市川左團次 (2代目)
二代目 | |
![]() 『勧進帳』の富樫左衛門 | |
屋号 | 高島屋 |
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定紋 | 松川菱に鬼蔦(替) ![]() |
生年月日 | 1880年10月19日 |
没年月日 | 1940年2月23日(59歳没) |
本名 | 髙橋榮次郞 |
襲名歴 | 1. 初代市川ぼたん 2. 二代目市川小米 3. 二代目市川莚升 4. 二代目市川升若 5. 二代目市川左團次 |
出身地 | 東京府 |
父 | 初代市川左團次 |
兄弟 | 三代目市川莚升(弟) |
当たり役 | |
『毛抜』の粂寺弾正 『鳴神』の鳴神上人 『勧進帳』の富樫左衛門 『番町皿屋敷』の青山播磨 『元禄忠臣蔵』の大石内蔵之助 ほか多数 | |

二代目
来歴[編集]
初代市川左團次の長男。1884年(明治17年)4月に初代市川ぼたんを名乗って初舞台。1895年(明治28年)7月に二代目市川小米に改名、1898年(明治31年)4月に二代目市川莚升を襲名する。父はその4年後に死去したが、明治座の座元(所有者兼経営者)を受け継ぎ、1906年(明治39年)9月に二代目市川左團次を襲名。襲名披露の興行が大当たりで、収益を元に9か月の欧米視察に出た。
歌舞伎役者として活動する傍ら、作家の小山内薫とともに翻訳劇を中心に上演する自由劇場で演劇革新運動(えんげき かくしん うんどう)を行った(1909〜19年)。1912年(明治45年)には明治座を売却し、松竹専属になった。 また、1928年(昭和3年)7月にはソ連からの招聘され、48人の大一座を率いて渡航。モスクワとレニングラードで12日ずつ、史上初の歌舞伎海外公演を行った[3]。
1940年(昭和15年)2月15日、風邪のため新橋演舞場の舞台を休演。自宅療養をしていたところ胆嚢炎を併発して京極木挽町の南病院へ入院。同年2月23日に死去した[4]。
家族[編集]
妻は浅利鶴雄の叔母で元芸妓[5]。浅利慶太は鶴雄の子。実子がなかったため、松竹会長の大谷竹次郎の仲介により、一代限りの約束で左團次の名跡は未亡人が見込んだ四代目市川男女蔵(六代目市川門之助の養子)によって襲名された[6][7]。
自由劇場[編集]

帝劇自由劇場夜の宿。
左團次は松居松葉とともに欧米視察に出かけ、日本国外の新しい演出法や興行法を見て、大きな刺激を受けた。歌舞伎界の革新を志して帰国後明治座を改良しようとするが、周囲の反対で失敗。その後、小山内薫と意気投合し、会員制の自由劇場を始めた。
自由劇場は1909年(明治42年)11月に有楽座で第1回公演を行った。演目はイプセンの『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(森鷗外訳)で、ボルクマンには左團次が扮し、他に左團次一座の若い歌舞伎役者が出演した。鷗外の『青年』に自由劇場初演の様子が描かれている。
以後、自由劇場は第9回まで行われ、前後して発足した坪内逍遥の文芸協会とともに、新劇運動のはしりとなった。自由劇場は当時の知識人に新鮮な感動を与えた。
歌舞伎[編集]
歌舞伎では、岡鬼太郎、川尻清潭、真山青果、永井荷風、岡本綺堂ら文化人と交流し幅広い活動を推し進めた。歌舞伎十八番の『毛抜』や『鳴神』、四代目鶴屋南北作の『謎帯一寸徳兵衛』や『絵本合法衢』など、長く上演されることのなかった演目の復活上演を行った。
その一方、新歌舞伎にも積極的に取り組み、岡本綺堂作の『修禅寺物語』『番町皿屋敷』岡鬼太郎作の『今様薩摩歌』などの演目を左團次家のお家芸として『杏花戯曲十種』にまとめた。さらに父・初代左團次の当たり役だった『樟紀流花見幕張』(慶安太平記)丸橋忠弥、『大杯觴酒戦強者』(大盃)の馬場三郎兵衛、『籠釣瓶花街酔醒』(籠釣瓶)の佐野次郎左衛門などをはじめ、古典では『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)の南郷力丸、『三人吉三廓初買』(三人吉三)の和尚吉三、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『勧進帳』の富樫左衛門などを自らの得意芸とした。
立派な体格と明快な口跡で舞台を圧倒し、そのあたかも登場人物になりきった演技は誰にも真似ができなかったという。六代目尾上菊五郎は左團次の芸を認め、自分は到底及ばないといって、同じ舞台には決して立とうとはしなかった。
文化交流[編集]

『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助の衣装のままの左團次。中央は大序で使われる口上人形。モスクワ公演中、1928年。
1928年(昭和3年)。独裁権力を握ったスターリンによる粛清の嵐が吹き始めていたソ連(モスクワ、レニングラード[8])で左團次は一座を率いて『仮名手本忠臣蔵』の公演を行っている。これが史上初の歌舞伎海外公演である。
その際左團次は『戦艦ポチョムキン』の監督セルゲイ・エイゼンシュテインと知り合い、以後親交を深めるようになる。[9]役者が舞台や花道で見得を切るのを初めて見たエイゼンシュテインは、楽屋に左團次を訪ねると「あのようにして観客の注目を一身に集める見得は、映画の技法におけるクロースアップと同じで、実に興味深い」という有名な感想を残している。帰国後左團次はロシア文学をもとにした翻訳劇を次々に上演した。一方のエイゼンシュテインも以後の監督作品に歌舞伎的な演出を取り入れた。特に晩年の傑作『イワン雷帝』(1944) では主人公のイワン4世がクロースアップで見得をする場面など、全編にわたって歌舞伎的様式を垣間みることができる作品に仕立て上げられている。
脚注[編集]
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- ^ モスクワでまず工業、訪欧歌舞伎『東京朝日新聞』昭和3年7月11日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p13 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 翻訳劇の先駆、歌舞伎の大御所、死去『東京朝日新聞』昭和15年2月23日夕刊(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p22 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『時の光の中で』浅利慶太、文春文庫、2009年1月10日、p.216
- ^ 「四代目市川左團次襲名 歌舞伎座2月公演プログラム」 四代目左團次とのインタビュー記事. 1979年(昭和54年)2月. 松竹株式会社 発行.
- ^ 四代目市川左團次. 1994. 「俺が噂の左團次だ」. p.66. 集英社. 東京.
- ^ ロシアの演劇ー起源、歴史、ソ連崩壊後の展開、21世紀の新しい演劇の探求. 生活ジャーナル,p.172-173. (2013)
- ^ 「歌舞伎で我々は本当に『動きを聞き』、『音を見る』。」 と公演を見たエイデンシュテインは述べた。 (S・M・エイゼンシュテイン 思いがけない境界 全集第六巻 モスクワ イスクーストヴォ出版 1968 第5巻305~6p)