赤い夏

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赤い夏
Chicago-race-riot.jpg
1919年のシカゴ人種暴動において一団の白人暴徒がアフリカ系アメリカ人を探している
場所 アメリカ合衆国シカゴ
日付 1919年
標的 アフリカ系アメリカ人
犯人 白人暴徒の一団

赤い夏英語:Red Summer)は、アメリカ合衆国の36以上の都市において1919年の夏から初秋におこった人種暴動事件である。多くの場合、白人がアフリカ系アメリカ人を襲った。いくつかの都市では多くの黒人が反撃し、特にシカゴワシントンD.C.アーカンソー州Elaineでは多くの死者を出した。

[1] 暴動は第一次世界大戦で、軍人の除隊後の戦後の社会不安に引き続いて起きた。白人も黒人も人種間で仕事への就職を争ったのである。 人権活動家であり、著作家であったJames Weldon Johnsonは"赤い夏"という言葉を造語した。彼は1916年より 全米黒人地位向上協会 (NAACP) という団体の地方書記(field secretary)として雇用されたが、その団体の憲章を作り、また改めたりした。 1919年に, 彼は人種暴動にたいし平和的に抗議すべきであると訴えた。[2][3]

事件の背景[編集]

第一次世界大戦の軍隊としてのマンパワーの動員があったことと、ヨーロッパからの移民がなくなり、アメリカ北部中西部の工業都市は深刻な労働力の減少をきたした。北米の製造者たちは南にむかって人員を募集し、南部からの脱出(英語:Exodus)が始まった。 [4] 1919年までに, 推定 500,000人のアフリカ系アメリカ人が米国南部から北と米国中部の工業都市にアフリカ系アメリカ人の大移動として移動し、それは1940年まで続いた。 [1]彼らはまた悪名高い 私刑ジム・クロウ法、から逃れようとしていた。農業が多い米国南部の特権的で貧弱な経済があり、 boll weevilという害虫が木綿を食い荒らしていた。 アフリカ系アメリカ人は鉄道などの成長産業とか、今まで白人が占めていた職業を奪ってきたのである。ある都市では彼らは1917年のストライキでストライキ破りとして雇われたのである。[4] このことは、白人の労働者階級、移民、など最初の世代のアメリカ人たちの憤激を買った。第一次大戦戦後、労働力市場を考慮しない軍人の除隊と、物価価格コントロールがないこと、失業、インフレーションなどは就職競争を増大させた。

最初の1919-1920年の 赤狩りの間、 ロシア革命に引き続いて、米国において 反ボリシェヴィキ感情がおき、戦時中の反ドイツ感情に置き換わった。多くの政治家や政府の官僚は、多くのマスコミや一般公衆と共に、米国政府を倒して ソビエトの如き、新しい政府を建てるのではないかと危惧した。当局はアフリカ系アメリカ人による人種の平等、労働権、暴徒の被害者が自衛する権利といった主張を不安をもって見た。1919年3月、私的な会話において時のウッドロウ・ウィルソン大統領は「アメリカの黒人が外国から帰って ボリシェヴィキ主義をアメリカにもたらすだろう」と述べた。[5] 他の白人は色々な意見を述べたが、ある者はいつか解決するだろうとし、ある者は緊張の兆候はないと述べた。[6]

1919年年頭に, George E. Haynes博士は(教育者であり米国労働省に勤務する黒人の経済の指導者)、「黒人の軍人が一般生活に帰る事は、北部にせよ、南部にせよ、この国にとって大変微妙な、そして難しい問題となる」と述べた。[7] 一人の黒人の退役軍人はシカゴディリーニュースに投稿して、「黒人の退役軍人は帰国して今や新しい男、世界の男になった。その方向性、指導、正直な使用への可能性と、パワーには制限がない。彼らは指導されるべきであり、導かれるべきである。 彼らは目覚めてしまった。しかしその覚醒は、完全に自覚があるものには達していない」と述べた。[8]

W・E・B・デュボイス (英語:W. E. B. Du Bois) は、 全米黒人地位向上協会 の役員でありそ月刊誌の編集長であるが、次のように述べた。「我々は次の様な機会に会っている。戦争が終わり、我々の土地で厳しい地獄の勢力に対抗して戦争をするためには、我々の脳や筋肉を未だ整理していないのである。そして、天の配剤で、我々は臆病でありとんまである」。5月に最初の民族間暴動が起こった後、彼はエッセイ、「帰ってきた兵士」を書いた。[9]

"We return from the slavery of uniform which the world's madness demanded us to don to the freedom of civil garb. We stand again to look America squarely in the face and call a spade a spade. We sing: This country of ours, despite all its better souls have done and dreamed, is yet a shameful land.... (我々は、世界の狂気が我々の身にまとわせた軍服のくびきを脱し、市民の衣装の自由へと帰る。我々は再び立ち上がり、アメリカを正面から見据えてはっきり言おう。我々は歌う。我々のこの国は、良き人々の行いと理想にもかかわらず、恥ずべき国なのだ。)

We return. (我々は帰る。)

We return from fighting. (我々は闘いから帰る。)

We return fighting." (我々は闘いながら帰る。)

事件[編集]

暴力に満ちた夏が過ぎ、1919年の秋に、Haynesはその報告をした。それは簡潔に言って、米国上院司法委員会(英語:U.S. United States Senate Committee on the Judiciary)に、広く分布した都市における38件の黒人を襲撃した騒動を報告した。[1]加えるに、1919年1月1日から9月14日までの間、暴徒は少なくとも43人のアフリカ系アメリカ人をリンチし、うち16名の首をつり、他を銃で射殺した。8名は焼殺した。諸州はこのような暴徒による殺人に干渉または起訴する力もなければそうする意思もないようであった。 [1] 米国の以前の人種騒動とは異なり、1919年の騒動は黒人が白人の攻撃に抵抗した初めてのことだった。 A. Philip Randolph という人権活動家で Brotherhood of Sleeping Car Portersの指導者は、黒人には自衛権 があると黒人を弁護した。 [2]

暴動[編集]

Will Brown, リンチを受け焼死させらる、オマハ人種暴動[10]
  • 5月10日のサウスカロライナのチャールストン暴動の後に、チャールストン市は 戒厳令を発布した。[1] 米国の海軍の水兵がこの暴動を導いた。黒人の Isaac Doctor, William Brown医師と James Talbot は殺害された。5人の白人18人の黒人は傷害を受けた。海軍の調査団は米国の白人の水兵と一人の白人の市民が、暴動を始めたことを発見した。

[11]

  • 7月の初旬、テキサス州のロングヴュー(英語:Longview)の暴動においては少なくとも4名が殺害され、その町のアフリカ系アメリカ人の家屋が破壊された。[1]
  • 7月3日にアリゾナ州ビスビー(英語:Bisbee)で、地域の警察が1866年に創設されバッファロー・ソルジャーというニックネームで知られるアフリカ系アメリカ人で構成された合衆国陸軍第10騎馬連隊を攻撃した。[12]
  • ワシントンD.C.では7月、軍隊の服装をした白人等が、一人の黒人がレイプで逮捕されたという噂を聞き、4日間荒れ狂った。彼らは、街にいた黒人をみさかいなく殴り、市外電車から引きずりだし殴った。警察は間に入ることを拒んだが、黒人たちは応戦した。町が集会をさせないように、劇場などを閉鎖 して、兵隊達は治安を回復しようとしたが、夏の激しい雨風がきて、治安の回復はもっと効果的であった。暴力が終わった時は、15人 即ち、10人の白人(2人の警察官を含む)と5人の黒人が死んでいた。50人は重傷を負い、他に100名、より軽い怪我を負った。これは白人の死者が黒人の死者より多かった例外例である。 [13]

全米黒人地位向上協会ウィルソン大統領に以下のような抗議の電報を送った。 [14]

「合衆国陸軍海軍海兵隊を含む暴徒は無辜の抵抗しない黒人に米国首都において暴力を振った。 軍隊の制服を着た男が街の黒人を襲撃し、市街電車から引きづりだして殴った。群衆は黒人の通行人を襲うよう指示を出したと報告されている。首府におけるこのような人種的敵意に基づく暴動は、憎しみと別の地域での暴動発生の危険を増加させる結果になるであろう。 全米黒人地位向上協会 は、米国軍最高司令官たる大統領に暴徒の暴力を非難する声明を発表し、状況に応じて軍法を執行するよう要請する」。[15]

"The National Association for the Advancement of Colored People respectfully enquires how long the Federal Government under your administration intends to tolerate anarchy in the United States?"

—-NAACP telegram to President Woodrow Wilson
August 29, 1919
  • バージニア州のノーフォークではバージニア州のノーフォークでは白人の暴徒が第1次大戦のアフリカ系アメリカ人の退役軍人の帰郷式典を攻撃した。少なくとも6人が撃たれ、地域の警察は米国の海兵隊と海軍軍人を治安を回復するために呼んだ。 .[1]
  • その夏の最大の暴力は7月27日に始まったシカゴ人種暴動中に発生した。その都市のミシガン湖畔の岸辺は実際上人種隔離がなされていた。Eugene Williamsという黒人の若者が習慣的に白人用とされていたサウスサイドの地域に泳いでいき、投石され溺れてしまった。シカゴ警察がこの襲撃者へ行動を起こすことを拒否したので、若い黒人達は暴力的に反応した。暴徒と若者グループの間の暴力行為は13日間続き、白人の暴徒は黒人との境に定住しているアイルランド系に率いられていた。その結果、38人が死亡、うち23人は黒人で15人は白人であった。負傷した人は 537人で、1000人の黒人の家族がホームレスになった。[16]他の集計では殺されたのは50名であり、非公式の集計や噂では死者の数はもっと多い。白人の暴徒がシカゴのサウスサイドにある黒人の家や店を数百も壊してしまったので、イリノイ州は治安を回復するために、数千名から成る7連隊の民兵を呼んだ。[1]

7月の終わりに、 Northeastern Federation of National Association of Colored Womenという団体が年次総会で暴動と黒人の家の焼却を非難し、ウィルソン大統領にシカゴの暴動及びこれを扇動するプロパガンダを止めるためにその権限内であらゆる手段を使うよう要求した。[17]8月の終わりに、 NAACPは前の週にテキサス州オースチンで起こった同組織の書記に対する攻撃に言及して再び抗議した。彼らは電報で、 「全米黒人地位向上協会は貴政権下の連邦政府が如何に長く米国の無政府状態に耐えるつもりであるか、尊敬をもって質問するものであります」と述べている。 [18]

  • 8月30日から31日にかけて, テネシー州ノックスヴィルで暴動が発生した。これは黒人がある一人の白人女性を殺した疑いで告訴されたことを理由に白人の暴徒が集合したものである。その容疑者を求めてリンチをおこなう暴徒が郡の刑務所に押し寄せた 。そして、殺人容疑者を含む16人の白人の囚人を解放した。[1] 彼らはアフリカ系アメリカ人の商業街を襲い、黒人オーナーを襲い、少なくとも7名を殺し、20名以上を負傷させた。[19][20][21]
  • 9月の終わりに、ネブラスカ州のオマハで、人種暴動(英文:Omaha Race Riot of 1919)がおきた。 それは一万人以上の南オマハからの白人が郡の裁判所を襲撃して燃やし、白人女性を犯したと告訴された黒人を奪おうとした。彼らは100万ドル以上の価値のあるものを破壊した。暴徒は被疑者Will Brownをリンチして、焼却した。彼らは騒ぎを拡大させ市の北側にある黒人が住む一帯と店を攻撃した。

市長と知事が助けをもとめると、米国政府は近くの砦から軍隊を派遣し治安を取り戻した。その部隊は Leonard Wood 大将の指揮下にあったが、彼は セオドア・ルーズベルト(英語:Theodore Roosevelt)の友人で1920年に共和党から大統領に打って出ようという人物であった。[22]

  • 10月1日にアーカンソー州のElaineで人種暴動が起こった。これが特徴的であるのは農村部の南部におこったことである。しかし、それは労働組織に対する局所的な抵抗であり、社会主義への恐怖であることは一致していた。黒人の寄生地主制下の農民はthe Progressive Farmers and Household Union of Americaの地方支部で会合を持っていた。大農場主は労働条件の改善を求めて彼らが団結する努力に反対しており、小作農はトラブルがおきると警告されていた。密造酒製造の黒人を逮捕しようとしていた一人の白人が会合を守っていた見張りに近づいて射殺された。大農場主達は市民軍を作り、アフリカ系アメリカ人を攻撃した。この暴動で100人から200人の黒人が殺されたが、5人の白人も死んだ。アーカンソーの知事Charles Hillman Brough は7名による委員会を指名して調査を命じた。この委員会は現地の著名な白人経営者で構成されていた。彼らの結論は、小作人組合は社会主義者の企てで、「白人を殺すために黒人を団結させる目的で創立されたものである」ということであった。[23]

この報告書により「ダラスモーニングニュース紙」に次のような新聞の見出しが載った。「アーカンソーで逮捕された黒人は広範囲にわたる陰謀を告白。本日に計画された白人大量殺戮。」 米国司法省捜査局の捜査官が暴動参加者の尋問を1週間行ったが、小作人たちとは話さなかった。捜査官らは書類も調査した。彼らは小作人による殺人の陰謀にはまったく証拠がないと述べる9部の報告書を作成した。しかし、彼らの上司はこの分析を無視した。

地方政府は79名の黒人を裁判にかけた。陪審員はすべて白人であったが、12名は死刑が宣告された。(アーカンソー他、南部の州で当時多くの黒人の公民権選挙権など)がなかった) 残りの被告は最高21年の有期刑に処せられた。上訴が米国最高裁判所になされ、審理の誤りという理由で、判決は覆った。この結果、被告人の権利に対する米国政府の監視は厳しくなった。[24]

年表[編集]

Haynesの報告に準拠した、ニューヨークタイムズの要約に基づく。[1]

Date Place
5月10日 サウスカロライナ州チャールストン
5月10日 ジョージア州シルベスター
5月29日 Putnam County, Georgia
5月31日 Monticello, Mississippi
6月13日 New London, Connecticut
6月13日 テネシー州メンフィス
6月27日 メリーランド州アナポリス
6月13日 Macon, Mississippi
7月3日 Bisbee, Arizona
7月5日 ペンシルベニア州スクラントン
7月6日 ジョージア州ダブリン
7月7日 ペンシルベニア州フィラデルフィア
7月8日 Coatesville, Pennsylvania, Pennsylvania
7月9日 Tuscaloosa, Alabama
7月10日[25] Longview, Texas
7月11日 メリーランド州バルチモア
7月15日 Port Arthur, Texas
Date Place
7月19日 ワシントンD.C.
7月21日 バージニア州ノーフォーク
7月23日 ルイジアナ州ニューオーリンズ
7月23日 Darby, Pennsylvania
7月26日 Hobson City, Alabama
7月27日 イリノイ州シカゴ
7月28日 Newberry, South Carolina
7月31日 Bloomington, Illinois
7月31日 ニューヨーク州シラキューズ
7月31日 ペンシルベニア州フィラデルフィア
8月4日 Hattiesburg, Mississippi
8月6日 Texarkana, Texas
8月21日 ニューヨーク州ニューヨーク市
8月29日 Ocmulgee, Georgia
8月30日 テネシー州ノックスビル
9月28日 ネブラスカ州オマハ
10月1日 Elaine, Arkansas

反応[編集]

"We appeal to you to have your country undertake for its racial minority that which you forced Poland and Austria to undertake for their racial minorities."

—-National Equal Rights League to President Woodrow Wilson
November 25, 1919

1919年9月、「赤い夏」に反応して「アフリカ血縁ブラザーフッド」(英文: African Blood Brotherhood) という組織が武装せる抵抗運動のために北部の都市に作られた。米国連邦政府に対する抗議やアピールが数週間続いた。11月末に国民同権連盟(英語: National Equal Rights League)(黒人人権運動の最古の団体)は人権に対するウィルソンの国際的擁護に訴えた。「あなたがポーランドとオーストリアに自国の少数民族に対してとるよう強要したのと同じことをあなたの国に自国の人種的少数派に対してとらせるよう訴える。」[26]

Haynes 報告[編集]

Dr. George Edmund Haynesの1919年10月の報告は[1]国家的行動をとるよう呼びかけるものだった。それはニューヨーク・タイムズや他の主要な新聞に掲載された。 「ウッドロウ・ウィルソン大統領が1918年に述べたようにリンチは国民的な問題である。1889年から1918年の間、3000人以上がリンチを受けた。2472名は黒人で、50人は黒人の婦人である。米国の諸州はリンチを止めることができなかったか、やろうとしなかった。米国北部で白人もリンチを受けた事実はこの問題が全国的な問題であることを示している。殺人がこの国の一階層または一人種に限られていると考えるのは無益である」と彼は述べた。[1] 彼はリンチをその年に広がった暴動と結びつけて考えた。

「りンチをするものを罰しないことは暴徒と化す白人の間に法律がないことと同じである。そして黒人の間に憤慨をかもしだす。こういう状態であると、ほんの少しの事件が騒擾事件の引き金となる。」 「法律や法的プロセスを無視するとより多くの衝突と白人と黒人の間の流血事件をもたらす。米国の多くの都市で、人種戦争を引き起こさないとも限らない。」 「抑制されない暴徒の暴力は憎しみと不寛容を生み出す。そして、人種問題だけでなく、人種と階層は違うという問題も、自由で冷静に討論することを不可能にする。」 [1]

新聞報道[編集]

シカゴの暴動が荒れ狂っていた真夏に連邦政府のある官僚ニューヨーク・タイムズに暴力は「世界産業労働組合ボリシェヴィキ主義や他の極端で過激な運動のアジテーションでおこる」と書いた。[27]彼は黒人の出版物が左翼のグループとの同盟を呼びかけ、ソビエト連邦を称賛しているという主張を支持し、投獄された社会主義者のユージン・V・デブスの勇気と伝統的黒人指導者の「学生のレトリック」とを対比した。タイムズはこれらの出版物を「悪意があり明らかに資金豊富である」と性格付け、「過激な社会主義の要素がある」と述べ、「赤が黒人を動かし反乱を起こそうとしている」という見出しを付けた。[27]

その反応として、いくらかの黒人運動のリーダー、例えば黒人メソジスト監督教会のCharles Henry Phillips監督は、黒人に対し、「忍耐」と「道徳的説得」でもって暴力を避けよと要請した。フィリップスは暴力を勧めるプロパガンダに反対し、黒人の不正行為の理由に言及した。「私は暴動において、黒人がボルシェヴィキの影響を受けていたとは信じない。裏切り者とか革命家であれば、政府を破壊するであろう。しかし、暴徒による支配により黒人が長い間恐怖と不正の内に生きざるを得なかったことで黒人は神経過敏で性急になってしまったのだ」。[28]

新聞The Gazetteの見出し アーカンソー州、Elaine、1919年10月3日付

黒人とボリシェヴィキ主義の関連については広く何回も論じられた。1919年8月ウォール・ストリート・ジャーナルは「人種暴動の発生原因はボリシェヴィキ主義者、黒人、鉄砲と関係ある」と書いた。 国民治安連盟(National Security League)は事件を伝える記事を繰り返し書いた。[29]Haynesの報告を10月に報道しながら, ニューヨーク・タイムズ は彼の報告に述べていない背景に言及した。Haynes は暴力と国の不対応について記録を書いた。

ニューヨーク・タイムズは「地域暴動の規模に達した流血事件」を「新しい黒人問題」の証拠だと見て、この問題は「人種間にうらみと憎しみのくさびを打ち込むよう作用している」と述べた。 [1]最近まで同紙は、黒人の指導者は、白人は南北戦争を闘い、「その為に黒人に多くの機会を与えたことを評価している」と語っていた。[1]いまや好戦的な人が「たゆまず融和的な方法を主張していた」Booker T. Washingtonに取って替わった。とタイムズは続けて次のように述べている。[1]

「毎週、好戦的な指導者は前進をつづけた。彼らは大体次の種類に分類される。一つは過激者であり革命家である。彼らはボルシェヴィキの宣伝をする。彼らは有色人種の中から多数補充されていると報告されている。国の多くの部分にいる黒人の中に無知があることを考慮すると、革命のドクトリンが黒人を焚き付ける危険が危惧されうる。もう一つの種類の好戦的指導者は有色人種への全ての差別に対する戦いへのアジテイションだけに集中する。彼らは、『戦って市民権及び完全なる民主主義の特権を求めて戦い続けるために』妥協しない抗議というプログラムに賛成している」。


好戦性とボリシェヴィキ主義の証拠として タイムズはW・E・B・デュボイスの名を挙げて彼が編集した全米黒人地位向上協会の機関誌The Crisisに載った彼の論説を引用した。「今日、我々は自己防衛の恐ろしい武器を手に取る。武装したリンチをする人たちが集まれば、我々も武器をもって集まらなければならない」。タイムズが「より一層の保護、正義、及び黒人が法律を尊重する両人種の市民から支援を得る機会を保証する計画」を確立する両人種による会議というHaynesの提案を是認した時、「好戦的な方法に反対している黒人指導者」との議論をも是認したのである。[1]

10月中旬、政府筋はタイムズにボリシェヴィキ主義者の宣伝がアメリカの黒人社会に訴えている証拠を提供した。この資料は黒人社会での赤のプロパガンダをより広いコンテクスト(文脈)で説明している。これによると、「それは外国人の労働者の多い米国北部と西部の工業中心地で行われているアジテーションと軌を一にしている」。[30] タイムズは新聞、雑誌、及びいわゆる「黒人改善機関」が、「レーニンとトロツキーのドクトリン」を黒人に広める手段だと述べた。[30] タイムズはこのような文献から最近のシカゴとワシントンの暴動とは対照的な次のような文章を引用した。 「ソ連は数十の民族と言語集団が多くの違いを解決し共通の会議の場を設立している国であり、もはや植民地を抑圧しない国であり、リンチでロープをかけることは禁止されていて、民族的寛容と平和が現在存在している国である」。[30] タイムズは労働組合結成の呼びかけについてこう書いている。「黒人は木綿労働者組合を作らねばならない。南の白人資本家は黒人が白人保守主義者の南部を屈服させることができると知っている。だからどんどんやれ」。[30]

アーカンソー州Elaineでの暴動の根本原因を伝える記事で、暴力はさらに数日間続くことになった。アーカンソー州 Helenaから10月1日のニューヨークタイムズへの記事は、「帰ってきた白人の民兵隊は多くの物語や噂をもたらしたが、そのすべてのものが暴動は白人が黒人にもたらしたプロパガンダが原因だと信じるものであった」と述べている。[31] その翌日のレポートが詳細を付け加えた。「黒人の間へのプロパガンディストの活動の追加的な証拠が得られた。そして、白人に対しての蜂起の陰謀があったと考えられる」。一人の白人男性が逮捕され、彼は「黒人に社会的平等を説いていたとされる」。その見出しは、「トラブルの原因を突き止めると社会主義者のアジテーター」だった。[32]数日後、ある西側の新聞組合の記事は1枚の写真に「逮捕された黒人暴動扇動者」という語句を使った説明文をつけた。[33]

政府の活動[編集]

シカゴの暴動の期間にマスコミは米国司法省の官僚から世界産業労働組合とボリシェヴィキ主義者は「民族が憎み合うプロパガンダを広めている」ということを知った。[34] FBI のファイルの報告によると、左翼的考えが黒人社会に勢力を得つつあるというものであった。FBIの捜査官たちは左翼思想が黒人社会に勢力を得つつあるという報告を書いた。そのうちの一人は全米黒人地位向上協会の「黒人が白人に平等を主張し、必要なら力にたよるよう促している」という文章を引用した。[29]ジョン・エドガー・フーヴァーは、政府でのキャリアーのスタートにおいて、暴動を解析して司法長官へ報告した。彼はワシントンでの7月の暴動を「黒人が多くの白人の女性を凌辱した」と非難した。[13]アーカンソーの10月の事件に関しては「黒人の集会所で局所的アジテーション」があったと非難した。[13]彼が挙げたより一般的な原因は「過激な性質のプロパガンダ」であった。[13] 彼は黒人系の雑誌、例えばMessenger Magazineにおいて、社会主義者が黒人の読者をあおるプロパガンダを行っていると非難した。地方当局は記録をしているのだが、彼は白人の暴力をふるった人については書いていない。米国司法省の過激派対策部長として、フーヴァーは「黒人の活動」の調査を始め、マーカス・ガーベイを標的にした。というのは彼はガーベイの新聞Negro World はボリシェヴィキ主義を宣伝していると考えたからである。[13]彼は黒人を雇い、ハーレムの中の黒人組織や出版社をスパイすることを許可した。[34]

11月17日、米国司法長官Palmerは米国議会にたいし無政府主義者やボリシェヴィキ主義者が政府に対して脅威になると報告した。報告の半分以上において、黒人社会での過激主義を記録し、「公然と反抗」する黒人指導者が人種的暴力と真夏の暴動への反応を支持していたと述べた。同報告は黒人社会の指導者を「人種暴動に対する反応をうまく治めていない。最近の人種暴動に関するすべての議論で、黒人自身が発見した誇りに注意が向けられている。この誇りとは打たれたら打ち返すというもので、黒人はもう暴力と脅しに服従するものではない」と非難した。[35] その報告は「反抗と復讐という危険な精神が黒人指導者の中で働いている」と書いた。[35]

芸術[編集]

クロード・マッケイソネット"If We Must Die"[36] は「赤い夏」の事件に刺激されたものである。[37]

See also[編集]

文献[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q New York Times: "For Action on Race Riot Peril," October 5, 1919, accessed January 20, 2010. This newspaper article includes several paragraphs of editorial analysis followed by Dr. George E. Haynes' report, "summarized at several points."
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  25. ^ Robert Whitaker, On the Laps of Gods: The Red Summer of 1919 and the Struggle for Justice that Remade a Nation (New York: Random House, 2008), 51
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  31. ^ New York Times: "None Killed in Fight with Arkansas Posse," October 2, 1919. Retrieved January 27, 2010.
  32. ^ New York Times: "Six More are Killed in Arkansas Riots," October 3, 1919. Retrieved January 27, 2010.
  33. ^ New York Times: "[untitled]" October 12, 1919. Retrieved January 27, 2010.
  34. ^ a b McWhirter, 159
  35. ^ a b McWhirter, 239-41
  36. ^ "If We Must Die" poetryfoundation.org, accessed May 5, 2015
  37. ^ McKay on 'If We Must Die'”. 2016年2月15日閲覧。

Further reading[編集]

  • Dray, Philip, At the Hands of Persons Unknown: The Lynching of Black America (NY: Random House, 2002)
  • McWhirter, Cameron, Red Summer: The Summer of 1919 and the Awakening of Black America (NY: Henry Holt, 2011)
  • Gary Krist (writer)|Krist, Gary City of Scoundrels: The Twelve Days of Disaster That Gave Birth to Modern Chicago. New York, NY: Crown Publisher, 2012. ISBN 978-0-307-45429-4.
  • Tuttle, William M., Jr., Race Riot: Chicago in the Red Summer of 1919 (Urbana: University of Illinois Press, 1996), originally published 1970