「仮名手本忠臣蔵」の版間の差分

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『'''仮名手本忠臣蔵'''』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、[[人形浄瑠璃]]および[[歌舞伎]]の演目のひとつ。[[寛延]]元年(1748年)8月、[[大坂]][[竹本座]]にて初演。全十一段。[[二代目竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]の合作。[[元禄赤穂事件]]を題材としたもの。通称『'''忠臣蔵'''』。
[[Image:Utagawa Kunisada-c1850-Horibe Yahei-Horibe Yasubei.jpg|thumb|250px|忠臣蔵:[[堀部金丸|堀部弥兵衛]]と[[堀部武庸|堀部安兵衛]] [[歌川国貞]]作]]
[[File:Japanese Crest Futatsudomoe 1.svg|thumb|230px|大石内蔵助こと[[大石良雄]]の[[家紋]]「二つ巴」。この紋所のことは『仮名手本忠臣蔵』においても作中に記されている。]]
{{記事名の制約|title=假名手本忠臣藏}}
'''目次'''
『'''仮名手本忠臣蔵'''』(かなでほん ちゅうしんぐら<!--/かなてほんちゅうしんぐら-->、旧字体:'''假名手本忠臣藏''')は、[[元禄赤穂事件]]を題材とした[[人形浄瑠璃]]および[[歌舞伎]]の代表的な演目。
__NOTOC__
'''[[#はじめに|はじめに]]'''
:'''[[#主な登場人物|主な登場人物]]'''
#'''[[#大序・鶴岡の饗応|大序・鶴岡の饗応]]''' - [[#あらすじ(大序)|あらすじ]] - [[#解説(大序)|解説]]
#'''[[#二段目・諫言の寝刃|二段目・諫言の寝刃]]''' - [[#あらすじ(二段目)|あらすじ]] - [[#解説(二段目)|解説]]
#'''[[#三段目・恋歌の意趣|三段目・恋歌の意趣]]''' - [[#あらすじ(三段目)|あらすじ]] - [[#解説(三段目)|解説]] - [[#『道行旅路の花聟』|『道行旅路の花聟』]]
#'''[[#四段目・来世の忠義|四段目・来世の忠義]]''' - [[#あらすじ(四段目)|あらすじ]] - [[#解説(四段目)|解説]]
#'''[[#五段目・恩愛の二つ玉|五段目・恩愛の二つ玉]]''' - [[#あらすじ(五段目)|あらすじ]] - [[#解説(五段目)|解説]]
#'''[[#六段目・財布の連判|六段目・財布の連判]]''' - [[#あらすじ(六段目)|あらすじ]] - [[#解説(六段目)|解説]]
#'''[[#七段目・大臣の錆刀|七段目・大臣の錆刀]]''' - [[#あらすじ(七段目)|あらすじ]] - [[#解説(七段目)|解説]]
#'''[[#八段目・道行旅路の嫁入|八段目・道行旅路の嫁入]]''' - [[#あらすじ(八段目)|あらすじ]] - [[#解説(八段目)|解説]]
#'''[[#九段目・山科の雪転し|九段目・山科の雪転し]]''' - [[#あらすじ(九段目)|あらすじ]] - [[#解説(九段目)|解説]] - [[#『本蔵下屋敷』|『本蔵下屋敷』]]
#'''[[#十段目・発足の櫛笄|十段目・発足の櫛笄]]''' - [[#あらすじ(十段目)|あらすじ]] - [[#解説(十段目)|解説]]
#'''[[#十一段目・合印の忍び兜|十一段目・合印の忍び兜]]''' - [[#あらすじ(十一段目)|あらすじ]] - [[#解説(十一段目)|解説]]
#'''[[#その後の上演|その後の上演]]'''
#'''[[#現行の歌舞伎での上演形態|現行の歌舞伎での上演形態]]'''
#'''[[#刊行本|刊行本]]'''
#'''[[#こぼれ話|こぼれ話]]'''
#'''[[#登場人物の実説との比較|登場人物の実説との比較]]'''
#'''[[#参考文献|参考文献]]'''
#'''[[#関連項目|関連項目]]'''
#'''[[#外部リンク|外部リンク]]'''


==概要==
== はじめに ==
[[File:Kōshirō Matsumoto VIII as Ōishi Kuranosuke in Chūshin-gura 1954.jpg|thumb|160px|[[松本幸四郎 (8代目)|八代目松本幸四郎]]の大石内蔵助。映画『忠臣蔵』([[昭和]]29年〈1954年〉[[松竹]]製作)より。]]
『仮名手本忠臣蔵』は[[二代目竹田出雲]]・三好松洛・[[並木宗輔|並木千柳]]の合作<!--(中心となったのは並木千柳)-->によるもので、[[太平記]]巻二十一「[[塩冶判官]]讒死の事」を[[世界 (曖昧さ回避)|世界]]としている。
[[江戸城]][[松の廊下]]で[[吉良義央|吉良上野介]]に切りつけた[[浅野長矩|浅野内匠頭]]は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で[[本所 (墨田区)|本所]]の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所[[泉岳寺]]へと引き揚げる。この[[元禄]]14年から15年(1701 - 1702年)にかけて起った元禄赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」の物語は、演劇をはじめとして音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど現代に至るも、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。この「忠臣蔵」という題名と現在一般に流布する「忠臣蔵」の物語は、『仮名手本忠臣蔵』を濫觴とするものである。


『仮名手本忠臣蔵』という[[外題]]の意味は、赤穂四十七士を[[いろは順|いろは四十七文字]]にかけて「仮名手本」、そして「忠臣大石内蔵助」から「忠臣蔵」としたというのが一般的である。ただし「忠臣蔵」の方には異説もあり、蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣だという意味を持たせたとする説もある。いずれにせよほんらい虚構であるはずの一戯曲の通称が、実際の事件を意味するほどに、『仮名手本忠臣蔵』が世間に与えた影響は大きかったのである。
===沿革===
人形浄瑠璃としての初演は[[寛延]]元年八月十四日(1748年9月6日)から同年十一月中頃(1749年1月初頭)まで[[大坂]]<!--道頓堀-->[[竹本座]]においてで、同年十二月一日(1749年1月19日)には大坂<!--道頓堀-->[[中の芝居]]で歌舞伎版が初演された。[[江戸]]では翌寛延二年二月六日(1749年3月24日)[[森田座]]で初演されている。<!--京都では同年3月15日より早雲長太夫座であり、以降、途切れることなく現代に至るまで上演されつづけている。--><!--混乱回避-->


元禄赤穂事件は、『仮名手本忠臣蔵』以前に浄瑠璃や歌舞伎で扱われている。確認できる最も早い例としては、元禄16年の正月に[[江戸]][[山村座]]で上演された『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の大詰で、曽我の夜討ちにかこつけ赤穂浪士の討入りの趣向を見せたのではないかといわれている。その後元禄赤穂事件を扱ったものとしては『[[碁盤太平記]]』([[近松門左衛門]]作)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(吾妻三八作)、『忠臣金短冊』([[並木宗助]]ほか作)など多くの作が上演されたが、これらを受けて[[忠臣蔵物]]の集大成として書かれたのが本作であり、『[[菅原伝授手習鑑]]』、『[[義経千本桜]]』とならぶ[[義太夫]][[浄瑠璃]]の三大傑作といわれる。かつて劇場が経営難に陥ったとき、上演すれば必ず大入り満員御礼となったことから、薬になぞらえて「芝居の[[独参湯]]」とも呼ばれていたほどである。それだけに上演回数もほかの演目と比べれば圧倒的に多く、現在に至るも頻繁に舞台に取り上げられている。<!--近代に至るまで支持されつづけている要因には、その構成が周到かつ堅牢なうえに、丸本歌舞伎にありがちな荒唐無稽さも少ない点があげられる。-->
本作以前にこの赤穂事件を扱った歌舞伎や人形浄瑠璃の演目としては、事件後間もない元禄十四〜五年(1702–03年)の『東山榮華舞台』(江戸[[山村座]])、『曙曽我夜討』(江戸[[中村座]])や、宝永六年(1710年)の、『太平記さざれ石』、『鬼鹿毛無佐志鐙』<!--(吾妻三八作)-->、そして[[近松門左衛門]]作の『[[碁盤太平記]]』などがあり、その世界も「[[小栗判官]]物」、「[[曽我物語|曾我兄弟物]]」、「[[太平記]]物」などさまざまだったが、『碁盤太平記』あたりから世界が「太平記物」となり、それぞれの役の振分けも固定してくる。これを受けて[[忠臣蔵物]]の集大成として書かれたのが本作である。


『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃である。本来ならその全十一段の「あらすじ」をまずまとめて示し、その後に作品の内容について解説すべきであるが、上でも触れたように本作は現在に至るまで頻繁に上演されている人気演目であり、この全十一段は[[文楽]]と歌舞伎いずれも、おおむね現行演目として伝承されている。従ってひとつの段だけでも解説すべきことは多い。そこで本作については段ごとに原作の浄瑠璃にもとづく「あらすじ」と、その段についての「解説」に分け以下作品を紹介する。
===外題===
その[[外題]]は、[[赤穂浪士|赤穂四十七士]]を[[いろは順|いろは四十七字]]にかけて「仮名手本」、そして「忠臣大石内蔵助」から「忠臣蔵」としたというのが一般的。ただし「忠臣蔵」の方には異説もあり、蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣の意味を持たせたとする説、<!--または忠臣=内'''蔵'''助の意味といわれる。浄瑠璃では「四段目切」にあたる「九段目 山科閑居の場」がもっとも重く、-->加古川本蔵<!--は座頭の役であることから、じつは本蔵-->こそが本当の忠臣だということを「本蔵」の間に「忠臣」を挟んで暗示したという説などがある([[いろは歌]]の項の「暗号説」のくだりも参照されたい)。


== 主な登場人物 ==
===位置づけ===
*'''左兵衛督直義'''(さひょうえのかみただよし) : [[室町幕府]]将軍[[足利尊氏]]の弟。尊氏の代理として、京から[[鎌倉]]へと下向し[[鶴岡八幡宮]]に参詣する。
『仮名手本忠臣蔵』は『[[菅原伝授手習鑑]]』『[[義経千本桜]]』とならぶ人形浄瑠璃の三大傑作といわれ、後代他分野の作品に大きな影響を及ぼしている。近代に至るまで支持されつづけている要因には、その構成が周到かつ堅牢なうえに、丸本歌舞伎にありがちな荒唐無稽さも少ない点があげられる。
*'''高武蔵守師直'''(こうのむさしのかみもろのう) : 大名。鎌倉に在住する尊氏の執事職。その性格は傲慢で、或る人妻に横恋慕する。その人妻とは…
*'''桃井若狭之助安近'''(もものいわかさのすけやすちか) : 大名。桃井播磨守の弟。鎌倉に下向した直義の饗応役となる。性格は気短。
*'''塩冶判官高定'''(えんやはんがんたかさだ) : [[伯耆国]]の大名。桃井若狭之助と同じく直義の饗応役となる。普段は冷静沈着な性格。
*'''かほよ御前'''(かおよごぜん) : 塩冶判官の正室。もとは宮中に仕えた[[内侍]]。なお原作の浄瑠璃の本文表記では仮名書きで「かほよ」であるが、現行の文楽・歌舞伎では「顔世」の字を宛てている。
*'''加古川本蔵行国'''(かこがわほんぞうゆきくに) : 桃井若狭之助の家の[[家老]]。
*'''戸無瀬'''(となせ) : 加古川本蔵の妻。後妻。
*'''小浪'''(こなみ) : 加古川本蔵の娘。じつは本蔵の先妻の娘なので、戸無瀬とは実の親子ではない。大星由良助のせがれ力弥とはいいなづけの約束を交わしている。
*'''鷺坂伴内'''(さぎさかばんない) : 師直の家来。おかるに横恋慕する。
*'''おかる''' : かほよ御前に仕える[[腰元]]。早の勘平とは恋人どうしで、のちに夫婦となる。寺岡平右衛門の妹。
*'''早の勘平重氏'''(はやのかんぺいしげうじ) : 塩冶家の譜代の家臣。
*'''石堂右馬之丞'''(いしどううまのじょう) : 塩冶家に訪れた上使。
*'''薬師寺次郎左衛門'''(やくしじじろうざえもん) : 同じく塩冶家に訪れた上使。師直と親しくしている人物。
*'''原郷右衛門'''(はらごうえもん) : 塩冶家の諸士頭。
*'''大星由良助義金'''(おおぼしゆらのすけよしかね) : 塩冶家の家老。国許にいる。
*'''大星力弥'''(おおぼしりきや) : 由良助の息子。塩冶判官のそば近くに仕える。
*'''斧九太夫'''(おのくだゆう) : 塩冶家の家老。
*'''斧定九郎'''(おのさだくろう) : 斧九太夫の息子。
*'''千崎弥五郎'''(せんざきやごろう) : 塩冶家家臣。
*'''与市兵衛'''(よいちべえ) : 寺岡平右衛門とおかるの父親。[[山城国]]山崎に百姓をして暮らしている。
*'''与市兵衛の女房''' : 与市兵衛の妻、寺岡平右衛門とおかるの母。歌舞伎では「おかや」という名がついているが、原作の浄瑠璃ではこの人物に名は無い。
*'''一文字屋'''(いちもんじや) : 京の[[祇園]]にある女郎屋の主人。
*'''寺岡平右衛門'''(てらおかへいえもん) : 塩冶家に仕える[[足軽]]。おかるの兄。
*'''矢間十太郎'''(やざまじゅうたろう) : 塩冶家家臣。ただし十段目と十一段目では名が「重太郎」と表記されている。
*'''竹森喜多八'''(たけもりきたはち) : 塩冶家家臣。
*'''大鷲文吾'''(おおわしぶんご) : 塩冶家家臣。
*'''天河屋義平'''(あまがわやぎへい) : 塩冶家に出入りしていた[[廻船問屋]]。[[摂津国]][[堺]]に店を持ち商売をしている。
*'''園'''(その) : 義平の妻。原作の表記では仮名書きで「その」としているが、可読性を考慮して「園」とする。
*'''大田了竹'''(おおたりょうちく) : 斧九太夫抱えの医者。園の父、義平の舅。


== 大序・鶴岡の饗応 ==
本作は上演すれば必ず大入り満員御礼となる演目として有名で、かつては不況だったり劇場が経営難に陥ったりしたときの特効薬として「芝居の[[独参湯]]」と呼ばれることもあったほど。それだけに上演回数も圧倒的に多く、[[梨園]]ではこの『忠臣蔵』に限っては、どの役柄でも先人に教えを乞うことは恥といわれるほどである。
『仮名手本忠臣蔵』は、以下の文章を以って始まる。


<blockquote>'''嘉肴<small>(かかう)</small>有りといへども食せざれば其の味はひをしらずとは。国治まってよき武士の忠も武勇もかくるゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例<small>(ためし)</small>を爰<small>(ここ)</small>に仮名書きの太平の代の。政<small>(まつりごと)</small>…'''</blockquote>
==登場人物==
『仮名手本忠臣蔵』があまりにも有名になったため、元禄赤穂事件に由来する[[諺]]や[[格言]]には、史実における実在の人物の名よりも、本作における登場人物の名の方が用いられることが多かった。


どんなにおいしいといわれるご馳走でも、実際に口にしなければそのおいしさはわからない。平和な世の中では優れた武士の忠義も武勇もこれと同じで、それらは話に聞くだけで実際に目にすることが無くなってしまうのである。だがそんな世の中でも、優れた忠義の武士は必ずいる。それはたとえば、星は昼には見えないが夜になれば空にたくさん現われるのと同じように、普段は見えなくても忠義の武士は、あるべきところには確かに存在するのだ。そんな武士たちの話をわかり易いように仮名書きにして、これから説明することにしよう…という大意で、要するにこれから「忠」も「武勇」も備わった「よき武士」である「赤穂浪士」たちのことについて語ろうということである。
{|class="wikitable"
|-
!登場人物
!役柄
!登場する段
!役どころ
!モデル・備考
|-
|nowrap|{{smaller|おおぼし ゆらのすけ よしかね <!-- ←全1-->}}<br />'''大星由良助義金'''
|nowrap|[[立役]]・[[実事]]  <!-- ←全2-->
|nowrap|四・七・九・十・十一
|塩谷家筆頭[[家老]]
|{{small|[[赤穂藩]]浅野家[[家老|筆頭家老]]・[[大石良雄|大石内蔵助(良雄)]]。「ゆらのすけ」は「由良之助」と書かれることが多いが原作に拠る表記は「由良助」。}}
|-
|{{smaller|えんや はんがん たかさだ}}<br />'''塩谷判官高貞'''<!--{{smaller|(高定)}}-->
|立役・白塗り・辛抱役
|一・三・四
|[[伯州]]城主・御馳走役
|{{small|赤穂藩主・[[浅野長矩|浅野内匠頭(長矩)]]。史実の[[塩冶高貞|塩冶判官]]からは、その名と物語の発端となる逸話を借りる。「塩谷」は赤穂藩の名産物「赤穂の塩」にひっかけている。}}
|-
|{{smaller|こうの もろのう}}<br />'''高師直'''
|[[敵役]]
|一・三・四・十一
|幕府[[管領|執事]]
|{{small|[[高家 (江戸時代)|高家肝煎]]・[[吉良義央|吉良上野介(義央)]]。史実の[[高師直]]からは、その名と物語の発端となる逸話を借りる。「高」は吉良上野介が「高家」だったことにひっかけている。}}
|-
|{{smaller|あしかが ただよし}}<br />'''足利直義'''
|立役・白塗り
|一
|[[征夷大将軍|将軍]]足利尊氏の弟
|{{small|[[勅使]]・[[柳原資廉]]、同・[[高野保春]]、[[院使]]・[[清閑寺熈定]]など。史実の[[足利直義]]からは、その名を借りるのみ。}}
|-
|{{smaller|かおよ ごぜん}}<br />'''顔世御前'''
|[[女形|赤姫]]
|一・四
|塩谷判官の内室
|{{small|浅野内匠頭正室・[[瑤泉院|阿久利(瑤泉院)]]。史実の[[塩冶高貞|顔世御前]]からは、その名と物語の発端となる逸話を借りる。}}
|-
|{{smaller|いし}}<br />'''石'''
|女房役
|九
|大星由良助の妻
|{{small|大石内蔵助の妻・[[香林院|りく(香林院)]]。}}
|-
|{{smaller|おおぼし りきや}}<br />'''大星力弥'''
|立役・色若衆
|二・四・七・九・十・十一
|大星由良助の嫡男
|{{small|大石内蔵助の嫡男・[[大石良金|大石主税(良金)]]。「力弥」は「主税」を「ちから」と読むことにひっかけている。}}
|-
|{{smaller|もものい わかさのすけ やすちか}}<br />'''桃井若狭之助安近'''
|立役・白塗り・若衆役
|一・二・三・十一
|浅野内匠頭と相役の<br />御馳走役
|{{small|[[津和野藩]]主・[[亀井茲親]]。亀井茲親の官位は、はじめ能登守、のちに隠岐守で、「若狭之助」は[[若狭国]]が[[能登国]]と[[隠岐国]]の中間に位置していることにひっかけている。}}
|-
|{{smaller|かこがわ ほんぞう ゆきくに}}<br />'''加古川本蔵行国'''
|立役・実事
|二・三・九
|桃井家家老
|{{small|津和野藩亀井家家老・[[多胡真蔭|多胡外記(真蔭)]]。}}
|-
|{{smaller|となせ}}<br />'''戸無瀬'''
|女房役・片はずし
|二・八・九
|加古川本蔵の後妻で、<br />小浪の継母
|
|-
|{{smaller|こなみ}}<br />'''小浪'''
|娘役
|二・八・九
|加古川本蔵の娘で、大星力弥の許婚
|
|-
|{{smaller|おの くだゆう}}<br />'''斧九太夫'''
|老役
|四・七
|塩谷家家老
|{{small|赤穂藩浅野家家老・[[大野知房|大野九郎兵衛(知房)]]。}}
|-
|{{smaller|おの さだくろう}}<br />'''斧定九郎'''
|立役・色悪
|四・五
|斧九太夫の嫡男
|{{small|大野九郎兵衛の嫡男・[[大野群右衛門]]。}}
|-
|{{smaller|さぎざか ばんない}}<br />'''鷺坂伴内'''
|半道敵
|三・七・十一
|高家家臣
|
|-
|{{smaller|はやの かんぺい しげうじ}}<br />'''早野勘平重氏'''
|立役・白塗り・辛抱立役
|三・五・六
|塩谷家家臣
|{{small|赤穂藩士[[萱野重実|萱野三平(重実)]]。}}
|-
|{{smaller| }}<br />'''おかる'''
|娘役・女房役・傾城役
|三・六・七
|nowrap|百姓与市兵衛の娘で、<br />早野勘平の女房、のち<br />一文字屋抱[[遊女|傾城]]
|{{small|大石内蔵助の妾・[[お軽|二文字屋おかる]]。}}
|-
|{{smaller|てらおか へいえもん}}<br />'''寺岡平右衛門'''
|立役・白塗り・奴
|七・十一
|おかるの兄で、塩谷家[[足軽]]
|{{small|赤穂藩足軽・[[寺坂信行|寺坂吉右衛門(信行)]]。}}
|-
|{{smaller|よいちべえ}}<br />'''与市兵衛'''
|老役
|五
|平右衛門・おかる兄妹の父
|
|-
|{{smaller| }}<br />'''おかや'''
|女房役
|六
|平右衛門・おかる兄妹の母
|
|-
|{{smaller|いちもんじや おさい}}<br />'''一文字屋お才'''
|花車役
|六
|一文字屋女将
|{{small|人形浄瑠璃では一文字屋主人・才兵衛として立役。}}
|-
|{{smaller|あまかわや ぎへい}}<br />'''天河屋義平'''
|立役
|十
|塩谷家出入り商人
|{{small|赤穂浪士を支援したと伝わる[[天野屋利兵衛]]。}}
|-
|{{smaller|やくしじ じろうざえもん}}<br />'''薬師寺治郎左衛門'''
|敵役
|四
|塩谷判官に非情な<br />切腹の上使
|{{small|幕府[[大目付]]・[[庄田安利|庄田三左衛門(安利)]]。}}
|-
|{{smaller|いしどう うまのじょう}}<br />'''石堂右馬之丞'''
|半敵役
|四
|塩谷判官に同情的な<br />切腹の上使
|{{small|幕府[[目付]]・[[多門重共|多門伝八郎(重共)]]。「石堂」は「多門」を「おかど」と読むことにひっかけている。}}
|}


=== あらすじ<small>(大序)</small> ===
==上演形態==
('''鶴岡兜改めの段''')時に[[暦応]]元年二月下旬のことである。
『仮名手本忠臣蔵』は全十一段からなり、現在でもほぼその全段が演目として残っている稀な浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし歌舞伎の内容は人形浄瑠璃とは大きく異なっている。その主な違いは次の通り。
{| class="wikitable"
!段
!歌舞伎の上演形態
|-
|大序
|省略なし。
|-
|二段目
|ほとんど上演されないが、場所を建長寺に改めた歌舞伎独自の脚本もある。
|-
|三段目
|後半部「裏門合点」を省略することが多い。
|-
|四段目
|「花献上・花籠」がふつう省略される。
|-
|落人
|歌舞伎では清元「落人」を挿入することがある。
|-
|五段目
|省略なし。
|-
|六段目
|省略なし。
|-
|七段目
|省略なし。
|-
|八段目
|通しの場合、「落人」を挿入して八段目を省略することが多い。
|-
|九段目
|前半部「雪こかし」を省略することが多い。
|-
|十段目
|ほとんど上演されない。
|-
|十一段目
|まったく上演されず、現在では後人の補筆による台本によって討入りの場面を上演する。
|}
さらに<!--半不精をして-->都合によって大幅に台本を省略することもある。


将軍[[足利尊氏]]は南朝方の[[新田義貞]]を討ち滅ぼし、[[南北朝時代 (日本)|南北朝]]の動乱は収まりつつあった。鎌倉の鶴岡八幡宮では社殿の造替を済ませたので、尊氏の弟である[[足利直義|左兵衛督直義]]が京から鎌倉へと下向し、今日は将軍尊氏の代参として鶴岡八幡へと参詣するところである。幕を張った馬場先にいる直義は大勢の供を従え、供の中には鎌倉在住の執事職[[高師直|高武蔵守師直]]、さらに直義の饗応役として桃井若狭之助安近と[[塩冶高貞|塩冶判官高定]]が任ぜられて控えている。
なお通常二・八・九段目は上演されないが、昭和49年 (1974) 国立劇場において、逆に二・八・九段目だけを上演するという試みがあった。こうしないと、力弥・小浪の絡みがほとんどわからないからである。<!--座頭は博学で知られた[[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]で、配役は次の通り。
[[File:Act I.jpg|thumb|330px|「忠臣蔵 大序」 新田義貞着用の兜を見極めるため、塩冶判官の妻かほよ御前が直義の前に呼ばれる。場面は鶴岡八幡の境内、画面左脇には大銀杏の木が見える。石段にはかほよ御前、そのすぐ左下には仕丁ふたりが、兜を収めた唐櫃を抱えて運ぶ。[[歌川広重]]画。]]
*加古川本蔵  [[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]
皆の前には[[唐櫃]]がひとつ置かれていた。直義には鶴岡代参のほかに、いまひとつ尊氏に命じられたことがあり、それは討取った新田義貞着用の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮の宝蔵に納めることであった。その兜というのが[[後醍醐天皇]]から下賜されたものであり、また義貞が[[清和源氏]]の血筋であることを誉れとしたためである。しかし義貞が死んだとき、そのそばには四十七もの兜が散らばってどれが義貞の兜なのか判らず、とりあえずそれらの兜を集め、この唐櫃にまとめて入れていたのである。この中から義貞がかぶったという兜を探し出し、鶴岡八幡に納めなければならない。
*戸無瀬    [[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]
*大星由良助  [[守田勘彌 (14代目)|十四代目守田勘彌]]
*大星力弥   [[澤村田之助 (6代目)|六代目澤村田之助]]
*桃井若狭之助 [[中村梅玉 (4代目)|四代目中村梅玉]]
*小浪     [[中村魁春|二代目中村魁春]]
三津五郎と勘弥は、その後すぐに死去。
*三津五郎 翌昭和50年(1975年)1月没
*勘弥 同年3月没
-->


だが兜を納めようという直義に師直は「これは思ひ寄らざる御事」と口を挟み、清和源氏の血筋はいくらでもいる、そんな理由で義貞の兜をもったいぶって扱う必要はないという。これに桃井若狭之助が声をあげ、これは義貞軍の残党を懐柔させ、降参させようという将軍尊氏公の御計略であろう、「無用との御評議卒爾なり」と言おうとするのを師直はさえぎる。もしこの中から間違って義貞のものではない兜を選んでは後に大きな恥となることだ。「なま若輩ななりをしてお尋ねもなき評議、すっこんでお居やれ」と頭ごなしに怒鳴りつけた。これに目の色を変える若狭之助、それを察した塩冶判官が言葉を添え、直義の判断を仰ぐ。直義には兜の見極めについて考えがあった。かつて宮中に[[内侍]]として奉仕し、後醍醐天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしていたかほよ御前を、この場に呼び出したのである。かほよ御前は塩冶判官の妻である。かほよは唐櫃のなかからひとつの兜を取り出し、[[蘭奢待]]の香るこの兜こそ義貞所用のものに間違いないと差し出した。
==あらすじ==
<!--{{ネタバレ}} → 用途が違います-->
大きく分けて、次の4編の物語から成り立つ。


見極められた兜を直ちに宝蔵に納めようと、直義は塩冶判官と若狭之助を連れて社殿に向かいその場を離れた。するとかほよの美貌に以前より執着していた師直がかほよに言寄り、付け文を無理やり渡そうとする。困惑するかほよ。すると折りよく来合わせた若狭之助にかほよは助けられたが、怒り心頭に発した師直は若狭之助を散々に口汚く罵り、これに怒った若狭之助は師直へ刃傷に及ぼうとする。そこへ直義が帰館のため、判官も含めた供の者を従えて通りかかるので、若狭之助は無念ながらもこの場では自重するのだった。
*本編
**義士の仇討ち
**:幕府執事の高師直が伯州大名の塩谷判官をいじめ抜き、耐えかねた判官は師直を斬りつける。判官は事件の責任をとり切腹させられ、お家断絶。家老の大星由良助は京の遊里祇園で放蕩三昧の日々を送り、絶対に仇討ちは無いと師直側が油断したころに高の屋敷への討ち入りを決行。見事に師直の首級をあげる。史実の[[元禄赤穂事件]]を『[[太平記]]』の世界のなかで描いた物語。


⇒([[#あらすじ(二段目)|二段目あらすじ]])
*従編
**おかる・勘平の絡み
**:勘平は塩谷判官の武士。おかるは判官の妻・顔世御前の腰元。二人は夫婦。勘平は塩谷判官のお供で外出するが、一人抜け出しておかると逢い引きを楽しんでいた。勘平不在のその時に、判官が師直に刃傷に及ぶという大事件が発生。勘平は責任を感じて、切腹をしようとするも止められる。二人は、駆け落ちという道しかなかった。勘平は師直への仇討ちに加わるべく軍資金を確保しようとし、成功する。しかし入手した手段が侍の道にもとる非道なものだと誤解され、切腹する。その直後勘平の無実が判明する。討ち入り[[血判状]]に判を押し、討ち入り組の一人に名を連ねたところで絶命する。同志の義士は勘平の財布を形見にして仇討ちに臨む。創作物語である。
**力弥・小浪の絡み
**:大星力弥・小浪は夫婦。力弥は判官側の人間で、小浪は判官の師直への刃傷を押しとどめた男の娘。小浪の父は、力弥に殺されることによって、自らの行為を許してもらおうとする。力弥・小浪は一夜限りの夫婦生活を持ち、力弥は討ち入りの準備に出発する。創作物語である。
**師直・顔世御前の絡み
**:師直が、非道なことに他人の妻に横恋慕して、顔世御前にちょっかいをだすが振られる。これが師直が判官を挑発する直接の原因となる。「高師直」と「塩治判官」はともに実在した人物から名を借りるのみだが、この箇所に限っては『太平記』で高師直が塩谷判官の妻に横恋慕した逸話を使っている。<!--劇中の顔世御前は色気を出さなくてはいけない。??? -->


=== 解説<small>(大序)</small> ===
従編の物語はすべて恋と金が絡む[[世話物]]である。<!--そしてカネ。見物にとってとても身近で、かつ卑俗な、恋愛とカネというストーリー、そして多くの主役たちの劇的な死。それらすべてが討ち入りという一点につながっているという作劇の妙。忠臣蔵が人気狂言足りうる所以である。POV -->
江戸時代、文芸や戯曲においてその時々に起こった事件を取り上げることは、幕府より禁じられていた。[[加賀騒動]]をはじめとする[[お家騒動]]を記した実録本なども出版を禁じられており、写本の形でのちにまで伝わっている。元禄赤穂事件もある意味武家社会の醜聞ともいえる事件であり、これを取り上げることは幕政批判に通じかねないことから、人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居においても、興行する側は相当の用心を以ってこの事件を脚色し、上演していた。それは本来の時代や人物の名前などを、違う時代や人物に置き換えて脚色することで抜け道としたのである。その時代や人物も「[[小栗判官]]」や「[[太平記]]」などさまざまだったが、この『仮名手本忠臣蔵』では近松の『碁盤太平記』に見られる設定や人物名、すなわち「太平記」の「[[世界 (曖昧さ回避)|世界]]」を借りている。それは直接には、『太平記』巻二十一「塩冶判官讒死の事」を粉本としたものである。


「塩冶判官讒死の事」のあらましは、高師直が塩冶判官高貞の妻の美しさを聞きつけこれに執心し、恋文を送るが判官の妻からは拒絶される。これに腹を立てた師直が将軍尊氏や直義に判官のことを讒言した結果、判官は謀叛の汚名を着せられ、最後は判官やその妻子も無残な死を遂げるというもので、この話をもとに『仮名手本忠臣蔵』は[[吉良義央]]を高師直、[[浅野長矩]]を塩冶判官に置き換え、師直が判官の妻に横恋慕したことを事件の発端としている。
===大序===
*別名:鶴ヶ岡社前の場
*別名:兜改めの場
====解説====
[[File:Sadanji Ichikawa II and Sergei Eisenstein.jpg|thumb|250px|口上人形
----
<small>左は大石良雄の衣装をつけた二代目市川左團次。右は旧ソ連の映画監督[[セルゲイ・エイゼンシュテイン|エイゼンシュテイン]]。歌舞伎ソ連公演中、モスクワにて、1928年。</small>]]


本作の師直は「人を見下す権柄眼<small>(まなこ)</small>」、義貞の兜の事についてもそれが将軍尊氏の「厳命」でありながら、「御旗下の大小名清和源氏はいくらも有る。奉納の義然るべからず」と口を挟んで憚らない。将軍家に対してでさえこうなのだから、自分より地位の低い者等に対しても傲慢な態度に出るのは当然である。それが若輩ながらもれっきとした大名である若狭之助を口汚く罵ったり、ほんらい人妻であるはずのかほよ御前に横恋慕してしつこく言い寄るという所業に表れている。そしてこの師直の傲慢さが悲劇を生み、それに多くの人が巻き込まれることになるのである。
[[天王立]]で幕を開ける荘重な場面であり、[[歌舞伎]]では現在演目として行われている数少ない[[大序]]のひとつ。かならず幕前で、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」<small>(やくにん かえな)</small>、つまり配役を説明する[[口上]]があるが、これはとりもなおさず人形浄瑠璃の名残である。


時代物の義太夫浄瑠璃の最初の段を「大序」(だいじょ)という。「大序」はたいていが[[内裏]]や寺社、または将軍の御所などといった重々しい場面で、そこに天皇や公卿、将軍や大名などの高位の人物が集まって話が始まる。人形浄瑠璃は古くは通しの上演が原則だったので、各作品が再演されるときには「大序」も上演されていたが、現行の文楽にまで絶えず伝承されてきたのは『仮名手本忠臣蔵』と、ほかには『菅原伝授手習鑑』の「大序」があるぐらいである。歌舞伎の[[義太夫狂言]]においても、人形浄瑠璃の作品が歌舞伎に移された当初は「大序」が上演されもしたが、そのほとんどが早くに廃滅した。歌舞伎の演目として絶えることなく伝承され、今日にまで上演され続けてきた「大序」は、『仮名手本忠臣蔵』が唯一といってよいものである。
[[東西声]]で幕を引いた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、[[竹本]]に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。


歌舞伎では必ず幕を開ける前に、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」(やくにんかえな)、すなわち配役を「相勤めまする役人替名…塩冶判官高定、○○○<small>(演じる役者の名)</small>…」と読み上げることがある。これはもと歌舞伎の芝居では、芝居の最初の幕が開く前に下級の役者が幕の前に出て、[[裃]]姿で「役人替名」を読み上げることがあり、それを人形が演じる形で残したもので、この「役人替名」の読み上げが見られるのも現在では『仮名手本忠臣蔵』の大序だけである。[[天王立]]という鳴物で幕を開ける荘重な場面であり、[[東西声]]で幕を開けた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、[[竹本]]に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。<!--劇中のかほよ御前は色気を出さなくてはいけない。??? -->
切りは敵役の師直、勇みたつ[[荒事]]の若狭介、二人を押しとどめる[[和事]]の判官と、『[[壽曾我對面]]』の幕切れと同じ形式になっている。


原作の浄瑠璃では、かほよを助けたあと師直に悪口された若狭之助が、「刀の鯉口砕くる程」握り締め師直と一触即発のところ、直義が先払いの声とともに供を連れてその場に通りかかり、判官もその行列の「後押へ」すなわち最後のほうに加わってそのまま行過ぎる。これは文楽でも同様で、長柄の傘を差しかけられた直義が、判官や大名たちを従え舞台上手から下手へと通り過ぎるが、これを若狭之助が見送って立とうとすると師直が嫌がらせに袖でさえぎり「早えわ」という。この「早えわ」は、師直の人形遣いが言うのである。それで師直と若狭之助二人で幕となる。文楽の人形遣いが舞台上でせりふを言うのは珍しいことである。歌舞伎でもおおよそこの段取りであるが、幕切れは師直が二重舞台の石段、舞台下手側に勇んで刀を抜こうとする若狭之助、列から離れた判官が若狭之助を押しとどめるという『[[曽我の対面]]』の幕切れと同じ形式となる。また若狭之助が刀に手をかけ師直を斬ろうとすると、そこで直義の帰館を知らせる「還御」の声がかかり、師直と若狭之助ふたりだけで幕になることもある。
====物語====
将軍[[足利尊氏]]の命により、討取った[[新田義貞]]の兜を探しだし、これを[[鶴岡八幡宮]]に納めるため将軍の弟[[足利直義]]が遣わされる。直義の饗応役に塩谷判官と桃井若狭介が任ぜられ、その指導を[[高家 (江戸時代)|高家]]高師直が受持つ関係上、三人も直義に従って八幡に詣で、御前に控えている。そこへ、数多く集めた兜のうちより義貞のものを見分けるために、かつて宮中に奉仕し、[[天皇]]より義貞に兜が下賜されるのを目にしたことのある、顔世御前(判官の奥方)が召され、見事に兜を見分ける。直義および饗応役の二人が兜を神前にささげるためにその場を離れると、顔世の美貌に一目ぼれした師直が横恋慕のあまり言寄る。そこへ折りよく来合わせた若狭介が顔世を救い、その場を去らせると、怒り心頭に発した師直は若狭介に悪口を言いかけ、短気な若狭介は刃傷に及ぼうとするが、通りがかった判官の仲裁によって事なきを得る。


現行の舞台では直義以下の人物が大銀杏のある八幡宮の境内にいて、その中で「兜改め」が行われるが、上のあらすじでも紹介したように原作の浄瑠璃の本文には「馬場先に幕打廻し。威儀を正して相詰むる」とあり、直義たちは参詣者が下馬するための「馬場」、すなわち境内の外の幕を張った場所にいる。要するに原作の本文に従えば、「兜改め」をする場所は八幡宮の境内ではないということである。これは「兜改め」が済んだあとで直義が判官と若狭之助を率いて兜を社に納めようとするときにも、「段かづらを過ぎ給へば」とある。「段かづら」は今も鶴岡八幡宮の鳥居前に残る参道である([[段葛]]の項参照)。
===二段目===
台本が二種類あり、それぞれ別物である。
====桃井館の場====
=====桃井館上使の場=====
「空も弥生のたそかれ時、桃井若狭之助安近の、館の行儀、掃き掃除、お庭の松も幾千代を守る勘の執権職、加古川本蔵行国、年の五十路の分別ざかり、上下ためつけ書院先」の床の浄瑠璃で始まる。若狭之助の家老加古川本蔵は、主人が師直から辱めをうけたと使用人らが噂しているのをききとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘小浪が出てきて、殿の奥方までも知っていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り奥方様を御安心させようと奥に入る。そこへ、大星力弥が明日の登城時刻の口上の使者としてくる。力弥に恋心を抱く小浪は母の配慮もあって、口上の受取役となるがぼうっとみとれてしまい返事もできない。そこへ主君若狭之助が現れ口上を受け取る。


『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎における上演では、原作の浄瑠璃とは違った内容が見られる。これは大筋では違いは無いものの、脚本や演出などに各時代の役者たちの工夫が入れられるなどしたことにより、それが歌舞伎における型(演技・演出等)となって残り、芝居の演出やせりふなどが原作の浄瑠璃のものとは相違するようになったのである。さらに東京(江戸)と[[上方]]においても、同じ段の同じ場面で型に相違がある。そうした原作、東京、上方、また文楽における型の違いについても以下触れることにする。
=====桃井館松切りの場=====
再び現れた本蔵は妻と娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだったことを明かす。本蔵は止めるどころか縁先の松の片枝を切り捨て「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫んで、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。


== 二段目・諫言の寝刃 ==
====鎌倉建長寺書院の場====
=== あらすじ<small>(二段目)</small> ===
幕末の[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]が始め、その台本が上方の[[中村宗十郎]]に伝わったという。掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助と本蔵とがやりとりをするという脚色。
[[Image:Act II.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 二段目」 塩冶判官の使者として、大星由良助のせがれ力弥が若狭之助の館を訪れた。使者の役目を終え帰ろうとする力弥、それを見送る加古川本蔵の娘小浪。後ろの衝立の陰からは、母の戸無瀬がその様子を見守る。画面中央奥には、本蔵が松の枝を切って若狭之助に差し出す場面が描かれる。広重画。]]
('''力弥使者の段''')<!--「空も弥生のたそかれ時、桃井若狭之助安近の、館の行儀、掃き掃除、お庭の松も幾千代を守る勘の執権職、加古川本蔵行国、年の五十路の分別ざかり、上下ためつけ書院先」の床の浄瑠璃で始まる。-->足利直義が鶴岡八幡に参詣した翌日のこと。時刻もたそがれ時、桃井若狭之助の家老加古川本蔵は、あるじ若狭之助が師直から辱めをうけたと使用人らが噂しているのを聞きとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘小浪も出てきて、若狭之助の奥方までもこの噂を聞き案じていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り奥方様を御安心させようと奥に入る。


塩冶判官の家臣大星由良助の子息である大星力弥が、明日の登城時刻を伝える使者として館を訪れる。いいなづけの力弥に恋心を抱く小浪は本蔵や戸無瀬が気を効かせ、口上の受取役となるがぼうっとみとれてしまい返事もできない。そこへ主君若狭之助が現れ口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰った。
===三段目===
====進物の場・文使いの場(足利館城外の場)====


('''松切りの段''')再び現れた本蔵は娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだと明かす。ところが本蔵は止めるどころか、若狭之助の刀をいきなり取って庭先に降り、その刀で松の片枝を切り捨て「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫んで、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。
'''進物の場'''


⇒([[#あらすじ(三段目)|三段目あらすじ]])
若狭助は師直を斬る覚悟をするが、若狭助の[[家老]]加古川本蔵が機転を利かせて師直に賄賂を贈る。ここでは師直は顔を見せない。賄賂を受け取る師直の家臣である伴内役者の腕の見せ所。


=== 解説<small>(二段目)</small> ===
'''文使いの場'''
[[Image:Tsujiokaya Kamekichi - Kanadehon chushingura - Walters 95113.jpg|thumb|right|330px|「仮名手本忠臣蔵 二段目」 本蔵が主君若狭之助の目前で、松の枝を切ろうとする場面を描く。画面左下隅でその様子を伺うのは戸無瀬。[[歌川国芳]]画。]]
桃井若狭之助安近は、その若さもあって気の短いお殿様である。その気短なお殿様が師直のような人間に、大名たちが居並ぶ公の場で「すっこんでろこのバカ!」などと罵倒されては収まらない。そんな若狭之助には加古川本蔵という「年も五十の分別盛り」の家老が仕えていたが、その「分別盛り」であるはずの男が後先の考え無しに師直を斬ってしまえばよいと、無分別なことを主君に勧めて憚らない。まして家老という重い立場であれば、必死になって諌めるのが筋である。さらに本蔵はその話のすぐ後に、馬に乗ってどこかへ駆け出してゆく。「分別盛り」の男が血気にはやる主君を諌めもせず、大急ぎでどこへ行くつもりなのか。その答えは、このあとの三段目で明らかになるのである。


この段で、実説の大石内蔵助に当たる大星由良助の名がはじめて出てくる。その息子の力弥というのも実説の大石主税のことである。ただし由良助が姿を現すのは四段目になってからである。
このあと、お軽は恋人勘平との逢瀬を目的に、顔世御前から師直あての文を、明日渡すはずを一日早く持って来る。そして、恋人同士の情事を仄めかす所で幕となる。このお軽の軽率さが次の場への悲劇への伏線となっていき、六段目の勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がっている。筋としては重要な場面だが、今日は時間の都合で演じられない。


なお歌舞伎の二段目については台本が二種類あり、ひとつは上のあらすじで紹介した原作の浄瑠璃にもとづくものだが、もうひとつこれを書き替えた「建長寺の場」というものがあり、これを「二段目」として上演することがある。これは[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]が初演し、その台本が上方の[[中村宗十郎]]に伝わったものだという。その内容は、大序の鶴岡八幡で師直に罵られた翌日の夜、若狭之助が鎌倉[[建長寺]]に仏参ののち寺の書院で休息している。そこへ若狭之助を迎えに来た本蔵が、[[床の間]]の掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助とやりとりをし、その中で師直を斬るという若狭之助をやはり本蔵が諌めることなく、松の枝を切ってそれを勧めるというものである。ただしこの「建長寺」では舞台面が室内をあらわす平舞台の大道具なので、松を切るくだりでは床の間にある盆栽の松を切ることになっている。また七代目團十郎がはじめてこの「建長寺」を演じたときには、まず建長寺の住職となって若狭之助との禅問答があり、そのあと本蔵に替わって出たという。しかしいずれにしても現行の歌舞伎では、この二段目は通し上演の際にも省略しほとんど上演されることがない。
====喧嘩場(足利館殿中松の間刃傷の場)====
<!--史実は「松の廊下」だが、この芝居では「松の間」である-->
「おのれ師直真っ二つと、刀の鯉口息をつめ」と、登城した若狭助は師直を斬ろうとするが、既に、心付けを貰っている師直は「これはこれは若狭之助殿、さてさてお早いご登城」と卑屈に謝る。気勢をそがれた若狭之助は「馬鹿な侍だ!」と罵倒して去る。そこに判官が登城、「遅い!遅い!」と師直は侮辱された憤懣を判官にぶつける。折悪しくもその師直へ顔世からの求愛を断る手紙が届く。師直は判官を「鮒だ鮒だ。鮒侍だ!」「鮒侍とはあまり雑言、師直殿には御酒召されたか」「何だ、酒は飲んでも飲まいでも、勤るところはきっと勤る武蔵守」とさんざんに罵りいたぶる。たまりかねた判官は刀を抜こうとするが、殿中での刃傷は家の断絶と必死に我慢する。それでもなおも毒づく執拗な師直の嫌がらせに耐えかねた判官は、ついに師直へ刃傷におよぶが、屏風の陰にいた本蔵に抱き止められる。ここの作劇は高く評価されている。


== 三段目・恋歌の意趣 ==
若狭助が退場した後、判官登場までの間に師直が[[姿見]]で茶坊主に烏帽子に大紋素襖に着替える場面の演出がある。「姿見の師直」と呼ばれ三代目菊五郎が創作した。師直が着替えながら通りかかる大名たちに挨拶を交わすだけのものだが、明治以降は六代目菊五郎と二代目松緑が演じるくらいで、今日では全く廃れている。
=== あらすじ<small>(三段目)</small> ===
('''進物の段''')新築の御殿に直義が逗留し、大名などはじめとして多くの名ある武士が直義饗応のため礼服に身を整えて詰めている。時刻も正七つの夜明け前でまだ辺りは暗い。そこへ館の門前に師直が[[烏帽子]][[大紋]]の姿で、家来の鷺坂伴内に先払いをさせながら到着する。師直はあのかほよ御前のことをなおも執着し、どうやって物にしようかなどと伴内と話しているところに、若狭之助の家来加古川本蔵が師直に直接会いたいとこの場に来ているとの知らせが来る。さては若狭之助がその本蔵を遣わして、昨日の鶴岡での遺恨を晴らすつもりだな…ここへ呼び寄せやっつけてやろう。そう考えた師直は、伴内とともに刀の目釘をしめして本蔵を待ち構えた。
[[Image:Act III.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 三段目」 師直と伴内主従の前に現われた本蔵は、様々の進物を並べる。広重画。]]
ところが師直の前に出た本蔵は、意外な行動に出る。本蔵は師直の前をはるか退ってうづくまり、このたび将軍尊氏公より直義公饗応という名誉の役目を主人若狭之助は仰せ付けられ、本来若輩の若狭之助が首尾よく勤められるのも、みな師直様のお取り成しによる、そこでそのお礼として進物を差し上げたいと、師直の目前に黄金や[[反物]]など多くの進物を並べたのである。本蔵が仕返しに来たと思っていた師直と伴内、このありさまに拍子抜けして顔を見合わせた。


「…これはこれは痛みいったる仕合せ」と師直は言葉を改め、本蔵からの進物を取り収め若狭之助のことについて誉めだした。手の裏を返したこの師直の態度に、本蔵はしてやったりと内心喜ぶ。そして師直に挨拶して場を立とうとしたが、機嫌をよくした師直が殿中の様子をみてゆくがよいと熱心に勧めるので、それではと本蔵は、師直のあとについて門内へとは入るのだった。
====裏門合点(足利館裏門の場)====
早野勘平は腰元のお軽と情事の最中、主君の変事を聞いて慌てて裏門に駆けつけるが入ることを許されない。困った二人は纏わりつく伴内を振り切って駆け落ちする。この場は、次の「道行旅路の花婿」が人気狂言として定着した今日、ほとんど上演されることがない。


('''どじょうぶみの段''')程もなく、供を連れた塩冶判官が到着するが若狭之助がすでに出仕していると聞き、「遅なわりし残念」と譜代の家来早の勘平ひとりを連れ、殿中へと急ぎ行く。
===落人===
*正式名:[[道行旅路の花聟]]
この段のみ、「仮名手本忠臣蔵」ではないが、現在は一体化されて上演されている。浄瑠璃では三段目の結び。戦後の歌舞伎では四段目の後に独立した演目として設けられる。昼夜二部制では、落人で午前を終り、五段目からを夜の部にしている。「裏門合点」の代わりに上演される、楽しく色彩豊かな所作事。さわやかな[[清元]]を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。[[科白]]には[[地口]]も盛り込まれており、特に東京でよく出る。[[舞踊]]の定番の演目でもある。


かほよ御前に仕える腰元のおかるは、かほよから師直あての文の入った文箱を持って門前まで来る。その恋人の勘平がふたたび門前あたりに来たのを見たおかるは、勘平を呼び止めた。勘平は文箱を主人塩冶判官の手から師直様へ渡すようにしようというところ、判官が勘平を呼んでいるとの声に勘平は文箱を持って館の内へと入った。すると入れ違いに伴内が現われる。いまの勘平を呼ぶ声は伴内のしわざであった。おかるに岡惚れする伴内は、恋敵の勘平がいないのを幸いにおかるにしなだれかかり口説くが、そこへ[[奴]]たちが来て「伴内様師直様の急ぎ御用」というので、仕方なく伴内は奴たちとともに立ち去った。
おかる・勘平が駆け落ちを決行し、鎌倉から[[京都]]付近の山崎まで落ち延びる中途、[[戸塚]](現在の横浜市)での出来事を描いている。戸塚は中途にはないはず、それでは逆戻りになるではないかなどというのは野暮というもの。もともとの設定は「夜」だったが、どう考えても「昼」としか言いようがない科白も出てくるが、これらはすべて[[時代物]]と[[世話物]]を必ず合わせて上演した江戸時代の興行形態の名残りである。通常の「見取り狂言」の枠内でその場その場のみを上演すればまったく問題のない設定でも、「通し狂言」で上演すると前後のつながりが明白なので無理矛盾が生じてしまう。『仮名手本忠臣蔵』は通し狂言で上演されることが比較的多い演目なので、これが目立ってしまうのだ。


そこへまた勘平が出てくる。いまの奴たちは、勘平が頼んでわざと伴内を呼びにやらせたのである。二人きりとなった恋人どうし、手に手をとって逢引のためその場を立ち退く。
なおこの場で語られる浄瑠璃の詞章は、実は近松作の『[[冥途の飛脚]]』の一節の焼き直しである。

('''館騒動の段''')御殿では饗応のための[[能]]が催されるなか、若狭之助は「おのれ師直真っ二つ…」と、差した刀を握り締め師直を待ち構えていた。

師直が、伴内をともないそこへ来た。だが師直主従は若狭之助の姿を遠くから認めると、「貴殿に言い訳いたし、お詫び申す事がある」と刀を投げ出して昨日鶴岡のことを詫びる。「その時はどうやらした詞の間違いでつい申した…武士がこれ手を下げる」と師直は、伴内もともに若狭之助に対して幾度も詫びた。これが最前本蔵による進物のせいだとは知らぬ若狭之助、この師直のあまりの態度の変わりように拍子抜けし、また呆れて刀には手を掛けていたものの、抜くにも抜かれず困ってしまう。近くの物陰に隠れる本蔵は、あるじ若狭之助の様子をはらはらしながら見守っている。師直主従はさらに若狭之助に追従を重ね、若狭之助は戸惑いながらも、伴内に連れられて奥の間へとは入るのだった。本蔵も無事に済んだことにほっとして、いったん次の間へと下がる。

あとには師直一人が残る。そこに塩冶判官が長廊下を通ってやって来た。

判官を見た師直は「遅し遅し。何と心得てござる。今日は正七つ時と、先刻から申し渡したではないか」という。本蔵から賄賂を受け取りはしたものの、本来なら若僧と馬鹿にする若狭之助に頭を下げ、追従を並べたことが師直にとっては内心面白くなく、機嫌を損ねていた。

しかし判官が「遅なわりしは不調法」と謝りつつ、勘平を通して届けられたかほよ御前からの文箱を取り出し師直に渡すと、師直はまたもがらりと様子を変え、執心するかほよの文が来たことに機嫌を直す。師直は文箱を開けて中身を改めた。…だがその内容は、師直の期待を大きく裏切るものだった。かほよの文には次の和歌が記されている。

:「さなきだに おもきがうへの さよごろも わがつまならぬ つまなかさねそ」

これは『[[新古今和歌集]]』にある古歌であり、要するに塩冶判官というれっきとした夫(つま)を持つ自分への求愛はお断りしますという返事であった。

この恋の不首尾に、師直の怒りは収まらない。そしてこの怒りは、いま目前にする判官にぶつけられた。さてはこの夫の判官にも自分のことを打ち明けているのだろう…そんな勘繰りをしながら、判官の出仕が遅れたのは、奥方のかほよにへばりついていたからだろうとか、または判官のことを井戸にいる鮒に譬えるなどの悪口を、判官に向って散々に浴びせる。あまりのことに判官もついに堪忍袋の緒が切れた。

「こりゃこなた狂気めさったか。イヤ気が違うたか師直」「シャこいつ、武士を捕らえて気違いとは、出頭第一の高師直」「ムムすりゃ今の悪言は本性よな」「くどいくどい、本性なりゃどうする」「オオこうする」と判官は、刀を抜いて師直へ斬りつけた。
[[Image:Tsujiokaya Kamekichi - Kanadehon chushingura - Walters 95114.jpg|thumb|right|330px|「仮名手本忠臣蔵 三段目」 師直からわけもわからず散々の悪口を浴びせられた塩冶判官は、ついに堪えきれず刀を抜き師直に切りつける。国芳画。]]
判官が抜いた刀は師直の眉間を切る。なおも斬り付けようとする判官、だが次の間に控えていた本蔵が気付き、判官を抱きかかえて止める。師直はその場を逃げ出し、騒ぎを聞きつけた大名たちも駆けつけ判官は取り押さえられ、館の内は上を下への大騒ぎとなった。
[[Image:ToyokuniActor.jpg|thumb|right|180px|「三段目」 [[尾上菊五郎 (3代目)|初代尾上榮三郎]]の早の勘平。[[文化 (元号)|文化]]2年(1805年)6月、江戸[[河原崎座]]。「裏門」での姿を描く。初代[[歌川豊国]]画。]]
('''裏門の段''')館は判官の刃傷により、表門裏門ともに閉められた。腰元のお軽と情事の最中だった勘平は館で騒動が起こったことを知り、慌てて館の裏門へと駆けつけたが、聞けばあるじの判官が師直と喧嘩となって刃傷に及んだことにより、[[閉門]]を命じられ罪人の乗る網乗物で自邸に送られたという。

主家が閉門となったからには戻ることも出来ない。色事にふけって大事の主君の変事に居合わせなかったとは武士にあるまじき事…もうこれまでと勘平は刀に手をかけ切腹しようとした。だがおかるがそれを止め、こうなったのも自分のせい、ひとまず自分の実家に来て欲しいといって泣き沈む。勘平は、いまは本国に帰っている家老の大星由良助の帰国を待ってお詫びしようと、おかるのいうことを聞いてこの場を立ち退くことにした。

すると、鷺坂伴内が手下を率いて勘平を捕らえに現われた。勘平は「ヤアよい所に鷺坂伴内、おのれ一羽で喰いたらねど、勘平が腕の細葱<small>(ほそねぶか)</small>、料理塩梅食うて見よ」と、手下どもをやっつける。伴内も勘平に斬りかかるが、首をつかまれ投げ飛ばされた。勘平は伴内を斬り殺そうとするが、おかるが「そいつ殺すとお詫びの邪魔、もうよいわいな」と留めるのを、伴内は隙を見て逃げてゆく。もはや夜明け、明け六つの空が白む中、おかると勘平はこの場を落ちてゆくのであった。

⇒([[#あらすじ(四段目)|四段目あらすじ]])

=== 解説<small>(三段目)</small> ===
二段目の最後で本蔵は馬で駆け出していったが、その理由がこの三段目で明らかとなる。すなわち機転を利かせて師直に賄賂を贈り、事を収めようとしたのである。この賄賂は功を奏し、若狭助は師直を斬る覚悟をするが師直が平謝りに謝るので拍子抜けし、結局斬ることができなかった。なお本蔵が二段目で若狭之助との話の最後に、若狭之助の刀をいきなりとって庭に降り、松の木の枝を切るが[[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]によれば、これは松を切ることでそのヤニを刃に付け、それで再び刀を抜こうとしても抜きにくくしたのだという。

「進物場」は現行の文楽と歌舞伎では師直は出ず、伴内の傍らにある駕籠に乗っていることになっている。歌舞伎では若狭之助の家老である本蔵が来ると聞いて主の師直へ仕返しに来るのだろうと思う伴内が、「エヘンバッサリ」などといいながら[[武家奉公人|中間]]たちと本蔵を討つ稽古をし、それが仕返しではなかったと知れた後のおかしみなど、伴内を演じる役者の腕の見せ所である。

そのあとかほよから師直に宛てた文箱を、腰元のおかるが持ちやってくる。おかるをめぐって早の勘平と伴内とのやり取りがあり、伴内を追い払うと勘平とおかるの逢引となるが、この勘平とお軽の軽率さがのちの六段目の悲劇への伏線となっていき、勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がってゆく。筋としては重要な場面だが、現行の歌舞伎では上演時間の都合により省略され、ほとんど演じられることがない。このあたりの件りを「どじょうぶみ」というのは、伴内がおかるの前に現われるとき「[[鰌]]<small>(どじょう)</small>踏む足付き鷺坂伴内」という浄瑠璃の文句があることによる。また勘平の名について「早野勘平」とすることが多いが、原作の浄瑠璃では「早の勘平」としている。

「館騒動」は通称「喧嘩場」とも言い、この場面がいわゆる「刃傷松の廊下」にあたる。原作の浄瑠璃では若狭之助が奥へ入ったあと、「程も有らさず塩冶判官、御前へ通る長廊下」と塩冶判官が現われ、そこで師直に呼び止められる。「長廊下」というのが史実の「松の廊下」を思わせるが、歌舞伎では「足利館松の間の場」と称し、大きな松が描かれた大広間の大道具となっている。また大筋では変わらぬものの、原作の浄瑠璃とは段取りやせりふが歌舞伎では変わっている。東京(江戸)式でそのおおよその段取りを述べると以下のようである。

:「進物場」から舞台が回り、「松の間の場」になると思い詰めた若狭之助が長裃姿で[[花道]]より出てくる。すると上手より師直も伴内を連れて現われる。それを見た若狭助は本舞台へと駆けて行き、刀に手をかけて師直を斬ろうとするが、「これはこれは若狭之助殿、さてさてお早いご登城…」などと言いながら師直は卑屈に謝り、伴内も若狭之助にすがりつき止める。結局気勢をそがれた若狭之助は「馬鹿な侍だ!」と、ひと言罵倒して引っ込む。そのあと師直は伴内と「馬鹿ほどこわいものはないなァ」「御意にござりまする」などと話し、伴内が引っ込むと塩冶判官がこれも長裃姿で花道より出てくる。それを見た師直、「遅い遅い」と若狭之助に侮辱された憤懣を判官にぶつける。

:そこへ折悪しくも、その師直へかほよから求愛を断る文が届く(東京の型では、判官はかほよからの文箱を持たずに出る)。かほよから返信がきたことにいったんは気をよくしたものの、例の「さなきだに」の和歌を見てすっかり機嫌を悪くした師直は、かほよのことを引き合いに出して判官に悪口しはじめる。これにむっとするも塩冶判官は抑える。だが「ハハハハハ…師直殿には御酒召されたか」というと師直は「何だ、酒は飲んでも飲まいでも、勤むるところはきっと勤むる武蔵守。コリャお手前、酒参ったか<small>(飲んだか)</small>」と、以下長ぜりふで判官のことを罵り、最後は「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」という。ついに判官が腹に据えかね刀に手をかけるが、師直がそれを見て「殿中だ!」と叫ぶ。殿中での刃傷は家の断絶と、判官は必死にこらえる。それでもなお毒づく師直に耐えかねた判官は、ついに師直へ刃傷におよぶが、下手側に立ててあった衝立の陰から本蔵が飛び出し、判官を抱き止める。師直は上手へと逃げて入り、烏帽子大紋姿の大名たちが大勢出てきて判官を取り囲み止めるところで幕となる。

上方の型では若狭之助が師直を斬るのをあきらめて立ち去ろうとするとき、「昨日鶴岡において拙者への悪口雑言、そのとき斬り捨てんと思えども…」とやや長めのせりふを言い、最後に「馬鹿な侍だ」と言い捨てて引っ込む。[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]はこれを「大坂式」と称している。また上でも述べたように原作では判官がかほよからの文箱を師直に直接渡すが、東京式では判官の役が安く見えるとして、茶坊主が出てその場に届けることになっている。上方では原作通りに判官が文箱を持ち、花道から出てくる段取りである。

この段の師直は原作の浄瑠璃の本文にもあるように、本来は烏帽子大紋の姿であったが、歌舞伎では大紋の長袖では判官にからみにくいという理由で、現行のような着付けに長袴だけの姿となっている。ただし若狭助が引っ込んだ後、判官登場までの間に師直が舞台上に出した[[姿見]]で茶坊主や伴内たちに手伝わせ、長袴だけの姿から烏帽子大紋に着替えるという演出があった。これは「姿見の師直」と呼ばれ、[[尾上菊五郎 (3代目)|三代目尾上菊五郎]]が創作した型だといわれるが、じつは[[中村歌右衛門 (3代目)|三代目中村歌右衛門]]が始めたものである。師直が通りかかる大名たちに挨拶を交わしながら烏帽子大紋に着替え、のちに判官にからむくだりで烏帽子と大紋の上を取るというものだが、明治以降は[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目菊五郎]]と[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目菊五郎]]、その弟子の[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]が演じたくらいで、今日では全く廃れている。しかし歌舞伎における現行の師直の姿は、この「姿見の師直」の着替える前の姿がもとになっているのである。

「裏門」は「どじょうぶみ」のくだりと同様、現行の歌舞伎ではほとんど上演されることがなく、この「裏門」の代わりとして『[[道行旅路の花聟]]』がもっぱら上演されている。

=== 『道行旅路の花聟』 ===
[[Image:Shōroku Onoe II as Sagisaka Bannai.jpg|thumb|right|180px|『道行旅路の花聟』 二代目尾上松緑の鷺坂伴内。]]
これは『仮名手本忠臣蔵』の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 [[清元節]]を使った所作事で、[[天保]]4年(1883年)3月、江戸河原崎座で初演された。このときは『仮名手本忠臣蔵』を「表」すなわち本来の幕とし、その「裏」として段ごとに新たな幕を加えるという「裏表」の趣向で演じられたもので、この『道行旅路の花聟』は三段目の「裏」として出された所作事である。その語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるところから、通称『'''落人'''』(おちうど)という。ただしこの語り出しは、じつは菅専助・若竹笛躬合作の浄瑠璃『けいせい恋飛脚』([[安永]]2年〈1773年〉初演)からの焼き直しである。

内容はおかる勘平が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた鷺坂伴内が二人にからむというものだが、その詞章は三段目の「裏門」から多くを拝借しており、「裏門」を書替えた所作事といえる。初演の役割は勘平が[[市川團十郎 (7代目)|五代目市川海老蔵]]、おかるが三代目尾上菊五郎、伴内が尾上梅五郎であった。以来人気演目として、今日に至るも盛んに上演されている。楽しく色彩豊かな所作事で、さわやかな清元を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。せりふには[[地口]]も盛り込まれており、特に東京でよく出る。[[舞踊]]の定番の演目でもある。

なおこの所作事は、上で述べたように本来ならば三段目のあとに出すべきものであるが、戦後の昼夜二部制の興行では四段目の後に演じられている。つまり『落人』で昼の部を終り、五段目からを夜の部にする構成である。<!--

おかる・勘平が駆け落ちを決行し、鎌倉から[[京都]]付近の山崎まで落ち延びる中途、[[戸塚]](現在の横浜市)での出来事を描いている。戸塚は中途にはないはず、それでは逆戻りになるではないかなどというのは野暮というもの。もともとの設定は「夜」だったが、どう考えても「昼」としか言いようがない科白も出てくるが、これらはすべて[[時代物]]と[[世話物]]を必ず合わせて上演した江戸時代の興行形態の名残りである。通常の「見取り狂言」の枠内でその場その場のみを上演すればまったく問題のない設定でも、「通し狂言」で上演すると前後のつながりが明白なので無理矛盾が生じてしまう。『仮名手本忠臣蔵』は通し狂言で上演されることが比較的多い演目なので、これが目立ってしまうのだ。


演出には三つの形がある。引き幕が引かれると浅黄幕の前で花四天が現れるもの、花四天を省略して浅黄幕だけを見せるもの(浅黄幕が引かれると、おかると勘平が連れ立って歩いている)、そして花四天が嘆き去った後に、花道からまずおかるが、次いで勘平が息荒げに走って現れるもの。
演出には三つの形がある。引き幕が引かれると浅黄幕の前で花四天が現れるもの、花四天を省略して浅黄幕だけを見せるもの(浅黄幕が引かれると、おかると勘平が連れ立って歩いている)、そして花四天が嘆き去った後に、花道からまずおかるが、次いで勘平が息荒げに走って現れるもの。
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幕が反対方向(下手から上手へ)に引かれる。伴内が幕に隠されそうになるが、途中から自分で幕を引く係になってしまう。幕開きの際、通常と逆に上手から下手へ引かれるのもこのためである。無事幕を引き終えて終了。
幕が反対方向(下手から上手へ)に引かれる。伴内が幕に隠されそうになるが、途中から自分で幕を引く係になってしまう。幕開きの際、通常と逆に上手から下手へ引かれるのもこのためである。無事幕を引き終えて終了。


鷺坂伴内はもともと半道敵だが、この段に関しては完全な道化となっており、拵えも異なっている。
鷺坂伴内はもともと半道敵だが、この段に関しては完全な道化となっており、拵えも異なっている。-->


===四段目===
== 四段目・来世の忠義 ==
=== あらすじ<small>(四段目)</small> ===
*別名:扇ヶ谷塩谷館の場
('''花籠の段''')扇が谷にある塩冶判官の上屋敷は、あるじの判官が閉門を命じられたことにより大竹で以って門を閉じ、家中の者たちも出入りを厳重に禁じられていた。
*異名:通さん場
[[File:Act IV.jpg|thumb|330px|「忠臣蔵 四段目」 「花籠」の場面。かほよ御前が夫判官のために花を誂えているところに、原郷右衛門と斧九太夫が参上する。広重画。]]
====解説====
そうして蟄居している判官に、妻のかほよ御前は夫の心を慰めようと、八重桜を籠に生けて判官へ献上しようとするところに、諸士頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が参上する。郷右衛門によれば本日上使が館に来るとの知らせ、閉門を赦すという御上使であろうと郷右衛門はいうが、九太夫はそうではあるまいと打ち消し、師直に賄賂でも贈っておけばよかったなどという。これに郷右衛門は腹を立て九太夫と言い争いとなるのをかほよがなだめ、事の起こりはこのかほよから、あの「さなきだに」の和歌を師直に送らなければこんなことには…と嘆くのであった。そこへ「御上使のお出で」という声がするので、かほよをはじめとして人々は座を改め、上使を迎える。
その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への扉を閉じて、遅刻してきても途中入場は許されない。[[出方]]からの弁当なども入れない。塩谷判官切腹という厳粛な場面があるためである。また、塩谷判官の役には厳しい口伝があり、出が終わった後には誰にも顔を合わせず口をきかず、すぐに家に帰らなければならない。江戸時代にはこれが堅く守られていた。


('''判官切腹の段''')足利館から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べ、師直とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。一間より判官が出てきて上使に応対する。判官は[[切腹]]、その領地も没収との上意を申し渡される。これには同席していたかほよはもとより、家中の者たちも驚き顔を見合わせるが、判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」と述べた。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束があらわれる。判官はこの場で切腹するつもりだったのである。だがせめて家老の大星由良助が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。
====花献上・花籠の段====
[[File:Kuninao Act Four Shidamme.jpg|thumb|330px|「浮絵忠臣蔵 四段目」 判官切腹の場面。室内の様子を一点透視法を強調した[[浮絵]]という技法によって描いたもの。座敷中央奥に判官、その右傍らには上使の石堂と薬師寺が並ぶ。力弥は画面左側、手前から判官のいる奥へと歩む。[[歌川国直]]画。]]
歌舞伎では花献上、浄瑠璃では花籠の段。蟄居して悶々と暮らしている判官に、腰元たちが一輪ずつ花を献上して慰める。通常は省略される。切腹の前にほっと心の安らぐ場面。
判官は力弥に尋ねた。「力弥、力弥、由良助は」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存命に対面せで残念、残り多やな。是非に及ばぬこれまで」と、遂に刀を腹に突き立て、近くにいたかほよがそのさまを正視できず目に涙して[[念仏]]を唱える。そのとき大星由良助が国許より駆けつけ、後に続いて一家中の諸士たちが駆け入った。「ヤレ由良助待ち兼ねたわやい」「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」「オオ我も満足…定めて仔細聞いたであろ。エエ無念、口惜しいわやい」…と判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」とのどをかき切って事切れた。由良助はその刀を主君の形見として押し頂き、無念の涙をはらはらと流すのだった。だがこれで判官の、余の仇を討ての命が伝わったのである。


石堂は由良助に慰めの言葉をかけ、薬師寺とともに奥に入った。上使の目を憚っていたかほよ御前はそれを見て、とうとうこらえきれず「武士の身ほど悲しい物のあるべきか」と判官のなきがらに抱きつき、前後不覚に泣き崩れるのだった。判官の遺骸は塩冶家菩提所の光明寺へと埋葬するため、駕籠に乗せられるとかほよも嘆きつつそれに付き添い館を出て、光明寺へと急ぐ。
====判官切腹====
将軍家から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が来訪、情け深い石堂に比べ、薬師寺は意地が悪い。判官は粛々と応対し、[[切腹]]を申し付けられる。家老の大星由良助が来るまではと待つが、なかなか現れず、「力弥、力弥、由良助は」「未だ参上仕りませぬ」「存命に対面せで、無念なと伝えよ。方々いざ、ご検分くだされ」と遂に短刀を腹に突き立てたときに由良助が駆けつける。「由良助か」「ハハッ」「待ちかねたわやい、何かの様子はきいたであろうな」「今はただ申すべきこともなく、尋常なるご最期を願わしゅう存じまする」判官は薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り「この九寸五分は汝が形見。切って恨みを晴らせわやい」と由良助に短刀を形見に渡し、由良助は胸を叩いて平伏する。これで判官の余の仇を討ての命令が下されたのである。判官は会心の笑みを浮かべて息絶える。成句「遅かりし由良之助」の語源である。由良助はここで初めて登場する。


('''評定の段''')そのあと、一家中で今後のことについての会議をすることになった。由良助は家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫はせがれの定九郎とともに立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」も、もう今日で見納めかと名残惜しげに館を出る。
====評定====
[[Image:Tsujiokaya Kamekichi - Kanadehon chushingura - Walters 95115.jpg|thumb|right|330px|「仮名手本忠臣蔵 四段目」 いよいよ屋敷を明け渡す段となるが、なおも名残惜しそうに屋敷を見る由良助たち。現行の文楽と歌舞伎では由良助ひとりだけとなって門前から去ってゆくが、原作の浄瑠璃の本文ではほかの諸士たちとともに立ち去るように書かれているので、この絵の描写でも誤りではない。国芳画。]]
判官の遺骸が片づけられ、石堂は由良助に慰めの言葉をかけ薬師寺とともに奥に下がる。顔世御前が悄然と場を離れたあと、城明け渡し対応の会議をする。由良助はもう一人の家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫は立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに初めて主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」もう今日で終わりかと名残惜しげに去る。
('''城明け渡しの段''')表門の前では屋敷明け渡しに反対する力弥ら若侍たちが険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。そこへ出てきた由良助は判官が切腹に使った刀を見せ、師直に返報しこの刀でその首をかき切ろうと説得するので、人々は「げにもっとも」とその言葉に従う。だが屋敷の内には薬師寺が、「師直公の罰があたり、さてよいざま」というとどっと笑い声が起こる。その悔しさに屋敷内へと駆け込もうとする諸士を由良助はとどめ、「先君の御憤り晴らさんと思う所存はないか」というので皆は無念の思いを抱きつつも、立ち去るのであった。


⇒([[#あらすじ(五段目)|五段目あらすじ]])
====城明け渡し(扇ヶ谷表門の場)====
表門では仇討に意気込む息子力弥ら家臣達が険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。由良助は郷右衛門らとみんなを説得させ退場させた後、一人残る。紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓うのである。釣鐘の音、烏の声に見送られ、由良助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、門が引かれ無音で幕がしまる。(上方は柝を打ち続く)懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって去って行く。


=== 解説<small>(四段目)</small> ===
上方では、1枚の板に門が描かれ、上半分をかえすと門が小さく描かれる「アオリ」を用い、どんどん門が遠くなっていく様を表している。
原作の浄瑠璃では最初にかほよ御前が花を誂える「花籠の段」があり、切腹の前のほっと心の安らぐ場面といえるが、歌舞伎では「花献上」とも呼ばれるこの場面は通常省略される。ここに組頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が訪れ、九太夫は師直に賄賂を贈っておけばよかったなどという。この斧九太夫のモデルとなったのは赤穂藩家老の大野九郎兵衛で、判官切腹後の「評定」においても、亡君のあだ討ちより自分も含めた家中の諸士に金を配り、すみやかに屋敷を明け渡そうというなど、後の「忠臣蔵」の物語に見られる大野九郎兵衛のイメージがすでに描かれているといえよう。なお原作の浄瑠璃では、このあと五段目に出てくる九太夫のせがれ斧定九郎も「評定」に同席しているが、現行の舞台では出てこない。また現行の文楽では「評定」はふつう省略される。


この四段目は異名を「通さん場」ともいう。その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への出入りを禁じ、遅刻してきても途中入場は許されない。[[出方]]からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。<!--また、塩冶判官の役には厳しい口伝があり、出が終わった後には誰にも顔を合わせず口をきかず、すぐに家に帰らなければならない。江戸時代にはこれが堅く守られていた。-->成句「遅かりし由良之助」の語源である由良助はここで初めて登場する。
このときの烏の声は舞台裏で笛を吹く。[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]の門人[[中村秀十郎]]は烏笛の名人だった。


原作の浄瑠璃では「花籠」からそのまま同じ場面で判官が切腹するように書かれているが、歌舞伎では「花献上」と「判官切腹」とは場面を分け、いったんかほよ以下の人物たちが引っ込むと襖や欄間などを「田楽返し」の手法で変え、「判官切腹」の場になったという。またかほよ御前は原作では「花籠」からそのまま上使を出迎え、判官の切腹にも嘆きつつ立ち会う。そして判官が事切れそのなきがらが駕籠に乗せられると、それに付き添って館を出ることになっているが、現行の歌舞伎では上使の石堂と薬師寺が引っ込んだあと、葬礼を表す白無垢の衣類に切髪の姿ではじめて舞台に現われ、由良助に向って「推量してたもいのう」などと嘆きつつ声を掛け、そのあと焼香などあって駕籠に付き添い引っ込むという段取りとなっている。
===五段目===
*別名:山崎街道の場
*上方での別名:濡れ合羽
ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。全段を通じて創作である。


「城明け渡し」では、原作の浄瑠璃では由良助は家中の侍たちとともに門前を立ち去るが、現行の歌舞伎では由良助は力弥を含めた諸士を説得させその場を去らせた後、一人残って紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓う。この場の侍たちは由良助の説得に「でも」と揃って言葉を返そうとするところから、「デモ侍」と俗称される。現行の文楽においては「デモ侍」は登場せず、歌舞伎と同じく由良助ひとりだけで立ち去る。
勘平は猟師となり、おかると夫婦になる。勘平はこの時点で、師直への仇討ち謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。おかるの父与市兵衛は、勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋におかるを百両で売り飛ばす交渉に成功した。与市兵衛は遊郭から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途につく。


由良助が門前から立ち去るべく歩み始めると、表門が遠ざかってゆく。実際には表門の大道具を次第に舞台奥へと引いてゆくのであるが、上方の型では1枚の板に門を描いた大道具で、それが上半分が折れてかえすと小さく描かれた門になる「アオリ」を用い、どんどん門が遠ざかってゆく様を表す。もっとも[[尾上梅幸 (6代目)|六代目尾上梅幸]]によれば、表門を奥へと引くようになったのは[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]が由良助を演じた時に始めたことで、それまでは東京(江戸)でも上方式の「アオリ」だったという。
時は[[旧暦]]6月29日(現在の真夏、7月~8月)の深夜。天気は雨、強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。


歌舞伎では釣鐘の音、烏の声に見送られ(これは舞台裏で烏笛という笛を吹く)、由良助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、そのあと柝無しで幕を引く(上方は柝を打つ)。幕外、懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって花道を引っ込む。
====鉄砲渡し====
勘平は、この山崎で狩人(猟師)をして収入を得ている。あまりに雨が強いので、松の木の下で雨宿り。うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく灯り(提灯)を持った男が通りがかるではないか。「その火を貸してください」しかし、男は銃を所持している勘平を山賊だと思い込み、「俺はその手(軽く話しかけておいて、油断させる手口)は食わない、あっちに行け」と追いやる。勘平は、「自分は猟師だがこういう場所では盗賊と間違われるのも無理はない」と言い、鉄砲を男に渡してしまう。「武器はあなたに渡しましたから、私は丸腰ですよ。私はその火縄銃に種火をつけて欲しいだけ。あなたが火をつけて私に渡してくださいな」と言ったところで二人が顔を見合わせると、なんと二人は顔見知り。かつての塩谷判官の家臣,早野勘平と千崎弥五郎だった。


この「城明け渡し」の表門には、太い青竹2本を門の扉に筋違いに打ちつけて出入りさせない様を見せることがあるが、これは上方の型と文楽で見られるものであり、東京の舞台ではこの青竹は江戸の昔から用いられない。閉門となった武家の表門には、実際に上記のごとく青竹を打ちつけた。江戸では[[旗本]]のほか諸藩の武士も多く集まるところから、それら武士の目に遠慮して「青竹」を見せなかったという。それは、たとえ芝居の上の絵空事であろうとも閉門を意味するこの「青竹」は、大名旗本に仕える武士にとっては目にしたくないものだったからだといわれている。大坂あたりでは町人が中心の都市だったので、これをさして気にもせず舞台で見せていたようである。当時お家(大名家)がお取り潰しになるということは、現代の大企業が倒産するといった以上の衝撃を世間に与えていたのであり、そのお取り潰しとなる様子を脚色して見せたのが『忠臣蔵』だったのである。
勘平は、「仇討ちの謀議にぜひ加わらせてくれ、連判状に自分も加えてくれ」と頼む。千崎は「コレサ、コレサ、勘平、はてさて、お手前は身の言いわけに取り混ぜて、御くわだての、連判などとは、何のたわごと」とわざととぼけ、亡君の石碑建立の御用金を集めている。合点か。と謎を掛ける。勘平は、すべてを飲み込み、金を用立てすると約束し、現在の住処を教える。千崎も承知し両名は別れる。


====二つ玉====
== 五段目・恩愛の二つ玉 ==
=== あらすじ<small>(五段目)</small> ===
この部分は
('''鉄砲渡しの段''')鎌倉より駆け落ちしたおかると勘平は、山城国山崎のおかるの実家にたどり着き、ふたりは夫婦となって暮らしていた。勘平は身過ぎとして猟師になり、この山崎のあたりで鹿や猿などを[[鉄砲]]でしとめ、今日も山中に獲物を求めて歩いている。だがそこへ六月(旧暦)の夕立に出くわし、あまりの雨の勢いの強さに松の木の下で雨宿りをする。だが雨はなかなか止まず、すでに日は暮れ夜になっていた。
*本行
[[Image:Tsujiokaya Kamekichi - Kanadehon chushingura - Walters 95116.jpg|thumb|right|330px|「仮名手本忠臣蔵 五段目」 鉄砲を持って狩をする勘平は、思いがけず以前の朋輩千崎弥五郎と出会う。国芳画。]]
*[[中村仲蔵 (初代)|初代中村仲蔵]]より前の演出(現在でも上方歌舞伎に残る)
うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく[[提灯]]を持ち合羽を着た男が通りがかるではないか。勘平はその提灯の火を分けてもらおうと、「イヤ申し申し。卒爾ながら火を一つ」とその男に近寄る。しかし男は鉄砲を所持している勘平を山賊だと思い込み身構え、「びくと動かば一討ち」と勘平を睨みつける。勘平は、こういう場所では盗賊と間違われるのも無理はないと思い、「鉄砲それへお渡し申す。自身に火を付けお貸し…」と言ったところで男が勘平の顔を見て、「早の勘平ならずや」と声を掛けた。なんと二人は顔見知り、この男はかつての塩冶判官の家臣、千崎弥五郎だったのである。
*初代中村仲蔵以後の演出(江戸歌舞伎)
がそれぞれ異なった演出となる。すなわち、六段目に次いで、江戸・上方の型が大きく異なるところである。


勘平は思いがけない朋輩との再会に驚き、しばしうつむいて言葉もなかった。お家の大事に有り合せる事ができず、こうして時節を待って主君判官にお詫びしようと思いのほか、ご切腹となってしまった。それというのもみな師直のせいとは聞いたが、どうすればその返報ができるだろうかと考えていたところ、仇討ちの謀議があるとの噂を聞いたので、ぜひともその連判状に加えてくれと勘平は千崎に頼む。千崎はそんな勘平の様子を見て不憫とは思ったが、かつての朋輩といえども仇討ちの大事を軽々しく口にはできぬと思い、「コレサコレサ勘平、はてさて、お手前は身の言い訳に取りまぜて、御企ての、連判などとは何のたわごと」とわざととぼけ、亡君の石碑建立の御用金を集めている…合点かと謎を掛ける。すなわち仇討ちのための資金を集めているということである。勘平はそれを飲み込み、その金を用立てると約束して今の住いを教える。千崎も承知し両名は別れた。
三人の登場人物が出てくるが、この三人を一人の役者が早替わりで勤めるというのも繰り返しとられる形である。
[[Image:Brooklyn Museum - Illustration from Chushingara Series - Utagawa Toyokuni I.jpg|thumb|right|330px|「忠雄義臣録 第五」 雨の降る夜道を急ぐ老人の後ろを、蛇の目傘をさした定九郎が追いかける。[[歌川国貞|三代目歌川豊国]]画。]]
('''二つ玉の段''')<!--「又も振りくる雨の足、人の足音とぼとぼと、道の闇路に迷わねど、子ゆえの闇に突く杖も。直ぐなる心、堅親父」の床の浄瑠璃となる。-->二人が別れて去ったあとまた雨の降りだす夜道を、杖をついて老人がやってきた。そこへもうひとり、「オオイ親父殿、待って下され」の声とともに怪しげな男が追いかけてくる。男は斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。
[[File:Act V.jpg|thumb|330px|right|「忠臣蔵 五段目」 老人から金を奪おうとする定九郎。広重画。]]
「さっきにから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十[[両]]のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「エエ聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付き上がる。サアその金をここへまき出せ。遅いとたった一討ち」と無残に斬りつけ、老人が自分の娘の婿のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を近くの谷底に蹴り落とした。


だがそのうしろより、逸散に来る手負いの[[猪]]。定九郎はあやうくぶつかりそうになるのをよけ、猪を見送った。その瞬間、定九郎の体を二つ玉の弾丸が貫く。悲鳴を上げる暇もなく、定九郎はその場に倒れ絶命した。
;あらすじ
おかるの父与市兵衛は、勘平に渡すための金五十両を運んでいた。そのまま勘平に金が渡されればなんとも無い話である。ところが、道中山賊(盗賊)に殺され、金を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、盗賊を[[イノシシ|猪]](しし)と間違えて偶然に誤射し、これも殺してしまう。勘平は盗賊が大金の入った財布を持っていることに偶然に気づき、持ち主を失ったその財布を横領してしまう。かくして、金五十両は勘平に直接渡らず盗賊を経由したがために、犯罪の金となってしまう。


定九郎が倒れている場所に、猪を狙って鉄砲を撃った勘平がやってくる。猪を射止めたと思う勘平は闇の中を、猪と思しきものに近づきそれに触った。猪ではない。「ヤアヤアこりゃ人じゃ南無三宝」と慌てるが、まだ息があるかもと定九郎の体を抱え起こすと、さきほど定九郎が老人より奪った財布が手に触れた。掴んでみれば五十両。自分が求める金が手に入った。「天の与えと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける」。
後でそれが大変な悲劇、つまり六段目の勘平自殺につながる。すなわち、三人の登場人物はこの段、またはその次の段で全員死ぬことになる。鉄砲渡しの千崎も(物語には書かれないが)切腹自殺で終える。唯一死なないのは、猟師勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで、江戸時代に以下のような戯れ歌ができた。


⇒([[#あらすじ(六段目)|六段目あらすじ]])
五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり


=== 解説<small>(五段目)</small> ===
=====本行=====
ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。この五段目の舞台となるのは「山崎街道」であるが、山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは[[山陽道]]のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い[[山崎の戦い]]など、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は[[横山峠]]、すなわち現在の京都府[[長岡京市]]友岡二丁目の周辺であり、[[大山崎町]]ではない。
[[File:Act V.jpg|thumb|400px|right|[[歌川広重]]『忠臣蔵_五段目』より定九郎と与市兵衛]]
「又も振りくる雨の足、人の足音とぼとぼと、道の闇路に迷わねど、子ゆえの闇に突く杖も。直ぐなる心、堅親父」の床の浄瑠璃となる。花道より与市兵衛が現れる。上記のとおり、金を持っている。そこへ「おーい親父殿、待って下され」の声とともに怪しげな男が追いかけてくる。男は斧九太夫の息子・定九郎。親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。「こなたの懐に金なら四五十両のかさ、縞の財布にあるのを、とつくりと見、つけてきたのじゃ、貸してくだされ」と無理やり懐から財布を取りだす。抵抗する与市兵衛に「エエ聞き分けのない。むごい料理をするが嫌さに、手ぬるう言えばつき上がる。サア、この金をここに出せ。遅いとたつた一討ちと、二尺八寸拝み打ち」と無残に斬りつけ、むごたらしく殺す。定九郎は与市兵衛の懐に手を伸ばし、財布を頂戴する。中身を確かめて「五十両」とほくそ笑む。
そこへ「はねはわが身にかかるとも、知らず立ったるうしろより、逸散に来る手負い猪。これはならぬと身をよぎる。駆け来る猪は一文字」の床の言葉どおり、猪が走ってくる。定九郎は草むらに隠れる。猪が現れて舞台の中を駆け抜ける。猪は上手に消える。定九郎は猪から逃げようと後ろ向きながら立ち上がる。その姿は猪のようである(猪のように見せなくてはならない)。ぬかるみに片足を取られてよろめく。


ところで、この五段目の定九郎に惨殺される老人とは何者か。後の解説に差し障るので先に白状すると、これはおかるの父与市兵衛である。その与市兵衛が雨の降る暗い中を、五十両という大金を持って道を急いでいるのはなぜか。その仔細は六段目で明らかになる。
鉄砲の音とともに、定九郎、血を吐きあおむけに倒れこむ。


五段目とこのあと続く六段目の勘平の型は三代目尾上菊五郎が演じたものを濫觴としており、これを五代目菊五郎が受け継ぎ、さらにその息子の六代目菊五郎が演じて完成させたもので、現行の東京式ではこれ以外の勘平の型はない。五代目尾上菊五郎は九代目市川團十郎とともに「[[團菊]]」とならび称された名優である。
鳥屋から出てきたのは、今発射したばかりの火縄銃を抱えた勘平。片手で火のついた火縄の真ん中を持ち、先端をぐるぐると回しながら花道を通る。舞台で火縄銃の火を消し獲物に縄をかけるも、どうやら様子が変だ。「コリャ人!」薬はないかと死者の懐を探り財布の金を探し当て、自身が求める金が入ったと喜び「天の助けと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける。」の床の浄瑠璃通り花道を引っ込む(非常に技巧的に難しい)。


「鉄砲渡し」は上方では「濡れ合羽」ともいう。千崎弥五郎は東京の型では蓑を着ているが、上方では合羽を着ているからである。時は[[旧暦]]の「六月二十九日」(現在の真夏、7月~8月)の深夜。この日が「六月二十九日」だったというのは、のちの七段目に出てくる。旧暦([[太陰太陽暦]])の「二十九日」は月の出ない暗闇である。天候は強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。幕が開いて最初は勘平が笠で顔を隠し、時の鐘で笠をどけて顔を出す。まっ暗闇の舞台に勘平の白い顔が浮かび上がる優れた演出である。
=====上方歌舞伎の演出=====
定九郎が与市兵衛に声をかけることは無い。冒頭、与市兵衛が現れてしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与市兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与市兵衛を刺し殺す。定九郎は、与市兵衛を殺すまで一言も発しない。


「二つ玉」のくだりについては、現行の歌舞伎においては上で紹介した原作のあらすじからはかなり違った内容となっている。それは具体的には定九郎の演技にかかわる部分で、東京(江戸)での型、いまひとつは上方に残る型である。三人の人物が出てくるが、まずは現行の東京式の段取りを紹介すると次のようになる。
また、定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常、この役は端役として大部屋役者に割り当てられる。[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]は勘平、与市兵衛、定九郎三役早変わりの演出を行っていた。この型は[[實川延若 (3代目)|三代目實川延若]]を経て今日では[[坂田藤十郎 (4代目)|四代目坂田藤十郎]]に伝わっている。関西歌舞伎らしい見せ場に満ちたつとめ方である。


:「鉄砲渡し」で勘平と千崎が別れて引っ込んだあと、舞台が回って舞台中央に稲束のかかった稲掛け、その左右に草むら等のある舞台面となる。与市兵衛が花道より出てきてそのまま本舞台に行き、稲掛けの前で休もうと座る。そこでいろいろとせりふがあって、最後に与市兵衛が財布を押し頂くと、後ろの稲掛けより手が伸びて財布を奪う、与市兵衛は驚いて稲掛けの中に入ろうとする。と、与市兵衛が刺されてうめき声を上げ倒れ事切れる。そして稲掛けの中から財布を咥え、抜き身を持った定九郎が現われ、着物の裾で刀の血糊を「忍び三重」という[[下座音楽]]に合わせてぬぐい、財布の中身を探って「五十両…」というせりふ。原作と違って定九郎が与市兵衛を追いかけ、声をかけることは無い。
=====江戸歌舞伎の演出=====
初代中村仲蔵は、定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目の役にした。黒羽二重の衣装で、非常に男前である。そもそも定九郎は、勘当される前は高級武士の息子だった。以後、定九郎は若手人気役者の役となった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世した。


:その場を立とうと定九郎は与市兵衛の死骸を草むらに蹴り込み、蛇の目傘を差して花道にかかるが、<!--「はねはわが身にかかるとも、知らず立ったるうしろより、逸散に来る手負い猪。これはならぬと身をよぎる。駆け来る猪は一文字」の竹本の文句どおり、-->花道向うから猪が走ってくる様子に定九郎は慌て、本舞台に戻り稲掛けの中に隠れる。猪が現れて舞台の中を駆け抜ける。猪は上手に消える。定九郎は猪から逃げようと稲掛けの中から後ろ向きに出かかり立ち上がる。その姿は猪のようである(猪のように見せなくてはならない)。と、ぬかるみに片足を取られてよろめく。すると「二つ玉」の鉄砲の音とともに、定九郎、血を吐きあおむけに倒れこむ。
[[市川團十郎 (9代目)|九代目市川團十郎]]は演出変更を多くおこなった。その一つが金を数える定九郎の科白である。「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり、全編を通して、定九郎の科白がたった一つだけになったのである。


:花道から出てきたのは、今発射したばかりの鉄砲を抱えた勘平。片手で火のついた火縄の真ん中を持ち、先端をぐるぐると回しながら花道を通る。舞台で鉄砲の火を消し獲物に縄をかけるも、どうやら様子が変だ。「コリャ人!」薬はないかと死者の懐を探り財布の金を探し当て、いったんは財布を戻して去ろうとするが再び戻って財布を手にし、「天の助けと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに」の浄瑠璃通り花道を引っ込む(非常に技巧的に難しい)。
「二つ玉」の名の通り、江戸歌舞伎では勘平は銃を二発発射する。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し、一発しか撃たない。


上方歌舞伎の演出はこれとはまた違っている。与市兵衛が現れて稲掛けの前にしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与市兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与市兵衛を刺し殺す。定九郎は、やはり与市兵衛を殺すまで一言も発しない。また、定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常、この役は端役として大部屋役者に割り当てられる。[[實川延若 (2代目)|二代目實川延若]]は勘平、与市兵衛、定九郎三役早替りの演出を行っていた。この型は[[實川延若 (3代目)|三代目實川延若]]を経て今日では[[坂田藤十郎 (4代目)|四代目坂田藤十郎]]に伝わっている。関西歌舞伎らしい見せ場に満ちたつとめ方である。
現行の『忠臣蔵』の演出は、[[尾上菊五郎 (5代目)|五代目尾上菊五郎]]が完成させたもので、江戸歌舞伎にこれ以外の型はない。五代目尾上菊五郎は九代目市川團十郎とともに「[[團菊]]」とならび称される名優である。<!--なお、松嶋屋は[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]が東京の役者のため、弾の発射回数以外は完全に江戸歌舞伎(五代目菊五郎)の型である。 ??? -->
[[ファイル:SHUNSHO-Nakamura-Nakazo.jpg|200px|thumb|初代中村仲蔵の斧定九郎。[[勝川春章]]画。]]
 
[[中村仲蔵 (初代)|初代中村仲蔵]]はこの定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目風の役にした。五段目の定九郎はもとはどてら姿のいかにも山賊らしい拵えだったのが、仲蔵は黒羽二重の着付けに刀を落とし差しにし、[[月代]]の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたのである。そもそも定九郎は、勘当される前は家老の息子である。この仲蔵がはじめた拵えは「仲蔵型」と呼ばれ、以後ほかの役者もこの姿で演じるようになり、定九郎は若手人気役者の役ともなった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世する節目となる役であった。なお「仲蔵型」は文楽にも逆輸入され演じられている。
「鉄砲渡し」の最初は勘平が笠で顔を隠している。時の鐘で笠をどけて顔を出す。まっ暗闇の舞台に勘平の顔が浮かび上がる優れた演出である。
===== 挿話 =====
猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。昔、ある大部屋役者が猪役に出ることになって、花道のかかりで待機していたら寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花見から舞台に走り出したら、丁度四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し劇がむちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」に聞こえてしまったのである。


ただし仲蔵はその扮装を大きく変えはしたものの、実際には上で紹介した原作の内容通りに演じたようである。定九郎が現在のように稲掛けから現れるようになったのは、[[市川團蔵 (4代目)|四代目市川團蔵]]が定九郎と与市兵衛を早替りでやったときの型が伝わったもので、稲掛けの中で与市兵衛から定九郎へと早替りして出た。この早替りでの段取りを、定九郎と与市兵衛を別々の役者で演じても使うようになったのである。
ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕係がお前にも中村屋や成田屋みたいに声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろと思った。いよいよ本番、猪が花見から飛び出した。すると揚幕係が「ももんじ屋!」場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。


その段取りから九代目市川團十郎は、さらに演出変更を多くおこなった。その一つが金を数える定九郎の科白である。「五十両、かたじけない」というせりふだったのを、「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり歌舞伎では全編を通して、定九郎の科白が「五十両」たった一つだけになったのである(現行では、四段目に定九郎は出ない)。
昔はかなりいい加減な演出が行われていた。ある猪役の役者は本舞台にかかると、松の木に手をかけ見得をして「あすこに見えるは芋畑。どりゃひとつ食べてみるべえかい」と[[科白]]を廻したこともある。


ところで従来から問題になっているのが、「二つ玉」についての解釈である。浄瑠璃の本文では「…あはやと見送る定九郎が、背骨をかけてどっさりと、あばらへ抜ける二つ玉」とあり、「玉」とは鉄砲の弾丸のことだが、この「二つ玉」の「二つ」が何を意味するかで解釈が分かれている。江戸歌舞伎では「二つ」とは回数のことだとして勘平は鉄砲を二発発射する。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し、一発しか撃たない。『浄瑠璃集』(『新潮日本古典集成』)の注では「二つ玉」について『調積集』を引き、それによれば弾丸と火薬を二発分、銃にこめて撃つことであるとしている。<!--なお、松嶋屋は[[片岡仁左衛門 (13代目)|十三代目片岡仁左衛門]]が東京の役者のため、弾の発射回数以外は完全に江戸歌舞伎(五代目菊五郎)の型である。 ??? -->
====背景説明====
山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは[[山陽道]]のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い[[山崎の戦い]]など、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は、[[横山峠]]、すなわち現在の京都府[[長岡京市]]友岡二丁目の周辺であり、[[大山崎町]]ではない。


原作では「飛ぶがごとくに急ぎける」と、金を手にした勘平はすぐさまその場を走り去るが、歌舞伎では探り当てた財布をいったん手放して花道へと行き、しかし「あの金があれば…」と考えてまた戻り、金を手にすると花道を駆けて引っ込む。そのまま何の気兼ねも無く金を持っていったのでは、のちの六段目の勘平に同情が集まらないということで工夫された型である。これも三代目菊五郎の工夫と伝わる。
与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない。<!--


== 六段目・財布の連判 ==
(参考)『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊 (この本では観光名所として取り上げられている)-->
=== あらすじ<small>(六段目)</small> ===
('''身売りの段''')勘平が定九郎を誤って撃ち、その懐から金を奪って去った夜、その夜も明けて朝が来た。ここは勘平夫婦が身を寄せているおかるの親与市兵衛の家である。


寝床より起きたおかるが身仕舞いをすますところに、与市兵衛の女房でおかるの母が帰ってきた。与市兵衛は前日から出かけており、それがもう戻ってもよい時分なのにまだ帰らないので、母が近くまで様子を見に行っていたのだった。与市兵衛を案じる母と娘が話をする中、そこに京の[[祇園|祇園町]]から人が訪れる。それは女郎屋一文字屋の主人であった。
===六段目===
[[Image:Mataichirō Hayashi II.jpg|thumb|right|180px|「六段目」 [[林又一郎 (2代目)|二代目林又一郎]]の勘平。着ていた蓑を鉄砲にくくりつけ、それを担いで帰ってきた。]]
[[Image:ToyokuniActor.jpg|thumb|right|200px|初代尾上榮三郎の早野勘平(初代豊国画)]]
おかるは、じつはこの一文字屋に女郎として身を売ることになっていた。与市兵衛はその相談に京の都まで行き、一文字屋におかるの身売りを条件に百両の金を貸してくれるよう頼んだので、一文字屋は与市兵衛と証文を交わし、前金として五十両の金を渡すと与市兵衛は喜んで帰っていった。それが昨夜の四つ時のことである。だがその与市兵衛はまだ戻らない。とにかく証文を交わして金を渡したからにはもはやこちらの奉公人、おかるは連れて行くと一文字屋は後金の五十両を出し、母親が止めるのも聞かずに同道してきた町駕籠におかるを押し込みこの家を立とうとする。そこへ鉄砲を持った勘平が帰ってきた。
*別名:早野勘平住家の場
*別名:早野勘平腹切の場
*異名:愁嘆場
おかるは祇園女将お才と源六とともに売られていく。勘平も仇討のため身を売った女房の心遣いに感涙する。そこへ戸板に乗せられた与市兵衛の死骸が運ばれ大騒ぎとなる。勘平が持っていた財布から、射殺したのは舅ではないかと姑のおかやに疑われてしまう。勘平も夜の闇の中で何者か知らないで取った財布だけに、自身が義父を殺害したものと思い込んで動転してしまう。そして訪れた同志(二人侍 千崎弥五郎、原郷右衛門)からも、駆け落ち者からの金は受け取れない、ましてやそのために悪事を働くとは何事か。「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ、舅を殺し取ったる金、亡君の御用金となるべきか。亡君の御恥辱。いかなる天魔が見入れし」とさんざんに責められる。


勘平はこの場の仔細を聞いた。おかるの母は、兼ねてから勘平には金が要る事があると以前から娘おかるから聞いていたので、どうにかしてそれを工面してやりたいと思っていたが、ほかに当てもない。そこで与市兵衛が娘を売って金にして婿の勘平に渡そうと考え、昨日からその与市兵衛が祇園町まで行きこの一文字屋と話をつけ、前金の五十両を受け取ったはずだがまだ戻らないと勘平に話す。勘平は与市兵衛夫婦の心遣いに感謝し、与市兵衛がまだ戻らぬうちは女房は渡せないという。
切羽詰った勘平は切腹。やがて勘平の疑いは晴れ、知らぬうちに養父の仇討をしたことが分かる。だが遅すぎた。同志の心遣いで瀕死の勘平の名は討ち入りの連判状に加えられる。涙にくれるおかやと同志に見守られながら勘平は息絶え「さらば、さらば、おさらばと見送る涙、見返る涙、涙の、波の立ち帰る人も、哀れはかなき」という悲痛な浄瑠璃で幕となる。


だが、一文字屋の話に勘平は愕然とする。
切腹し瀕死の勘平が後悔にふける「いかばかりか勘平は色にふけったばっかりに」という科白が有名。
勘平の切腹はいわゆる[[手負事]]であるが、
上方と関東では演出がかなり違う。たとえば、勘平が刃を腹につきたてるのは、関東では「うちはたしたは舅どの」の科白で同志が「なな何と」と叫ぶのをきっかけに行い、傷を調べ勘平の無実が晴れるのはそのあとである。上方では同志が与市兵衛の傷を改めている間、勘平の無実が晴れる寸前に行う。これは「いすかの嘴の食い違い」という浄瑠璃の言葉どおりに行うという意味である。また勘平の死の演出は、「哀れ」で本釣鐘「はかなき」で喉を切りおかやに抱かれながら手を合わせ落ちいるのが現行の型だが、這って行って平服する型(二代目実川延若)もある。これは武士として最期に礼を尽くす解釈である。また、上方は、勘平の衣装は木綿の衣装で、切腹ののち羽織を上にはおる。最後に武士として死ぬ意味である。関東は、お才らのやりとりの時に水色の絹の衣装に着替える。この時点で武士に戻るという意味であり、光沢のある絹の衣装で切腹するという美しさを強調している。論理的な上方と耽美的な関東の芸風の相違点がうかがわれる。


与市兵衛は五十両の金を持っていく時、手ぬぐいを金にぐるぐる巻いて懐に入れた。それでは危ないと一文字屋は与市兵衛に財布を貸した。与市兵衛はその財布に五十両を入れて持って帰った。その財布とはいま自分が着ているものと同じ縞模様の布地だという。まさか…と勘平は昨夜の死体(定九郎)から自分が奪った財布をこっそり見た。見れば一文字屋が着ているものと全く同じ色と模様。なんということだ、昨夜自分が鉄砲で撃ち殺し、その懐から金を奪ったのは他ならぬ舅どの…!
勘平は[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]、[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]、二代目實川延若、[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]がそれぞれ名舞台だったが、抜群なのは[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]の型である。菊五郎は絶望の淵に墜ちていく心理描写を卓抜した表現でつとめ、現在の基本的な型をなっている。おかやは老巧な脇役がつとめることで勘平の悲劇が強調されるのでかなりの難役である。戦前は[[市川延女 (初代)|初代市川延女]]、戦後は[[尾上多賀之丞 (2代目)|二代目尾上多賀之丞]]、[[上村吉彌 (5代目)|五代目上村吉彌]]が有名、今は[[中村又五郎 (2代目)|二代目中村又五郎]]が得意とする。祇園一力の女将お才は花車役という遊里の女を得意とする役者がつとめる。[[片岡我童 (13代目)|十三代目片岡我童]]や[[澤村宗十郎 (9代目)|九代目澤村宗十郎]]が艶やかな雰囲気でよかった。お才につきそう判人源六は古くは名脇役[[尾上松助 (4代目)|四代目尾上松助]]の持ち役だったが、戦後は[[尾上鯉三郎 (3代目)|三代目尾上鯉三郎]]が苦み走ったよい感じを出していた。


あまりのことに放心する勘平に、おかるは父与市兵衛に会わずこのまま行ってよいものかどうか尋ねる。勘平は、じつは与市兵衛には今帰った道の途中で出会ったから、安心するようにと、やっとの思いでいう。おかるはその言葉で納得し、夫や親との別れを惜しみながらも、一文字屋の用意した駕籠に乗って京の祇園町へとは向かうのだった。
===七段目===
*別名:祇園一力の場
*異名:茶屋場
一方、由良助は仇討ちを忘れてしまったかのように[[祇園]]で放蕩に明け暮れる。同志たちが説得に来るが由良助は相手にしない。怒った同志は斬ろうとするも、足軽でおかるの兄、寺坂平右衛門に止められる。同志に加わりたい平右衛門であるが、由良助は話をはぐらかして相手にせず、敵討など「人参飲んで首くくるような」馬鹿げたものだと言い放つ。平右衛門は呆れて去ってしまう。敵方に寝返った九太夫が由良助の真意を探ろうとするが、由良助はこれをかわす。酔いつぶれて寝てしまう由良助。九太夫と師直の家臣、伴内はこっそり由良助の刀を見るが、真っ赤に錆びついている。「ヤヤ、錆たりな赤鰯」と驚く二人。


('''勘平切腹の段''')嘆き悲しみながらもおかるを見送った母親は、勘平に与市兵衛のことを尋ねる。さきほど途中で会ったといったが、どこで会ったのか。だがそれについて勘平が、まともに答えられるわけがない。そこへ、猟師たちが与市兵衛の死骸を戸板に乗せてやってきた。夜の猟を終えて帰る途中、与市兵衛が死んでいるのを見かけたのだという。母は夫与市兵衛の死骸を見て驚き、泣くより他の事はなかった。猟師たちもこの場の様子を不憫に思いつつ立ち去る。
その後、頬かむりをした力弥が顔世からの密書を由良助に渡す。由良助は密書を読むが、おかると縁の下に隠れていた九太夫に盗み見されてしまう。由良助は秘密を知ったおかるを不憫ながらも討とうと、わざと身請けするといって退場。夫のもとに帰れると喜ぶおかるだが、そこに兄の平右衛門が現れる。由良助の言葉を聞いて「残らず読んだそのあとで互いに見交わす顔と顔。じゃら、じゃら、じゃらと、じゃらつきだいて身請けの相談。オオ!読めた!」とすべてを察し、妹を殺して同志に入れてもらおうと、悲壮な覚悟でおかるに斬りつける。驚くおかるに平右衛門は己の事情を話し、父も勘平もこの世にいないことを男泣きに告げる。おかるは自害しようとするが、そこに由良助が現れ、敵と味方を欺くための放蕩だったと本心を語る。おかるの刀に手を添えて、「こやつの息子が殺したようなものだ。父と夫の仇を討て」と床下の九太夫を刺し、平右衛門に同志に加わることを許す。感激する平右衛門に「鴨川で水雑炊をくらわせやい」と九太夫の処置を頼む。


ふたりきりになった勘平と母。母は涙ながら勘平に問う。いかに以前武士だったとはいえ、舅が死んだと聞いては驚くはず。道の途中で会った時、おまえは金を受け取らなかったか。親父殿はなんといっていた。返事ができないか。できないだろう、できない証拠はこれここにと、勘平に取り付いてその懐から財布を引き出した。
前半部の由良助の茶屋遊びの件では「見たて」が行われる。見たてとは、にぎやかな囃子にのって、小道具や衣装ある物に見たてることである。九太夫の頭を箸でつまみ「梅干とはどうじゃいな」酒の[[猪口]](ちょこ)を[[鋸]]の上に置き「義理チョコとはどうじゃいな」手ぬぐいと座布団で「暫とはどうじゃいな」といった落ちをつける他愛もない内容だが、長丁場の息抜きとして観客に喜ばれる。いずれも仲居や幇間役の下回り、中堅の役者がつとめる。彼らにとっては幹部に認めてもらう機会であり、腕の見せ所となっている。
[[Image:Act VI.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 六段目」 画面手前には与市兵衛の死骸を届けて帰る猟師たち、画面右奥には勘平の住いに二人の侍、千崎弥五郎と原郷右衛門が訪れているのが描かれる。広重画。]]
さっき勘平がこの財布を出していたのを、母はちらりと見ていたのである。財布には血も付いている。一文字屋がいっていた財布に間違いない。「コレ血の付いてあるからは、こなたが親父を殺したの」「イヤそれは」「それはとは。エエわごりょはのう…親父殿を殺して取った、その金誰にやる金じゃ…今といふ今とても、律儀な人じゃと思うて、騙されたが腹が立つわいやい。…コリャここな鬼よ蛇よ、父様を返せ、親父殿を生けて戻せやい」と母は勘平の髻を掴んで引寄せ、散々に殴り、たとえずたずたに切りさいなんだとて何で腹が癒えようと、最後は泣き伏すのだった。勘平もこれは天罰と、畳に食いつかんばかりに打ち伏している。そんなところに、深編笠をかぶったふたりの侍が訪れた。


訪れたのは千崎弥五郎と原郷右衛門である。勘平は二人を出迎え、内に通した。勘平は二人の前に両手をつき、亡君の大事に居合わせなかった自分の罪が許され、その御年忌に家臣として参加できるよう執り成しを頼む。だが郷右衛門の言葉は勘平の期待を裏切る。勘平はじつは、ここに帰る途中で大星由良助に弥五郎を通じて例の五十両の金を届けていた。しかし由良助は、殿に対し不忠不義を犯した駆け落ち者からの金は受け取れないとして、金を返しに郷右衛門たちを遣わしたのである。郷右衛門は勘平の前に五十両を置く。
六段目で暗く貧しい田舎家での悲劇を見せられた後、一転して華麗な茶屋の場面に転換するその鮮やかさは、優れた作劇法である。序曲というべき「花に遊ばば祇園あたりの色揃え」のにぎやかな唄に始まり、美しい茶屋の舞台が現れる。芸子と遊ぶ由良助は紫の衣装が映える。心中に抱いた大望を隠し遊興に耽溺する姿は、十三代目片岡仁左衛門が近代随一だった。彼自身祇園の茶屋でよく遊んでいたため、地のままにつとめることができたのである。平右衛門は、十五代目市村羽左衛門、[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]が双璧。おかるは、[[尾上梅幸 (6代目)|六代目尾上梅幸]]が一番といわれている。幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな」の科白で再登場する由良助は鶯色の衣装で、心根が変わっているさまを表す。幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良助がおかるを傍に添わせて優しく思いやる心根で、扇子を開いて見得を切る。


そんな様子を聞いていた母は、「こりゃここな悪人づら、今といふ今親の罰思ひ知ったか。皆様も聞いて下され」と、勘平が与市兵衛を手にかけたといういきさつを話し、お前がたの手にかけてなぶり殺しにして下されと、ふたたび泣き伏す。郷右衛門と弥五郎はびっくりし、刀を取って勘平の左右に立ち身構えた。
===八段目===
[[Image:Kana-dehon Chūshingura Act VI.jpg|thumb|right|330px|「六段目」 「ご両所ご両所、しばらくしばらく、亡君の恥辱とあれば、一通り申し開かん…」勘平が舅を殺して金を奪ったと聞いた弥五郎たちは立ち去ろうとするが、勘平はふたりの刀のこじりを捉え、必死になって引き留めようとする。左から[[市川雷蔵 (8代目)|八代目市川雷蔵]]の千崎弥五郎、[[市川壽海 (3代目)|三代目市川壽海]]の勘平、[[市川中車 (8代目)|八代目市川中車]]の不破数右衛門。]]
*別名:道行旅路の嫁入
弥五郎は声を荒らげ「ヤイ勘平、非義非道の金取って、身の咎の詫びせよとはいはぬぞよ。わがような人非人武士の道は耳には入るまい」と睨み付け、郷右衛門も「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ。舅を殺し取ったる金、亡君の御用金になるべきか。生得汝が不忠不義の根性にて、調へたる金と推察あって、突き戻されたる由良助の眼力あっぱれ…汝ばかりが恥ならず、亡君の御恥辱と知らざるかうつけ者。…いかなる天魔が見入れし」と、やはり勘平を睨みつけながらも、目には涙を浮かべるのであった。堪りかねた勘平は、もろ肌を脱ぎ差していた脇差を抜いて腹に突っ込んだ。
加古川戸無瀬・小波の母娘が、ある決意を胸に二人きりで山科へと東海道を上る様子を所作事で描く。義太夫には東海道の名所が織りこまれ、旅情をさそう。道具(背景)も旅程に合せて次々転換させたり、奴をからませるなどの演出がある。


「亡君の御恥辱とあれば一通り申し開かん」と、勘平はこれまでのいきさつをふたりに話した。昨夜弥五郎殿に会った帰り、猪に出くわし撃ちとめたと思った、だがそれは人だった。とんでもないことをした、薬はないかとその懐中を探ると財布に入れた金、道ならぬこととは思ったがこれぞ天の与えと思い、弥五郎殿のあとを追いかけその金を渡した。だがこの家に帰ってみれば、「打ちとめたるは我が舅、金は女房を売った金。かほどまでする事なす事、いすかの嘴<small>(はし)</small>ほど違ふといふも、武運に尽きたる勘平が、身のなりゆき推量あれ」と、無念の涙を流しつつ語るのだった。
浄瑠璃の言葉も東海道の名所旧跡を織り込んで、許婚のもとに急ぐ親子の浮き浮きした気分を表す。また「紫色雁高我開令入給」という性行為を経文のように表しているのも御愛嬌である。幹部級の女形と若手女形が共演する全段中最も明るい場面で、これが九段目の悲劇と好対照をなす。「八段目の道行は、九段目に続ける気持で踊れ」とは[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]の言葉である。


話を聞いた弥五郎は、郷右衛門とともに与市兵衛の死体を改めた。見るとその疵口は、鉄砲疵にはあらで刀疵。それを聞いた勘平も母もびっくりする。そういえばここへ来る道の途中、鉄砲に当って死んだ旅人の死骸があったが、近づいてよく見ればそれは斧九太夫のせがれ定九郎であった。九太夫にも勘当され山賊に身を落としたと聞いてはいたが、さては与市兵衛を殺したのは定九郎だったのだと郷右衛門は語る。勘平の疑いは晴れた。知らぬうちに定九郎を撃って舅の仇討をしたのである。母は誤解だったことがわかり勘平に泣いて詫びる。だが遅すぎた。郷右衛門たちの心遣いで瀕死の勘平の名は討入りの連判状に加えられた。勘平と母親は、財布と五十両の金を出し、せめてこれらを敵討ちの供に連れてゆくよう頼む。郷右衛門はそれを聞き入れ、財布と金を取り収める。やがて勘平は息絶えた。涙に暮れる母の様子を不憫と思いつつも、郷右衛門と弥五郎はこの場を立つのであった。
===九段目===
*別名:山科閑居の場
大星力弥と若狭助の家老加古川本蔵の娘小浪は許婚だった。小浪とその母戸無瀬が山科の閑居に来て、結婚を願うが、力弥の母お石に判官を止めた本蔵の娘は嫁にできぬと断られる。戸無瀬は申し訳なさに小浪ともども自害しようとする。お石は三宝に小刀を乗せ「本蔵の白髪首見た上で盃さしょう。サア、いやか、応か」と迫る。そこに「加古川本蔵の首進上申す」と、虚無僧に変装した本蔵が現れ、由良助父子の悪態をついてお石と争いになる。怒った力弥が現れ本蔵を槍で突く。そこに由良助が現れる。「一別以来珍しし、本蔵殿、御計略の念願とどき、婿力弥の手にかかって、さぞ本望でござろうの」娘の恋のためわが身を犠牲にする本蔵の真意を見ぬいていた。由良助は奥庭にある雪で作った親子の墓を見せる。覚悟のほどを示す感謝した本蔵は、死に際、由良助に小浪を嫁にと頼み、「婿へのお引きの目録」と称して師直邸の絵図面を渡す。由良助父子は師直討ち入りの作戦を本蔵に教える。本蔵は「ハハア、したり、したり、アハハハハ」と手負いの笑いを浮かべ死んで行く。力弥と小浪は夫婦になり、一夜の契りを交わして、力弥は討ち入りのため出立する。


⇒([[#あらすじ(七段目)|七段目あらすじ]])
本蔵と由良助、戸無瀬とお石との火花を散らす芸の応酬がみものである。本蔵は[[片岡仁左衛門 (11代目)|十一代目片岡仁左衛門]]、由良助は[[松本白鸚 (初代)|八代目松本幸四郎]]、二代目實川延若がよかったといわれている。また、戸無瀬は[[中村梅玉 (3代目)|三代目中村梅玉]]、お石が[[中村魁車]]。芸の上でしのぎを削りあった両優のやりとりは壮絶だった。戦後は六代目中村歌右衛門の戸無瀬、[[尾上梅幸 (7代目)|七代目尾上梅幸]]のお石が素晴らしかった。力弥は十五代目市村羽左衛門が一番だった。


=== 解説<small>(六段目)</small> ===
この段では、実際の赤穂事件を示唆する文言がある。由良助の妻「お石」は実際の「大石内蔵助」を指し、本蔵の「浅き巧の塩谷殿」は実際の「浅野内匠頭」と、赤穂の名産「塩」を利かせている。
勘平は前段五段目の時点で、師直への仇討ちの謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。おかるの父与市兵衛は、勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋におかるを百両で売り飛ばす交渉に成功した。与市兵衛は遊郭から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途につく。


この五十両が、そのまま勘平に渡ればなんとも無い話である。ところが与市兵衛は道中山賊(定九郎)に襲われ、金と命を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、定九郎を猪と間違えて偶然に誤射し、これも死んでしまう。勘平は定九郎が大金の入った財布を持っていることに偶然に気づき、持ち主を失ったその財布を横領する。かくして、金五十両は勘平に直接渡らず悪党定九郎を経由したことにより、犯罪の金となってしまう。後でそれが大変な悲劇、つまりこの六段目の勘平切腹につながる。与市兵衛の女房はその挙動と財布から勘平が夫を殺したと思い、勘平も夜の闇の中で何者であるか知らないで取った財布だけに、自身が義父与市兵衛を殺したものと思い込み気も動転してしまうのである。誤解が誤解を生む悲劇、その典型といえよう。
2007年1月、大阪松竹座午後の部の「九段目」では、[[市川團十郎 (12代目)|十二代目市川團十郎]]の由良助に、四代目坂田籐十郎の戸無瀬で、午前の部の『[[勧進帳]]』とともに、團十郎、藤十郎の史上はじめての共演が実現した。


切腹し瀕死の勘平が後悔にふける「いかばかりか勘平は色にふけったばっかりに」という科白が有名だが、じつは原作の浄瑠璃にはこのせりふにあたる本文はなく、歌舞伎における入れ事である。またおかるの母(与市兵衛の女房)も原作の浄瑠璃では名は無く、歌舞伎では「おかや」という名が付いている。ほかにも一文字屋についても現行の歌舞伎では出てくることはなく、かわりに一文字屋の女将でお才という女が来ておかるを連れて行く。さらに判人(女衒)の源六という男もこのお才に付き添い出てくる。原作では勘平のもとを訪ねるのは千崎弥五郎と原郷右衛門であるが、郷右衛門を不破数右衛門に替えて演じることが多い。
本蔵や由良助をよくつとめた十三代目片岡仁左衛門は九段目がとても気に入っており「本当の美しさ、劇の美しさは九段目やね。…ここに出てくる人間が、まず戸無瀬が緋綸子、小浪が白無垢、お石が前半ねずみで後半が黒、由良助は茶色の着付に黒の上で青竹の袴、…本蔵は渋い茶系の虚無僧姿、力弥は東京のは黄八丈で、上方だと紫の双ツ巴の紋付…みんなの衣装の取り合わせが、色彩的に行ってもこれほど理に叶ったものはないですわな」と、色彩感覚の見事さを評している。

 
勘平の切腹はいわゆる[[手負事]]である。原作の浄瑠璃では上でも紹介したように、勘平は郷右衛門と弥五郎に問い詰められたすえ切腹するが、歌舞伎では問い詰めたあとに郷右衛門が「かような所に長居は無用、千崎氏、もはや立ち帰りましょう」弥五郎「左様仕ろう」と両人が帰ろうとするのを勘平が必死になって引きとめ、申し開きをして最後に「…金は女房を売った金、撃ちとめたるは」郷右衛門・弥五郎「撃ちとめたるは」勘平「舅どの」のせりふで郷右衛門たちが「ヤヤ、なんと」と驚き叫ぶのをきっかけに腹を切る。
現在は全く上演されないが、幕あきに由良助が仲居幇間をつれて大きな雪玉をころがして出てくる「雪こかし」という端場がある。雪中の朝帰りという風情のあるもので、のちこの雪玉が後半部由良助が本蔵に覚悟のほどを見せる雪製の墓になる。1986年(昭和61年)の通し上演ではこの場が上演されている。

ただしこれは東京式での段取りで、上方では勘平が切腹する段取りはかなり違う。勘平が上の段取りで腹を切り、そのあと与市兵衛の傷を郷右衛門たちが改めたことにより勘平の無実が晴れる。上方では郷右衛門たちが与市兵衛の傷を改めている間、勘平の無実が晴れる寸前に勘平は腹を切る。これは「いすかの嘴の食い違い」という浄瑠璃の言葉どおりに行うという意味である。また勘平の死の演出は、「哀れ」で本釣鐘「はかなき」で喉を切りおかやに抱かれながら手を合わせ落ちいるのが現行の型だが、這って行って平服する型(二代目実川延若)もある。これは武士として最期に礼を尽くす解釈である。また上方は、勘平の衣装は木綿の衣装で、切腹ののち羽織を上にはおる。最後に武士として死ぬという意味である。東京の型では、お才らとのやりとりの間に水[[浅葱色|浅葱]](水色)の紋付に着替える。この時点で武士に戻るという意味であり、明るい色の衣装で切腹するという美しさを強調している。論理的な上方と耽美的な東京(江戸)の芸風の相違点がうかがわれる。なお文楽でも勘平は紋付に着替えるが、それは郷右衛門たちが来てからの事である。

勘平は[[市村羽左衛門 (15代目)|十五代目市村羽左衛門]]、[[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]、二代目實川延若、[[中村勘三郎 (17代目)|十七代目中村勘三郎]]がそれぞれ名舞台だったが、抜群なのは六代目尾上菊五郎の型である。菊五郎は絶望の淵に墜ちていく心理描写を卓抜した表現で勤め、現在の基本的な型となっている。おかやは老巧な脇役がつとめることで勘平の悲劇が強調されるのでかなりの難役である。戦前は[[市川延女 (初代)|初代市川延女]]、戦後は[[尾上多賀之丞 (2代目)|二代目尾上多賀之丞]]、[[上村吉彌 (5代目)|五代目上村吉彌]]、[[中村又五郎 (2代目)|二代目中村又五郎]]が得意としていた。祇園の女将お才は花車役という遊里の女を得意とする役者がつとめる。[[片岡我童 (13代目)|十三代目片岡我童]]や[[澤村宗十郎 (9代目)|九代目澤村宗十郎]]が艶やかな雰囲気でよかった。お才につきそう判人源六は古くは名脇役[[尾上松助 (4代目)|四代目尾上松助]]の持ち役だったが、戦後は[[尾上鯉三郎 (3代目)|三代目尾上鯉三郎]]が苦み走ったよい感じを出していた。

== 七段目・大臣の錆刀 ==
=== あらすじ<small>(七段目)</small> ===
('''祇園一力茶屋の段''')ここは京の都、遊郭や茶屋の連なる夜の祇園町。その祇園町の一力茶屋に師直の家来鷺坂伴内とともにいるのは、もと塩冶の家老斧九太夫である。九太夫は師直の側に寝返り内通していた。

二人は大星由良助が、仇討ちを忘れてしまったかのように祇園で放蕩に明け暮れているという噂を聞き、それを確かめにきていたのだったが、由良助は二階座敷で遊女たちを集め酒宴を開き、高い調子で太鼓や三味線を囃させ騒いでいる。これを下から見ていた九太夫も伴内も呆れるが、なおも由良助の心底を見極めようと、座敷に上がり、ひそかに様子を伺うことにした。

そのあと、もと塩冶の[[足軽]]寺岡平右衛門の案内で、これも塩冶浪士の矢間十太郎、千崎弥五郎、竹森喜多八の三人が一力茶屋を訪れる。矢間たちも由良助の放蕩を聞き心配して尋ねに来たのだったが、敵討ちのことを尋ねられた由良助は酔っ払ってまともに相手にならない様子である。怒った矢間たちは「性根が付かずば三人が、酒の酔いを醒ましましょうかな」と由良助を殴ろうとするも、平右衛門に止められる。敵討ちの同志に加わりたいと平右衛門は由良助に願い出るが、由良助は話をはぐらかして相手にせず、敵討など「人参飲んで首くくるような」馬鹿げたものだと言い放つ。矢間たちはいよいよ腹を立て、「一味連判の見せしめ」と由良助を斬ろうとするが平右衛門は矢間たちをなだめ、ひとまず別の座敷へと三人をいざないその場を立った。

由良助は酔いつぶれて寝ている。そこへ人目を避けながら力弥が現われるとむっくと起きた。力弥はかほよ御前からの急ぎの密書を由良助に渡し、またその伝言として師直が近々自分の領国に帰ることを告げて去る。由良助が密書を見んと封を切ろうとするところ、九太夫が現われる。
[[Image:Act VII.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 七段目」 九太夫と酒を飲む由良助。そのまわりを[[仲居]]や[[幇間]]が取り巻く。広重画。]]
由良助は九太夫と盃を交わす。今日は旧主塩冶判官の[[月命日]]の前日、すなわち逮夜で本来なら魚肉を避けて精進すべき日であった。九太夫は由良助の真意を探ろうと、わざと肴の蛸を勧めるが、由良助は平然とこれを食し、幇間や遊女たちと奥へと入る。伴内が出てきて「主の命日に精進さへせぬ根性で、敵討ち存じもよらず」と九太夫と話すが、ふと見ると由良助は自分の刀を置き忘れていた。「ほんに誠に大馬鹿者の証拠」と、こっそり由良助の刀を抜いて見ると、刀身は真っ赤に錆びついている。「さて錆たりな赤鰯、ハハハハハ…」と嘲笑する二人。だが九太夫は、まだ由良助のことを疑っていた。最前、力弥が来て由良助に書状を渡すのを見かけたからで、それについての仔細を確かめるべく、座敷の縁の下に隠れて様子を伺うことにする。伴内は九太夫が駕籠に乗って帰ると見せかけ、空の駕籠に付き添い茶屋を出て行った。

あの勘平の女房おかるははたして遊女となっていたが、今日は由良助に呼ばれてこの一力茶屋にいた。飲みすぎてその酔い覚ましに、二階の座敷で風に当っている。その近くの一階の座敷、由良助が縁側に出て辺りを見回し、釣燈籠の灯りを頼りにかほよからの密書を取り出し読み始めた。そこには敵の師直についての様子がこまごまと記されている。だがそれを、二階にいたおかると縁の下に隠れていた九太夫に覗き見されてしまう。密書を見るおかるの[[簪]]が髪からとれて地面に落ちた。その音を聞いた由良助ははっとして密書を後ろ手に隠す。「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「わたしゃお前にもりつぶされ、あんまり辛さに酔いさまし。風に吹かれているわいな」
[[Image:Shunsho-Sakata-Hangoro.jpg|thumb|right|180px|「七段目」 初代坂田半五郎の大星由良助。かほよ御前からの書状をひそかに読む由良助だったが…。勝川春章画。]]
由良助は、おかるにちょっと話したい事があるから、そこから降りてここに来るよう頼む。そばにあった梯子で、わざわざおかるをふざけながら下へと降ろす由良助。そしておかるに「古いが惚れた」、自分が身請けしてやろうと言い出した。男があるなら添わしてもやろう、いますぐ金を出して抱え主と話をつけてやるといって、由良助は奥へと入った。

夫勘平のもとへ帰れるとおかるが喜んでいると、そこに平右衛門が現れる。おかるはこの平右衛門の妹であった。おかるは由良助が読んでいた書状の内容について、平右衛門にひそかに話した。平右衛門「ムウすりゃその文をたしかに見たな」おかる「残らず読んだその跡で、互いに見交わす顔と顔。それからじゃらつき出して身請けの相談」「アノ残らず読んだ跡で」「アイナ」「ムウ、それで聞えた。妹、とても逃れぬ命、身共にくれよ」と平右衛門は刀を抜いておかるに斬りかかろうとする。驚くおかる、ゆるして下さんせと兄に向って手を合わせると、刀を投げ出しその場で泣き伏した。

平右衛門は、父与市兵衛が六月二十九日の夜、人手にかかって死んだことをおかるに話した。おかるはびっくりするが、「こりゃまだびっくりするな。請出され添おうと思ふ勘平も、腹切って死んだわやい」と、勘平もこの世にいないことを話す。あまりのことに兄に取り付き泣き沈むおかる。だがあの由良助がおかるをわざわざ身請けしようというのは、密書の大事を漏らすまいと口封じに殺すつもりに違いない。ならば自分が妹を殺し、その功によって敵討ちに加えてもらおうと、平右衛門は悲壮な覚悟でおかるに斬りつけたのである。「聞き分けて命をくれ死んでくれ妹」と、おかるに頼む平右衛門。

おかるは、「勿体ないがとと様は非業の死でもお年の上。勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのはさぞ口惜しかろ…」となおも嘆くが、やがて覚悟を決めて自害しようとする。そこに由良助が現れ、「兄弟ども見上げた疑い晴れた」と敵と味方を欺くための放蕩だという本心をあらわし、平右衛門は東への供を、すなわち敵討ちに加わることを許し、妹は生きて父と夫への追善をせよと諭す。さらにおかるが持つ刀に手を添えて床下を突き刺すと、そこにいた九太夫は肩先を刺されて七転八倒、平右衛門に床下から引きずり出された。

由良助は九太夫の髻を掴んで引き寄せ、「獅子身中の虫とはおのれが事、我が君より高知を戴き、莫大の御恩を着ながら、かたき師直が犬となって有る事ない事よう内通ひろいだな…」と、あえて主君の逮夜に魚肉を勧めた九太夫を、土に摺りつけねじつける。九太夫はさらに平右衛門からも錆刀で斬りつけられ、のた打ち回り、ゆるしてくれと人々に向って手を合わせる見苦しさである。由良助は、ここで殺すと面倒だから、酔いどれ客に見せかけて連れて行けと平右衛門に命じる。そこへこれまでの様子を見ていた矢間たち三人が出てきて言う、「由良助殿段々誤り入りましてござります」。由良助「それ平右衛門、喰らい酔うたその客に、[[鴨川|加茂川]]で、ナ、水雑炊を食らはせい」「ハア」「行け」

⇒([[#あらすじ(八段目)|八段目あらすじ]])

=== 解説<small>(七段目)</small> ===
[[Image:Fujaku Onoe VIII as Okaru and Kanya Morita XIII as Yuranosuke in Chusingura Act VII 1910.jpg|thumb|right|180px|「七段目」 八代目尾上芙雀のおかる (左) と、[[守田勘彌 (13代目)|十三代目守田勘彌]]の大星由良助。[[明治]]43年(1910年)11月、東京[[市村座]]。]]
大石内蔵助が敵の目を欺くため、京の祇園の遊郭で遊び呆けてみせるというのは「忠臣蔵」の物語ではおなじみの場面だが、そのおおもとになったのがこの七段目である。もっともこの七段目も、[[澤村宗十郎 (初代)|初代澤村宗十郎]]の演じた芝居がもとになっている(後述)。

この七段目は別名「茶屋場」とも呼ばれる。六段目で暗く貧しい田舎家での悲劇を見せた後、一転して華麗な茶屋の場面に転換するその鮮やかさは、優れた作劇法である。浄瑠璃では竹本座での初演時に6人の太夫の掛合いで以ってこの七段目を語っており、現行の文楽でも複数の太夫の掛合いで上演されている。浄瑠璃は「花に遊ばば祇園あたりの色揃え…」の唄に始まり(歌舞伎でもこの唄を下座音楽にして始まる)、綺麗な茶屋の舞台が現れる。

斧九太夫は師直の内通者、いわばスパイとして鷺坂伴内とともに登場する。さらにここに足軽の寺岡平右衛門が矢間、千崎、竹森の三人を連れてくる。これを「三人侍」というが、歌舞伎では同じ塩冶浪士でも、違う人物に替えて出すこともある。茶屋の喧騒の中、これらの敵味方が入り混じって由良助の真意を探ることになる。

仲居と遊ぶ由良助は紫の衣装が映える。心中に抱いた大望を隠し遊興に耽溺する姿は、十三代目片岡仁左衛門が近年随一だった。彼自身祇園の茶屋でよく遊んでいたので、地のままに勤めることができたのである。平右衛門は、十五代目市村羽左衛門、二代目尾上松緑が双璧。おかるは、六代目尾上梅幸が一番といわれている。

前半部の由良助が九太夫と酒を飲む茶屋遊びの件りでは、仲居や幇間たちによる「見たて」が行われる。見たてとは、にぎやかな囃子にのって、小道具や衣装ある物に見たてることである。九太夫の頭を箸でつまみ「梅干とはどうじゃいな」酒の[[猪口]](ちょこ)を[[鋸]]の上に置き「義理チョコとはどうじゃいな」手ぬぐいと座布団で「暫とはどうじゃいな」といった落ちをつける他愛もない内容だが、長丁場の息抜きとして観客に喜ばれる。いずれも仲居や幇間役の下回り、中堅の役者がつとめる。彼らにとっては幹部に認めてもらう機会であり、腕の見せ所となっている。

幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな」の科白で再登場する由良助は鶯色の衣装で、性根が変わっているさまを表す。歌舞伎では幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良助がおかるを傍に添わせて優しく思いやる心根で、扇を開いたところで幕となる。文楽では平右衛門が、両腕で九太夫を[[重量上げ]]のように持ち上げるという人形ならではの幕切れを見せる。
[[Image:Sawamura Sojuro III as Ogishi Kurando, woodblock print by Sharaku, Honolulu.JPG|thumb|right|180px|三代目澤村宗十郎の大岸蔵人。写楽画。]]
ところでこの七段目の由良助は、初代澤村宗十郎の演技を手本として取り入れたものと伝わっている。『忠臣蔵』を演じた役者たちの評を集めた『古今いろは評林』([[天明]]5年〈1785年〉刊)には次のようにある。

:「…延享四卯年<small>(1747年)</small>、京都中村粂太郎座本の時、大矢数四十七本と外題して澤村宗十郎〈後に助高屋高助 元祖 訥子〉大岸役にて、六月朔日より初日、出して大入りを取りし也…今の仮名手本七ツ目<small>(七段目)</small>は此の時澤村宗十郎が形と成りて、凡そ其の俤を手本と成り来たれり…」

これは初代宗十郎が『大矢数四十七本』という忠臣蔵物の芝居で、大石内蔵助に当る「大岸宮内」という役を勤めたときの事を記しており、また『古今いろは評林』には由良助を当り役とした役者として、[[澤村宗十郎 (2代目)|二代目宗十郎]]と[[澤村宗十郎 (3代目)|三代目宗十郎]]の名があげられている。大石に当る役で茶屋遊びをするという初代宗十郎の芸が源流となって浄瑠璃の七段目が成立したが、一方それが二代目宗十郎、三代目宗十郎へと七段目の由良助として伝えられたのである。

なお大星由良助ではない「大岸宮内」の系統は、『仮名手本』上演後も演じられている。[[寛政]]6年(1794年)5月、江戸[[都座]]において『花菖蒲文禄曽我』(はなあやめぶんろくそが)が上演された。これは亀山の仇討ちを題材としたもので忠臣蔵物とは関わりがないが、このとき三代目宗十郎が演じたのが桃井家の家老「大岸蔵人」で、この大岸がやはり祇園町で遊ぶ場面があったようである。このときの宗十郎扮する大岸蔵人は[[東洲斎写楽]]のほか初代歌川豊国、[[勝川春英]]などが描いているが、紋所が宗十郎の[[定紋]]である「丸にいの字」になっているほかは、いずれも七段目の由良助そのままの姿である。

== 八段目・道行旅路の嫁入 ==
=== あらすじ<small>(八段目)</small> ===
[[Image:Act VIII.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 八段目」 戸無瀬と小浪は京山科に居る力弥のもとへと、東海道を歩いて向う。広重画。]]
('''道行旅路の嫁入'''〈みちゆきたびじのよめいり〉)由良助のせがれ力弥と加古川本蔵の娘小浪はいいなづけであったが、塩冶の家がお取り潰しになったことにより、その婚儀も本来流れるはずであった。力弥と添い遂げられないことを悲しむ娘を見て、母の戸無瀬はこの上は改めて娘小浪を力弥の嫁にしてもらおうと、供も連れずに母娘ふたりで、鎌倉から由良助たちのいる京の山科へと向う。

⇒([[#あらすじ(九段目)|九段目あらすじ]])

=== 解説<small>(八段目)</small> ===
加古川本蔵の妻戸無瀬と小波の母娘が嫁入の決意を胸に、二人きりで山科へと[[東海道]]を下る様子を見せる所作事である。その浄瑠璃の詞章には東海道の名所が織りこまれ、旅情をさそう。道具(背景)も旅程に合せて次々転換させたり、奴をからませるなどの演出がある。しかし現行の歌舞伎では三段目の増補である『道行旅路の花聟』ばかりが上演され、この本来の内容である「道行旅路の嫁入」は近年の通し上演が七段目までしか出ないこともあり、ほとんど上演されることがない。

浄瑠璃の文句も東海道の名所旧跡を織り込んで、許婚のもとに急ぐ親子の浮き浮きした気分を表す。<!--また「紫色雁高我開令入給」という性行為を経文のように表しているのも御愛嬌である。-->立女形と若女形が共演する全段中最も明るい場面で、これが九段目の悲劇と好対照をなす。「八段目の道行は、九段目に続ける気持で踊れ」とは[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村歌右衛門]]の言葉である。

さて江戸では、義太夫狂言の道行は豊後節系の浄瑠璃で演じられるのが例であった。この八段目「道行旅路の嫁入」もその例に漏れず、曲を[[常磐津]]や[[清元]]にして上演されているが、その内容は『義経千本桜』四段目の「道行初音旅」と同様、原作の内容を増補している。たとえば『日本戯曲全集』に収録される清元所作事の『道行旅路の嫁入』(天保元年4月、市村座)は、最初に原作どおり戸無瀬と小浪が出て所作があり引っ込むと、そのあとさらにお伊勢参りの喜之助と女商人のおかなというのが出てきて所作事となる。しかも肝心の戸無瀬と小浪は、子役に踊らせるという趣向であった。

ほかには[[文政]]5年(1822年)3月、中村座で八段目に常磐津を地にした『旅路の嫁入』が上演されている。このときは戸無瀬と小浪のほかに、それに従う供として関助と可内(べくない)という奴、そして女[[馬子]]のお六というのが出てくる。内容は戸無瀬と小浪が関助も交えての所作のあと、関助が悪心を起こし可内から路銀を奪おうとするのを、馬子のお六が可内に味方して立ち回りとなるといったものである。このときは[[坂東三津五郎 (3代目)|三代目坂東三津五郎]]が戸無瀬と可内の二役、小浪とお六が五代目瀬川菊之丞、関助が中村傳九郎であった。この常磐津の曲は『其儘旅路の嫁入』(そのままにたびじのよめいり)と称し今に残っている。

== 九段目・山科の雪転し ==
=== あらすじ<small>(九段目)</small> ===
('''雪転し'''〈ゆきこかし〉'''の段''')雪の深く積った山科の由良助の住い。そこにあるじの由良助が、幇間や茶屋の仲居に送られて朝帰りである。由良助はいい歳をして積った雪を雪こかし、すなわち大きな雪玉にして遊ぶ。奥より由良助の妻お石が出てきて由良助に茶を出すが、それを一口飲んだ由良助は酔いが過ぎたかその場でごろりと横になってしまう。せがれの力弥も出てきたので、幇間や仲居たちは帰っていった。やがて由良助も丸めた雪が溶けぬよう、日陰に入れておけと言い残しお石や力弥とともに奥へと入った。

('''山科閑居の段''')加古川本蔵の妻戸無瀬と、その娘の小浪がこの山科の閑居に来る。小浪はすでに花嫁衣裳のなりで、本日この場で力弥との祝言をあげようという心積もりである。「頼みましょう」という戸無瀬の声に下女のりんが出て母娘を座敷に通し、やがてお石が二人の前に現われた。

戸無瀬は、以前よりいいなづけの約束があった力弥と小浪の祝言をあげさせたいので、本日娘を連れ、夫本蔵の名代として訪れた旨をお石に話す。だが、それに対するお石の返答はにべもない。以前確かにいいなづけの約束はしたが、今は浪人者のせがれでは下世話にいう提灯に釣鐘というもの。つりあわぬ縁だからこっちには気遣いせず、どこへなりともよそへ縁組して下さいというので、戸無瀬は思わぬ返答にはっとしながらも、もとは千五百石取りの国家老だった由良助殿、五百石取りの本蔵と釣合いが取れぬはずが無いというのを、「イヤそのお言葉違ひまする」とお石はさえぎった。

「五百石はさて置き、一万石違うても、心と心が釣合へば、大身の娘でも嫁に取るまいものでもない」「ムムこりゃ聞きどころお石殿。心と心が釣合はぬと仰るは、どの心じゃサア聞こう」と戸無瀬はお石に詰め寄るが、お石は、旧主塩冶判官が師直に殿中で斬りつけたのは、その師直よりあらぬ侮辱を受けて起こったこと、それに引き換えその師直に進物を贈って媚びへつらう追従武士の本蔵の娘では釣合わないから嫁にはできぬという。「へつらひ武士とは誰が事、様子によっては聞捨てられぬ…」と夫を罵られた戸無瀬は、それでもやはり娘可愛さから、なおも小浪を力弥の妻として認めてくれるようお石に頼む。が、お石は「女房なら夫が去る。力弥に代わってこの母が去った」と言い放ち、襖をぴっしゃりと締め奥へと入ってしまった。

これまでの様子を黙ってみていた小浪は、わっと泣き出す。戸無瀬は娘に、力弥のことは諦めてほかに嫁入りする気はないかと尋ねるが、あくまでも力弥と添い遂げたいという小浪の気持は変わらなかった。こうなってはせっかく送り出してくれた本蔵のところにも、もはや申し訳なさに帰れない。戸無瀬と小浪は、この場でともども自害しようとする。

戸無瀬は、差してきた本蔵の刀でまず娘を斬ろうとした。「母も追っ付あとから行く。覚悟はよいか」と立ちかかると、ちょうど表には[[尺八]]を吹く[[虚無僧]]が来て、「鶴の巣籠り」の曲を奏でている。「鳥類でさへ子を思ふに、咎もない子を手にかけるは…」と嘆きのあまり足も立ちかね手も震えたが、何とかそれを押さえ、戸無瀬は刀を振り上げ小浪を斬ろうとした。その下に座す小浪は、念仏を唱えながら手を合わせている。このとき、奥より声が聞えた。

「御無用」

娘を斬ろうとする戸無瀬は、思わずこの声に動きを止めた。すると表に立っていた虚無僧も、尺八の音を止める。とまどう戸無瀬。いや、今の「御無用」とは虚無僧を追い払うための言葉であろう。自分たち母娘の自害を止めたのではないと、戸無瀬は「娘覚悟はよいかや」と再び刀を振り上げた。その拍子にまたも「御無用」の声。

「ムム又御無用ととどめたは、修行者<small>(虚無僧)</small>の手の内か、振り上げた手の内か」「イヤお刀の手の内御無用。せがれ力弥に祝言さしょう」と、お石が何も載せていない白木の[[三方]]を捧げ持ちながら、戸無瀬と小浪の前に現われた。「殺そうとまで思ひ詰めた戸無瀬様の心底、小浪殿の貞女、志がいとほしさにさせにくい祝言さす」というお石。だがそのためには、「世の常ならぬ」引き出物をこの三方で受け取ろうという。戸無瀬は自分が差している本蔵の刀を差し出そうとするが、お石はそれを受け取らない。「ムムそんなら何がご所望ぞ」「この三方へは加古川本蔵殿の、お首を乗せてもらいたい」

「エエそりゃ又なぜな」と驚く戸無瀬にお石はさらにいう。本蔵が止めたせいで塩冶判官は殿中で師直を討ち果たすことが出来ず、むざむざとご切腹なされたのである。その憎しみが本蔵にかからないと思うのか。家来の身としてそんな本蔵の娘を、何の気兼ねも無しに嫁にできる力弥ではない。「サア、いやか、応かの返答を」とお石が迫る。戸無瀬と小浪はうつむいて途方にくれるばかりである。
[[Image:Natori Shunsen-Kataoka Nizaemon as Honzo.jpg|thumb|right|180px|「九段目」 [[片岡仁左衛門 (11代目)|十一代目片岡仁左衛門]]の加古川本蔵。[[名取春仙]]画。]]
そんなところに「加古川本蔵の首進上申す」と、それまで表にいた虚無僧が内へと入ってきた。編笠を脱いだその顔を見れば、それは他ならぬ加古川本蔵だったのである。戸無瀬も小浪もびっくりする。

「案に違はず拙者が首、引き出物にほしいとな。ハハハハハ…」と本蔵は、お石を嘲笑う。主人の仇を報じようという所存もなく遊興や大酒に溺れる由良助、そんな「日本一の阿呆のかがみ」ともいうべき者の息子へ娘を嫁にやるために、この首は切れぬといって三方を踏み砕いた。これにお石は「ヤア過言なぞ本蔵殿、浪人の錆刀切れるか切れぬか塩梅見しょう」と、長押の槍を取って本蔵に突きかかったが、本蔵も留め立てする戸無瀬と小浪を邪魔ひろぐなと退きのけてお石と争い、最後はお石が本蔵にねじ伏せられた。そこへ怒った力弥が出てきて、お石の手から離れた槍を取り上げ本蔵めがけて突く。槍は本蔵の脇腹を突き通した。槍を突かれて倒れる本蔵に、力弥は戸無瀬や小浪の嘆きも構わずに止めを刺そうとすると、「ヤア待て力弥早まるな」と由良助がその場に現れる。

「一別以来珍しし本蔵殿。御計略の念願とどき、婿力弥が手にかかって、さぞ本望でござろうの」と、由良助は娘のためわが身を犠牲にする本蔵の真意を見ぬいていた。

本蔵は語る。主人若狭之助が鶴岡で師直より受けた侮辱によりこれを恨み、討ち果たさんとするのを知った。そこで先回りして主人若狭之助にも知らせず、師直へ進物を贈ってその機嫌を取り持った。その賄賂は功を奏したが、今度はその矛先が塩冶判官に向けられてしまった。塩冶判官が刃傷に及んだとき、飛び出してその後ろを抱きかかえて止めたのは、師直が軽傷で済めばまさか厳しいお咎めにはなるまいと判断したからであった。だがその予想は裏切られ判官は切腹、塩冶家はお取り潰しの憂き目にあう。おかげで力弥に嫁入りしようという娘小浪の難儀ともなった。だからせめてもの申し訳に、この首を婿の力弥に差し出そうというのである。「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心推量あれ由良殿」と、涙にむせ返りながら語る本蔵の様子に、戸無瀬や小浪はもとより大星親子三人もともに嘆くのであった。
[[Image:Act IX.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 九段目」 事切れようとする本蔵をあとに、その袈裟や編笠で虚無僧に変装し、堺へと立つ由良助。画面奥には雪で作ったふたつの五輪塔が見える。広重画。]]
由良助は障子を開け、奥庭に置いた雪で作ったふたつの[[五輪塔]]を見せる。由良助と力弥親子の墓のつもりである。覚悟のほどを見た本蔵は、「婿へのお引きの目録」と称して師直邸の絵図面を渡す。由良助は師直の館へ討ち入りの際、雨戸のはずし方を自ら庭に降り立ち、庭の竹をたわめてその反動ではずす方法を本蔵に見せると、本蔵は「ハハア、したりしたり」と誉めた。由良助は討ち入りの用意にすぐさま摂津の堺へと立つことにしたが、その本蔵の使った深編笠や袈裟を使い、虚無僧に変装する。本蔵は人々が嘆く中に事切れる。力弥と小浪は双方の親から晴れて夫婦と認められたが、それも一夜限りのこと、由良助はそんなふたりをあとに残し、堺に向けて出立するのだった。

⇒([[#あらすじ(十段目)|十段目あらすじ]])

=== 解説<small>(九段目)</small> ===
「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心」。この言葉は、娘小浪を思う加古川本蔵の親心をよく表しているといえるが、本蔵が命を捨てるのはわが子を思ってのことだけではない。

そもそも本蔵は、由良助たち塩冶浪士から見れば「部外者」である。塩冶判官がその身に咎ありとして上意により切腹、お家はお取り潰しになったからには、その家臣大星家との縁組も解消され、それらに関わるべき義理もいわれもない。大名家の家老という重い立場を思えばなおさらである。だが本蔵は、由良助たちも含めた塩冶家のことについて、無碍に切り捨てる事が出来なかった。力弥に槍で突かれた本蔵は由良助に物語る。「思へば貴殿の身の上は、本蔵の身に有るべき筈」と。つまりまかり間違えば若狭之助が師直に斬りつけ、その結果若狭之助が切腹、桃井家はお取り潰しになっていたということである。

ほんらい一触即発だったはずの若狭之助と師直とではなく、師直とは直接問題のなかったはずの塩冶判官が師直へ刃傷に及んでしまったのは、塩冶判官があるじ若狭之助の「身替り」になったようなものだとの思いが本蔵にはあった。また判官を止めたことで、却って判官とその家中にとっては事が裏目に出てしまう。塩冶家の人々に対する同情、そしてうしろめたさ。おおやけには本蔵自身に何の落ち度もないはずであるが、その同情とうしろめたさが本蔵を動かし、由良助に師直邸の図面を渡して婿の力弥にわが身を討たせる。これは主君若狭之助に対する「忠義」からの行動ではない。しかし宮仕えの侍の命は、「忠義にならでは捨てぬ命」である。だからこれは「子ゆえに捨つる親心」、すなわち娘可愛さから縁につながる婿の家に助力し、命を捨てるのだと本蔵は物語るのである。

現行の歌舞伎では上でも述べたように、通しでも七段目までしか出ないことから、八段目も含めて九段目を上演する機会は少なくなっており、上演される場合にはみどり狂言形式の興行において、一幕物の演目として出されることが多い。また現在は全く上演されないが、幕開きに由良助が仲居幇間をつれて大きな雪玉をころがして出てくる「雪転し」という端場がある。雪中の朝帰りという風情のあるもので、のちにこの雪玉が後半部、由良助が本蔵に覚悟のほどを見せる雪製の五輪塔(墓)になるのである。[[昭和]]61年(1986年)の[[国立劇場]]での通し上演ではこの場が上演されている。


戸無瀬親子が大星宅を訪れる時、下女りんが応対しとんちんかんなやりとりで観客を笑わせる。「寺子屋」の涎くり、「御殿」の豆腐買おむらのように、丸本物の悲劇には[[道外方]]が活躍する場面がある。緊張が続く場面で息抜きをするための心憎い演出である。それだけに腕達者な脇役がつとめる。古くは[[中村吉之丞]]、現在では[[加賀屋鶴助]]が持ち役にしていた。
戸無瀬親子が大星宅を訪れる時、下女りんが応対しとんちんかんなやりとりで観客を笑わせる。「寺子屋」の涎くり、「御殿」の豆腐買おむらのように、丸本物の悲劇には[[道外方]]が活躍する場面がある。緊張が続く場面で息抜きをするための心憎い演出である。それだけに腕達者な脇役がつとめる。古くは[[中村吉之丞]]、現在では[[加賀屋鶴助]]が持ち役にしていた。


本蔵と由良助、戸無瀬とお石との火花を散らす芸の応酬が見どころである。本蔵は十一代目片岡仁左衛門、由良助は八代目松本幸四郎、二代目實川延若がよかったといわれている。また、戸無瀬は[[中村梅玉 (3代目)|三代目中村梅玉]]、お石が[[中村魁車]]。芸の上でしのぎを削りあった両優のやりとりは壮絶だった。戦後は六代目中村歌右衛門の戸無瀬、[[尾上梅幸 (7代目)|七代目尾上梅幸]]のお石が素晴らしかった。力弥は十五代目市村羽左衛門が一番だった。
===十段目===

*別名:天川屋見世の場
本蔵や由良助をよく勤めた十三代目片岡仁左衛門は九段目がとても気に入っており、「本当の美しさ、劇の美しさは九段目やね。…ここに出てくる人間が、まず戸無瀬が緋綸子、小浪が白無垢、お石が前半ねずみで後半が黒、由良助は茶色の着付に黒の上で青竹の袴、…本蔵は渋い茶系の虚無僧姿、力弥は東京のは黄八丈で、上方だと紫の双ツ巴の紋付…みんなの衣装の取り合わせが、色彩的に行ってもこれほど理に叶ったものはないですわな」と、色彩感覚の見事さを評している。
討ち入りの武器を調達していた天川屋義平の店に捕手が来て、討ち入りの計画を白状しろと迫るが、義平はこれを拒み、長持ちに座って見得を切る。そこに由良助が現れる。捕手は判官の家臣たちで、義平の心を試したのだと謝る。討ち入りの合言葉は「天」に「川」と決められた。

原作の浄瑠璃では由良助が庭に降り立ち、竹をたわめて雨戸を外す仕組みを本蔵に見せることになっているが、歌舞伎では由良助に代って力弥がこれを行うように変えられている。文楽は原作通り由良助である。また文楽では大道具が逆勝手となっている。文楽、歌舞伎の大道具は通常いずれも家の入り口が下手側に設けられるが、この九段目では逆の上手側に設けており、これは人形を遣う上で、力弥が本蔵に向って槍を突くときに逆の勝手にしないと具合が悪いのだという。

なおこの段では実際の赤穂事件を当て込んだ言葉があり、由良助の妻「お石」は実際の「大石内蔵助」を指し、本蔵の「浅き巧みの塩冶殿」は実際の「浅野内匠頭」と赤穂の名産「塩」を利かせている。

=== 『本蔵下屋敷』 ===
九段目の前の話として、『増補忠臣蔵』という作者不明の義太夫浄瑠璃が明治に入ってから出来ている。通称『'''本蔵下屋敷'''』。内容は、本蔵が師直に賄賂を贈ったことを若狭之助が怒り、それにより本蔵は自宅のある桃井家の下屋敷で蟄居している。そこに若狭之助が来て本蔵を手討ちにしようとするが、じつは力弥に討たれたいとの本蔵の真意を悟り、師直館の見取り図と虚無僧の使う袈裟編笠を渡して暇乞いを許すというもの。ほかに若狭之助の妹三千歳姫と、若狭之助を毒殺しようという敵役の井浪番左衛門が出てくる。歌舞伎にも移され古くは度々上演されたが、現在ではほとんど上演を見ない。

== 十段目・発足の櫛笄 ==
=== あらすじ<small>(十段目)</small> ===
('''人形まわしの段''')ここは摂津堺にある廻船問屋の天河屋である。店は繁盛しその暮らし向きは豊かであったが、今この家にいるのは主人の天河屋義平とその息子の四つになるよし松、それと[[丁稚]]の伊吾八の三人。ほかの奉公人は義平が理由をつけて辞めさせてしまい、さらに義平は自分の女房さえも実家に帰してしまっているのだった。そのわけは、もと塩冶家の用向きを勤めていた義平が高師直を討たんとする大星由良助たちに味方し、そのための用意を手伝っているからで、この秘密を知られないための用心である。伊吾八は幼いよし松の機嫌をとるため、人形をもてあそびながらあやしている。

時もすでに黄昏時、大星力弥と原郷右衛門が天河屋を尋ねる。大星たちは明日にも出立して鎌倉に向かうことになっていた。義平は、大星たちが討ち入りに使う武器や防具類は、すでに船などで送る手はずになっていることをふたりに報告した。これを聞いた力弥は「天河屋の義平は、武士も及ばぬ男気な者」と言い、由良助にも知らせて安堵させようとふたりは店を去った。

そこへ入れ違いに現れたのは、義平にとっては舅の大田了竹である。了竹は、もと斧九太夫抱えの医者であった。その了竹のところに女房である園<small>(その)</small>を義平は預けていたが、了竹は理屈をつけて娘の園を離縁しろという。義平はなにかあるなとは思いながらも、園への[[離縁状]]を書いて了竹に渡した。なにか胡乱なことをしているらしい義平よりも、娘にはもっと身分のよい男のもとに嫁入りさせるつもりだと、なおも憎まれ口を叩く了竹を義平は蹴飛ばして店から追い出す。
[[Image:Act X.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 十段目」 由良助たちのために武器防具を手配する天河屋義平の店に、捕り手が踏み込もうとするが…。広重画。]]
('''天河屋の段''')夜になった。大勢の捕手が現われ店に踏み込み、義平を捕らえようとする。「コハ何故」という義平に対し、塩冶判官の家来大星由良助に頼まれ武器防具を鎌倉に送ろうとしたことが露見したので、義平を急ぎ捕らえに来たのだという。「これは思ひもよらぬお咎め、左様の覚えいささかなし」と言おうとする義平に捕り手たちは「ヤアぬかすまい、争はれぬ証拠有り」と、荷物を持ち込んだ。見ればそれは、義平が大星たちのために送る荷を入れた[[長持]]で、中には武具防具が入っている。そのまだ菰に巻かれて鍵のかかった長持を切り開こうとするのを見て義平は捕り手たちを蹴飛ばし、長持の上にどっかと座った。

これはさる大名家の奥方が使うわけありの道具が入っている、それを開けて見せてはそのお家の名が出て迷惑の掛かる事と、義平は長持を開けさせることを拒む。それを見た捕り手の一人が一間の内に駆け入り、義平の子のよし松を引き出した。「有りやうにいへばよし、言はぬと忽ちせがれが身の上、コリャ是を見よ」と、刀を抜いてよし松の喉もとに差しつけた。義平はこれを見てさすがにはっとしたが、顔色は変えずに次のように言った。「女わらべを責める様に、人質取っての御詮議。天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さぬ…」

だが捕り手たちもそれに退くことなく、「白状せぬと一寸試し、一分刻みに刻むがなんと」というが義平も「オオ面白い刻まりょう」と、ついには捕り手たちよりわが子をもぎ取って、自ら絞め殺そうという勢いである。だがそこへ、「ヤレ聊爾せまい義平殿」という声とともに、なんと長持の中から現れたのは由良助であった。

じつは捕手は大鷲文吾や矢間重太郎をはじめとする判官の家臣たちで、由良助は義平の心を試したのだと謝った上で、「武士も及ばぬ御所存、百万騎の強敵は防ぐとも、左程に性根は据はらぬもの」と義平を褒め称えるのであった。捕り手に化けていた人々も「無骨の段まっぴら」と、畳に頭を擦り付けるようにして義平に頭を下げる。やがて由良助はこの場を立とうとするが、義平は目出度い旅立ちに手打ちの蕎麦を差し上げたいというので、由良助は「手打ち」とは縁起がよいとその馳走に預かることにし、義平に案内されてみな奥へと入った。

そのあと、ひとりの女が提灯を持って、天河屋の戸口にまで来る。義平の女房の園である。鍵がかかっているので伊吾を呼ぶとやってくる。園がわが子よし松の様子を案じて伊吾に尋ねていると、義平が来て伊吾を奥へとやり、再び戸口に鍵をする。「コレ旦那殿、言ふ事があるここあけて」「イヤ聞く事もなし」と義平は聞く耳を持たない。義平は園の親の了竹が斧九太夫に繋がる悪人なので、園とはいったん縁を切る心であった。だが園は戸の隙間から、最前了竹が義平に書かせた離縁状を投げ入れた。了竹からこの離縁状を盗みこっそり抜け出して来た、了竹とは親子の縁を切るつもりだと園はいう。義平も、まだ幼子で母を慕うよし松のことを思うと不憫ではあったが、それでも了竹に渡したはずの離縁状を内緒で手にしては「親の赦さぬ不義の咎」、筋が通らないから持って帰れと離縁状を返し、戸口もしっかりと閉めてしまった。

ひとり表に残された園は、「咎もない身を去るのみか、我が子にまで逢はさぬは、あんまりむごい胴欲な」と、その場で嘆き伏してしまう。やがて、もうこうなっては親了竹のもとにも戻れない、自害して果てようとその場を立ち駆け出そうとした。するとそこへ、覆面をした大男が現われ園をひっ捕らえて髷を切り、園が髪に挿していた櫛や[[笄]]、また懐のものまで奪って逃げ去った。盗られたのは離縁状である。髪を切って離縁状まで奪ってゆくとはなんということか、いっそ殺してと園は泣き叫び、義平もこの表の様子に気付き驚いて飛び出そうとしたがそれを堪え、ためらいつつ門口にとどまる。

そこへ奥より由良助たちが出てきて、義平に暇乞いを述べ、出立しようとする。このとき由良助は世話になったお礼にと、白扇に載せたなにかの包み物を義平に贈ろうとしたが、義平はこれを金包みだと思い怒る。自分は礼が欲しくて世話をしたのではない、義心からのことであるという義平、しかし由良助は「寸志ばかり」のことと言い残し、そのまま表を出る。義平はいよいよ腹を立て、贈られた包み物を蹴飛ばした。するとその中から飛び出したのは金子にあらで、最前に園の頭から切った髪と櫛笄、そして離縁状。それらを表から見た園はびっくりして駆け寄る。義平も驚きつつ、さてはさっき園の髪を切ったのは由良助たちだったのだと気付く。それは由良助が大鷲文吾にやらせたことだった。

園の髪を切ったのは「いかな親でも尼法師を、嫁らそうとも言ふまい」、すなわち尼であれば、同じ屋根の下に暮らしていても夫婦とはいえないから、これで了竹に対しては申し訳が立つだろう。そして髪はいずれ伸びるから、その櫛笄が髪に挿せるようになったら改めて夫婦として縁を結べばよい。これが世話になった義平への返礼であった。義平は園とともに由良助に感謝する。そしてさらに由良助は、「兼ねて夜討ちと存ずれば、敵中へ入り込む時、貴殿の家名の天河屋を直ぐに夜討ちの合言葉」として、「天」と呼べば「河」と答えるよう定め、由良助たちは天河屋を出立するのであった。

⇒([[#あらすじ(十一段目)|十一段目あらすじ]])

=== 解説<small>(十段目)</small> ===
「天川屋義平は男でござる」の名科白で有名なのがこの十段目であるが、天保以降幕末になるとあまり上演されなくなり、さらに戦前まではまだ上演の機会もあったが、現在ではほとんど上演されることがない。八代目坂東三津五郎は、この十段目が上演されなくなったのは[[幕末]]の世情不安から、その上演を憚る向きがあったのではないかと述べている。戦後も[[市川猿翁 (初代)|二代目市川猿之助]]、八代目三津五郎、昭和61年(1986年)12月国立劇場の通しで[[中村富十郎 (5代目)|五代目中村富十郎]]が、平成22年(2010年)1月大阪[[松竹座]]の通しで[[片岡我當 (5代目)|五代目片岡我當]]が勤めたくらいである。ほとんど上演されないので、型らしい型も残っていない。

この十段目については、「作として低調」「愚作」といわれ評判が悪い。役者のほうでも、義平の心をしかも子供を枷にしてわざわざ試し、そのあと長持の中から出てくる由良助が、これでは演じていて気分が悪いと散々である。ゆえに由良助ではなく不破数右衛門をその代りとして出したこともあった。しかし寛延2年6月に[[中村座]]で上演されたときには[[市川團十郎 (2代目)|二代目市川團十郎]]が義平を勤めており、しかも團十郎はこのとき義平の役ひとつだけであった。また『古今いろは評林』においても義平について、「立者の勤めし役也…海老蔵<small>(二代目團十郎)</small>仕内は各別なり」と記し、後半の女房の園とのやりとりをひとつの見せ場としていたことが伺える。

斧九太夫は師直に繋がる人物であり、その九太夫の掛り付けの医者だったのが義平の舅大田了竹である。九太夫は七段目の時点で死んだと見られるが、了竹はいまだ師直と繋がっている可能性があった。そこで義平は自分の女房の園から討入りの秘密が漏れぬよう、いったん自分のそばから園を遠ざけていたのである。そして案の定、離縁状を書いて渡したとき了竹は次のようにいう。

:「聞けばこの間より浪人共が入り込みひそめくより、園めに問へど知らぬとぬかす。何仕出かそうも知れぬ婿、娘を添はして置くが気遣ひ。幸いさる歴々から貰ひかけられ、去り状<small>(離縁状)</small>取ると直ぐに嫁入りさする相談…」

要するに了竹は、義平が師直を仇と狙う塩冶浪士に加担しているのではと疑っていた。これでは園を呼び戻すことも出来ない。園がひそかに店の表に来て離縁状を持ってきたときも、義平は筋が通らぬといってそれを突き返したが、それだけではなく了竹本人のことが枷となっていたのである。しかし義平と園のあいだにはよし松という幼い子もあり、よし松のことを気遣い嘆く園を不憫であると義平も本心では思っていた。だがそうかといって今、中に入れるわけには…と、この女房とわが子をめぐる葛藤が、義平を演じる役者にとっては古くは見せ場のひとつになっていたということである。しかし初演からはるか後になるとこうした見どころも、人々の目から見れば飽き足らないものとなってしまったようである。

== 十一段目・合印の忍び兜 ==
=== あらすじ<small>(十一段目)</small> ===
('''討入りの段''')ついにその日はやってきた。大星由良助らは渡し舟に乗り込み、ひそかに[[稲村ヶ崎]]に上陸する。陸に上がったのは一番が由良助、二番目が原郷右衛門。三番目が大星力弥…と、四十六名の者達が、揃いの袴に黒羽織、胴には「忠義」の文字を入れた胸当てを着け、さらに各々の名を記した袖印を付けている。兼ねてよりの「天」と「河」との合言葉を忘れるなと云い合わせ、取るべき首はただひとつと、皆は師直の館へと向う。

かくとは知らぬ師直は、伝え聞いた由良助の放蕩が本当だと真に受け油断していた。今日も今日とて薬師寺次郎左衛門を客とし、芸子や遊女も呼んで飲めや騒げやの大騒ぎ、果ては酔いつぶれて誰彼の別なくその場で雑魚寝のだらしなさである。その油断を狙って矢間重太郎と千崎弥五郎が館の塀に梯子を掛け、そのまま登って塀の中へと忍び入った。館の内から表門のかんぬきを外し、皆を招き寄せる。館の建物には雨戸が入れてあったが、あの山科の閑居で由良助が本蔵に見せたように、竹をたわめて綱を張り、その綱を切った反動で雨戸をばらばらと外し、諸士は裏門からも提灯や[[松明]]を持って邸内へと乱れ入った。これに「スハ夜討ちぞ」と師直側も気付き斬り合いとなるが、由良助は「ただ師直を討取れ」と諸士に下知する。
[[Image:Act XI - 2º Episodio.jpg|thumb|right|330px|「忠臣蔵 夜討二・乱入」 竹に綱を張って作った弓を雨戸にはめ、綱を切ると雨戸がばたばたと外れる。広重画。]]
すると師直の館の両隣にある屋敷でも師直邸での騒ぎに気が付き提灯を高く掲げ、何の騒ぎかと由良助たちに呼びかけた。由良助は、自分たちは塩冶判官の旧臣たちである、亡君の仇である師直を討ちに来たのであり、そのほかに危害を加えるつもりはないと申し述べると、両隣の二つの屋敷は神妙であると感心し、提灯を引いて静まり返った。

やがて戦いから一時ばかりが過ぎたが、師直側は手負いの者数知れず、味方は二、三人ばかりが薄手を追っただけである。ところが肝心の師直が、屋敷のどこを探しても見当たらない。もしや館から外へ逃れたのかと、寺岡平右衛門が表へと駆け出そうとするまさにその時、矢間重太郎が師直を引っ立てて現れた。柴部屋に隠れていたのを見つけたのだという。由良助は「出かされた手柄手柄。さりながらうかつに殺すな。仮にも天下の執事職、殺すにも礼儀有り」と師直を上座に据え、おとなしく首を渡すように述べると師直は、兼ねてから覚悟はしていた、さあ首取れといいながら油断させ抜き打ちに切りかかった。だが由良助はそれを避け、「日ごろの鬱憤この時」と切りつけると、それに続いて諸士たちも師直に刀を浴びせ、最後は判官が切腹に使った刀によってその首を掻き切る。ついに本懐は遂げられた。一同の喜びようはこの上もなく、みな嬉し涙に暮れるのであった。

由良助は懐より塩冶判官の位牌を取り出し、師直館の床の間に据え、さらにその前に師直の首を置いて亡君に手向け、涙して礼拝する。その位牌へ焼香の一番目には、師直を見つけた矢間重太郎が行った。その二番目には由良助がと皆が勧めるが、由良助は「イヤまだ外に焼香の致し手有り…早の勘平がなれの果て」と言って懐より縞の財布を取り出した。これこそはあの勘平を苦しめ自害させ、そしてせめてこれだけでも討ち入りのお供にと勘平から託されたあの財布である。「金戻したは由良助が一生の誤り」と、寺岡平右衛門に「そちが為には妹聟」と財布を渡し、亡君への焼香をさせるのだった。平右衛門は「二番の焼香早の勘平重氏」と高らかに、しかし涙声で呼ばわって焼香する。諸士の面々も勘平の身の上に、胸も張り裂ける思いである。

そのとき俄に人馬の声と陣太鼓、そしてときの声が上がる。さてはまだいる師直の家来たちが攻め懸けてきたかと思うところ、そこへさらに駆けつけてきたのは桃井若狭之助。若狭助は、今表から攻めてきたのは師直の弟師安の手勢で、ここはひとまず判官の菩提所光明寺へと退くようにという。由良助たちはその言葉に従い、後のことは若狭之助に任せて立ち退くことにした。すると今までどこに隠れていたのか、薬師寺と鷺坂伴内が現われ、「おのれ大星のがさじ」と討ってかかる。それらの相手に力弥が切り結んだが、最後は薬師寺も伴内も斬られて息絶え、それを見た人々は手柄手柄と賞美するのであった。

=== 解説<small>(十一段目)</small> ===
すでに述べてきたように、『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっているが、これを内容の上で通常の五段続の義太夫浄瑠璃に当てはめるとすれば、次のようになる。

*【大序、二段目、三段目】…'''初段'''
*【四段目】…'''二段目'''
*【五段目、六段目】…'''三段目'''
*【七段目、八段目、九段目】…'''四段目'''
*【十段目、十一段目】…'''五段目'''

五段続の浄瑠璃では五段目は物語の大団円を描くものだが、それはほんの申し訳程度の場面を付け加えたものであることが多い。ゆえに義太夫浄瑠璃の五段目はその多くが早くに廃滅し演じられなくなった。またこれは歌舞伎でも同様で、三段目の切または四段目の切まで演じてそれを「大詰」とするのが常であった。しかしこの五段目に当たる『仮名手本忠臣蔵』の十一段目は、「討入り」の場面として現在に至るも演じられている。それは後に述べるように、原作通りではない改変された内容になってはいるものの、浄瑠璃や歌舞伎の芝居の中ではこれも冒頭の「大序」と同じく、稀な例といえる。

原作の十一段目の内容は近松の『碁盤太平記』の討入りの段によるところが大きい。冒頭の「柔能く剛を制し弱能く強を制するとは、張良に石公が伝えし秘法なり」というのも、この『碁盤太平記』から取ったもので、これをはじめとして浄瑠璃の詞章にかなりの部分を借りている。最初に由良助たちが船に乗って稲村ヶ崎を過ぎ岸に上がり、師直の館に討ち入って以降のくだりもおおむね同じといえる。しかし『仮名手本忠臣蔵』ではこの最後の場面で早の勘平を「財布」という形で登場させ、また討入りした浪士の人数を「四十六人」としており、じつはこの勘平も加えて「四十七人」としている。

この段は、歌舞伎では原作の浄瑠璃からは完全に離れた内容となる。極端にいえば、上演ごとに異なった台本や演出となるので内容が一定しない。しかし由良助ら義士が師直の館に討ち入り、師直側と大立ち回りのすえ最後は炭小屋に隠れていた師直を討ち取るという段取りはおおむね変わらない。その一例として以下を掲げる。
[[Image: Kanadehon Chūshingura by Toyokuni Utagawa III.jpg|thumb|350px|「十一段目」 左から[[岩井半四郎 (8代目)|三代目岩井粂三郎]]の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、[[市川團蔵 (6代目)|二代目市川九蔵]]の寺岡平右衛門。[[嘉永]]2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。]]
:(高家門前の場)由良助、力弥ら浪士たちは師直館の門前に居並び、師直邸へと討ち入ろうとする。
:(高家討ち入りの場)浪士たちと師直の家来たちとのあいだで大立ち回りが演じられる。清水一角などが雪の降るなか浪士たちと応戦。<!--力弥が師直の子[[高師泰|師泰]]と、勝田新左衛門が小林平八郎と斬り結ぶ。-->最後には浪士たちは炭小屋に隠れていた師直を見つけ引き出す。由良助は判官の形見の腹切り刀を差し出し自害するよう師直に勧めるが、師直はその刀で由良助に突きかかってくる。由良助は師直から刀をもぎ取り刺し殺す。そしてその首を討ち、由良助たちはついに本懐を遂げ勝どきをあげる(現行では、ここで終演となる事が多い)。
:(花水橋引き揚げの場)一同は師直の館を引き揚げ、判官の墓所のある光明寺(泉岳寺)へと向う。その途中、花水橋([[両国橋]]に相当)で騎馬の桃井若狭之助(または服部逸郎)と出会い、若狭之助は一同の労をねぎらう。由良助たちは若狭之助と別れ、花道を通って引っ込み幕。

なお「引き揚げの場」は嘉永2年9月、江戸中村座で初めて上演された。

== その後の上演 ==
寛延元年の8月14日から竹本座で上演された『仮名手本忠臣蔵』は、「古今の大入り」となった。ところがその興行の最中、竹本座の中で揉め事が起こる。それは人形遣いの筆頭である[[吉田文五郎]]と、太夫の筆頭である竹本此太夫が九段目について演出上のことで対立し、最後は此太夫がほかの主要な太夫たち数名とともに竹本座を離れ、竹本座とはライバルであった豊竹座へと移籍してしまったのである。この騒動の後も竹本座では太夫を編成し直して興行を続けてはいたものの、次第に入りは薄くなり、その年の11月なかばには千秋楽となってしまった。しかし『仮名手本忠臣蔵』自体の人気はこれ以後も衰えることはなく、竹本座や豊竹座が退転したのちも人形浄瑠璃において上演を繰り返し、現在の文楽へと伝えられている。

江戸で人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』が上演されたのは大坂竹本座での初演の翌年、寛延2年の正月のことである。このときは文五郎と此太夫の騒動の余波で竹本座を離れ、さらに大坂も離れて江戸に下っていた[[豊竹駒太夫]]が堺町の肥前座で、『忠臣蔵』の七段目と九段目を語った。この興行も「古今無類の大当り」といわれるほどの大評判を取ったという。

いっぽう歌舞伎としては、竹本座で初演されたその年の12月1日、大坂[[中座|中の芝居]]において『仮名手本忠臣蔵』は初めて上演された。江戸では翌寛延2年2月6日より[[森田座]]で、同年5月5日からは市村座で、6月16日には中村座で上演された。京都では同年3月15日より中村松兵衛座(北側芝居)での上演が最初である。その後歌舞伎においても途切れることなく、現代に至るまで上演を繰り返している。

その上演頻度は、歌舞伎だけに限っても初演から幕末までのおよそ120年間、江戸と上方の「大芝居」すなわち官許の大きな劇場だけで『仮名手本忠臣蔵』は280回興行されているが、そのほか『仮名手本』ではない赤穂義士劇も165回上演されており、これを平均すると年に四回というペースで上演されていたことになる。当時は今と違い、歌舞伎の演目はその都度新作を書いて上演するのが建前であったことを考えれば、『仮名手本』を含めた赤穂義士劇の人気がどれほど高かったかが伺えよう。そのあまりの上演頻度に「なんぼ歌舞伎の独参湯じゃというて、湯茶の代りに飲んでは効くまいぞ」(『役者金剛力』、天保11年〈1840年〉刊)といわれるほどであった。そして『忠臣蔵』の人気は近代以降も衰えることがなかった。

赤穂義士劇は上でも述べたように古くはその「世界」等が定まらなかったが、『仮名手本忠臣蔵』が上演され人気を博してからは、これ以後書かれた浄瑠璃・歌舞伎の赤穂義士劇も『仮名手本忠臣蔵』における「世界」と人物設定を用いて作劇されるようになった。また『忠臣蔵』の人気は芝居だけに留まらず文芸や音曲、寄席芸、大道芸、果てはおもちゃの類にと、ありとあらゆるものに取り上げられているが、それらについては[[忠臣蔵物]]の項に譲ることとする。『仮名手本忠臣蔵』の人気により、「遅かりし由良之助」のように元禄赤穂事件に関わる実在の人物の名よりも、本作における登場人物の名が用いられることもあった。
[[File:Sadanji Ichikawa II and Sergei Eisenstein.jpg|thumb|280px|1928年、歌舞伎ソ連公演中のモスクワにて。左は大星由良助に扮した二代目市川左團次、右は旧ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン。]]
昭和3年(1928年)8月、旧[[ソ連]]において史上初の歌舞伎の海外公演が行われることになった。これは前年11月に[[小山内薫]]が[[モスクワ]]を訪問した折、ソ連側の関係者との話がきっかけで実現したものである。座組は[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]以下20名、ほかに竹本や[[長唄]]、大道具小道具[[床山]]など総勢48名がソ連へと渡航し、モスクワと[[レニングラード]]の劇場で二十六日間に渡って歌舞伎の公演を行った。この公演は大好評、連日の大入り満員を以って迎えられたが、このとき演目のひとつとして『仮名手本忠臣蔵』が大序から四段目まで、それに討ち入りも加えて上演された。この『忠臣蔵』を見た[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]は、四段目の明け渡しの場での左團次扮する大星由良助の演技について、興味深く記録している。

しかし[[第二次世界大戦]]直後、『忠臣蔵』は上演禁止の憂き目にあう。戦後日本を占領統治下においた[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]は[[軍国主義]]につながるものを禁止していったが、歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体だったとされ、そのように看做された一部の演目が上演を禁じられた。そのなかでも特に『忠臣蔵』は危険な演目であるとして目をつけられ、これも上演が禁止されていたのである。

昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れた[[東京劇場]]で『仮名手本忠臣蔵』は上演された。このときは昼夜二部制の九段目までの上演で、二段目と八段目を略し、四段目の次に『落人』を出す構成であった。主な配役は以下の通りである。

*塩冶判官、戸無瀬(二役)…三代目中村梅玉
*高師直、早野勘平(二役)…六代目尾上菊五郎
*大星由良助、不破数右衛門…[[松本幸四郎 (7代目)|七代目松本幸四郎]]
*かほよ御前、一文字屋お才、お石(三役)…[[澤村宗十郎 (7代目)|七代目澤村宗十郎]]
*桃井若狭之助、寺岡平右衛門、加古川本蔵(九段目)(三役)…[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]
*足利直義、おかる(落人)…[[市村羽左衛門 (16代目)|十六代目市村羽左衛門]]・[[中村勘三郎 (17代目)|四代目中村もしほ]](一日替り)
*おかる(六・七段目)…[[中村時蔵 (3代目)|三代目中村時蔵]]
*石堂右馬之丞、千崎弥五郎(二役)…[[坂東三津五郎 (7代目)|七代目坂東三津五郎]]
*定九郎、薬師寺次郎左衛門(二役)…[[市川團十郎 (11代目)|九代目市川海老蔵]]
*大星力弥…七代目尾上梅幸
*鷺坂判内(落人)…二代目尾上松緑
*判人源六(六段目)…[[市川左團次 (3代目)|四代目市川男女蔵]]
*小浪…[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村芝翫]]

これは当時考えられる最高の配役といえるものであったが、この配役についてはGHQの検閲官だった[[フォービアン・バワーズ]]の指示によるものがあったという。ともあれこの興行は初日から満員御礼で、切符を求める客が殺到する大当りとなった。

== 現行の歌舞伎での上演形態 ==
『仮名手本忠臣蔵』は現在でもほぼその全段が演目として残っている稀な義太夫浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし現行の歌舞伎では、上演時間等の都合によって以下のように内容を大幅に省略している。

*大序 : おおむね省略なし。
*二段目 : ほとんど上演されず、上演することがあっても改作の「建長寺」を二段目として出すことが多い。
*三段目 : ほとんどの場合「どじょうぶみ」と「裏門」を省略し、また幕間を置かず次の四段目を続けて上演する。
*四段目 : 「花籠」が省略され、この四段目のあと清元『落人』を挿入する。
*五段目 : 省略なし。普通ではこのあと幕を引かずに舞台を廻し、すぐに六段目の場となる。
*六段目 : 原作冒頭のおかると母のやりとりから、一文字屋(お才)が訪ねて来るまでを略す。
*七段目 : 冒頭の九太夫と伴内の登場を略す。なお現行では通しでもこの七段目までしか上演されず、その後に「討ち入り」の幕が付け加えられることがある。
*八段目 : みどり狂言形式の興行で、独立した所作事として上演されることがある。
*九段目 : これもみどり狂言形式の興行で、一幕物の演目として上演されることがある。ただしそれでも「雪転し」が通常省略される。
*十段目 : ほとんど上演されない。
*十一段目 : 現行の討ち入りの場面は原作の浄瑠璃の内容に基づくものではなく、幕末から明治にかけての後人の補筆によるものである。

要するに現行で上演される場合には、

#'''大序'''
#'''三段目・四段目'''
#『'''落人'''』(ここまで昼の部)
#'''五段目・六段目'''
#'''七段目'''(このあと「討ち入り」の幕が付く事あり)

という構成になることが多い。なお通常二段目・八段目・九段目はあまり上演を見ないが、昭和49年(1974年)の国立劇場において逆に二段目・八段目・九段目だけを上演するという試みがあった。こうしないと、九段目までに至る力弥と小浪の関係がほとんどわからないからである。

== 刊行本 ==
『仮名手本忠臣蔵』の本文は近代以降に活字本として出版されたものも多い。以下はその本文を収めた刊行本について、後述の参考文献と重なるものも多いが掲げておく。現在の公立図書館や一般の書店で目にしやすいと見られるものに限った。

;浄瑠璃本
*『日本古典文学大系』51(岩波書店) : 『浄瑠璃集 上』
*『新潮日本古典集成』(新潮社) : 『浄瑠璃集』
*『新編日本古典文学全集』77(小学館) : 『浄瑠璃集』
*『岩波文庫』(岩波書店) : 『仮名手本忠臣蔵』 ※1937年初版のものを2013年に復刻したもの(リクエスト復刊)。付録として『古今いろは評林』を収録する。

;歌舞伎脚本
*『名作歌舞伎全集』第二巻(東京創元社) : 丸本時代物集一
*『歌舞伎オン・ステージ』8(白水社) : 『仮名手本忠臣蔵』 ※注釈付き。


== こぼれ話 ==
「天川屋義平は男でござる」の名科白が有名で、戦前まで比較的よく上演されていたが、現在では内容が古すぎて観客の共感を呼べず、あまり上演することがない。戦後も[[市川猿翁 (初代)|二代目市川猿之助]]、[[坂東三津五郎 (8代目)|八代目坂東三津五郎]]、1986年(昭和61年)12月国立劇場の通しで[[中村富十郎 (5代目)|五代目中村富十郎]]が、2010年(平成22年)1月大阪松竹座の通しで[[片岡我當 (5代目)|五代目片岡我當]]がつとめたくらいである。
;大序
*[[梨園]]ではこの『忠臣蔵』に限っては、どの役柄でも先人に教えを乞うことは恥といわれるほどである。八代目坂東三津五郎がまだ坂東蓑助と名乗っていた十代のころ、大序の直義をはじめて演じることになった。役をあてられた役者には、その役者が言うべきせりふだけを記した「書き抜き」が渡されるが、蓑助が渡された書き抜きを見ると表紙だけで中身がない。それで父親の七代目三津五郎に「お父さん表紙しかない」というと、「そんなこといったら恥をかくよ。忠臣蔵は全部ないんだ」といわれたという。要するに役者にとっては改めて書き抜きなど貰う必要はなく、普段から何の役だろうとよく心得ておき、これをやれといきなり言われても出来て当たり前なのが『忠臣蔵』なのだということである。この表紙だけの書き抜きは『菅原伝授手習鑑』や『義経千本桜』においてもそうだったという。
*八代目三津五郎が十八、九のころ、東京劇場で『忠臣蔵』が上演されたときのこと。大序の鶴岡八幡の舞台に飾られる大銀杏の木は、葉が黄色いのが従来からの約束であるが、本文には「暦応元年二月下旬」とある。この食い違いに[[坂東彦三郎 (6代目)|六代目坂東彦三郎]]が異を唱えた。「これは秋じゃァねえんだ。本文によれば二月下旬(陰暦)なんだから黄色いわけがねえ」と、葉の色を青葉に変えさせた。ところが初日の幕が開き、当時辛口の劇評家として知られた[[岡鬼太郎]]がこの青葉の大銀杏を見て、「だれがこんなことをした」とカンカンに怒った。次の日、大銀杏の葉はいつも通りの黄色に戻ったという。


===十一段目===
;三段目
*六代目尾上菊五郎が師直、塩冶判官が三代目中村梅玉で三段目の「喧嘩場」を演じたときのこと。舞台で梅玉と二人だけとなった菊五郎がふと梅玉の腰の辺りを見ると、刀を差していない。塩冶判官が師直に斬りつけるのだから刀がなくては話にならないが、菊五郎が梅玉に「笹木さん<small>(梅玉の本姓)</small>刀ありませんなあ」というと「はァおまへんな」と悠然としている。さすがの六代目もこれには慌て、後見に刀を持ってこさせようと、そのあいだ菊五郎がアドリブでいろいろなせりふを入れてその場をしのいだという。
[[Image:Kuniyoshi Utagawa, The Chushingura.jpg|thumb|300px|忠臣蔵十一段目夜討之図、[[歌川国芳]]作]]
*別名:師直屋敷討ち入りの場


;四段目
この段のみ、歌舞伎では、本行から完全に離れた台本となる。極端に言えば、上演ごとに異なった台本となる。そのためあらすじは一定せず、さまざまな変形がある。但し、いかなる場合でも物語の芯になるのは、由良助ら義士が師直を討ち取るという物語である。
*屋敷明け渡しで由良助が門前から去るときに烏が鳴く。烏笛という笛を吹くのであるが、或る役者がこの明け渡しの由良助をやったとき本物を使おうと、その劇場の屋根に魚を置き、それを餌に烏をおびき寄せ鳴かそうとしたという。しかし人間と違って本物の烏のこと、やはりうまくいかずに失敗したのだとか。ちなみに初代中村吉右衛門の門人[[中村秀十郎]]はこの烏笛の名人だった。


;五段目
====高家討ち入りの場====
*猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。ある大部屋役者が猪役に出ることになって、花道のかかりで待機していたら寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花道から舞台に走り出したらちょうど四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し芝居がめちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」(猪)に聞こえてしまったのである。
由良助、力弥ら判官の家臣たちは表門と裏門に分かれて師直邸へ討ち入る。大立ち回りが演じられ、力弥が師直の子[[高師泰|師泰]]と、勝田新左衛門が小林平八郎と斬り結ぶ。判官の家臣たちは炭小屋に隠れていた師直を引きずり出す。由良助は判官の形見の短刀を差し出し自害するよう勧めるが、師直はその短刀で突きかかって来る。由良助は短刀をもぎ取り、師直を突き刺す。由良助たちは遂に本懐を遂げ、師直の首をはねた。
*ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕の係がお前にも中村屋や成田屋みたいに声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろうと思った。いよいよ本番、猪が花道から飛び出した。すると揚幕係がかけたのが「ももんじ屋!」、場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
*また昔はかなりいい加減なというか、おどけた事も許されていた。ある猪役の役者は本舞台にかかると、松の木に手をかけ見得をして「あすこに見えるは芋畑、どりゃひとつ食べてみるべえかい」と科白を廻したことがある。
*与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような[[川柳]]が詠まれている。「五段目で 運のいいのは 猪<small>(しし)</small>ばかり」
*与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、京都府長岡市友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない(『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊)。<!--(この本では観光名所として取り上げられている)-->


;九段目
====柴部屋焼香の場====
*加古川本蔵が山科閑居に虚無僧姿で現われるが、この虚無僧の深編笠は、江戸時代には劇場側が芝居の小道具として作ってはならない決まりであった。それは実際に虚無僧が使っている編笠を、虚無僧寺から借りてきて使ったのである。この虚無僧の編笠をめぐる事件が当時起こっている。それは『仮名手本』ではないが忠臣蔵物のひとつ『太平記忠臣講釈』を上演した際に、登場人物がやはり虚無僧姿で出たときのこと、その役者が編笠を伏せて置いたのが大問題になった。虚無僧が編笠を伏せて置くのは、その虚無僧が重罪人であることを示すものだったからである。この舞台をたまたま見ていた虚無僧がこれに怒り、虚無僧の作法ではないと仕切場(劇場の事務方)に怒鳴り込んだ。結局、劇場側は謝罪文を書いて詫びたという。
*別名:財布の焼香
*平成19年(2007年)1月、大阪松竹座午後の部の「九段目」では[[市川團十郎 (12代目)|十二代目市川團十郎]]の由良助、四代目坂田籐十郎の戸無瀬で上演され、このときの午前の部の『[[勧進帳]]』とともに、「市川團十郎」と「坂田藤十郎」の史上はじめての共演が実現した。
====裏門引き上げの場====
一同は引き揚げる。花水橋(両国橋に相当)で桃井若狭之助(または服部逸郎)と出会い、若狭之助は一同の労をねぎらう。由良助たちは再び行進し、判官の墓所のある光明寺へ向かう。


;十一段目
==上演規制==
*討入りの場面では雪が降るのが約束だが、この雪は三角形の紙でできた雪である(現在では三角ではないこともある)。江戸時代には、『忠臣蔵』の討入りのように雪の降る芝居を出すときには[[髪結床]]を廻り、髪を結うときに出る元結の切れ端を集めた。その白い切れ端を雪にするためで、ほんらい捨てるものを利用して舞台に生かしたのである。
===江戸時代===
この[[元禄赤穂事件]]は、武家社会の醜聞であり、やり方によっては幕政批判に通じかねないことから、上演は繰り返し弾圧されてきた。50年近くも経ってようやく上演されても無害と考えられるようになったのである。


== 登場人物の実説との比較 ==
===米国による占領時代===
以下、参考として『仮名手本忠臣蔵』の主な登場人物と、それに当て嵌まるとされる実説上の人物について示す。あくまでも実説との比較なので、与市兵衛やその女房といった創作上の人物は省く。また四十七士についてもその全てを掲げるのは煩瑣なので、由良助、力弥、郷右衛門、弥五郎、平右衛門を除きそれらも省いた。
[[第二次世界大戦]]後の占領軍は、[[軍国主義]]につながるものすべてを禁止していった。歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体だったといわれ、最も強硬に弾圧されていった。数年は古典歌舞伎の上演ができないものと考えられたくらいである。その禁を少しずつ解いていったのが、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]総司令官の副官[[フォービアン・バワーズ]]陸軍少佐である。<!--
{| class="wikitable" style="text-align:left"
このように伝えられているが、GHQの秘密資料の研究から、バワーズは上司のアール・アーンストの解禁の規定路線を継承しただけであり、バワーズ自身が解禁の功績を一人じめにするために、自らが作り上げた自作の英雄伝説が、日本では今日まで伝わっている。現在ではバワーズの証言で歴史を再構成することは危険であるといわれている。--><!-- 文脈が途切れ、記述が自己矛盾して、読者に対してはいかにも不親切ですので、いったん下書きにします-->
! style="width:25%" | 登場人物 !! style="width:18%" | 登場する段 !! style="width:18%" | 人物設定 !! モデル・備考
バワーズ自身の述懐によると、バワーズは交戦前に日本滞在の経験があり、実は大の歌舞伎好き・見巧者だったという。彼は歌舞伎の根底に流れているのが危険な軍国主義ではなく人間のドラマであることを知っていたので、次々に禁止演目を縮小していった。最後に残った大演目が仮名手本忠臣蔵だった。バワーズは、[[松竹]]社長の[[大谷竹次郎]]に対して、以下の条件を満たせば忠臣蔵の上演が許可されると告げた。それは
*現在の歌舞伎界で最高の役者たちを揃えること
*その中に関西歌舞伎の高砂屋(三代目中村梅玉)を加えること
高砂屋こそ、新駒屋(中村魁車、戦災で死亡)とともに関西歌舞伎を支えてきた名女形であり、関東の好劇家のなかでその実力の高さが密かに話題になっていた名優だったのである。その他の全ての配役も、バワーズ自身が事実上の指令として出したもので、次の通りだった。
{| class="wikitable"
!役
!役者
|-
|-
! {{smaller|おおぼし ゆらのすけ よしかね}}<br />'''大星由良助義金'''
|塩谷判官<br />戸無瀬
| 四・七・九・十・十一 || 塩冶家[[家老]] || {{small|[[赤穂藩]]浅野家[[家老|筆頭家老]]・[[大石良雄|大石内蔵助(良雄)]]。「ゆらのすけ」は「由良之助」と書かれることが多いが原作に拠る表記は「由良助」。}}
|[[中村梅玉 (3代目)|三代目中村梅玉]]
|-
|-
! {{smaller|えんや はんがん たかさだ}}<br />'''塩冶判官高定'''
|高師直<br />早野勘平
| 一・三・四 || [[伯州]]城主・御馳走役 || {{small|赤穂藩主・[[浅野長矩|浅野内匠頭(長矩)]]。史実の[[塩冶高貞|塩冶判官]]からは、その名と事件の発端となる逸話を借りる。「塩冶」は赤穂藩の名産物「赤穂の塩」にひっかけている。なお本来は「高貞」であるが、原作では「高定」となっている。また「塩冶」が「塩谷」と書かれることも多い。}}
|[[尾上菊五郎 (6代目)|六代目尾上菊五郎]]
|-
|-
! {{smaller|こうの もろのう}}<br />'''高師直'''
|大星由良助<br />不破数右衛門
| 一・三・四・十一 || [[武蔵守]]・幕府[[管領|執事]] || {{small|[[高家 (江戸時代)|高家肝煎]]・[[吉良義央|吉良上野介(義央)]]。史実の[[高師直]]からは、その名と物語の発端となる逸話を借りる。「高」は吉良上野介が「高家」だったことにひっかけている。}}
|[[松本幸四郎 (7代目)|七代目松本幸四郎]]
|-
|-
! {{smaller|あしかが ただよし}}<br />'''足利直義'''
|顔世御前<br />一文字屋お才<br />お石
| 一 || [[征夷大将軍|将軍]]足利尊氏の弟 || {{small|京から下向して饗応を受けるとすれば、史実の[[勅使]][[柳原資廉]]<!--同・[[高野保春]]、[[院使]]・[[清閑寺熈定]]-->らにあたるが、通常は五代将軍[[徳川綱吉]]に擬えられている。}}
|[[澤村宗十郎 (7代目)|七代目澤村宗十郎]]
|-
|-
! {{smaller|かおよ ごぜん}}<br />'''かほよ御前'''
|桃井若狭之助<br />寺岡平右衛門<br />加古川本蔵(九段目)
| 一・四 || 塩冶判官の正室 || {{small|浅野内匠頭正室・[[瑤泉院|阿久利(瑤泉院)]]。『太平記』に記される塩冶高貞の妻からは、事件の発端となる逸話を借りる。ただし『太平記』では高貞の妻の名については記していない。高貞の妻の名を「かほよ」とするのは『狭夜衣鴛鴦剣翅』([[並木宗輔]]作、[[元文]]4年〈1739年〉初演)などに例がある。}}
|[[中村吉右衛門 (初代)|初代中村吉右衛門]]
|-
|-
! {{smaller|いし}}<br />'''石'''
|足利直義<br />おかる(落人)
| 九 || 大星由良助の妻 || {{small|大石内蔵助の妻・[[香林院|りく(香林院)]]。}}
|[[市村羽左衛門 (16代目)|十六代目市村羽左衛門]]・[[中村勘三郎 (17代目)|四代目中村もしほ]]<br />   <small>(一日替わりのダブルキャスト)</small>
|-
|-
! {{smaller|おおぼし りきや}}<br />'''大星力弥'''
|おかる(六・七段目)
| 二・四・七・九・十・十一 || 大星由良助の嫡男 || {{small|大石内蔵助の嫡男・[[大石良金|大石主税(良金)]]。「力弥」は「主税」を「ちから」と読むことにひっかけている。}}
|[[中村時蔵 (3代目)|三代目中村時蔵]]<br />
|-
|-
! {{smaller|もものい わかさのすけ やすちか}}<br />'''桃井若狭之助安近'''
|石堂右馬之丞<br />千崎弥五郎
| 一・二・三・十一 || 浅野内匠頭と相役の御馳走役 || {{small|[[津和野藩]]主・[[亀井茲親]]。亀井茲親の官位は、はじめ能登守、のちに隠岐守で、「若狭之助」は[[若狭国]]が[[能登国]]と[[隠岐国]]の中間に位置していることにひっかけている。}}
|[[坂東三津五郎 (7代目)|七代目坂東三津五郎]]
|-
|-
! {{smaller|かこがわ ほんぞう ゆきくに}}<br />'''加古川本蔵行国'''
|定九郎<br />薬師寺次郎左衛門
| 二・三・九 || 桃井家家老 || {{small|津和野藩亀井家家老・[[多胡真蔭|多胡外記(真蔭)]]。ただし浅野長矩を松の廊下で抱きとめた[[梶川与惣兵衛]]を当てる事もある。}}
|[[市川團十郎 (11代目)|九代目市川海老蔵]]
|-
|-
! {{smaller|おの くだゆう}}<br />'''斧九太夫'''
|大星力弥
| 四・七 || 塩冶家家老 || {{small|赤穂藩浅野家家老・[[大野知房|大野九郎兵衛(知房)]]。}}
|[[尾上梅幸 (7代目)|七代目尾上梅幸]]
|-
|-
! {{smaller|おの さだくろう}}<br />'''斧定九郎'''
|鷺坂判内
| 四・五 || 斧九太夫の嫡男 || {{small|大野九郎兵衛の嫡男・[[大野群右衛門]]。}}
|[[尾上松緑 (2代目)|二代目尾上松緑]]
|-
|-
! {{smaller|はやの かんぺい しげうじ}}<br />'''早の勘平重氏'''
|判人源六(六段目)
| 三・五・六 || 塩冶家家臣 || {{small|赤穂藩士[[萱野重実|萱野三平(重実)]]。「はやの」は「早野」と書かれることが多いが、原作の表記では「早の」である。}}
|[[市川左團次 (3代目)|四代目市川男女蔵]]
|-
|-
! '''おかる'''
|小浪
| 三・六・七 || 百姓与市兵衛の娘で早の勘平の女房、のち一文字屋抱えの[[遊女]] || {{small|大石内蔵助の妾・[[お軽|二文字屋おかる]]。}}
|[[中村歌右衛門 (6代目)|六代目中村芝翫]]
|-
! {{smaller|はら ごうえもん}}<br />'''原郷右衛門'''
| 四・六・十一 || 塩冶家諸士頭 || {{small|赤穂藩足軽頭・[[原元辰|原惣右衛門]]。}}
|-
! {{smaller|せんざき やごろう}}<br />'''千崎弥五郎'''
| 四・五・六・七・十一 || 塩冶家家臣 || {{small|赤穂藩[[徒目付]]・[[神崎則休|神崎与五郎]]。}}
|-
! {{smaller|てらおか へいえもん}}<br />'''寺岡平右衛門'''
| 七・十一 || おかるの兄で、塩冶家[[足軽]] || {{small|赤穂藩足軽・[[寺坂信行|寺坂吉右衛門(信行)]]。}}
|-
! {{smaller|あまがわや ぎへい}}<br />'''天河屋義平'''
| 十 || 塩冶家に出入りの廻船問屋 || {{small|赤穂浪士を支援したと伝わる[[天野屋利兵衛]]。}}
|-
! {{smaller|やくしじ じろうざえもん}}<br />'''薬師寺治郎左衛門'''
| 四 || 塩冶判官に非情な切腹の上使 || {{small|幕府[[大目付]]・[[庄田安利|庄田三左衛門(安利)]]。}}
|-
! {{smaller|いしどう うまのじょう}}<br />'''石堂右馬之丞'''
| 四 || 塩冶判官に同情的な切腹の上使 || {{small|幕府[[目付]]・[[多門重共|多門伝八郎(重共)]]。「石堂」は「多門」を「おかど」と読むことにひっかけている。}}
|}
|}
これは当時考えられる最高の配役といえるものであり、バワーズは非常に歌舞伎に精通していたと考えられる。上演は昭和22年 (1947) 11月<!--だったが、戦災で[[歌舞伎座]]([[1951年]]再開)、や[[新橋演舞場]]([[1948年]]再開)などほとんどの劇場を焼失していたため、-->[[東劇|東京劇場]]で行われた。初日から満員御礼で切符を求める客が殺到する大当たりとなった。<!--[[天皇]]は来なかったが[[皇后]]([[香淳皇后]])が観劇している。こののち、役者の多くは次のように死去している。
*三代目中村梅玉 1948年死去
*七代目松本幸四郎 [[1949年]]死去
*七代目澤村宗十郎 [[1949年]]死去
*六代目尾上菊五郎 [[1949年]]死去
*十六代目市村羽左衛門 [[1952年]]死去
*'''大播磨'''中村吉右衛門 [[1954年]]死去
*三代目中村時蔵 [[1959年]]死去
*七代目坂東三津五郎 [[1961年]]死去
*十一代目市川團十郎 [[1965年]]死去
*十七代目中村勘三郎 [[1988年]]死去
*二代目尾上松緑 [[1989年]]死去
*七代目尾上梅幸 [[1995年]]死去
*六代目中村歌右衛門[[2001年]]死去


== 参考文献 ==
この座組は二度と揃わなかった。
*渥美清太郎編 『日本戯曲全集第五十巻歌舞伎篇第五十輯 赤穂義士劇集』 春陽堂、1928年
--><!--
*黒木勘蔵編 『日本名著全集江戸文芸之部第二十八巻 歌謡音曲集』 日本名著全集刊行会、1928年 ※『増補忠臣蔵』(本蔵下屋敷)、清元『道行旅路の嫁入』、『道行旅路の花聟』所収
*伊坂梅雪編 『五代目尾上菊五郎自伝』 先進社、1929年 ※「高師直」(89頁)の項。[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171078?tocOpened=1 近代デジタルライブラリー]に本文あり。
*常磐津文字太夫校 『定本常磐津全集』 定本常盤津全集刊行会、1943年 ※「仮名手本忠臣蔵 八段目道行」と称して文政5年の『旅路の嫁入』の詞章を収める。[http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1141967?tocOpened=1 近代デジタルライブラリー]に本文あり。
<!--*戸板康二『忠臣蔵』東京創元社 1957年 現在に至るまで忠臣蔵研究の決定版-->
*乙葉弘校注 『浄瑠璃集 上』〈『日本古典文学大系』51〉 岩波書店、1960年
*『名作歌舞伎全集』(第二巻) 東京創元社、1968年
<!--*渡辺保『忠臣蔵-もう一つの歴史感覚』(『中公文庫』)、中央公論社、1985年12月。ISBN 4-12-201285-6 -->
*土田衞校注 『浄瑠璃集』〈『新潮日本古典集成』〉 新潮社、1985年
*中山幹雄 『忠臣蔵物語』〈『浮世絵かぶきシリーズ』3〉 學藝書林、1988年
*赤間亮 「最初の赤穂義士劇に関する憶説」 鳥越文蔵編『歌舞伎の狂言 言語表現の追及』 八木書店、1992年
*茂木千佳史編 『歌舞伎海外公演の記録』 松竹株式会社、1992年
*『近松浄瑠璃集 上』〈『新日本古典文学大系』91〉 岩波書店、1993年 ※『碁盤太平記』所収
*服部幸雄編 『仮名手本忠臣蔵』〈『歌舞伎オン・ステージ』8〉 白水社、1994年 
*長谷川端校注・訳 『太平記 ③』〈『新編日本古典文学全集』56〉 小学館、1997年
*服部幸雄編 『歌舞伎をつくる』 青土社、1999年
*関容子 『芸づくし忠臣蔵』 文藝春秋社、1999年<!--『仮名手本忠臣蔵』の古今東西の演出や役者の芸談を分かりやすく載せている。-->
*国立劇場調査養成部芸能調査室編 『国立劇場上演資料集.423 文楽・仮名手本忠臣蔵(第132回文楽公演)』 日本芸術文化振興会、2000年
*浜本保樹 『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』 角川書店、2008年
*国立劇場調査養成部芸能調査室編 『国立劇場上演資料集.541 仮名手本忠臣蔵(第271回歌舞伎公演)』 日本芸術文化振興会、2010年
* 浅野秀剛 『ストーリーで楽しむ「写楽」in大歌舞伎』 東京美術、2011年
*『仮名手本忠臣蔵』〈『岩波文庫』〉 岩波書店、2013年(復刻版) ※『古今いろは評林』所収
*[http://www.enpaku.waseda.ac.jp/db/index.html 早稲田大学演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション]


===外務省===
== 関連項目 ==
[[日本国との平和条約|サンフランシスコ講和条約]]を結び、占領状態も解け、日本が復活しようとしている[[1960年]]、歌舞伎は、[[ニューヨーク]]、[[ボストン]]など[[アメリカ合衆国]][[アメリカ東海岸|東海岸]]で公演を行った。--><!--([[アヅマ・カブキ]]を考慮しなければ、)--><!--昭和3年に二代目左團次の内蔵助で行ったソ連公演が初の海外公演です--><!--歌舞伎が米国で演じられるのはこれが初めてのことだった。『[[勧進帳]]』などとともに、『忠臣蔵』も演目の中に入り、大序・三段目・四段目をかけることになった。しかしここまで決まったときに、判官が切腹するのはいかがなものか、と横槍を入れたのは、なんと日本の[[外務省]]だった。そしてここで歌舞伎を救ったのは、またしてもバワーズだったという。退役後ニューヨークに移り住んでいたバワーズは、「いけません、いけません。! 何をバカなことをやっているのです! 判官が切腹しないなんて、それでは歌舞伎ではありません!」と声高に反論した。かくて、全ての回で通常の台本通りに演じられ、米国人観衆を心から感動させた。--><!--この一節はむしろ「バワーズ」項の記事内容かと-->

==英訳==
*Dickins, Frederick Victor<!-- (1838-1915)-->, ''Chiushingura - or the Loyal League'', Yokohama, 1874–75.
**英字新聞 ''The FarEast'' に連載。
*Dickins, ''Chiushingura - or the Loyal League'', London, 1875.
**上記の単行本。
*Masefield, John<!-- (1878-1967)-->, ''The Faithful'', London, 1915.
**マンスフィールドは、刃傷の原因を色恋沙汰ではなく、吉良が藩領拡張を画策して浅野の領地を狙ったからと書き替えている。
**邦題『忠義』 [[小山内薫]] 訳
**[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]が歌舞伎化。また新国劇版もある。

==外伝==
* 『[[四谷怪談#東海道四谷怪談|東海道四谷怪談]]』- [[鶴屋南北|大南北]] 作。四谷左門も伊右衛門も塩治家家臣で、お家が取り潰された後食い詰めて、物乞い・殺人・強姦など非道を尽くす。
* 『太平記忠臣講釈』- [[近松半二]]ら6名の合作
* 『義臣伝読切講釈』
* 『日本花赤穂塩竈』
* 『菊宴月白浪』- 大南北 作。近年[[市川猿翁 (2代目)|三代目市川猿之助]]が百数十年ぶりに復活上演。
* 『忠臣蔵後日建前』(女定九郎)- 三人の主役たちの妻たちの後日談。定九郎の妻が与市兵衛妻・勘平妻に仇討ちする。もちろん、その手段は小ゆすり・たかり・ぶったくりである
* 『[[元禄忠臣蔵]]』- [[真山青果]] 作。[[市川左團次 (2代目)|二代目市川左團次]]のために書き下ろされた[[新歌舞伎]]の傑作。
* 『[[盟三五大切]]』- 大南北 作。猟奇殺人鬼の源五兵衛は実は不破数右衛門その人で、最後に討ち入りの迎えが来るや即座に忠義に生きる義士にもどる。
* 『[[清水一学|清水一角]]』- [[河竹黙阿弥|二代目河竹新七(黙阿弥)]] 作
* 『[[松浦の太鼓]]』- [[瀬川如皐 (3代目)|三代目瀬川如皐]] 原作、[[勝諺蔵]] 作。討ち入りを待ち望む松浦侯と、俳句を通じて交流がある[[宝井其角]]・大高源吾などの絡み。
* 『[[土屋主税 (歌舞伎)|土屋主税]]』- [[中村鴈治郎 (初代)|初代中村鴈治郎]]のお家芸、『松浦の太鼓』とほぼ同じ設定。

==落語と忠臣蔵==
[[落語]]では、仮名手本忠臣蔵が[[くすぐり#伝統芸能のくすぐり|くすぐり]]や[[落ち]]として使われることもある。仮名手本忠臣蔵そのものを題材とする場合もある。以下に、段と演題を挙げる。
*[[#大序|大序]]:
**『[[村芝居]]』- 農村の秋祭りに地元の男たちで忠臣蔵の芝居をすることにしたが、師直の烏帽子の中に蜂の巣が入っていて・・・。
*[[#二段目|二段目]]:
**『[[芝居風呂]]』
*[[#三段目|三段目]]:
**『[[質屋芝居]]』
*[[#四段目|四段目]]:
**『[[蔵丁稚]]』- そのまま『[[四段目]]』という演題でも演じられる。
**『[[淀五郎]]』- 判官切腹の場面が落ちとなる。
*[[#五段目|五段目]]:
**『[[中村仲蔵 (落語)|中村仲蔵]]』- 定九郎の役をもらった役者・中村仲蔵の話。通常落ちは無い。
**『[[軒づけ]]』- 主人公の失敗譚として噺の序盤に登場する。
*[[#六段目|六段目]]:
**『[[鹿政談]]』- くすぐりが使われる。
*[[#七段目|七段目]]:
**『[[役者息子]]』- そのまま『[[七段目]]』という演題でも演じられる。芝居好きの若旦那が丁稚と二階の部屋で平右衛門とおかるの件を演じ、丁稚が階段の一番上の段から落ちて「怪我はないか」「なあに、七段目」という落ちになる。これを得意とした二代目[[三遊亭円歌]]は、出囃子も七段目幕開きの音楽だった。
*[[#九段目|九段目]]
**噺はあるが、落ちが分かりにくいためあまり演じられていない。
*[[#十段目|十段目]]:
**『[[天野屋利兵衛 (落語)|天野屋利兵衛]]』<!--(天川屋義平)-->- いわゆる「バレ噺」。女と間違えられた天野屋利兵衛が、「天野屋利兵衛は男でござる」と言う落ち。

[[#八段目|八段目]]と[[#十一段目|十一段目]]を題材とした[[落語]]は存在しないといわれている。

この他、[[新作落語]]では仮名手本忠臣蔵全体を題材にすることも試みられている。『吉良の忠臣蔵』([[立川志らく]])、『カマ手本忠臣蔵』([[柳家喬太郎]])、『AKO47~新説赤穂義士伝~』([[月亭八方]])などの作例がある。

==花柳界と『忠臣蔵』==
[[花柳界]]では、人気のある芝居を伏線とする唄が作られることがある。『仮名手本忠臣蔵』では笹や節が代表である。

『忠臣蔵』を元とした浪曲『義士伝』が直接の参照元といわれ、俗曲に分類される曲でありながら、浪曲的な歌い方をする個所がある。

歌詞については流派により異なるが、内容としてはほぼ同じなため、以下に歌詞の一例をあげる。

:''笹や 笹笹 笹や笹 笹はいらぬかすす竹を 大高源吾は橋の上 あした待たるる宝船''
:''赤の合羽に 饅頭笠 降りくる雪も いとわずに 赤垣源蔵は 千鳥足 酒にまぎらす いとま乞い''
:''胸に血を吐く 南部坂 忠義にあつき 大石も 心を鬼に いとま乞い 寺坂来たれと 雪の中''

== 参考文献 ==
*戸板康二『忠臣蔵』東京創元社 1957年 現在に至るまで忠臣蔵研究の決定版
*渡辺保『忠臣蔵-もう一つの歴史感覚』(『中公文庫』)、中央公論社、1985年12月。ISBN 4-12-201285-6
*関容子『芸づくし忠臣蔵』1999年 文藝春秋社 『仮名手本忠臣蔵』の古今東西の演出や役者の芸談を分かりやすく載せている。
<!--
==関連項目==
*[[元禄赤穂事件]]
*[[元禄赤穂事件]]
*[[赤穂浪士]]
*[[赤穂浪士]]
*[[忠臣蔵]]
*[[忠臣蔵]]
*[[道行旅路の花聟]]
*[[道行旅路の花聟]]

*[[歌舞伎]]
== 外部リンク ==
*[[人形浄瑠璃]]-->
<!--すべて本文中に既出-->
==外部リンク==
*[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp1/index.jsp 仮名手本忠臣蔵]
*[http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp1/index.jsp 仮名手本忠臣蔵]
*[http://t-shioji.com/ 塩家のご紹介]
*[http://t-shioji.com/ 塩家のご紹介]


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2013年5月2日 (木) 08:45時点における版

仮名手本忠臣蔵』(かなでほんちゅうしんぐら)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。寛延元年(1748年)8月、大坂竹本座にて初演。全十一段。二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作。元禄赤穂事件を題材としたもの。通称『忠臣蔵』。

大石内蔵助こと大石良雄家紋「二つ巴」。この紋所のことは『仮名手本忠臣蔵』においても作中に記されている。

目次

はじめに

主な登場人物
  1. 大序・鶴岡の饗応 - あらすじ - 解説
  2. 二段目・諫言の寝刃 - あらすじ - 解説
  3. 三段目・恋歌の意趣 - あらすじ - 解説 - 『道行旅路の花聟』
  4. 四段目・来世の忠義 - あらすじ - 解説
  5. 五段目・恩愛の二つ玉 - あらすじ - 解説
  6. 六段目・財布の連判 - あらすじ - 解説
  7. 七段目・大臣の錆刀 - あらすじ - 解説
  8. 八段目・道行旅路の嫁入 - あらすじ - 解説
  9. 九段目・山科の雪転し - あらすじ - 解説 - 『本蔵下屋敷』
  10. 十段目・発足の櫛笄 - あらすじ - 解説
  11. 十一段目・合印の忍び兜 - あらすじ - 解説
  12. その後の上演
  13. 現行の歌舞伎での上演形態
  14. 刊行本
  15. こぼれ話
  16. 登場人物の実説との比較
  17. 参考文献
  18. 関連項目
  19. 外部リンク

はじめに

八代目松本幸四郎の大石内蔵助。映画『忠臣蔵』(昭和29年〈1954年〉松竹製作)より。

江戸城松の廊下吉良上野介に切りつけた浅野内匠頭は切腹、浅野家はお取り潰しとなり、その家臣大石内蔵助たちは吉良を主君内匠頭の仇とし、最後は四十七人で本所の吉良邸に討入り吉良を討ち、内匠頭の墓所泉岳寺へと引き揚げる。この元禄14年から15年(1701 - 1702年)にかけて起った元禄赤穂事件、いわゆる「忠臣蔵」の物語は、演劇をはじめとして音曲、文芸、絵画、さらには映画やテレビドラマなど現代に至るも、さまざまな分野の創作物に取り上げられている。この「忠臣蔵」という題名と現在一般に流布する「忠臣蔵」の物語は、『仮名手本忠臣蔵』を濫觴とするものである。

『仮名手本忠臣蔵』という外題の意味は、赤穂四十七士をいろは四十七文字にかけて「仮名手本」、そして「忠臣大石内蔵助」から「忠臣蔵」としたというのが一般的である。ただし「忠臣蔵」の方には異説もあり、蔵いっぱいにもなるほど多くの忠臣だという意味を持たせたとする説もある。いずれにせよほんらい虚構であるはずの一戯曲の通称が、実際の事件を意味するほどに、『仮名手本忠臣蔵』が世間に与えた影響は大きかったのである。

元禄赤穂事件は、『仮名手本忠臣蔵』以前に浄瑠璃や歌舞伎で扱われている。確認できる最も早い例としては、元禄16年の正月に江戸山村座で上演された『傾城阿佐間曽我』(けいせいあさまそが)の大詰で、曽我の夜討ちにかこつけ赤穂浪士の討入りの趣向を見せたのではないかといわれている。その後元禄赤穂事件を扱ったものとしては『碁盤太平記』(近松門左衛門作)、『鬼鹿毛無佐志鐙』(吾妻三八作)、『忠臣金短冊』(並木宗助ほか作)など多くの作が上演されたが、これらを受けて忠臣蔵物の集大成として書かれたのが本作であり、『菅原伝授手習鑑』、『義経千本桜』とならぶ義太夫浄瑠璃の三大傑作といわれる。かつて劇場が経営難に陥ったとき、上演すれば必ず大入り満員御礼となったことから、薬になぞらえて「芝居の独参湯」とも呼ばれていたほどである。それだけに上演回数もほかの演目と比べれば圧倒的に多く、現在に至るも頻繁に舞台に取り上げられている。

『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっている義太夫浄瑠璃である。本来ならその全十一段の「あらすじ」をまずまとめて示し、その後に作品の内容について解説すべきであるが、上でも触れたように本作は現在に至るまで頻繁に上演されている人気演目であり、この全十一段は文楽と歌舞伎いずれも、おおむね現行演目として伝承されている。従ってひとつの段だけでも解説すべきことは多い。そこで本作については段ごとに原作の浄瑠璃にもとづく「あらすじ」と、その段についての「解説」に分け以下作品を紹介する。

主な登場人物

  • 左兵衛督直義(さひょうえのかみただよし) : 室町幕府将軍足利尊氏の弟。尊氏の代理として、京から鎌倉へと下向し鶴岡八幡宮に参詣する。
  • 高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのう) : 大名。鎌倉に在住する尊氏の執事職。その性格は傲慢で、或る人妻に横恋慕する。その人妻とは…
  • 桃井若狭之助安近(もものいわかさのすけやすちか) : 大名。桃井播磨守の弟。鎌倉に下向した直義の饗応役となる。性格は気短。
  • 塩冶判官高定(えんやはんがんたかさだ) : 伯耆国の大名。桃井若狭之助と同じく直義の饗応役となる。普段は冷静沈着な性格。
  • かほよ御前(かおよごぜん) : 塩冶判官の正室。もとは宮中に仕えた内侍。なお原作の浄瑠璃の本文表記では仮名書きで「かほよ」であるが、現行の文楽・歌舞伎では「顔世」の字を宛てている。
  • 加古川本蔵行国(かこがわほんぞうゆきくに) : 桃井若狭之助の家の家老
  • 戸無瀬(となせ) : 加古川本蔵の妻。後妻。
  • 小浪(こなみ) : 加古川本蔵の娘。じつは本蔵の先妻の娘なので、戸無瀬とは実の親子ではない。大星由良助のせがれ力弥とはいいなづけの約束を交わしている。
  • 鷺坂伴内(さぎさかばんない) : 師直の家来。おかるに横恋慕する。
  • おかる : かほよ御前に仕える腰元。早の勘平とは恋人どうしで、のちに夫婦となる。寺岡平右衛門の妹。
  • 早の勘平重氏(はやのかんぺいしげうじ) : 塩冶家の譜代の家臣。
  • 石堂右馬之丞(いしどううまのじょう) : 塩冶家に訪れた上使。
  • 薬師寺次郎左衛門(やくしじじろうざえもん) : 同じく塩冶家に訪れた上使。師直と親しくしている人物。
  • 原郷右衛門(はらごうえもん) : 塩冶家の諸士頭。
  • 大星由良助義金(おおぼしゆらのすけよしかね) : 塩冶家の家老。国許にいる。
  • 大星力弥(おおぼしりきや) : 由良助の息子。塩冶判官のそば近くに仕える。
  • 斧九太夫(おのくだゆう) : 塩冶家の家老。
  • 斧定九郎(おのさだくろう) : 斧九太夫の息子。
  • 千崎弥五郎(せんざきやごろう) : 塩冶家家臣。
  • 与市兵衛(よいちべえ) : 寺岡平右衛門とおかるの父親。山城国山崎に百姓をして暮らしている。
  • 与市兵衛の女房 : 与市兵衛の妻、寺岡平右衛門とおかるの母。歌舞伎では「おかや」という名がついているが、原作の浄瑠璃ではこの人物に名は無い。
  • 一文字屋(いちもんじや) : 京の祇園にある女郎屋の主人。
  • 寺岡平右衛門(てらおかへいえもん) : 塩冶家に仕える足軽。おかるの兄。
  • 矢間十太郎(やざまじゅうたろう) : 塩冶家家臣。ただし十段目と十一段目では名が「重太郎」と表記されている。
  • 竹森喜多八(たけもりきたはち) : 塩冶家家臣。
  • 大鷲文吾(おおわしぶんご) : 塩冶家家臣。
  • 天河屋義平(あまがわやぎへい) : 塩冶家に出入りしていた廻船問屋摂津国に店を持ち商売をしている。
  • (その) : 義平の妻。原作の表記では仮名書きで「その」としているが、可読性を考慮して「園」とする。
  • 大田了竹(おおたりょうちく) : 斧九太夫抱えの医者。園の父、義平の舅。

大序・鶴岡の饗応

『仮名手本忠臣蔵』は、以下の文章を以って始まる。

嘉肴(かかう)有りといへども食せざれば其の味はひをしらずとは。国治まってよき武士の忠も武勇もかくるゝに。たとへば星の昼見へず夜は乱れて顕はるゝ。例(ためし)を爰(ここ)に仮名書きの太平の代の。政(まつりごと)

どんなにおいしいといわれるご馳走でも、実際に口にしなければそのおいしさはわからない。平和な世の中では優れた武士の忠義も武勇もこれと同じで、それらは話に聞くだけで実際に目にすることが無くなってしまうのである。だがそんな世の中でも、優れた忠義の武士は必ずいる。それはたとえば、星は昼には見えないが夜になれば空にたくさん現われるのと同じように、普段は見えなくても忠義の武士は、あるべきところには確かに存在するのだ。そんな武士たちの話をわかり易いように仮名書きにして、これから説明することにしよう…という大意で、要するにこれから「忠」も「武勇」も備わった「よき武士」である「赤穂浪士」たちのことについて語ろうということである。

あらすじ(大序)

鶴岡兜改めの段)時に暦応元年二月下旬のことである。

将軍足利尊氏は南朝方の新田義貞を討ち滅ぼし、南北朝の動乱は収まりつつあった。鎌倉の鶴岡八幡宮では社殿の造替を済ませたので、尊氏の弟である左兵衛督直義が京から鎌倉へと下向し、今日は将軍尊氏の代参として鶴岡八幡へと参詣するところである。幕を張った馬場先にいる直義は大勢の供を従え、供の中には鎌倉在住の執事職高武蔵守師直、さらに直義の饗応役として桃井若狭之助安近と塩冶判官高定が任ぜられて控えている。

「忠臣蔵 大序」 新田義貞着用の兜を見極めるため、塩冶判官の妻かほよ御前が直義の前に呼ばれる。場面は鶴岡八幡の境内、画面左脇には大銀杏の木が見える。石段にはかほよ御前、そのすぐ左下には仕丁ふたりが、兜を収めた唐櫃を抱えて運ぶ。歌川広重画。

皆の前には唐櫃がひとつ置かれていた。直義には鶴岡代参のほかに、いまひとつ尊氏に命じられたことがあり、それは討取った新田義貞着用の兜を探しだし、これを鶴岡八幡宮の宝蔵に納めることであった。その兜というのが後醍醐天皇から下賜されたものであり、また義貞が清和源氏の血筋であることを誉れとしたためである。しかし義貞が死んだとき、そのそばには四十七もの兜が散らばってどれが義貞の兜なのか判らず、とりあえずそれらの兜を集め、この唐櫃にまとめて入れていたのである。この中から義貞がかぶったという兜を探し出し、鶴岡八幡に納めなければならない。

だが兜を納めようという直義に師直は「これは思ひ寄らざる御事」と口を挟み、清和源氏の血筋はいくらでもいる、そんな理由で義貞の兜をもったいぶって扱う必要はないという。これに桃井若狭之助が声をあげ、これは義貞軍の残党を懐柔させ、降参させようという将軍尊氏公の御計略であろう、「無用との御評議卒爾なり」と言おうとするのを師直はさえぎる。もしこの中から間違って義貞のものではない兜を選んでは後に大きな恥となることだ。「なま若輩ななりをしてお尋ねもなき評議、すっこんでお居やれ」と頭ごなしに怒鳴りつけた。これに目の色を変える若狭之助、それを察した塩冶判官が言葉を添え、直義の判断を仰ぐ。直義には兜の見極めについて考えがあった。かつて宮中に内侍として奉仕し、後醍醐天皇より義貞に兜が下賜されるのを目にしていたかほよ御前を、この場に呼び出したのである。かほよ御前は塩冶判官の妻である。かほよは唐櫃のなかからひとつの兜を取り出し、蘭奢待の香るこの兜こそ義貞所用のものに間違いないと差し出した。

見極められた兜を直ちに宝蔵に納めようと、直義は塩冶判官と若狭之助を連れて社殿に向かいその場を離れた。するとかほよの美貌に以前より執着していた師直がかほよに言寄り、付け文を無理やり渡そうとする。困惑するかほよ。すると折りよく来合わせた若狭之助にかほよは助けられたが、怒り心頭に発した師直は若狭之助を散々に口汚く罵り、これに怒った若狭之助は師直へ刃傷に及ぼうとする。そこへ直義が帰館のため、判官も含めた供の者を従えて通りかかるので、若狭之助は無念ながらもこの場では自重するのだった。

⇒(二段目あらすじ

解説(大序)

江戸時代、文芸や戯曲においてその時々に起こった事件を取り上げることは、幕府より禁じられていた。加賀騒動をはじめとするお家騒動を記した実録本なども出版を禁じられており、写本の形でのちにまで伝わっている。元禄赤穂事件もある意味武家社会の醜聞ともいえる事件であり、これを取り上げることは幕政批判に通じかねないことから、人形浄瑠璃や歌舞伎の芝居においても、興行する側は相当の用心を以ってこの事件を脚色し、上演していた。それは本来の時代や人物の名前などを、違う時代や人物に置き換えて脚色することで抜け道としたのである。その時代や人物も「小栗判官」や「太平記」などさまざまだったが、この『仮名手本忠臣蔵』では近松の『碁盤太平記』に見られる設定や人物名、すなわち「太平記」の「世界」を借りている。それは直接には、『太平記』巻二十一「塩冶判官讒死の事」を粉本としたものである。

「塩冶判官讒死の事」のあらましは、高師直が塩冶判官高貞の妻の美しさを聞きつけこれに執心し、恋文を送るが判官の妻からは拒絶される。これに腹を立てた師直が将軍尊氏や直義に判官のことを讒言した結果、判官は謀叛の汚名を着せられ、最後は判官やその妻子も無残な死を遂げるというもので、この話をもとに『仮名手本忠臣蔵』は吉良義央を高師直、浅野長矩を塩冶判官に置き換え、師直が判官の妻に横恋慕したことを事件の発端としている。

本作の師直は「人を見下す権柄眼(まなこ)」、義貞の兜の事についてもそれが将軍尊氏の「厳命」でありながら、「御旗下の大小名清和源氏はいくらも有る。奉納の義然るべからず」と口を挟んで憚らない。将軍家に対してでさえこうなのだから、自分より地位の低い者等に対しても傲慢な態度に出るのは当然である。それが若輩ながらもれっきとした大名である若狭之助を口汚く罵ったり、ほんらい人妻であるはずのかほよ御前に横恋慕してしつこく言い寄るという所業に表れている。そしてこの師直の傲慢さが悲劇を生み、それに多くの人が巻き込まれることになるのである。

時代物の義太夫浄瑠璃の最初の段を「大序」(だいじょ)という。「大序」はたいていが内裏や寺社、または将軍の御所などといった重々しい場面で、そこに天皇や公卿、将軍や大名などの高位の人物が集まって話が始まる。人形浄瑠璃は古くは通しの上演が原則だったので、各作品が再演されるときには「大序」も上演されていたが、現行の文楽にまで絶えず伝承されてきたのは『仮名手本忠臣蔵』と、ほかには『菅原伝授手習鑑』の「大序」があるぐらいである。歌舞伎の義太夫狂言においても、人形浄瑠璃の作品が歌舞伎に移された当初は「大序」が上演されもしたが、そのほとんどが早くに廃滅した。歌舞伎の演目として絶えることなく伝承され、今日にまで上演され続けてきた「大序」は、『仮名手本忠臣蔵』が唯一といってよいものである。

歌舞伎では必ず幕を開ける前に、「口上人形」と呼ばれる操り人形による「役人替名」(やくにんかえな)、すなわち配役を「相勤めまする役人替名…塩冶判官高定、○○○(演じる役者の名)…」と読み上げることがある。これはもと歌舞伎の芝居では、芝居の最初の幕が開く前に下級の役者が幕の前に出て、姿で「役人替名」を読み上げることがあり、それを人形が演じる形で残したもので、この「役人替名」の読み上げが見られるのも現在では『仮名手本忠臣蔵』の大序だけである。天王立という鳴物で幕を開ける荘重な場面であり、東西声で幕を開けた後も、登場人物たちは人形身と称して下を向いて瞳を開かず、演技をしないで、竹本に役名を呼ばれてはじめて「人形に魂が入ったように」顔を上げ、役を勤めはじめる。

原作の浄瑠璃では、かほよを助けたあと師直に悪口された若狭之助が、「刀の鯉口砕くる程」握り締め師直と一触即発のところ、直義が先払いの声とともに供を連れてその場に通りかかり、判官もその行列の「後押へ」すなわち最後のほうに加わってそのまま行過ぎる。これは文楽でも同様で、長柄の傘を差しかけられた直義が、判官や大名たちを従え舞台上手から下手へと通り過ぎるが、これを若狭之助が見送って立とうとすると師直が嫌がらせに袖でさえぎり「早えわ」という。この「早えわ」は、師直の人形遣いが言うのである。それで師直と若狭之助二人で幕となる。文楽の人形遣いが舞台上でせりふを言うのは珍しいことである。歌舞伎でもおおよそこの段取りであるが、幕切れは師直が二重舞台の石段、舞台下手側に勇んで刀を抜こうとする若狭之助、列から離れた判官が若狭之助を押しとどめるという『曽我の対面』の幕切れと同じ形式となる。また若狭之助が刀に手をかけ師直を斬ろうとすると、そこで直義の帰館を知らせる「還御」の声がかかり、師直と若狭之助ふたりだけで幕になることもある。

現行の舞台では直義以下の人物が大銀杏のある八幡宮の境内にいて、その中で「兜改め」が行われるが、上のあらすじでも紹介したように原作の浄瑠璃の本文には「馬場先に幕打廻し。威儀を正して相詰むる」とあり、直義たちは参詣者が下馬するための「馬場」、すなわち境内の外の幕を張った場所にいる。要するに原作の本文に従えば、「兜改め」をする場所は八幡宮の境内ではないということである。これは「兜改め」が済んだあとで直義が判官と若狭之助を率いて兜を社に納めようとするときにも、「段かづらを過ぎ給へば」とある。「段かづら」は今も鶴岡八幡宮の鳥居前に残る参道である(段葛の項参照)。

『仮名手本忠臣蔵』の歌舞伎における上演では、原作の浄瑠璃とは違った内容が見られる。これは大筋では違いは無いものの、脚本や演出などに各時代の役者たちの工夫が入れられるなどしたことにより、それが歌舞伎における型(演技・演出等)となって残り、芝居の演出やせりふなどが原作の浄瑠璃のものとは相違するようになったのである。さらに東京(江戸)と上方においても、同じ段の同じ場面で型に相違がある。そうした原作、東京、上方、また文楽における型の違いについても以下触れることにする。

二段目・諫言の寝刃

あらすじ(二段目)

「忠臣蔵 二段目」 塩冶判官の使者として、大星由良助のせがれ力弥が若狭之助の館を訪れた。使者の役目を終え帰ろうとする力弥、それを見送る加古川本蔵の娘小浪。後ろの衝立の陰からは、母の戸無瀬がその様子を見守る。画面中央奥には、本蔵が松の枝を切って若狭之助に差し出す場面が描かれる。広重画。

力弥使者の段)足利直義が鶴岡八幡に参詣した翌日のこと。時刻もたそがれ時、桃井若狭之助の家老加古川本蔵は、あるじ若狭之助が師直から辱めをうけたと使用人らが噂しているのを聞きとがめる。そこへ本蔵の妻戸無瀬と娘小浪も出てきて、若狭之助の奥方までもこの噂を聞き案じていると心配するので、本蔵は「それほどのお返事、なぜとりつくろうて申し上げぬ」と叱り奥方様を御安心させようと奥に入る。

塩冶判官の家臣大星由良助の子息である大星力弥が、明日の登城時刻を伝える使者として館を訪れる。いいなづけの力弥に恋心を抱く小浪は本蔵や戸無瀬が気を効かせ、口上の受取役となるがぼうっとみとれてしまい返事もできない。そこへ主君若狭之助が現れ口上を受け取り、力弥は役目を終えて帰った。

松切りの段)再び現れた本蔵は娘を去らせ、主君に師直の一件を尋ねる。若狭之助は腹の虫がおさまらず師直を討つつもりだと明かす。ところが本蔵は止めるどころか、若狭之助の刀をいきなり取って庭先に降り、その刀で松の片枝を切り捨て「まずこの通りに、さっぱりと遊ばせ」と挑発する。喜んだ若狭之助は奥に入る。見送った本蔵は「家来ども馬引け」と叫んで、驚く妻や娘を尻目に馬に乗って一散にどこかへ去っていく。

⇒(三段目あらすじ

解説(二段目)

「仮名手本忠臣蔵 二段目」 本蔵が主君若狭之助の目前で、松の枝を切ろうとする場面を描く。画面左下隅でその様子を伺うのは戸無瀬。歌川国芳画。

桃井若狭之助安近は、その若さもあって気の短いお殿様である。その気短なお殿様が師直のような人間に、大名たちが居並ぶ公の場で「すっこんでろこのバカ!」などと罵倒されては収まらない。そんな若狭之助には加古川本蔵という「年も五十の分別盛り」の家老が仕えていたが、その「分別盛り」であるはずの男が後先の考え無しに師直を斬ってしまえばよいと、無分別なことを主君に勧めて憚らない。まして家老という重い立場であれば、必死になって諌めるのが筋である。さらに本蔵はその話のすぐ後に、馬に乗ってどこかへ駆け出してゆく。「分別盛り」の男が血気にはやる主君を諌めもせず、大急ぎでどこへ行くつもりなのか。その答えは、このあとの三段目で明らかになるのである。

この段で、実説の大石内蔵助に当たる大星由良助の名がはじめて出てくる。その息子の力弥というのも実説の大石主税のことである。ただし由良助が姿を現すのは四段目になってからである。

なお歌舞伎の二段目については台本が二種類あり、ひとつは上のあらすじで紹介した原作の浄瑠璃にもとづくものだが、もうひとつこれを書き替えた「建長寺の場」というものがあり、これを「二段目」として上演することがある。これは七代目市川團十郎が初演し、その台本が上方の中村宗十郎に伝わったものだという。その内容は、大序の鶴岡八幡で師直に罵られた翌日の夜、若狭之助が鎌倉建長寺に仏参ののち寺の書院で休息している。そこへ若狭之助を迎えに来た本蔵が、床の間の掛け軸に記されている文字をめぐって若狭之助とやりとりをし、その中で師直を斬るという若狭之助をやはり本蔵が諌めることなく、松の枝を切ってそれを勧めるというものである。ただしこの「建長寺」では舞台面が室内をあらわす平舞台の大道具なので、松を切るくだりでは床の間にある盆栽の松を切ることになっている。また七代目團十郎がはじめてこの「建長寺」を演じたときには、まず建長寺の住職となって若狭之助との禅問答があり、そのあと本蔵に替わって出たという。しかしいずれにしても現行の歌舞伎では、この二段目は通し上演の際にも省略しほとんど上演されることがない。

三段目・恋歌の意趣

あらすじ(三段目)

進物の段)新築の御殿に直義が逗留し、大名などはじめとして多くの名ある武士が直義饗応のため礼服に身を整えて詰めている。時刻も正七つの夜明け前でまだ辺りは暗い。そこへ館の門前に師直が烏帽子大紋の姿で、家来の鷺坂伴内に先払いをさせながら到着する。師直はあのかほよ御前のことをなおも執着し、どうやって物にしようかなどと伴内と話しているところに、若狭之助の家来加古川本蔵が師直に直接会いたいとこの場に来ているとの知らせが来る。さては若狭之助がその本蔵を遣わして、昨日の鶴岡での遺恨を晴らすつもりだな…ここへ呼び寄せやっつけてやろう。そう考えた師直は、伴内とともに刀の目釘をしめして本蔵を待ち構えた。

「忠臣蔵 三段目」 師直と伴内主従の前に現われた本蔵は、様々の進物を並べる。広重画。

ところが師直の前に出た本蔵は、意外な行動に出る。本蔵は師直の前をはるか退ってうづくまり、このたび将軍尊氏公より直義公饗応という名誉の役目を主人若狭之助は仰せ付けられ、本来若輩の若狭之助が首尾よく勤められるのも、みな師直様のお取り成しによる、そこでそのお礼として進物を差し上げたいと、師直の目前に黄金や反物など多くの進物を並べたのである。本蔵が仕返しに来たと思っていた師直と伴内、このありさまに拍子抜けして顔を見合わせた。

「…これはこれは痛みいったる仕合せ」と師直は言葉を改め、本蔵からの進物を取り収め若狭之助のことについて誉めだした。手の裏を返したこの師直の態度に、本蔵はしてやったりと内心喜ぶ。そして師直に挨拶して場を立とうとしたが、機嫌をよくした師直が殿中の様子をみてゆくがよいと熱心に勧めるので、それではと本蔵は、師直のあとについて門内へとは入るのだった。

どじょうぶみの段)程もなく、供を連れた塩冶判官が到着するが若狭之助がすでに出仕していると聞き、「遅なわりし残念」と譜代の家来早の勘平ひとりを連れ、殿中へと急ぎ行く。

かほよ御前に仕える腰元のおかるは、かほよから師直あての文の入った文箱を持って門前まで来る。その恋人の勘平がふたたび門前あたりに来たのを見たおかるは、勘平を呼び止めた。勘平は文箱を主人塩冶判官の手から師直様へ渡すようにしようというところ、判官が勘平を呼んでいるとの声に勘平は文箱を持って館の内へと入った。すると入れ違いに伴内が現われる。いまの勘平を呼ぶ声は伴内のしわざであった。おかるに岡惚れする伴内は、恋敵の勘平がいないのを幸いにおかるにしなだれかかり口説くが、そこへたちが来て「伴内様師直様の急ぎ御用」というので、仕方なく伴内は奴たちとともに立ち去った。

そこへまた勘平が出てくる。いまの奴たちは、勘平が頼んでわざと伴内を呼びにやらせたのである。二人きりとなった恋人どうし、手に手をとって逢引のためその場を立ち退く。

館騒動の段)御殿では饗応のためのが催されるなか、若狭之助は「おのれ師直真っ二つ…」と、差した刀を握り締め師直を待ち構えていた。

師直が、伴内をともないそこへ来た。だが師直主従は若狭之助の姿を遠くから認めると、「貴殿に言い訳いたし、お詫び申す事がある」と刀を投げ出して昨日鶴岡のことを詫びる。「その時はどうやらした詞の間違いでつい申した…武士がこれ手を下げる」と師直は、伴内もともに若狭之助に対して幾度も詫びた。これが最前本蔵による進物のせいだとは知らぬ若狭之助、この師直のあまりの態度の変わりように拍子抜けし、また呆れて刀には手を掛けていたものの、抜くにも抜かれず困ってしまう。近くの物陰に隠れる本蔵は、あるじ若狭之助の様子をはらはらしながら見守っている。師直主従はさらに若狭之助に追従を重ね、若狭之助は戸惑いながらも、伴内に連れられて奥の間へとは入るのだった。本蔵も無事に済んだことにほっとして、いったん次の間へと下がる。

あとには師直一人が残る。そこに塩冶判官が長廊下を通ってやって来た。

判官を見た師直は「遅し遅し。何と心得てござる。今日は正七つ時と、先刻から申し渡したではないか」という。本蔵から賄賂を受け取りはしたものの、本来なら若僧と馬鹿にする若狭之助に頭を下げ、追従を並べたことが師直にとっては内心面白くなく、機嫌を損ねていた。

しかし判官が「遅なわりしは不調法」と謝りつつ、勘平を通して届けられたかほよ御前からの文箱を取り出し師直に渡すと、師直はまたもがらりと様子を変え、執心するかほよの文が来たことに機嫌を直す。師直は文箱を開けて中身を改めた。…だがその内容は、師直の期待を大きく裏切るものだった。かほよの文には次の和歌が記されている。

「さなきだに おもきがうへの さよごろも わがつまならぬ つまなかさねそ」

これは『新古今和歌集』にある古歌であり、要するに塩冶判官というれっきとした夫(つま)を持つ自分への求愛はお断りしますという返事であった。

この恋の不首尾に、師直の怒りは収まらない。そしてこの怒りは、いま目前にする判官にぶつけられた。さてはこの夫の判官にも自分のことを打ち明けているのだろう…そんな勘繰りをしながら、判官の出仕が遅れたのは、奥方のかほよにへばりついていたからだろうとか、または判官のことを井戸にいる鮒に譬えるなどの悪口を、判官に向って散々に浴びせる。あまりのことに判官もついに堪忍袋の緒が切れた。

「こりゃこなた狂気めさったか。イヤ気が違うたか師直」「シャこいつ、武士を捕らえて気違いとは、出頭第一の高師直」「ムムすりゃ今の悪言は本性よな」「くどいくどい、本性なりゃどうする」「オオこうする」と判官は、刀を抜いて師直へ斬りつけた。

「仮名手本忠臣蔵 三段目」 師直からわけもわからず散々の悪口を浴びせられた塩冶判官は、ついに堪えきれず刀を抜き師直に切りつける。国芳画。

判官が抜いた刀は師直の眉間を切る。なおも斬り付けようとする判官、だが次の間に控えていた本蔵が気付き、判官を抱きかかえて止める。師直はその場を逃げ出し、騒ぎを聞きつけた大名たちも駆けつけ判官は取り押さえられ、館の内は上を下への大騒ぎとなった。

「三段目」 初代尾上榮三郎の早の勘平。文化2年(1805年)6月、江戸河原崎座。「裏門」での姿を描く。初代歌川豊国画。

裏門の段)館は判官の刃傷により、表門裏門ともに閉められた。腰元のお軽と情事の最中だった勘平は館で騒動が起こったことを知り、慌てて館の裏門へと駆けつけたが、聞けばあるじの判官が師直と喧嘩となって刃傷に及んだことにより、閉門を命じられ罪人の乗る網乗物で自邸に送られたという。

主家が閉門となったからには戻ることも出来ない。色事にふけって大事の主君の変事に居合わせなかったとは武士にあるまじき事…もうこれまでと勘平は刀に手をかけ切腹しようとした。だがおかるがそれを止め、こうなったのも自分のせい、ひとまず自分の実家に来て欲しいといって泣き沈む。勘平は、いまは本国に帰っている家老の大星由良助の帰国を待ってお詫びしようと、おかるのいうことを聞いてこの場を立ち退くことにした。

すると、鷺坂伴内が手下を率いて勘平を捕らえに現われた。勘平は「ヤアよい所に鷺坂伴内、おのれ一羽で喰いたらねど、勘平が腕の細葱(ほそねぶか)、料理塩梅食うて見よ」と、手下どもをやっつける。伴内も勘平に斬りかかるが、首をつかまれ投げ飛ばされた。勘平は伴内を斬り殺そうとするが、おかるが「そいつ殺すとお詫びの邪魔、もうよいわいな」と留めるのを、伴内は隙を見て逃げてゆく。もはや夜明け、明け六つの空が白む中、おかると勘平はこの場を落ちてゆくのであった。

⇒(四段目あらすじ

解説(三段目)

二段目の最後で本蔵は馬で駆け出していったが、その理由がこの三段目で明らかとなる。すなわち機転を利かせて師直に賄賂を贈り、事を収めようとしたのである。この賄賂は功を奏し、若狭助は師直を斬る覚悟をするが師直が平謝りに謝るので拍子抜けし、結局斬ることができなかった。なお本蔵が二段目で若狭之助との話の最後に、若狭之助の刀をいきなりとって庭に降り、松の木の枝を切るが八代目坂東三津五郎によれば、これは松を切ることでそのヤニを刃に付け、それで再び刀を抜こうとしても抜きにくくしたのだという。

「進物場」は現行の文楽と歌舞伎では師直は出ず、伴内の傍らにある駕籠に乗っていることになっている。歌舞伎では若狭之助の家老である本蔵が来ると聞いて主の師直へ仕返しに来るのだろうと思う伴内が、「エヘンバッサリ」などといいながら中間たちと本蔵を討つ稽古をし、それが仕返しではなかったと知れた後のおかしみなど、伴内を演じる役者の腕の見せ所である。

そのあとかほよから師直に宛てた文箱を、腰元のおかるが持ちやってくる。おかるをめぐって早の勘平と伴内とのやり取りがあり、伴内を追い払うと勘平とおかるの逢引となるが、この勘平とお軽の軽率さがのちの六段目の悲劇への伏線となっていき、勘平の「色に耽ったばっかりに」の悲痛な後悔の台詞に繋がってゆく。筋としては重要な場面だが、現行の歌舞伎では上演時間の都合により省略され、ほとんど演じられることがない。このあたりの件りを「どじょうぶみ」というのは、伴内がおかるの前に現われるとき「(どじょう)踏む足付き鷺坂伴内」という浄瑠璃の文句があることによる。また勘平の名について「早野勘平」とすることが多いが、原作の浄瑠璃では「早の勘平」としている。

「館騒動」は通称「喧嘩場」とも言い、この場面がいわゆる「刃傷松の廊下」にあたる。原作の浄瑠璃では若狭之助が奥へ入ったあと、「程も有らさず塩冶判官、御前へ通る長廊下」と塩冶判官が現われ、そこで師直に呼び止められる。「長廊下」というのが史実の「松の廊下」を思わせるが、歌舞伎では「足利館松の間の場」と称し、大きな松が描かれた大広間の大道具となっている。また大筋では変わらぬものの、原作の浄瑠璃とは段取りやせりふが歌舞伎では変わっている。東京(江戸)式でそのおおよその段取りを述べると以下のようである。

「進物場」から舞台が回り、「松の間の場」になると思い詰めた若狭之助が長裃姿で花道より出てくる。すると上手より師直も伴内を連れて現われる。それを見た若狭助は本舞台へと駆けて行き、刀に手をかけて師直を斬ろうとするが、「これはこれは若狭之助殿、さてさてお早いご登城…」などと言いながら師直は卑屈に謝り、伴内も若狭之助にすがりつき止める。結局気勢をそがれた若狭之助は「馬鹿な侍だ!」と、ひと言罵倒して引っ込む。そのあと師直は伴内と「馬鹿ほどこわいものはないなァ」「御意にござりまする」などと話し、伴内が引っ込むと塩冶判官がこれも長裃姿で花道より出てくる。それを見た師直、「遅い遅い」と若狭之助に侮辱された憤懣を判官にぶつける。
そこへ折悪しくも、その師直へかほよから求愛を断る文が届く(東京の型では、判官はかほよからの文箱を持たずに出る)。かほよから返信がきたことにいったんは気をよくしたものの、例の「さなきだに」の和歌を見てすっかり機嫌を悪くした師直は、かほよのことを引き合いに出して判官に悪口しはじめる。これにむっとするも塩冶判官は抑える。だが「ハハハハハ…師直殿には御酒召されたか」というと師直は「何だ、酒は飲んでも飲まいでも、勤むるところはきっと勤むる武蔵守。コリャお手前、酒参ったか(飲んだか)」と、以下長ぜりふで判官のことを罵り、最後は「鮒だ鮒だ、鮒侍だ」という。ついに判官が腹に据えかね刀に手をかけるが、師直がそれを見て「殿中だ!」と叫ぶ。殿中での刃傷は家の断絶と、判官は必死にこらえる。それでもなお毒づく師直に耐えかねた判官は、ついに師直へ刃傷におよぶが、下手側に立ててあった衝立の陰から本蔵が飛び出し、判官を抱き止める。師直は上手へと逃げて入り、烏帽子大紋姿の大名たちが大勢出てきて判官を取り囲み止めるところで幕となる。

上方の型では若狭之助が師直を斬るのをあきらめて立ち去ろうとするとき、「昨日鶴岡において拙者への悪口雑言、そのとき斬り捨てんと思えども…」とやや長めのせりふを言い、最後に「馬鹿な侍だ」と言い捨てて引っ込む。十三代目片岡仁左衛門はこれを「大坂式」と称している。また上でも述べたように原作では判官がかほよからの文箱を師直に直接渡すが、東京式では判官の役が安く見えるとして、茶坊主が出てその場に届けることになっている。上方では原作通りに判官が文箱を持ち、花道から出てくる段取りである。

この段の師直は原作の浄瑠璃の本文にもあるように、本来は烏帽子大紋の姿であったが、歌舞伎では大紋の長袖では判官にからみにくいという理由で、現行のような着付けに長袴だけの姿となっている。ただし若狭助が引っ込んだ後、判官登場までの間に師直が舞台上に出した姿見で茶坊主や伴内たちに手伝わせ、長袴だけの姿から烏帽子大紋に着替えるという演出があった。これは「姿見の師直」と呼ばれ、三代目尾上菊五郎が創作した型だといわれるが、じつは三代目中村歌右衛門が始めたものである。師直が通りかかる大名たちに挨拶を交わしながら烏帽子大紋に着替え、のちに判官にからむくだりで烏帽子と大紋の上を取るというものだが、明治以降は五代目菊五郎六代目菊五郎、その弟子の二代目尾上松緑が演じたくらいで、今日では全く廃れている。しかし歌舞伎における現行の師直の姿は、この「姿見の師直」の着替える前の姿がもとになっているのである。

「裏門」は「どじょうぶみ」のくだりと同様、現行の歌舞伎ではほとんど上演されることがなく、この「裏門」の代わりとして『道行旅路の花聟』がもっぱら上演されている。

『道行旅路の花聟』

『道行旅路の花聟』 二代目尾上松緑の鷺坂伴内。

これは『仮名手本忠臣蔵』の元々の内容ではないが、現行の歌舞伎の通し上演では一体化して上演されている。 清元節を使った所作事で、天保4年(1883年)3月、江戸河原崎座で初演された。このときは『仮名手本忠臣蔵』を「表」すなわち本来の幕とし、その「裏」として段ごとに新たな幕を加えるという「裏表」の趣向で演じられたもので、この『道行旅路の花聟』は三段目の「裏」として出された所作事である。その語り出しが「落人と、見るかや野辺に若草の」と始まるところから、通称『落人』(おちうど)という。ただしこの語り出しは、じつは菅専助・若竹笛躬合作の浄瑠璃『けいせい恋飛脚』(安永2年〈1773年〉初演)からの焼き直しである。

内容はおかる勘平が駆け落ちを決意し、おかるの故郷山城国の山崎へと目指す途中、そのあとを追いかけてきた鷺坂伴内が二人にからむというものだが、その詞章は三段目の「裏門」から多くを拝借しており、「裏門」を書替えた所作事といえる。初演の役割は勘平が五代目市川海老蔵、おかるが三代目尾上菊五郎、伴内が尾上梅五郎であった。以来人気演目として、今日に至るも盛んに上演されている。楽しく色彩豊かな所作事で、さわやかな清元を聞きながら、軽やかで華やかな気分を味わう演目。せりふには地口も盛り込まれており、特に東京でよく出る。舞踊の定番の演目でもある。

なおこの所作事は、上で述べたように本来ならば三段目のあとに出すべきものであるが、戦後の昼夜二部制の興行では四段目の後に演じられている。つまり『落人』で昼の部を終り、五段目からを夜の部にする構成である。

四段目・来世の忠義

あらすじ(四段目)

花籠の段)扇が谷にある塩冶判官の上屋敷は、あるじの判官が閉門を命じられたことにより大竹で以って門を閉じ、家中の者たちも出入りを厳重に禁じられていた。

「忠臣蔵 四段目」 「花籠」の場面。かほよ御前が夫判官のために花を誂えているところに、原郷右衛門と斧九太夫が参上する。広重画。

そうして蟄居している判官に、妻のかほよ御前は夫の心を慰めようと、八重桜を籠に生けて判官へ献上しようとするところに、諸士頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が参上する。郷右衛門によれば本日上使が館に来るとの知らせ、閉門を赦すという御上使であろうと郷右衛門はいうが、九太夫はそうではあるまいと打ち消し、師直に賄賂でも贈っておけばよかったなどという。これに郷右衛門は腹を立て九太夫と言い争いとなるのをかほよがなだめ、事の起こりはこのかほよから、あの「さなきだに」の和歌を師直に送らなければこんなことには…と嘆くのであった。そこへ「御上使のお出で」という声がするので、かほよをはじめとして人々は座を改め、上使を迎える。

判官切腹の段)足利館から石堂右馬之丞、薬師寺次郎左衛門が上使として来訪した。情け深い石堂に比べ、師直とは親しい間柄の薬師寺は意地が悪い。一間より判官が出てきて上使に応対する。判官は切腹、その領地も没収との上意を申し渡される。これには同席していたかほよはもとより、家中の者たちも驚き顔を見合わせるが、判官はかねてより覚悟していたのかその言葉に動ずる気色も無く、「委細承知仕る」と述べた。そして着ているものを脱ぐと、その下からは白の着付けに水裃の死装束があらわれる。判官はこの場で切腹するつもりだったのである。だがせめて家老の大星由良助が国許から戻るまでは、ほかの家臣たちにも目通りすまい…と待つが、なかなか現れない。

「浮絵忠臣蔵 四段目」 判官切腹の場面。室内の様子を一点透視法を強調した浮絵という技法によって描いたもの。座敷中央奥に判官、その右傍らには上使の石堂と薬師寺が並ぶ。力弥は画面左側、手前から判官のいる奥へと歩む。歌川国直画。

判官は力弥に尋ねた。「力弥、力弥、由良助は」「いまだ参上仕りませぬ」「…エエ存命に対面せで残念、残り多やな。是非に及ばぬこれまで」と、遂に刀を腹に突き立て、近くにいたかほよがそのさまを正視できず目に涙して念仏を唱える。そのとき大星由良助が国許より駆けつけ、後に続いて一家中の諸士たちが駆け入った。「ヤレ由良助待ち兼ねたわやい」「ハア御存生の御尊顔を拝し、身にとって何ほどか」「オオ我も満足…定めて仔細聞いたであろ。エエ無念、口惜しいわやい」…と判官は刀を引き回し、薄れゆく意識の中で最後の力を振り絞り、「この九寸五分は汝へ形見。我が鬱憤を晴らさせよ」とのどをかき切って事切れた。由良助はその刀を主君の形見として押し頂き、無念の涙をはらはらと流すのだった。だがこれで判官の、余の仇を討ての命が伝わったのである。

石堂は由良助に慰めの言葉をかけ、薬師寺とともに奥に入った。上使の目を憚っていたかほよ御前はそれを見て、とうとうこらえきれず「武士の身ほど悲しい物のあるべきか」と判官のなきがらに抱きつき、前後不覚に泣き崩れるのだった。判官の遺骸は塩冶家菩提所の光明寺へと埋葬するため、駕籠に乗せられるとかほよも嘆きつつそれに付き添い館を出て、光明寺へと急ぐ。

評定の段)そのあと、一家中で今後のことについての会議をすることになった。由良助は家老斧九太夫と金の分配のことで対立し、九太夫はせがれの定九郎とともに立ち去る。ここで由良助は、残った原郷右衛門、千崎弥五郎ら家臣たちに主君の命を伝え、仇討のためにしばらく時節を待つように話す。やがて明け渡しの時が来る。由良助たちは「先祖代々、我々も代々、昼夜詰めたる館のうち」も、もう今日で見納めかと名残惜しげに館を出る。

「仮名手本忠臣蔵 四段目」 いよいよ屋敷を明け渡す段となるが、なおも名残惜しそうに屋敷を見る由良助たち。現行の文楽と歌舞伎では由良助ひとりだけとなって門前から去ってゆくが、原作の浄瑠璃の本文ではほかの諸士たちとともに立ち去るように書かれているので、この絵の描写でも誤りではない。国芳画。

城明け渡しの段)表門の前では屋敷明け渡しに反対する力弥ら若侍たちが険悪な雰囲気で立ち騒いでいる。そこへ出てきた由良助は判官が切腹に使った刀を見せ、師直に返報しこの刀でその首をかき切ろうと説得するので、人々は「げにもっとも」とその言葉に従う。だが屋敷の内には薬師寺が、「師直公の罰があたり、さてよいざま」というとどっと笑い声が起こる。その悔しさに屋敷内へと駆け込もうとする諸士を由良助はとどめ、「先君の御憤り晴らさんと思う所存はないか」というので皆は無念の思いを抱きつつも、立ち去るのであった。

⇒(五段目あらすじ

解説(四段目)

原作の浄瑠璃では最初にかほよ御前が花を誂える「花籠の段」があり、切腹の前のほっと心の安らぐ場面といえるが、歌舞伎では「花献上」とも呼ばれるこの場面は通常省略される。ここに組頭の原郷右衛門と家老の斧九太夫が訪れ、九太夫は師直に賄賂を贈っておけばよかったなどという。この斧九太夫のモデルとなったのは赤穂藩家老の大野九郎兵衛で、判官切腹後の「評定」においても、亡君のあだ討ちより自分も含めた家中の諸士に金を配り、すみやかに屋敷を明け渡そうというなど、後の「忠臣蔵」の物語に見られる大野九郎兵衛のイメージがすでに描かれているといえよう。なお原作の浄瑠璃では、このあと五段目に出てくる九太夫のせがれ斧定九郎も「評定」に同席しているが、現行の舞台では出てこない。また現行の文楽では「評定」はふつう省略される。

この四段目は異名を「通さん場」ともいう。その名の通り、この段のみ上演開始以後は客席への出入りを禁じ、遅刻してきても途中入場は許されない。出方からの弁当なども入れない。塩冶判官切腹という厳粛な場面があるためである。成句「遅かりし由良之助」の語源である由良助はここで初めて登場する。

原作の浄瑠璃では「花籠」からそのまま同じ場面で判官が切腹するように書かれているが、歌舞伎では「花献上」と「判官切腹」とは場面を分け、いったんかほよ以下の人物たちが引っ込むと襖や欄間などを「田楽返し」の手法で変え、「判官切腹」の場になったという。またかほよ御前は原作では「花籠」からそのまま上使を出迎え、判官の切腹にも嘆きつつ立ち会う。そして判官が事切れそのなきがらが駕籠に乗せられると、それに付き添って館を出ることになっているが、現行の歌舞伎では上使の石堂と薬師寺が引っ込んだあと、葬礼を表す白無垢の衣類に切髪の姿ではじめて舞台に現われ、由良助に向って「推量してたもいのう」などと嘆きつつ声を掛け、そのあと焼香などあって駕籠に付き添い引っ込むという段取りとなっている。

「城明け渡し」では、原作の浄瑠璃では由良助は家中の侍たちとともに門前を立ち去るが、現行の歌舞伎では由良助は力弥を含めた諸士を説得させその場を去らせた後、一人残って紫の袱紗から主君の切腹した短刀を取りだし、切っ先についた血をなめて復讐を誓う。この場の侍たちは由良助の説得に「でも」と揃って言葉を返そうとするところから、「デモ侍」と俗称される。現行の文楽においては「デモ侍」は登場せず、歌舞伎と同じく由良助ひとりだけで立ち去る。

由良助が門前から立ち去るべく歩み始めると、表門が遠ざかってゆく。実際には表門の大道具を次第に舞台奥へと引いてゆくのであるが、上方の型では1枚の板に門を描いた大道具で、それが上半分が折れてかえすと小さく描かれた門になる「アオリ」を用い、どんどん門が遠ざかってゆく様を表す。もっとも六代目尾上梅幸によれば、表門を奥へと引くようになったのは九代目市川團十郎が由良助を演じた時に始めたことで、それまでは東京(江戸)でも上方式の「アオリ」だったという。

歌舞伎では釣鐘の音、烏の声に見送られ(これは舞台裏で烏笛という笛を吹く)、由良助は花道の七三のあたりで座って門に向かい両手を突くのが柝の頭、そのあと柝無しで幕を引く(上方は柝を打つ)。幕外、懐紙で涙をふき鼻をかみ、力なく立ちあがって、下手から登場した長唄三味線の送り三重によって花道を引っ込む。

この「城明け渡し」の表門には、太い青竹2本を門の扉に筋違いに打ちつけて出入りさせない様を見せることがあるが、これは上方の型と文楽で見られるものであり、東京の舞台ではこの青竹は江戸の昔から用いられない。閉門となった武家の表門には、実際に上記のごとく青竹を打ちつけた。江戸では旗本のほか諸藩の武士も多く集まるところから、それら武士の目に遠慮して「青竹」を見せなかったという。それは、たとえ芝居の上の絵空事であろうとも閉門を意味するこの「青竹」は、大名旗本に仕える武士にとっては目にしたくないものだったからだといわれている。大坂あたりでは町人が中心の都市だったので、これをさして気にもせず舞台で見せていたようである。当時お家(大名家)がお取り潰しになるということは、現代の大企業が倒産するといった以上の衝撃を世間に与えていたのであり、そのお取り潰しとなる様子を脚色して見せたのが『忠臣蔵』だったのである。

五段目・恩愛の二つ玉

あらすじ(五段目)

鉄砲渡しの段)鎌倉より駆け落ちしたおかると勘平は、山城国山崎のおかるの実家にたどり着き、ふたりは夫婦となって暮らしていた。勘平は身過ぎとして猟師になり、この山崎のあたりで鹿や猿などを鉄砲でしとめ、今日も山中に獲物を求めて歩いている。だがそこへ六月(旧暦)の夕立に出くわし、あまりの雨の勢いの強さに松の木の下で雨宿りをする。だが雨はなかなか止まず、すでに日は暮れ夜になっていた。

「仮名手本忠臣蔵 五段目」 鉄砲を持って狩をする勘平は、思いがけず以前の朋輩千崎弥五郎と出会う。国芳画。

うかつにも商売道具である火縄銃の火が、雨で消えてしまった。そこに運よく提灯を持ち合羽を着た男が通りがかるではないか。勘平はその提灯の火を分けてもらおうと、「イヤ申し申し。卒爾ながら火を一つ」とその男に近寄る。しかし男は鉄砲を所持している勘平を山賊だと思い込み身構え、「びくと動かば一討ち」と勘平を睨みつける。勘平は、こういう場所では盗賊と間違われるのも無理はないと思い、「鉄砲それへお渡し申す。自身に火を付けお貸し…」と言ったところで男が勘平の顔を見て、「早の勘平ならずや」と声を掛けた。なんと二人は顔見知り、この男はかつての塩冶判官の家臣、千崎弥五郎だったのである。

勘平は思いがけない朋輩との再会に驚き、しばしうつむいて言葉もなかった。お家の大事に有り合せる事ができず、こうして時節を待って主君判官にお詫びしようと思いのほか、ご切腹となってしまった。それというのもみな師直のせいとは聞いたが、どうすればその返報ができるだろうかと考えていたところ、仇討ちの謀議があるとの噂を聞いたので、ぜひともその連判状に加えてくれと勘平は千崎に頼む。千崎はそんな勘平の様子を見て不憫とは思ったが、かつての朋輩といえども仇討ちの大事を軽々しく口にはできぬと思い、「コレサコレサ勘平、はてさて、お手前は身の言い訳に取りまぜて、御企ての、連判などとは何のたわごと」とわざととぼけ、亡君の石碑建立の御用金を集めている…合点かと謎を掛ける。すなわち仇討ちのための資金を集めているということである。勘平はそれを飲み込み、その金を用立てると約束して今の住いを教える。千崎も承知し両名は別れた。

「忠雄義臣録 第五」 雨の降る夜道を急ぐ老人の後ろを、蛇の目傘をさした定九郎が追いかける。三代目歌川豊国画。

二つ玉の段)二人が別れて去ったあとまた雨の降りだす夜道を、杖をついて老人がやってきた。そこへもうひとり、「オオイ親父殿、待って下され」の声とともに怪しげな男が追いかけてくる。男は斧九太夫の息子の定九郎、親に勘当されて今では薄汚い盗賊である。

「忠臣蔵 五段目」 老人から金を奪おうとする定九郎。広重画。

「さっきにから呼ぶ声が、きさまの耳へは入らぬか…こなたの懐に金なら四五十のかさ、縞の財布に有るのを、とっくりと見付けて来たのじゃ。貸してくだされ」と定九郎は老人の懐から無理やり財布を引き出す。それを抵抗する老人に「エエ聞きわけのない。むごい料理するがいやさに、手ぬるう言えば付き上がる。サアその金をここへまき出せ。遅いとたった一討ち」と無残に斬りつけ、老人が自分の娘の婿のために要る金、お助けなされて下さりませと必死に頼むのも取り合うことなく、定九郎はむごたらしく老人を殺した。そしてその財布を奪い、中身が五十両あるのを確かめて「かたじけなし」と財布の紐を首に掛け、老人の死骸を近くの谷底に蹴り落とした。

だがそのうしろより、逸散に来る手負いの。定九郎はあやうくぶつかりそうになるのをよけ、猪を見送った。その瞬間、定九郎の体を二つ玉の弾丸が貫く。悲鳴を上げる暇もなく、定九郎はその場に倒れ絶命した。

定九郎が倒れている場所に、猪を狙って鉄砲を撃った勘平がやってくる。猪を射止めたと思う勘平は闇の中を、猪と思しきものに近づきそれに触った。猪ではない。「ヤアヤアこりゃ人じゃ南無三宝」と慌てるが、まだ息があるかもと定九郎の体を抱え起こすと、さきほど定九郎が老人より奪った財布が手に触れた。掴んでみれば五十両。自分が求める金が手に入った。「天の与えと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに急ぎける」。

⇒(六段目あらすじ

解説(五段目)

ここから、場面は京に程近い街道筋へと変わる。この五段目の舞台となるのは「山崎街道」であるが、山崎街道とは西国街道を京都側から見たときの呼び名であり、西国街道とは山陽道のことである。山崎の周辺は、古くから交通の要衝として知られ、「天下分け目の天王山」で名高い山崎の戦いなど、幾多の合戦の場にもなってきた。この段の舞台は横山峠、すなわち現在の京都府長岡京市友岡二丁目の周辺であり、大山崎町ではない。

ところで、この五段目の定九郎に惨殺される老人とは何者か。後の解説に差し障るので先に白状すると、これはおかるの父与市兵衛である。その与市兵衛が雨の降る暗い中を、五十両という大金を持って道を急いでいるのはなぜか。その仔細は六段目で明らかになる。

五段目とこのあと続く六段目の勘平の型は三代目尾上菊五郎が演じたものを濫觴としており、これを五代目菊五郎が受け継ぎ、さらにその息子の六代目菊五郎が演じて完成させたもので、現行の東京式ではこれ以外の勘平の型はない。五代目尾上菊五郎は九代目市川團十郎とともに「團菊」とならび称された名優である。

「鉄砲渡し」は上方では「濡れ合羽」ともいう。千崎弥五郎は東京の型では蓑を着ているが、上方では合羽を着ているからである。時は旧暦の「六月二十九日」(現在の真夏、7月~8月)の深夜。この日が「六月二十九日」だったというのは、のちの七段目に出てくる。旧暦(太陰太陽暦)の「二十九日」は月の出ない暗闇である。天候は強烈に打ちつける雨が降っている(舞台構成上、これは強調されていない)。幕が開いて最初は勘平が笠で顔を隠し、時の鐘で笠をどけて顔を出す。まっ暗闇の舞台に勘平の白い顔が浮かび上がる優れた演出である。

「二つ玉」のくだりについては、現行の歌舞伎においては上で紹介した原作のあらすじからはかなり違った内容となっている。それは具体的には定九郎の演技にかかわる部分で、東京(江戸)での型、いまひとつは上方に残る型である。三人の人物が出てくるが、まずは現行の東京式の段取りを紹介すると次のようになる。

「鉄砲渡し」で勘平と千崎が別れて引っ込んだあと、舞台が回って舞台中央に稲束のかかった稲掛け、その左右に草むら等のある舞台面となる。与市兵衛が花道より出てきてそのまま本舞台に行き、稲掛けの前で休もうと座る。そこでいろいろとせりふがあって、最後に与市兵衛が財布を押し頂くと、後ろの稲掛けより手が伸びて財布を奪う、与市兵衛は驚いて稲掛けの中に入ろうとする。と、与市兵衛が刺されてうめき声を上げ倒れ事切れる。そして稲掛けの中から財布を咥え、抜き身を持った定九郎が現われ、着物の裾で刀の血糊を「忍び三重」という下座音楽に合わせてぬぐい、財布の中身を探って「五十両…」というせりふ。原作と違って定九郎が与市兵衛を追いかけ、声をかけることは無い。
その場を立とうと定九郎は与市兵衛の死骸を草むらに蹴り込み、蛇の目傘を差して花道にかかるが、花道向うから猪が走ってくる様子に定九郎は慌て、本舞台に戻り稲掛けの中に隠れる。猪が現れて舞台の中を駆け抜ける。猪は上手に消える。定九郎は猪から逃げようと稲掛けの中から後ろ向きに出かかり立ち上がる。その姿は猪のようである(猪のように見せなくてはならない)。と、ぬかるみに片足を取られてよろめく。すると「二つ玉」の鉄砲の音とともに、定九郎、血を吐きあおむけに倒れこむ。
花道から出てきたのは、今発射したばかりの鉄砲を抱えた勘平。片手で火のついた火縄の真ん中を持ち、先端をぐるぐると回しながら花道を通る。舞台で鉄砲の火を消し獲物に縄をかけるも、どうやら様子が変だ。「コリャ人!」薬はないかと死者の懐を探り財布の金を探し当て、いったんは財布を戻して去ろうとするが再び戻って財布を手にし、「天の助けと押し戴き、猪より先へ逸散に、飛ぶがごとくに」の浄瑠璃通り花道を引っ込む(非常に技巧的に難しい)。

上方歌舞伎の演出はこれとはまた違っている。与市兵衛が現れて稲掛けの前にしゃがみこんだところ、突如二本の手が現れ、与市兵衛の足元をつかむ。定九郎の手である。そのまま引き込んで、与市兵衛を刺し殺す。定九郎は、やはり与市兵衛を殺すまで一言も発しない。また、定九郎のなりは山賊そのもののぼろの衣装である。通常、この役は端役として大部屋役者に割り当てられる。二代目實川延若は勘平、与市兵衛、定九郎三役早替りの演出を行っていた。この型は三代目實川延若を経て今日では四代目坂田藤十郎に伝わっている。関西歌舞伎らしい見せ場に満ちたつとめ方である。

初代中村仲蔵の斧定九郎。勝川春章画。

初代中村仲蔵はこの定九郎の人物設定そのものを変え、二枚目風の役にした。五段目の定九郎はもとはどてら姿のいかにも山賊らしい拵えだったのが、仲蔵は黒羽二重の着付けに刀を落とし差しにし、月代の伸びた頭に顔も手足も白塗りにして破れ傘を持つという拵えにしたのである。そもそも定九郎は、勘当される前は家老の息子である。この仲蔵がはじめた拵えは「仲蔵型」と呼ばれ、以後ほかの役者もこの姿で演じるようになり、定九郎は若手人気役者の役ともなった。また仲蔵自身も、門閥外だったにもかかわらず大きく出世する節目となる役であった。なお「仲蔵型」は文楽にも逆輸入され演じられている。

ただし仲蔵はその扮装を大きく変えはしたものの、実際には上で紹介した原作の内容通りに演じたようである。定九郎が現在のように稲掛けから現れるようになったのは、四代目市川團蔵が定九郎と与市兵衛を早替りでやったときの型が伝わったもので、稲掛けの中で与市兵衛から定九郎へと早替りして出た。この早替りでの段取りを、定九郎と与市兵衛を別々の役者で演じても使うようになったのである。

その段取りから九代目市川團十郎は、さらに演出変更を多くおこなった。その一つが金を数える定九郎の科白である。「五十両、かたじけない」というせりふだったのを、「かたじけない」を取り「五十両…」だけにした。つまり歌舞伎では全編を通して、定九郎の科白が「五十両」たった一つだけになったのである(現行では、四段目に定九郎は出ない)。

ところで従来から問題になっているのが、「二つ玉」についての解釈である。浄瑠璃の本文では「…あはやと見送る定九郎が、背骨をかけてどっさりと、あばらへ抜ける二つ玉」とあり、「玉」とは鉄砲の弾丸のことだが、この「二つ玉」の「二つ」が何を意味するかで解釈が分かれている。江戸歌舞伎では「二つ」とは回数のことだとして勘平は鉄砲を二発発射する。上方では、二つ玉の意味を二つ玉の強薬(つよぐすり)、すなわち「火薬が二倍使われている威力の強い玉」と解釈し、一発しか撃たない。『浄瑠璃集』(『新潮日本古典集成』)の注では「二つ玉」について『調積集』を引き、それによれば弾丸と火薬を二発分、銃にこめて撃つことであるとしている。

原作では「飛ぶがごとくに急ぎける」と、金を手にした勘平はすぐさまその場を走り去るが、歌舞伎では探り当てた財布をいったん手放して花道へと行き、しかし「あの金があれば…」と考えてまた戻り、金を手にすると花道を駆けて引っ込む。そのまま何の気兼ねも無く金を持っていったのでは、のちの六段目の勘平に同情が集まらないということで工夫された型である。これも三代目菊五郎の工夫と伝わる。

六段目・財布の連判

あらすじ(六段目)

身売りの段)勘平が定九郎を誤って撃ち、その懐から金を奪って去った夜、その夜も明けて朝が来た。ここは勘平夫婦が身を寄せているおかるの親与市兵衛の家である。

寝床より起きたおかるが身仕舞いをすますところに、与市兵衛の女房でおかるの母が帰ってきた。与市兵衛は前日から出かけており、それがもう戻ってもよい時分なのにまだ帰らないので、母が近くまで様子を見に行っていたのだった。与市兵衛を案じる母と娘が話をする中、そこに京の祇園町から人が訪れる。それは女郎屋一文字屋の主人であった。

「六段目」 二代目林又一郎の勘平。着ていた蓑を鉄砲にくくりつけ、それを担いで帰ってきた。

おかるは、じつはこの一文字屋に女郎として身を売ることになっていた。与市兵衛はその相談に京の都まで行き、一文字屋におかるの身売りを条件に百両の金を貸してくれるよう頼んだので、一文字屋は与市兵衛と証文を交わし、前金として五十両の金を渡すと与市兵衛は喜んで帰っていった。それが昨夜の四つ時のことである。だがその与市兵衛はまだ戻らない。とにかく証文を交わして金を渡したからにはもはやこちらの奉公人、おかるは連れて行くと一文字屋は後金の五十両を出し、母親が止めるのも聞かずに同道してきた町駕籠におかるを押し込みこの家を立とうとする。そこへ鉄砲を持った勘平が帰ってきた。

勘平はこの場の仔細を聞いた。おかるの母は、兼ねてから勘平には金が要る事があると以前から娘おかるから聞いていたので、どうにかしてそれを工面してやりたいと思っていたが、ほかに当てもない。そこで与市兵衛が娘を売って金にして婿の勘平に渡そうと考え、昨日からその与市兵衛が祇園町まで行きこの一文字屋と話をつけ、前金の五十両を受け取ったはずだがまだ戻らないと勘平に話す。勘平は与市兵衛夫婦の心遣いに感謝し、与市兵衛がまだ戻らぬうちは女房は渡せないという。

だが、一文字屋の話に勘平は愕然とする。

与市兵衛は五十両の金を持っていく時、手ぬぐいを金にぐるぐる巻いて懐に入れた。それでは危ないと一文字屋は与市兵衛に財布を貸した。与市兵衛はその財布に五十両を入れて持って帰った。その財布とはいま自分が着ているものと同じ縞模様の布地だという。まさか…と勘平は昨夜の死体(定九郎)から自分が奪った財布をこっそり見た。見れば一文字屋が着ているものと全く同じ色と模様。なんということだ、昨夜自分が鉄砲で撃ち殺し、その懐から金を奪ったのは他ならぬ舅どの…!

あまりのことに放心する勘平に、おかるは父与市兵衛に会わずこのまま行ってよいものかどうか尋ねる。勘平は、じつは与市兵衛には今帰った道の途中で出会ったから、安心するようにと、やっとの思いでいう。おかるはその言葉で納得し、夫や親との別れを惜しみながらも、一文字屋の用意した駕籠に乗って京の祇園町へとは向かうのだった。

勘平切腹の段)嘆き悲しみながらもおかるを見送った母親は、勘平に与市兵衛のことを尋ねる。さきほど途中で会ったといったが、どこで会ったのか。だがそれについて勘平が、まともに答えられるわけがない。そこへ、猟師たちが与市兵衛の死骸を戸板に乗せてやってきた。夜の猟を終えて帰る途中、与市兵衛が死んでいるのを見かけたのだという。母は夫与市兵衛の死骸を見て驚き、泣くより他の事はなかった。猟師たちもこの場の様子を不憫に思いつつ立ち去る。

ふたりきりになった勘平と母。母は涙ながら勘平に問う。いかに以前武士だったとはいえ、舅が死んだと聞いては驚くはず。道の途中で会った時、おまえは金を受け取らなかったか。親父殿はなんといっていた。返事ができないか。できないだろう、できない証拠はこれここにと、勘平に取り付いてその懐から財布を引き出した。

「忠臣蔵 六段目」 画面手前には与市兵衛の死骸を届けて帰る猟師たち、画面右奥には勘平の住いに二人の侍、千崎弥五郎と原郷右衛門が訪れているのが描かれる。広重画。

さっき勘平がこの財布を出していたのを、母はちらりと見ていたのである。財布には血も付いている。一文字屋がいっていた財布に間違いない。「コレ血の付いてあるからは、こなたが親父を殺したの」「イヤそれは」「それはとは。エエわごりょはのう…親父殿を殺して取った、その金誰にやる金じゃ…今といふ今とても、律儀な人じゃと思うて、騙されたが腹が立つわいやい。…コリャここな鬼よ蛇よ、父様を返せ、親父殿を生けて戻せやい」と母は勘平の髻を掴んで引寄せ、散々に殴り、たとえずたずたに切りさいなんだとて何で腹が癒えようと、最後は泣き伏すのだった。勘平もこれは天罰と、畳に食いつかんばかりに打ち伏している。そんなところに、深編笠をかぶったふたりの侍が訪れた。

訪れたのは千崎弥五郎と原郷右衛門である。勘平は二人を出迎え、内に通した。勘平は二人の前に両手をつき、亡君の大事に居合わせなかった自分の罪が許され、その御年忌に家臣として参加できるよう執り成しを頼む。だが郷右衛門の言葉は勘平の期待を裏切る。勘平はじつは、ここに帰る途中で大星由良助に弥五郎を通じて例の五十両の金を届けていた。しかし由良助は、殿に対し不忠不義を犯した駆け落ち者からの金は受け取れないとして、金を返しに郷右衛門たちを遣わしたのである。郷右衛門は勘平の前に五十両を置く。

そんな様子を聞いていた母は、「こりゃここな悪人づら、今といふ今親の罰思ひ知ったか。皆様も聞いて下され」と、勘平が与市兵衛を手にかけたといういきさつを話し、お前がたの手にかけてなぶり殺しにして下されと、ふたたび泣き伏す。郷右衛門と弥五郎はびっくりし、刀を取って勘平の左右に立ち身構えた。

「六段目」 「ご両所ご両所、しばらくしばらく、亡君の恥辱とあれば、一通り申し開かん…」勘平が舅を殺して金を奪ったと聞いた弥五郎たちは立ち去ろうとするが、勘平はふたりの刀のこじりを捉え、必死になって引き留めようとする。左から八代目市川雷蔵の千崎弥五郎、三代目市川壽海の勘平、八代目市川中車の不破数右衛門。

弥五郎は声を荒らげ「ヤイ勘平、非義非道の金取って、身の咎の詫びせよとはいはぬぞよ。わがような人非人武士の道は耳には入るまい」と睨み付け、郷右衛門も「喝しても盗泉の水を飲まずとは義者のいましめ。舅を殺し取ったる金、亡君の御用金になるべきか。生得汝が不忠不義の根性にて、調へたる金と推察あって、突き戻されたる由良助の眼力あっぱれ…汝ばかりが恥ならず、亡君の御恥辱と知らざるかうつけ者。…いかなる天魔が見入れし」と、やはり勘平を睨みつけながらも、目には涙を浮かべるのであった。堪りかねた勘平は、もろ肌を脱ぎ差していた脇差を抜いて腹に突っ込んだ。

「亡君の御恥辱とあれば一通り申し開かん」と、勘平はこれまでのいきさつをふたりに話した。昨夜弥五郎殿に会った帰り、猪に出くわし撃ちとめたと思った、だがそれは人だった。とんでもないことをした、薬はないかとその懐中を探ると財布に入れた金、道ならぬこととは思ったがこれぞ天の与えと思い、弥五郎殿のあとを追いかけその金を渡した。だがこの家に帰ってみれば、「打ちとめたるは我が舅、金は女房を売った金。かほどまでする事なす事、いすかの嘴(はし)ほど違ふといふも、武運に尽きたる勘平が、身のなりゆき推量あれ」と、無念の涙を流しつつ語るのだった。

話を聞いた弥五郎は、郷右衛門とともに与市兵衛の死体を改めた。見るとその疵口は、鉄砲疵にはあらで刀疵。それを聞いた勘平も母もびっくりする。そういえばここへ来る道の途中、鉄砲に当って死んだ旅人の死骸があったが、近づいてよく見ればそれは斧九太夫のせがれ定九郎であった。九太夫にも勘当され山賊に身を落としたと聞いてはいたが、さては与市兵衛を殺したのは定九郎だったのだと郷右衛門は語る。勘平の疑いは晴れた。知らぬうちに定九郎を撃って舅の仇討をしたのである。母は誤解だったことがわかり勘平に泣いて詫びる。だが遅すぎた。郷右衛門たちの心遣いで瀕死の勘平の名は討入りの連判状に加えられた。勘平と母親は、財布と五十両の金を出し、せめてこれらを敵討ちの供に連れてゆくよう頼む。郷右衛門はそれを聞き入れ、財布と金を取り収める。やがて勘平は息絶えた。涙に暮れる母の様子を不憫と思いつつも、郷右衛門と弥五郎はこの場を立つのであった。

⇒(七段目あらすじ

解説(六段目)

勘平は前段五段目の時点で、師直への仇討ちの謀議を知っており、その仲間に加わりたがっている。そのためには活動資金が必要であることも知っていた。おかるの父与市兵衛は、勘平のために、勘平には内緒で京の遊郭一文字屋におかるを百両で売り飛ばす交渉に成功した。与市兵衛は遊郭から支払われた前金の半金五十両を手にして、京から自宅への帰途につく。

この五十両が、そのまま勘平に渡ればなんとも無い話である。ところが与市兵衛は道中山賊(定九郎)に襲われ、金と命を奪われる。たまたまそのとき、勘平はその付近で猟をしており、定九郎を猪と間違えて偶然に誤射し、これも死んでしまう。勘平は定九郎が大金の入った財布を持っていることに偶然に気づき、持ち主を失ったその財布を横領する。かくして、金五十両は勘平に直接渡らず悪党定九郎を経由したことにより、犯罪の金となってしまう。後でそれが大変な悲劇、つまりこの六段目の勘平切腹につながる。与市兵衛の女房はその挙動と財布から勘平が夫を殺したと思い、勘平も夜の闇の中で何者であるか知らないで取った財布だけに、自身が義父与市兵衛を殺したものと思い込み気も動転してしまうのである。誤解が誤解を生む悲劇、その典型といえよう。

切腹し瀕死の勘平が後悔にふける「いかばかりか勘平は色にふけったばっかりに」という科白が有名だが、じつは原作の浄瑠璃にはこのせりふにあたる本文はなく、歌舞伎における入れ事である。またおかるの母(与市兵衛の女房)も原作の浄瑠璃では名は無く、歌舞伎では「おかや」という名が付いている。ほかにも一文字屋についても現行の歌舞伎では出てくることはなく、かわりに一文字屋の女将でお才という女が来ておかるを連れて行く。さらに判人(女衒)の源六という男もこのお才に付き添い出てくる。原作では勘平のもとを訪ねるのは千崎弥五郎と原郷右衛門であるが、郷右衛門を不破数右衛門に替えて演じることが多い。

勘平の切腹はいわゆる手負事である。原作の浄瑠璃では上でも紹介したように、勘平は郷右衛門と弥五郎に問い詰められたすえ切腹するが、歌舞伎では問い詰めたあとに郷右衛門が「かような所に長居は無用、千崎氏、もはや立ち帰りましょう」弥五郎「左様仕ろう」と両人が帰ろうとするのを勘平が必死になって引きとめ、申し開きをして最後に「…金は女房を売った金、撃ちとめたるは」郷右衛門・弥五郎「撃ちとめたるは」勘平「舅どの」のせりふで郷右衛門たちが「ヤヤ、なんと」と驚き叫ぶのをきっかけに腹を切る。

ただしこれは東京式での段取りで、上方では勘平が切腹する段取りはかなり違う。勘平が上の段取りで腹を切り、そのあと与市兵衛の傷を郷右衛門たちが改めたことにより勘平の無実が晴れる。上方では郷右衛門たちが与市兵衛の傷を改めている間、勘平の無実が晴れる寸前に勘平は腹を切る。これは「いすかの嘴の食い違い」という浄瑠璃の言葉どおりに行うという意味である。また勘平の死の演出は、「哀れ」で本釣鐘「はかなき」で喉を切りおかやに抱かれながら手を合わせ落ちいるのが現行の型だが、這って行って平服する型(二代目実川延若)もある。これは武士として最期に礼を尽くす解釈である。また上方は、勘平の衣装は木綿の衣装で、切腹ののち羽織を上にはおる。最後に武士として死ぬという意味である。東京の型では、お才らとのやりとりの間に水浅葱(水色)の紋付に着替える。この時点で武士に戻るという意味であり、明るい色の衣装で切腹するという美しさを強調している。論理的な上方と耽美的な東京(江戸)の芸風の相違点がうかがわれる。なお文楽でも勘平は紋付に着替えるが、それは郷右衛門たちが来てからの事である。

勘平は十五代目市村羽左衛門初代中村鴈治郎、二代目實川延若、十七代目中村勘三郎がそれぞれ名舞台だったが、抜群なのは六代目尾上菊五郎の型である。菊五郎は絶望の淵に墜ちていく心理描写を卓抜した表現で勤め、現在の基本的な型となっている。おかやは老巧な脇役がつとめることで勘平の悲劇が強調されるのでかなりの難役である。戦前は初代市川延女、戦後は二代目尾上多賀之丞五代目上村吉彌二代目中村又五郎が得意としていた。祇園の女将お才は花車役という遊里の女を得意とする役者がつとめる。十三代目片岡我童九代目澤村宗十郎が艶やかな雰囲気でよかった。お才につきそう判人源六は古くは名脇役四代目尾上松助の持ち役だったが、戦後は三代目尾上鯉三郎が苦み走ったよい感じを出していた。

七段目・大臣の錆刀

あらすじ(七段目)

祇園一力茶屋の段)ここは京の都、遊郭や茶屋の連なる夜の祇園町。その祇園町の一力茶屋に師直の家来鷺坂伴内とともにいるのは、もと塩冶の家老斧九太夫である。九太夫は師直の側に寝返り内通していた。

二人は大星由良助が、仇討ちを忘れてしまったかのように祇園で放蕩に明け暮れているという噂を聞き、それを確かめにきていたのだったが、由良助は二階座敷で遊女たちを集め酒宴を開き、高い調子で太鼓や三味線を囃させ騒いでいる。これを下から見ていた九太夫も伴内も呆れるが、なおも由良助の心底を見極めようと、座敷に上がり、ひそかに様子を伺うことにした。

そのあと、もと塩冶の足軽寺岡平右衛門の案内で、これも塩冶浪士の矢間十太郎、千崎弥五郎、竹森喜多八の三人が一力茶屋を訪れる。矢間たちも由良助の放蕩を聞き心配して尋ねに来たのだったが、敵討ちのことを尋ねられた由良助は酔っ払ってまともに相手にならない様子である。怒った矢間たちは「性根が付かずば三人が、酒の酔いを醒ましましょうかな」と由良助を殴ろうとするも、平右衛門に止められる。敵討ちの同志に加わりたいと平右衛門は由良助に願い出るが、由良助は話をはぐらかして相手にせず、敵討など「人参飲んで首くくるような」馬鹿げたものだと言い放つ。矢間たちはいよいよ腹を立て、「一味連判の見せしめ」と由良助を斬ろうとするが平右衛門は矢間たちをなだめ、ひとまず別の座敷へと三人をいざないその場を立った。

由良助は酔いつぶれて寝ている。そこへ人目を避けながら力弥が現われるとむっくと起きた。力弥はかほよ御前からの急ぎの密書を由良助に渡し、またその伝言として師直が近々自分の領国に帰ることを告げて去る。由良助が密書を見んと封を切ろうとするところ、九太夫が現われる。

「忠臣蔵 七段目」 九太夫と酒を飲む由良助。そのまわりを仲居幇間が取り巻く。広重画。

由良助は九太夫と盃を交わす。今日は旧主塩冶判官の月命日の前日、すなわち逮夜で本来なら魚肉を避けて精進すべき日であった。九太夫は由良助の真意を探ろうと、わざと肴の蛸を勧めるが、由良助は平然とこれを食し、幇間や遊女たちと奥へと入る。伴内が出てきて「主の命日に精進さへせぬ根性で、敵討ち存じもよらず」と九太夫と話すが、ふと見ると由良助は自分の刀を置き忘れていた。「ほんに誠に大馬鹿者の証拠」と、こっそり由良助の刀を抜いて見ると、刀身は真っ赤に錆びついている。「さて錆たりな赤鰯、ハハハハハ…」と嘲笑する二人。だが九太夫は、まだ由良助のことを疑っていた。最前、力弥が来て由良助に書状を渡すのを見かけたからで、それについての仔細を確かめるべく、座敷の縁の下に隠れて様子を伺うことにする。伴内は九太夫が駕籠に乗って帰ると見せかけ、空の駕籠に付き添い茶屋を出て行った。

あの勘平の女房おかるははたして遊女となっていたが、今日は由良助に呼ばれてこの一力茶屋にいた。飲みすぎてその酔い覚ましに、二階の座敷で風に当っている。その近くの一階の座敷、由良助が縁側に出て辺りを見回し、釣燈籠の灯りを頼りにかほよからの密書を取り出し読み始めた。そこには敵の師直についての様子がこまごまと記されている。だがそれを、二階にいたおかると縁の下に隠れていた九太夫に覗き見されてしまう。密書を見るおかるのが髪からとれて地面に落ちた。その音を聞いた由良助ははっとして密書を後ろ手に隠す。「由良さんか」「おかるか。そもじはそこに何してぞ」「わたしゃお前にもりつぶされ、あんまり辛さに酔いさまし。風に吹かれているわいな」

「七段目」 初代坂田半五郎の大星由良助。かほよ御前からの書状をひそかに読む由良助だったが…。勝川春章画。

由良助は、おかるにちょっと話したい事があるから、そこから降りてここに来るよう頼む。そばにあった梯子で、わざわざおかるをふざけながら下へと降ろす由良助。そしておかるに「古いが惚れた」、自分が身請けしてやろうと言い出した。男があるなら添わしてもやろう、いますぐ金を出して抱え主と話をつけてやるといって、由良助は奥へと入った。

夫勘平のもとへ帰れるとおかるが喜んでいると、そこに平右衛門が現れる。おかるはこの平右衛門の妹であった。おかるは由良助が読んでいた書状の内容について、平右衛門にひそかに話した。平右衛門「ムウすりゃその文をたしかに見たな」おかる「残らず読んだその跡で、互いに見交わす顔と顔。それからじゃらつき出して身請けの相談」「アノ残らず読んだ跡で」「アイナ」「ムウ、それで聞えた。妹、とても逃れぬ命、身共にくれよ」と平右衛門は刀を抜いておかるに斬りかかろうとする。驚くおかる、ゆるして下さんせと兄に向って手を合わせると、刀を投げ出しその場で泣き伏した。

平右衛門は、父与市兵衛が六月二十九日の夜、人手にかかって死んだことをおかるに話した。おかるはびっくりするが、「こりゃまだびっくりするな。請出され添おうと思ふ勘平も、腹切って死んだわやい」と、勘平もこの世にいないことを話す。あまりのことに兄に取り付き泣き沈むおかる。だがあの由良助がおかるをわざわざ身請けしようというのは、密書の大事を漏らすまいと口封じに殺すつもりに違いない。ならば自分が妹を殺し、その功によって敵討ちに加えてもらおうと、平右衛門は悲壮な覚悟でおかるに斬りつけたのである。「聞き分けて命をくれ死んでくれ妹」と、おかるに頼む平右衛門。

おかるは、「勿体ないがとと様は非業の死でもお年の上。勘平殿は三十になるやならずに死ぬるのはさぞ口惜しかろ…」となおも嘆くが、やがて覚悟を決めて自害しようとする。そこに由良助が現れ、「兄弟ども見上げた疑い晴れた」と敵と味方を欺くための放蕩だという本心をあらわし、平右衛門は東への供を、すなわち敵討ちに加わることを許し、妹は生きて父と夫への追善をせよと諭す。さらにおかるが持つ刀に手を添えて床下を突き刺すと、そこにいた九太夫は肩先を刺されて七転八倒、平右衛門に床下から引きずり出された。

由良助は九太夫の髻を掴んで引き寄せ、「獅子身中の虫とはおのれが事、我が君より高知を戴き、莫大の御恩を着ながら、かたき師直が犬となって有る事ない事よう内通ひろいだな…」と、あえて主君の逮夜に魚肉を勧めた九太夫を、土に摺りつけねじつける。九太夫はさらに平右衛門からも錆刀で斬りつけられ、のた打ち回り、ゆるしてくれと人々に向って手を合わせる見苦しさである。由良助は、ここで殺すと面倒だから、酔いどれ客に見せかけて連れて行けと平右衛門に命じる。そこへこれまでの様子を見ていた矢間たち三人が出てきて言う、「由良助殿段々誤り入りましてござります」。由良助「それ平右衛門、喰らい酔うたその客に、加茂川で、ナ、水雑炊を食らはせい」「ハア」「行け」

⇒(八段目あらすじ

解説(七段目)

「七段目」 八代目尾上芙雀のおかる (左) と、十三代目守田勘彌の大星由良助。明治43年(1910年)11月、東京市村座

大石内蔵助が敵の目を欺くため、京の祇園の遊郭で遊び呆けてみせるというのは「忠臣蔵」の物語ではおなじみの場面だが、そのおおもとになったのがこの七段目である。もっともこの七段目も、初代澤村宗十郎の演じた芝居がもとになっている(後述)。

この七段目は別名「茶屋場」とも呼ばれる。六段目で暗く貧しい田舎家での悲劇を見せた後、一転して華麗な茶屋の場面に転換するその鮮やかさは、優れた作劇法である。浄瑠璃では竹本座での初演時に6人の太夫の掛合いで以ってこの七段目を語っており、現行の文楽でも複数の太夫の掛合いで上演されている。浄瑠璃は「花に遊ばば祇園あたりの色揃え…」の唄に始まり(歌舞伎でもこの唄を下座音楽にして始まる)、綺麗な茶屋の舞台が現れる。

斧九太夫は師直の内通者、いわばスパイとして鷺坂伴内とともに登場する。さらにここに足軽の寺岡平右衛門が矢間、千崎、竹森の三人を連れてくる。これを「三人侍」というが、歌舞伎では同じ塩冶浪士でも、違う人物に替えて出すこともある。茶屋の喧騒の中、これらの敵味方が入り混じって由良助の真意を探ることになる。

仲居と遊ぶ由良助は紫の衣装が映える。心中に抱いた大望を隠し遊興に耽溺する姿は、十三代目片岡仁左衛門が近年随一だった。彼自身祇園の茶屋でよく遊んでいたので、地のままに勤めることができたのである。平右衛門は、十五代目市村羽左衛門、二代目尾上松緑が双璧。おかるは、六代目尾上梅幸が一番といわれている。

前半部の由良助が九太夫と酒を飲む茶屋遊びの件りでは、仲居や幇間たちによる「見たて」が行われる。見たてとは、にぎやかな囃子にのって、小道具や衣装ある物に見たてることである。九太夫の頭を箸でつまみ「梅干とはどうじゃいな」酒の猪口(ちょこ)をの上に置き「義理チョコとはどうじゃいな」手ぬぐいと座布団で「暫とはどうじゃいな」といった落ちをつける他愛もない内容だが、長丁場の息抜きとして観客に喜ばれる。いずれも仲居や幇間役の下回り、中堅の役者がつとめる。彼らにとっては幹部に認めてもらう機会であり、腕の見せ所となっている。

幕切れ近く「やれ待て、両人早まるな」の科白で再登場する由良助は鶯色の衣装で、性根が変わっているさまを表す。歌舞伎では幕切れは、平右衛門が九太夫を担ぎ、由良助がおかるを傍に添わせて優しく思いやる心根で、扇を開いたところで幕となる。文楽では平右衛門が、両腕で九太夫を重量上げのように持ち上げるという人形ならではの幕切れを見せる。

三代目澤村宗十郎の大岸蔵人。写楽画。

ところでこの七段目の由良助は、初代澤村宗十郎の演技を手本として取り入れたものと伝わっている。『忠臣蔵』を演じた役者たちの評を集めた『古今いろは評林』(天明5年〈1785年〉刊)には次のようにある。

「…延享四卯年(1747年)、京都中村粂太郎座本の時、大矢数四十七本と外題して澤村宗十郎〈後に助高屋高助 元祖 訥子〉大岸役にて、六月朔日より初日、出して大入りを取りし也…今の仮名手本七ツ目(七段目)は此の時澤村宗十郎が形と成りて、凡そ其の俤を手本と成り来たれり…」

これは初代宗十郎が『大矢数四十七本』という忠臣蔵物の芝居で、大石内蔵助に当る「大岸宮内」という役を勤めたときの事を記しており、また『古今いろは評林』には由良助を当り役とした役者として、二代目宗十郎三代目宗十郎の名があげられている。大石に当る役で茶屋遊びをするという初代宗十郎の芸が源流となって浄瑠璃の七段目が成立したが、一方それが二代目宗十郎、三代目宗十郎へと七段目の由良助として伝えられたのである。

なお大星由良助ではない「大岸宮内」の系統は、『仮名手本』上演後も演じられている。寛政6年(1794年)5月、江戸都座において『花菖蒲文禄曽我』(はなあやめぶんろくそが)が上演された。これは亀山の仇討ちを題材としたもので忠臣蔵物とは関わりがないが、このとき三代目宗十郎が演じたのが桃井家の家老「大岸蔵人」で、この大岸がやはり祇園町で遊ぶ場面があったようである。このときの宗十郎扮する大岸蔵人は東洲斎写楽のほか初代歌川豊国、勝川春英などが描いているが、紋所が宗十郎の定紋である「丸にいの字」になっているほかは、いずれも七段目の由良助そのままの姿である。

八段目・道行旅路の嫁入

あらすじ(八段目)

「忠臣蔵 八段目」 戸無瀬と小浪は京山科に居る力弥のもとへと、東海道を歩いて向う。広重画。

道行旅路の嫁入〈みちゆきたびじのよめいり〉)由良助のせがれ力弥と加古川本蔵の娘小浪はいいなづけであったが、塩冶の家がお取り潰しになったことにより、その婚儀も本来流れるはずであった。力弥と添い遂げられないことを悲しむ娘を見て、母の戸無瀬はこの上は改めて娘小浪を力弥の嫁にしてもらおうと、供も連れずに母娘ふたりで、鎌倉から由良助たちのいる京の山科へと向う。

⇒(九段目あらすじ

解説(八段目)

加古川本蔵の妻戸無瀬と小波の母娘が嫁入の決意を胸に、二人きりで山科へと東海道を下る様子を見せる所作事である。その浄瑠璃の詞章には東海道の名所が織りこまれ、旅情をさそう。道具(背景)も旅程に合せて次々転換させたり、奴をからませるなどの演出がある。しかし現行の歌舞伎では三段目の増補である『道行旅路の花聟』ばかりが上演され、この本来の内容である「道行旅路の嫁入」は近年の通し上演が七段目までしか出ないこともあり、ほとんど上演されることがない。

浄瑠璃の文句も東海道の名所旧跡を織り込んで、許婚のもとに急ぐ親子の浮き浮きした気分を表す。立女形と若女形が共演する全段中最も明るい場面で、これが九段目の悲劇と好対照をなす。「八段目の道行は、九段目に続ける気持で踊れ」とは六代目中村歌右衛門の言葉である。

さて江戸では、義太夫狂言の道行は豊後節系の浄瑠璃で演じられるのが例であった。この八段目「道行旅路の嫁入」もその例に漏れず、曲を常磐津清元にして上演されているが、その内容は『義経千本桜』四段目の「道行初音旅」と同様、原作の内容を増補している。たとえば『日本戯曲全集』に収録される清元所作事の『道行旅路の嫁入』(天保元年4月、市村座)は、最初に原作どおり戸無瀬と小浪が出て所作があり引っ込むと、そのあとさらにお伊勢参りの喜之助と女商人のおかなというのが出てきて所作事となる。しかも肝心の戸無瀬と小浪は、子役に踊らせるという趣向であった。

ほかには文政5年(1822年)3月、中村座で八段目に常磐津を地にした『旅路の嫁入』が上演されている。このときは戸無瀬と小浪のほかに、それに従う供として関助と可内(べくない)という奴、そして女馬子のお六というのが出てくる。内容は戸無瀬と小浪が関助も交えての所作のあと、関助が悪心を起こし可内から路銀を奪おうとするのを、馬子のお六が可内に味方して立ち回りとなるといったものである。このときは三代目坂東三津五郎が戸無瀬と可内の二役、小浪とお六が五代目瀬川菊之丞、関助が中村傳九郎であった。この常磐津の曲は『其儘旅路の嫁入』(そのままにたびじのよめいり)と称し今に残っている。

九段目・山科の雪転し

あらすじ(九段目)

雪転し〈ゆきこかし〉の段)雪の深く積った山科の由良助の住い。そこにあるじの由良助が、幇間や茶屋の仲居に送られて朝帰りである。由良助はいい歳をして積った雪を雪こかし、すなわち大きな雪玉にして遊ぶ。奥より由良助の妻お石が出てきて由良助に茶を出すが、それを一口飲んだ由良助は酔いが過ぎたかその場でごろりと横になってしまう。せがれの力弥も出てきたので、幇間や仲居たちは帰っていった。やがて由良助も丸めた雪が溶けぬよう、日陰に入れておけと言い残しお石や力弥とともに奥へと入った。

山科閑居の段)加古川本蔵の妻戸無瀬と、その娘の小浪がこの山科の閑居に来る。小浪はすでに花嫁衣裳のなりで、本日この場で力弥との祝言をあげようという心積もりである。「頼みましょう」という戸無瀬の声に下女のりんが出て母娘を座敷に通し、やがてお石が二人の前に現われた。

戸無瀬は、以前よりいいなづけの約束があった力弥と小浪の祝言をあげさせたいので、本日娘を連れ、夫本蔵の名代として訪れた旨をお石に話す。だが、それに対するお石の返答はにべもない。以前確かにいいなづけの約束はしたが、今は浪人者のせがれでは下世話にいう提灯に釣鐘というもの。つりあわぬ縁だからこっちには気遣いせず、どこへなりともよそへ縁組して下さいというので、戸無瀬は思わぬ返答にはっとしながらも、もとは千五百石取りの国家老だった由良助殿、五百石取りの本蔵と釣合いが取れぬはずが無いというのを、「イヤそのお言葉違ひまする」とお石はさえぎった。

「五百石はさて置き、一万石違うても、心と心が釣合へば、大身の娘でも嫁に取るまいものでもない」「ムムこりゃ聞きどころお石殿。心と心が釣合はぬと仰るは、どの心じゃサア聞こう」と戸無瀬はお石に詰め寄るが、お石は、旧主塩冶判官が師直に殿中で斬りつけたのは、その師直よりあらぬ侮辱を受けて起こったこと、それに引き換えその師直に進物を贈って媚びへつらう追従武士の本蔵の娘では釣合わないから嫁にはできぬという。「へつらひ武士とは誰が事、様子によっては聞捨てられぬ…」と夫を罵られた戸無瀬は、それでもやはり娘可愛さから、なおも小浪を力弥の妻として認めてくれるようお石に頼む。が、お石は「女房なら夫が去る。力弥に代わってこの母が去った」と言い放ち、襖をぴっしゃりと締め奥へと入ってしまった。

これまでの様子を黙ってみていた小浪は、わっと泣き出す。戸無瀬は娘に、力弥のことは諦めてほかに嫁入りする気はないかと尋ねるが、あくまでも力弥と添い遂げたいという小浪の気持は変わらなかった。こうなってはせっかく送り出してくれた本蔵のところにも、もはや申し訳なさに帰れない。戸無瀬と小浪は、この場でともども自害しようとする。

戸無瀬は、差してきた本蔵の刀でまず娘を斬ろうとした。「母も追っ付あとから行く。覚悟はよいか」と立ちかかると、ちょうど表には尺八を吹く虚無僧が来て、「鶴の巣籠り」の曲を奏でている。「鳥類でさへ子を思ふに、咎もない子を手にかけるは…」と嘆きのあまり足も立ちかね手も震えたが、何とかそれを押さえ、戸無瀬は刀を振り上げ小浪を斬ろうとした。その下に座す小浪は、念仏を唱えながら手を合わせている。このとき、奥より声が聞えた。

「御無用」

娘を斬ろうとする戸無瀬は、思わずこの声に動きを止めた。すると表に立っていた虚無僧も、尺八の音を止める。とまどう戸無瀬。いや、今の「御無用」とは虚無僧を追い払うための言葉であろう。自分たち母娘の自害を止めたのではないと、戸無瀬は「娘覚悟はよいかや」と再び刀を振り上げた。その拍子にまたも「御無用」の声。

「ムム又御無用ととどめたは、修行者(虚無僧)の手の内か、振り上げた手の内か」「イヤお刀の手の内御無用。せがれ力弥に祝言さしょう」と、お石が何も載せていない白木の三方を捧げ持ちながら、戸無瀬と小浪の前に現われた。「殺そうとまで思ひ詰めた戸無瀬様の心底、小浪殿の貞女、志がいとほしさにさせにくい祝言さす」というお石。だがそのためには、「世の常ならぬ」引き出物をこの三方で受け取ろうという。戸無瀬は自分が差している本蔵の刀を差し出そうとするが、お石はそれを受け取らない。「ムムそんなら何がご所望ぞ」「この三方へは加古川本蔵殿の、お首を乗せてもらいたい」

「エエそりゃ又なぜな」と驚く戸無瀬にお石はさらにいう。本蔵が止めたせいで塩冶判官は殿中で師直を討ち果たすことが出来ず、むざむざとご切腹なされたのである。その憎しみが本蔵にかからないと思うのか。家来の身としてそんな本蔵の娘を、何の気兼ねも無しに嫁にできる力弥ではない。「サア、いやか、応かの返答を」とお石が迫る。戸無瀬と小浪はうつむいて途方にくれるばかりである。

「九段目」 十一代目片岡仁左衛門の加古川本蔵。名取春仙画。

そんなところに「加古川本蔵の首進上申す」と、それまで表にいた虚無僧が内へと入ってきた。編笠を脱いだその顔を見れば、それは他ならぬ加古川本蔵だったのである。戸無瀬も小浪もびっくりする。

「案に違はず拙者が首、引き出物にほしいとな。ハハハハハ…」と本蔵は、お石を嘲笑う。主人の仇を報じようという所存もなく遊興や大酒に溺れる由良助、そんな「日本一の阿呆のかがみ」ともいうべき者の息子へ娘を嫁にやるために、この首は切れぬといって三方を踏み砕いた。これにお石は「ヤア過言なぞ本蔵殿、浪人の錆刀切れるか切れぬか塩梅見しょう」と、長押の槍を取って本蔵に突きかかったが、本蔵も留め立てする戸無瀬と小浪を邪魔ひろぐなと退きのけてお石と争い、最後はお石が本蔵にねじ伏せられた。そこへ怒った力弥が出てきて、お石の手から離れた槍を取り上げ本蔵めがけて突く。槍は本蔵の脇腹を突き通した。槍を突かれて倒れる本蔵に、力弥は戸無瀬や小浪の嘆きも構わずに止めを刺そうとすると、「ヤア待て力弥早まるな」と由良助がその場に現れる。

「一別以来珍しし本蔵殿。御計略の念願とどき、婿力弥が手にかかって、さぞ本望でござろうの」と、由良助は娘のためわが身を犠牲にする本蔵の真意を見ぬいていた。

本蔵は語る。主人若狭之助が鶴岡で師直より受けた侮辱によりこれを恨み、討ち果たさんとするのを知った。そこで先回りして主人若狭之助にも知らせず、師直へ進物を贈ってその機嫌を取り持った。その賄賂は功を奏したが、今度はその矛先が塩冶判官に向けられてしまった。塩冶判官が刃傷に及んだとき、飛び出してその後ろを抱きかかえて止めたのは、師直が軽傷で済めばまさか厳しいお咎めにはなるまいと判断したからであった。だがその予想は裏切られ判官は切腹、塩冶家はお取り潰しの憂き目にあう。おかげで力弥に嫁入りしようという娘小浪の難儀ともなった。だからせめてもの申し訳に、この首を婿の力弥に差し出そうというのである。「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心推量あれ由良殿」と、涙にむせ返りながら語る本蔵の様子に、戸無瀬や小浪はもとより大星親子三人もともに嘆くのであった。

「忠臣蔵 九段目」 事切れようとする本蔵をあとに、その袈裟や編笠で虚無僧に変装し、堺へと立つ由良助。画面奥には雪で作ったふたつの五輪塔が見える。広重画。

由良助は障子を開け、奥庭に置いた雪で作ったふたつの五輪塔を見せる。由良助と力弥親子の墓のつもりである。覚悟のほどを見た本蔵は、「婿へのお引きの目録」と称して師直邸の絵図面を渡す。由良助は師直の館へ討ち入りの際、雨戸のはずし方を自ら庭に降り立ち、庭の竹をたわめてその反動ではずす方法を本蔵に見せると、本蔵は「ハハア、したりしたり」と誉めた。由良助は討ち入りの用意にすぐさま摂津の堺へと立つことにしたが、その本蔵の使った深編笠や袈裟を使い、虚無僧に変装する。本蔵は人々が嘆く中に事切れる。力弥と小浪は双方の親から晴れて夫婦と認められたが、それも一夜限りのこと、由良助はそんなふたりをあとに残し、堺に向けて出立するのだった。

⇒(十段目あらすじ

解説(九段目)

「忠義にならでは捨てぬ命、子ゆえに捨つる親心」。この言葉は、娘小浪を思う加古川本蔵の親心をよく表しているといえるが、本蔵が命を捨てるのはわが子を思ってのことだけではない。

そもそも本蔵は、由良助たち塩冶浪士から見れば「部外者」である。塩冶判官がその身に咎ありとして上意により切腹、お家はお取り潰しになったからには、その家臣大星家との縁組も解消され、それらに関わるべき義理もいわれもない。大名家の家老という重い立場を思えばなおさらである。だが本蔵は、由良助たちも含めた塩冶家のことについて、無碍に切り捨てる事が出来なかった。力弥に槍で突かれた本蔵は由良助に物語る。「思へば貴殿の身の上は、本蔵の身に有るべき筈」と。つまりまかり間違えば若狭之助が師直に斬りつけ、その結果若狭之助が切腹、桃井家はお取り潰しになっていたということである。

ほんらい一触即発だったはずの若狭之助と師直とではなく、師直とは直接問題のなかったはずの塩冶判官が師直へ刃傷に及んでしまったのは、塩冶判官があるじ若狭之助の「身替り」になったようなものだとの思いが本蔵にはあった。また判官を止めたことで、却って判官とその家中にとっては事が裏目に出てしまう。塩冶家の人々に対する同情、そしてうしろめたさ。おおやけには本蔵自身に何の落ち度もないはずであるが、その同情とうしろめたさが本蔵を動かし、由良助に師直邸の図面を渡して婿の力弥にわが身を討たせる。これは主君若狭之助に対する「忠義」からの行動ではない。しかし宮仕えの侍の命は、「忠義にならでは捨てぬ命」である。だからこれは「子ゆえに捨つる親心」、すなわち娘可愛さから縁につながる婿の家に助力し、命を捨てるのだと本蔵は物語るのである。

現行の歌舞伎では上でも述べたように、通しでも七段目までしか出ないことから、八段目も含めて九段目を上演する機会は少なくなっており、上演される場合にはみどり狂言形式の興行において、一幕物の演目として出されることが多い。また現在は全く上演されないが、幕開きに由良助が仲居幇間をつれて大きな雪玉をころがして出てくる「雪転し」という端場がある。雪中の朝帰りという風情のあるもので、のちにこの雪玉が後半部、由良助が本蔵に覚悟のほどを見せる雪製の五輪塔(墓)になるのである。昭和61年(1986年)の国立劇場での通し上演ではこの場が上演されている。

戸無瀬親子が大星宅を訪れる時、下女りんが応対しとんちんかんなやりとりで観客を笑わせる。「寺子屋」の涎くり、「御殿」の豆腐買おむらのように、丸本物の悲劇には道外方が活躍する場面がある。緊張が続く場面で息抜きをするための心憎い演出である。それだけに腕達者な脇役がつとめる。古くは中村吉之丞、現在では加賀屋鶴助が持ち役にしていた。

本蔵と由良助、戸無瀬とお石との火花を散らす芸の応酬が見どころである。本蔵は十一代目片岡仁左衛門、由良助は八代目松本幸四郎、二代目實川延若がよかったといわれている。また、戸無瀬は三代目中村梅玉、お石が中村魁車。芸の上でしのぎを削りあった両優のやりとりは壮絶だった。戦後は六代目中村歌右衛門の戸無瀬、七代目尾上梅幸のお石が素晴らしかった。力弥は十五代目市村羽左衛門が一番だった。

本蔵や由良助をよく勤めた十三代目片岡仁左衛門は九段目がとても気に入っており、「本当の美しさ、劇の美しさは九段目やね。…ここに出てくる人間が、まず戸無瀬が緋綸子、小浪が白無垢、お石が前半ねずみで後半が黒、由良助は茶色の着付に黒の上で青竹の袴、…本蔵は渋い茶系の虚無僧姿、力弥は東京のは黄八丈で、上方だと紫の双ツ巴の紋付…みんなの衣装の取り合わせが、色彩的に行ってもこれほど理に叶ったものはないですわな」と、色彩感覚の見事さを評している。

原作の浄瑠璃では由良助が庭に降り立ち、竹をたわめて雨戸を外す仕組みを本蔵に見せることになっているが、歌舞伎では由良助に代って力弥がこれを行うように変えられている。文楽は原作通り由良助である。また文楽では大道具が逆勝手となっている。文楽、歌舞伎の大道具は通常いずれも家の入り口が下手側に設けられるが、この九段目では逆の上手側に設けており、これは人形を遣う上で、力弥が本蔵に向って槍を突くときに逆の勝手にしないと具合が悪いのだという。

なおこの段では実際の赤穂事件を当て込んだ言葉があり、由良助の妻「お石」は実際の「大石内蔵助」を指し、本蔵の「浅き巧みの塩冶殿」は実際の「浅野内匠頭」と赤穂の名産「塩」を利かせている。

『本蔵下屋敷』

九段目の前の話として、『増補忠臣蔵』という作者不明の義太夫浄瑠璃が明治に入ってから出来ている。通称『本蔵下屋敷』。内容は、本蔵が師直に賄賂を贈ったことを若狭之助が怒り、それにより本蔵は自宅のある桃井家の下屋敷で蟄居している。そこに若狭之助が来て本蔵を手討ちにしようとするが、じつは力弥に討たれたいとの本蔵の真意を悟り、師直館の見取り図と虚無僧の使う袈裟編笠を渡して暇乞いを許すというもの。ほかに若狭之助の妹三千歳姫と、若狭之助を毒殺しようという敵役の井浪番左衛門が出てくる。歌舞伎にも移され古くは度々上演されたが、現在ではほとんど上演を見ない。

十段目・発足の櫛笄

あらすじ(十段目)

人形まわしの段)ここは摂津堺にある廻船問屋の天河屋である。店は繁盛しその暮らし向きは豊かであったが、今この家にいるのは主人の天河屋義平とその息子の四つになるよし松、それと丁稚の伊吾八の三人。ほかの奉公人は義平が理由をつけて辞めさせてしまい、さらに義平は自分の女房さえも実家に帰してしまっているのだった。そのわけは、もと塩冶家の用向きを勤めていた義平が高師直を討たんとする大星由良助たちに味方し、そのための用意を手伝っているからで、この秘密を知られないための用心である。伊吾八は幼いよし松の機嫌をとるため、人形をもてあそびながらあやしている。

時もすでに黄昏時、大星力弥と原郷右衛門が天河屋を尋ねる。大星たちは明日にも出立して鎌倉に向かうことになっていた。義平は、大星たちが討ち入りに使う武器や防具類は、すでに船などで送る手はずになっていることをふたりに報告した。これを聞いた力弥は「天河屋の義平は、武士も及ばぬ男気な者」と言い、由良助にも知らせて安堵させようとふたりは店を去った。

そこへ入れ違いに現れたのは、義平にとっては舅の大田了竹である。了竹は、もと斧九太夫抱えの医者であった。その了竹のところに女房である園(その)を義平は預けていたが、了竹は理屈をつけて娘の園を離縁しろという。義平はなにかあるなとは思いながらも、園への離縁状を書いて了竹に渡した。なにか胡乱なことをしているらしい義平よりも、娘にはもっと身分のよい男のもとに嫁入りさせるつもりだと、なおも憎まれ口を叩く了竹を義平は蹴飛ばして店から追い出す。

「忠臣蔵 十段目」 由良助たちのために武器防具を手配する天河屋義平の店に、捕り手が踏み込もうとするが…。広重画。

天河屋の段)夜になった。大勢の捕手が現われ店に踏み込み、義平を捕らえようとする。「コハ何故」という義平に対し、塩冶判官の家来大星由良助に頼まれ武器防具を鎌倉に送ろうとしたことが露見したので、義平を急ぎ捕らえに来たのだという。「これは思ひもよらぬお咎め、左様の覚えいささかなし」と言おうとする義平に捕り手たちは「ヤアぬかすまい、争はれぬ証拠有り」と、荷物を持ち込んだ。見ればそれは、義平が大星たちのために送る荷を入れた長持で、中には武具防具が入っている。そのまだ菰に巻かれて鍵のかかった長持を切り開こうとするのを見て義平は捕り手たちを蹴飛ばし、長持の上にどっかと座った。

これはさる大名家の奥方が使うわけありの道具が入っている、それを開けて見せてはそのお家の名が出て迷惑の掛かる事と、義平は長持を開けさせることを拒む。それを見た捕り手の一人が一間の内に駆け入り、義平の子のよし松を引き出した。「有りやうにいへばよし、言はぬと忽ちせがれが身の上、コリャ是を見よ」と、刀を抜いてよし松の喉もとに差しつけた。義平はこれを見てさすがにはっとしたが、顔色は変えずに次のように言った。「女わらべを責める様に、人質取っての御詮議。天河屋の義平は男でござるぞ。子にほだされ存ぜぬ事を、存じたとは得申さぬ…」

だが捕り手たちもそれに退くことなく、「白状せぬと一寸試し、一分刻みに刻むがなんと」というが義平も「オオ面白い刻まりょう」と、ついには捕り手たちよりわが子をもぎ取って、自ら絞め殺そうという勢いである。だがそこへ、「ヤレ聊爾せまい義平殿」という声とともに、なんと長持の中から現れたのは由良助であった。

じつは捕手は大鷲文吾や矢間重太郎をはじめとする判官の家臣たちで、由良助は義平の心を試したのだと謝った上で、「武士も及ばぬ御所存、百万騎の強敵は防ぐとも、左程に性根は据はらぬもの」と義平を褒め称えるのであった。捕り手に化けていた人々も「無骨の段まっぴら」と、畳に頭を擦り付けるようにして義平に頭を下げる。やがて由良助はこの場を立とうとするが、義平は目出度い旅立ちに手打ちの蕎麦を差し上げたいというので、由良助は「手打ち」とは縁起がよいとその馳走に預かることにし、義平に案内されてみな奥へと入った。

そのあと、ひとりの女が提灯を持って、天河屋の戸口にまで来る。義平の女房の園である。鍵がかかっているので伊吾を呼ぶとやってくる。園がわが子よし松の様子を案じて伊吾に尋ねていると、義平が来て伊吾を奥へとやり、再び戸口に鍵をする。「コレ旦那殿、言ふ事があるここあけて」「イヤ聞く事もなし」と義平は聞く耳を持たない。義平は園の親の了竹が斧九太夫に繋がる悪人なので、園とはいったん縁を切る心であった。だが園は戸の隙間から、最前了竹が義平に書かせた離縁状を投げ入れた。了竹からこの離縁状を盗みこっそり抜け出して来た、了竹とは親子の縁を切るつもりだと園はいう。義平も、まだ幼子で母を慕うよし松のことを思うと不憫ではあったが、それでも了竹に渡したはずの離縁状を内緒で手にしては「親の赦さぬ不義の咎」、筋が通らないから持って帰れと離縁状を返し、戸口もしっかりと閉めてしまった。

ひとり表に残された園は、「咎もない身を去るのみか、我が子にまで逢はさぬは、あんまりむごい胴欲な」と、その場で嘆き伏してしまう。やがて、もうこうなっては親了竹のもとにも戻れない、自害して果てようとその場を立ち駆け出そうとした。するとそこへ、覆面をした大男が現われ園をひっ捕らえて髷を切り、園が髪に挿していた櫛や、また懐のものまで奪って逃げ去った。盗られたのは離縁状である。髪を切って離縁状まで奪ってゆくとはなんということか、いっそ殺してと園は泣き叫び、義平もこの表の様子に気付き驚いて飛び出そうとしたがそれを堪え、ためらいつつ門口にとどまる。

そこへ奥より由良助たちが出てきて、義平に暇乞いを述べ、出立しようとする。このとき由良助は世話になったお礼にと、白扇に載せたなにかの包み物を義平に贈ろうとしたが、義平はこれを金包みだと思い怒る。自分は礼が欲しくて世話をしたのではない、義心からのことであるという義平、しかし由良助は「寸志ばかり」のことと言い残し、そのまま表を出る。義平はいよいよ腹を立て、贈られた包み物を蹴飛ばした。するとその中から飛び出したのは金子にあらで、最前に園の頭から切った髪と櫛笄、そして離縁状。それらを表から見た園はびっくりして駆け寄る。義平も驚きつつ、さてはさっき園の髪を切ったのは由良助たちだったのだと気付く。それは由良助が大鷲文吾にやらせたことだった。

園の髪を切ったのは「いかな親でも尼法師を、嫁らそうとも言ふまい」、すなわち尼であれば、同じ屋根の下に暮らしていても夫婦とはいえないから、これで了竹に対しては申し訳が立つだろう。そして髪はいずれ伸びるから、その櫛笄が髪に挿せるようになったら改めて夫婦として縁を結べばよい。これが世話になった義平への返礼であった。義平は園とともに由良助に感謝する。そしてさらに由良助は、「兼ねて夜討ちと存ずれば、敵中へ入り込む時、貴殿の家名の天河屋を直ぐに夜討ちの合言葉」として、「天」と呼べば「河」と答えるよう定め、由良助たちは天河屋を出立するのであった。

⇒(十一段目あらすじ

解説(十段目)

「天川屋義平は男でござる」の名科白で有名なのがこの十段目であるが、天保以降幕末になるとあまり上演されなくなり、さらに戦前まではまだ上演の機会もあったが、現在ではほとんど上演されることがない。八代目坂東三津五郎は、この十段目が上演されなくなったのは幕末の世情不安から、その上演を憚る向きがあったのではないかと述べている。戦後も二代目市川猿之助、八代目三津五郎、昭和61年(1986年)12月国立劇場の通しで五代目中村富十郎が、平成22年(2010年)1月大阪松竹座の通しで五代目片岡我當が勤めたくらいである。ほとんど上演されないので、型らしい型も残っていない。

この十段目については、「作として低調」「愚作」といわれ評判が悪い。役者のほうでも、義平の心をしかも子供を枷にしてわざわざ試し、そのあと長持の中から出てくる由良助が、これでは演じていて気分が悪いと散々である。ゆえに由良助ではなく不破数右衛門をその代りとして出したこともあった。しかし寛延2年6月に中村座で上演されたときには二代目市川團十郎が義平を勤めており、しかも團十郎はこのとき義平の役ひとつだけであった。また『古今いろは評林』においても義平について、「立者の勤めし役也…海老蔵(二代目團十郎)仕内は各別なり」と記し、後半の女房の園とのやりとりをひとつの見せ場としていたことが伺える。

斧九太夫は師直に繋がる人物であり、その九太夫の掛り付けの医者だったのが義平の舅大田了竹である。九太夫は七段目の時点で死んだと見られるが、了竹はいまだ師直と繋がっている可能性があった。そこで義平は自分の女房の園から討入りの秘密が漏れぬよう、いったん自分のそばから園を遠ざけていたのである。そして案の定、離縁状を書いて渡したとき了竹は次のようにいう。

「聞けばこの間より浪人共が入り込みひそめくより、園めに問へど知らぬとぬかす。何仕出かそうも知れぬ婿、娘を添はして置くが気遣ひ。幸いさる歴々から貰ひかけられ、去り状(離縁状)取ると直ぐに嫁入りさする相談…」

要するに了竹は、義平が師直を仇と狙う塩冶浪士に加担しているのではと疑っていた。これでは園を呼び戻すことも出来ない。園がひそかに店の表に来て離縁状を持ってきたときも、義平は筋が通らぬといってそれを突き返したが、それだけではなく了竹本人のことが枷となっていたのである。しかし義平と園のあいだにはよし松という幼い子もあり、よし松のことを気遣い嘆く園を不憫であると義平も本心では思っていた。だがそうかといって今、中に入れるわけには…と、この女房とわが子をめぐる葛藤が、義平を演じる役者にとっては古くは見せ場のひとつになっていたということである。しかし初演からはるか後になるとこうした見どころも、人々の目から見れば飽き足らないものとなってしまったようである。

十一段目・合印の忍び兜

あらすじ(十一段目)

討入りの段)ついにその日はやってきた。大星由良助らは渡し舟に乗り込み、ひそかに稲村ヶ崎に上陸する。陸に上がったのは一番が由良助、二番目が原郷右衛門。三番目が大星力弥…と、四十六名の者達が、揃いの袴に黒羽織、胴には「忠義」の文字を入れた胸当てを着け、さらに各々の名を記した袖印を付けている。兼ねてよりの「天」と「河」との合言葉を忘れるなと云い合わせ、取るべき首はただひとつと、皆は師直の館へと向う。

かくとは知らぬ師直は、伝え聞いた由良助の放蕩が本当だと真に受け油断していた。今日も今日とて薬師寺次郎左衛門を客とし、芸子や遊女も呼んで飲めや騒げやの大騒ぎ、果ては酔いつぶれて誰彼の別なくその場で雑魚寝のだらしなさである。その油断を狙って矢間重太郎と千崎弥五郎が館の塀に梯子を掛け、そのまま登って塀の中へと忍び入った。館の内から表門のかんぬきを外し、皆を招き寄せる。館の建物には雨戸が入れてあったが、あの山科の閑居で由良助が本蔵に見せたように、竹をたわめて綱を張り、その綱を切った反動で雨戸をばらばらと外し、諸士は裏門からも提灯や松明を持って邸内へと乱れ入った。これに「スハ夜討ちぞ」と師直側も気付き斬り合いとなるが、由良助は「ただ師直を討取れ」と諸士に下知する。

「忠臣蔵 夜討二・乱入」 竹に綱を張って作った弓を雨戸にはめ、綱を切ると雨戸がばたばたと外れる。広重画。

すると師直の館の両隣にある屋敷でも師直邸での騒ぎに気が付き提灯を高く掲げ、何の騒ぎかと由良助たちに呼びかけた。由良助は、自分たちは塩冶判官の旧臣たちである、亡君の仇である師直を討ちに来たのであり、そのほかに危害を加えるつもりはないと申し述べると、両隣の二つの屋敷は神妙であると感心し、提灯を引いて静まり返った。

やがて戦いから一時ばかりが過ぎたが、師直側は手負いの者数知れず、味方は二、三人ばかりが薄手を追っただけである。ところが肝心の師直が、屋敷のどこを探しても見当たらない。もしや館から外へ逃れたのかと、寺岡平右衛門が表へと駆け出そうとするまさにその時、矢間重太郎が師直を引っ立てて現れた。柴部屋に隠れていたのを見つけたのだという。由良助は「出かされた手柄手柄。さりながらうかつに殺すな。仮にも天下の執事職、殺すにも礼儀有り」と師直を上座に据え、おとなしく首を渡すように述べると師直は、兼ねてから覚悟はしていた、さあ首取れといいながら油断させ抜き打ちに切りかかった。だが由良助はそれを避け、「日ごろの鬱憤この時」と切りつけると、それに続いて諸士たちも師直に刀を浴びせ、最後は判官が切腹に使った刀によってその首を掻き切る。ついに本懐は遂げられた。一同の喜びようはこの上もなく、みな嬉し涙に暮れるのであった。

由良助は懐より塩冶判官の位牌を取り出し、師直館の床の間に据え、さらにその前に師直の首を置いて亡君に手向け、涙して礼拝する。その位牌へ焼香の一番目には、師直を見つけた矢間重太郎が行った。その二番目には由良助がと皆が勧めるが、由良助は「イヤまだ外に焼香の致し手有り…早の勘平がなれの果て」と言って懐より縞の財布を取り出した。これこそはあの勘平を苦しめ自害させ、そしてせめてこれだけでも討ち入りのお供にと勘平から託されたあの財布である。「金戻したは由良助が一生の誤り」と、寺岡平右衛門に「そちが為には妹聟」と財布を渡し、亡君への焼香をさせるのだった。平右衛門は「二番の焼香早の勘平重氏」と高らかに、しかし涙声で呼ばわって焼香する。諸士の面々も勘平の身の上に、胸も張り裂ける思いである。

そのとき俄に人馬の声と陣太鼓、そしてときの声が上がる。さてはまだいる師直の家来たちが攻め懸けてきたかと思うところ、そこへさらに駆けつけてきたのは桃井若狭之助。若狭助は、今表から攻めてきたのは師直の弟師安の手勢で、ここはひとまず判官の菩提所光明寺へと退くようにという。由良助たちはその言葉に従い、後のことは若狭之助に任せて立ち退くことにした。すると今までどこに隠れていたのか、薬師寺と鷺坂伴内が現われ、「おのれ大星のがさじ」と討ってかかる。それらの相手に力弥が切り結んだが、最後は薬師寺も伴内も斬られて息絶え、それを見た人々は手柄手柄と賞美するのであった。

解説(十一段目)

すでに述べてきたように、『仮名手本忠臣蔵』は全十一段の構成となっているが、これを内容の上で通常の五段続の義太夫浄瑠璃に当てはめるとすれば、次のようになる。

  • 【大序、二段目、三段目】…初段
  • 【四段目】…二段目
  • 【五段目、六段目】…三段目
  • 【七段目、八段目、九段目】…四段目
  • 【十段目、十一段目】…五段目

五段続の浄瑠璃では五段目は物語の大団円を描くものだが、それはほんの申し訳程度の場面を付け加えたものであることが多い。ゆえに義太夫浄瑠璃の五段目はその多くが早くに廃滅し演じられなくなった。またこれは歌舞伎でも同様で、三段目の切または四段目の切まで演じてそれを「大詰」とするのが常であった。しかしこの五段目に当たる『仮名手本忠臣蔵』の十一段目は、「討入り」の場面として現在に至るも演じられている。それは後に述べるように、原作通りではない改変された内容になってはいるものの、浄瑠璃や歌舞伎の芝居の中ではこれも冒頭の「大序」と同じく、稀な例といえる。

原作の十一段目の内容は近松の『碁盤太平記』の討入りの段によるところが大きい。冒頭の「柔能く剛を制し弱能く強を制するとは、張良に石公が伝えし秘法なり」というのも、この『碁盤太平記』から取ったもので、これをはじめとして浄瑠璃の詞章にかなりの部分を借りている。最初に由良助たちが船に乗って稲村ヶ崎を過ぎ岸に上がり、師直の館に討ち入って以降のくだりもおおむね同じといえる。しかし『仮名手本忠臣蔵』ではこの最後の場面で早の勘平を「財布」という形で登場させ、また討入りした浪士の人数を「四十六人」としており、じつはこの勘平も加えて「四十七人」としている。

この段は、歌舞伎では原作の浄瑠璃からは完全に離れた内容となる。極端にいえば、上演ごとに異なった台本や演出となるので内容が一定しない。しかし由良助ら義士が師直の館に討ち入り、師直側と大立ち回りのすえ最後は炭小屋に隠れていた師直を討ち取るという段取りはおおむね変わらない。その一例として以下を掲げる。

「十一段目」 左から三代目岩井粂三郎の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、二代目市川九蔵の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。
(高家門前の場)由良助、力弥ら浪士たちは師直館の門前に居並び、師直邸へと討ち入ろうとする。
(高家討ち入りの場)浪士たちと師直の家来たちとのあいだで大立ち回りが演じられる。清水一角などが雪の降るなか浪士たちと応戦。最後には浪士たちは炭小屋に隠れていた師直を見つけ引き出す。由良助は判官の形見の腹切り刀を差し出し自害するよう師直に勧めるが、師直はその刀で由良助に突きかかってくる。由良助は師直から刀をもぎ取り刺し殺す。そしてその首を討ち、由良助たちはついに本懐を遂げ勝どきをあげる(現行では、ここで終演となる事が多い)。
(花水橋引き揚げの場)一同は師直の館を引き揚げ、判官の墓所のある光明寺(泉岳寺)へと向う。その途中、花水橋(両国橋に相当)で騎馬の桃井若狭之助(または服部逸郎)と出会い、若狭之助は一同の労をねぎらう。由良助たちは若狭之助と別れ、花道を通って引っ込み幕。

なお「引き揚げの場」は嘉永2年9月、江戸中村座で初めて上演された。

その後の上演

寛延元年の8月14日から竹本座で上演された『仮名手本忠臣蔵』は、「古今の大入り」となった。ところがその興行の最中、竹本座の中で揉め事が起こる。それは人形遣いの筆頭である吉田文五郎と、太夫の筆頭である竹本此太夫が九段目について演出上のことで対立し、最後は此太夫がほかの主要な太夫たち数名とともに竹本座を離れ、竹本座とはライバルであった豊竹座へと移籍してしまったのである。この騒動の後も竹本座では太夫を編成し直して興行を続けてはいたものの、次第に入りは薄くなり、その年の11月なかばには千秋楽となってしまった。しかし『仮名手本忠臣蔵』自体の人気はこれ以後も衰えることはなく、竹本座や豊竹座が退転したのちも人形浄瑠璃において上演を繰り返し、現在の文楽へと伝えられている。

江戸で人形浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』が上演されたのは大坂竹本座での初演の翌年、寛延2年の正月のことである。このときは文五郎と此太夫の騒動の余波で竹本座を離れ、さらに大坂も離れて江戸に下っていた豊竹駒太夫が堺町の肥前座で、『忠臣蔵』の七段目と九段目を語った。この興行も「古今無類の大当り」といわれるほどの大評判を取ったという。

いっぽう歌舞伎としては、竹本座で初演されたその年の12月1日、大坂中の芝居において『仮名手本忠臣蔵』は初めて上演された。江戸では翌寛延2年2月6日より森田座で、同年5月5日からは市村座で、6月16日には中村座で上演された。京都では同年3月15日より中村松兵衛座(北側芝居)での上演が最初である。その後歌舞伎においても途切れることなく、現代に至るまで上演を繰り返している。

その上演頻度は、歌舞伎だけに限っても初演から幕末までのおよそ120年間、江戸と上方の「大芝居」すなわち官許の大きな劇場だけで『仮名手本忠臣蔵』は280回興行されているが、そのほか『仮名手本』ではない赤穂義士劇も165回上演されており、これを平均すると年に四回というペースで上演されていたことになる。当時は今と違い、歌舞伎の演目はその都度新作を書いて上演するのが建前であったことを考えれば、『仮名手本』を含めた赤穂義士劇の人気がどれほど高かったかが伺えよう。そのあまりの上演頻度に「なんぼ歌舞伎の独参湯じゃというて、湯茶の代りに飲んでは効くまいぞ」(『役者金剛力』、天保11年〈1840年〉刊)といわれるほどであった。そして『忠臣蔵』の人気は近代以降も衰えることがなかった。

赤穂義士劇は上でも述べたように古くはその「世界」等が定まらなかったが、『仮名手本忠臣蔵』が上演され人気を博してからは、これ以後書かれた浄瑠璃・歌舞伎の赤穂義士劇も『仮名手本忠臣蔵』における「世界」と人物設定を用いて作劇されるようになった。また『忠臣蔵』の人気は芝居だけに留まらず文芸や音曲、寄席芸、大道芸、果てはおもちゃの類にと、ありとあらゆるものに取り上げられているが、それらについては忠臣蔵物の項に譲ることとする。『仮名手本忠臣蔵』の人気により、「遅かりし由良之助」のように元禄赤穂事件に関わる実在の人物の名よりも、本作における登場人物の名が用いられることもあった。

1928年、歌舞伎ソ連公演中のモスクワにて。左は大星由良助に扮した二代目市川左團次、右は旧ソ連の映画監督セルゲイ・エイゼンシュテイン。

昭和3年(1928年)8月、旧ソ連において史上初の歌舞伎の海外公演が行われることになった。これは前年11月に小山内薫モスクワを訪問した折、ソ連側の関係者との話がきっかけで実現したものである。座組は二代目市川左團次以下20名、ほかに竹本や長唄、大道具小道具床山など総勢48名がソ連へと渡航し、モスクワとレニングラードの劇場で二十六日間に渡って歌舞伎の公演を行った。この公演は大好評、連日の大入り満員を以って迎えられたが、このとき演目のひとつとして『仮名手本忠臣蔵』が大序から四段目まで、それに討ち入りも加えて上演された。この『忠臣蔵』を見たセルゲイ・エイゼンシュテインは、四段目の明け渡しの場での左團次扮する大星由良助の演技について、興味深く記録している。

しかし第二次世界大戦直後、『忠臣蔵』は上演禁止の憂き目にあう。戦後日本を占領統治下においたGHQ軍国主義につながるものを禁止していったが、歌舞伎は忠義(愛国につながる)という理念の宣伝媒体だったとされ、そのように看做された一部の演目が上演を禁じられた。そのなかでも特に『忠臣蔵』は危険な演目であるとして目をつけられ、これも上演が禁止されていたのである。

昭和22年(1947年)7月その禁は解かれ、同年11月には空襲の難を逃れた東京劇場で『仮名手本忠臣蔵』は上演された。このときは昼夜二部制の九段目までの上演で、二段目と八段目を略し、四段目の次に『落人』を出す構成であった。主な配役は以下の通りである。

これは当時考えられる最高の配役といえるものであったが、この配役についてはGHQの検閲官だったフォービアン・バワーズの指示によるものがあったという。ともあれこの興行は初日から満員御礼で、切符を求める客が殺到する大当りとなった。

現行の歌舞伎での上演形態

『仮名手本忠臣蔵』は現在でもほぼその全段が演目として残っている稀な義太夫浄瑠璃・丸本歌舞伎である。ただし現行の歌舞伎では、上演時間等の都合によって以下のように内容を大幅に省略している。

  • 大序 : おおむね省略なし。
  • 二段目 : ほとんど上演されず、上演することがあっても改作の「建長寺」を二段目として出すことが多い。
  • 三段目 : ほとんどの場合「どじょうぶみ」と「裏門」を省略し、また幕間を置かず次の四段目を続けて上演する。
  • 四段目 : 「花籠」が省略され、この四段目のあと清元『落人』を挿入する。
  • 五段目 : 省略なし。普通ではこのあと幕を引かずに舞台を廻し、すぐに六段目の場となる。
  • 六段目 : 原作冒頭のおかると母のやりとりから、一文字屋(お才)が訪ねて来るまでを略す。
  • 七段目 : 冒頭の九太夫と伴内の登場を略す。なお現行では通しでもこの七段目までしか上演されず、その後に「討ち入り」の幕が付け加えられることがある。
  • 八段目 : みどり狂言形式の興行で、独立した所作事として上演されることがある。
  • 九段目 : これもみどり狂言形式の興行で、一幕物の演目として上演されることがある。ただしそれでも「雪転し」が通常省略される。
  • 十段目 : ほとんど上演されない。
  • 十一段目 : 現行の討ち入りの場面は原作の浄瑠璃の内容に基づくものではなく、幕末から明治にかけての後人の補筆によるものである。

要するに現行で上演される場合には、

  1. 大序
  2. 三段目・四段目
  3. 落人』(ここまで昼の部)
  4. 五段目・六段目
  5. 七段目(このあと「討ち入り」の幕が付く事あり)

という構成になることが多い。なお通常二段目・八段目・九段目はあまり上演を見ないが、昭和49年(1974年)の国立劇場において逆に二段目・八段目・九段目だけを上演するという試みがあった。こうしないと、九段目までに至る力弥と小浪の関係がほとんどわからないからである。

刊行本

『仮名手本忠臣蔵』の本文は近代以降に活字本として出版されたものも多い。以下はその本文を収めた刊行本について、後述の参考文献と重なるものも多いが掲げておく。現在の公立図書館や一般の書店で目にしやすいと見られるものに限った。

浄瑠璃本
  • 『日本古典文学大系』51(岩波書店) : 『浄瑠璃集 上』
  • 『新潮日本古典集成』(新潮社) : 『浄瑠璃集』
  • 『新編日本古典文学全集』77(小学館) : 『浄瑠璃集』
  • 『岩波文庫』(岩波書店) : 『仮名手本忠臣蔵』 ※1937年初版のものを2013年に復刻したもの(リクエスト復刊)。付録として『古今いろは評林』を収録する。
歌舞伎脚本
  • 『名作歌舞伎全集』第二巻(東京創元社) : 丸本時代物集一
  • 『歌舞伎オン・ステージ』8(白水社) : 『仮名手本忠臣蔵』 ※注釈付き。

こぼれ話

大序
  • 梨園ではこの『忠臣蔵』に限っては、どの役柄でも先人に教えを乞うことは恥といわれるほどである。八代目坂東三津五郎がまだ坂東蓑助と名乗っていた十代のころ、大序の直義をはじめて演じることになった。役をあてられた役者には、その役者が言うべきせりふだけを記した「書き抜き」が渡されるが、蓑助が渡された書き抜きを見ると表紙だけで中身がない。それで父親の七代目三津五郎に「お父さん表紙しかない」というと、「そんなこといったら恥をかくよ。忠臣蔵は全部ないんだ」といわれたという。要するに役者にとっては改めて書き抜きなど貰う必要はなく、普段から何の役だろうとよく心得ておき、これをやれといきなり言われても出来て当たり前なのが『忠臣蔵』なのだということである。この表紙だけの書き抜きは『菅原伝授手習鑑』や『義経千本桜』においてもそうだったという。
  • 八代目三津五郎が十八、九のころ、東京劇場で『忠臣蔵』が上演されたときのこと。大序の鶴岡八幡の舞台に飾られる大銀杏の木は、葉が黄色いのが従来からの約束であるが、本文には「暦応元年二月下旬」とある。この食い違いに六代目坂東彦三郎が異を唱えた。「これは秋じゃァねえんだ。本文によれば二月下旬(陰暦)なんだから黄色いわけがねえ」と、葉の色を青葉に変えさせた。ところが初日の幕が開き、当時辛口の劇評家として知られた岡鬼太郎がこの青葉の大銀杏を見て、「だれがこんなことをした」とカンカンに怒った。次の日、大銀杏の葉はいつも通りの黄色に戻ったという。
三段目
  • 六代目尾上菊五郎が師直、塩冶判官が三代目中村梅玉で三段目の「喧嘩場」を演じたときのこと。舞台で梅玉と二人だけとなった菊五郎がふと梅玉の腰の辺りを見ると、刀を差していない。塩冶判官が師直に斬りつけるのだから刀がなくては話にならないが、菊五郎が梅玉に「笹木さん(梅玉の本姓)刀ありませんなあ」というと「はァおまへんな」と悠然としている。さすがの六代目もこれには慌て、後見に刀を持ってこさせようと、そのあいだ菊五郎がアドリブでいろいろなせりふを入れてその場をしのいだという。
四段目
  • 屋敷明け渡しで由良助が門前から去るときに烏が鳴く。烏笛という笛を吹くのであるが、或る役者がこの明け渡しの由良助をやったとき本物を使おうと、その劇場の屋根に魚を置き、それを餌に烏をおびき寄せ鳴かそうとしたという。しかし人間と違って本物の烏のこと、やはりうまくいかずに失敗したのだとか。ちなみに初代中村吉右衛門の門人中村秀十郎はこの烏笛の名人だった。
五段目
  • 猪役は「三階さん」と呼ばれる大部屋役者の役である。ある大部屋役者が猪役に出ることになって、花道のかかりで待機していたら寝てしまった。夢うつつに「シシ、シシ」と叫ぶ声がするので、さあ大変出る場面を過ぎてしまったと大慌てで花道から舞台に走り出したらちょうど四段目、判官切腹の場面で猪が飛び出し芝居がめちゃくちゃになった。「諸士」と舞台で言った声が「シシ」(猪)に聞こえてしまったのである。
  • ある大部屋役者が猪役で出た時、揚幕の係がお前にも中村屋や成田屋みたいに声をかけてやろうというので、その役者は喜んだが何てかけてくれるのだろうと思った。いよいよ本番、猪が花道から飛び出した。すると揚幕係がかけたのが「ももんじ屋!」、場内も舞台裏も大爆笑だった(ももんじ屋は猪料理店の名)。
  • また昔はかなりいい加減なというか、おどけた事も許されていた。ある猪役の役者は本舞台にかかると、松の木に手をかけ見得をして「あすこに見えるは芋畑、どりゃひとつ食べてみるべえかい」と科白を廻したことがある。
  • 与市兵衛、定九郎、勘平の三人は五段目と六段目で全員死ぬことになる。死ななかったのは、猟師の勘平に獲物として狙われていたはずの猪だけである。そこで江戸時代には、次のような川柳が詠まれている。「五段目で 運のいいのは 猪(しし)ばかり」
  • 与市兵衛はまったくの創作上の人物だが、京都府長岡市友岡二丁目に「与市兵衛の墓」なるものが残っている。近代に観光用客寄せとして作られたものではない。与市兵衛と妻の戒名が記されている。無念の死を悼み、現在に至るまで花を手向ける人が絶えない(『長岡京市の史跡を訪ねて』長岡京市商工会刊)。
九段目
  • 加古川本蔵が山科閑居に虚無僧姿で現われるが、この虚無僧の深編笠は、江戸時代には劇場側が芝居の小道具として作ってはならない決まりであった。それは実際に虚無僧が使っている編笠を、虚無僧寺から借りてきて使ったのである。この虚無僧の編笠をめぐる事件が当時起こっている。それは『仮名手本』ではないが忠臣蔵物のひとつ『太平記忠臣講釈』を上演した際に、登場人物がやはり虚無僧姿で出たときのこと、その役者が編笠を伏せて置いたのが大問題になった。虚無僧が編笠を伏せて置くのは、その虚無僧が重罪人であることを示すものだったからである。この舞台をたまたま見ていた虚無僧がこれに怒り、虚無僧の作法ではないと仕切場(劇場の事務方)に怒鳴り込んだ。結局、劇場側は謝罪文を書いて詫びたという。
  • 平成19年(2007年)1月、大阪松竹座午後の部の「九段目」では十二代目市川團十郎の由良助、四代目坂田籐十郎の戸無瀬で上演され、このときの午前の部の『勧進帳』とともに、「市川團十郎」と「坂田藤十郎」の史上はじめての共演が実現した。
十一段目
  • 討入りの場面では雪が降るのが約束だが、この雪は三角形の紙でできた雪である(現在では三角ではないこともある)。江戸時代には、『忠臣蔵』の討入りのように雪の降る芝居を出すときには髪結床を廻り、髪を結うときに出る元結の切れ端を集めた。その白い切れ端を雪にするためで、ほんらい捨てるものを利用して舞台に生かしたのである。

登場人物の実説との比較

以下、参考として『仮名手本忠臣蔵』の主な登場人物と、それに当て嵌まるとされる実説上の人物について示す。あくまでも実説との比較なので、与市兵衛やその女房といった創作上の人物は省く。また四十七士についてもその全てを掲げるのは煩瑣なので、由良助、力弥、郷右衛門、弥五郎、平右衛門を除きそれらも省いた。

登場人物 登場する段 人物設定 モデル・備考
おおぼし ゆらのすけ よしかね
大星由良助義金
四・七・九・十・十一 塩冶家家老 赤穂藩浅野家筆頭家老大石内蔵助(良雄)。「ゆらのすけ」は「由良之助」と書かれることが多いが原作に拠る表記は「由良助」。
えんや はんがん たかさだ
塩冶判官高定
一・三・四 伯州城主・御馳走役 赤穂藩主・浅野内匠頭(長矩)。史実の塩冶判官からは、その名と事件の発端となる逸話を借りる。「塩冶」は赤穂藩の名産物「赤穂の塩」にひっかけている。なお本来は「高貞」であるが、原作では「高定」となっている。また「塩冶」が「塩谷」と書かれることも多い。
こうの もろのう
高師直
一・三・四・十一 武蔵守・幕府執事 高家肝煎吉良上野介(義央)。史実の高師直からは、その名と物語の発端となる逸話を借りる。「高」は吉良上野介が「高家」だったことにひっかけている。
あしかが ただよし
足利直義
将軍足利尊氏の弟 京から下向して饗応を受けるとすれば、史実の勅使柳原資廉らにあたるが、通常は五代将軍徳川綱吉に擬えられている。
かおよ ごぜん
かほよ御前
一・四 塩冶判官の正室 浅野内匠頭正室・阿久利(瑤泉院)。『太平記』に記される塩冶高貞の妻からは、事件の発端となる逸話を借りる。ただし『太平記』では高貞の妻の名については記していない。高貞の妻の名を「かほよ」とするのは『狭夜衣鴛鴦剣翅』(並木宗輔作、元文4年〈1739年〉初演)などに例がある。
いし
大星由良助の妻 大石内蔵助の妻・りく(香林院)
おおぼし りきや
大星力弥
二・四・七・九・十・十一 大星由良助の嫡男 大石内蔵助の嫡男・大石主税(良金)。「力弥」は「主税」を「ちから」と読むことにひっかけている。
もものい わかさのすけ やすちか
桃井若狭之助安近
一・二・三・十一 浅野内匠頭と相役の御馳走役 津和野藩主・亀井茲親。亀井茲親の官位は、はじめ能登守、のちに隠岐守で、「若狭之助」は若狭国能登国隠岐国の中間に位置していることにひっかけている。
かこがわ ほんぞう ゆきくに
加古川本蔵行国
二・三・九 桃井家家老 津和野藩亀井家家老・多胡外記(真蔭)。ただし浅野長矩を松の廊下で抱きとめた梶川与惣兵衛を当てる事もある。
おの くだゆう
斧九太夫
四・七 塩冶家家老 赤穂藩浅野家家老・大野九郎兵衛(知房)
おの さだくろう
斧定九郎
四・五 斧九太夫の嫡男 大野九郎兵衛の嫡男・大野群右衛門
はやの かんぺい しげうじ
早の勘平重氏
三・五・六 塩冶家家臣 赤穂藩士萱野三平(重実)。「はやの」は「早野」と書かれることが多いが、原作の表記では「早の」である。
おかる 三・六・七 百姓与市兵衛の娘で早の勘平の女房、のち一文字屋抱えの遊女 大石内蔵助の妾・二文字屋おかる
はら ごうえもん
原郷右衛門
四・六・十一 塩冶家諸士頭 赤穂藩足軽頭・原惣右衛門
せんざき やごろう
千崎弥五郎
四・五・六・七・十一 塩冶家家臣 赤穂藩徒目付神崎与五郎
てらおか へいえもん
寺岡平右衛門
七・十一 おかるの兄で、塩冶家足軽 赤穂藩足軽・寺坂吉右衛門(信行)
あまがわや ぎへい
天河屋義平
塩冶家に出入りの廻船問屋 赤穂浪士を支援したと伝わる天野屋利兵衛
やくしじ じろうざえもん
薬師寺治郎左衛門
塩冶判官に非情な切腹の上使 幕府大目付庄田三左衛門(安利)
いしどう うまのじょう
石堂右馬之丞
塩冶判官に同情的な切腹の上使 幕府目付多門伝八郎(重共)。「石堂」は「多門」を「おかど」と読むことにひっかけている。

参考文献

  • 渥美清太郎編 『日本戯曲全集第五十巻歌舞伎篇第五十輯 赤穂義士劇集』 春陽堂、1928年
  • 黒木勘蔵編 『日本名著全集江戸文芸之部第二十八巻 歌謡音曲集』 日本名著全集刊行会、1928年 ※『増補忠臣蔵』(本蔵下屋敷)、清元『道行旅路の嫁入』、『道行旅路の花聟』所収
  • 伊坂梅雪編 『五代目尾上菊五郎自伝』 先進社、1929年 ※「高師直」(89頁)の項。近代デジタルライブラリーに本文あり。
  • 常磐津文字太夫校 『定本常磐津全集』 定本常盤津全集刊行会、1943年 ※「仮名手本忠臣蔵 八段目道行」と称して文政5年の『旅路の嫁入』の詞章を収める。近代デジタルライブラリーに本文あり。
  • 乙葉弘校注 『浄瑠璃集 上』〈『日本古典文学大系』51〉 岩波書店、1960年
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  • 中山幹雄 『忠臣蔵物語』〈『浮世絵かぶきシリーズ』3〉 學藝書林、1988年
  • 赤間亮 「最初の赤穂義士劇に関する憶説」 鳥越文蔵編『歌舞伎の狂言 言語表現の追及』 八木書店、1992年
  • 茂木千佳史編 『歌舞伎海外公演の記録』 松竹株式会社、1992年
  • 『近松浄瑠璃集 上』〈『新日本古典文学大系』91〉 岩波書店、1993年 ※『碁盤太平記』所収
  • 服部幸雄編 『仮名手本忠臣蔵』〈『歌舞伎オン・ステージ』8〉 白水社、1994年 
  • 長谷川端校注・訳 『太平記 ③』〈『新編日本古典文学全集』56〉 小学館、1997年
  • 服部幸雄編 『歌舞伎をつくる』 青土社、1999年
  • 関容子 『芸づくし忠臣蔵』 文藝春秋社、1999年
  • 国立劇場調査養成部芸能調査室編 『国立劇場上演資料集.423 文楽・仮名手本忠臣蔵(第132回文楽公演)』 日本芸術文化振興会、2000年
  • 浜本保樹 『偽りの民主主義 GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』 角川書店、2008年
  • 国立劇場調査養成部芸能調査室編 『国立劇場上演資料集.541 仮名手本忠臣蔵(第271回歌舞伎公演)』 日本芸術文化振興会、2010年
  • 浅野秀剛 『ストーリーで楽しむ「写楽」in大歌舞伎』 東京美術、2011年
  • 『仮名手本忠臣蔵』〈『岩波文庫』〉 岩波書店、2013年(復刻版) ※『古今いろは評林』所収
  • 早稲田大学演劇博物館 デジタル・アーカイブ・コレクション

関連項目

外部リンク