アフリカ系アメリカ人の軍事史|label=フランスにおける黒人兵士|en|Military history of African Americans}}の経験を調査し、アメリカ軍における広範な偏見と人種差別を記録した。
大学入学はデュボイスの[[アメリカ合衆国南部|アメリカ南部]]への最初の旅行になり、ここで彼は人種隔離政策と[[ジム・クロウ法]]に初めて直面した。夏の間にデュボイスはテネシー州アレキサンドリアの田舎の公立小中学校で教え、貧困と栄養失調からの病気に対する深い洞察力を得た。


デュボイスは多作な作家であった。彼のエッセイ集『''{{仮リンク|黒人のたましい|label=The Souls of Black Folk|en|The Souls of Black Folk}}''(日本語版タイトル:黒人のたましい)』は{{仮リンク|アフリカ系アメリカ人の文学|en|African-American literature}}において重要な作品であり、また1935年の大作『''[[Black Reconstruction|Black Reconstruction in America]]''』では[[リコンストラクション]]([[南北戦争]]後の南部の再建)の失敗は黒人に責任があるという一般的な教義に異論を唱えた。[[フレデリック・ダグラス]]からフレーズを借用し、アメリカ人の社会生活と政治生活で蔓延っている[[分離すれども平等]](Separate but equal)のドクトリンの不正を表現するものとして{{仮リンク|カラー・ライン (レイシズム)|label=カラー・ライン|en|Color line (racism)}}という用語を広めて一般化した。
フィスク大学を卒業した後に彼は奨学金を得、最終的にはハーバード大学で哲学と歴史を学ぶことができた。1890年に文学士号を得たデュボイスは、続いて大学院での研究を始める。1895年に彼はハーバードから博士号を受け取る最初のアフリカ系アメリカ人となった。彼は[[アフリカ系アメリカ人]]の置かれた状況について長年研究し、人種問題に社会科学を適用した。


彼は人生の大半における中心的なテーゼ「20世紀の問題とはカラー・ラインの問題である(The problem of the twentieth century is the problem of the color-line.)」によって「黒人大衆の魂(''The Souls of Black Folk'')」の冒頭を始めている。
==名前の発音==
「Du Bois」はフランス語で「森の」という意味を持ち、「デュボワ」と発音されるが、アメリカでは「デュボイス」と発音する。本人もそう読まれることを好んでいた<ref>[https://www.youtube.com/watch?v=QSY5eD8boqg How W.E.B. Du Bois Changed Forever the Way Americans Think About Themselves (2000) ]Remember This</ref>。


彼が1940年に書き上げた自伝『''[[Dusk of Dawn]]''』は部分的にはアメリカの社会学分野における最初の科学的論文であると見做されている。彼は他に2つの伝記を出版した。これら3つ全てに社会学・政治・歴史に関するエッセイが含まれている。NAACPの機関紙『''[[The Crisis]]''』の編集者としての役割の中でも、多くの影響力有る作品を発表した。デュボイスは[[資本主義]]がレイシズムの主たる原因であると考えており、生涯を通じて[[社会主義|社会主義者]]の理念に広く共鳴していた。また彼は熱烈な平和運動家であり、核軍縮を提唱していた。デュボイスが生涯にわたってキャンペーンを続けた多くの改革が具体化されたアメリカ合衆国の[[1964年公民権法|公民権法]]は、彼の死の1年後に制定された。
シカゴ・サンデー・イブニング・クラブ誌への1939年1月20日付けの手紙(デイヴィッド・レヴァーリング・ルイス著『W・E・B・デュボイス、人種の伝記』11ページ)で彼は「私の名前の発音は『Due Boyss』です。アクセントは後の音節にあります。」と書いた。彼は多くの人たちから「ドクター・デュボイス」として知られていた。


==公民権運動==
== 幼少期 ==
[[File:Congregational Church, Great Barrington, MA.jpg|thumb|right|upright|alt=レンガ造りの古い教会。周囲は木が生い茂っている|子供のころ、デュボイスは{{仮リンク|グレート・バリントン会衆派教会協会|label=会衆派教会|en|Society of the Congregational Church}}に出席した。教会のメンバーはデュボイスの大学の学費を支払うために寄付を集めた<ref>Horne, p. 7.</ref>。]]


ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイスは1868年2月23日に{{仮リンク|グレート・バリントン (マサチューセッツ州)|label=マサチューセッツ州グレート・バリントン|en|Great Barrington, Massachusetts}}でアルフレッド(Alfred)およびメアリー・シルヴィナ・デュボイス(Mary Silvina Du Bois、旧姓バーグハード〈Burghardt〉)の子として生まれた<ref>Lewis, p. 11.</ref>。メアリー・シルヴィナ・バーグハード一家はグレート・バリントンでは極めて少数の[[自由黒人]]であり、長期にわたりマサチューセッツ州で土地を保有していた。彼女の家系には{{仮リンク|オランダ系アメリカ人|label=オランダ系|en|Dutch Americans}}、{{仮リンク|アフリカ人ディアスポラ|label=アフリカ系|en|African diaspora}}、[[イギリス系アメリカ人|イギリス系]]の祖先がいた<ref>Lewis, pp. 14–15.</ref>。ウィリアム・デュボイスの高祖父(4代前)はトム・バーグハード(Tom Burghardt)である。彼は1730年頃に[[西アフリカ]]で生まれた{{仮リンク|アメリカ植民地の奴隷制|label=奴隷|en|Slavery in the colonial United States}}であった。コンレード・バーグハード(Conraed Burghardt)の所有であったトムは[[アメリカ独立戦争]]の間、短期間[[大陸軍 (アメリカ)|大陸軍]]に務めた。18世紀後半に彼が自由身分を手に入れたのはこれが理由だったかもしれない<ref name="Lewis13">Lewis, p. 13.</ref>。彼の息子はジャック・バーグハード(Jack Burghardt)、孫はオセロ・バーグハード(Othello Burghardt)であり、オセロがメアリー・シルヴィナ・バーグハードの父である<ref name="Lewis13"/>。
==共産党員==
{{要出典|範囲=デュボイスは[[連邦捜査局|FBI]]によって1942年5月に「彼の著作は彼が共産主義者であることを示している」として調査された。|date=2017年4月}}


ウィリアム・デュボイスは{{仮リンク|エリザベート・フリーマン|en|Elizabeth Freeman}}は自分の親戚であると主張していた。彼は彼女が自分の曽祖父ジャック・バーグハードと結婚したと書いている<ref>{{cite book|title=Dusk of Dawn|first=W. E. B.|last=Du Bois|publisher=Transaction Publishers|location=Piscataway, NJ|origyear=1940|year=1984|page=11}}</ref><ref>{{cite book|title=W. E. B. Du Bois: Biography of a Race 1868–1919|first=David Levering|last=Lewis|publisher=Henry Holt and Co.|year=1993|page=14|location=New York City}}</ref>。しかし、フリーマンはジャック・バーグハードより20歳も年上であり、そのような結婚の記録は見つかっていない。フリーマンの娘、ベッツィ・ハンフリー(Betsy Humphrey)は最初の夫ジョナ・ハンフリー(Jonah Humphrey)が「1811年頃」にこの地域を去り、またジャック・バーグハードの最初の妻が死亡した(1810年頃)後、ジャック・バーグハードと結婚したかもしれない。もしそうであるならば、エリザベート・フリーマンはウィリアム・デュボイスの義理の祖母ということになるであろう。状況証拠はジョナ・ハンフリーがジャック・バーグハードと結婚したことを支持しており、何等かの形で密接な関係があるものと思われる<ref name=piper>{{cite book |title=One Minute a Free Woman: Elizabeth Freeman and the Struggle for Freedom |first1=Emilie |last1=Piper |first2=David |last2=Levinson |publisher=Upper Housatonic Valley National Heritage Area |location= Salisbury, CT |year=2010 |isbn=978-0-9845492-0-7}}</ref>。
デュボイスは「[[大躍進政策]]」下の[[中華人民共和国]]を訪れ、その政策によって生じた飢饉に対する批判を支援しなかった。同時期に中華人民共和国を訪れた作家[[アンナ・ルイーズ・ストロング]]も『When Serfs Stood Up in Tibet』を出版したが、{{要出典|範囲=両名とも中華人民共和国政府の管理下の状況しか見ることができなかった。両名による当時の中華人民共和国の描写は真実を伝えていないとして非難される。|date=2017年4月}}


ウィリアム・デュボイスの父方の曽祖父は[[ニューヨーク州]][[ポキプシー (ニューヨーク州の市)|ポプキシー]]にいた[[ユグノー]]の[[フランス系アメリカ人]]ジェームズ・デュボイス(James Du Bois)であり、奴隷の女性との間に複数の子供を作っていた<ref name=Lewis17>Lewis, p. 17.</ref>。ジェームスが作った[[混血]]の息子の1人がアレクサンダー(Alexander)であり、1803年に[[バハマ]]の{{仮リンク|ロング・ケイ|en|Long Cay}}で生まれた。彼は1810年に父と共にアメリカ合衆国へ移住した<ref>{{cite book|first=Nahum Dimitri|last=Chandler|title=X: The Problem of the Negro as a Problem for Thought|year=2014|publisher=Fordham University Press|location=New York|isbn=978-0-8232-5407-1|pages=100–103|url=https://books.google.com/books?id=n0pGCgAAQBAJ&pg=PT118}}</ref>。アレクサンダー・デュボイスは[[ハイチ]]に行ってそこで働き、愛人との間に息子アルフレッド(Alfred)を設けた。アレクサンダーはコネチカットに戻ったが、アルフレッドは母親と共にハイチに残された<ref name="Lewis18">Lewis, p. 18.</ref>。
また、左翼系タブロイド誌たる{{日本語版にない記事リンク|ナショナル・ガーディアン|en|National Guardian}}1953年3月16日号において、{{要検証|=デュボイスは「[[ヨシフ・スターリン]]は偉大であった。20世紀においていかなる人物も彼の水準に達しなかった」と書いた。|date=2017年4月}}大躍進政策による飢餓およびスターリンの大粛清による何百万もの犠牲者と、それらが原因の大規模な荒廃が明白となり、デュボイスは後に非難された。


1860年に入る少し前、アルフレッド・デュボイスはアメリカ合衆国に移住し[[マサチューセッツ州|マサチューセッツ]]に住んだ。彼は1867年2月5日にメアリー・シルヴィナ・バーグハードと{{仮リンク|グレート・バリントン|en|Great Barrington}}の村{{仮リンク|フーサトニック (マサチューセッツ州)|label=フーサトニック|en|Housatonic, Massachusetts}}で結婚した<ref name="Lewis18"/>。1868年に彼らの間に息子ウィリアムが生まれ、その2年後の1870年にアルフレッドはメアリーの下を去った<ref>Lewis, p. 21. デュボイスはメアリーの家族がアルフレッドを追い出したことをほのめかしている。</ref>。メアリー・デュボイスは息子ウィリアムと共にグレート・バリントンの両親の家に戻り、ウィリアムが5歳になるまでそこで暮らした。メアリーは1880年代に[[脳卒中]]を患うまで家族を助けて(兄弟や隣人たちからいくらかの支援を受けながら)働いた。そして1885年に死亡した<ref>Rabaka, Reiland (2007), ''W. E. B. Du Bois and the Problems of the Twenty-first Century: An Essay on Africana Critical Theory'', Lexington Books, p. 165.<br />Lewis, pp. 29–30.</ref>。
デュボイスは[[朝鮮戦争]]が勃発すると、[[ピース・インフォメーション・センター]]の議長職を務め、[[核兵器]]の禁止のため精力的に活動した。{{要出典|範囲=彼は外国代理人登録行為の疑いで起訴されたが、証拠不十分のため免じられた。|date=2017年4月}}後年彼は[[黒人資本主義]]とアメリカ合衆国の両方に幻滅を感じるようになった。彼は1961年に[[アメリカ共産党]]員になり、[[ニューヨーク・タイムズ]]で入党を発表することに合意した。


グレート・バリントンの大多数は{{仮リンク|ヨーロッパ系アメリカ人|en|European American}}のコミュニティであり一般的にウィリアム・デュボイスに対する扱いは良かった。彼は白人と黒人が共に学ぶ学校に通い、白人の級友たちと遊んだ。大人になった時、彼は母子家庭の子供として感じた人種差別と町におけるマイノリティとしての経験について書いた。しかし教師は彼の能力を認識しており、彼の知的探求を励ました。そして学術研究におけるやりがいのある経験によって、彼は自分の知識を使ってアフリカ系アメリカ人に力を与えることができると考えるようになっていった<ref>Lewis, pp. 27–44.</ref>。デュボイスはグレート・バリントンの{{仮リンク|サールズ高校 (マサチューセッツ州グレート・バリントン)|label=サールズ高校|en|Searles High School}}を卒業した。デュボイスが大学に進学することを決めた時、彼が幼年期に通っていた{{仮リンク|グレート・バリントン会衆派教会協会|label=会衆派教会|en|Society of the Congregational Church}}は彼の学費を調達した<ref>Cebula, Tim, "Great Barrington", in Young, p. 91.<br />Horne, p. 7.<br />Lewis, pp. 39–40.</ref>。
==デュボイスと日本==
{{独自研究|section=1|date=2017年4月}}
[[日露戦争]]において[[ロシア帝国|帝政ロシア]]を破った日本に感銘を受けたデュボイスは、これを「有色人種のプライド」の発露の一例であると見た<ref>{{cite web|title=W.E.B. Du Bois: A Biography, Henry Holt and Co., Single volume edition, updated, of his 1994 and 2001 works, p.597.|url=http://books.google.com/books?id=BU4vH95YySgC W.E.B. Du Bois: A Biography|accessdate=June 13, 2015}}</ref>。[[ピューリッツァー賞]]を受賞したジャーナリスト、{{要出典|範囲=[[デイビッド・レバリング・ルイス]]によると、デュボイスはこれを機に[[疋田保一]]による「黒人プロパガンダ工作 (Negro Propaganda Operations)」へ自ら協力するようになる。|date=2017年4月}}


=== 大学教育 ===
疋田保一は、ハワード大学他の黒人大学の学生と会話をするためにアメリカへ渡った際、デュボイスの日本に対する好意的な意見を耳にする。[[1936年]]に疋田と日本大使はデュボイスを同僚の学者と共に視察旅行へと招き、日本や中国大陸の日本の支配地域を訪れさせた(当初は[[ソビエト連邦]]も行き先に含まれていたが、デュボイスの当地における連絡者であった[[カール・ラデック]]が[[ヨシフ・スターリン|スターリン]]により粛清されたためキャンセルされた)。中国大陸を訪れた際にデュボイスは、「[[中華民国]]の白人侵攻への服従とそれに対する日本の反抗が日中の不仲の原因である」と述べ、中国人に対し日本人を解放者として歓迎するように求めた。日本によるこの[[プロパガンダ]]工作の有効性は、デュボイスが入ったアフリカ系アメリカ人の学会が[[満州事変]]における日本軍の南満州占領・併合を肯定していたことにも確認できる。デュボイス自身は視察した満州について、「4年間で(日本が)成し遂げたものは素晴らしいとしか言いようがなく、人々は幸福で一人として職にあぶれている者はおらず、平和と秩序があった」と描写している<ref>*[http://www.umass.edu/afroam/downloads/allen.tak.pdf Satokata Takahashi and the Flowering of Black Messianic Nationalism]Jr. Ernest Allen.The Black Scholar: Journal of Black Studies and Research Volume 24, 1994, p8</ref>。
[[File:W. E. B. Du Bois Suppression of the African slave trade in the United States (cropped).jpg|thumb|left|upright|Tデュボイスのハーバード大学での研究論文の表紙。「''Suppression of the African Slave Trade in the United States of America: 1638–1871''(アメリカ合衆国におけるアフリカ人奴隷貿易の廃絶、1638年-1870年)」]]
隣人たちの寄付を頼って、デュボイスは[[テキサス州]][[ナッシュビル]]の{{仮リンク|歴史的黒人大学|en|historically black college}}である[[フィスク大学]]に入学し1885年から1888年まで学んだ<ref>Lewis, Catharine, "Fisk University", in Young, p. 81.</ref>。南部への旅と居住は彼にとって南部のレイシズムを初めて経験する場となった。当時の南部は[[ジム・クロウ法]]、偏見、黒人の投票の妨害、{{仮リンク|アメリカ合衆国におけるリンチ|label=リンチ|en|Lynching in the United States}}によって覆われており、リンチはこの後の10年間にピークを向かえる<ref>Lewis, pp. 56–57.</ref>。フィスク大学から[[学士|学位]]を取得した後、デュボイスは[[ハーバード大学]](当時フィスク大学の単位を認めていなかった)に入学して1888年から1890年まで学び、アメリカの有名な哲学者であった[[ウィリアム・ジェームズ]]から強い影響受けた。デュボイスはハーバードの3年分の学資をアルバイト(summer jobs)、遺産、奨学金、友人からの借金などで賄った。1890年、ハーバード大学はデュボイスに史上2番目となる[[ラテン・オナーズ|cum laude]]を授与した<ref>Lewis, pp. 69–80 (degree); p. 69 (funding); p. 82 (承前)デュボイスはハーバード大学に入学した6人目のアフリカ系アメリカ人であった。</ref>。1891年、デュボイスはハーバード大学の社会学大学院(the sociology graduate school{{訳語疑問点|date=2020年6月}})に入学するための奨学金を受け取った<ref>Lewis, p. 82.</ref>。


1892年、デュボイスは{{仮リンク|スレーター基金|label=John F. Slater Fund for the Education of Freedmen|en|Slater Fund}}から卒業研究のため[[ベルリン大学]]に入学するのに必要なフェローシップを授与された<ref>Lewis, p. 90.</ref>。ベルリン大学の学生時代にはヨーロッパ中を旅した。彼はベルリンで当代の識者(age intellectually{{訳語疑問点|date=2020年6月}})となり、[[グスタフ・フォン・シュモラー]]、[[アドルフ・ワーグナー (経済学者)|アドルフ・ワーグナー]]、[[ハインリヒ・フォン・タイトシュカ]]のようなドイツの最も著名な[[社会学者]]たちと学んだ<ref>Lewis, pp. 98–103.</ref>。デュボイスはドイツでの日々について「私はアメリカ世界の外にいる自分自身を見つけ出した。私と一緒にこの光景を見ている白人の人々-学生、知己、教師たち-がいた。彼らは必ずしも私を好奇心の対象として、あるいは人間以下の何かと見なすために立ち止まったわけではない。私はある意味特権的な学生という地位にいる男であり、この世界、特に私が来た世界の一部で彼らと会い話すことを喜んだ{{訳語疑問点|date=2020年6月}}<ref>{{cite book |first=Aldon |last=Morris |authorlink=:en:Aldon Morris |title=The Scholar Denied: W. E. B. Du Bois and the Birth of Modern Sociology |year=2015 |publisher=University of California Press |location=Oakland, CA|isbn=978-0-520-96048-0 |page=17 }}</ref>。」ヨーロッパから戻った後、1895年にデュボイスは大学院を修了し、ハーバード大学から[[Doctor of Philosophy]]を取得した最初のアフリカ系アメリカ人となった<ref>Williams, Yvonne, "Harvard", in Young, p. 99.<br /> His dissertation was ''The Suppression of the African Slave Trade to the United States of America, 1638–1871''.</ref>。
ちなみに、[[第二次世界大戦]]戦中・戦前期において、日本政府の後ろ盾のあった疋田とは別に、個人の立場から黒人運動に加担し、反白人運動を煽動した日本人に[[中根中]]がいた。彼とデュボイスの関係はまったく不明であるが、当時の黒人運動のある面において中根の与えた影響は小さくなかったと思われる。


=== ウィルバーフォース大学とフィラデルフィア ===
==米国市民権の放棄==
{{quote box
[[ファイル:WEB_Du_Bois_1946.jpg|right|200px|thumb|晩年のW・E・B・デュボイス(1946年)]]
|quote = 私と他の世界の間にはまだ問いかけられていない問題があります。...それはどのような問題だと感じていますか?...彼は常に自己の中に二つの存在を見ます。-即ちアメリカ人と黒人(ニグロ)です。2つの魂、2つの思想、2つの調和せざる努力、1つの黒い肉体(dark body)に2つの相容れない理想があり、彼の頑健さだけがそれをバラバラに引き裂いてしまわないよう保っている。...彼はアメリカをアフリカ化しようとはしないでしょう。アメリカの持っているものはあまりに多く、世界とアフリカに教えきれるものではないからです。黒人の魂を漂白しようともしないでしょう。なぜなら、彼は、黒人の知の中に世界に対する予言が流れていることを知っているからです。彼は単に一人の人間が仲間に冒涜されたり唾を吐きかけられることなく、面前で機会の扉をほとんど閉ざされることなく、黒人でありアメリカ人であることできるようにとを望んでいるのだけなのです<!--ほぼ同一の文が『黒人のたましい』冒頭にあるためそちらに切り替え予定。-->|source=—Du Bois, "Strivings of the Negro People", 1897<ref>Quoted by Lewis, pp. 143–145.</ref>
デュボイスは「アフリカ独立の父」と言われる[[ガーナ]]の[[クワメ・エンクルマ]][[大統領]]によって招待され、エンクルマが長年夢見ていた政府の事業、エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を監督した。デュボイスと妻のシャーリー・グレアム・デュボイスは米国籍を放棄し、ガーナに帰化した。デュボイスの健康状態は1962年に悪化し、彼は1963年8月27日に95歳で[[アクラ]]で死去した。妻のシャーリー・グレアム・デュボイスはエンクルマの失脚後に[[タンザニア]]に逃れ、1977年3月27日に80歳で[[中華人民共和国]]で死去して[[北京]]郊外の八宝山革命公墓に埋葬された<ref>{{cite web|url= https://www.cambridge.org/core/journals/du-bois-review-social-science-research-on-race/article/w-e-b-and-shirley-graham-du-bois-in-maoist-china1/6E4E596C1F3F4F874B6E8E6EE90F142F/core-reader|format=|title= W. E. B. AND SHIRLEY GRAHAM DU BOIS IN MAOIST CHINA1|publisher=Cambridge Core|date=2013-06-01|accessdate=2018-09-11}}</ref>。
|align = right
|width = 30em
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|bgcolor = #F0F0F0
}}


1894年の夏、デュボイスは名誉ある{{仮リンク|タスキーギ研究所|en|Tuskegee Institute}}からのものを含むいくつかの仕事の求人を受け、その中からオハイオ州の{{仮リンク|ウィルバーフォース大学|en|Wilberforce University}}での教職を受けた<ref>Gibson, Todd, "University of Pennsylvania", in Young, p. 210.<br />Lewis, p. 111.</ref>。ウィルバーフォース大学においてデュボイスは{{仮リンク|アレクサンダー・クルメル|en|Alexander Crummell}}から強い影響を受けた。彼は理念と倫理(ideas and morals)が社会の変革に必要なツールであると考えていた<ref>Lewis, pp. 118, 120.</ref>。同時に、デュボイスはウィルバーフォースで教え子の1人だったニナ・ゴマー(Nina Gomer)と1896年5月12日に結婚した<ref>Lewis, p. 126. ニナ・ゴマー・デュボイスはウィリアム・デュボイスの活動と経歴において重要な役割は演じていない(Lewis, pp. 135, 152–154, 232, 287–290, 296–301, 404–406, 522–525, 628–630を参照).</ref>。
1992年に[[アメリカ郵政公社]]はデュボイスを記念し彼の肖像を描いた[[切手]]を発行した。1994年10月5日に[[:en:W. E. B. Du Bois Library|マサチューセッツ大学・アマースト校の中央図書館(英語サイト)]]は彼にちなんで命名された。


ウィルバーフォース大学での2年間の後、デュボイスは[[ペンシルベニア大学]]から1896年夏の「assistant in sociology」として1年間の研究職に就くことを受諾した<ref>Lewis, pp. 128–129. デュボイスはペンシルベニア大学から教授職のオファーが1度も無かったことに憤慨した。</ref>。フィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人の地区で、社会学のフィールド調査を実施し、その成果は彼の記念碑的研究業績である1899年出版の『{{仮リンク|The Philadelphia Negro|en|The Philadelphia Negro}}』の基礎を作った。同時に彼は{{仮リンク|アトランタ大学|en|Atlanta University}}で教鞭を取った。これはアメリカ合衆国における最初の黒人コミュニティのケーススタディであった<ref>Horne, pp. 23–24.</ref>。1890年代までに、ペンシルベニアの黒人地区は犯罪・貧困・死亡率において不名誉な評判を得ていた。デュボイスの本は実証的根拠、ならびに人種隔離が黒人の生活および評判に与えるネガティブな影響についての彼の鋭いアプローチによってこのステレオタイプを覆した。この結果からデュボイスは人種統合はアメリカの都市における民主的平等の鍵となると認識するようになった<ref>Bulmer, Martin, "W. E. B. Du Bois as a Social Investigator: The Philadelphia Negro, 1899", in Martin Bulmer, Kevin Bales, and Kathryn Kish Sklar, eds. ''The Social Survey in Historical Perspective, 1880–1940'' (1991), pp. 170–188.</ref>。『The Philadelphia Negro』で採用された方法論、即ち説明(the description{{訳語疑問点|date=2020年6月}}と近隣地区の社会的特性の地図化(the mapping of social characteristics onto neighborhood areas{{訳語疑問点|date=2020年6月}})は社会学のシカゴ学派(the Chicago School)の研究の先駆を成すものであった<ref>{{Cite book|title=Encyclopedia of the City|last=Caves|first=R. W.|publisher=Routledge|year=2004|isbn=|location=|pages=199–200}}</ref>。
== 著作 ==

* ''Black Reconstruction in America, 1860-1880'' by W. E. Burghardt Du Bois, with introduction by Du Bois biographer [[:en:David Levering Lewis]], 768 pages. (Free Press: 1995, reissued from 1935 original) ISBN 0684856573.
1897年に{{仮リンク|American Negro Academy|en|American Negro Academy}}(ANA)に参加した際、デュボイスは黒人アメリカ人を白人社会へ統合するという[[フレデリック・ダグラス]]の請願(plea)を拒否する論文を発表した。その中で彼は「我々は黒人(Negrous)であり、創造以来眠りの中にあった広大なる歴史的人種の一員である。しかし、アフリカの祖国の暗い森の中で目覚めかけている。」と書いている<ref>Lewis, p. 123. The paper he presented was titled ''The Conservation of Races''.</ref>。月刊誌『{{仮リンク|The Atlantic (雑誌)|label=The Atlantic|en|The Atlantic}}』の1897年8月号において、デュボイスは「黒人たちの努力(''Strivings of the Negro People'')」を発表した。これは一般大衆を対象とした彼の初めての著作であり、アフリカ系アメリカ人は自身のアフリカの遺産を抱きつつアメリカ社会に貢献すべきであるという彼のテーゼを詳述した<ref>Lewis, pp. 143–144.</ref>。
* [http://www.gutenberg.org/dirs/1/7/7/0/17700/17700-h/17700-h.htm ''The Suppression of the African Slave Trade to the United States of America: 1638–1870'' Ph.D. dissertation, 1896, (Harvard Historical Studies, Longmans, Green, and Co.: New York) Full Text]

* ''The Study of the Negro Problems'' (1898)
== アトランタ大学 ==
* ''The Philadelphia Negro'' (1899)
1897年7月、デュボイスはフィラデルフィアを去り[[ジョージア州]]の歴史的黒人大学たる{{仮リンク|アトランタ大学|en|Atlanta University}}で、歴史と経済の教授となった<ref>Horne, p. 26.<br />Lewis, pp. 143, 155.</ref>。彼の最初のメジャー・アカデミーの研究となるのは著作『''The Philadelphia Negro''』(1899年)であり、彼が1896年-1897年に実施したフィールドワークに基盤を置いたフィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人の詳細かつ包括的な社会学的研究である。この研究はアフリカ系アメリカ人についての初めての科学的研究であり、黎明期のアメリカの科学的社会学に大きな貢献を残す、学術的なブレイクスルーであった<ref>{{cite journal|last1=Lange|first1=Werner J.|title=W. E. B. Du Bois and the First Scientific Study of Afro-America|journal=Phylon|date=1983|volume=44|issue=2|pages=135–146|doi=10.2307/275025|quote=W.E.B.デュボイスによって1894年から1915年にかけて始められたアフリカ文化とアフリカ系アメリカ人の本質と歴史についての先駆的な研究は、完全に科学的基盤に基づいた黒人についての族誌を代表し、同様にアメリカ合衆国からの社会科学文献における最初期のコーパスに対する主要な貢献を代表するものでもある{{訳語疑問点|date=2020年6月}}}}。</ref><ref>Donaldson, Shawn, "The Philadelphia Negro", in Young, p. 165. "『''The Philadelphia Negro''』は(都市)社会学とアフリカ系アメリカ人研究双方にとって古典である。なぜならば、それが最初の黒人(the Negro)についての科学的研究であり、最初のアメリカ合衆国における科学的社会学の研究であったためである</ref>。この研究においてデュボイスは黒人の下層階級を説明するために「the submerged tenth」というフレーズを作った。1903年の後半には社会的エリート階層を指す「{{仮リンク|The Talented Tenth|en|Talented Tenth}}(才能ある1割)」という用語を広めた<ref name="Lewis148">Lewis, p. 148.</ref>。デュボイスの用語は黒人と白人双方の国家的エリートが文化と進歩における成果において重要であるという彼の見解を反映したものである<ref name="Lewis148"/>。デュボイスはこの時代において、最下層階級(the submerged tenth)の人々を「怠惰(lazy)」または「危うい(unreliable)」という軽蔑を込めた表現で書いていたが、(他の著作家とは異なって)彼らの社会的問題の多くは奴隷制度の爪痕に起因するとしている<ref>Lewis, pp. 140, 148 (underclass), 141 (slavery).</ref>。
* ''The Negro in Business'' (1899)

* ''The Evolution of Negro Leadership''. ''The Dial'', 31 (July 16, 1901).
予算的制約にも関わらずアトランタ大学における彼の成果は驚異的なものとなった。膨大な数の社会科学論文を作成し、毎年{{仮リンク|黒人問題に関するアトランタ会議|en|Atlanta Conference of Negro Problems}}(Atlanta Conference of Negro Problems)を主宰した<ref>Lewis, pp. 158–160.</ref>。デュボイスはまたアフリカ系アメリカ人の労働人口と文化の報告準備のためにアメリカ政府から助成金を受け取っていた<ref>Lewis, pp. 161, 235 (Department of Labor); p. 141 (Bureau of Labor Statistics).</ref>。デュボイスの生徒たちは彼を素晴らしい人であるが、厳格で親しみづらい教師であると考えていた<ref name="auto">Lewis, p. 157.</ref>。
* {{cite book

|title=[[:en:The Souls of Black Folk]] |year=1903 |isbn=0-393-97393-X}}
=== 初のパン・アフリカ会議===
** W.E.B. デュボイス/黄寅秀、[[木島始]]、鮫島重俊訳『黒人のたましい』[[岩波書店]]〈[[岩波文庫]]〉、1992年2月。
1900年、デュボイスは{{仮リンク|第1回汎アフリカ会議|label=第1回パン・アフリカ会議|en|First Pan-African Conference}}に参加した。この会議は[[ロンドン]]で7月23日から25日まで開かれた(これは[[パリ万国博覧会 (1900年)|1900年のパリ万国博覧会]]の直前であり、アフリカ人の来賓が両方のイベントに参加できるようにするためであった)<ref name=Bandele>Ramla Bandele, [http://diaspora.northwestern.edu/mbin/WebObjects/DiasporaX.woa/wa/displayArticle?atomid=461 "Pan-African Conference in 1900"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20130922122851/http://diaspora.northwestern.edu/mbin/WebObjects/DiasporaX.woa/wa/displayArticle?atomid=461 |date=2013-09-22 }}, Article #461, Origins of the movement for global black unity, Global Mappings.</ref>。この会議は[[ハイチ]]人{{仮リンク|オンテノー・フィルマン|en|Anténor Firmin}}、{{仮リンク|ベニート・シルヴァン|en|Bénito Sylvain}}、[[トリニダード・トバゴ|トリニダード]]人弁護士(barrister)の{{仮リンク|ヘンリー・シルヴェスター・ウィリアムズ|en|Henry Sylvester Williams}}といったカリブ人の男性たちによって組織された<ref>[http://www.newint.org/features/2000/08/05/simply/ "A history of Pan-Africanism"], ''New Internationalist'', 326, August 2000.</ref>。ヨーロッパ諸国の指導者たちにレイシズムとの闘争、アフリカおよび西インド諸島の植民地に[[自治]]権を与えること、アフリカ系アメリカ人が政治およびその他の権利を要求することを認めるように彼らに訴える書簡(''Address to the Nations of the World'')が作られ、デュボイスはこれの起草において主導的な役割を果たした<ref name=Address>[http://www.blackpast.org/?q=1900-w-e-b-du-bois-nations-world "(1900) W. E. B. Du Bois, 'To the Nations of the World'"], BlackPast.org.</ref>。この頃までに、アメリカの南部諸州はアフリカ系アメリカ人の大半の権利を{{仮リンク|リコンストラクション以降の権利の剥奪|label=剥奪|en|Disfranchisement after Reconstruction era}}する新しい法律と憲法を通過させており、この政治システムからの除外は1960年代まで続くことになる。
** W・E・B・デュボイス/[[木島始]]、[[黄寅秀]]、[[鮫島重俊]]訳『黒人のたましい』[[未來社]]、2006年9月ISBN 4624410890、

* ''[[:en:The Talented Tenth]],'' second chapter of ''The Negro Problem'', a collection of articles by African Americans (September 1903).
パン・アフリカ会議において出席者たちは満場一致で「''Address to the Nations of the World''」を採択し、アフリカ系の人々が居住し抑圧に苦しんでいる国々に向けてそれを送った<ref name="Oxford Companion">Sivagurunathan, Shivani, "Pan-Africanism", in David Dabydeen. John Gilmore, Cecily Jones (eds), ''The Oxford Companion to Black British History'', Oxford University Press, 2007, pp. 259–260.</ref>。これはアメリカ合衆国およびヨーロッパの帝国主義諸国が「アフリカ系の人々の権利を認め保護する」こと、そして「[[エチオピア|アビシニア]]、[[リベリア]]、[[ハイチ]]のような自由な黒人の国家」の完全性と独立を尊重することを求めた<ref>[http://www.blackpast.org/?q=perspectives/pan-african-congresses-1900-1945 The Pan-African Congresses, 1900–1945], BlackPast.org.</ref>。司教{{仮リンク|アレクサンダー・ワルターズ|en|Alexander Walters}}({{仮リンク|汎アフリカ協会|label=パン・アフリカ協会|en|Pan-African Association}}議長)、カナダ人牧師ヘンリー・B・ブラウン(Henry B. Brown、副議長)、ウィリアムズ(Williams、書記長)、そしてデュボイス(宣言委員会議長)がこれに署名した<ref>[http://www.houseofknowledge.org.uk/site/documents/neoGarveyismCorner/1900%20Conference%20resolution.pdf 1900 Pan-African Conference Resolution]. (PDF) Source: Ayodele Langley, ''Ideologies of Liberation in Black Africa'', London: [[Rex Collings]], 1979, pp. 738–739.</ref>。この宣言には「20世紀の問題は{{仮リンク|カラー・ライン (レイシズム)|label=カラー・ライン|en|Color line (racism)}}の問題である」というデュボイスの見解が含まれていた。彼は3年後に著書『''The Souls of Black Folk''』(1903年)の「Forethought」において再びこの見解を使用した<ref>Edwards, Brent Hayes (2009), [https://books.google.com/books?id=3D9FE-UfYxEC&pg=PA33&lpg=PA33&dq=%22The+problem+of+the+Twentieth+Century+is+the+problem+of+the+colour-line%22+souls&source=bl&ots=1e0MsvsENx&sig=wEnyvxyl6E-A9LTsqwop7lYhgnY&hl=en&sa=X&ei=XTL0UteIKOPD7AaUlIHQBA&redir_esc=y#v=onepage&q=%22The%20problem%20of%20the%20Twentieth%20Century%20is%20the%20problem%20of%20the%20colour-line%22%20souls&f=false "The Practice of Diaspora"], in Janice A. Radway, Kevin Gaines, Barry Shank, [[Penny Von Eschen]] (eds), ''American Studies: An Anthology'', Wiley-Blackwell, p. 33.</ref>。
* ''Voice of the Negro II'' (September 1905)

* ''[[:en:John Brown (abolitionist)|John Brown]]: A Biography'' (1909)
=== 1900年のパリ万国博覧会 ===
* ''[[:en:Efforts for Social Betterment among Negro Americans]]'' (1909)
デュボイスは1900年8月から11月にかけて開催された[[パリ万国博覧会 (1900年)|万国博覧会]]における{{仮リンク|アフリカ系アメリカ人の展示|en|The Exhibit of American Negroes}}の主たる取りまとめ役であり、この展示のために363枚の写真シリーズを企画した。これは世紀の変わり目のアフリカ系アメリカ人の生活を記念し、当時の人種差別的なカリカチュアとステレオタイプを変えることへの挑戦を意図したものであった<ref>Lewis, David Levering, "A Small Nation of People: W.E.B. Du Bois and Black Americans at the Turn of the Twentieth Century", ''A Small Nation of People: W. E. B. Du Bois and African American Portraits of Progress''. New York: Amistad, 2003. 24–49.</ref><ref name=loc>[https://www.loc.gov/pictures/collection/anedub/dubois.html "African American Photographs Assembled for 1900 Paris Exposition"], Library of Congress.</ref>。また、展示品には図表、
* ''Atlanta University's Studies of the Negro Problem'' (1897-1910)
グラフ、および地図形式のデータが含まれていた<ref>The W.E.B. Du Bois Center at the University of Massachusetts Amherst and [[Whitney Battle-Baptiste|Battle-Baptiste, Whitney]] (eds), ''W. E. B. Du Bois's Data Portraits: Visualizing Black America'', Princeton Architectural Press, 2018. {{ISBN|978-1616897062}}.</ref>。彼はこれらの資料編集者としての役割によって金メダルを授与された。これは現在[[アメリカ議会図書館]]に保存されている<ref name=loc />。
* ''The Quest of the Silver Fleece'' 1911

* ''[http://www.holyebooks.org/african/the_negro/index.html The Negro (1915)]'' (entire text)
=== ブッカー・T・ワシントンとアトランタの妥協 ===
* ''Darkwater'' (1920)
[[File:WEB Du Bois.jpg|thumb|left|upright|alt=正装したアフリカ系アメリカ人の男性。ポートレート用にポーズを取って座っている。|デュボイス(1904年)]]
* ''[[:en:The Gift of Black Folk]]'' (1924)
20世紀の最初の10年間で、デュボイスは黒人の代弁者として[[ブッカー・T・ワシントン]]に次ぐ存在として浮上した<ref>Lewis, p. 161.</ref>。ワシントンは[[アラバマ州]]のタスキーギ研究所の所長であり、アフリカ系アメリカ人と白人のコミュニティに大きな影響を与えていた<ref>Lewis, pp. 179–180, 189.</ref>。ワシントンは[[リコンストラクション]]後の諸州の政府を支配していた南部の白人指導者と結ばれた口頭の取引である1895年の{{仮リンク|アトランタの妥協|en|Atlanta Compromise}}の作成者であった。この合意は本質的に、大半が農村部のコミュニティに暮らす南部の黒人たちが当時の差別、人種隔離、権利の{{仮リンク|リコンストラクション以降の権利の剥奪|label=剥奪|en|Disfranchisement after Reconstruction era}}、労働組合によって組織化されていない雇用体制に服する状況を作り出し、南部の白人たちは黒人たちの基礎教育、いくらかの経済的機会、法制度下における正義を認め、また白人たちが南部の企業に投資し黒人の教育慈善団体に資金提供を行うことになっていた<ref>Harlan, Louis R. (2006), "A Black Leader in the Age of Jim Crow", in ''The Racial Politics of Booker T. Washington'', Donald Cunnigen, Rutledge M. Dennis, Myrtle Gonza Glascoe (eds), Emerald Group Publishing, p. 26.<br />Lewis, pp. 180–181.<br />Logan, Rayford Whittingham (1997), ''The Betrayal of the Negro, from Rutherford B. Hayes to Woodrow Wilson'', Da Capo Press, pp. 275–313.</ref>。
* ''Dark Princess: A Romance'' (1928)

* ''Africa, Its Geography, People and Products'' (1930)
当初ワシントンの[[:en:Atlanta Exposition Speech|Atlanta Exposition Speech]]に祝辞を送ったものの、
* ''Africa: Its Place in Modern History'' (1930)
<ref>{{citation|last=Harlan|first=Louis R.|title=Booker T. Washington: The Making of a Black Leader, 1856–1901|publisher=[[オックスフォード大学出版局|Oxford University Press]]|page=225|place=New York|year=1972|quote=Let me heartily congratulate you upon your phenomenal success at Atlanta{{snd}}it was a word fitly spoken.}}</ref><ref>{{citation|url=https://www.college.columbia.edu/core/content/letter-web-du-bois-booker-t-washington-september-24-1895|title=Letter from W.E.B. Du Bois to Booker T. Washington, September 24, 1895|work=The Core Curriculum|publisher={{仮リンク|コロンビア大学|label=Columbia College, Columbia University|en|Columbia College, Columbia University}}|accessdate=February 28, 2016}}</ref>、デュボイスは後に、{{仮リンク|アーチボルト・グリームケ|label=アーチボルト・H・グリームケ|en|Archibald Grimké}}、{{仮リンク|ケリー・ミラー (科学者)|label=ケリー・ミラー|en|Kelly Miller (scientist)}}、{{仮リンク|ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン|en|James Weldon Johnson}}、{{仮リンク|ポール・ローレンス・ダンバー|en|Paul Laurence Dunbar}}のような他の多くのアフリカ系アメリカ人と共にワシントンの計画に反対するようになった。彼らは後にデュボイスが「{{仮リンク|The Talented Tenth|en|Talented Tenth}}」と呼ぶことになる教育を受けた黒人階級を代表する人々である<ref>Harlan, Louis R. (1986), ''Booker T. Washington: the wizard of Tuskegee, 1901–1915'', Oxford University Press, pp. 71–120.<br />Croce, Paul, "Accommodation versus Struggle", in Young, pp. 1–3. Du Bois popularized the term "talented tenth" in a 1903 essay, but he was not the first to use it.</ref>。デュボイスはアフリカ系アメリカ人はワシントンによるアトランタの妥協の隔離と差別に対して受動的に従うよりも、平等な権利とより良い機会のために戦うべきであると感じていた<ref>Croce, Paul, "Accommodation versus Struggle", in Young, pp. 1–3.</ref>。
* ''[[:en:Black Reconstruction]]: An Essay toward a History of the Part Which Black Folk Played in the Attempt to Reconstruct Democracy in America, 1860-1880'' (1935)

* ''What the Negro Has Done for the United States and Texas'' (1936)
1899年にアトランタ近郊で発生した{{仮リンク|サム・ホースリンチ事件|label=サム・ホース|en|Lynching of Sam Hose}}のリンチは、デュボイスのより大きな行動を起こす意思を強めた<ref name="Lewis162">Lewis, p. 162.</ref>。ホースは2,000人の白人群衆によって拷問され、火にかけられ、吊るされた<ref name="Lewis162"/>。新聞編集者の[[ジョエル・チャンドラー・ハリス]]とリンチについての議論に向かうためアトランタを歩いていた時、デュボイスはホースの焼け焦げた腕が店頭に展示されている場面に遭遇した<ref name="Lewis162"/>。このエピソードはデュボイスを愕然とさせ、「落ち着いていること、冷静でいること、第三者の科学者でいることができようか。黒人たち(Negroes)がリンチされ、殺され、飢えている時に。」と決心させた<ref>Lewis, p. 163, Du Bois quoted by Lewis.</ref>。デュボイスは「治療法は単に人々に真実を伝えることではない。彼らに真実に基づいて行動するよう促すことだ」と認識した<ref>Lewis, p. 162, Du Bois quoted by Lewis.</ref>。
* ''Black Folk, Then and Now'' (1939)

* ''Dusk of Dawn: An Essay Toward an Autobiography of a Race Concept'' (1940)
1901年、デュボイスはワシントンの自伝『{{仮リンク|Up from Slavery|en|Up from Slavery}}』の書評を書き<ref>Lewis, p. 184.</ref>、後にそれを加筆して『{{仮リンク|The Souls of Black Folk|en|The Souls of Black Folk}}』にエッセイ「Of Mr. Booker T. Washington and Others」として掲載し多くの人々に向けて出版した<ref>Lewis, pp. 199–200.</ref>。デュボイスは後年にこれらのエッセイでワシントンを批判したことを後悔した<ref>Lewis, p. 711.</ref>。この2人の指導者の対照的な違いの1つは教育に対する彼らのアプローチであった。ワシントンはアフリカ系アメリカ人学校は農業・機械操作技術のような南部の黒人たちが最も多く住んでいる農村地域での機会に備えるべく[[職業教育|産業教育分野]]に重きを置く必要があると考えていた<ref>Lomotey, pp. 354–355.</ref>。デュボイスは黒人学校は[[リベラルアーツ]]と学問的カリキュラム(古典・芸術・人文学を含む)に重心を置くべきだと考えた。これはリベラルアーツがリーダーシップを持つエリートを育成する必要のあるものであったからである<ref>Lomotey, pp. 355–356.</ref>。しかしながら、社会学者{{仮リンク|エドワード・フランクリン・フレイジャー|en|E. Franklin Frazier}}と経済学者[[ガーナー・マーダル]]および{{仮リンク|トーマス・ソウェル|en|Thomas Sowell}}が主張しているように、このような教育に関する不一致はワシントンとデュボイスの相違点の中では小さな問題であった。両者は互いが強調する教育形態の重要性を認めていた<ref>{{citation|last=Frazier|first=Edward Franklin|year=1957|title=The Negro in the United States|publisher=[[マクミラン出版社|Macmillan Company]]|location=New York|page=459}}</ref><ref>{{citation|last1=Myrdal|first1=Gunnar|last2=Rose|first2=Arnold M.|year=1964|title=An American Dilemma: The Negro Problem and American Democracy|publisher=[[McGraw-Hill Education|McGraw-Hill]]|location=New York|page=889|volume=2|title-link=:en:An American Dilemma}}</ref><ref>{{citation|last=Sowell|first=Thomas|title=Black Rednecks and White Liberals|chapter=Black Education: Achievements, Myths and Tragedies|publisher=Encounter Books|place=New York|pages=[https://archive.org/details/blackredneckswhi00thom/page/231 231–235]|isbn=978-1-59403-086-4|title-link=:en:Black Rednecks and White Liberals|date=2005-01-01}}</ref>。ソウェルはまた、二人の指導者たちの見解は真実一致していなかったにもかかわらず、ワシントンとデュボイスの間の敵意は支持者たちの間で形成されたのであり、本人たちの間で形成されたのではなかったと主張している<ref>{{citation|last=Sowell|first=Thomas|title=Ethnic America: A History|publisher={{仮リンク|Basic Books|en|Basic Books}}|place=New York|page=208|year=1981}}</ref>。デュボイス自身も1965年11月に出版された『{{仮リンク|The Atlantic (雑誌)|label=The Atlantic|en|The Atlantic}}』のインタビューにおいてこの見解に立っている<ref>{{cite interview|last=Du Bois|first=W. E. B.|interviewer=[[Ralph McGill]]|title=W.E.B. Du Bois|url=https://www.theatlantic.com/past/docs/unbound/flashbks/black/mcgillbh.htm|work=[[The Atlantic|The Atlantic Monthly]]|volume=216|issue=5|pages=78–81|date=November 1965|quote='The controversy,' [Du Bois] said, 'developed more between our followers than between us ... '|accessdate=May 3, 2016}}</ref>。
* ''Color and Democracy: Colonies and Peace'' (1945)

* ''The Encyclopedia of the Negro'' (1946)
=== ナイアガラ運動 ===
* ''The World and Africa'' (1946)
[[File:Niagara movement meeting in Fort Erie, Canada, 1905.jpg|upright|thumb|alt=ナイアガラの滝を背後にして12人のアフリカ系アメリカ人が座っている|{{仮リンク|ナイアガラ運動|en|Niagara Movement}}の創設者たち(1905年)。デュボイスは中央列の白い帽子を被った人物。]]
* ''Peace Is Dangerous'' (1951)
<!--
* ''I Take My Stand for Peace'' (1951)
{{Quote box|width=30em|fontsize = 90%|bgcolor = #F0F0F0|quote= The Negro race in America stolen, ravished and degraded, struggling up through difficulties and oppression, needs sympathy and receives criticism, needs help and is given hindrance, needs protection and is given mob-violence, needs justice and is given charity, needs leadership and is given cowardice and apology, needs bread and is given a stone. This nation will never stand justified before God until these things are changed.|align=right|source=—''Declaration of Principles'', Niagara Movement, 1905 <ref>Quoted by Lewis, p. 218.</ref>
* ''In Battle for Peace'' (1952)
}}
* ''The Black Flame: A Trilogy''
-->
* ''The Ordeal of Mansart'' (1957)
1905年、デュボイスは{{仮リンク|フレデリック・マクギー|label=フレデリック・L・マクギー|en|Fredrick McGhee}}、{{仮リンク|ジェシー・マックス・バーバー|en|Jesse Max Barber}}、{{仮リンク|ウィリアム・モンロー・トロター|en|William Monroe Trotter}}ら幾人かのアフリカ系アメリカ人の公民権運動家と[[カナダ]]の[[ナイアガラの滝]]のそばで会った<ref>Lewis, pp. 215–216.</ref>。彼らはアトランタの妥協への反対原則宣言を書いた。これは1906年に{{仮リンク|ナイアガラ運動|en|Niagara Movement}}に取り込まれた<ref name=Lewis218219>Lewis, pp. 218–219.</ref>。
* ''Mansart Builds a School'' (1959)

* ''Africa in Battle Against Colonialism, Racialism, Imperialism'' (1960)
デュボイスら「Niagarites」はアフリカ系アメリカ人たちに自分たちの理想を発表することを望んだが、黒人定期刊行物の大半はワシントンに同調する出版社が所有していた。デュボイスは印刷機を購入し1905年12月に『''Moon Illustrated Weekly''』の出版を始めた<ref name=Lewis218219/>。これは最初のアフリカ系アメリカ人の週刊誌であり、デュボイスはこの誌面上でワシントンの立場を攻撃したが、出版は8ヶ月で終わった<ref name="Lewis220">Lewis, p. 220.</ref>。デュボイスはすぐに議論のための別の媒体、『[[:en:The Horizon: A Journal of the Color Line|The Horizon: A Journal of the Color Line]]』を作り編集者となった。これは1907年に発行された。{{仮リンク|フリーマン・H・M・マレー|en|Freeman H. M. Murray}}と{{仮リンク|ラファイエット・M・ハーショー|en|Lafayette M. Hershaw}}が『''The Horizon''』の共同編集者として働いた<ref>Lewis, pp. 227–228. ''The Horizon'' lasted until 1910, when he developed ''The Crisis'' for publication as an instrument of the NAACP.</ref>。
* ''Worlds of Color'' (1961)

* ''An ABC of Color: Selections from Over a Half Century of the Writings of W. E. B. Du Bois'' (1963)
ナイアガラ運動の参加者は2度目の会議を1906年8月の奴隷制度廃止運動家(abolitionist)[[ジョン・ブラウン (奴隷制度廃止運動家)|ジョン・ブラウン]]の生誕100周年に{{仮リンク|ジョン・ブラウンの反乱|label=ジョン・ブラウンが襲撃|en|John Brown's raid on Harpers Ferry}}した[[ウェストバージニア州]]の[[ハーパーズ・フェリー (ウェストバージニア州)|ハーパーズ・フェリー]]で行った<ref name="Lewis220"/>。{{仮リンク|レヴァディ・C・ランサム|en|Reverdy C. Ransom}}はワシントンの主たる目標は黒人たちに彼らが現在生きる社会で雇用を用意することであるという事実について話し呼び掛けた。「今日、黒人の二つの階級は、...岐路に立っている。1人は現在の我々の屈辱と堕落への我慢と忍耐を助言する。...他方は恥辱、屈辱に、劣った場所への送還に屈服するべきではないと考えている。...彼は利益のために男らしさ(manhood)を交換することなど考えられない{{訳語疑問点|date=2020年6月}}<ref>Ransom quoted by Lewis, p. 222.</ref>。
* ''The World and Africa, an Inquiry into the Part Which Africa Has Played in World History'' (1965)

* ''The Autobiography of W. E. Burghardt Du Bois'' (International publishers, 1968)
=== The Souls of Black Folk ===
{{main|{{仮リンク|The Souls of Black Folk|en|The Souls of Black Folk}}}}
[[File:The Souls of Black Folk title page.jpg|thumb|left|upright|『{{仮リンク|The Souls of Black Folk|en|The Souls of Black Folk}}』第2版の表紙。]]
デュボイスは黒人という人種がもつ才能(genius)と人間性(humanity)を描き出す努力として14のエッセイからなるエッセイ集『{{仮リンク|The Souls of Black Folk|en|The Souls of Black Folk}}』を出版した<ref>Gibson, Todd, "The Souls of Black Folk", in Young, p. 198.<br />Lewis, p. 191.</ref>。ジェームズ・ウェルドン・ジョンソンはこの本のアフリカ系アメリカ人への影響は『[[アンクル・トムの小屋]](Uncle Tom's Cabin)』に匹敵すると述べている<ref>Lewis, p. 191.</ref>。この本のイントロダクションには「20世紀の問題とはカラー・ラインの問題である」という有名な宣言がある<ref>Lewis, p. 192. Du Bois quoted by Lewis.</ref>。それぞれの章は2つの題辞から始まる。1つは白人の詩人から、もう一つは黒人の霊感から取ったものであった。これは黒人と白人の文化間における知的・文化的な等価を証明するものであった<ref>Gibson, Todd, "The Souls of Black Folk", in Young, p. 198.</ref>。この著作の主題はアフリカ系アメリカ人が直面する{{仮リンク|二重意識|en|double consciousness}}(double consciousness)、つまりアメリカ人であり黒人であるということについてである。これはデュボイスによれば、過去においてハンディキャップとなった、しかし未来において強さとなり得るユニークなアイデンティティである。「したがって、人種の運命は同化でも分離主義でもなく、誇るべき永続的な接続(hyphenation{{訳語疑問点|date=2020年6月}})を導くことができると考えられるでしょう<ref>Lewis, pp. 194–195.</ref>」。

ジョナサン・S・カーン(Jonathon S. Kahn )の『''Divine Discontent: The Religious Imagination of Du Bois'' 』はデュボイスが『''The Souls of Black Folk''』で実際的な宗教的自然主義([[:en:religious naturalism|religious naturalism]]{{訳語疑問点|date=2020年6月}})の模範的文章をどのように書いているかを示している。12ページでカーンは「デュボイスは1人の実際的な宗教的自然主義者のアフリカ系アメリカ人として理解される必要がある。私がここで言いたいことは、デュボイスのように、アメリカの伝統的な実際的宗教的現実主義者は、これはウィリアム・ジェームズ、[[ジョージ・サンタヤーナ]]、そして[[ジョン・デューイ]]が通過してきたものであるが、形而上学的な基盤を持たない宗教を追い求めてきた{{訳語疑問点|date=2020年6月}}」。カーンの宗教的自然主義の解釈は非常に広い意味合いを持つが、彼はそれを特定の思想家に結びつけている。デュボイスはその反形而上学的視点(anti-metaphysical viewpoint)によって、ウィリアム・ジェームズなどに代表される宗教的自然主義の領域に配置されている<ref name=Kahn>Kahn, Jonathon S., [https://books.google.com/books?id=ZTv6iq5fpqcC&pg=PA13&lpg=PA13&dq=W.+E.+B.+Du+Bois,religious+naturalism&source=bl&ots=dy4sKpq2F2&sig=M7XaTC356AlXO0xu2GYW0y6FBis&hl=en&sa=X&ei=eQcyU6HYJOmIyAHsvYHICg&ved=0CCsQ6AEwAA#v=onepage&q=W.%20E.%20B.%20Du%20Bois%2Creligious%20naturalism&f=false ''Divine Discontent: The Religious Imagination of W. E. B. Du Bois''], Oxford University Press. {{ISBN|978-0-19-530789-4}}.</ref>。

=== 人種的暴力 ===
1906年秋の2つの災厄はアフリカ系アメリカ人に衝撃を与え、ブッカー・T・ワシントンの{{仮リンク|アトランタの妥協|label=妥協主義|en|Atlanta Compromise}}に打ち勝とうとするデュボイスの公民権運動への支持を強化した。二つの災厄とは、第一に大統領[[セオドア・ローズベルト]]は{{仮リンク|ブラウンズ・ビル事件|en|Brownsville Affair}}の結果として告発されたことを理由に黒人兵士167人を不名誉除隊させたことである。除隊させられた兵士たちの多くは20年にわたり軍に勤務しており、定年間近であった<ref>Lewis, p. 223.</ref>。第二に、9月に黒人男性が白人女性を暴行したという事実無根の主張によって{{仮リンク|アトランタ人種暴動|label=アトランタで暴動が発生|en|Atlanta Race Riot}}したことである。これは雇用不足、そして雇用者が白人に対して黒人を使うことともに人種間の緊張を助長する触媒となった<ref>Lewis, p. 224.</ref>。10,000人の白人たちがアトランタ中であばれまわり、見つけ出した黒人に手当たり次第に暴行を加え、25人以上の死者を出した<ref>Lewis, pp. 224–225.</ref>。この1906年の暴力行為の余波の中で、デュボイスは黒人たちに[[共和党 (アメリカ)|共和党]]への支持を撤回するように呼び掛けた。これは共和党のローズベルトと[[ウィリアム・タフト|ウィリアム・ハワード・タフト]]が十分に黒人を支援していなかったことによる。ほとんどのアフリカ系アメリカ人は[[エイブラハム・リンカン]]大統領の時代以来、共和党に忠実であった<ref>Lewis, p. 229.</ref>。

デュボイスはエッセイ『''A Litany at Atlanta''』を書き、この中でアトランタにおける暴動はアトランタの妥協が失敗であったことを証明したものであると主張した。駆け引きの終了を支持したにも関わらず、黒人たちは南部において法的正義を手に入れることができなかった<ref name="Lewis226">Lewis, p. 226.</ref>。歴史家デーヴィッド・レヴァリング・ルイスは家父長的な役割を担っていた白人の貴族的な奴隷主が黒人を白人と争わせることを厭わないビジネスマンたちに取って代わられたために、もはや若いはできなかったと書いている<ref name="Lewis226"/>。これら2つの災厄はアフリカ系アメリカ人のコミュニティにとって分水嶺となる出来事であり、平等な権利についてのデュボイスの見解の優位を示す者であった<ref>Lewis, pp. 223–224, 230.</ref>。

=== 学業 ===
{{quote box
|quote = かつて我々は言われた。立派であれ。調和せよ。道は開かれていると。今日、前進への道は陸軍、海軍、そして公務員、そしてビジネスと職業生活においてさえ、適正が証明された黒人の志願者たちに、人種・色を単純であからさまな言い訳として閉ざされ続けている。
|source=—Du Bois, "Address at Fourth Niagara conference", 1908<ref>Quoted by Lewis, p. 230. Conference was in Oberlin, Ohio.</ref>
|align = right
|width = 30em
|fontsize = 90%
|bgcolor = #F0F0F0
}}
論説の発表に加えて、デュボイスはアトランタ大学で学術研究を続けた。1909年、5年の努力を経て奴隷制度廃止論者ジョン・ブラウンの伝記を出版した<ref name=Lewis240>Lewis, p. 240.</ref>。これは数多くの識見を含んでいたが、数多くの事実誤認も含まれていた<ref>Lewis, p. 238.<br />VendeCreek, Drew, "John Brown", in Young, pp. 32–33.</ref>。これは競合してジョン・ブラウンの伝記を書いていた{{仮リンク|オズワルド・ヴィラード|en|Oswald Villard}}が所有する『{{仮リンク|The Nation|en|The Nation}}』から強く批判された。デュボイスの業績は白人の学者たちからほとんど無視されていた<ref name=Lewis240/>。『{{仮リンク|Collier's|en|Collier's}}』誌に[[白人至上主義]]の終焉を警告する記事(a piece)を発表した後、デュボイスは主だった定期刊行物に記事を載せることに苦労した。しかし彼は『''The Horizon''』誌に定期的に記事を発表し続けた<ref>Lewis, p. 244 (Colliers).<br />Lewis, p. 249 (Horizon).</ref>。

デュボイスは{{仮リンク|アメリカ歴史学会|en|American Historical Association}}(American Historical Association、AHA)に初めて招待され年会で論文を発表したアフリカ系アメリカ人であった。彼は自身の論文『''Reconstruction and Its Benefits,''』を発表し、1909年12月のAHAの聴衆を仰天させた<ref name=Lewis250>Lewis, p. 250.</ref>。この論文は[[コロンビア大学]]において{{仮リンク|ドゥニング学派|en|Dunning School}}の学者たちによって発展してきた[[リコンストラクション]]は黒人の愚鈍と怠惰によって引き起こされた災厄であったとする歴史学の通説に反対した。デュボイスはこれに反論し、この短い器官にアフリカ系アメリカ人のリーダーシップによって3つの重要な目標が達成されたと主張した。それは民主主義、自由な公立学校、そして新しい社会福祉立法である<ref name="Lewis251">Lewis, p. 251.</ref>。彼は連邦政府の{{仮リンク|自由人局|en|Freedmen's Bureau}}の管理、土地の割り当て、教育システム確立、これらの失敗こそが南部においてアフリカ系アメリカ人の展望を破滅させたのだと主張した<ref name="Lewis251"/>。デュボイスがこの論文を数ヶ月後に『{{仮リンク|The American Historical Review|en|label=American Historical Review|en|American Historical Review}}』誌で公表するために提出した時、彼は黒人(Negro)という単語を大文字にするよう求めた。編集者{{仮リンク|ジョン・フランクリン・ジェームソン|label=J・フランクリン・ジェームソン|en|J. Franklin Jameson}}はこれを拒否し、この論文を大文字化せずに出版した<ref>Lewis, p. 252.</ref>。この論文は白人の歴史学者たちからほとんど無視された<ref name="Lewis251"/>。デュボイスは後に論文を1935年の画期的な書籍、『''{{仮リンク|Black Reconstruction|en|Black Reconstruction}}''』へと発展させ、自身の主張を裏付けるため広範な事実を整理した<ref name=Lewis250/>。アメリカ歴史学会(AHA)は1940年まで他にアフリカ系アメリカ人の発表者を招聘することはなかった<ref>Lewis, David Levering, "Beyond Exclusivity: Writing Race, Class, Gender into U.S. History", date unknown, New York University, Silver Dialogues series.</ref>。

{{Clear}}

== NAACP時代 ==
1909年5月、デュボイスは[[ニューヨーク]]で{{仮リンク|全米黒人会議|en|National Negro Conference}}に参加した<ref>Lewis, pp. 256–258.</ref>。この会議は{{仮リンク|全米黒人委員会|en|National Negro Committee}}の創設に繋がった。これは公民権、平等な投票券と平等な教育機会を求めるキャンペーンを行う委員会であり、委員長はオズワルド・ヴィラードが務めた<ref>Lewis, p. 258.</ref>。この後、1910年の春に第2回の全米黒人会議の場において参加者たちは[[全米黒人地位向上協会]](National Association for the Advancement of Colored People、NAACP)を創設した<ref>Lewis, pp. 263–264.</ref>。デュボイスの提案では「カラード(colored)」という用語は「黒人(black)」ではなく「全ての血における暗い色の肌を持った人々」を含んだ意味で使用されていた<ref>Lewis, p. 264.</ref>。黒人と白人合わせて数十人の公民権運動支持者がこの創設に参加したが、{{仮リンク|メアリー・ホワイト・オヴィントン|label=メアリー・オヴィントン|en|Mary White Ovington}}、{{仮リンク|チャールズ・エドワード・ラッセル|en|Charles Edward Russell}}、{{仮リンク|ウィリアム・イングリッシュ・ウォリング|en|William English Walling}}、そして初代議長(president){{仮リンク|ムアフィールド・ストーリー|en|Moorfield Storey}}ら、執行役員(executive officers)の大半が白人であった<ref>Lewis, p. 253 (whites), 264 (president).</ref>。

=== The Crisis ===
[[File:Motto web dubois original.jpg|thumb|upright|alt=アフリカ系アメリカ人の男性。ポートレート用にポーズを取って座っている。|デュボイス(1911年頃)]]
NAACPの指導層はデュボイスに広報および研究を担当する理事(Director)に就任するよう要請した<ref>Lewis, pp. 252, 265.</ref>。彼は1910年の夏にこの仕事を引き受け、アトランタ大学を辞めた後ニューヨークに移った。彼の主たる業務はNAACPの月刊誌『{{仮リンク|The Crisis|en|The Crisis}}』の編集であった<ref>Bowles, Amy, "NAACP", in Young, pp. 141–144.</ref>。創刊号は1910年11月に発行され、デュボイスはその目的が「今日、特に有色人種の人々について明確となっている人種的偏見の危険を示す事実および議論」を始めることであると宣言した<ref>Lewis, pp. 268–269.</ref>。この雑誌は驚くべき成功を収め、1920年には発行部数が全世界で100,000部に達することになる<ref>Lewis, pp. 270 (success), 384 (circulation).</ref>。初期の号の典型的な記事には黒人教会の不正と偏狭さを非難するものやエジプト文明のアフリカ中心的起源について議論したものなどがある<ref>Lewis, p. 271.</ref>。

1911年の重要なデュボイスの論説は連邦政府がリンチを違法化するように促す全国規模の運動の開始を支援するものであった。デュボイスは彼が好んで用いていた皮肉によってペンシルベニアのリンチについてコメントした。「重要なのは彼が黒人(black)であったことだ。黒人性(Blackness)は罰せられなければならない。黒人性は犯罪の中の犯罪である。...従ってこの国の全ての白人の悪党が知っているように、この犯罪を罰する機会を逃さないようにする必要がある。もちろん、可能ならば理由は偉大かつ圧倒的なものであるべきだろう-記者の想像力によってより恐るべきものになったいくつもの見事な犯罪だ。これに失敗すれば単なる殺人、放火、納屋の延焼、あるいは無作法で終わってしまうかもしれない<ref>Lewis, pp. 279–280.<br />Quote from "Triumph", ''The Crisis'', 2 (September 1911), p. 195.</ref>」。

『''The Crisis''』は労働組合の理想を支持するデュボイスの論説を掲載したが、労働組合の指導者たちが組織的に黒人を会員から除外し人種差別を示したことを強く批判した<ref>Lewis, p. 274.</ref>。デュボイスはまた[[アメリカ社会党|社会党]]の綱領を支持したが(彼は1910年から1912年までの短い間、社会党の党員であった)、幾人かの社会党の指導者たちが示したレイシズムを非難した<ref>Hancock, Ange-Marie, "Socialism/Communism", in Young, p. 196 (member).<br />Lewis, p. 275 (denounced).</ref>。共和党の[[ウィリアム・タフト]]大統領が広範囲のリンチへの対応に失敗したことに失望したデュボイスは1912年の大統領選挙で民主党の候補者である[[ウッドロー・ウィルソン]]が黒人の理念を支持することと引き換えにウィルソンを支持した<ref>Lewis, p. 278. ウィルソンは「全ての問題において正義は実行される」と約束した。 Wilson promised "to see justice done in every matter".</ref>。

デュボイスは執筆活動を通じて女性の権利を支援したが<ref>Lewis pp. 43, 259, 522, 608.<br />Donaldson, Shawn, "Women's Rights", in Young, pp. 219–221.</ref>、[[参政権]]運動の指導者たちは人種差別に対する彼の戦いを支持することを拒否したため、公に{{仮リンク|アメリカ合衆国における婦人参政権|label=女性参政権運動|en|Women's suffrage in the United States}}を支援することは困難であると感じた<ref>Lewis, pp. 272–273.</ref>。1913年の『'' The Crisis''』の論説では{{仮リンク|異人種間結婚|en|interracial marriage}}のタブーについて切り込んだ。デュボイスは一般的には人々が自分の人種内で結婚することを望んでいたが、白人男性が黒人女性と結婚することを法律が禁止していたことから、これを女性の権利問題であると考えた。デュボイスは「[反異人種間混交の]法律により、カラードの女子(girls)は白人男性の情欲から全く無力なまま放置されている。それはカラードの女性を法律の視点において犬の地位に堕とすものである。白人の女子が押し倒されれば{{訳語疑問点|date=2020年6月}}、彼女は誘惑者が自分と結婚するように強制することができる。...我々が[反異人種間混交の法律]を廃止しなければならないのは、我々が白人男性の姉妹たちと結婚したいからではなく、白人男性が我々の姉妹を一人にしておこうとしているためである。そのために我らはこの法律の破棄を決意しているのだ{{訳語疑問点|date=2020年6月}}<ref>Lewis, p. 275.<br />Du Bois quoted in Lubin, Alex (2005), ''Romance and Rights: The Politics of Interracial Intimacy, 1945–1954'', University Press of Mississippi, pp. 71–72.</ref>
」。

1915年から1916年の間、NAACPの複数のリーダーが-『''The Crisis''』の財政的損失に狼狽し、また一部のエッセイの扇動的な修辞法に不安を抱いて-デュボイスを編集長の座から追放しようと試みた。デュボイスと支持者たちは勝利し、デュボイスは編集長を担当し続けた<ref>Lewis, pp. 312–324.</ref>。1919年の「''The True Brownies''」と題するコラムで、彼は{{仮リンク|オーガスタス・グランヴィル・ディル|en|Augustus Granville Dill}}および{{仮リンク|ジェシー・レドメン・フォセット|en|Jessie Redmon Fauset}}と共に『''{{仮リンク|The Brownies' Book|en|The Brownies' Book}}''』という初のアフリカ系アメリカ人の子供と若者を対象とした雑誌の創刊を発表した<ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=Children's Literature|series=Twayne's United States authors series|title=Once upon a time in Aframaerica: The "peculiar" significance of fairies in the Brownies' Book|last=Kory|first=Fern|editor-last1=Lennox Keyser|editor-first1=Elizabeth|editor-last2=Pfeiffer|editor-first2=Julie|volume=29|pages=91–112|publisher=Yale University Press|year=2001|isbn=978-0-300-08891-5|issn=0092-8208}}</ref><!-- page 96 --><ref>{{cite encyclopedia|encyclopedia=Encyclopedia of the Harlem Renaissance|title=Brownies' Book, The|last=Kommers Czarniecki|first=Kristin|editor-last1=Wintz|editor-first1=Cary D.|editor-last2=Finkelman|editor-first2=Paul|volume=1 (A–J)|publisher=Routledge|year=2004|isbn=978-1-57958-389-7|lccn=2004016353}}</ref><!-- page 196 -->。

=== 歴史家・作家 ===
1910年代はデュボイスにとって多作な時期であった。1911年、彼はロンドンの{{仮リンク|第1回人種会議|en|First Universal Races Congress}}に参加し<ref>Lewis, pp. 290–291.</ref>、自身の最初の小説『''The Quest of the Silver Fleece.''』を発表した<ref>Lewis, pp. 293–296.</ref>。2年後、デュボイスは舞台『{{仮リンク|The Star of Ethiopia|en|The Star of Ethiopia}}』の野外劇を執筆・政策・監督した<ref name="Lewis301">Lewis, p. 301.</ref>。1915年、デュボイスはアフリカ黒人の歴史『''{{仮リンク|The Negro|en|The Negro}}''』を出版した。これはこの種の著作の中で英語で書かれた最初のものである<ref name="Lewis303">Lewis, p. 303.</ref>。この書籍はアフリカ人の劣等性についての主張に反駁し、20世紀のアフリカ中心的な歴史記述の基礎としての役割を果たすことになる<ref name="Lewis303"/>。『''The Negro''』は全世界の有色人種(colored people)の統一と連帯を良そうし、多くのパン・アフリカ運動の支持者たちに影響を与えた<ref name="Lewis303"/>。

1915年、『''The Atlantic Monthly''』が資本主義と人種についてのデュボイスの考えをまとめた彼のエッセイ「''The African Roots of the War''」を掲載した<ref>Brown, Nikki, "World War I", in Young, pp. 224–226.</ref>。その中で彼は[[アフリカ分割|アフリカの争奪]]が[[第一次世界大戦]]の根底にあると主張した。また、後の[[共産主義|共産主義者]]のドクトリンを先取りし、富裕な資本家が白人労働者に彼らの反逆を防ぐのに十分なだけの富を与えることによって、また有色人種の労働者の低賃金労働による競争で彼らを脅かすことによって、白人労働者を宥めていたと主張していた<ref>Lewis, pp. 327–328.</ref>。

=== 人種差別との戦い ===
[[File:Jesse Washington hanging.jpg|thumb|デュボイスは『''The Crisis''』の1916年6月号に[[ジェシー・ワシントンリンチ事件]]の写真を掲載した<ref name="Lewis335">Lewis, p. 335.</ref>。]]
デュボイスはNAACPにおける自身の影響力ある役割を利用して様々な人種差別事件に反対した。無声映画『[[國民の創生]](''The Birth of a Nation'')』が1915年に初演されると、デュボイスとNAACPはこの映画を禁止するべく戦った。これはこの映画が黒人を下劣かつ好色な存在として人種差別的に描写していたことによる<ref>Watts, Trent, "The Birth of a Nation", in Young, p. 28.</ref>。この戦いは成功せず、むしろ映画を有名にすることに貢献したが、しかし宣伝によってNAACPは多くの新しい支持者を得た<ref>Lewis, p. 331.</ref>。

民間部門だけがレイシズムの源泉ではなかった。ウィルソン大統領の下で政府に勤務するアフリカ系アメリカ人は窮地に立たされた。多くの連邦機関が白人のみを採用する習慣を採用し、陸軍は将校から黒人を排除し、そして移民局はアフリカ系の移民を禁止した<ref>Lewis, p. 332.</ref>。デュボイスは1914年に連邦の役職からの黒人の解雇を嘆く論説を書き、ウィルソンが黒人への正義という選挙運動の公約を果たせなかったことについてウィリアム・モンロー・トロターが不愛想にウィルソンと対立すると、トロターを支持した<ref>Lewis, p. 335 (editorial), p. 334 (Trotter).</ref>{{訳語疑問点|date=2020年6月}}。

『''The Crisis''』はリンチに対するキャンペーンを続けた。1915年には1884年から1914年までの2,732件のリンチを年ごとに表にまとめて公表した<ref>Lewis, p. 335 ("The Lynching Industry" was in the Feb 1915 issue).<br />See also the July 1916 article: "The Waco Horror" [http://dl.lib.brown.edu/pdfs/1292363091648500.pdf at Brown University library] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20131227153035/http://dl.lib.brown.edu/pdfs/1292363091648500.pdf|date=2013-12-27|format=PDF}} or [https://books.google.com/books?id=KloEAAAAMBAJ&pg at Google Books]</ref>。1916年4月号は[[リー郡 (ジョージア州)|ジョージア州リー郡]]の6人のアフリカ系アメリカ人に対するリンチを取り上げた<ref name="Lewis335"/>。1916年の後半には「ウェーコの恐怖(''Waco Horror'')」の記事で精神障害を持つ17歳のアフリカ系アメリカ人に対するリンチ事件、[[ジェシー・ワシントンリンチ事件]]を取り上げた。この記事は[[ウェーコ (テキサス州)|ウェーコ]]の白人たちの行為を暴露するために覆面報道を用いて新境地を切り開いた<ref>Lewis, p. 336.</ref>。

20世紀初頭は合衆国南部から北東部、中西部、西部への黒人の[[アフリカ系アメリカ人の大移動|大移住]](Great Migration)の時代であった。デュボイスはこの動きを南部のレイシズムから黒人が逃れ、経済的な機会を掴み、アメリカ社会への同化をする助けになると考え、Great Migrationを支持する論説を書いた<ref>Lewis, pp. 357–358. See, for example, Du Bois's editorial in the October 1916 edition of ''The Crisis''.</ref>。

また、1910年代は{{仮リンク|アメリカ合衆国における優生学|label=アメリカにおける優生学の流行|en|Eugenics in the United States}}の揺籃期であり、指導的な優生学者の多くは公然たる人種差別主義者であった。彼らは黒人を「低級人種(a lower race)」と定義した。デュボイスはこの見解を非科学的な逸脱(aberration)であるとして反対したが、未だ優生学の基本的原則-異なる人は先天的特徴を異にし、これによって多かれ少なかれ特定の種類の仕事に適正を持つ。そして全ての人種の中から最も才能ある人々に子孫を作ることを奨励することによって人類の「種」を改善することできる-を支持し続けていた<ref>Lombardo, Paul A. (2011), A'' Century of Eugenics in America: From the Indiana Experiment to the Human Genome Era''. pp. 74–75.</ref><ref>Lewis, David Levering (2001), ''W. E. B. Du Bois: The Fight for Equality and the American Century 1919–1963'', Owl Books. {{ISBN|978-0-8050-6813-9}}. p. 223.</ref>。

=== 第一次世界大戦 ===
1917年、アメリカ合衆国が[[第一次世界大戦]]への参戦準備を始めた時、デュボイスのNAACPの同僚[[ジョエル・E・スピンガーン|ジョエル・スピンガーン]]はアフリカ系アメリカ人がアメリカ軍の将校となるための訓練キャンプを組織した<ref>Lewis, p. 346.</ref>。このキャンプは議論を巻き起こした。これは白人たちは黒人には将校になる資格がないと考え、幾人かの黒人はアフリカ系アメリカ人が白人の戦争に参加すべきではないと考えたためである<ref>Lewis, pp. 346–347.</ref>。デュボイスはスピンガーンの訓練キャンプを支援したが、陸軍が数少ない黒人の将校{{仮リンク|チャールズ・ヤング (アメリカ陸軍)|label=チャールズ・ヤング|en|Charles Young (United States Army)}}が体調を崩したことを口実に退役を強要したことに失望させられた<ref>Lewis, p. 348.</ref>。陸軍は黒人のために1,000名の将校の地位を作ることに同意したが、250人はこの訓練キャンプの独立心ある黒人ではなく、白人からの指示を受けることを条件として召募された者にすることを要求した<ref>Lewis, p. 349.</ref>。700,000人以上の黒人が召集の初日に入隊したが差別的な条件の下に置かれ、デュボイスは抗議の声を上げた<ref>Lewis, p. 348 (draft), 349 (racism).</ref>。

[[File:1917 Silent Parade men H.tiff|thumb|right|alt=数百人のアフリカ系アメリカ人が平和裏にニューヨークの五番街をパレードし、抗議の印を持っている。|1917年にデュボイスは{{仮リンク|イースト・セントルイス暴動|en|East St. Louis riots}}に抗議する{{仮リンク|サイレント・パレード|en|Silent Parade}}を組織した。]]
1917年夏に{{仮リンク|イースト・セントルイス暴動|en|East St. Louis riots}}が発生した後、デュボイスはこの暴動の状況を報告するためセントルイスに向かった。40人から250人のアフリカ系アメリカ人が白人によって虐殺された。これは主としてセントルイスの産業界がストライキ中の白人に代わって黒人を雇ったことを恨んでのことであった<ref>Lewis, p. 350.</ref>。デュボイスの報告結果は「イースト・セントルイスの虐殺(The Massacre of East St. Louis)」という記事として『''The Crisis''』の9月号に掲載された。これには暴力行為の詳細についての写真とインタビューが含まれていた<ref>Lewis, p. 352.</ref>。歴史家{{仮リンク|デーヴィッド・レヴァリング・ルイス|en|David Levering Lewis}}はデュボイスがこの記事のプロパガンダ効果を高めるためにいくつかの事実を歪曲したと結論付けている<ref>Lewis, p. 353.</ref>。この暴動に対する黒人コミュニティの憤怒を公に示すためにデュボイスは{{仮リンク|サイレント・パレード|en|Silent Parade}}を組織した。およそ9,000人のアフリカ系アメリカ人がニューヨークの[[五番街]]を進んだ。これはニューヨークにおけるこの種のパレードとしては最初のものであり、公民権を求めて公に黒人たちがデモを行った2つ目の事例であった<ref>King, William, "Silent Protest Against Lynching", in Young, p. 191.<br />Lewis, p. 352.<br />The first was picketing against ''The Birth of a Nation''.</ref>。

デュボイスは{{仮リンク|ヒューストン暴動 (1917年)|label=1917年のヒューストンの暴動|en|Houston riot of 1917}}に狼狽した。この暴動はアフリカ系アメリカ人が将校となることを認めさせる努力において最初の重要な挫折であった。この暴動はヒューストン警察が2名の黒人兵士を逮捕し殴打した後に始まった。これに反応して100人以上の黒人兵士がヒューストンの通りを占領し16人の白人を殺害した。軍法会議(military court martial)が開催され19人の兵士が絞首刑、67人が投獄された<ref>Lewis, p. 354.</ref>。ヒューストンの暴動にも関わらず、デュボイスたちはスピンガーンのキャンプで訓練した将校を受け入れるよう軍に圧力をかけることに成功し、600人以上の黒人将校が1917年10月にアメリカ軍に加わった<ref>Lewis, p. 355; p. 384: 第一次世界大戦の間、およそ1,000人の黒人将校が勤務した。</ref>。

連邦当局はNAACPの指導者たちが表明した反体制的な見解を懸念し、調査によってNAACPを脅かし萎縮させようとした<ref name="Lewis359"/>。デュボイスはこれに怖じ気づくことはなかった。そして1918年には第一次世界大戦がヨーロッパの植民地体制を転覆し全世界-[[中国]]、[[インド]]、そして特に[[アメリカ合衆国]]-の有色人種を「解放」することを予見した<ref name="Lewis359">Lewis, p. 359.</ref>。NAACP議長ジョエル・スピンガーンはこの戦争に熱心であり、デュボイスに反戦の立場を否定する論説を書くことと引き換えに陸軍将校の任務を検討するよう説得した<ref>Lewis, p. 362.</ref>。デュボイスはこれを奇貨とし、主戦論の論説「団結(''Close Ranks'')」を1918年7月に書き<ref>このコラムは6月に書かれたが7月に掲載された。</ref>、そのすぐ後に陸軍から職務を得た<ref>Lewis, p. 363. 彼が受けたオファーは軍の諜報機関(Military Intelligence)のものであった。</ref>。この戦争をアフリカ系アメリカ人の市民権獲得に活用しようとしていた多くの黒人指導者たちはデュボイスの突然の変節を非難した<ref>Lewis, pp. 363–364.</ref>。デュボイスの部隊の南部出身将校たちは彼の存在に反対し、デュボイスの職務は撤回された<ref>Lewis, p. 366. 彼の職務はデュボイスが実際に軍務を始める前に撤回された。</ref>。

=== 第一次世界大戦後===
[[File:ChicagoRaceRiot 1919 wagon.png|thumb|alt=窓が壊れた家から引っ越すアフリカ系アメリカ人家族。|デュボイスは1919年の[[赤い夏]]の人種暴動を記録した。この家族は{{仮リンク|シカゴ暴動 (1919年)|label=シカゴの人種暴動|en|Chicago race riot of 1919}}による破壊の後、彼らの家から避難した。]]
第一次世界大戦が終結すると、デュボイスは[[汎アフリカ会議|パン・アフリカ会議]]に出席するため、またアフリカ系アメリカ人の兵士たちの第一次世界大戦での経験を書籍化するためのインタビューを行うため、1919年にヨーロッパへ渡った<ref>Lewis, pp. 367–368. この書籍『''The Black Man and the Wounded World''』が出版されることはなかった。エメット・スコット(Emmett Scott)の『''Official History of the American Negro in the World War''』(1920年)など他の著者がこのトピックについて取り扱っている。</ref>。彼は反逆的活動の証拠を探すアメリカのエージェントの尾行を受けていた<ref>Lewis, pp. 371, 373.</ref>。デュボイスは黒人アメリカ兵の大多数が港湾作業員および労働者として単純労働に追いやられていた状況を確認した<ref>Lewis, p. 368.</ref>。一部の部隊は武装しており、特に{{仮リンク|第92歩兵師団 (アメリカ軍)|label=第92師団|en|92nd Infantry Division (United States)}}(the Buffalo soldiers)は戦闘に従事した<ref>Lewis, p. 369.</ref>。デュボイスは陸軍における広範なレイシズムを確認し、陸軍司令部はアフリカ系アメリカ人の技能を信用せず、偏見を助長し、彼らが陸軍に加わることを妨げたと結論付けた<ref>Lewis, p. 376.</ref>。

ヨーロッパから戻った後、デュボイスはそれまで以上にアフリカ系アメリカ人の平等な権利の獲得を決意した<ref name=Lewis381>Lewis, p. 381.</ref>。海外から戻った黒人兵士たちは新しい力の感覚と価値を感じ、{{仮リンク|ニュー・ニグロ|en|New Negro}}とよばれる新たな態度を代表する存在となった<ref name=Lewis381/>。論説「''Returning Soldiers''」において彼は「しかし、もし戦争が終わった今、我らが頭脳と腕力の全てを注ぎ込んで、我らの地で地獄の力とのより厳しく、より長く、より断固たる戦いを遂行しないならば、天にまします神からすれば我らは臆病な間抜けである{{訳語疑問点|date=2020年6月}}」と書いた<ref>Du Bois quoted in Williams, Chad (2010), ''Torchbearers of Democracy: African American Soldiers in the World War I Era'', UNC Press Books, p. 207.</ref>。多くの黒人たちが北部の都市に移って仕事を探すと、北部の白人労働者の一部はこの競争に憤った。この労働紛争は1919年の[[赤い夏]]と呼ばれるアメリカ全土における一連の恐るべき{{仮リンク|人種暴動|en|race riots}}の原因の1つである。この中で30以上の都市で300人以上のアフリカ系アメリカ人が殺害された<ref>Lewis, p. 383.</ref>。デュボイスは『''The Crisis''』の誌面でこの虐殺を記録した。この記録活動は12月に[[ネブラスカ州]][[オマハ]]の人種暴動の最中に発生したリンチ事件の凄惨な写真を掲載し、最高潮に達した<ref>Lewis, p. 383. [[:File:Red Summer 1919 Omaha Nebraska lynching.jpg|写真はこちらで見られる。]].</ref>。

赤い夏の間の最も唾棄すべきエピソードは[[アーカンソー州]]{{仮リンク|エレイン (アーカンソー州)|label=エレイン|en|Elaine, Arkansas}}における{{仮リンク|エレイン人種暴動|label=黒人に対する悪質な攻撃|en|Elaine Race Riot}}であり、200人近い黒人が殺害された<ref>Lewis, p. 389.</ref>。南部の報道は黒人が政府を乗っ取ろうとしていると主張し彼らを責めた。この歪曲に憤慨したデュボイスは{{仮リンク|ニューヨーク・ワールド|en|New York World}}誌で手紙を公表し、黒人の[[分益小作|小作人]](sharecroppers)が犯した唯一の犯罪は、大胆にも彼らの白人地主に挑戦し、契約上の不正を調査するために弁護士(attorney)を雇ったことだけだと主張した<ref>Lewis, p. 389.<br />この小作人たちは[[:en:Progressive Farmers and Household Union of America|Progressive Farmers and Household Union of America]]と連携していた。</ref>。60人以上の黒人生存者が陰謀を企んだとして逮捕され、{{仮リンク|ムーア対デンプシー裁判|en|Moore v. Dempsey}}として知られる裁判にかけられた<ref>Lewis, pp. 389–390.</ref>。デュボイスはこの裁判での法的防御資金を調達するためにアメリカ中の黒人を結集した。これによって6年後、連邦最高裁判所における完全な無罪判決を勝ち取った。この判決を書いたのは[[オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア|オリバー・ウェンデル・ホームズ]]であった<ref name="Lewis301"/>。この勝訴による南部の黒人の裁判への直接的影響は僅かなものであったが、州が群衆の暴力を庇うのを阻止するために[[アメリカ合衆国憲法修正第14条|憲法修正第14条]]の[[デュー・プロセス・オブ・ロー|適正手続き]]の保証を初めて使用したものであった<ref>Lewis, p. 391.</ref>。

<!--[[File:Darkwater.jpg|thumb|right|upright=0.65|『''{{仮リンク|Darkwater: Voices from Within the Veil|en|Darkwater: Voices from Within the Veil}}''』の初版カバー。1920年。]]-->
1920年、デュボイスは彼が執筆することになる3つの自伝の最初の1つ、『''{{仮リンク|Darkwater: Voices from Within the Veil|en|Darkwater: Voices from Within the Veil}}''』を出版した<ref>Lewis, p. 391. 他の二つは『''{{仮リンク|Dusk of Dawn|en|Dusk of Dawn}}''』および『''{{仮リンク|The Autobiography of W. E. Burghardt Du Bois|en|The Autobiography of W. E. Burghardt Du Bois}}''』である。</ref>。ここでいう「ヴェール(veil)」とは全世界の有色人種を覆うものであった。この本において、彼はこのヴェールを持ち上げ、白人の読者にヴェールの背後にある人生がどのようなものか、そしてそのヴェールがそれを通して彼らを見る人の視点を(双方向ともに)どのように歪めたのかを見せたいと望んでいた<ref>Lewis, p. 394.</ref>。この本にはデュボイスのフェミニスト・エッセイである「''The Damnation of Women''」が含まれていた。これは女性の尊厳と価値、特に黒人女性のそれに捧げられたものであった<ref>Lewis, p. 392 (characterizes as "feminist").</ref>。

アフリカ系アメリカ人の子供たちが使用する教科書が黒人の歴史と文化を無視していることを憂慮して、デュボイスは子供向けの月刊誌『''The Brownies' Book''』を作った。この本は1920年に初めて出版され、デュボイスが「太陽の子供たち(''the children of the sun'')」と呼んだ黒人の子供たちを対象としていた<ref>Lewis, pp. 405–406.<br />The publication lasted two years, from Jan 1920 to Dec 1921.<br />[http://lcweb2.loc.gov/cgi-bin/ampage?collId=rbc3&fileName=rbc0001_2004ser01351page.db Online at Library of Congress] (retrieved November 20, 2011).</ref>。

=== パン・アフリカ主義とマーカス・ガーベイ ===
デュボイスは第2回パン・アフリカ会議に参加するため1921年にヨーロッパに向かった<ref>Lewis, p. 409.</ref>。全世界から集まった黒人指導者たちは「ロンドン決議(''London Resolutions'')」を議決し、[[パリ]]にパン・アフリカ協会(Pan-African Association)の本部を設立した<ref name="Lewis414">Lewis, p. 414.</ref>。デュボイスの指導の下、この決議では人種の平等、アフリカはアフリカ人「によって」(1919年の会議と異なり、アフリカ人の同意を得て)統治されるものであると主張された<ref name="Lewis414"/>。デュボイスはパン・アフリカ会議の決議を[[国際連盟]]への声明で改めて述べ、新たに形成された国際連盟が労働問題に取り組み、またアフリカ人を重要な地位に任命するように求めた。国際連盟はこの要求に対してほとんど行動を起こすことはなかった<ref>Lewis, p. 415.</ref>。

1920年代の他の重要なアフリカ系アメリカ人の指導者は{{仮リンク|アフリカ帰還運動|en|Back-to-Africa movement}}(Back-to-Africa movement)の推進者かつ{{仮リンク|世界黒人開発協会|en|Universal Negro Improvement Association}}(UNIA)の創設者である[[マーカス・ガーベイ]]であった<ref>Lewis, pp. 416–424.</ref>。ガーベイは統合によって平等を達成しようとするデュボイスの努力を非難し、人種隔離主義を支持した<ref>Lewis, pp. 426–427.</ref>。デュボイスはガーベイのアフリカ系ディアスポラの商業を促進するための運送会社である{{仮リンク|ブラック・スター・ライン|en|Black Star Line}}社の構想を支持した<ref>Du Bois, [http://historymatters.gmu.edu/d/5121 "The Black Star Line"], ''Crisis'', September 1922, pp. 210–214. Retrieved November 2, 2007.</ref>。しかし後にガーベイがNAACPの努力に脅威を与えていると心配するようになり、彼を詐欺的で無謀であるとした<ref>Lewis, p. 428.</ref>。ガーベイのスローガン「アフリカ人のためのアフリカ(Africa for the Africans)」に応えてデュボイスはそのコンセプトを支持すると述べたが、アフリカ系アメリカ人がアフリカを統治するというガーベイの意図を非難した<ref>Lewis, p. 429.</ref>。

デュボイスは1922年から1924年の間、ガーベイの運動を攻撃する『''The Crisis''』の一連の記事で彼を「アメリカと全世界の黒人種(Negro race)の最も危険な敵」と呼んだ<ref>Lewis, p. 465.</ref>。デュボイスとガーベイが真剣に協力を試みることは最後までなかった。彼らの諍いは部分的には利用可能な慈善活動資金の多くを獲得したいというそれぞれの組織(NAACPとUNIA)の欲求に根差していた<ref>Lewis, pp. 467–468.</ref>。

1921年にハーバード大学が黒人を寮から排除することを決定すると、デュボイスはそれをアメリカにおける「アングロ・サクソン信仰(the Anglo-Saxon cult、北欧のトーテムの信仰、黒人・ユダヤ人・アイルランド人・イタリア人・ハンガリー人・アジア人・南方の島々の人々(South Sea Islander)の権利剥奪、北欧系白人による力づくの全世界の支配)」回復の広範な努力の一例として強く非難した<ref>Lewis, pp. 435–437. Quoted (from ''The Crisis'', August 1911) by Lewis.</ref>。第3回のパン・アフリカ会議に出席するため1923年にデュボイスがヨーロッパに渡った時、『''The Crisis''』の発行部数は第一次世界大戦中の100,000部というピークから60,000部まで減少していたが、公民権運動における最も卓越した定期刊行物の地位を維持していた<ref>Lewis, p. 442.</ref>。[[カルビン・クーリッジ|クーリッジ大統領]]はデュボイスを[[リベリア]]への「特命使節(Envoy Extraordinary)」に任命し<ref>Lewis, pp. 448–449.</ref>、デュボイスは第3回パン・アフリカ会議が終了した後、[[カナリア諸島]]からドイツの貨物船に乗ってアフリカに向かい、[[リベリア]]、[[シエラレオネ]]、[[セネガル]]を訪れた<ref>Lewis, pp. 450–463.</ref>。

=== ハーレム・ルネサンス ===
[[File:W. E. B. Du Bois - The Gift of Black Folk.pdf|thumb|デュボイスの1924年の著作『''The Gift of Black Folk''』はアメリカ合衆国の建設におけるアフリカ系アメリカ人のユニークな貢献を称賛した。]]
デュボイスは著作活動において頻繁にアフリカ系アメリカ人の芸術的な創造性を賞賛し、[[ハーレム・ルネサンス]]が1920年代半ばに始まった時、「''A Negro Art Renaissance''」の記事において黒人の創造的努力の長い休止が終わったことを称えた<ref>Lewis, p. 471 (frequent).<br />Horne, Malika, "Art and Artists", in Young, pp. 13–15.<br />Lewis, p. 475 (article).</ref>。ハーレム・ルネサンスに対するデュボイスの熱意は彼が、白人たちが真に黒人アートを鑑賞するためではなく盗み見る(voyeurism)ためにハーレムを訪れていると考えるようになったために衰えた<ref>Hamilton, Neil (2002), ''American Social Leaders and Activists'', Infobase Publishing, p. 121. {{ISBN| 9780816045358}}.<br />Lewis, p. 480.</ref>。デュボイスはアーティストたちが彼らの倫理的責任を認識していると主張し「1人の黒人のアーティストはまず第一に1人の「黒人」アーティストである(a black artist is first of all a ''black'' artist.{{訳語疑問点|date=2020年6月}})と書いた<ref>Du Bois, January 1946, quoted by Horne, Malika, "Art and Artists", in Young, pp. 13–15. Emphasis is in Du Bois's original.</ref>。彼はまた、黒人アーティストたちが彼らのアートを黒人の理念を宣伝するために使っていないことを憂慮し、「私はプロパガンダに使用されない芸術を何ら気にかけることはない」と発言している<ref>Lewis, p. 481.</ref>。1926年の終わりまでに彼は『''The Crisis''』で黒人アートを支援することを止めた<ref>Lewis, pp. 485, 487.</ref>。

=== ロスロップ・ストッダードとの討論 ===
1929年、the Chicago Forum Councilが企画した「史上最大の討論の1つ」という触れ込みの討論がデュボイスと[[クー・クラックス・クラン]]の会員で優生学といわゆる科学的レイシズムの提唱者である{{仮リンク|ロスロップ・ストッダード|en|Lothrop Stoddard}}の間で行われた<ref>{{Cite web|url=http://credo.library.umass.edu/view/full/mums312-b160-i451|title=One of the greatest debates ever held, 1929|website=credo.library.umass.edu|access-date=2019-08-24}}</ref><ref name="Frazier">{{Cite news|url=https://www.newyorker.com/magazine/2019/08/26/when-w-e-b-du-bois-made-a-laughingstock-of-a-white-supremacist|title=When W. E. B. Du Bois Made a Laughingstock of a White Supremacist|last=Frazier|first=Ian|date=2019-08-19|access-date=2019-08-24|language=en|issn=0028-792X}}</ref>。この討論は[[シカゴ]]で行われ、デュボイスは「黒人は文化的平等を求めるよう働きかけるべきか?ニグロは他の人種と同じ知的可能性を持っているだろうか?」という質問に、肯定すると強く主張した<ref>{{Cite journal|last=Taylor|first=Carol M.|date=1981|title=W.E.B. DuBois's Challenge to Scientific Racism|journal=Journal of Black Studies|volume=11|issue=4|pages=449–460|issn=0021-9347|jstor=2784074|doi=10.1177/002193478101100405}}</ref>。デュボイスはストッダードたちが舞台の上で笑いものになるであろうことを知っていた。彼はヘフリン(Heflin)上院議員は討論の中で「悲鳴をあげるだろう」とムーア(Moore)に手紙を書いている。自信過剰で仰々しいストッダードはデュボイスとの討論で喜劇的な茶番を演じた。ストッダードがジョークを言っているわけではないことによって、滑稽さはさらに増した。この瞬間はヘッドラインで以下のように伝えられた。「デュボイスは討論でストッダードを叩きのめした。数千のJam Hallが...彼の人種的平等性を証明するかのように喝采を贈った{{訳語疑問点|date=2020年6月}}」<ref name="Frazier"/>。『''[[ザ・ニューヨーカー|New Yorker]]''』誌のイアン・フレイジャー(Ian Frazier)はストッダードの破産した思想の喜劇的ポテンシャルは[[スタンリー・キューブリック]]の『''[[博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか|Dr. Strangelove]]''』が出るまで未開拓のままであったと書いた<ref name="Frazier"/>。

=== 社会主義 ===
<!--{{American socialism|Theorists}}-->
デュボイスは『''The Crisis''』誌の編集者となった1911年に{{仮リンク|メアリー・ホワイト・オヴィントン|label=メアリー・オヴィントン|en|Mary White Ovington}}、{{仮リンク|ウィリアム・イングリッシュ・ウォリング|en|William English Walling}}、{{仮リンク|チャールズ・エドワード・ラッセル|en|Charles Edward Russell}}らNAACP創設者たちの助言を受けて[[アメリカ社会党|社会党]]に加わった。しかしながら、デュボイスは1912年の大統領選挙戦で党則を破って民主党の[[ウッドロー・ウィルソン]]を支持したため社会党からの離党を余儀なくされた。1913年に政府雇用における人種差別が伝えられるとデュボイスのウィルソンに対する支持は揺らいだ<ref name="Yellin2013">{{cite book |first=Eric S. |last=Yellin |title=Racism in the Nation's Service: Government Workers and the Color Line in Woodrow Wilson's America |url=https://books.google.com/books?id=fixBOW3902UC&pg=PA147 |year=2013 |publisher=University of North Carolina Press |isbn=978-1-4696-0721-4 |page=147 }}</ref>。デュボイスは「社会主義は優れた生き方であると確信していたが、そこに至るには様々な方法があると考え」続けていた<ref name="stewart2016">{{cite web|url=http://www.counterpunch.org/2016/01/25/why-the-oscars-dont-deserve-people-of-color/|title=Why the Oscars Don't Deserve People of Color|editor-first=Andrew|editor-last=Stewart|last=Du Bois|first=W. E. B.|date=January 25, 2016|website=www.counterpunch.org|publisher=CounterPunch|access-date=March 17, 2016}}</ref>。

1917年の[[ロシア革命]]から9年後、デュボイスは[[ソヴィエト連邦]]を訪問するためにヨーロッパへの旅行を延長した<ref name="Lewis486">Lewis, p. 486.</ref>。彼はソヴィエト連邦で目の当たりにした貧困と無秩序に衝撃を受けたが、役人たちの力強い職務と労働者たちに与えられた認識(recognition{{訳語疑問点|date=2020年6月}})に感銘を受けた<ref name="Lewis486"/>。デュボイスはまだ[[カール・マルクス]]や[[ウラジーミル・レーニン]]の共産主義理論に親しんでいなかったが、[[社会主義]]は資本主義よりも人種平等への良い道であるかもしれないと結論付けた<ref>Lewis, p. 487.</ref>。

デュボイスは概ね社会主義の原則を支持していたが、彼の政治姿勢は厳密に実際的であった。1929年にはデュボイスは社会主義者の{{仮リンク|ノーマン・トーマス|en|Norman Thomas}}ではなく共和党の[[ジミー・ウォーカー]]をニューヨーク市長として支持した。これはトーマスの立ち位置がより自分の見解と一致するとしても、ウォーカーの方が速やかに黒人に利益をもたらすと考えてのことであった<ref>Lewis, pp. 498–499.</ref>。1920年代を通じて、デュボイスとNAACPは候補者がリンチとの戦い、労働条件の改善、南部における黒人の投票権への指示を約束する都度、[[共和党 (アメリカ)|共和党]]と[[民主党 (アメリカ)|民主党]]の間で支持を行ったり来たりさせた。候補者たちが約束を果たすことは常に無かった<ref>Lewis, pp. 498–507.</ref>。

{{quote box
|quote = そしてここに、この時代の悲劇が横たわっている。貧しい人ではないとしても-全ての人が貧困について何かしら知っている。邪悪な人でないとしても-誰が善良だろうか?無知な人でないとしても-何が真実なのか?いや、しかし人は人についてほとんど何も知らないのだ{{訳語疑問点|date=2020年6月}}。
|source=—Du Bois, "Of Alexander Crummell", in ''The Souls of Black Folk'', 1903<ref>Quoted by Lewis, p. 119.</ref>
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}}

1931年にNAACPと[[アメリカ共産党|共産党]]の間に対立が生じた。共産党は1931年に[[アラバマ州]]で強姦容疑で逮捕された9人のアフリカ系アメリカ人、{{仮リンク|スコッツボロ・ボーイズ|en|Scottsboro Boys}}の支援のために迅速に対応した<ref>Balaji, Murali (2007), ''The Professor and the Pupil: The Politics and Friendship of W. E. B. Du Bois and Paul Robeson'', Nation Books, pp. 70–71.</ref>。この時デュボイスとNAACPはこの事件が彼らの目標にとって有益ではないと考え、スコッツボロ・ボーイズを守る活動を共産党に組織させる道を選んだ<ref>Lewis, p. 513.</ref>。共産党の行動は部分的に成功を収めた。デュボイスは共産主義者たちがこのために費やした大規模な宣伝と資金に強い衝撃を受け、共産主義者たちがNAACPよりも優れた選択肢として自分たちの党をアフリカ系アメリカ人に提示しようと図っているのではないかと疑うようになった<ref>Lewis, p. 514.</ref>。NAACPに対する共産党からの批判に応じ、デュボイスは共産党が不当にNAACPを攻撃しており、また共産党はアメリカにおけるレイシズムを完全に理解できていないと非難する記事を書いた<ref name="Lewis517">Lewis, p. 517.</ref>。共産党の指導者たちはデュボイスは「階級の敵(class enemy)」であると非難し、NAACPの指導者たちは表向きは黒人の労働者階級のために戦っているが、実際には彼らとの繋がりを持たないエリートであると主張した<ref name="Lewis517"/>。

== アトランタへの帰還 ==
デュボイスは1931年からNAACPの議長となった{{仮リンク|ワルター・フランシス・ホワイト|en|Walter Francis White}}と良好な協力関係を構築できていなかった<ref>Horne, pp. 143–144.<br />Lewis, pp. 535, 547.</ref>。この対立は[[世界恐慌]]による財政的緊張と組み合わさり、『''The Crisis''』を巡る権力闘争を引き起こした。デュボイスは編集者の地位を追われることを憂慮し、1933年に『''The Crisis''』の仕事を辞してアトランタ大学の学術職を受けた<ref>Lewis, p. 545.</ref>。1934年にデュボイスが人種隔離に対する彼のスタンスを一転させ、「[[分離すれども平等]]」はアフリカ系アメリカ人にとって受け入れ可能な目標であると述べた時、NAACPとの亀裂はさらに拡大した<ref>Lewis, pp. 569–570.</ref>。NAACPの指導層は驚愕し、デュボイスに声明の撤回を求めたが彼はこれを拒否した。この論争によってデュボイスはNAACPから離脱した<ref>Lewis, p. 573.</ref>。

アトランタ大学で新たに教授職に就任した後、デュボイスは[[マルクス主義]]を支持する一連の記事を書いた。彼は[[労働組合]]や共産党を強く支持してはいなかったが、マルクスの社会・経済についての科学的な説明はアメリカ合衆国におけるアフリカ系アメリカ人の状況を説明するのに有用であると考えた<ref>Lewis, p. 549.</ref>。{{仮リンク|マルクス主義と宗教|label=マルクスの無神論|en|Marxism and religion|}}もまたデュボイスの心の琴線を打った。デュボイスは黒人教会がレイシズムに対する黒人の感性に鈍感であると常に批判していた<ref>Lewis, pp. 549–550. 類すはデュボイスは時折アフリカ系アメリカ人の「精神性(spirituality)」を称賛したが聖職者と教会に対してはそうではなかったと述べている。</ref>。1933年の著作でデュボイスは社会主義を受容したが「カラードの労働者は白人労働者と同じ土俵に立っていない」と警告した。これは数十年にわたり組織的に黒人を排除してきたアメリカの労働組合に対するデュボイスの嫌悪に根差した意見であった<ref>King, Richard H. (2004), ''Race, Culture, and the Intellectuals, 1940–1970'', Woodrow Wilson Center Press, pp. 43–44.<br />Lewis, p. 551.</ref>。デュボイスはアメリカの共産党を支持せず、[[1932年アメリカ合衆国大統領選挙|1932年の大統領選挙]]ではアフリカ系アメリカ人が候補([[:en:Ticket (election)|Ticket]]{{訳語疑問点|date=2020年6月}})にいたにも関わらず共産党の候補者に投票しなかった<ref>Lewis, p. 553. この候補者は副大統領候補の{{仮リンク|ジェームス・W・フォード|en|James W. Ford}}である。</ref>。

=== Black Reconstruction in America ===
{{main| Black Reconstruction in America}}
<!-- [[File:BlackReconstruction.JPG|thumb|150px|right|''{{仮リンク|Black Reconstruction in America|en|Black Reconstruction in America}}''、初犯表紙(1935年)。]] -->
学問の世界に戻ったデュボイスはアメリカ歴史協会(AHA)に提出した1910年の論文の主題であった[[リコンストラクション]]に関する研究を再開できるようになった<ref>Lemert, Charles C. (2002), ''Dark thoughts: race and the eclipse of society'', Psychology Press, pp. 227–229.</ref>。1935年、彼は最高傑作(magnum opus)となる『''Black Reconstruction in America''』を出版した<ref>Lewis, pp. 576–583.<br />Aptheker, Herbert (1989), ''The literary legacy of W. E. B. Du Bois'', Kraus International Publications, p. 211(デュボイスはこの作品を自身の「最高傑作(magnum opus)」と呼んだ。</ref>。この本は歴史学者デーヴィッド・レヴァリング・ルイスの言葉を借りるなら「野蛮な敵意の中から突然公民権を認められた黒人は、賞賛すべき意思(volition )と知性(intelligence )そして同様に3世紀にわたる隷属による怠惰(indolence)と無知蒙昧(ignorance)を示した<ref>Lewis, p. 586.</ref>」。デュボイスは黒人たちが如何に[[南北戦争]]と[[リコンストラクション]]における中心となる人々であったか、また彼らが白人政治家たちとどのように同盟を結んだかを記録した。彼はこの黒人と白人の連合政府が南部に公教育を確立し、そして多くが必要とした社会福祉計画を確立したという証拠を出した。この本はまた、[[奴隷解放宣言|黒人の解放]]-これがリコンストラクションの最重要点-がアメリカ社会の根本的な再編を促した経緯を明らかにし、同様になぜ、どのようにアメリカがリコンストラクションの余波の中で黒人の公民権を支持し続けることに失敗したのかも明らかにした<ref>Lewis, pp. 583–586.</ref>。


この本の命題は白人歴史学者によって維持されていた{{仮リンク|ドゥニング学派|label=リコンストラクションの通説的解釈|en|Dunning School}}に対抗するものであり、1960年代まで主流の歴史学者たちから事実上無視されていた<ref>Lewis, pp. 585–590 (thorough), pp. 583, 593 (ignored).</ref>。しかしながら、その後この本はリコンストラクションの歴史学における「再評価(revisionist)」のトレンドに火をつけた。このことは黒人の自由の探求と時代の根本的な政治の変化を強調するものであった<ref name=Foner1982>{{cite journal|doi=10.2307/2701820|issn=0048-7511|volume=10|issue=4|pages=82–100 [83]|last=Foner|first=Eric|title=Reconstruction Revisited|journal=Reviews in American History|date=1982-12-01|jstor=2701820}}</ref><ref>"During the civil rights era, however, it became apparent that Du Bois's scholarship, despite some limitations, had been ahead of its time." {{cite book|publisher=[[ABC-CLIO]]|isbn=978-1-59884-021-6|last=Campbell|first=James M.|author2=Rebecca J. Fraser|author3=Peter C. Mancall|title=Reconstruction: People and Perspectives|year=2008|page=xx}}</ref>。21世紀までに『''Black Reconstruction''』は「アフリカ系アメリカ人の史学(historiography)の再評価の基礎となるテキスト」として広く認識されるようになった<ref>"W. E. B. Du Bois's (1935/1998) ''Black Reconstruction in America, 1860–1880'' is commonly regarded as the foundational text of revisionist African American historiography." {{cite journal|doi=10.1177/0002716211407153|issn=0002-7162|volume=637|issue=1|pages=64–77|last=Bilbija|first=Marina|title=Democracy's New Song|journal=The Annals of the American Academy of Political and Social Science|date=2011-09-01}}</ref>。

この本の最終章「''XIV. The Propaganda of History''」においてデュボイスは[[ブリタニカ百科事典]](Encyclopædia Britannica)に載せる「アメリカ黒人の歴史(history of the American Negro)」の記事を執筆する自身の努力を想起させている。ブリタニカ百科事典の編集者がリコンストラクションへの言及を全て削除した後、彼は「白人の歴史学者たちはリコンストラクションの過ちと失敗と責任を黒人(Negro)の無知蒙昧と堕落に帰してきた。しかし、黒人は黒人の忠誠および黒人の投票のみによって南部を統一へと復帰させた。白人と黒人双方のための新しい民主主義を確立し公立学校が設置された、と黒人は主張する」という注釈がこのエントリーに掲載されると主張した。ブリタニカ百科事典の編集者がこれを拒否したため、デュボイスは記事を取り下げた<ref>{{cite book|last1=Du Bois|first1=W. E. B.|title=Black Reconstruction|url=https://archive.org/details/blackreconstruct00duborich|url-access=registration|date=1935|publisher=Harcourt Brace|page=[https://archive.org/details/blackreconstruct00duborich/page/713 713]}}</ref>。

=== 百科事典プロジェクト ===
1932年、デュボイスは{{仮リンク|フィリップス=ストークス基金|en|Phelps-Stokes Fund}}、[[ニューヨーク・カーネギー財団|カーネギー財団]]、そして{{仮リンク|一般教育委員会|en|General Education Board}}などの慈善団体によってデュボイスが30年以上構想を抱いていた作品『黒人百科事典(''Encyclopedia of the Negro'')』の作成計画の編集長に選ばれた<ref>Lewis, pp. 611, 618 (30 years).</ref>。数年間計画と組織化が行われた後、これらの慈善団体は1938年にこの計画を取り消した。これは幾人かの理事がデュボイスは客観的な百科事典を作るには偏向し過ぎていると考えていたためであった<ref>Braley, Mark, "Encyclopedia Projects", in Young, pp. 73–78. Braley summarizes Du Bois's lifelong quest to create an encyclopedia.</ref>。

=== 世界周遊 ===
デュボイスは1936年に[[ナチス・ドイツ]]、[[中華民国|中国]]、[[大日本帝国|日本]]など世界中を旅した<ref>Lewis, p. 600.</ref>。デュボイスはドイツにいる間、温もりと敬意をもって取り扱われたとしている<ref>Lewis, p. 600.<br />Zacharasiewicz, Waldemar (2007), ''Images of Germany in American literature'', University of Iowa Press, p. 120.</ref>。アメリカに戻った後、彼はナチ体制に対する自身の矛盾する見解(ambivalence{{訳語疑問点|date=2020年6月}})について述べた<ref>Fikes, Robert, "Germany", in Young, pp. 87–89.<br />Broderick, Francis (1959), ''W. E. B. Du Bois: Negro Leader in a Time of Crisis'', Stanford University Press, p. 192.</ref>。彼はナチスが{{仮リンク|ドイツにおける世界恐慌|label=ドイツ経済|en|The Great Depression in Germany}}を見事に立て直したことを称賛したが、[[ユダヤ人]]に対する[[ニュルンベルク法|取り扱い]]に恐怖し、それを「スペインの[[異端審問]]やアフリカ人奴隷貿易とのみ比較し得る文明に対する攻撃」と描写した<ref>Jefferson, Alphine, "Antisemitism", in Young, p. 10.<br />Du Bois quoted by Lewis, David (1995), ''W. E. B. Du Bois: A Reader'', p. 81.<br />Original Du Bois source: ''Pittsburgh Courier'', December 19, 1936.</ref>。

1905年に[[日露戦争]]で日本が勝利した後、デュボイスは[[大日本帝国|日本帝国]]の強大化に感銘を受けるようになり、[[ロシア帝国|ロシアのツァーリ制]]に対する日本の勝利を有色人種が白人を打ち破った一例と捉えた<ref>Lewis, p. 597.</ref>。日本の「Negro Propaganda Operations」の代表は1920年代と1930年代にアメリカに渡ってデュボイスと会談し、日本的の人種政策についてデュボイスにポジティブな印象を与えた。1936年、駐米日本大使はデュボイスと数名の[[学者]]のために日本旅行を取り計らった<ref>
{{citation |last=Gallicchio |first=Marc S. |date= 2000 |title=The African American Encounter with Japan and China: Black Internationalism in Asia, 1895–1945 |publisher=University of North Carolina Press |isbn=978-0-8078-2559-4 |oclc=43334134 |page=104 |url=https://books.google.com/?id=oh3Cn3YQ0UQC&pg=PA104&lpg=PA104&dq=hikida+%22du+bois%22+or+dubois#PPA104,M1}}</ref>。

=== 第二次世界大戦 ===
デュボイスは[[第二次世界大戦]]、特に太平洋戦線にアメリカが介入することに反対した。これは彼が中国と日本は白人の帝国主義者の魔手から脱しようとしていると考えたためである。彼はヨーロッパ人の同盟による日本との戦争はアジアにおける白人の影響力を再確立する機会となると考えていた<ref>Lewis, pp. 631–632.</ref>。デュボイスはアメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人の軍隊への動員計画に深く失望した。アメリカ政府は軍における黒人の比率を5.8パーセントに制限し、アフリカ系アメリカ人による戦闘部隊も存在しないという、事実上第一次世界大戦時と同じ制限をかけていた<ref>Lewis, p. 633.<br />アメリカ軍は後に方針を変更し、[[タスキーギ・エアメン]]のような部隊が設立された。</ref> 。[[1940年アメリカ合衆国大統領選挙|1940年の大統領選挙]]で黒人たちが共和党の敵対候補に支持を鞍替えすると脅していたことから、[[フランクリン・ローズベルト]]大統領は少数の黒人を軍の指導的地位に任命した<ref>Lewis, p. 634.</ref>。

<!--[[File:DuskOfDawn.jpg|thumb|left|120px| 『{{仮リンク|Dusk of Dawn|en|Dusk of Dawn}}』の初版カバー。1940年。]] -->
デュボイスの2冊目の自伝『''{{仮リンク|Dusk of Dawn|en|Dusk of Dawn}}''』は1940年に出版された<ref>Horne, p. 144.</ref>。このタイトルはアフリカ系アメリカ人がレイシズムの暗黒の中から脱して偉大なる平等の時代に入るというデュボイスの希望に帰するものである<ref>Lewis, p. 637.</ref>。この書籍は自伝、歴史、そして社会学的論文から成る<ref>Mostern, Kenneth, "Dusk of Dawn", in Young, pp. 65–66.</ref>。デュボイスはこの本について「人種という概念の自伝...私の思考と行動の中で明らかにされ、拡大され、疑いもなく歪められたもの...従って私の人生は全ての人(men)の人生にとって重要である<ref>Du Bois quoted by Lewis, p. 637.</ref>{{訳語疑問点|date=2020年6月}}。

1943年、デュボイスが76歳の時、彼は学長{{仮リンク|ルーファス・クレメント|en|Rufus Clement}}によって突如アトランタ大学の教授職から解雇された<ref>Lewis, pp. 643–644.</ref>。多くの学者たちが怒りを表明し、アトランタ大学に対してデュボイスに年金と[[名誉教授]]の称号を贈るよう促した<ref>Lewis, p. 644.</ref>。{{仮リンク|アーサー・B・スピンガーン|en|Arthur B. Spingarn}}はデュボイスがアトランタで過ごした時間について「彼の人生から無視・偏見・不寛容・怠惰を叩き出し、彼以外に理解する者無き、しかしそれが100年後には理解されるようになるかもしれないという希望を高めた」と述べている<ref>Spingarn, quoted by Lewis, p. 645.</ref>{{訳語疑問点|date=2020年6月}}。

[[フィスク大学]]と[[ハワード大学]]からの仕事のオファーを断り、デュボイスは特別研究部門の長(director)としてNAACPに復帰した。デュボイスはこの仕事に活力と決意をもって取り組み、多くのNAACPの指導者たちを驚かせた<ref>Lewis, p. 648.</ref>。デュボイスがNAACPを去っていた10年の間にその収入は4倍に増え、会員は325,000人にまで跳ね上がっていた<ref>Lewis, p. 647.</ref>。

== 晩年 ==
[[File:WEB Du Bois 1946.jpg|upright|thumb|alt=年取ったアフリカ系アメリカ人男性のポートレート。|right|1946年のデュボイス。[[カール・ヴァン・ヴェクテン]]による撮影。]]

=== 国際連合 ===
1945年、[[サンフランシスコ会議|サンフランシスコの会議]]で[[国際連合]]が創設された。デュボイスはこの会議に招待された3人のNAACPの代表の1人であった<ref>Lewis, p. 654.</ref>。NAACP代表団は国際連合に人種の平等を承認(endorse)し植民地時代を終わらせるよう求めた<ref name=Lewis656>Lewis, 656.</ref>。国連をその方向に進めるため、デュボイスは「植民地政府の制度...これは非民主的であり、社会的危険であり、戦争の主たる原因である」と明言する提案の草案を出した<ref name=Lewis656/>。このNAACPの提案は[[中華民国|中国]]、[[ソヴィエト連邦|ソヴィエト・ロシア]]、[[インド]]の支持を得たが、他の主要国から事実上無視され、[[国連憲章]]に盛り込まれることは無かった<ref>Lewis, pp. 655, 657.</ref>。

この国連会議の後、デュボイスは『''Color and Democracy: Colonies and Peace''』を出版した。この書籍は植民地帝国を攻撃しており、ある評者の言葉によれば「我ら白人の魂を安らげ、代々傍若無人(free-booting{{訳語疑問点|date=2020年6月}})な資本家たちの私腹を肥やしてきた悪質な制度全体を爆破するに足るダイナマイトを含んでいた」ものであった<ref>Overstreet, H. A., ''Saturday Review'', quoted in Lewis, p. 657.</ref>。

1945年の後半、デュボイスは[[イングランド|イギリス]]の[[マンチェスター]]で開かれた最後のパン・アフリカ会議(第5回)に出席した<ref name="Lewis661">Lewis, p. 661.</ref>。この会議は5回行われたパン・アフリカ会議の中で最も実りあるものであった。またデュボイスはここで後に[[ガーナ]]の初代大統領となる[[クワメ・エンクルマ|クワメ・ンクルマ]]と出会った。ンクルマはやがてデュボイスをアフリカに招待することになる<ref name="Lewis661"/>。デュボイスはアフリカ系アメリカ人に対する差別について要望書を国連に提出する手助けをした。その中で最も注目すべきものはNAACPの「世界への嘆願:アメリカ合衆国の黒人系市民の例に見るマイノリティの人権の否定についての声明、並びに国連による救済を求める嘆願(An Appeal to the World: A Statement on the Denial of Human Rights to Minorities in the Case of Citizens of Negro Descent in the United States of America and an Appeal to the United Nations for Redress)<ref>[https://archive.org/details/Appeal-To-World-NAACP-1947 "A Statement on the Denial of Human Rights to Minorities in the Case of citizens of Negro Descent in the United States of America and an Appeal to the United Nations for Redress"], National Association for the Advancement of Colored People (NAACP), 1947; [http://www.blackpast.org/1947-w-e-b-dubois-appeal-world-statement-denial-human-rights-minorities-case-citizens-n "(1947) W.E.B. DuBois, “An Appeal to the World : A Statement of Denial of Human Rights to Minorities..."]. Via BlackPast, May 3, 2011.</ref>」である。

この擁護(advocacy)は1951年に{{仮リンク|公民権会議|en|Civil Rights Congress}}によって提出された「[[:en:We Charge Genocide|We Charge Genocide]]」と呼ばれる報告と嘆願の基礎を築いた<ref>{{cite book|url=https://archive.org/details/We-Charge-Genocide-1970|title=We Charge Genocide: The Crime of Government Against the Negro People|last=Civil Rights Congress|date=August 28, 1970|publisher=|accessdate=August 28, 2017|via=Internet Archive}}</ref>。「We Charge Genocide」は殺人を組織的に容認し、アフリカ系アメリカ人に対して危害を与えた、即ち[[ジェノサイド]]を犯したとしてアメリカ合衆国を非難した<ref name=Martin>Charles H. Martin, "Internationalizing "The American Dilemma": The Civil Rights Congress and the 1951 Genocide", ''Journal of American Ethnic History'' 16(4), Summer 1997, [https://www.jstor.org/stable/27502217 accessed via JStor].</ref>。

=== 冷戦 ===
1940年代に[[冷戦]]が始まった時、NAACPは評判や資金を損なわないよう共産主義者から距離を取った<ref>Lewis, p. 663.</ref>。1947年に『[[ライフ (雑誌)|Life]]』誌がNAACPは共産主義者たちから大きな影響を受けたと主張する[[アーサー・M・スレシンジャー・ジュニア]]の記事を掲載すると、共産主義との関わりを否定すべくNAACPは一層の努力を重ねた<ref name="Lewis669"/>。しかしデュボイスはこのNAACPの願いを無視し、[[ポール・ロブソン]]、[[ハワード・ファスト]]、{{仮リンク|シャーリー・グラハム|en|Shirley Graham}}(後にデュボイスの2番目の妻となる)のような共産主義に同調する人々と親交を持ち続けた<ref name=Lewis670>Lewis, p. 670.</ref>。デュボイスは「私は共産主義者ではない...一方で私は...カール・マルクスが...我々の困難に正面から指を入れたと考えている。」と書いている<ref>Du Bois, ''Dusk of Dawn'', quoted by Hancock, "Socialism/Communism", in Young, p. 196. Quote is from 1940.</ref>。1946年、デュボイスはソヴィエト連邦に対する彼の評価を記した記事を書いた。彼は共産主義を支持することはなく、その独裁制度を非難した<ref name="Lewis669">Lewis, p. 669.</ref>。しかし、彼は資本主義は貧困とレイシズムに責任があり、また社会主義はこれらの問題を解決する代替物となり得るかもしれないと考えていた<ref name="Lewis669"/>。ソヴィエト連邦が人種の違い、階級の違いを明確に拒否したことから、デュボイスはソヴィエト連邦が「地球上で最も希望ある国」であると結論した<ref>Lewis, p. 669. Du Bois quoted by Lewis.</ref>。特に[[連邦捜査局|FBI]]が共産主義者の同調者を積極的に調査し始めていたため、デュボイスが著名な共産主義者たちと交際を持ったことで、NAACPにとっての彼は重荷となった。このために-相互の同意によって-1948年の末にデュボイスはNAACPから脱退した<ref>Lewis, pp. 681–682.</ref>。NACCPを去った後、デュボイスは左派の週刊新聞『{{仮リンク|ナショナル・ガーディアン|label=National Guardian|en|National Guardian}}』に定期連載を書き始めた。この関係は1961年まで続くことになる<ref>Lewis, p. 683.</ref>。

=== 平和運動 ===
デュボイスは生涯にわたり[[反戦運動|反戦運動家]]であったが、第二次世界大戦にはその努力は一層はっきりしたものになった<ref name="Schneider163">Schneider, Paul, "Peace Movement", in Young, p. 163. 大学時代、デュボイスは決して武器を手に取ることはないと誓った。</ref>。1949年、デュボイスはニューヨークで開かれた[[世界平和評議会|世界平和のための科学および文化会議]]で次のように述べている。「アメリカの人々に、この暗い世界は今動いていると伝えます!世界は自由・自主(Autonomy)・平等を望んでおり、今後もそうあり続けるでしょう。それは政治的些事(political hairs{{訳語疑問点|date=2020年6月}}の弁証法的分断によって転換することはありません。...白人たちは、もしかすれば{{訳語疑問点|date=2020年6月}}、自殺するために武装するかもしれない。しかし、世界の人々の圧倒的多数が彼らの上を自由へとむけて行進するでしょう!<ref>Lewis, p. 685.</ref>。」

1949年の春、彼はパリで開かれた[[世界平和評議会|平和のパルチザンの世界会議]](World Congress of the Partisans of Peace{{訳語疑問点|date=2020年6月}})の講演で大勢の観衆に向けて「この新たな植民地帝国主義をリードしているのは我が祖国、我が父祖の労苦と血によって建てられたアメリカ合衆国です。合衆国は偉大な国であり、神の恩寵により豊かであり、謙虚なる市民たちの厳しい労働によって繁栄しています。...力に酔った我々はかつて我々を破滅させた古き人間の奴隷制と同じものを備えた新たな植民地主義の地獄へと、そして世界を破滅させる第三次世界大戦へと世界を導いています。」と語った<ref>Lewis, pp. 685–687.</ref>。デュボイスは左派組織である[[:en:National Council of Arts, Sciences and Professions|National Council of Arts, Sciences and Professions]]に加入し、その代表として1949年末に{{仮リンク|全ソヴィエト平和委員会|en|Soviet Peace Committee}}で講演するため[[モスクワ]]を訪問した<ref>Lewis, p. 687.</ref>。

=== FBI・マッカーシズム・審問 ===
<!--[[File:WEB Du Bois PIC hearing reduced Resolution.jpg|thumb|alt=重たいオーバーコートを着た5人の人が堂々とした連邦の建物の前に立っている|{{仮リンク|平和情報センター|en|Peace Information Center}}からの被告であるデュボイス(中央)たち。1951年の裁判のために準備をしている<ref>Lewis, p. 691.</ref>。]]-->
1950年代の間、デュボイスはその社会主義への傾倒によって合衆国政府の反共主義的[[マッカーシズム]]のキャンペーンの標的とされた<ref>Marable, p. xx.</ref>。歴史学者{{仮リンク|マニング・メラブル|en|Manning Marable}}は政府によるデュボイスへの処置を「冷酷な抑圧」と「政治的な殺人」として描いている<ref>Marable, p xx . ("ruthless repression").<br />Marable, Manning (1991), ''Race, Reform, and Rebellion: The Second Reconstruction in Black America, 1945–1990'', University Press of Mississippi, p. 104 ("political assassination"). Marable quoted by Gabbidon, p. 55.</ref>。

FBIは1942年からデュボイスに関する書類を整理し始め<ref>Gabbidon, p. 54.<br />[http://negroartist.com/writings/FBI%20files/dubois1.pdf FBI file on Du Bois] {{webarchive|url=https://wayback.archive-it.org/all/20171020012614/http://negroartist.com/writings/FBI%20files/dubois1.pdf |date=2017-10-20 }}. (PDF) Retrieved November 25, 2011.</ref>、破壊活動を行う可能性について彼を調査した<ref name=":0">{{Cite book|title=Stalking sociologists : J. Edgar Hoover's FBI surveillance of American sociology|last=Keen|first=Mike Forrest|date=2004|publisher=Transaction Publishers|others=Keen, Mike Forrest.|isbn=978-0-7658-0563-8|location=New Brunswick|page=15|oclc=52739297}}</ref>。このデュボイスの容疑に関する証拠を十分に発見できなかったため、FBIの操作は1943年に終了したものと思われる<ref name=":0" />。1949年、FBIはデュボイスが「潜伏共産主義者(Concealed Communists)の一味だったという疑いで捜査を再開した<ref name=":0" />。1950年代初頭、デュボイスが核兵器に反対した結果として彼に対する政府の最も積極的な攻撃が行われた。1950年にデュボイスは新たに創設された{{仮リンク|平和情報センター|en|Peace Information Center}}(Peace Information Center、PIC)の長(chair)となった。アメリカで[[ストックホルム・アピール]]の宣伝に取り組んだ<ref>Lewis, p. 688.</ref>。ストックホルム・アピールの主たる目的は全世界の政府に核兵器を禁止するよう求める請願書に署名を集めることであった<ref>Lewis, p. 689.</ref>。

合衆国司法省(The U.S. Justice Department)はPICが外国のエージェントとして活動していると主張し、それ故にPICを連邦政府に登録するように要求した<ref name="Schneider163"/>。デュボイスを含むPICの指導者たちはこれを拒否した。そのため登録を怠ったとして起訴された<ref>Horne, pp. 168–169.<br />Lieberman, Robbie (2000), ''The Strangest Dream: Communism, Anticommunism, and the U.S. Peace Movement, 1945–1963'', Syracuse University Press, pp. 92–93.<br />Gabbidon, p. 54: アメリカ政府はPICがソヴィエト連邦のエージェントであると考えたが、特定されることはなかった</ref>。起訴後、デュボイスの仲間の幾人かは彼から距離を置き、NAACPはデュボイスに対する支持の声明を出すことを拒否した。しかし[[ラングストン・ヒューズ]]を含む多くの労働組織関係者や左翼の人物がデュボイスを支援した<ref>Lewis, p. 692 (associates); p. 693 (NAACP); pp. 693–694 (support).</ref>。

デュボイスは1951年に裁判にかけられ、公民権運動の弁護士{{仮リンク|ヴィト・マルカントニオ|en|Vito Marcantonio}}が代理人を務めた<ref>Lewis, p. 690</ref>。マルカントニオが裁判官に「[[アルベルト・アインシュタイン]]博士がデュボイスの人格に対する証人として出廷を申し出た」と伝えた直後、陪審が評決を与える前に裁判は棄却された<ref>{{Cite journal|last1=Jerome|first1=Fred|last2=Taylor|first2=Rodger|date=July 1, 2006|title=Einstein on Race and Racism|journal=Souls|volume=9|issue=4|page=121|isbn=|doi=10.1080/10999940701703851}}</ref>。この裁判についてのデュボイスの回顧録は『''In Battle for Peace''』である。デュボイスが有罪にならなかったにもかかわらず、政府はデュボイスのパスポートを没収し、8年間差し押さえ続けた<ref>Lewis, pp. 696, 707.</ref>。

=== 共産主義 ===
デュボイスは1951年のPICの裁判において、多くの白人と黒人の労働者階級が熱心に彼を支援する一方で、彼の仲間たち、特にNAACPからの支援が無かったことに酷く失望した<ref name="Lewis696">Lewis, p. 696.</ref><ref>Hancock, Ange-Marie, "Socialism/Communism", in Young, p. 197. NAACPはデュボイスのような裁判のための{{仮リンク|NAACP法的防衛および教育基金|label=法廷での防衛のための基金|en|NAACP Legal Defense and Educational Fund}}を持っていたが、彼らはデュボイスを支援しないことを選択した</ref>。この裁判の後、デュボイスは[[マンハッタン]]に住み、著作と講演、そして主に左派の知人たちとの交流を続けた<ref name="Lewis696"/>。彼の主たる懸念事項は世界平和であり、[[朝鮮戦争]]のような軍事行動を激しく非難した。彼の考えでは、この戦争は有色人種の従属国を維持するための帝国主義者の白人による努力であった<ref>Lewis, p. 697.</ref>。
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<!--[[File:Du Bois with Mao Tse Tung 1959B.jpg|alt=野外で毛沢東と話すデュボイス|thumb|upright|1959年、デュボイスは[[中華人民共和国|中国]]で[[毛沢東]]と面会した。]]-->

1950年、当時82歳のデュボイスは{{仮リンク|アメリカ労働党|en|American Labor Party}}から[[ニューヨーク州]]の{{仮リンク|ニューヨーク州選挙 (1950年)|label=上院議員候補|en|1950 New York state election}}として立候補し、州の総票数の4パーセント、200,000万票の得票を得た<ref>Lewis, pp. 690, 694, 695.</ref>。デュボイスは資本主義が全世界の有色人種の服従に責任がある主犯であると考え続けており、そのため-ソヴィエト連邦の欠点を認めていたものの-、人種問題を解決し得るものとして共産主義を支持し続けた<ref name="Lewis698">Lewis, p. 698.</ref>。伝記作家デーヴィッド・ルイスは、デュボイスは共産主義それ自体を支持してはおらず「敵の敵は味方(the enemies of his enemies were his friends)」であるが故に支持したのだ、としている<ref name="Lewis698"/>。[[ヨシフ・スターリン]]に対するデュボイスの見解も、共産主義に対するデュボイスの見解と同種の曖昧さによって特徴づけられている。1940年に彼は「圧制者スターリン(Tyrant Stalin)」と侮蔑的に書いた<ref>Porter, Eric (2012), ''The Problem of the Future World: W. E. B. Du Bois and the Race Concept at Midcentury''. Duke University Press, pp. 10, 71.</ref>。しかし1953年にスターリンが死亡した時、デュボイスはスターリンを「シンプルで落ち着き、勇敢である(simple, calm, and courageous)」とする賛辞を書き、「初めて人種的偏見を征服する道をロシアに敷き、140もの民族の個性を破壊することなく1つの国家を築き上げた」と称賛した<ref>Du Bois, W. E. B. "On Stalin", ''National Guardian'', March 16, 1953.</ref>。

合衆国政府は1955年に[[インドネシア]]の[[ジャカルタ]]で開催された[[バンドン会議]]にデュボイスが参加することを禁止した<ref name=Mostern>Mostern, Kenneth (2001), "Bandung Conference", in Young, pp. 23–24.</ref>。この会議は40年にわたるデュボイスの夢の到達点そのものであった。[[アフリカ]]と[[アジア]]から多くは独立したばかりの29の国が参加しており、世界中の有色人種を代表していた<ref name=Mostern/>。会議の参加国は彼らの独立を祝い、冷戦における非同盟諸国としての力を主張し始めた<ref name=Mostern/>。1958年、デュボイスはパスポートを取り戻して、2人目の妻である{{仮リンク|シャーリー・グラハム・デュボイス|en|Shirley Graham Du Bois}}と世界中を旅し、ソヴィエトと中国を訪れた<ref name="Lewis701706">Lewis, pp. 701–706.</ref>。どちらの国でもデュボイスは歓迎され<ref name="Lewis701706"/>、後に両国の状況について満足げに書いている<ref name="Lewis705706">Lewis, pp. 705–706.</ref>。

1961年にアメリカの連邦最高裁がマッカーシズムによる立法の中核要素である{{仮リンク|マッカラン国内保安法|label=1950年のマッカラン国内保安法|en|McCarran Act}}(共産主義者をアメリカ政府に登録すること義務付ける法律)を{{仮リンク|アメリカ共産党対破壊活動管理委員会裁判|label=支持する判断を下すと|en|Subversive Activities Control Board}}、デュボイスはこれに激怒した<ref name="Lewis709">Lewis, p. 709.</ref>。彼は怒りを表現するため、1961年10月に93歳で[[アメリカ共産党|共産党]]に入党した<ref name="Lewis709"/>。この頃、彼は「私は共産主義を信ずる。私が言う共産主義とは、富を築くために描かれた計画性ある生活様式と国家を建設するために描かれた労働であり、その目的は単に一部の利益を図ることではなく人々の最高の福祉である。」と書いている<ref>Du Bois (1968), ''Autobiography'', p. 57; quoted by Hancock, Ange-Marie, "Socialism/Communism", in Young, p. 197.</ref>。彼は共産主義者・アフリカ系アメリカ人の歴史の歴史学者であった{{仮リンク|ハーバート・アプテカー|en|Herbert Aptheker}}に自身の遺作管理者(literary executor)になることを依頼した。

=== アフリカでの死 ===
<!--[[File:Du Bois 95th birthday in Ghana 1963.jpg|thumb|alt=椅子に座り笑顔を浮かべる年老いたデュボイス。両脇に笑顔の男性と女性も座っている。|デュボイス(中央)。[[ガーナ]]で1963年に開かれた彼の95歳の誕生日パーティーにて。ガーナ大統領[[クワメ・エンクルマ|クワメ・ンクルマ]](右)と大統領夫人{{仮リンク|ファティア・エンクルマ|label=ファティア・ンクルマ|en|Fathia Nkrumah}}を伴っている。]]-->

[[ガーナ]]大統領クワメ・ンクルマは1957年の独立式典にデュボイスを招待した。しかし、1951年のアメリカ政府によるパスポートの没収の結果、彼はこの式典に参加できなかった<ref name="Lewis707">Lewis, pp. 696, 707.</ref>。1960年のいわゆる[[アフリカの年]]までにデュボイスはパスポートを取り戻しており、大西洋を渡ってガーナ共和国の建国を祝うことができるようになった<ref name="Lewis707"/>。デュボイスは1960年代の後半にアフリカに戻り、[[ナイジェリア]]初のアフリカ人総督[[ンナムディ・アジキウェ]]の就任式に参加した<ref>Lewis, p. 708.</ref>。

1960年のガーナ訪問中に、デュボイスはンクルマと{{仮リンク|アフリカ人ディアスポラ|en|African diaspora}}(African diaspora)の新たな百科事典である『{{仮リンク|アフリカ百科事典|en|Encyclopedia Africana}}(エンサイクロペディア・アフリカーナ)』の作成について話し合った<ref name="Lewis707"/>。1961年、ガーナはデュボイスにアフリカ百科事典を支援するための基金を確保したことをデュボイスに通達し、プロジェクト管理を行うべくガーナに招待した。1961年10月、彼が93歳の時、デュボイス夫妻はガーナに向かい、住処を得て『アフリカ百科事典』の編纂を開始した<ref name="Lewis, p. 712">Lewis, p. 712.</ref>。

しばしば、デュボイスがこの時アメリカ市民権を放棄したと語られ<ref name="Fox news renunciation claim">{{cite news|title=Renouncing citizenship is usually all about the Benjamins, say experts|url=http://www.foxnews.com/politics/2012/05/11/renouncing-citizenship-is-usually-all-about-benjamins-say-experts/|newspaper=[[Fox News]]|date=May 11, 2012|accessdate=May 18, 2015}}</ref><ref name="HuffPost renunciation claim">{{cite news|title=Celebrities Who Renounced Their Citizenship|url=http://www.huffingtonpost.com/2013/02/01/celebrities-who-renounced-citizenship_n_2602099.html|newspaper=[[Huffington Post]]|date=February 1, 2012|accessdate=May 18, 2015}}</ref><ref name="Harlem Renaissance Encyclopedia">{{cite book|last1=Aberjhani|first1=Sandra L. West|title=Encyclopedia of the Harlem Renaissance|date=2003|publisher=Infobase Publishing|isbn=978-1-4381-3017-0|page=89|url=https://books.google.com/books?id=XP48QWTmjyUC&pg=PA89|accessdate=May 18, 2015}}</ref>、また彼自身その意図を表明してはいたが、実際に市民権を放棄することはなかった<ref>Lewis, p. 841, footnote 39.</ref>。ガーナでの2年間の間にデュボイスの健康状態は悪化し、1963年8月27日、首都[[アクラ]]にて95歳で死去した<ref name="Lewis, p. 712"/>。翌日、[[ワシントン大行進]]で講演者{{仮リンク|ロイ・ウィルキンス|en|March on Washington for Jobs and Freedom}}は数十万人の行進参加者で黙祷によってデュボイスの栄誉を称えるよう求めた<ref>Blum, Edward J. (2007), ''W. E. B. Du Bois, American Prophet'', University of Pennsylvania Press, p. 211.</ref>。デュボイスが生涯をかけてキャンペーンを行ってきた多くの改革を含む[[1964年公民権法]]は、彼の死からほぼ1年後に制定された<ref>Horne, p. xii.</ref>。

ンクルマの要請によって1963年8月29日から30日にかけて、デュボイスの[[国葬]]が執り行われ、[[オス城|クリスチャンボーグ城]](現:オス城〈Osu Castle〉)の西壁そばに埋葬され、その後アクラの{{仮リンク|政府所在地|en|seat of government}}に移された。1985年にデュボイスを称える別の式典が執り行われた。妻シャーリー・グラハム・デュボイスの遺灰(ashes{{訳語疑問点|date=2020年6月}}、彼女は1977年に死亡した)と共に、デュボイスの遺体はアクラにあった夫妻の元住居に再埋葬された。この家は[[:en:W. E. B. Du Bois Memorial Centre for Pan African Culture|W. E. B. Du Bois Memorial Centre for Pan African Culture]]の一部となっている<ref>Bass, Amy (2009), ''Those About Him Remained Silent: The Battle over W. E. B. Du Bois'', University of Minnesota Press, p. xiii.</ref><ref>{{Cite book|chapterurl=https://books.google.co.uk/books?id=twazxuJh1mIC&pg=PA61|title=Re-Cognizing W. E. B. Du Bois in the Twenty-First Century: Essays on W. E. B. Du Bois|last=Shipley|first=Jesse Weaver|last2=Pierre|first2=Jemima|date=2007|publisher=Mercer University Press|location=Macon, GA|isbn=978-0-88146-077-3|editor-last=Keller|editor-first=Mary|pages=61–87|chapter=The Intellectual and Pragmatic Legacy of Du Bois's Pan-Africanism in Contemporary Ghana|editor-last2=Fontenot Jr.|editor-first2=Chester J.}}</ref>(デュボイスの最初の妻ニナとその息子バーグハード(Burghardt)、そして1961年に死亡した娘ヨランダ(Yolande)はデュボイスの故郷マサチューセッツ州グレート・バリントンの墓地に埋葬された。)

== 私生活 ==
デュボイスは計画的かつ厳格な人物であった。朝7時15分に起床し、午後5時まで働き、午後7時まで夕食を取って新聞を読み、その後就寝するまで読書や社交を行い、午後10時までには必ずベッドに入るという生活を生涯にわたって続けた<ref>Horne, p. 11.<br />Lewis, pp. 74, 231–232, 613.</ref>。彼は綿密に計画を立てており、しばしばスケジュールと目標を大きな方眼紙にマッピングしていた<ref>Lewis, p. 231.</ref>。多くの知人たちが、デュボイスに距離とよそよそしさを感じ、また彼は自分を「デュボイス博士(Dr. Du Bois)」と呼ぶよう強く主張した<ref>Lewis, pp. 54, 156 (aloof), p. 3 (address).</ref>。デュボイスは社交的ではなかったが、{{仮リンク|チャールズ・ヤング (アメリカ陸軍)|label=チャールズ・ヤング|en|Charles Young (United States Army)}}、{{仮リンク|ポール・ローレンス・ダンバー|en|Paul Laurence Dunbar}}、{{仮リンク|ジョン・ホープ (教育者)|label=ジョン・ホープ|en|John Hope (educator)}}、{{仮リンク|メアリー・ホワイト・オヴィントン|en|Mary White Ovington}}などの仲間たちとの間に親密な友情を築いていた<ref>Lewis, p. 54 (gregarious), p. 124 (Young and Dunbar), p. 177 (Hope), pp. 213, 234 (Ovington).</ref>。デュボイスの最も親しい友人は-白人の-[[ジョエル・エリアス・スピンガーン|ジョエル・スピンガーン]]であったが、ファーストネームで呼び合おうというスピンガーンの申し出をデュボイスが了承することは無かった<ref>Lewis, pp. 316–324, 360–368 (Spingarn), p. 316 (best friend), p. 557 (first name basis).</ref>。デュボイスのスタイルは[[ダンディ]]と呼ばれるものの一種であった{{訳語疑問点|date=2020年6月}}。彼はフォーマルな服装で、杖を持って自信(confidence)と品格(dignity)を漂わせて歩いた<ref>Lewis, pp. 54, 156, 638.</ref>。

身長は比較的低く、およそ166センチ(5フィート5.5インチ)であり、常に手入れの行き届いた口ひげとヤギひげ(goatee)を蓄えていた<ref>Lewis, p. 54 (height).</ref>。歌うことと<ref>{{cite book|first=W. E. B.|last=Du Bois|chapter=Harvard in the Last Decades of the 19th Century|editor-first=Harold|editor-last=Bloom|editor-link=:en:Harold Bloom|title=W. E. B. Du Bois|url=https://archive.org/details/webduboisbloomsm00haro|url-access=registration|series=Modern Critical Views|year=2001|origyear=first pub. 1968|publisher=Chelsea House|location=New York|isbn=978-1-4381-1356-2|page=[https://archive.org/details/webduboisbloomsm00haro/page/7 7]|quote=私が加入しようと試みた団体は1つだけで、この試みを行うよりもよく知っておくべきでした{{訳語疑問点|date=2020年6月}}。しかし良い歌声であり音楽が好きだったので、この男性合唱団(グリークラブ)のコンテスト(competition)に参加したのです。私はハーバードが国内を旅する合唱団に黒人を置いておく余裕がないことを知っておかなければなりませんでした。至極当然のことですが、私は拒絶されました。}}</ref>テニスを好んだ<ref name="auto"/>。

デュボイスはニナ・ゴマーと結婚し(1870頃誕生、1896年-1950年に彼女が死亡するまで結婚生活は続いた)、彼女との間に2人の子供を儲けた<ref>{{cite web|url=https://www.wikitree.com/wiki/Gomer-52|title=Nina (Gomer) Du Bois (abt. 1870 - 1950)|website=[[ウィキツリー|WikiTree]]|author=<!--Not stated-->|accessdate=2019-08-23}}</ref>。息子のバーグハードは第2子が誕生する前に幼くして死亡した。2人目の子供が娘の{{仮リンク|ヨランダ・デュボイス|label=ヨランダ|en|Yolande Du Bois}}である。彼女はフィスク大学に進学し、[[メリーランド州]]の[[ボルチモア]]で高校教師となった<ref>{{Cite book|url=https://books.google.com/books?id=REv47NrozRMC&pg=PA152|title=Up Close, W. E. B. Du Bois: A Twentieth-century Life|last=Bolden|first=Tonya|date=2008|publisher=Penguin|isbn=978-0-670-06302-4}}</ref>。父デュボイスは彼女にハーレム・ルネサンスで全国的に知られた詩人である{{仮リンク|カウンティー・コレン|en|Countee Cullen}}との結婚を勧めた<ref>{{Cite book|chapterurl=https://books.google.com/books?id=z6Cs0Y1pvRAC&pg=PA273|title=Encyclopedia of the Harlem Renaissance: A–J|editor-last=Wintz|editor-first=Cary D.|editor-last2=Finkelman|editor-first2=Paul|date=2004|publisher=Taylor & Francis|isbn=978-1-57958-457-3|chapter=Cullen–Du Bois Wedding|first=Jacqueline C.|last=Jones}}</ref>。しかしヨランダは2年で離婚した。その後彼女は再婚し、娘を儲けた。この娘がデュボイスの唯一の孫である。その後ヨランダは再度離婚した。

寡夫となった後、デュボイスは作家・脚本家・作曲家・活動家であった{{仮リンク|シェリー・グラハム・デュボイス|label=シェリー・グラハム|en|Shirley Graham Du Bois}}と結婚した。彼女の連れ子であったデーヴィッド・グラハムはデュボイスと親密になり、義父の姓を名乗った。彼もまたアフリカ系アメリカ人の理念のために行動した<ref>De Luca, Laura, "David Graham Du Bois", in Young, pp. 55–56.</ref>。歴史家デーヴィッド・レヴァリング・ルイスは、デュボイスは複数の婚外関係を持っていたと書いている<ref>Lingeman, Richard, [https://www.nytimes.com/books/00/11/05/reviews/001105.05lingemt.html "Soul on Fire"], ''[[The New York Times]]'', November 5, 2000. Retrieved December 2, 2011. A review of ''The Fight for Equality and the American Century, 1919–1963''.</ref>。

=== 宗教 ===
子供の頃にデュボイスはニューイングランド{{仮リンク|会衆派教会 (アメリカ合衆国)|label=会衆派教会|en|Congregationalism in the United States}}に参加したが、フィスク大学在学中に組織化された宗教を放棄した<ref>Lewis, p. 55.</ref>。大人になると、デュボイスは自身を[[不可知論|不可知論者]]または[[自由思想|自由思想家]]だと説明したが、少なくとも1人の伝記作家がデュボイスが[[無神論者]]であったと結論付けている<ref>Rabaka, p. 127 (freethinker).<br />Lewis, p. 550 (agnostic, atheist).<br />Johnson, passim (agnostic).</ref>。しかし、デュボイスの著作を分析した別の調査者は、彼の時代のアフリカ系アメリカ人の宗教的な声{{訳語疑問点|date=2020年6月}}とは根本的に異なるものではあるが、彼もまた宗教的な声を持っていたと結論付けている。デュボイスは[[ラルフ・エリソン]]、[[ゾラ・ニール・ハーストン]]、[[ジェイムズ・ボールドウィン]]なども属する20世紀の精神性(20th-century spirituality)を始動させたと評価されている<ref name=Kahn />。

公の祈りを先導するように依頼された時、デュボイスは拒否した<ref>Lewis, p. 157.<br />Johnson, p. 55.</ref>。デュボイスは自伝で次のように書いている。

{{blockquote|アトランタ大学の学部長となった時、祈りを主導することを躊躇ったので就任が延期された...私は再び教会に参加すること、いかなる教会の信条であっても署名することを断固として拒否した...私はソヴィエト連邦から現代文明への最も偉大な贈り物は、聖職者の廃止と公立学校における宗教教育の拒否であると考える<ref>''Autobiography'', p. 181. Quoted in Rabaka, p. 127.</ref>。}}

デュボイスはアメリカの教会があらゆる機関の中で最も差別的であると非難した<ref>Horne, Malika, "Religion", in Young, p. 181.</ref>。彼はまた、アフリカ系アメリカ人のキリスト教をアフリカ土着の宗教と挑発的に関連付けた<ref>Chidester, David, "Religious Animals, Refuge of the Gods and the Spirit of Revolt: W. E. B. Du Bois's representations of Indigenous African Religions", in Mary Keller & Chester J. Fontenot Jr. (eds), ''Re-cognizing W. E. B. Du Bois in the Twenty-first century: Essays on W. E. B. Du Bois'' (Mercer University Press, 2007), p. 35. {{ISBN|978-0-88146-059-9}}</ref>。デュボイスは折に触れてアフリカ系アメリカ人の生活において宗教が果たす有益な役割を-アフリカ系アメリカ人のコミュニティの[[碇]]の役割を果たす「基礎石(basic rock)」として-認めていたが、アフリカ系アメリカ人の教会や聖職者が人種平等という目標を支援しておらず、活動家の努力を邪魔していると考えていたことから、一般的にこれを糾弾していた<ref>*Horne, Malika, "Religion", in Young, pp. 181–182 ("basic rock").*Lewis, p. 550.</ref>。

デュボイスは個人的には宗教的な人物ではなかったが、著作物には宗教的象徴を織り込んでいた。多くの同時代人が彼を預言者と見ていた<ref>Blum, Edward J. (2009), ''The Souls of W. E. B. Du Bois: New Essays and Reflections'', Mercer University Press, pp. iii–xxi.<br />For additional analysis of Du Bois and religion, see Blum, Edward J. (2007), ''W. E. B. Du Bois, American Prophet'', University of Pennsylvania Press; and Kahn, Jonathon S. (2011), ''Divine Discontent: The Religious Imagination of W. E. B. Du Bois'', Oxford University Press.</ref>。1904年の彼の[[散文詩]]「''Credo''」は宗教的な[[基本信条|信条]]のスタイルで書かれ、アフリカ系アメリカ人のコミュニティで広く読まれた<ref>Lewis, pp. 212–213. "Credo" was reprinted in Du Bois's first autobiography ''[[:en:Darkwater|Darkwater]]'' (1920) [http://www.gutenberg.org/ebooks/15210 (text available here)].</ref>。さらに、デュボイスは彼自身の創作物と『''The Crisis''』で公表された物語の双方において、アフリカ系アメリカ人のリンチと[[キリストの磔刑]]を比喩としてしばしば書いた<ref>Kuhl, Michelle, "Resurrecting Black Manhood: W. E. B. Du Bois' Martyr Tales", in Blum & Young (eds), ''The Souls of W. E. B. Du Bois: New Essays and Reflections'' (Mercer University Press, 2009), p. 161. {{ISBN|978-0-88146-136-7}}</ref>。1920年から1940年の間、デュボイスは公然たる黒人救世主のシンボリズム(black messiah symbolism{{訳語疑問点|date=2020年6月}}から、より繊細な救世主的言語(messianic language{{訳語疑問点|date=2020年6月}}へと移行した<ref>Brunner, Marta, "The Most Hopeless of Deaths ... Is the Death of Faith: Messianic Faith in the Racial Politics of W. E. B. Du Bois", in Keller & Fontenot (2007), p. 189.</ref>。

== 栄典 ==
[[File:W.E.B. DuBois Mary White Ovington.jpg|thumb|alt=歩道に敷設された大型のブロンズ製レリーフ彫刻|right|W・E・B・デュボイスと{{仮リンク|メアリー・ホワイト・オヴィントン|en|Mary White Ovington}}は[[:en:The Extra Mile]]のメダルを受賞した]][[File:WEB DuBois bust at Clark Atlanta University.jpg|thumb|right|upright|{{仮リンク|クラーク・アトランタ大学|en|Clark Atlanta University}}のW・E・B・デュボイスの胸像。]]

* [[全米黒人地位向上協会|NAACP]]は1920年に{{仮リンク|スピンガーン・メダル|en|Spingarn Medal}}をデュボイスに授与した<ref>Lewis, p. 398.</ref>。
* デュボイスは1958年に名誉学位を授与されキャンパスに戻った時、[[フィスク大学]]の{{仮リンク|ファイ・ベータ・カッパ|en|Phi Beta Kappa}}に加入した<ref>{{Cite web|url=http://credo.library.umass.edu/view/full/mums312-i0515|title=W. E. B. Du Bois and members of Phi Beta Kappa, Fisk University, 1958, 1958|website=credo.library.umass.edu|access-date=2019-04-09}}</ref>。
* デュボイスは1959年にソヴィエト連邦から国際[[レーニン平和賞]]を受賞した<ref>Lewis, p. 3.</ref>。
* [[マサチューセッツ州]]{{仮リンク|グレート・バリントン (マサチューセッツ州)|label=マサチューセッツ州グレート・バリントン|en|Great Barrington, Massachusetts}}にある{{仮リンク|W・E・B・デュボイスの少年時代の家|label=デュボイスが成長した家の場所|en|W.E.B. Du Bois Boyhood Homesite}}は1976年に[[アメリカ合衆国国定歴史建造物]]に指定された<ref>Savage, Beth, (1994), ''African American Historic Places'', John Wiley and Sons, p. 277.</ref>。
* 1992年、[[アメリカ合衆国郵便公社]]は[[切手]]にデュボイスの肖像を用いて表彰した<ref>Sama, Dominic, [http://articles.chicagotribune.com/1992-02-02/entertainment/9201100424_1_niagara-movement-self-addressed-envelopes-naacp "New U.S. Issue Honors W. E. B. Du Bois"], ''Chicago Tribune'', February 2, 1992. Retrieved November 20, 2011.</ref>。額面32セントの第2弾が1998年2月3日に{{仮リンク|Celebrate the Century|en|Celebrate the Century}}切手シートシリーズの一部として発行された。
* 1994年、[[マサチューセッツ大学アマースト校]]の{{仮リンク|W・E・B・デュボイス図書館|label=主図書館|en|W. E. B. Du Bois Library}}がデュボイスにちなんで名づけられた。デュボイスは遺作管理者の歴史家{{仮リンク|ハーバート・アプテカー|en|Herbert Aptheker}}を通じて自分の論文をこの大学に移した<ref>Han, John J. (2007), "W. E. B. Du Bois", in ''Encyclopedia of American Race Riots'', Greenwood Publishing Group, p. 181.</ref>。
* 2000年、[[ハーバード大学]]のHutchins Center for African & African American ResearchはW・E・B・デュボイス・メダルの授与を始めた。これは同大学のアフリカ系アメリカ人研究において最も名誉あるものと考えられている<ref>{{cite web |url=https://hutchinscenter.fas.harvard.edu/people/w-e-b-du-bois-medal-recipients |title=W. E. B. Du Bois Medal Recipients {{!}} The Hutchins Center for African & African American Research |website=hutchinscenter.fas.harvard.edu |access-date=2018-10-28}}</ref>。
* デュボイスが社会学研究『{{仮リンク|The Philadelphia Negro|en|The Philadelphia Negro}}』のための調査を行ったペンシルベニア大学の寮が彼にちなんで名づけられたUniversity of Pennsylvania, where he conducted field research for his sociological study ''[[The Philadelphia Negro]]''.<ref>[http://dubois.house.upenn.edu/house_history.html "The History of W. E. B. Du Bois College House"] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20120119024637/http://dubois.house.upenn.edu/house_history.html |date=2012-01-19 }}, University of Pennsylvania. Retrieved November 20, 2011.</ref>。
* {{仮リンク|ハンプトン大学|en|Hampton University}}の寮がデュボイスにちなんで名づけられた。
* 『{{仮リンク|アフリカ百科事典|label=アフリカ人ならびにアフリカ系アメリカ人の経験の百科事典|en|Encyclopedia Africana}}(Africana: The Encyclopedia of the African and African-American Experience)』は編集者{{仮リンク|クワメ・アンソニー・アッピア|en|Kwame Anthony Appiah}}と[[ヘンリー・ルイス・ゲーツ・ジュニア]]がデュボイスに触発され、また彼らによってデュボイスに捧げられた<ref>Bloom, Harold (2001), ''W. E. B. Du Bois'', Infobase Publishing, p. 244.</ref>。
* [[ベルリン]]の[[フンボルト大学ベルリン|フンボルト大学]]はデュボイスを称えて名付けられた一連の講義を開催している<ref>[http://www.angl.hu-berlin.de/confslecs/dboislecs "W. E. B. Du Bois Lectures"], Humboldt University. Retrieved November 20, 2011.</ref>。
* 学者[[モレフィ・ケテ・アサンテ]]は2002年に彼が作成した『{{仮リンク|最も重要なアフリカ系アメリカ人100人|en|100 Greatest African Americans}}』にデュボイスをリストしている<ref>Asante, Molefi Kete (2002), ''100 Greatest African Americans: A Biographical Encyclopedia'', Prometheus Books, pp. 114–116.</ref>。
* 2005年、デュボイスはワシントン・D・Cの重要なアメリカ人の有志たち(volunteers{{訳語疑問点|date=2020年6月}}の記念碑[[:en:The Extra Mile|The Extra Mile]]のメダルを授与された<ref>"Noteworthy", ''The Crisis'', November/December 2005, p. 64.</ref>。
* {{仮リンク|アメリカ社会学会|en|American Sociological Association}}によって授与される最高経歴賞(The highest career award)は2006年にデュボイスにちなんで[[:en:W.E.B. Du Bois Career of Distinguished Scholarship Award|W.E.B. Du Bois Career of Distinguished Scholarship Award]]と改称された。
* [[米国聖公会|アメリカ聖公会]]は2009年に{{仮リンク|米国聖公会総会|label=General Convention|en|General Convention of the Episcopal Church in the United States of America}}で8月3日にデュボイスの年次記念式典を行うことを承認した<ref>[https://www.diobeth.org/wp-content/uploads/2015/05/HolyWomenHolyMen-1.pdf#page=27 "Holy Women, Holy Men: Celebrating the Saints"] (PDF), Church Publishing, 2010. Retrieved November 20, 2011.</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.episcopalchurch.org/lectionary/william-edward-burghardt-dubois-sociologist-1963|title=William Edward Burghardt DuBois: Sociologist, 1963|date=2011-08-17|website=Episcopal Church|language=en|access-date=2019-08-01}}</ref>。
* デュボイスは2012年にペンシルベニア大学の名誉教授に任命された<ref>[http://www.upenn.edu/almanac/volumes/v58/n21/dubois.html "Dr. William Edward Burghardt Du Bois: Honorary Emeritus Professorship of Sociology and Africana Studies"], ''The University of Pennsylvania Almanac'', February 7, 2012, <br />[http://www.thedp.com/article/2012/02/w.e.b._du_bois_receives_honorary_emeritus_professorship "W. E. B. Du Bois receives honorary emeritus professorship"], ''The Daily Pennsylvanian'', February 19, 2012.</ref>。
* Ayokunle Odeleyeからデュボイスを称えて胸像が発注され、デュボイスの生誕記念日である2013年2月23日に{{仮リンク|クラーク・アトランタ大学|en|Clark Atlanta University}}へ寄贈された<ref name="Du Bois Art Projects 2013">{{cite web|title=Du Bois Art Projects|url=http://cauduboislegacy.net/Du_Bois_Art_Projects_2.html|website=CAUDuBoisLegacy.net|publisher=Clark Atlanta University|accessdate=May 12, 2017|archive-url=https://web.archive.org/web/20171020012335/http://cauduboislegacy.net/Du_Bois_Art_Projects_2.html|archive-date=2017-10-20|url-status=dead}}</ref>。
* 2018年3月、W・E・B・デュボイスは[[:en:Grand Prix of Literary Associations|Grand Prix of Literary Associations]](GPLA)2017の''Grand Prix de la Mémoire''を受賞した。

== 著作選 ==
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=== ノンフィクション書籍 ===
* ''[[:en:The Study of the Negro Problems|The Study of the Negro Problems]]'' (1898年)
* ''[[:en:The Philadelphia Negro|The Philadelphia Negro]]'' (1899年)
* ''The Negro in Business'' (1899年)
* ''{{仮リンク|黒人のたましい|label=The Souls of Black Folk|en|The Souls of Black Folk}}'' (1903年)
** {{Cite book |和書 |author=W・E・B・デュボイス |translator=[[木島始]]、[[鮫島重俊]]、[[黄寅秀]] |title=黒人のたましい |publisher=[[岩波書店]] |series=[[岩波新書]] |date=1992-2 |isbn=978-4-00-323331-3 |ref=デュボイス 1992 }}
* "[[:en:The Talented Tenth|The Talented Tenth]]"、第2章「''The Negro Problem''」 。アフリカ系アメリカ人による記事集(1903年9月)
* ''Voice of the Negro II'' (1905年9月)
* ''[[:en:John Brown: A Biography|John Brown: A Biography]]'' (1909年)
* ''Efforts for Social Betterment among Negro Americans'' (1909年)
* ''Atlanta University's Studies of the Negro Problem'' (1897年-1910年)
* ''[[:en:The Negro|The Negro]]'' (1915年)
* ''The Gift of Black Folk: The Negroes in the Making of America'' (1924)
* ''Africa, Its Geography, People and Products'' (1930年)
* ''Africa: Its Place in Modern History'' (1930)
* ''[[:en:Black Reconstruction in America|Black Reconstruction in America]]'' (1935年)
* ''What the Negro Has Done for the United States and Texas'' (1936年)
* ''Black Folk, Then and Now'' (1939年)
* ''Color and Democracy: Colonies and Peace'' (1945年)
* ''The Encyclopedia of the Negro'' (1946年)
* ''The World and Africa'' (1946年)
* ''The World and Africa, an Inquiry into the Part Which Africa Has Played in World History'' (1947年)
* ''Peace Is Dangerous'' (1951年)
* ''I Take My Stand for Peace'' (1951年)
* ''In Battle for Peace'' (1952年)
* ''Africa in Battle Against Colonialism, Racialism, Imperialism'' (1960年)

=== 記事 ===
* [https://archive.org/details/EssayTowardAHistoryOfTheBlackManInTheGreatWar "An Essay Toward a History of the Black Man in the Great War"], ''The Crisis'', vol. 18, no. 2 (June 1919), pp. ;63–87.
* [https://www.jstor.org/stable/pdf/1009474.pdf "The Study of the Negro Problems"], ''The Annals of the American Academy of Political and Social Science'', vol. 11 (1898), pp. ;1–23.

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=== 自伝 ===
* ''[[:en:Darkwater: Voices From Within the Veil|Darkwater: Voices From Within the Veil]]''({{仮リンク|文学における1920年 |label=1920|en|1920 in literature}})
* [[Dusk of Dawn|''Dusk of Dawn: An Essay Toward an Autobiography of a Race Concept]]'' ({{仮リンク|文学における1940年 |label=1940|en|1940 in literature}})
* ''The Autobiography of W. E. Burghardt Du Bois'', ([[文学における1968年|1968]]

=== 小説 ===
* ''The Quest of the Silver Fleece''({{仮リンク|文学における1911年 |label=1911|en|1911 in literature}})
* ''[[:en:Dark Princess|Dark Princess: A Romance]]''({{仮リンク|文学における1928年 |label=1928|en|1928 in literature}})
* The Black Flame Trilogy:
** ''The Ordeal of Mansart''({{仮リンク|文学における1957年 |label=1957|en|1957 in literature}})
** ''Mansart Builds a School'' ({{仮リンク|文学における1959年 |label=1959|en|1959 in literature}})
** ''Worlds of Color'' ({{仮リンク|文学における1961年 |label=1961|en|1961 in literature}})

=== 『''The Crisis''』のアーカイブ ===
: デュボイスは1910年から1933年まで『''{{仮リンク|The Crisis|en|The Crisis}}''』を編集した。これには彼の重要な論争が多く含まれている。
:* [http://www.modjourn.org/render.php?view=mjp_object&id=crisiscollection Archives of ''The Crisis'' at the University of Tulsa: Modernist Journals Collection]
:* [http://dl.lib.brown.edu/ Archives of ''The Crisis'' at Brown University]
:* [http://www.google.com/search?tbm=bks&tbo=1&q=%22The+Crisis%22 Issues of ''The Crisis'' at Google Books]

=== 録音 ===
* [http://folkways.si.edu/albumdetails.aspx?itemid=1033 ''Socialism and the American Negro''(1960年)]
* [http://folkways.si.edu/albumdetails.aspx?itemid=1031 ''W. E. B. Du Bois: A Recorded Autobiography, Interview with Moses Asch''(1961)]

=== 論文 ===
* ''[http://www.gutenberg.org/ebooks/17700 The Suppression of the African Slave Trade to the United States of America: 1638–1870]'', (Ph.D. dissertation), Harvard Historical Studies, Longmans, Green, and Co.(1896年)

=== 演説 ===
* {{cite book |editor-last=Foner |editor-first=Philip S. |editor-link=:en:Philip S. Foner |year=1970 |title=W. E. B. Du Bois Speaks: Speeches and Addresses, 1890–1919 |location=New York |publisher=Pathfinder Press |isbn=978-0-87348-181-6}}
* {{cite book |editor-last=Foner |editor-first=Philip S. |editor-link=:en:Philip S. Foner |year=1970 |title=W. E. B. Du Bois Speaks: Speeches and Addresses, 1920–1963 |location=New York |publisher=Pathfinder Press |isbn=978-0-87348-182-3}}
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== 関連項目 ==
<!--{{Portal|United States|Biography|Society}}-->
* {{仮リンク|フィスク大学の抗議|en|Fisk University protest}}
* [[:en:Grand Prix of Literary Associations|Grand Prix of Literary Associations]]
* {{仮リンク|公民権運動指導者の一覧|en|List of civil rights leaders}}
{{clear}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist}}


==関連項目==
== 参考文献 ==
{{external media| float = right| video1 = [https://www.c-span.org/video/?184685-1/web-du-bois Presentation by Manning Marable on ''W. E. B. Du Bois: Black Radical Democrat'', February 8, 2005], [[C-SPAN]]}}
*[[優生学]]
* Gabbidon, Shaun (2007), ''W. E. B. Du Bois on Crime and Justice: Laying the Foundations of Sociological Criminology'', Ashgate Publishing, Ltd, {{ISBN|978-0-7546-4956-4}}.
*[[黄禍論]]
* {{仮リンク|ジェラルド・ホーン|label=Horne, Gerald|en|Gerald Horne}} (2010), ''[https://books.google.com/books?id=vXgOAQAAMAAJ W. E. B. Du Bois: A Biography]'', Greenwood Press, {{ISBN|978-0-313-34979-9}}.
*[[人種差別]]
* Johnson, Brian (2008), ''[https://books.google.com/books?id=zLbl4JnKASwC W. E. B. Du Bois: Toward Agnosticism, 1868–1934]'', Rowman & Littlefield, {{ISBN|978-0-7425-6449-7}}.
*[[日系アメリカ人]]
* {{仮リンク|デーヴィッド・レヴァリング・ルイス|label=Lewis, David Levering|en|David Levering Lewis}} (2009), ''[https://books.google.com/books?id=BU4vH95YySgC W. E. B. Du Bois: A Biography]'', Henry Holt and Co. Single volume edition, updated, of his 1994 and 2001 works. {{ISBN|978-0-8050-8769-7}}.
*[[アフリカ系アメリカ人]]
* Lomotey, Kofi (2009), ''[https://books.google.com/books?id=dURVOtUlPKYC Encyclopedia of African American Education, Volume 1]'', Sage, {{ISBN|978-1-4129-4050-4}}.
*[[ブラック・ナショナリズム]]
* {{仮リンク|マニング・メラブル|label=Marable, Manning|en|Manning Marable}} (2005), ''[https://books.google.com/books?id=NvwMAQAAMAAJ W. E. B. Du Bois: Black Radical Democrat]'', Paradigm Publishers, {{ISBN|978-1-59451-018-2}}.
*[[アメリカ合衆国の歴史]]
* Rabaka, Reiland (2009), ''[https://books.google.com/books?id=FeZY2JUov5UC Du Bois's Dialectics: Black Radical Politics and the Reconstruction of Critical Social Theory]'', Lexington Books, {{ISBN|978-0-7391-1958-7}}.
*[[坂上田村麻呂黒人説]]
* Young, Mary, and Horne, Gerald (eds.) (2001), ''W. E. B. Du Bois: An Encyclopedia'', Greenwood Publishing Group, {{ISBN|978-0-313-29665-9}}.

== 関連資料等 ==
{{external media| float = right| video1 = [https://www.c-span.org/video/?319147-1/lines-descent Presentation by Kwame Anthony Appiah on ''Lines of Descent'', April 29, 2014], [[C-SPAN]]}}
{{external media| float = right| video1 = [https://www.c-span.org/video/?53447-1/web-du-bois-biography-race ''Booknotes'' interview with David Levering Lewis on ''W.E.B. Du Bois: The Biography of a Race, 1868-1919'', January 2, 1994], [[C-SPAN]]| video2 = [https://www.c-span.org/video/?160133-1/web-dubois Presentation by Lewis on ''W.E.B. Du Bois: The Fight for Equality and the American Century, 1919–1963'' at the Atlanta History Center, October 30, 2000], [[C-SPAN]]| video3 = [https://www.c-span.org/video/?163816-1/open-phones-david-levering-lewis Interview with Lewis about ''W.E.B. Du Bois: The Fight for Equality and the American Century, 1919–1963'', April 29, 2001], [[C-SPAN]]| video4 = [https://www.c-span.org/video/?166023-9/web-dubois Presentation by Lewis about his Du Bois biographies at the National Book Festival, September 8, 2001], [[C-SPAN]]| video5 = [https://www.c-span.org/video/?179466-1/small-nation-people Presentation by Lewis and Deborah Willis on their book ''A Small Nation of People: W.E.B. Du Bois and African American Portraits of Progress'', October 29, 2003], [[C-SPAN]]}}
* {{cite book |last=Appiah |first=Kwame Anthony |authorlink=:en:Kwame Anthony Appiah |year=2014 |title=Lines of Descent: W. E. B. Du Bois and the Emergence of Identity |publisher=Harvard University Press |isbn=978-0-674-72491-4}}
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* Bulmer, Martin (1991). "W. E. B. Du Bois as a Social Investigator: The Philadelphia Negro, 1899", in Martin Bulmer, Kevin Bales, and Kathryn Kish Sklar, eds. ''The Social Survey in Historical Perspective, 1880–1940'' pp. ;170–188.
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* Dorrien, Gary (2015). ''The New Abolition: W.E.B. Du Bois and the Black Social Gospel.'' New Haven, CT: Yale University Press.{{ISBN|978-0300205602}}.
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* Holt, Thomas C. "Du Bois, W. E. B." in [http://www.anb.org/articles/15/15-00191.html ''American National Biography Online''] (2000).
* Hubbard, Dolan (ed.) (2003). ''[https://books.google.com/books?q=0826214339 The Souls of Black Folk: One Hundred Years Later]'', University of Missouri Press, {{ISBN|978-0-8262-1433-1}}.
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* Lewis, David Levering, and Willis, Deborah (2005), ''[https://books.google.com/books?q=0060817569 A Small Nation of People: W. E. B. Du Bois and African American Portraits of Progress]'', HarperCollins, {{ISBN|0-06-081756-9}}.
* Meier, August (1963), ''Negro Thought in America, 1880–1915: Racial Ideologies in the Age of Booker T. Washington'', University of Michigan Press. {{ISBN|978-0472061181}}.
* Mullen, Bill V. (2015). ''Un-American: W.E.B. Du Bois and the Century of World Revolution.'' Philadelphia: Temple University Press.{{ISBN|978-1439911105}}.
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* [https://www.amazon.com/Mark-Richardson/e/B001HP1JGQ/ref=dp_byline_cont_book_1 Richardson, Mark]. "W.E.B. Du Bois and the Redemption of the Body." In ''[https://www.amazon.com/Atalanta-Studies-American-Literature-Culture/dp/1571132392/ref=pd_ybh_a_3?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=1W4D87TDKK1YR6GENE7G The Wings of Atalanta: Essays Written Along the Color Line]''. Camden House, 2019: 73-109. {{ISBN|1571132392}}.
* Rudwick, Elliott M. (1968), ''W. E. B. Du Bois: Propagandist of the Negro Protest'', University of Pennsylvania Press, {{ASIN|B00442HZQ2}}.
* Shaw, Stephanie J. (2013), ''W. E. B. Du Bois and "The Souls of Black Folk"''. Chapel Hill, NC: University of North Carolina Press{{ISBN|978-1469626437}}.
* {{仮リンク|エマ・ゲルダーズ・スターン|label=Sterne, Emma Gelders|en|Emma Gelders Sterne}} (1971), ''His Was The Voice, The Life of W. E. B. Du Bois'', Crowell-Collier Press. Book for children. {{ASIN|B000I1XNX2}}.
* Sundquist, Eric J. (1996) (Ed.), ''[https://books.google.com/books?q=0195091787 The Oxford W. E. B. Du Bois Reader]'', Oxford University Press, {{ISBN|978-0-19-509178-6}}.
* {{仮リンク|ユージーン・ヴィクター・ウォルフェンシュテイン|label=Wolfenstein, Eugene Victor|en|Eugene Victor Wolfenstein}} (2007), ''A Gift of the Spirit: Reading The Souls of Black Folk'', Cornell University Press, 2007, {{ISBN|0-8014-7353-5}}.
* Wright, William D. (1985), ''The Socialist Analysis of W. E. B. Du Bois'', Ph.D. dissertation, State University of New York at Buffalo.
* Zuckerman, Phil (2000), ''[https://books.google.com/books?id=xsMszzLoPccC Du Bois on Religion]'', Rowman & Littlefield. A collection of Du Bois's writings on religion, {{ISBN|978-0-7425-0421-9}}.

=== ドキュメンタリー ===
* {{仮リンク|ルイス・マサイア|label=Massiah, Louis|en|Louis Massiah}} (producer and director), [http://newsreel.org/video/W-E-B-DU-BOIS ''W. E. B. Du Bois: A Biography in Four Voices''], documentary movie, 1996, California Newsreel

== 外部リンク ==
{{Sister project links | wikt=no | commons=Category:W.E.B. Du Bois | b=no | n=no | q=W. E. B. Du Bois | s=Author:William Edward Burghardt Du Bois | v=no | voy=no | species=no | d=Q158060}}
* {{Internet Archive author |search=(("Du Bois" OR "DuBois") AND ("W. E." OR William))}}
* {{Librivox author |id=1655}}
* [https://guides.loc.gov/web-dubois W. E. B. Du Bois: Online Resources, from the Library of Congress]
* [http://www.duboisnhs.org W. E. B. Du Bois National Historic Site]
* [http://www.georgiaencyclopedia.org/nge/Article.jsp?id=h-905 W. E. B. Du Bois] in the ''{{仮リンク|新ジョージア百科事典|label=New Georgia Encyclopedia|en|New Georgia Encyclopedia}}''
* {{Gutenberg author | id=Du+Bois,+W.+E.+B.+(William+Edward+Burghardt)}}
* {{cite IEP |url-id=dubois |title=W. E. B. Du Bois}}
* [http://www.c-span.org/video/?165130-1/writings-b-washington-du-bois "Writings of B. Washington and Du Bois"] from [[C-SPAN]]'s ''[[:en:American Writers: A Journey Through History|American Writers: A Journey Through History]]''
* [https://fraser.stlouisfed.org/author/4368 Works by W. E. B. Du Bois] at {{仮リンク|FRASER|en|FRASER}}
* [https://www.youtube.com/watch?v=kKXglS90qn4 Audio of W. E. B. Du Bois lecturing on "Socialism and the American Negro"], April 9, 1960 at [[YouTube]]


<!--
==外部リンク==
{{W. E. B. Du Bois|state=expanded}}
* [http://www.gutenberg.org/author/William_Edward_Burghardt_Du_Bois デュボイス著作]、[[プロジェクト・グーテンベルク]]
{{Pan-Africanism}}
* [http://www.duboislc.org/html/DuBoisBio.html W・E・B・デュボイス略歴]、[[ジェラルド・C・ハイネス]]
{{Civil rights movement}}
<!-- リンク切れ * [http://web.archive.org/20000816235858/foia.fbi.gov/dubois/dubois1.pdf ウィリアム・E・B・デュボイスのFBIファイル] -->
{{Authority control}}-->
* [http://web.archive.org/20040501172601/members.tripod.com/~DuBois/bsia.html The W.E.B. Du Bois Virtual University]
<!-- リンク切れ * [http://www.wfu.edu/~caron/ssrs/Dorr.rtf ''Fighting Fire with Fire: African Americans and Hereditarian Thinking, 1900-1942''] -->
* {{IEP|dubois|William Edward Burghardt Du Bois}}
* [http://scholarworks.umass.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1128&context=cibs The Pro-Japanese Utterances of W.E.B. Du Bois (デュボイスの親日発言)]Reginald Kearney, Contributions in Black Studies: Vol. 13, Article 7.1995


{{Normdaten}}
{{Normdaten}}

2020年7月25日 (土) 05:31時点における版

W・E・B・デュボイス
W・E・B・デュボイスの公式写真。あご髭と口髭を蓄えている。50歳頃
W・E・B・デュボイス(1918年)
生誕 William Edward Burghardt Du Bois
(1868-02-23) 1868年2月23日
アメリカ合衆国、グレート・バリントン (マサチューセッツ州)英語版
死没 1963年8月27日(1963-08-27)(95歳)
ガーナアクラ
研究分野 公民権社会学歴史
研究機関 Atlanta University, NAACP
出身校
論文 アメリカ合衆国におけるアフリカ人奴隷貿易の廃絶、1638年-1870年 (1896)
博士課程
指導教員
アルバート・ブシュネル・ハート英語版
主な業績
影響を
受けた人物
アレクサンダー・クラメル英語版
ウィリアム・ジェームズ
主な受賞歴 スピンガーン賞英語版
1920年
レーニン平和賞
1959年
配偶者
子供 ヨランダ英語版を含む2名
署名
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイスWilliam Edward Burghardt Du Bois[djˈbɔɪs] dew-BOYSS;[1][2]、1868年2月23日-1963年4月27日)はアメリカの社会学者社会主義者歴史学者公民権運動家パン・アフリカ主義者、作家、編集者。マサチューセッツ州グレート・バリントン英語版で生まれ、比較的寛容かつ統合英語版されたコミュニティで成長し、ベルリン大学ハーバード大学を卒業して博士号を取得した最初のアフリカ系アメリカ人となった。その後アトランタ大学で歴史・社会学・経済学の教授となった。アフリカ系アメリカ人のコミュニティに対する貢献から、ブラック・エリート英語版の一員であるとされ、また黒人優生学の一部の側面を支持していると見做されていた。デュボイスは全米黒人地位向上協会(National Association for the Advancement of Colored People、NAACP)が1909年に設立された際の創立メンバーの1人でもある。

NAACP結成以前からデュボイスは黒人の平等な権利を求めるアフリカ系アメリカ人活動家グループ、ナイアガラ運動英語版のリーダーとして全国的に有名になっていた。デュボイスとその支持者たちはアトランタの妥協英語版に反対していた。これはブッカー・T・ワシントンによって構築された合意で、南部の黒人たちが労働力を提供し白人の政治的支配に従う代わりに南部の白人たちは黒人たちが基礎教育を受けることと経済的機会を得ることを保障するというものであった。デュボイスはこの妥協に従うのではなく、完全なる市民権と政治的代表の増加を主張し、それはアフリカ系アメリカ人の知的エリートによってもたらされると考えていた。デュボイスはこの知的エリートのグループをRacial uplift下の概念としてTalented Tenthと呼び[訳語疑問点]、アフリカ系アメリカ人が指導力を強化するには高等教育の機会が必要であると考えていた。

デュボイスが主に反論を加えたのはレイシズムであり、彼はリンチジム・クロウ法、教育と雇用における差別に強く抗議した。彼の理念にはあらゆる場所の有色人種、特に植民地に住むアフリカ人とアジア人が含まれていた。デュボイスはパン・アフリカ主義の提唱者であり、ヨーロッパ勢力からアフリカの植民地が独立する戦いを行うために幾度もパン・アフリカ会議の組織化を支援した。デュボイスは何度かヨーロッパ、アフリカ、アジアを旅した。第一次世界大戦後、彼はフランスにおける黒人兵士英語版の経験を調査し、アメリカ軍における広範な偏見と人種差別を記録した。

デュボイスは多作な作家であった。彼のエッセイ集『The Souls of Black Folk英語版(日本語版タイトル:黒人のたましい)』はアフリカ系アメリカ人の文学英語版において重要な作品であり、また1935年の大作『Black Reconstruction in America』ではリコンストラクション南北戦争後の南部の再建)の失敗は黒人に責任があるという一般的な教義に異論を唱えた。フレデリック・ダグラスからフレーズを借用し、アメリカ人の社会生活と政治生活で蔓延っている分離すれども平等(Separate but equal)のドクトリンの不正を表現するものとしてカラー・ラインという用語を広めて一般化した。

彼は人生の大半における中心的なテーゼ「20世紀の問題とはカラー・ラインの問題である(The problem of the twentieth century is the problem of the color-line.)」によって「黒人大衆の魂(The Souls of Black Folk)」の冒頭を始めている。

彼が1940年に書き上げた自伝『Dusk of Dawn』は部分的にはアメリカの社会学分野における最初の科学的論文であると見做されている。彼は他に2つの伝記を出版した。これら3つ全てに社会学・政治・歴史に関するエッセイが含まれている。NAACPの機関紙『The Crisis』の編集者としての役割の中でも、多くの影響力有る作品を発表した。デュボイスは資本主義がレイシズムの主たる原因であると考えており、生涯を通じて社会主義者の理念に広く共鳴していた。また彼は熱烈な平和運動家であり、核軍縮を提唱していた。デュボイスが生涯にわたってキャンペーンを続けた多くの改革が具体化されたアメリカ合衆国の公民権法は、彼の死の1年後に制定された。

幼少期

レンガ造りの古い教会。周囲は木が生い茂っている
子供のころ、デュボイスは会衆派教会英語版に出席した。教会のメンバーはデュボイスの大学の学費を支払うために寄付を集めた[3]

ウィリアム・エドワード・バーグハード・デュボイスは1868年2月23日にマサチューセッツ州グレート・バリントン英語版でアルフレッド(Alfred)およびメアリー・シルヴィナ・デュボイス(Mary Silvina Du Bois、旧姓バーグハード〈Burghardt〉)の子として生まれた[4]。メアリー・シルヴィナ・バーグハード一家はグレート・バリントンでは極めて少数の自由黒人であり、長期にわたりマサチューセッツ州で土地を保有していた。彼女の家系にはオランダ系アフリカ系英語版イギリス系の祖先がいた[5]。ウィリアム・デュボイスの高祖父(4代前)はトム・バーグハード(Tom Burghardt)である。彼は1730年頃に西アフリカで生まれた奴隷英語版であった。コンレード・バーグハード(Conraed Burghardt)の所有であったトムはアメリカ独立戦争の間、短期間大陸軍に務めた。18世紀後半に彼が自由身分を手に入れたのはこれが理由だったかもしれない[6]。彼の息子はジャック・バーグハード(Jack Burghardt)、孫はオセロ・バーグハード(Othello Burghardt)であり、オセロがメアリー・シルヴィナ・バーグハードの父である[6]

ウィリアム・デュボイスはエリザベート・フリーマン英語版は自分の親戚であると主張していた。彼は彼女が自分の曽祖父ジャック・バーグハードと結婚したと書いている[7][8]。しかし、フリーマンはジャック・バーグハードより20歳も年上であり、そのような結婚の記録は見つかっていない。フリーマンの娘、ベッツィ・ハンフリー(Betsy Humphrey)は最初の夫ジョナ・ハンフリー(Jonah Humphrey)が「1811年頃」にこの地域を去り、またジャック・バーグハードの最初の妻が死亡した(1810年頃)後、ジャック・バーグハードと結婚したかもしれない。もしそうであるならば、エリザベート・フリーマンはウィリアム・デュボイスの義理の祖母ということになるであろう。状況証拠はジョナ・ハンフリーがジャック・バーグハードと結婚したことを支持しており、何等かの形で密接な関係があるものと思われる[9]

ウィリアム・デュボイスの父方の曽祖父はニューヨーク州ポプキシーにいたユグノーフランス系アメリカ人ジェームズ・デュボイス(James Du Bois)であり、奴隷の女性との間に複数の子供を作っていた[10]。ジェームスが作った混血の息子の1人がアレクサンダー(Alexander)であり、1803年にバハマロング・ケイ英語版で生まれた。彼は1810年に父と共にアメリカ合衆国へ移住した[11]。アレクサンダー・デュボイスはハイチに行ってそこで働き、愛人との間に息子アルフレッド(Alfred)を設けた。アレクサンダーはコネチカットに戻ったが、アルフレッドは母親と共にハイチに残された[12]

1860年に入る少し前、アルフレッド・デュボイスはアメリカ合衆国に移住しマサチューセッツに住んだ。彼は1867年2月5日にメアリー・シルヴィナ・バーグハードとグレート・バリントン英語版の村フーサトニック英語版で結婚した[12]。1868年に彼らの間に息子ウィリアムが生まれ、その2年後の1870年にアルフレッドはメアリーの下を去った[13]。メアリー・デュボイスは息子ウィリアムと共にグレート・バリントンの両親の家に戻り、ウィリアムが5歳になるまでそこで暮らした。メアリーは1880年代に脳卒中を患うまで家族を助けて(兄弟や隣人たちからいくらかの支援を受けながら)働いた。そして1885年に死亡した[14]

グレート・バリントンの大多数はヨーロッパ系アメリカ人英語版のコミュニティであり一般的にウィリアム・デュボイスに対する扱いは良かった。彼は白人と黒人が共に学ぶ学校に通い、白人の級友たちと遊んだ。大人になった時、彼は母子家庭の子供として感じた人種差別と町におけるマイノリティとしての経験について書いた。しかし教師は彼の能力を認識しており、彼の知的探求を励ました。そして学術研究におけるやりがいのある経験によって、彼は自分の知識を使ってアフリカ系アメリカ人に力を与えることができると考えるようになっていった[15]。デュボイスはグレート・バリントンのサールズ高校英語版を卒業した。デュボイスが大学に進学することを決めた時、彼が幼年期に通っていた会衆派教会英語版は彼の学費を調達した[16]

大学教育

Tデュボイスのハーバード大学での研究論文の表紙。「Suppression of the African Slave Trade in the United States of America: 1638–1871(アメリカ合衆国におけるアフリカ人奴隷貿易の廃絶、1638年-1870年)」

隣人たちの寄付を頼って、デュボイスはテキサス州ナッシュビル歴史的黒人大学であるフィスク大学に入学し1885年から1888年まで学んだ[17]。南部への旅と居住は彼にとって南部のレイシズムを初めて経験する場となった。当時の南部はジム・クロウ法、偏見、黒人の投票の妨害、リンチ英語版によって覆われており、リンチはこの後の10年間にピークを向かえる[18]。フィスク大学から学位を取得した後、デュボイスはハーバード大学(当時フィスク大学の単位を認めていなかった)に入学して1888年から1890年まで学び、アメリカの有名な哲学者であったウィリアム・ジェームズから強い影響受けた。デュボイスはハーバードの3年分の学資をアルバイト(summer jobs)、遺産、奨学金、友人からの借金などで賄った。1890年、ハーバード大学はデュボイスに史上2番目となるcum laudeを授与した[19]。1891年、デュボイスはハーバード大学の社会学大学院(the sociology graduate school[訳語疑問点])に入学するための奨学金を受け取った[20]

1892年、デュボイスはJohn F. Slater Fund for the Education of Freedmen英語版から卒業研究のためベルリン大学に入学するのに必要なフェローシップを授与された[21]。ベルリン大学の学生時代にはヨーロッパ中を旅した。彼はベルリンで当代の識者(age intellectually[訳語疑問点])となり、グスタフ・フォン・シュモラーアドルフ・ワーグナーハインリヒ・フォン・タイトシュカのようなドイツの最も著名な社会学者たちと学んだ[22]。デュボイスはドイツでの日々について「私はアメリカ世界の外にいる自分自身を見つけ出した。私と一緒にこの光景を見ている白人の人々-学生、知己、教師たち-がいた。彼らは必ずしも私を好奇心の対象として、あるいは人間以下の何かと見なすために立ち止まったわけではない。私はある意味特権的な学生という地位にいる男であり、この世界、特に私が来た世界の一部で彼らと会い話すことを喜んだ[訳語疑問点][23]。」ヨーロッパから戻った後、1895年にデュボイスは大学院を修了し、ハーバード大学からDoctor of Philosophyを取得した最初のアフリカ系アメリカ人となった[24]

ウィルバーフォース大学とフィラデルフィア

私と他の世界の間にはまだ問いかけられていない問題があります。...それはどのような問題だと感じていますか?...彼は常に自己の中に二つの存在を見ます。-即ちアメリカ人と黒人(ニグロ)です。2つの魂、2つの思想、2つの調和せざる努力、1つの黒い肉体(dark body)に2つの相容れない理想があり、彼の頑健さだけがそれをバラバラに引き裂いてしまわないよう保っている。...彼はアメリカをアフリカ化しようとはしないでしょう。アメリカの持っているものはあまりに多く、世界とアフリカに教えきれるものではないからです。黒人の魂を漂白しようともしないでしょう。なぜなら、彼は、黒人の知の中に世界に対する予言が流れていることを知っているからです。彼は単に一人の人間が仲間に冒涜されたり唾を吐きかけられることなく、面前で機会の扉をほとんど閉ざされることなく、黒人でありアメリカ人であることできるようにとを望んでいるのだけなのです
—Du Bois, "Strivings of the Negro People", 1897[25]

1894年の夏、デュボイスは名誉あるタスキーギ研究所英語版からのものを含むいくつかの仕事の求人を受け、その中からオハイオ州のウィルバーフォース大学英語版での教職を受けた[26]。ウィルバーフォース大学においてデュボイスはアレクサンダー・クルメル英語版から強い影響を受けた。彼は理念と倫理(ideas and morals)が社会の変革に必要なツールであると考えていた[27]。同時に、デュボイスはウィルバーフォースで教え子の1人だったニナ・ゴマー(Nina Gomer)と1896年5月12日に結婚した[28]

ウィルバーフォース大学での2年間の後、デュボイスはペンシルベニア大学から1896年夏の「assistant in sociology」として1年間の研究職に就くことを受諾した[29]。フィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人の地区で、社会学のフィールド調査を実施し、その成果は彼の記念碑的研究業績である1899年出版の『The Philadelphia Negro英語版』の基礎を作った。同時に彼はアトランタ大学英語版で教鞭を取った。これはアメリカ合衆国における最初の黒人コミュニティのケーススタディであった[30]。1890年代までに、ペンシルベニアの黒人地区は犯罪・貧困・死亡率において不名誉な評判を得ていた。デュボイスの本は実証的根拠、ならびに人種隔離が黒人の生活および評判に与えるネガティブな影響についての彼の鋭いアプローチによってこのステレオタイプを覆した。この結果からデュボイスは人種統合はアメリカの都市における民主的平等の鍵となると認識するようになった[31]。『The Philadelphia Negro』で採用された方法論、即ち説明(the description[訳語疑問点]と近隣地区の社会的特性の地図化(the mapping of social characteristics onto neighborhood areas[訳語疑問点])は社会学のシカゴ学派(the Chicago School)の研究の先駆を成すものであった[32]

1897年にAmerican Negro Academy英語版(ANA)に参加した際、デュボイスは黒人アメリカ人を白人社会へ統合するというフレデリック・ダグラスの請願(plea)を拒否する論文を発表した。その中で彼は「我々は黒人(Negrous)であり、創造以来眠りの中にあった広大なる歴史的人種の一員である。しかし、アフリカの祖国の暗い森の中で目覚めかけている。」と書いている[33]。月刊誌『The Atlantic英語版』の1897年8月号において、デュボイスは「黒人たちの努力(Strivings of the Negro People)」を発表した。これは一般大衆を対象とした彼の初めての著作であり、アフリカ系アメリカ人は自身のアフリカの遺産を抱きつつアメリカ社会に貢献すべきであるという彼のテーゼを詳述した[34]

アトランタ大学

1897年7月、デュボイスはフィラデルフィアを去りジョージア州の歴史的黒人大学たるアトランタ大学英語版で、歴史と経済の教授となった[35]。彼の最初のメジャー・アカデミーの研究となるのは著作『The Philadelphia Negro』(1899年)であり、彼が1896年-1897年に実施したフィールドワークに基盤を置いたフィラデルフィアのアフリカ系アメリカ人の詳細かつ包括的な社会学的研究である。この研究はアフリカ系アメリカ人についての初めての科学的研究であり、黎明期のアメリカの科学的社会学に大きな貢献を残す、学術的なブレイクスルーであった[36][37]。この研究においてデュボイスは黒人の下層階級を説明するために「the submerged tenth」というフレーズを作った。1903年の後半には社会的エリート階層を指す「The Talented Tenth英語版(才能ある1割)」という用語を広めた[38]。デュボイスの用語は黒人と白人双方の国家的エリートが文化と進歩における成果において重要であるという彼の見解を反映したものである[38]。デュボイスはこの時代において、最下層階級(the submerged tenth)の人々を「怠惰(lazy)」または「危うい(unreliable)」という軽蔑を込めた表現で書いていたが、(他の著作家とは異なって)彼らの社会的問題の多くは奴隷制度の爪痕に起因するとしている[39]

予算的制約にも関わらずアトランタ大学における彼の成果は驚異的なものとなった。膨大な数の社会科学論文を作成し、毎年黒人問題に関するアトランタ会議英語版(Atlanta Conference of Negro Problems)を主宰した[40]。デュボイスはまたアフリカ系アメリカ人の労働人口と文化の報告準備のためにアメリカ政府から助成金を受け取っていた[41]。デュボイスの生徒たちは彼を素晴らしい人であるが、厳格で親しみづらい教師であると考えていた[42]

初のパン・アフリカ会議

1900年、デュボイスは第1回パン・アフリカ会議英語版に参加した。この会議はロンドンで7月23日から25日まで開かれた(これは1900年のパリ万国博覧会の直前であり、アフリカ人の来賓が両方のイベントに参加できるようにするためであった)[43]。この会議はハイチオンテノー・フィルマン英語版ベニート・シルヴァン英語版トリニダード人弁護士(barrister)のヘンリー・シルヴェスター・ウィリアムズ英語版といったカリブ人の男性たちによって組織された[44]。ヨーロッパ諸国の指導者たちにレイシズムとの闘争、アフリカおよび西インド諸島の植民地に自治権を与えること、アフリカ系アメリカ人が政治およびその他の権利を要求することを認めるように彼らに訴える書簡(Address to the Nations of the World)が作られ、デュボイスはこれの起草において主導的な役割を果たした[45]。この頃までに、アメリカの南部諸州はアフリカ系アメリカ人の大半の権利を剥奪英語版する新しい法律と憲法を通過させており、この政治システムからの除外は1960年代まで続くことになる。

パン・アフリカ会議において出席者たちは満場一致で「Address to the Nations of the World」を採択し、アフリカ系の人々が居住し抑圧に苦しんでいる国々に向けてそれを送った[46]。これはアメリカ合衆国およびヨーロッパの帝国主義諸国が「アフリカ系の人々の権利を認め保護する」こと、そして「アビシニアリベリアハイチのような自由な黒人の国家」の完全性と独立を尊重することを求めた[47]。司教アレクサンダー・ワルターズ英語版パン・アフリカ協会英語版議長)、カナダ人牧師ヘンリー・B・ブラウン(Henry B. Brown、副議長)、ウィリアムズ(Williams、書記長)、そしてデュボイス(宣言委員会議長)がこれに署名した[48]。この宣言には「20世紀の問題はカラー・ラインの問題である」というデュボイスの見解が含まれていた。彼は3年後に著書『The Souls of Black Folk』(1903年)の「Forethought」において再びこの見解を使用した[49]

1900年のパリ万国博覧会

デュボイスは1900年8月から11月にかけて開催された万国博覧会におけるアフリカ系アメリカ人の展示英語版の主たる取りまとめ役であり、この展示のために363枚の写真シリーズを企画した。これは世紀の変わり目のアフリカ系アメリカ人の生活を記念し、当時の人種差別的なカリカチュアとステレオタイプを変えることへの挑戦を意図したものであった[50][51]。また、展示品には図表、 グラフ、および地図形式のデータが含まれていた[52]。彼はこれらの資料編集者としての役割によって金メダルを授与された。これは現在アメリカ議会図書館に保存されている[51]

ブッカー・T・ワシントンとアトランタの妥協

正装したアフリカ系アメリカ人の男性。ポートレート用にポーズを取って座っている。
デュボイス(1904年)

20世紀の最初の10年間で、デュボイスは黒人の代弁者としてブッカー・T・ワシントンに次ぐ存在として浮上した[53]。ワシントンはアラバマ州のタスキーギ研究所の所長であり、アフリカ系アメリカ人と白人のコミュニティに大きな影響を与えていた[54]。ワシントンはリコンストラクション後の諸州の政府を支配していた南部の白人指導者と結ばれた口頭の取引である1895年のアトランタの妥協英語版の作成者であった。この合意は本質的に、大半が農村部のコミュニティに暮らす南部の黒人たちが当時の差別、人種隔離、権利の剥奪英語版、労働組合によって組織化されていない雇用体制に服する状況を作り出し、南部の白人たちは黒人たちの基礎教育、いくらかの経済的機会、法制度下における正義を認め、また白人たちが南部の企業に投資し黒人の教育慈善団体に資金提供を行うことになっていた[55]

当初ワシントンのAtlanta Exposition Speechに祝辞を送ったものの、 [56][57]、デュボイスは後に、アーチボルト・H・グリームケ英語版ケリー・ミラー英語版ジェームズ・ウェルドン・ジョンソン英語版ポール・ローレンス・ダンバー英語版のような他の多くのアフリカ系アメリカ人と共にワシントンの計画に反対するようになった。彼らは後にデュボイスが「The Talented Tenth英語版」と呼ぶことになる教育を受けた黒人階級を代表する人々である[58]。デュボイスはアフリカ系アメリカ人はワシントンによるアトランタの妥協の隔離と差別に対して受動的に従うよりも、平等な権利とより良い機会のために戦うべきであると感じていた[59]

1899年にアトランタ近郊で発生したサム・ホース英語版のリンチは、デュボイスのより大きな行動を起こす意思を強めた[60]。ホースは2,000人の白人群衆によって拷問され、火にかけられ、吊るされた[60]。新聞編集者のジョエル・チャンドラー・ハリスとリンチについての議論に向かうためアトランタを歩いていた時、デュボイスはホースの焼け焦げた腕が店頭に展示されている場面に遭遇した[60]。このエピソードはデュボイスを愕然とさせ、「落ち着いていること、冷静でいること、第三者の科学者でいることができようか。黒人たち(Negroes)がリンチされ、殺され、飢えている時に。」と決心させた[61]。デュボイスは「治療法は単に人々に真実を伝えることではない。彼らに真実に基づいて行動するよう促すことだ」と認識した[62]

1901年、デュボイスはワシントンの自伝『Up from Slavery英語版』の書評を書き[63]、後にそれを加筆して『The Souls of Black Folk英語版』にエッセイ「Of Mr. Booker T. Washington and Others」として掲載し多くの人々に向けて出版した[64]。デュボイスは後年にこれらのエッセイでワシントンを批判したことを後悔した[65]。この2人の指導者の対照的な違いの1つは教育に対する彼らのアプローチであった。ワシントンはアフリカ系アメリカ人学校は農業・機械操作技術のような南部の黒人たちが最も多く住んでいる農村地域での機会に備えるべく産業教育分野に重きを置く必要があると考えていた[66]。デュボイスは黒人学校はリベラルアーツと学問的カリキュラム(古典・芸術・人文学を含む)に重心を置くべきだと考えた。これはリベラルアーツがリーダーシップを持つエリートを育成する必要のあるものであったからである[67]。しかしながら、社会学者エドワード・フランクリン・フレイジャー英語版と経済学者ガーナー・マーダルおよびトーマス・ソウェルが主張しているように、このような教育に関する不一致はワシントンとデュボイスの相違点の中では小さな問題であった。両者は互いが強調する教育形態の重要性を認めていた[68][69][70]。ソウェルはまた、二人の指導者たちの見解は真実一致していなかったにもかかわらず、ワシントンとデュボイスの間の敵意は支持者たちの間で形成されたのであり、本人たちの間で形成されたのではなかったと主張している[71]。デュボイス自身も1965年11月に出版された『The Atlantic英語版』のインタビューにおいてこの見解に立っている[72]

ナイアガラ運動

ナイアガラの滝を背後にして12人のアフリカ系アメリカ人が座っている
ナイアガラ運動英語版の創設者たち(1905年)。デュボイスは中央列の白い帽子を被った人物。

1905年、デュボイスはフレデリック・L・マクギー英語版ジェシー・マックス・バーバー英語版ウィリアム・モンロー・トロター英語版ら幾人かのアフリカ系アメリカ人の公民権運動家とカナダナイアガラの滝のそばで会った[73]。彼らはアトランタの妥協への反対原則宣言を書いた。これは1906年にナイアガラ運動英語版に取り込まれた[74]

デュボイスら「Niagarites」はアフリカ系アメリカ人たちに自分たちの理想を発表することを望んだが、黒人定期刊行物の大半はワシントンに同調する出版社が所有していた。デュボイスは印刷機を購入し1905年12月に『Moon Illustrated Weekly』の出版を始めた[74]。これは最初のアフリカ系アメリカ人の週刊誌であり、デュボイスはこの誌面上でワシントンの立場を攻撃したが、出版は8ヶ月で終わった[75]。デュボイスはすぐに議論のための別の媒体、『The Horizon: A Journal of the Color Line』を作り編集者となった。これは1907年に発行された。フリーマン・H・M・マレー英語版ラファイエット・M・ハーショー英語版が『The Horizon』の共同編集者として働いた[76]

ナイアガラ運動の参加者は2度目の会議を1906年8月の奴隷制度廃止運動家(abolitionist)ジョン・ブラウンの生誕100周年にジョン・ブラウンが襲撃英語版したウェストバージニア州ハーパーズ・フェリーで行った[75]レヴァディ・C・ランサム英語版はワシントンの主たる目標は黒人たちに彼らが現在生きる社会で雇用を用意することであるという事実について話し呼び掛けた。「今日、黒人の二つの階級は、...岐路に立っている。1人は現在の我々の屈辱と堕落への我慢と忍耐を助言する。...他方は恥辱、屈辱に、劣った場所への送還に屈服するべきではないと考えている。...彼は利益のために男らしさ(manhood)を交換することなど考えられない[訳語疑問点][77]

The Souls of Black Folk

The Souls of Black Folk英語版』第2版の表紙。

デュボイスは黒人という人種がもつ才能(genius)と人間性(humanity)を描き出す努力として14のエッセイからなるエッセイ集『The Souls of Black Folk英語版』を出版した[78]。ジェームズ・ウェルドン・ジョンソンはこの本のアフリカ系アメリカ人への影響は『アンクル・トムの小屋(Uncle Tom's Cabin)』に匹敵すると述べている[79]。この本のイントロダクションには「20世紀の問題とはカラー・ラインの問題である」という有名な宣言がある[80]。それぞれの章は2つの題辞から始まる。1つは白人の詩人から、もう一つは黒人の霊感から取ったものであった。これは黒人と白人の文化間における知的・文化的な等価を証明するものであった[81]。この著作の主題はアフリカ系アメリカ人が直面する二重意識英語版(double consciousness)、つまりアメリカ人であり黒人であるということについてである。これはデュボイスによれば、過去においてハンディキャップとなった、しかし未来において強さとなり得るユニークなアイデンティティである。「したがって、人種の運命は同化でも分離主義でもなく、誇るべき永続的な接続(hyphenation[訳語疑問点])を導くことができると考えられるでしょう[82]」。

ジョナサン・S・カーン(Jonathon S. Kahn )の『Divine Discontent: The Religious Imagination of Du Bois 』はデュボイスが『The Souls of Black Folk』で実際的な宗教的自然主義(religious naturalism[訳語疑問点])の模範的文章をどのように書いているかを示している。12ページでカーンは「デュボイスは1人の実際的な宗教的自然主義者のアフリカ系アメリカ人として理解される必要がある。私がここで言いたいことは、デュボイスのように、アメリカの伝統的な実際的宗教的現実主義者は、これはウィリアム・ジェームズ、ジョージ・サンタヤーナ、そしてジョン・デューイが通過してきたものであるが、形而上学的な基盤を持たない宗教を追い求めてきた[訳語疑問点]」。カーンの宗教的自然主義の解釈は非常に広い意味合いを持つが、彼はそれを特定の思想家に結びつけている。デュボイスはその反形而上学的視点(anti-metaphysical viewpoint)によって、ウィリアム・ジェームズなどに代表される宗教的自然主義の領域に配置されている[83]

人種的暴力

1906年秋の2つの災厄はアフリカ系アメリカ人に衝撃を与え、ブッカー・T・ワシントンの妥協主義英語版に打ち勝とうとするデュボイスの公民権運動への支持を強化した。二つの災厄とは、第一に大統領セオドア・ローズベルトブラウンズ・ビル事件英語版の結果として告発されたことを理由に黒人兵士167人を不名誉除隊させたことである。除隊させられた兵士たちの多くは20年にわたり軍に勤務しており、定年間近であった[84]。第二に、9月に黒人男性が白人女性を暴行したという事実無根の主張によってアトランタで暴動が発生英語版したことである。これは雇用不足、そして雇用者が白人に対して黒人を使うことともに人種間の緊張を助長する触媒となった[85]。10,000人の白人たちがアトランタ中であばれまわり、見つけ出した黒人に手当たり次第に暴行を加え、25人以上の死者を出した[86]。この1906年の暴力行為の余波の中で、デュボイスは黒人たちに共和党への支持を撤回するように呼び掛けた。これは共和党のローズベルトとウィリアム・ハワード・タフトが十分に黒人を支援していなかったことによる。ほとんどのアフリカ系アメリカ人はエイブラハム・リンカン大統領の時代以来、共和党に忠実であった[87]

デュボイスはエッセイ『A Litany at Atlanta』を書き、この中でアトランタにおける暴動はアトランタの妥協が失敗であったことを証明したものであると主張した。駆け引きの終了を支持したにも関わらず、黒人たちは南部において法的正義を手に入れることができなかった[88]。歴史家デーヴィッド・レヴァリング・ルイスは家父長的な役割を担っていた白人の貴族的な奴隷主が黒人を白人と争わせることを厭わないビジネスマンたちに取って代わられたために、もはや若いはできなかったと書いている[88]。これら2つの災厄はアフリカ系アメリカ人のコミュニティにとって分水嶺となる出来事であり、平等な権利についてのデュボイスの見解の優位を示す者であった[89]

学業

かつて我々は言われた。立派であれ。調和せよ。道は開かれていると。今日、前進への道は陸軍、海軍、そして公務員、そしてビジネスと職業生活においてさえ、適正が証明された黒人の志願者たちに、人種・色を単純であからさまな言い訳として閉ざされ続けている。
—Du Bois, "Address at Fourth Niagara conference", 1908[90]

論説の発表に加えて、デュボイスはアトランタ大学で学術研究を続けた。1909年、5年の努力を経て奴隷制度廃止論者ジョン・ブラウンの伝記を出版した[91]。これは数多くの識見を含んでいたが、数多くの事実誤認も含まれていた[92]。これは競合してジョン・ブラウンの伝記を書いていたオズワルド・ヴィラード英語版が所有する『The Nation英語版』から強く批判された。デュボイスの業績は白人の学者たちからほとんど無視されていた[91]。『Collier's英語版』誌に白人至上主義の終焉を警告する記事(a piece)を発表した後、デュボイスは主だった定期刊行物に記事を載せることに苦労した。しかし彼は『The Horizon』誌に定期的に記事を発表し続けた[93]

デュボイスはアメリカ歴史学会英語版(American Historical Association、AHA)に初めて招待され年会で論文を発表したアフリカ系アメリカ人であった。彼は自身の論文『Reconstruction and Its Benefits,』を発表し、1909年12月のAHAの聴衆を仰天させた[94]。この論文はコロンビア大学においてドゥニング学派英語版の学者たちによって発展してきたリコンストラクションは黒人の愚鈍と怠惰によって引き起こされた災厄であったとする歴史学の通説に反対した。デュボイスはこれに反論し、この短い器官にアフリカ系アメリカ人のリーダーシップによって3つの重要な目標が達成されたと主張した。それは民主主義、自由な公立学校、そして新しい社会福祉立法である[95]。彼は連邦政府の自由人局英語版の管理、土地の割り当て、教育システム確立、これらの失敗こそが南部においてアフリカ系アメリカ人の展望を破滅させたのだと主張した[95]。デュボイスがこの論文を数ヶ月後に『American Historical Review』誌で公表するために提出した時、彼は黒人(Negro)という単語を大文字にするよう求めた。編集者J・フランクリン・ジェームソン英語版はこれを拒否し、この論文を大文字化せずに出版した[96]。この論文は白人の歴史学者たちからほとんど無視された[95]。デュボイスは後に論文を1935年の画期的な書籍、『Black Reconstruction英語版』へと発展させ、自身の主張を裏付けるため広範な事実を整理した[94]。アメリカ歴史学会(AHA)は1940年まで他にアフリカ系アメリカ人の発表者を招聘することはなかった[97]

NAACP時代

1909年5月、デュボイスはニューヨーク全米黒人会議英語版に参加した[98]。この会議は全米黒人委員会英語版の創設に繋がった。これは公民権、平等な投票券と平等な教育機会を求めるキャンペーンを行う委員会であり、委員長はオズワルド・ヴィラードが務めた[99]。この後、1910年の春に第2回の全米黒人会議の場において参加者たちは全米黒人地位向上協会(National Association for the Advancement of Colored People、NAACP)を創設した[100]。デュボイスの提案では「カラード(colored)」という用語は「黒人(black)」ではなく「全ての血における暗い色の肌を持った人々」を含んだ意味で使用されていた[101]。黒人と白人合わせて数十人の公民権運動支持者がこの創設に参加したが、メアリー・オヴィントン英語版チャールズ・エドワード・ラッセル英語版ウィリアム・イングリッシュ・ウォリング英語版、そして初代議長(president)ムアフィールド・ストーリー英語版ら、執行役員(executive officers)の大半が白人であった[102]

The Crisis

アフリカ系アメリカ人の男性。ポートレート用にポーズを取って座っている。
デュボイス(1911年頃)

NAACPの指導層はデュボイスに広報および研究を担当する理事(Director)に就任するよう要請した[103]。彼は1910年の夏にこの仕事を引き受け、アトランタ大学を辞めた後ニューヨークに移った。彼の主たる業務はNAACPの月刊誌『The Crisis英語版』の編集であった[104]。創刊号は1910年11月に発行され、デュボイスはその目的が「今日、特に有色人種の人々について明確となっている人種的偏見の危険を示す事実および議論」を始めることであると宣言した[105]。この雑誌は驚くべき成功を収め、1920年には発行部数が全世界で100,000部に達することになる[106]。初期の号の典型的な記事には黒人教会の不正と偏狭さを非難するものやエジプト文明のアフリカ中心的起源について議論したものなどがある[107]

1911年の重要なデュボイスの論説は連邦政府がリンチを違法化するように促す全国規模の運動の開始を支援するものであった。デュボイスは彼が好んで用いていた皮肉によってペンシルベニアのリンチについてコメントした。「重要なのは彼が黒人(black)であったことだ。黒人性(Blackness)は罰せられなければならない。黒人性は犯罪の中の犯罪である。...従ってこの国の全ての白人の悪党が知っているように、この犯罪を罰する機会を逃さないようにする必要がある。もちろん、可能ならば理由は偉大かつ圧倒的なものであるべきだろう-記者の想像力によってより恐るべきものになったいくつもの見事な犯罪だ。これに失敗すれば単なる殺人、放火、納屋の延焼、あるいは無作法で終わってしまうかもしれない[108]」。

The Crisis』は労働組合の理想を支持するデュボイスの論説を掲載したが、労働組合の指導者たちが組織的に黒人を会員から除外し人種差別を示したことを強く批判した[109]。デュボイスはまた社会党の綱領を支持したが(彼は1910年から1912年までの短い間、社会党の党員であった)、幾人かの社会党の指導者たちが示したレイシズムを非難した[110]。共和党のウィリアム・タフト大統領が広範囲のリンチへの対応に失敗したことに失望したデュボイスは1912年の大統領選挙で民主党の候補者であるウッドロー・ウィルソンが黒人の理念を支持することと引き換えにウィルソンを支持した[111]

デュボイスは執筆活動を通じて女性の権利を支援したが[112]参政権運動の指導者たちは人種差別に対する彼の戦いを支持することを拒否したため、公に女性参政権運動英語版を支援することは困難であると感じた[113]。1913年の『 The Crisis』の論説では異人種間結婚英語版のタブーについて切り込んだ。デュボイスは一般的には人々が自分の人種内で結婚することを望んでいたが、白人男性が黒人女性と結婚することを法律が禁止していたことから、これを女性の権利問題であると考えた。デュボイスは「[反異人種間混交の]法律により、カラードの女子(girls)は白人男性の情欲から全く無力なまま放置されている。それはカラードの女性を法律の視点において犬の地位に堕とすものである。白人の女子が押し倒されれば[訳語疑問点]、彼女は誘惑者が自分と結婚するように強制することができる。...我々が[反異人種間混交の法律]を廃止しなければならないのは、我々が白人男性の姉妹たちと結婚したいからではなく、白人男性が我々の姉妹を一人にしておこうとしているためである。そのために我らはこの法律の破棄を決意しているのだ[訳語疑問点][114] 」。

1915年から1916年の間、NAACPの複数のリーダーが-『The Crisis』の財政的損失に狼狽し、また一部のエッセイの扇動的な修辞法に不安を抱いて-デュボイスを編集長の座から追放しようと試みた。デュボイスと支持者たちは勝利し、デュボイスは編集長を担当し続けた[115]。1919年の「The True Brownies」と題するコラムで、彼はオーガスタス・グランヴィル・ディル英語版およびジェシー・レドメン・フォセット英語版と共に『The Brownies' Book英語版』という初のアフリカ系アメリカ人の子供と若者を対象とした雑誌の創刊を発表した[116][117]

歴史家・作家

1910年代はデュボイスにとって多作な時期であった。1911年、彼はロンドンの第1回人種会議英語版に参加し[118]、自身の最初の小説『The Quest of the Silver Fleece.』を発表した[119]。2年後、デュボイスは舞台『The Star of Ethiopia英語版』の野外劇を執筆・政策・監督した[120]。1915年、デュボイスはアフリカ黒人の歴史『The Negro英語版』を出版した。これはこの種の著作の中で英語で書かれた最初のものである[121]。この書籍はアフリカ人の劣等性についての主張に反駁し、20世紀のアフリカ中心的な歴史記述の基礎としての役割を果たすことになる[121]。『The Negro』は全世界の有色人種(colored people)の統一と連帯を良そうし、多くのパン・アフリカ運動の支持者たちに影響を与えた[121]

1915年、『The Atlantic Monthly』が資本主義と人種についてのデュボイスの考えをまとめた彼のエッセイ「The African Roots of the War」を掲載した[122]。その中で彼はアフリカの争奪第一次世界大戦の根底にあると主張した。また、後の共産主義者のドクトリンを先取りし、富裕な資本家が白人労働者に彼らの反逆を防ぐのに十分なだけの富を与えることによって、また有色人種の労働者の低賃金労働による競争で彼らを脅かすことによって、白人労働者を宥めていたと主張していた[123]

人種差別との戦い

デュボイスは『The Crisis』の1916年6月号にジェシー・ワシントンリンチ事件の写真を掲載した[124]

デュボイスはNAACPにおける自身の影響力ある役割を利用して様々な人種差別事件に反対した。無声映画『國民の創生The Birth of a Nation)』が1915年に初演されると、デュボイスとNAACPはこの映画を禁止するべく戦った。これはこの映画が黒人を下劣かつ好色な存在として人種差別的に描写していたことによる[125]。この戦いは成功せず、むしろ映画を有名にすることに貢献したが、しかし宣伝によってNAACPは多くの新しい支持者を得た[126]

民間部門だけがレイシズムの源泉ではなかった。ウィルソン大統領の下で政府に勤務するアフリカ系アメリカ人は窮地に立たされた。多くの連邦機関が白人のみを採用する習慣を採用し、陸軍は将校から黒人を排除し、そして移民局はアフリカ系の移民を禁止した[127]。デュボイスは1914年に連邦の役職からの黒人の解雇を嘆く論説を書き、ウィルソンが黒人への正義という選挙運動の公約を果たせなかったことについてウィリアム・モンロー・トロターが不愛想にウィルソンと対立すると、トロターを支持した[128][訳語疑問点]

The Crisis』はリンチに対するキャンペーンを続けた。1915年には1884年から1914年までの2,732件のリンチを年ごとに表にまとめて公表した[129]。1916年4月号はジョージア州リー郡の6人のアフリカ系アメリカ人に対するリンチを取り上げた[124]。1916年の後半には「ウェーコの恐怖(Waco Horror)」の記事で精神障害を持つ17歳のアフリカ系アメリカ人に対するリンチ事件、ジェシー・ワシントンリンチ事件を取り上げた。この記事はウェーコの白人たちの行為を暴露するために覆面報道を用いて新境地を切り開いた[130]

20世紀初頭は合衆国南部から北東部、中西部、西部への黒人の大移住(Great Migration)の時代であった。デュボイスはこの動きを南部のレイシズムから黒人が逃れ、経済的な機会を掴み、アメリカ社会への同化をする助けになると考え、Great Migrationを支持する論説を書いた[131]

また、1910年代はアメリカにおける優生学の流行英語版の揺籃期であり、指導的な優生学者の多くは公然たる人種差別主義者であった。彼らは黒人を「低級人種(a lower race)」と定義した。デュボイスはこの見解を非科学的な逸脱(aberration)であるとして反対したが、未だ優生学の基本的原則-異なる人は先天的特徴を異にし、これによって多かれ少なかれ特定の種類の仕事に適正を持つ。そして全ての人種の中から最も才能ある人々に子孫を作ることを奨励することによって人類の「種」を改善することできる-を支持し続けていた[132][133]

第一次世界大戦

1917年、アメリカ合衆国が第一次世界大戦への参戦準備を始めた時、デュボイスのNAACPの同僚ジョエル・スピンガーンはアフリカ系アメリカ人がアメリカ軍の将校となるための訓練キャンプを組織した[134]。このキャンプは議論を巻き起こした。これは白人たちは黒人には将校になる資格がないと考え、幾人かの黒人はアフリカ系アメリカ人が白人の戦争に参加すべきではないと考えたためである[135]。デュボイスはスピンガーンの訓練キャンプを支援したが、陸軍が数少ない黒人の将校チャールズ・ヤング英語版が体調を崩したことを口実に退役を強要したことに失望させられた[136]。陸軍は黒人のために1,000名の将校の地位を作ることに同意したが、250人はこの訓練キャンプの独立心ある黒人ではなく、白人からの指示を受けることを条件として召募された者にすることを要求した[137]。700,000人以上の黒人が召集の初日に入隊したが差別的な条件の下に置かれ、デュボイスは抗議の声を上げた[138]

数百人のアフリカ系アメリカ人が平和裏にニューヨークの五番街をパレードし、抗議の印を持っている。
1917年にデュボイスはイースト・セントルイス暴動英語版に抗議するサイレント・パレード英語版を組織した。

1917年夏にイースト・セントルイス暴動英語版が発生した後、デュボイスはこの暴動の状況を報告するためセントルイスに向かった。40人から250人のアフリカ系アメリカ人が白人によって虐殺された。これは主としてセントルイスの産業界がストライキ中の白人に代わって黒人を雇ったことを恨んでのことであった[139]。デュボイスの報告結果は「イースト・セントルイスの虐殺(The Massacre of East St. Louis)」という記事として『The Crisis』の9月号に掲載された。これには暴力行為の詳細についての写真とインタビューが含まれていた[140]。歴史家デーヴィッド・レヴァリング・ルイス英語版はデュボイスがこの記事のプロパガンダ効果を高めるためにいくつかの事実を歪曲したと結論付けている[141]。この暴動に対する黒人コミュニティの憤怒を公に示すためにデュボイスはサイレント・パレード英語版を組織した。およそ9,000人のアフリカ系アメリカ人がニューヨークの五番街を進んだ。これはニューヨークにおけるこの種のパレードとしては最初のものであり、公民権を求めて公に黒人たちがデモを行った2つ目の事例であった[142]

デュボイスは1917年のヒューストンの暴動英語版に狼狽した。この暴動はアフリカ系アメリカ人が将校となることを認めさせる努力において最初の重要な挫折であった。この暴動はヒューストン警察が2名の黒人兵士を逮捕し殴打した後に始まった。これに反応して100人以上の黒人兵士がヒューストンの通りを占領し16人の白人を殺害した。軍法会議(military court martial)が開催され19人の兵士が絞首刑、67人が投獄された[143]。ヒューストンの暴動にも関わらず、デュボイスたちはスピンガーンのキャンプで訓練した将校を受け入れるよう軍に圧力をかけることに成功し、600人以上の黒人将校が1917年10月にアメリカ軍に加わった[144]

連邦当局はNAACPの指導者たちが表明した反体制的な見解を懸念し、調査によってNAACPを脅かし萎縮させようとした[145]。デュボイスはこれに怖じ気づくことはなかった。そして1918年には第一次世界大戦がヨーロッパの植民地体制を転覆し全世界-中国インド、そして特にアメリカ合衆国-の有色人種を「解放」することを予見した[145]。NAACP議長ジョエル・スピンガーンはこの戦争に熱心であり、デュボイスに反戦の立場を否定する論説を書くことと引き換えに陸軍将校の任務を検討するよう説得した[146]。デュボイスはこれを奇貨とし、主戦論の論説「団結(Close Ranks)」を1918年7月に書き[147]、そのすぐ後に陸軍から職務を得た[148]。この戦争をアフリカ系アメリカ人の市民権獲得に活用しようとしていた多くの黒人指導者たちはデュボイスの突然の変節を非難した[149]。デュボイスの部隊の南部出身将校たちは彼の存在に反対し、デュボイスの職務は撤回された[150]

第一次世界大戦後

窓が壊れた家から引っ越すアフリカ系アメリカ人家族。
デュボイスは1919年の赤い夏の人種暴動を記録した。この家族はシカゴの人種暴動英語版による破壊の後、彼らの家から避難した。

第一次世界大戦が終結すると、デュボイスはパン・アフリカ会議に出席するため、またアフリカ系アメリカ人の兵士たちの第一次世界大戦での経験を書籍化するためのインタビューを行うため、1919年にヨーロッパへ渡った[151]。彼は反逆的活動の証拠を探すアメリカのエージェントの尾行を受けていた[152]。デュボイスは黒人アメリカ兵の大多数が港湾作業員および労働者として単純労働に追いやられていた状況を確認した[153]。一部の部隊は武装しており、特に第92師団(the Buffalo soldiers)は戦闘に従事した[154]。デュボイスは陸軍における広範なレイシズムを確認し、陸軍司令部はアフリカ系アメリカ人の技能を信用せず、偏見を助長し、彼らが陸軍に加わることを妨げたと結論付けた[155]

ヨーロッパから戻った後、デュボイスはそれまで以上にアフリカ系アメリカ人の平等な権利の獲得を決意した[156]。海外から戻った黒人兵士たちは新しい力の感覚と価値を感じ、ニュー・ニグロ英語版とよばれる新たな態度を代表する存在となった[156]。論説「Returning Soldiers」において彼は「しかし、もし戦争が終わった今、我らが頭脳と腕力の全てを注ぎ込んで、我らの地で地獄の力とのより厳しく、より長く、より断固たる戦いを遂行しないならば、天にまします神からすれば我らは臆病な間抜けである[訳語疑問点]」と書いた[157]。多くの黒人たちが北部の都市に移って仕事を探すと、北部の白人労働者の一部はこの競争に憤った。この労働紛争は1919年の赤い夏と呼ばれるアメリカ全土における一連の恐るべき人種暴動英語版の原因の1つである。この中で30以上の都市で300人以上のアフリカ系アメリカ人が殺害された[158]。デュボイスは『The Crisis』の誌面でこの虐殺を記録した。この記録活動は12月にネブラスカ州オマハの人種暴動の最中に発生したリンチ事件の凄惨な写真を掲載し、最高潮に達した[159]

赤い夏の間の最も唾棄すべきエピソードはアーカンソー州エレイン英語版における黒人に対する悪質な攻撃英語版であり、200人近い黒人が殺害された[160]。南部の報道は黒人が政府を乗っ取ろうとしていると主張し彼らを責めた。この歪曲に憤慨したデュボイスはニューヨーク・ワールド誌で手紙を公表し、黒人の小作人(sharecroppers)が犯した唯一の犯罪は、大胆にも彼らの白人地主に挑戦し、契約上の不正を調査するために弁護士(attorney)を雇ったことだけだと主張した[161]。60人以上の黒人生存者が陰謀を企んだとして逮捕され、ムーア対デンプシー裁判英語版として知られる裁判にかけられた[162]。デュボイスはこの裁判での法的防御資金を調達するためにアメリカ中の黒人を結集した。これによって6年後、連邦最高裁判所における完全な無罪判決を勝ち取った。この判決を書いたのはオリバー・ウェンデル・ホームズであった[120]。この勝訴による南部の黒人の裁判への直接的影響は僅かなものであったが、州が群衆の暴力を庇うのを阻止するために憲法修正第14条適正手続きの保証を初めて使用したものであった[163]

1920年、デュボイスは彼が執筆することになる3つの自伝の最初の1つ、『Darkwater: Voices from Within the Veil英語版』を出版した[164]。ここでいう「ヴェール(veil)」とは全世界の有色人種を覆うものであった。この本において、彼はこのヴェールを持ち上げ、白人の読者にヴェールの背後にある人生がどのようなものか、そしてそのヴェールがそれを通して彼らを見る人の視点を(双方向ともに)どのように歪めたのかを見せたいと望んでいた[165]。この本にはデュボイスのフェミニスト・エッセイである「The Damnation of Women」が含まれていた。これは女性の尊厳と価値、特に黒人女性のそれに捧げられたものであった[166]

アフリカ系アメリカ人の子供たちが使用する教科書が黒人の歴史と文化を無視していることを憂慮して、デュボイスは子供向けの月刊誌『The Brownies' Book』を作った。この本は1920年に初めて出版され、デュボイスが「太陽の子供たち(the children of the sun)」と呼んだ黒人の子供たちを対象としていた[167]

パン・アフリカ主義とマーカス・ガーベイ

デュボイスは第2回パン・アフリカ会議に参加するため1921年にヨーロッパに向かった[168]。全世界から集まった黒人指導者たちは「ロンドン決議(London Resolutions)」を議決し、パリにパン・アフリカ協会(Pan-African Association)の本部を設立した[169]。デュボイスの指導の下、この決議では人種の平等、アフリカはアフリカ人「によって」(1919年の会議と異なり、アフリカ人の同意を得て)統治されるものであると主張された[169]。デュボイスはパン・アフリカ会議の決議を国際連盟への声明で改めて述べ、新たに形成された国際連盟が労働問題に取り組み、またアフリカ人を重要な地位に任命するように求めた。国際連盟はこの要求に対してほとんど行動を起こすことはなかった[170]

1920年代の他の重要なアフリカ系アメリカ人の指導者はアフリカ帰還運動英語版(Back-to-Africa movement)の推進者かつ世界黒人開発協会英語版(UNIA)の創設者であるマーカス・ガーベイであった[171]。ガーベイは統合によって平等を達成しようとするデュボイスの努力を非難し、人種隔離主義を支持した[172]。デュボイスはガーベイのアフリカ系ディアスポラの商業を促進するための運送会社であるブラック・スター・ライン英語版社の構想を支持した[173]。しかし後にガーベイがNAACPの努力に脅威を与えていると心配するようになり、彼を詐欺的で無謀であるとした[174]。ガーベイのスローガン「アフリカ人のためのアフリカ(Africa for the Africans)」に応えてデュボイスはそのコンセプトを支持すると述べたが、アフリカ系アメリカ人がアフリカを統治するというガーベイの意図を非難した[175]

デュボイスは1922年から1924年の間、ガーベイの運動を攻撃する『The Crisis』の一連の記事で彼を「アメリカと全世界の黒人種(Negro race)の最も危険な敵」と呼んだ[176]。デュボイスとガーベイが真剣に協力を試みることは最後までなかった。彼らの諍いは部分的には利用可能な慈善活動資金の多くを獲得したいというそれぞれの組織(NAACPとUNIA)の欲求に根差していた[177]

1921年にハーバード大学が黒人を寮から排除することを決定すると、デュボイスはそれをアメリカにおける「アングロ・サクソン信仰(the Anglo-Saxon cult、北欧のトーテムの信仰、黒人・ユダヤ人・アイルランド人・イタリア人・ハンガリー人・アジア人・南方の島々の人々(South Sea Islander)の権利剥奪、北欧系白人による力づくの全世界の支配)」回復の広範な努力の一例として強く非難した[178]。第3回のパン・アフリカ会議に出席するため1923年にデュボイスがヨーロッパに渡った時、『The Crisis』の発行部数は第一次世界大戦中の100,000部というピークから60,000部まで減少していたが、公民権運動における最も卓越した定期刊行物の地位を維持していた[179]クーリッジ大統領はデュボイスをリベリアへの「特命使節(Envoy Extraordinary)」に任命し[180]、デュボイスは第3回パン・アフリカ会議が終了した後、カナリア諸島からドイツの貨物船に乗ってアフリカに向かい、リベリアシエラレオネセネガルを訪れた[181]

ハーレム・ルネサンス

デュボイスの1924年の著作『The Gift of Black Folk』はアメリカ合衆国の建設におけるアフリカ系アメリカ人のユニークな貢献を称賛した。

デュボイスは著作活動において頻繁にアフリカ系アメリカ人の芸術的な創造性を賞賛し、ハーレム・ルネサンスが1920年代半ばに始まった時、「A Negro Art Renaissance」の記事において黒人の創造的努力の長い休止が終わったことを称えた[182]。ハーレム・ルネサンスに対するデュボイスの熱意は彼が、白人たちが真に黒人アートを鑑賞するためではなく盗み見る(voyeurism)ためにハーレムを訪れていると考えるようになったために衰えた[183]。デュボイスはアーティストたちが彼らの倫理的責任を認識していると主張し「1人の黒人のアーティストはまず第一に1人の「黒人」アーティストである(a black artist is first of all a black artist.[訳語疑問点])と書いた[184]。彼はまた、黒人アーティストたちが彼らのアートを黒人の理念を宣伝するために使っていないことを憂慮し、「私はプロパガンダに使用されない芸術を何ら気にかけることはない」と発言している[185]。1926年の終わりまでに彼は『The Crisis』で黒人アートを支援することを止めた[186]

ロスロップ・ストッダードとの討論

1929年、the Chicago Forum Councilが企画した「史上最大の討論の1つ」という触れ込みの討論がデュボイスとクー・クラックス・クランの会員で優生学といわゆる科学的レイシズムの提唱者であるロスロップ・ストッダード英語版の間で行われた[187][188]。この討論はシカゴで行われ、デュボイスは「黒人は文化的平等を求めるよう働きかけるべきか?ニグロは他の人種と同じ知的可能性を持っているだろうか?」という質問に、肯定すると強く主張した[189]。デュボイスはストッダードたちが舞台の上で笑いものになるであろうことを知っていた。彼はヘフリン(Heflin)上院議員は討論の中で「悲鳴をあげるだろう」とムーア(Moore)に手紙を書いている。自信過剰で仰々しいストッダードはデュボイスとの討論で喜劇的な茶番を演じた。ストッダードがジョークを言っているわけではないことによって、滑稽さはさらに増した。この瞬間はヘッドラインで以下のように伝えられた。「デュボイスは討論でストッダードを叩きのめした。数千のJam Hallが...彼の人種的平等性を証明するかのように喝采を贈った[訳語疑問点][188]。『New Yorker』誌のイアン・フレイジャー(Ian Frazier)はストッダードの破産した思想の喜劇的ポテンシャルはスタンリー・キューブリックの『Dr. Strangelove』が出るまで未開拓のままであったと書いた[188]

社会主義

デュボイスは『The Crisis』誌の編集者となった1911年にメアリー・オヴィントン英語版ウィリアム・イングリッシュ・ウォリング英語版チャールズ・エドワード・ラッセル英語版らNAACP創設者たちの助言を受けて社会党に加わった。しかしながら、デュボイスは1912年の大統領選挙戦で党則を破って民主党のウッドロー・ウィルソンを支持したため社会党からの離党を余儀なくされた。1913年に政府雇用における人種差別が伝えられるとデュボイスのウィルソンに対する支持は揺らいだ[190]。デュボイスは「社会主義は優れた生き方であると確信していたが、そこに至るには様々な方法があると考え」続けていた[191]

1917年のロシア革命から9年後、デュボイスはソヴィエト連邦を訪問するためにヨーロッパへの旅行を延長した[192]。彼はソヴィエト連邦で目の当たりにした貧困と無秩序に衝撃を受けたが、役人たちの力強い職務と労働者たちに与えられた認識(recognition[訳語疑問点])に感銘を受けた[192]。デュボイスはまだカール・マルクスウラジーミル・レーニンの共産主義理論に親しんでいなかったが、社会主義は資本主義よりも人種平等への良い道であるかもしれないと結論付けた[193]

デュボイスは概ね社会主義の原則を支持していたが、彼の政治姿勢は厳密に実際的であった。1929年にはデュボイスは社会主義者のノーマン・トーマス英語版ではなく共和党のジミー・ウォーカーをニューヨーク市長として支持した。これはトーマスの立ち位置がより自分の見解と一致するとしても、ウォーカーの方が速やかに黒人に利益をもたらすと考えてのことであった[194]。1920年代を通じて、デュボイスとNAACPは候補者がリンチとの戦い、労働条件の改善、南部における黒人の投票権への指示を約束する都度、共和党民主党の間で支持を行ったり来たりさせた。候補者たちが約束を果たすことは常に無かった[195]

そしてここに、この時代の悲劇が横たわっている。貧しい人ではないとしても-全ての人が貧困について何かしら知っている。邪悪な人でないとしても-誰が善良だろうか?無知な人でないとしても-何が真実なのか?いや、しかし人は人についてほとんど何も知らないのだ[訳語疑問点]
—Du Bois, "Of Alexander Crummell", in The Souls of Black Folk, 1903[196]

1931年にNAACPと共産党の間に対立が生じた。共産党は1931年にアラバマ州で強姦容疑で逮捕された9人のアフリカ系アメリカ人、スコッツボロ・ボーイズ英語版の支援のために迅速に対応した[197]。この時デュボイスとNAACPはこの事件が彼らの目標にとって有益ではないと考え、スコッツボロ・ボーイズを守る活動を共産党に組織させる道を選んだ[198]。共産党の行動は部分的に成功を収めた。デュボイスは共産主義者たちがこのために費やした大規模な宣伝と資金に強い衝撃を受け、共産主義者たちがNAACPよりも優れた選択肢として自分たちの党をアフリカ系アメリカ人に提示しようと図っているのではないかと疑うようになった[199]。NAACPに対する共産党からの批判に応じ、デュボイスは共産党が不当にNAACPを攻撃しており、また共産党はアメリカにおけるレイシズムを完全に理解できていないと非難する記事を書いた[200]。共産党の指導者たちはデュボイスは「階級の敵(class enemy)」であると非難し、NAACPの指導者たちは表向きは黒人の労働者階級のために戦っているが、実際には彼らとの繋がりを持たないエリートであると主張した[200]

アトランタへの帰還

デュボイスは1931年からNAACPの議長となったワルター・フランシス・ホワイト英語版と良好な協力関係を構築できていなかった[201]。この対立は世界恐慌による財政的緊張と組み合わさり、『The Crisis』を巡る権力闘争を引き起こした。デュボイスは編集者の地位を追われることを憂慮し、1933年に『The Crisis』の仕事を辞してアトランタ大学の学術職を受けた[202]。1934年にデュボイスが人種隔離に対する彼のスタンスを一転させ、「分離すれども平等」はアフリカ系アメリカ人にとって受け入れ可能な目標であると述べた時、NAACPとの亀裂はさらに拡大した[203]。NAACPの指導層は驚愕し、デュボイスに声明の撤回を求めたが彼はこれを拒否した。この論争によってデュボイスはNAACPから離脱した[204]

アトランタ大学で新たに教授職に就任した後、デュボイスはマルクス主義を支持する一連の記事を書いた。彼は労働組合や共産党を強く支持してはいなかったが、マルクスの社会・経済についての科学的な説明はアメリカ合衆国におけるアフリカ系アメリカ人の状況を説明するのに有用であると考えた[205]マルクスの無神論英語版もまたデュボイスの心の琴線を打った。デュボイスは黒人教会がレイシズムに対する黒人の感性に鈍感であると常に批判していた[206]。1933年の著作でデュボイスは社会主義を受容したが「カラードの労働者は白人労働者と同じ土俵に立っていない」と警告した。これは数十年にわたり組織的に黒人を排除してきたアメリカの労働組合に対するデュボイスの嫌悪に根差した意見であった[207]。デュボイスはアメリカの共産党を支持せず、1932年の大統領選挙ではアフリカ系アメリカ人が候補(Ticket[訳語疑問点])にいたにも関わらず共産党の候補者に投票しなかった[208]

Black Reconstruction in America

学問の世界に戻ったデュボイスはアメリカ歴史協会(AHA)に提出した1910年の論文の主題であったリコンストラクションに関する研究を再開できるようになった[209]。1935年、彼は最高傑作(magnum opus)となる『Black Reconstruction in America』を出版した[210]。この本は歴史学者デーヴィッド・レヴァリング・ルイスの言葉を借りるなら「野蛮な敵意の中から突然公民権を認められた黒人は、賞賛すべき意思(volition )と知性(intelligence )そして同様に3世紀にわたる隷属による怠惰(indolence)と無知蒙昧(ignorance)を示した[211]」。デュボイスは黒人たちが如何に南北戦争リコンストラクションにおける中心となる人々であったか、また彼らが白人政治家たちとどのように同盟を結んだかを記録した。彼はこの黒人と白人の連合政府が南部に公教育を確立し、そして多くが必要とした社会福祉計画を確立したという証拠を出した。この本はまた、黒人の解放-これがリコンストラクションの最重要点-がアメリカ社会の根本的な再編を促した経緯を明らかにし、同様になぜ、どのようにアメリカがリコンストラクションの余波の中で黒人の公民権を支持し続けることに失敗したのかも明らかにした[212]


この本の命題は白人歴史学者によって維持されていたリコンストラクションの通説的解釈英語版に対抗するものであり、1960年代まで主流の歴史学者たちから事実上無視されていた[213]。しかしながら、その後この本はリコンストラクションの歴史学における「再評価(revisionist)」のトレンドに火をつけた。このことは黒人の自由の探求と時代の根本的な政治の変化を強調するものであった[214][215]。21世紀までに『Black Reconstruction』は「アフリカ系アメリカ人の史学(historiography)の再評価の基礎となるテキスト」として広く認識されるようになった[216]

この本の最終章「XIV. The Propaganda of History」においてデュボイスはブリタニカ百科事典(Encyclopædia Britannica)に載せる「アメリカ黒人の歴史(history of the American Negro)」の記事を執筆する自身の努力を想起させている。ブリタニカ百科事典の編集者がリコンストラクションへの言及を全て削除した後、彼は「白人の歴史学者たちはリコンストラクションの過ちと失敗と責任を黒人(Negro)の無知蒙昧と堕落に帰してきた。しかし、黒人は黒人の忠誠および黒人の投票のみによって南部を統一へと復帰させた。白人と黒人双方のための新しい民主主義を確立し公立学校が設置された、と黒人は主張する」という注釈がこのエントリーに掲載されると主張した。ブリタニカ百科事典の編集者がこれを拒否したため、デュボイスは記事を取り下げた[217]

百科事典プロジェクト

1932年、デュボイスはフィリップス=ストークス基金英語版カーネギー財団、そして一般教育委員会英語版などの慈善団体によってデュボイスが30年以上構想を抱いていた作品『黒人百科事典(Encyclopedia of the Negro)』の作成計画の編集長に選ばれた[218]。数年間計画と組織化が行われた後、これらの慈善団体は1938年にこの計画を取り消した。これは幾人かの理事がデュボイスは客観的な百科事典を作るには偏向し過ぎていると考えていたためであった[219]

世界周遊

デュボイスは1936年にナチス・ドイツ中国日本など世界中を旅した[220]。デュボイスはドイツにいる間、温もりと敬意をもって取り扱われたとしている[221]。アメリカに戻った後、彼はナチ体制に対する自身の矛盾する見解(ambivalence[訳語疑問点])について述べた[222]。彼はナチスがドイツ経済英語版を見事に立て直したことを称賛したが、ユダヤ人に対する取り扱いに恐怖し、それを「スペインの異端審問やアフリカ人奴隷貿易とのみ比較し得る文明に対する攻撃」と描写した[223]

1905年に日露戦争で日本が勝利した後、デュボイスは日本帝国の強大化に感銘を受けるようになり、ロシアのツァーリ制に対する日本の勝利を有色人種が白人を打ち破った一例と捉えた[224]。日本の「Negro Propaganda Operations」の代表は1920年代と1930年代にアメリカに渡ってデュボイスと会談し、日本的の人種政策についてデュボイスにポジティブな印象を与えた。1936年、駐米日本大使はデュボイスと数名の学者のために日本旅行を取り計らった[225]

第二次世界大戦

デュボイスは第二次世界大戦、特に太平洋戦線にアメリカが介入することに反対した。これは彼が中国と日本は白人の帝国主義者の魔手から脱しようとしていると考えたためである。彼はヨーロッパ人の同盟による日本との戦争はアジアにおける白人の影響力を再確立する機会となると考えていた[226]。デュボイスはアメリカ政府によるアフリカ系アメリカ人の軍隊への動員計画に深く失望した。アメリカ政府は軍における黒人の比率を5.8パーセントに制限し、アフリカ系アメリカ人による戦闘部隊も存在しないという、事実上第一次世界大戦時と同じ制限をかけていた[227]1940年の大統領選挙で黒人たちが共和党の敵対候補に支持を鞍替えすると脅していたことから、フランクリン・ローズベルト大統領は少数の黒人を軍の指導的地位に任命した[228]

デュボイスの2冊目の自伝『Dusk of Dawn英語版』は1940年に出版された[229]。このタイトルはアフリカ系アメリカ人がレイシズムの暗黒の中から脱して偉大なる平等の時代に入るというデュボイスの希望に帰するものである[230]。この書籍は自伝、歴史、そして社会学的論文から成る[231]。デュボイスはこの本について「人種という概念の自伝...私の思考と行動の中で明らかにされ、拡大され、疑いもなく歪められたもの...従って私の人生は全ての人(men)の人生にとって重要である[232][訳語疑問点]

1943年、デュボイスが76歳の時、彼は学長ルーファス・クレメント英語版によって突如アトランタ大学の教授職から解雇された[233]。多くの学者たちが怒りを表明し、アトランタ大学に対してデュボイスに年金と名誉教授の称号を贈るよう促した[234]アーサー・B・スピンガーン英語版はデュボイスがアトランタで過ごした時間について「彼の人生から無視・偏見・不寛容・怠惰を叩き出し、彼以外に理解する者無き、しかしそれが100年後には理解されるようになるかもしれないという希望を高めた」と述べている[235][訳語疑問点]

フィスク大学ハワード大学からの仕事のオファーを断り、デュボイスは特別研究部門の長(director)としてNAACPに復帰した。デュボイスはこの仕事に活力と決意をもって取り組み、多くのNAACPの指導者たちを驚かせた[236]。デュボイスがNAACPを去っていた10年の間にその収入は4倍に増え、会員は325,000人にまで跳ね上がっていた[237]

晩年

年取ったアフリカ系アメリカ人男性のポートレート。
1946年のデュボイス。カール・ヴァン・ヴェクテンによる撮影。

国際連合

1945年、サンフランシスコの会議国際連合が創設された。デュボイスはこの会議に招待された3人のNAACPの代表の1人であった[238]。NAACP代表団は国際連合に人種の平等を承認(endorse)し植民地時代を終わらせるよう求めた[239]。国連をその方向に進めるため、デュボイスは「植民地政府の制度...これは非民主的であり、社会的危険であり、戦争の主たる原因である」と明言する提案の草案を出した[239]。このNAACPの提案は中国ソヴィエト・ロシアインドの支持を得たが、他の主要国から事実上無視され、国連憲章に盛り込まれることは無かった[240]

この国連会議の後、デュボイスは『Color and Democracy: Colonies and Peace』を出版した。この書籍は植民地帝国を攻撃しており、ある評者の言葉によれば「我ら白人の魂を安らげ、代々傍若無人(free-booting[訳語疑問点])な資本家たちの私腹を肥やしてきた悪質な制度全体を爆破するに足るダイナマイトを含んでいた」ものであった[241]

1945年の後半、デュボイスはイギリスマンチェスターで開かれた最後のパン・アフリカ会議(第5回)に出席した[242]。この会議は5回行われたパン・アフリカ会議の中で最も実りあるものであった。またデュボイスはここで後にガーナの初代大統領となるクワメ・ンクルマと出会った。ンクルマはやがてデュボイスをアフリカに招待することになる[242]。デュボイスはアフリカ系アメリカ人に対する差別について要望書を国連に提出する手助けをした。その中で最も注目すべきものはNAACPの「世界への嘆願:アメリカ合衆国の黒人系市民の例に見るマイノリティの人権の否定についての声明、並びに国連による救済を求める嘆願(An Appeal to the World: A Statement on the Denial of Human Rights to Minorities in the Case of Citizens of Negro Descent in the United States of America and an Appeal to the United Nations for Redress)[243]」である。

この擁護(advocacy)は1951年に公民権会議英語版によって提出された「We Charge Genocide」と呼ばれる報告と嘆願の基礎を築いた[244]。「We Charge Genocide」は殺人を組織的に容認し、アフリカ系アメリカ人に対して危害を与えた、即ちジェノサイドを犯したとしてアメリカ合衆国を非難した[245]

冷戦

1940年代に冷戦が始まった時、NAACPは評判や資金を損なわないよう共産主義者から距離を取った[246]。1947年に『Life』誌がNAACPは共産主義者たちから大きな影響を受けたと主張するアーサー・M・スレシンジャー・ジュニアの記事を掲載すると、共産主義との関わりを否定すべくNAACPは一層の努力を重ねた[247]。しかしデュボイスはこのNAACPの願いを無視し、ポール・ロブソンハワード・ファストシャーリー・グラハム英語版(後にデュボイスの2番目の妻となる)のような共産主義に同調する人々と親交を持ち続けた[248]。デュボイスは「私は共産主義者ではない...一方で私は...カール・マルクスが...我々の困難に正面から指を入れたと考えている。」と書いている[249]。1946年、デュボイスはソヴィエト連邦に対する彼の評価を記した記事を書いた。彼は共産主義を支持することはなく、その独裁制度を非難した[247]。しかし、彼は資本主義は貧困とレイシズムに責任があり、また社会主義はこれらの問題を解決する代替物となり得るかもしれないと考えていた[247]。ソヴィエト連邦が人種の違い、階級の違いを明確に拒否したことから、デュボイスはソヴィエト連邦が「地球上で最も希望ある国」であると結論した[250]。特にFBIが共産主義者の同調者を積極的に調査し始めていたため、デュボイスが著名な共産主義者たちと交際を持ったことで、NAACPにとっての彼は重荷となった。このために-相互の同意によって-1948年の末にデュボイスはNAACPから脱退した[251]。NACCPを去った後、デュボイスは左派の週刊新聞『National Guardian英語版』に定期連載を書き始めた。この関係は1961年まで続くことになる[252]

平和運動

デュボイスは生涯にわたり反戦運動家であったが、第二次世界大戦にはその努力は一層はっきりしたものになった[253]。1949年、デュボイスはニューヨークで開かれた世界平和のための科学および文化会議で次のように述べている。「アメリカの人々に、この暗い世界は今動いていると伝えます!世界は自由・自主(Autonomy)・平等を望んでおり、今後もそうあり続けるでしょう。それは政治的些事(political hairs[訳語疑問点]の弁証法的分断によって転換することはありません。...白人たちは、もしかすれば[訳語疑問点]、自殺するために武装するかもしれない。しかし、世界の人々の圧倒的多数が彼らの上を自由へとむけて行進するでしょう![254]。」

1949年の春、彼はパリで開かれた平和のパルチザンの世界会議(World Congress of the Partisans of Peace[訳語疑問点])の講演で大勢の観衆に向けて「この新たな植民地帝国主義をリードしているのは我が祖国、我が父祖の労苦と血によって建てられたアメリカ合衆国です。合衆国は偉大な国であり、神の恩寵により豊かであり、謙虚なる市民たちの厳しい労働によって繁栄しています。...力に酔った我々はかつて我々を破滅させた古き人間の奴隷制と同じものを備えた新たな植民地主義の地獄へと、そして世界を破滅させる第三次世界大戦へと世界を導いています。」と語った[255]。デュボイスは左派組織であるNational Council of Arts, Sciences and Professionsに加入し、その代表として1949年末に全ソヴィエト平和委員会英語版で講演するためモスクワを訪問した[256]

FBI・マッカーシズム・審問

1950年代の間、デュボイスはその社会主義への傾倒によって合衆国政府の反共主義的マッカーシズムのキャンペーンの標的とされた[257]。歴史学者マニング・メラブル英語版は政府によるデュボイスへの処置を「冷酷な抑圧」と「政治的な殺人」として描いている[258]

FBIは1942年からデュボイスに関する書類を整理し始め[259]、破壊活動を行う可能性について彼を調査した[260]。このデュボイスの容疑に関する証拠を十分に発見できなかったため、FBIの操作は1943年に終了したものと思われる[260]。1949年、FBIはデュボイスが「潜伏共産主義者(Concealed Communists)の一味だったという疑いで捜査を再開した[260]。1950年代初頭、デュボイスが核兵器に反対した結果として彼に対する政府の最も積極的な攻撃が行われた。1950年にデュボイスは新たに創設された平和情報センター英語版(Peace Information Center、PIC)の長(chair)となった。アメリカでストックホルム・アピールの宣伝に取り組んだ[261]。ストックホルム・アピールの主たる目的は全世界の政府に核兵器を禁止するよう求める請願書に署名を集めることであった[262]

合衆国司法省(The U.S. Justice Department)はPICが外国のエージェントとして活動していると主張し、それ故にPICを連邦政府に登録するように要求した[253]。デュボイスを含むPICの指導者たちはこれを拒否した。そのため登録を怠ったとして起訴された[263]。起訴後、デュボイスの仲間の幾人かは彼から距離を置き、NAACPはデュボイスに対する支持の声明を出すことを拒否した。しかしラングストン・ヒューズを含む多くの労働組織関係者や左翼の人物がデュボイスを支援した[264]

デュボイスは1951年に裁判にかけられ、公民権運動の弁護士ヴィト・マルカントニオ英語版が代理人を務めた[265]。マルカントニオが裁判官に「アルベルト・アインシュタイン博士がデュボイスの人格に対する証人として出廷を申し出た」と伝えた直後、陪審が評決を与える前に裁判は棄却された[266]。この裁判についてのデュボイスの回顧録は『In Battle for Peace』である。デュボイスが有罪にならなかったにもかかわらず、政府はデュボイスのパスポートを没収し、8年間差し押さえ続けた[267]

共産主義

デュボイスは1951年のPICの裁判において、多くの白人と黒人の労働者階級が熱心に彼を支援する一方で、彼の仲間たち、特にNAACPからの支援が無かったことに酷く失望した[268][269]。この裁判の後、デュボイスはマンハッタンに住み、著作と講演、そして主に左派の知人たちとの交流を続けた[268]。彼の主たる懸念事項は世界平和であり、朝鮮戦争のような軍事行動を激しく非難した。彼の考えでは、この戦争は有色人種の従属国を維持するための帝国主義者の白人による努力であった[270]


1950年、当時82歳のデュボイスはアメリカ労働党英語版からニューヨーク州上院議員候補英語版として立候補し、州の総票数の4パーセント、200,000万票の得票を得た[271]。デュボイスは資本主義が全世界の有色人種の服従に責任がある主犯であると考え続けており、そのため-ソヴィエト連邦の欠点を認めていたものの-、人種問題を解決し得るものとして共産主義を支持し続けた[272]。伝記作家デーヴィッド・ルイスは、デュボイスは共産主義それ自体を支持してはおらず「敵の敵は味方(the enemies of his enemies were his friends)」であるが故に支持したのだ、としている[272]ヨシフ・スターリンに対するデュボイスの見解も、共産主義に対するデュボイスの見解と同種の曖昧さによって特徴づけられている。1940年に彼は「圧制者スターリン(Tyrant Stalin)」と侮蔑的に書いた[273]。しかし1953年にスターリンが死亡した時、デュボイスはスターリンを「シンプルで落ち着き、勇敢である(simple, calm, and courageous)」とする賛辞を書き、「初めて人種的偏見を征服する道をロシアに敷き、140もの民族の個性を破壊することなく1つの国家を築き上げた」と称賛した[274]

合衆国政府は1955年にインドネシアジャカルタで開催されたバンドン会議にデュボイスが参加することを禁止した[275]。この会議は40年にわたるデュボイスの夢の到達点そのものであった。アフリカアジアから多くは独立したばかりの29の国が参加しており、世界中の有色人種を代表していた[275]。会議の参加国は彼らの独立を祝い、冷戦における非同盟諸国としての力を主張し始めた[275]。1958年、デュボイスはパスポートを取り戻して、2人目の妻であるシャーリー・グラハム・デュボイス英語版と世界中を旅し、ソヴィエトと中国を訪れた[276]。どちらの国でもデュボイスは歓迎され[276]、後に両国の状況について満足げに書いている[277]

1961年にアメリカの連邦最高裁がマッカーシズムによる立法の中核要素である1950年のマッカラン国内保安法英語版(共産主義者をアメリカ政府に登録すること義務付ける法律)を支持する判断を下すと英語版、デュボイスはこれに激怒した[278]。彼は怒りを表現するため、1961年10月に93歳で共産党に入党した[278]。この頃、彼は「私は共産主義を信ずる。私が言う共産主義とは、富を築くために描かれた計画性ある生活様式と国家を建設するために描かれた労働であり、その目的は単に一部の利益を図ることではなく人々の最高の福祉である。」と書いている[279]。彼は共産主義者・アフリカ系アメリカ人の歴史の歴史学者であったハーバート・アプテカー英語版に自身の遺作管理者(literary executor)になることを依頼した。

アフリカでの死

ガーナ大統領クワメ・ンクルマは1957年の独立式典にデュボイスを招待した。しかし、1951年のアメリカ政府によるパスポートの没収の結果、彼はこの式典に参加できなかった[280]。1960年のいわゆるアフリカの年までにデュボイスはパスポートを取り戻しており、大西洋を渡ってガーナ共和国の建国を祝うことができるようになった[280]。デュボイスは1960年代の後半にアフリカに戻り、ナイジェリア初のアフリカ人総督ンナムディ・アジキウェの就任式に参加した[281]

1960年のガーナ訪問中に、デュボイスはンクルマとアフリカ人ディアスポラ英語版(African diaspora)の新たな百科事典である『アフリカ百科事典英語版(エンサイクロペディア・アフリカーナ)』の作成について話し合った[280]。1961年、ガーナはデュボイスにアフリカ百科事典を支援するための基金を確保したことをデュボイスに通達し、プロジェクト管理を行うべくガーナに招待した。1961年10月、彼が93歳の時、デュボイス夫妻はガーナに向かい、住処を得て『アフリカ百科事典』の編纂を開始した[282]

しばしば、デュボイスがこの時アメリカ市民権を放棄したと語られ[283][284][285]、また彼自身その意図を表明してはいたが、実際に市民権を放棄することはなかった[286]。ガーナでの2年間の間にデュボイスの健康状態は悪化し、1963年8月27日、首都アクラにて95歳で死去した[282]。翌日、ワシントン大行進で講演者ロイ・ウィルキンス英語版は数十万人の行進参加者で黙祷によってデュボイスの栄誉を称えるよう求めた[287]。デュボイスが生涯をかけてキャンペーンを行ってきた多くの改革を含む1964年公民権法は、彼の死からほぼ1年後に制定された[288]

ンクルマの要請によって1963年8月29日から30日にかけて、デュボイスの国葬が執り行われ、クリスチャンボーグ城(現:オス城〈Osu Castle〉)の西壁そばに埋葬され、その後アクラの政府所在地英語版に移された。1985年にデュボイスを称える別の式典が執り行われた。妻シャーリー・グラハム・デュボイスの遺灰(ashes[訳語疑問点]、彼女は1977年に死亡した)と共に、デュボイスの遺体はアクラにあった夫妻の元住居に再埋葬された。この家はW. E. B. Du Bois Memorial Centre for Pan African Cultureの一部となっている[289][290](デュボイスの最初の妻ニナとその息子バーグハード(Burghardt)、そして1961年に死亡した娘ヨランダ(Yolande)はデュボイスの故郷マサチューセッツ州グレート・バリントンの墓地に埋葬された。)

私生活

デュボイスは計画的かつ厳格な人物であった。朝7時15分に起床し、午後5時まで働き、午後7時まで夕食を取って新聞を読み、その後就寝するまで読書や社交を行い、午後10時までには必ずベッドに入るという生活を生涯にわたって続けた[291]。彼は綿密に計画を立てており、しばしばスケジュールと目標を大きな方眼紙にマッピングしていた[292]。多くの知人たちが、デュボイスに距離とよそよそしさを感じ、また彼は自分を「デュボイス博士(Dr. Du Bois)」と呼ぶよう強く主張した[293]。デュボイスは社交的ではなかったが、チャールズ・ヤング英語版ポール・ローレンス・ダンバー英語版ジョン・ホープ英語版メアリー・ホワイト・オヴィントン英語版などの仲間たちとの間に親密な友情を築いていた[294]。デュボイスの最も親しい友人は-白人の-ジョエル・スピンガーンであったが、ファーストネームで呼び合おうというスピンガーンの申し出をデュボイスが了承することは無かった[295]。デュボイスのスタイルはダンディと呼ばれるものの一種であった[訳語疑問点]。彼はフォーマルな服装で、杖を持って自信(confidence)と品格(dignity)を漂わせて歩いた[296]

身長は比較的低く、およそ166センチ(5フィート5.5インチ)であり、常に手入れの行き届いた口ひげとヤギひげ(goatee)を蓄えていた[297]。歌うことと[298]テニスを好んだ[42]

デュボイスはニナ・ゴマーと結婚し(1870頃誕生、1896年-1950年に彼女が死亡するまで結婚生活は続いた)、彼女との間に2人の子供を儲けた[299]。息子のバーグハードは第2子が誕生する前に幼くして死亡した。2人目の子供が娘のヨランダ英語版である。彼女はフィスク大学に進学し、メリーランド州ボルチモアで高校教師となった[300]。父デュボイスは彼女にハーレム・ルネサンスで全国的に知られた詩人であるカウンティー・コレン英語版との結婚を勧めた[301]。しかしヨランダは2年で離婚した。その後彼女は再婚し、娘を儲けた。この娘がデュボイスの唯一の孫である。その後ヨランダは再度離婚した。

寡夫となった後、デュボイスは作家・脚本家・作曲家・活動家であったシェリー・グラハム英語版と結婚した。彼女の連れ子であったデーヴィッド・グラハムはデュボイスと親密になり、義父の姓を名乗った。彼もまたアフリカ系アメリカ人の理念のために行動した[302]。歴史家デーヴィッド・レヴァリング・ルイスは、デュボイスは複数の婚外関係を持っていたと書いている[303]

宗教

子供の頃にデュボイスはニューイングランド会衆派教会英語版に参加したが、フィスク大学在学中に組織化された宗教を放棄した[304]。大人になると、デュボイスは自身を不可知論者または自由思想家だと説明したが、少なくとも1人の伝記作家がデュボイスが無神論者であったと結論付けている[305]。しかし、デュボイスの著作を分析した別の調査者は、彼の時代のアフリカ系アメリカ人の宗教的な声[訳語疑問点]とは根本的に異なるものではあるが、彼もまた宗教的な声を持っていたと結論付けている。デュボイスはラルフ・エリソンゾラ・ニール・ハーストンジェイムズ・ボールドウィンなども属する20世紀の精神性(20th-century spirituality)を始動させたと評価されている[83]

公の祈りを先導するように依頼された時、デュボイスは拒否した[306]。デュボイスは自伝で次のように書いている。

アトランタ大学の学部長となった時、祈りを主導することを躊躇ったので就任が延期された...私は再び教会に参加すること、いかなる教会の信条であっても署名することを断固として拒否した...私はソヴィエト連邦から現代文明への最も偉大な贈り物は、聖職者の廃止と公立学校における宗教教育の拒否であると考える[307]

デュボイスはアメリカの教会があらゆる機関の中で最も差別的であると非難した[308]。彼はまた、アフリカ系アメリカ人のキリスト教をアフリカ土着の宗教と挑発的に関連付けた[309]。デュボイスは折に触れてアフリカ系アメリカ人の生活において宗教が果たす有益な役割を-アフリカ系アメリカ人のコミュニティのの役割を果たす「基礎石(basic rock)」として-認めていたが、アフリカ系アメリカ人の教会や聖職者が人種平等という目標を支援しておらず、活動家の努力を邪魔していると考えていたことから、一般的にこれを糾弾していた[310]

デュボイスは個人的には宗教的な人物ではなかったが、著作物には宗教的象徴を織り込んでいた。多くの同時代人が彼を預言者と見ていた[311]。1904年の彼の散文詩Credo」は宗教的な信条のスタイルで書かれ、アフリカ系アメリカ人のコミュニティで広く読まれた[312]。さらに、デュボイスは彼自身の創作物と『The Crisis』で公表された物語の双方において、アフリカ系アメリカ人のリンチとキリストの磔刑を比喩としてしばしば書いた[313]。1920年から1940年の間、デュボイスは公然たる黒人救世主のシンボリズム(black messiah symbolism[訳語疑問点]から、より繊細な救世主的言語(messianic language[訳語疑問点]へと移行した[314]

栄典

歩道に敷設された大型のブロンズ製レリーフ彫刻
W・E・B・デュボイスとメアリー・ホワイト・オヴィントン英語版en:The Extra Mileのメダルを受賞した
クラーク・アトランタ大学英語版のW・E・B・デュボイスの胸像。

著作選

関連項目

脚注

  1. ^ Lewis, David Levering (1993). W. E. B. Du Bois: Biography of a Race 1868–1919. New York City: Henry Holt and Co.. p. 11. ISBN 9781466841512. https://books.google.com/books?id=tSoFQEbmhyMC&pg=PA11. "(デュボイスは)常に彼の姓の「正しい」発音を主張していた。彼はいつも「私の名前の発音はデュボイス(Due Boyss)です。アクセントは最後の音節にあります。」と発音を知らない人に根気強く説明した。" 
  2. ^ W. E. B. Du Bois Center @duboisumass (2018年11月12日). “Image of letter to W. E. B. Du Bois with his handwritten annotations on how to pronounce his name” (英語). Twitter.com. 2019年5月12日閲覧。
  3. ^ Horne, p. 7.
  4. ^ Lewis, p. 11.
  5. ^ Lewis, pp. 14–15.
  6. ^ a b Lewis, p. 13.
  7. ^ Du Bois, W. E. B. (1984) [1940]. Dusk of Dawn. Piscataway, NJ: Transaction Publishers. p. 11 
  8. ^ Lewis, David Levering (1993). W. E. B. Du Bois: Biography of a Race 1868–1919. New York City: Henry Holt and Co.. p. 14 
  9. ^ Piper, Emilie; Levinson, David (2010). One Minute a Free Woman: Elizabeth Freeman and the Struggle for Freedom. Salisbury, CT: Upper Housatonic Valley National Heritage Area. ISBN 978-0-9845492-0-7 
  10. ^ Lewis, p. 17.
  11. ^ Chandler, Nahum Dimitri (2014). X: The Problem of the Negro as a Problem for Thought. New York: Fordham University Press. pp. 100–103. ISBN 978-0-8232-5407-1. https://books.google.com/books?id=n0pGCgAAQBAJ&pg=PT118 
  12. ^ a b Lewis, p. 18.
  13. ^ Lewis, p. 21. デュボイスはメアリーの家族がアルフレッドを追い出したことをほのめかしている。
  14. ^ Rabaka, Reiland (2007), W. E. B. Du Bois and the Problems of the Twenty-first Century: An Essay on Africana Critical Theory, Lexington Books, p. 165.
    Lewis, pp. 29–30.
  15. ^ Lewis, pp. 27–44.
  16. ^ Cebula, Tim, "Great Barrington", in Young, p. 91.
    Horne, p. 7.
    Lewis, pp. 39–40.
  17. ^ Lewis, Catharine, "Fisk University", in Young, p. 81.
  18. ^ Lewis, pp. 56–57.
  19. ^ Lewis, pp. 69–80 (degree); p. 69 (funding); p. 82 (承前)デュボイスはハーバード大学に入学した6人目のアフリカ系アメリカ人であった。
  20. ^ Lewis, p. 82.
  21. ^ Lewis, p. 90.
  22. ^ Lewis, pp. 98–103.
  23. ^ Morris, Aldon (2015). The Scholar Denied: W. E. B. Du Bois and the Birth of Modern Sociology. Oakland, CA: University of California Press. p. 17. ISBN 978-0-520-96048-0 
  24. ^ Williams, Yvonne, "Harvard", in Young, p. 99.
    His dissertation was The Suppression of the African Slave Trade to the United States of America, 1638–1871.
  25. ^ Quoted by Lewis, pp. 143–145.
  26. ^ Gibson, Todd, "University of Pennsylvania", in Young, p. 210.
    Lewis, p. 111.
  27. ^ Lewis, pp. 118, 120.
  28. ^ Lewis, p. 126. ニナ・ゴマー・デュボイスはウィリアム・デュボイスの活動と経歴において重要な役割は演じていない(Lewis, pp. 135, 152–154, 232, 287–290, 296–301, 404–406, 522–525, 628–630を参照).
  29. ^ Lewis, pp. 128–129. デュボイスはペンシルベニア大学から教授職のオファーが1度も無かったことに憤慨した。
  30. ^ Horne, pp. 23–24.
  31. ^ Bulmer, Martin, "W. E. B. Du Bois as a Social Investigator: The Philadelphia Negro, 1899", in Martin Bulmer, Kevin Bales, and Kathryn Kish Sklar, eds. The Social Survey in Historical Perspective, 1880–1940 (1991), pp. 170–188.
  32. ^ Caves, R. W. (2004). Encyclopedia of the City. Routledge. pp. 199–200 
  33. ^ Lewis, p. 123. The paper he presented was titled The Conservation of Races.
  34. ^ Lewis, pp. 143–144.
  35. ^ Horne, p. 26.
    Lewis, pp. 143, 155.
  36. ^ Lange, Werner J. (1983). “W. E. B. Du Bois and the First Scientific Study of Afro-America”. Phylon 44 (2): 135–146. doi:10.2307/275025. "W.E.B.デュボイスによって1894年から1915年にかけて始められたアフリカ文化とアフリカ系アメリカ人の本質と歴史についての先駆的な研究は、完全に科学的基盤に基づいた黒人についての族誌を代表し、同様にアメリカ合衆国からの社会科学文献における最初期のコーパスに対する主要な貢献を代表するものでもある[訳語疑問点]" 
  37. ^ Donaldson, Shawn, "The Philadelphia Negro", in Young, p. 165. "『The Philadelphia Negro』は(都市)社会学とアフリカ系アメリカ人研究双方にとって古典である。なぜならば、それが最初の黒人(the Negro)についての科学的研究であり、最初のアメリカ合衆国における科学的社会学の研究であったためである
  38. ^ a b Lewis, p. 148.
  39. ^ Lewis, pp. 140, 148 (underclass), 141 (slavery).
  40. ^ Lewis, pp. 158–160.
  41. ^ Lewis, pp. 161, 235 (Department of Labor); p. 141 (Bureau of Labor Statistics).
  42. ^ a b Lewis, p. 157.
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参考文献

映像外部リンク
Presentation by Manning Marable on W. E. B. Du Bois: Black Radical Democrat, February 8, 2005, C-SPAN

関連資料等

映像外部リンク
Presentation by Kwame Anthony Appiah on Lines of Descent, April 29, 2014, C-SPAN
映像外部リンク
Booknotes interview with David Levering Lewis on W.E.B. Du Bois: The Biography of a Race, 1868-1919, January 2, 1994, C-SPAN
Presentation by Lewis on W.E.B. Du Bois: The Fight for Equality and the American Century, 1919–1963 at the Atlanta History Center, October 30, 2000, C-SPAN
Interview with Lewis about W.E.B. Du Bois: The Fight for Equality and the American Century, 1919–1963, April 29, 2001, C-SPAN
Presentation by Lewis about his Du Bois biographies at the National Book Festival, September 8, 2001, C-SPAN
Presentation by Lewis and Deborah Willis on their book A Small Nation of People: W.E.B. Du Bois and African American Portraits of Progress, October 29, 2003, C-SPAN

ドキュメンタリー

外部リンク