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「ヒルズボロの悲劇」の版間の差分

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{{Infobox 事件・事故
[[画像:Hillsborough Memorial.jpg|thumb|right|250px|建てられた祈念碑]]
| 名称 = ヒルズボロの悲劇
'''ヒルズボロの悲劇'''は、[[イングランド]]・[[シェフィールド]]の[[ヒルズボロ・スタジアム]]で起きた、イングランドサッカー史上最悪の事故である。
| 画像 = Hillsborough Memorial.jpg
| 脚注 = ヒルズボロの悲劇の記念碑
| 場所 = {{ENG}} ・[[シェフィールド]]
| 日付 = [[1989年]][[4月15日]]
| 時間 =
| 開始時刻 =
| 終了時刻 =
| 時間帯 =
| 概要 =
| 原因 = サウス・ヨークシャー警察による観客誘導の失敗
| 手段 =
| 武器 =
| 攻撃人数 =
| 死亡 = 96人
| 負傷 = 766人
| 損害 =
| 犯人 =
| 対処 = イギリス政府により1部・2部リーグに所属する全サッカークラブの使用するスタジアムに対し、全ての観客席を立見席から椅子席へ改装する事を義務化。事故当日の警備責任者であるサウス・ヨークシャー警察の警視正と警視は2000年に行われた民事裁判の結果、警視は無罪。警視正は陪審による評決の合意に達せず取下げ。
}}
'''ヒルズボロの悲劇'''{{#tag:ref|英語名の''Hillsborough disaster''の''Disaster''を日本語訳すると「[[災害]]」「[[事故|惨事]]」「災難」になるが、日本では「[[悲劇]]」 (''Tragedy'') と表記されることが慣例化している<ref>{{Cite book|和書 |author= |year=2008 |title=ワールドサッカー歴史年表 |publisher=カンゼン |page=130-131頁 |isbn=978-4862550156 }}</ref><ref name="マクギル240">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、240頁</ref><ref>[[#西岡 2009|西岡 2009]]、184頁</ref><ref>{{cite news| url = http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2835845/7949165 | title= 「ヒルズボロの悲劇」の未公開文書開示を要求、英下院 | publisher =AFPBB News| date=2011年10月18日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref><ref>{{cite news| url = http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=67 | title= ヒルズボロの悲劇 | publisher =賀川サッカーライブラリー | date= | accessdate = 2012年3月4日}}</ref><ref>{{cite news| url = http://www.asahi.com/sports/fb/world/goal/GOC200903170039.html | title= UEFA、ヒルズボロの悲劇を考慮 | publisher =asahi.com | date=2009年3月17日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。1980年代以降に出版された翻訳書では「ヒルズバラの惨事<ref>{{Cite book|和書|author=トニー・メイソン著、[[松村高夫]]、山内文明訳|year=1991|title=英国スポーツの文化|publisher=[[同文館]]|page=56頁 }}</ref><ref>[[#ダニング 2004|ダニング 2004]]、257頁</ref>」といった表記もある。|group=注}}(ヒルズボロのひげき、{{lang-en|Hillsborough disaster}})は、[[1989年]][[4月15日]]に[[イングランド]]・[[シェフィールド]]の[[ヒルズボロ・スタジアム]]で行われた[[FAカップ]]準決勝の[[リヴァプールFC|リヴァプール]]対[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]戦において発生した[[群集事故]]である。「{{仮リンク|テラス (スタジアム)|label=テラス|en|Terrace (stadium)}}」と呼ばれるゴール裏の立見席に収容能力を上回る大勢のサポーターが押し寄せたことにより死者96人、重軽傷者766人を出す惨事となった。この事故は[[イギリス]]のスポーツ史上最悪の事故と評されており<ref name="BBC20120414">{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/7992845.stm | title= How the Hillsborough disaster happened | publisher =BBC News | date=2009年4月14日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref><ref name="BBC1989">{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/april/15/newsid_2491000/2491195.stm | title= 1989: Football fans crushed at Hillsborough | publisher =BBC ON THIS DAY | date= | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>、事故原因について当初は[[フーリガン|フーリガニズム]]との関連性が指摘されたが<ref>[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、165頁</ref>、その後の調査により警備側の観客誘導の失敗が直接の原因だったことが明らかとなった<ref name="BBC20120414"/><ref>[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、166頁</ref>。


== 事故 ==
== 背景 ==
=== フーリガニズム ===
1989年4月15日の[[FAカップ]]準決勝、[[リヴァプールFC|リヴァプール]]と[[ノッティンガム・フォレスト]]の試合は、[[ホーム・アンド・アウェー]]でない一発勝負。中立地の[[ヒルズボロ・スタジアム]]([[シェフィールド・ウェンズデイFC|シェフィールド・ウェンズデイ]]のホームスタジアム)で行われた。<ref name=kagawa>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=67 ヒルズボロの悲劇] - 賀川サッカーライブラリー</ref>
{{main|フーリガン|ヘイゼルの悲劇}}
[[1985年]][[5月29日]]に[[ベルギー]]の[[ブリュッセル]]で行われた[[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85]]決勝・リヴァプール対[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]戦の際に両チームのサポーターの衝突がきっかけとなり39人が死亡した事故([[ヘイゼルの悲劇]])の制裁措置としてイングランドの全クラブは[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) から5年間の欧州での国際試合出場禁止処分(事件当事者のリヴァプールは7年)を受けたが、この事件以降は自粛ムードが強まり<ref name="読売1989041701">{{Cite book|和書 |author=「失業ヤング多い地方都市 「乱闘防止」裏目に」|title=[[読売新聞]] |volume= 1989年4月17日 14版 4面|publisher= |page= |isbn= }}</ref>、イギリス政府はフーリガン排除を目的とした「サッカー観戦者法案」を提出し法案成立に向け与野党間での協議が続けられていた<ref name="読売1989041701"/><ref name="朝日19890425">{{Cite book|和書 |author=「紳士の国なぜ惨事?英サッカー場事故」|title=[[朝日新聞]] |volume= 1989年4月25日 13版 6面 |publisher= |page= |isbn= }}</ref>。法案はサッカー場の入場者に対し顔写真入りの[[身分証明書|IDカード]]の掲示を求め、暴力事件を引き起こしたものに対しては年単位での入場や国際大会の際の渡航を禁止する内容が盛り込まれていたが野党からは「[[警察国家]]へと繋がる」と反対意見が挙がっていた<ref name="朝日19890425"/>。


1989年4月11日、UEFAは「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に1990-91シーズンからのイングランドの作家^クラブの国際大会復帰の決定を下した<ref name="朝日19890425"/>。
{{要出典範囲|当時、イングランドのサッカースタジアムでは、"terrace"と呼ばれる立見席が多く設置されていた。裕福でない観客たちは立見席に詰め込まれ、酒を飲み、時には暴れながら試合を観戦するのが常だった。[[フーリガン]]が猛威を振るっていた時期でもあり、警備対策のため当時の立見席は鉄柵と鉄条網で仕切られた数個の区画に分けられていた。それぞれの区画は「家畜檻」("pen")という名称で呼ばれた|date=2011年3月}}。


=== スタジアム ===
人気チーム同士の対戦ということで、当時54,000人収容のスタジアムは、試合の始まる前から既に満員だった。しかし試合開始後しばらくすると、スタジアムの中へ入ろうとするリヴァプールサポーターの群衆の勢いにゲートが耐えきれずに開放。群衆は立見席へなだれ込み、元からいた観客は下へ下へと押し流された。スタンドの最前列には2メートルの[[金網]]がめぐらされており、圧迫に堪えかねてこれによじ登り、危険を回避しようとする者もいた。金網と後ろからの群衆に圧迫され圧死者が続出、死者95人と負傷者200人以上を出す、イングランドサッカー史上最大の事故となった。 <ref name=kagawa />
[[1980年代]]当時のスタジアムの多くは建築から50年以上を経過した老朽化したものであり、スタジアム内の半数から3分の2までが立見席で占められていた<ref name="朝日19890425"/>。こうした立見席には椅子席とは異なり多くの観客を収容する事が可能となっていた為、サッカークラブにとっては大きな収入源となっていた<ref name="朝日19890425"/>。


立見席には熱狂的なサポーター達が集まりやすく、牧歌的な時代には試合終了と共にファンがピッチへと飛び降り人気選手にサインを求める風景も見られたが<ref name="イギリス文化史">{{Cite book|和書 |author=川端康雄「サッカー場の変貌」|title=愛と戦いのイギリス文化史 1951-2010年 |volume= |publisher=[[慶應義塾大学出版会]] |year=2011 |page=168頁 |isbn=978-4-7664-1878-1 }}</ref>、1960年代頃から暴力的サポーター同士による抗争などのトラブルが頻発すると、立見席では観客の安全性確保や警備上の対策のための対策が講じられるようになった<ref name="イギリス文化史"/>。最前部には高いフェンスが張り巡らされて侵入を阻止する対策が採られ、側部は群衆整理の為の鉄柵で仕切られ、いくつかのブロック毎に区分された<ref name="イギリス文化史"/>。サポーター達はそれぞれの区画に押し込められる環境の中での観戦を強いられたが、この鉄柵による区画は「家畜檻」(''pen'') と呼ばれた<ref name="イギリス文化史"/>。
なお、死者については事故当時の報道に基づき95人と記述されることも多いが、事故直後から[[遷延性意識障害]]となり、およそ4年後の1993年3月3日に延命措置が中止され死亡したトニー・ブランド少年を死者に含め96人とするのが一般的である。


一方で立見席では[[1946年]][[3月9日]]に[[ボルトン]]で行われた[[ボルトン・ワンダラーズFC|ボルトン・ワンダラーズ]]対[[ストーク・シティFC|ストーク・シティ]]戦で鉄柵が超満員の群集の圧力に耐え切れず崩壊したことにより群集雪崩が発生し33人が死亡、500人以上が負傷する事故 ([[:en:Burnden Park disaster|Burnden Park disaster]]) や、[[1971年]][[1月2日]]に[[スコットランド]]の[[グラスゴー]]で行われた[[グラスゴー・レンジャーズFC|グラスゴー・レンジャーズ]]対[[セルティックFC|セルティック]]戦の終了間際に退場する群集と再度入場しようと試みる群集の波が衝突した事により66人が死亡、200人以上が負傷した事故 ([[:en:Ibrox disaster|Ibrox disaster]]) が発生するなど安全性の面で問題視されていた<ref name="朝日19890425"/>。グラスゴーでの事故後の[[1975年]]にスポーツ競技場安全法が採択され、事故防止に向けた公式入場者数を削減する条件が適用されていたが<ref>{{Cite book|和書|author=デズモンド・モリス著、白井尚之訳|year=1983|title=サッカー人間学--マンウォッチング 2|publisher=[[小学館]] |page=276頁 |isbn=978-4096930090}}</ref>、更にスタジアムから立見席を撤廃し椅子席に改修するには多額の費用を捻出する必要があった<ref name="朝日19890425"/>。
{{要出典範囲|[[群集事故]]の典型である[[将棋倒し]]ではなく、ほとんどの者が'''立ったまま圧死する'''という特異な事故だった|date=2011年3月}}。


== 原因 ==
=== テラスの文化 ===
格安の料金で観戦が可能となるテラスには[[労働者階級]]を中心としたサポーター達が集い<ref name="ミニョン127">[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、127頁</ref>、彼らが歌う贔屓のチームを後押しする手拍子と[[チャント]](応援歌)による野太い声援は独特な雰囲気を作り出していたが<ref name="サッカー批評12-13">[[#サッカー批評 2009|サッカー批評 2009]]、12-13頁</ref>、この応援スタイルは[[1962年]]に[[チリ]]で行われた[[1962 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ]]での[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]サポーターの応援を参考にリヴァプールのサポーター達が独自にアレンジしたものに由来している<ref name="サッカー批評16-17">[[#サッカー批評 2009|サッカー批評 2009]]、16-17頁</ref>。リヴァプールのサポーター達による伝統的な楽曲<ref name="Taylor 1990-6">[[#Taylor 1990|Taylor (1990)]] p.6</ref>や流行歌<ref name="サッカー批評16-17"/>の歌詞を自分達のクラブへのメッセージに置き換える応援スタイルは他チームのサポーター達に影響を与え<ref name="サッカー批評16-17"/>、各地へと伝播していった<ref name="サッカー批評16-17"/>。
[[ザ・サン]]は、事故の原因はリヴァプールサポーターにあるとして、生々しい事故現場の写真を添えた紙面で激しく非難した。結果、リバプール市民はザ・サンの不買運動を起こし、売上が激減した<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-merseyside-17113382]</ref>。


こうした応援には自分達のチームを後押しするチャントだけでなく、やがて審判や相手サポーターを猥褻な台詞で侮辱する内容のチャントや<ref name="ミニョン127"/><ref name="Taylor 1990-6"/>、さらに黒人選手に対する人種差別的内容のチャントも加わるようになった<ref name="Taylor 1990-6"/>。また、テラスでは[[公序良俗]]に反する様な[[悪戯]]<ref name="ミニョン128-129">[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、128-129頁</ref>や、敵対するチームのサポーター同士での(人を殺さない程度に抑止された)[[暴力]]活動が常態化していた<ref name="ミニョン128-129"/>。
英国に本拠を置くフットボール・サポーターズ連盟(FSF)は、事故の調査報告書によれば、事故の原因は立ち見席の存在ではなく、入場時の観客誘導ミスなどによるものだとしている。<ref name=jiji>[http://www.jiji.com/jc/c?g=spo_date1&k=2011033100738 イングランドに立ち見席復活か=「ヒルズボロの悲劇」から22年-サッカー] - [[時事通信]] 2011年3月31日</ref>

テラスに陣取るサポーターは大きく三つの年齢層に分類されており<ref name="ストライカー198909">{{Cite book|和書 |author=[[後藤健生]]「バックスタンドからの目 ⑪ 日本にフーリガン問題は無縁か?」|title=ストライカー |volume= 1989年9月号 |publisher= |page=118頁 |isbn= }}</ref>、スタジアムに通い始めて日の浅い駆け出しの少年少女達はテラスの最前部に位置し、そこで周囲のサポーターたちの行動様式を体感し学習していった<ref name="ストライカー198909"/>。一通りの行動様式を学び年齢を重ね周囲から一人前と認められた者はテラスの最後尾に下がりサポーターを統率する者や相手チームのサポーターとの間で暴力沙汰を起こす「フーリガン」と化する者へと変化した<ref name="ストライカー198909"/>。更に年齢を重ねると、先鋭的な行動からは身を引きメインスタンドの椅子席などで静かにサッカー観戦をする者、あるいはテラスに残りつつも目立った行動を控える者などに分かれた<ref name="ストライカー198909"/>。

== 概要 ==
=== 運営 ===
{{Location map
| England
| lat_deg = 53
| lat_min = 23
| lat_sec = 1
| lat_dir = N
| lon_deg = 1
| lon_min = 28
| lon_sec = 1
| lon_dir = W
| label = シェフィールド
| width = 200
| caption = シェフィールドの位置
}}
ヒルズボロ・スタジアムではこれまで[[1966 FIFAワールドカップ]]やFAカップ準決勝の会場として何度も使用された実績があり、1987-88シーズンのFAカップ準決勝でも使用された<ref name="Taylor7">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] p.7</ref>。スタジアム警備を担当する{{仮リンク|サウス・ヨークシャー警察|en|South Yorkshire Police}}の警備責任者(前年度のFAカップ準決勝を担当した<ref name="Taylor7"/>)は[[フットボール・アソシエーション]] (FA) が1989年3月にFAカップ準決勝の会場としてヒルズボロ・スタジアムを指定した時までは職務に就いていたが<ref name="Taylor7"/>、[[3月27日]]限りで退任し新任のダッケンフィールド[[警視正]]へと引き継がれた<ref name="Taylor7"/>。

事故当日はメインスタンドとバックスタンドにはリヴァプールとノッティンガムのサポーターが混在し、熱狂的なサポーターが集まるテラスに関してはスパイオン・コップ (Spion Kop End) と呼ばれる東側スタンド(収容数21,000人)をノッティンガムに割り当て、レッピング・レーン・エンド (Leppings Lane End) と呼ばれる西側スタンド(収容数14,600人)をリヴァプールに割り当てた<ref name="ストライカー198907">{{Cite book|和書 |author=「ストライカーワールドスコープ世界サッカー情報 イングランド 悪夢再現!95人の死者を出す大惨事」|title=ストライカー |volume= 1989年7月号 |publisher= |page=35頁 |isbn= }}</ref>。レッピング・レーン・エンドは上段と下段の2層に分割されており下段は立見席だったが、立見席の最前部は[[青]]色に塗装されたフェンスで覆われ<ref name="BBC20120414"/>、側部は群衆整理のための鉄柵により5つのブロックに分割されていた<ref name="BBC20120414"/>。

リヴァプールはノッティンガムに比べて多くのサポーターを保持していることで知られ、事故当時のリヴァプールの平均入場者数が4万人であるのに対し、ノッティンガムは1万7千人と下回っていた<ref name="読売1989041702">{{Cite book|和書 |author=「金網で失神する女、子供 英サッカー場惨事ドキュメント」|title=読売新聞 |volume= 1989年4月17日 14版 4面 |publisher= |page=118頁 |isbn= }}</ref>。サッカーの試合に関してはサポーター数の多いクラブに対しチケットを多く配分される傾向があり通常であればリヴァプールに多くのチケットが配分されることになるが<ref name="ストライカー198907"/>、この試合に際してはノッティンガムのサポーター用に2万9千枚のチケットを配分し、リヴァプールのサポーター用に2万4千枚のチケットを配分された<ref name="ストライカー198907"/>。この配分に対してリヴァプール側からは不満が沸き起こっていた<ref name="読売1989041702"/>。

=== 事故の経過 ===
[[ファイル:SWFC Stadium from Shirecliffe.jpg|thumb|250px|事故現場となった[[ヒルズボロ・スタジアム]]の全景。]]
'''12時00分'''、シェフィールド市内の最寄り駅からスタジアムへ繋がる[[動線]]では両チームのサポーターによる衝突を回避するため、リヴァプールサポーターに対しては警察当局により、迂回路を通行するように誘導がされていた<ref name="ストライカー198907"/>。シェフィールド周辺には74の[[パブ]]があり、それぞれの店で20から100人以上のサポーターにアルコール飲料を販売したが、大きなトラブルは報告されなかった<ref name="Taylor9-10">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] pp.9-10</ref>。

リヴァプールサポーターは当日の正午頃からスタジアム周辺に到着し、スタンドへの入場を待ち構えていた<ref name="Taylor9-10"/>。正午の時点で「レッピング・レーン・エンド」の入場ゲートは開放され53人の警察官が配備されていたが<ref name="Taylor9-10"/>、スタジアム周辺に集まるサポーターに対しチケットを所持している者については速やかにスタジアムに入場するように誘導を行った<ref name="Taylor9-10"/>。

'''14時00分'''、警備本部では[[監視カメラ]]の映像によりノッティンガム側のスタンドがほぼ満席であったのに対し<ref name="Taylor9-10"/>、リヴァプール側のスタンドでは第3・第4ブロックには満員に近いサポーターで埋め尽くされていたものの、それ以外のブロックはほぼ空席に近い状態だった事が確認された<ref name="Taylor9-10"/>。14時から14時30分の間に「レッピング・レーン・エンド」の入場ゲート周辺では入場するファンで混雑が始まり<ref name="Taylor9-10"/>[[騎馬警官]]達は群集整理の対処に追われていたものの、この時点において群集の間で大きなトラブルは確認されなかった<ref name="Taylor9-10"/>。

'''14時30分'''、試合開始時間が近づいた事もあり「レッピング・レーン・エンド」の入場ゲートでは混雑が激しくなった<ref name="Taylor11-12">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] pp.11-12</ref>。回転式のゲートを使用していたが数が少ない上に老朽化が進んでいたこともあり、当日のサポーターの入場に支障を来たしており<ref name="BBC20120414"/><ref name="Taylor11-12"/><ref name="日経19890417">{{Cite book|和書 |author=「死者93人、負傷者170人に 英サッカー場観客将棋倒し 警備に手落ちか」|title=[[日本経済新聞]] |volume= 1989年4月17日 14版 31面|publisher= |page= |isbn= }}</ref>、入場の進まない事に苛立ったサポーターと群衆整理に当たっていた騎馬警官達が一触即発の状態になるなど統制を失い始めた<ref name="Taylor11-12"/>。

'''14時45分'''、スタジアム西側にある入場ゲート付近で入場出来ない5,000人のリヴァプールサポーター達で溢れていた<ref name="Taylor11-12"/>。これらのサポーターが試合開始時間までに入場する事は困難であり<ref name="Taylor11-12"/>、スタジアム外に配置された警官から「試合開始時間を遅らせるように」との要請が行われたが<ref name="Taylor11-12"/>警備本部からこの要請は拒絶された<ref name="Taylor11-12"/>。

'''14時50分'''、「テラス」の中央部に位置する第3・第4ブロックは既に満員のサポーターで溢れかえっていたが<ref name="BBC20120414"/>、その一方でスタジアムの外部には数千人のリヴァプールサポーターが入場出来ない状況にあった<ref name="BBC20120414"/>。なお第3・第4ブロックを併せた収容人数は公式には2,200人としていたが、3年前に設置された鉄柵は公式な安全基準を満たさないとして1,600人にまで削減する様に求められていた<ref name="BBC20120414"/>。ダッケンフィールド本部長は、入場の出来ないサポーターが暴徒化することを懸念し<ref name="朝日19890425"/>入場ゲートの脇にあるスタジアムからの退場者専用に設定されたCゲートを開放し、スタジアム外に溢れていた大勢のサポーターを入場させる命令を下し、14時52分にCゲートは開放された<ref name="BBC20120414"/><ref name="Taylor11-12"/>。

[[ファイル:Hillsborough West Stand.JPG |thumb|250px|事故現場となった[[ヒルズボロ・スタジアム]]の西側スタンド「レッピング・レーン・エンド」の全景。スタンドは上段と下段の2層に区分されており下段は全て立見席だった。立見席の中央部にあたる第3・第4ブロックに警察の誘導ミスもあって収容能力を上回る大勢の観客が押し寄せたことにより多数の死者を出す惨事となった。]]
'''14時52分'''、Cゲートを開放した事により約2,000人のサポーターが「テラス」の中央部に位置する第3・第4ブロックへ繋がるトンネルへと押し寄せた<ref name="BBC20120414"/>。なお、Cゲートの開放により入場した多くのサポーター達はチケットを事前に所持していた可能性が高いが<ref name="Taylor11-12"/>、チケットを所持せずに入場した者も間違いなく含まれていた<ref name="Taylor11-12"/>。この流入により第3・第4ブロックはサポーターで過密状態となり身動きとれなくなるなどの深刻な状況に陥り、他の密集度の低い第1・第5ブロックへと避難する者やフェンスによじ登り難を逃れようとする者が続出した<ref name="BBC20120414"/>。なお、Cゲートが開放されてから試合開始までの時点で安全基準の2倍にあたる約3,000人のサポーターが寿司詰めになっていたと推測されている<ref name="BBC20120414"/>。

'''15時00分'''、主審の{{仮リンク|レイ・ルイス (審判員)|label=レイ・ルイス |en|Ray Lewis (referee)}}の笛が鳴らされ試合開始。第3・第4ブロックは依然として超満員の状態にあったが、解放されたCゲートからは次々に観客が押し寄せた<ref name="Taylor13">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] p.13</ref>。最前部にいたサポーター達は後方から押し寄せるサポーター達の圧迫によりフェンスに押し付けられ熱気と圧力で次々と気を失った<ref name="Taylor13"/>。中にはフェンスをよじ登りピッチへと逃れようと試みる者もいたが<ref name="Taylor13"/>、ピッチへの乱入行為と考えた警官により追い返された<ref name="Taylor13"/>。

'''15時04分'''、リヴァプールの{{仮リンク|ピーター・ベアズリー|en|Peter Beardsley}}が放ったシュートがクロスバーに直撃すると歓声が上がり<ref name="Taylor13"/>、この歓声と共に第3・第4ブロック内では群集による大きなうねりが発生した<ref name="Taylor13"/>。第3ブロック内では観客が密集し安全基準を上回る荷重が掛かった事により各ブロックを隔てていた鉄柵が崩壊<ref name="BBC20120414"/><ref name="Taylor13"/>。これにより第3ブロック内で[[将棋倒し]]が発生し、観客は互いの体に押しつぶされた<ref name="BBC20120414"/><ref name="Taylor13"/>{{#tag:ref|群集の密度が1平方メートルあたり8人から10人に近づくと身動きが取れなくなり、圧力の衝撃波が伝播し将棋倒しが発生やすい状態となる<ref name="グループ・ダイナミックス">{{Cite book|和書|author=釘原直樹|year=2011 |title=グループ・ダイナミックス--集団と群集の心理学|publisher=[[有斐閣]] |page=111頁 |isbn=978-4641173781}}</ref>。その際、体は持ち上げられ、衣服は破れ、熱気と圧力で体力が急速に消耗する<ref name="グループ・ダイナミックス"/>。|group=注}}。「テラス」から上段にある2階席へとよじ登り難を逃れようとする者が続出した<ref name="BBC20120414"/>。

'''15時06分'''、警官がピッチ内にいるルイス主審に向かって駆け寄り試合中止を指示<ref name="BBC20120414"/>。これを受けて主審は試合の中止を宣言した<ref name="BBC20120414"/>。犠牲者は直立のまま意識を失っており<ref name="Taylor15">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] p.15</ref>、[[瞳孔]]が開き[[チアノーゼ]]反応を起こし[[嘔吐]]や[[失禁]]をした状態だった<ref name="Taylor15"/>。その一方で、警察や消防による救出活動は即座に進行せず、警察や事故現場を写真に収めるカメラマンに批判が沸き起こるなど混沌とした状態となった<ref name="Taylor15"/>。

'''15時12分'''、ピッチとスタンドを隔てるフェンスの除去が行われ、第3・第4ブロック内にいる被害者の救出が始まった<ref name="Taylor15"/>。サポーター達は応急措置としてスタジアムにある広告看板を担架として代用し負傷者の搬出と[[人工呼吸]]や[[心肺蘇生法|心臓マッサージ]]などの応急手当てが行われた<ref name="BBC20120414"/><ref name="Taylor15"/>。一方で、負傷者を救出する為の消防や救急車の要請が行われていたが、警備関係者から「群集によるトラブル」が報告されていた為、スタジアム内に到着するまでに時間が掛かる事になった<ref name="BBC20120414"/>。

'''15時15分'''、FAの最高経営責任者であるグラハム・ケリーや[[シェフィールド・ウェンズデイFC|シェフィールド・ウェンズデイ]]の関係者が情報収集の為に警備本部を訪れた際、ダッケンフィールド本部長はCゲートに設置されていた監視カメラからの映像を指し「リヴァプールサポーターがゲートを破壊して場内に侵入した」と説明<ref name="Taylor16-17">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] pp.16-17</ref>。

'''15時20分'''、ピッチはスタンドから運び出された死傷者で溢れた<ref name="読売1989041702"/>。スタジアム外には救急車が到着を始め、合計42台の救急車<ref name="Taylor17-18">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] pp.17-18</ref>で、16時30分までに約172人の負傷者を近隣の病院へ搬送した<ref name="Taylor17-18"/>。

'''16時10分'''、主催者側により試合中止が発表された<ref name="Taylor17-18"/>。

=== 犠牲者 ===
この事故により4月15日のうちに10歳から68歳までの94人が死亡し766人が重軽傷を負ったが、[[4月19日]]に14歳の男性が病院で死亡し死者の数は95人となった<ref>{{cite web| url = http://www.liverpoolecho.co.uk/liverpool-news/hillsborough/hillsborough-96/2009/04/15/lee-nicol-14-100252-23390963/ | title=Hillsborough 96 - Lee Nicol, 14 | publisher =Liverpool Echo | date= 2009年4月15日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。死者の多くはリヴァプールサポーターの若者や子供であり<ref name="朝日19890417">{{Cite book|和書 |author=「死者93人 負傷者200人に 英サッカー場惨事」|title=朝日新聞 |volume= 1989年4月17日 14版 31面|publisher= |page= |isbn= }}</ref>、そのうち7人が女性だった<ref name="Taylor17-18"/>。年齢層別では20才未満が38人<ref name="Taylor17-18"/>、20代が39人<ref name="Taylor17-18"/>、50歳以上は3人となった<ref name="Taylor17-18"/>。死因は胸部を圧迫された事による[[酸欠]]や[[窒息]]が多く<ref name="Taylor17-18"/><ref name="朝日19890417"/>、内臓破裂や頭部を強打した事による死亡した者もいた<ref name="Taylor17-18"/><ref name="朝日19890417"/>。死者の多くは立見席の最前部で亡くなり<ref name="Taylor17-18"/>、そのうちの殆どが第3ブロックの最前部で亡くなったが<ref name="Taylor17-18"/>、第4ブロックでは5人<ref name="Taylor17-18"/>が、第2・第3ブロック後方部でも数人が亡くなった<ref name="Taylor17-18"/>。証拠品や犠牲者の親族や友人の証言により死者のうちの16人から21人は14時52分にゲートが解放された後に入場した者だった事が判明した<ref name="Taylor17-18"/>。

犠牲者の中には後にリヴァプールや[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]の選手となる[[スティーヴン・ジェラード]]の従兄弟も含まれていた<ref name="FOOTBALL WEEKLY">{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/april/15/newsid_2491000/2491195.stm | title= ジェラード「ヒルズボロの傷は決して癒えない」 | publisher =FOOTBALL WEEKLY | date=2009年4月11日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。従兄弟は当時10歳であり最年少の犠牲者となった<ref name="FOOTBALL WEEKLY"/>。また、事故当時22歳の男性は[[遷延性意識障害|植物状態]]のまま[[生命維持装置]]が取り付けられ延命措置が施されていたが[[1993年]]3月に取り外され、最終的な死者は96人となった<ref>{{cite web| url = http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/november/19/newsid_2520000/2520581.stm | title=1992: Hillsborough victim allowed to die | publisher =BBC ON THIS DAY | date= | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。

== 国際社会の反応 ==
{{GBR}}
:[[マーガレット・サッチャー]]首相は事故の一報をニュースで知り「信じられない出来事」と発言し事故原因の真相解明を指示<ref name="読売1989041702"/>。翌[[4月16日]]、サッチャー首相は[[ダグラス・ハード]]内務大臣や{{仮リンク|コリン・モイニハン|en|Colin Moynihan}}スポーツ大臣らと共に事故現場を視察し<ref name="読売1989041702"/><ref name="日経19890417"/>、サッカー観戦における新たな規制を設ける可能性を明らかにした<ref name="日経19890417"/>。元首の[[エリザベス2世]]は4月15日にシェフィールド市長宛に見舞いのメッセージを送り弔意を示した<ref name="読売1989041702"/>。負傷者の入院する病院にはサッチャー首相、モイニハン・スポーツ大臣、[[チャールズ (プリンス・オブ・ウェールズ)|チャールズ皇太子]]、[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ妃]]らが見舞いに訪れた<ref name="ストライカー198907"/>。犠牲者の葬儀にはリヴァプールの[[ケニー・ダルグリッシュ]]監督や選手らが参列した<ref name="マクギル240"/>。

[[国際サッカー連盟]] (FIFA)
:[[ゼップ・ブラッター]]総務主事は4月16日、「(来年度から予定されていた)イングランドのクラブのUEFA主催の国際大会への復帰は厳しくなった」との声明を発表した<ref name="毎日19890417">{{Cite book|和書 |author=「イングランド再び制裁か サッカー大惨事」|title=[[毎日新聞]] |volume= 1989年4月17日 14版 22面|publisher= |page= |isbn= }}</ref>。

[[欧州サッカー連盟]] (UEFA)
:マイグナー総務主事は、FIFAが厳しいコメントを残したのに対し「当面はイギリス政府とFAの対応を静観する」との方針を示した<ref name="毎日19890417"/>。一方、{{仮リンク|ジャック・ジョルジュ|en|Jacques Georges}}会長は[[4月17日]]に[[フランス]]の[[ラジオ]]局のインタビューに応じ「「イングランドのサポーターはまるで野獣だ。UEFA主催の国際大会への復帰はありえない」と発言した<ref name="ストライカー198907"/><ref name="毎日19890420">{{Cite book|和書 |author=「UEFA会長が釈明」|title=毎日新聞 |volume= 1989年4月20日 14版 22面|publisher= |page= |isbn= }}</ref>。これに対しイングランドのサッカー界を統括するFAや多数の犠牲者を出したリヴァプールの関係者は「犠牲者に不謹慎<ref name="毎日19890420"/>」「現実を知らない無責任な会長は即刻辞めるべきだ<ref name="ストライカー198907"/>」と批判した。ジョルジュ会長は[[4月18日]]、FAのバート・ミリチップ会長に宛て「事故に衝撃を受けたあまり言葉が過ぎた」との謝罪文を送った<ref name="毎日19890420"/>。

== メディアの反応 ==
[[ファイル:The Sun Liverpool.jpg|thumb|200px|『ザ・サン』の購買ボイコットを呼びかけるポスター]]
[[サンデー・タイムズ]]は事故の内容を大きく報じる一方で警察の不手際と、これまで幾度かの事故が発生していたにも関わらず抜本的な対策を怠っていた主催者側の姿勢を批判した<ref name="日経19890417"/>。[[英国放送協会]] (BBC) は「警察が14時52分に入場ゲートを開放しスタジアム外に溢れていた数千人のファンを入場させた判断は適切だったのか」について検証する番組を放送した<ref name="日経19890417"/>。

一方、事故直後には「酩酊したサポーターが入場ゲートを破壊しスタジアム内に侵入した事が主原因」とする報道も行われた<ref name="地球の歩き方プラスワン">{{Cite book| 和書 |author = 「Another Side of Football リヴァプールの優勝と2つの悲劇」| title = 地球の歩き方プラスワン405 欧州サッカー観戦ガイド| edition= | year = 2005| publisher = [[ダイヤモンド社]]| id = | isbn=978-4478037744 | page = 350頁}}</ref>ほか、大衆紙の『[[ザ・サン]]』は事故の翌日に「''The Truth''」(真実)と題し「一部のファンが犠牲者のポケットから財布を盗んだ<ref name="地球の歩き方プラスワン"/><ref name="西岡185">[[#西岡 2009|西岡 2009]]、185頁</ref>」「警官に向かって[[排尿]]した<ref name="BBC20120224">{{cite web| url = http://www.bbc.co.uk/news/uk-england-merseyside-17113382 | title=Liverpool's 23-year boycott of The Sun newspaper | publisher =BBC News | date= 2012年2月24日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>」といった内容の記事を掲載した。

『ザ・サン』によるサポーターが人道に反する行為を行ったとする報道は裏付けとなる証拠が見つからなかった事から後に謝罪を行った<ref name="西岡185"/>が、リヴァプール市民は一連の報道に反発して『ザ・サン』の購買をボイコットする活動を展開<ref name="地球の歩き方プラスワン"/><ref name="BBC20120224"/><ref name="西岡186">[[#西岡 2009|西岡 2009]]、186頁</ref>。それまでリヴァプールでは平均20万部の売り上げがあったが、ボイコット運動により平均1万部にまで減少した<ref name="西岡186"/>。

『ザ・サン』を傘下に置く[[ニューズ・コーポレーション]]の副最高執行責任者である{{仮リンク|ジェームズ・マードック (実業家)|label=ジェームズ・マードック|en|James Murdoch}}は[[2011年]]11月、「記事は間違いだった。22年前の私はまだ若く、遠く離れた場所にいた為に関係を持たなかったが、記事の掲載により人々に苦痛を与えた事は認識している」と謝罪した<ref>{{cite web| url = http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/liverpool/8881618/News-International-chairman-James-Murdoch-apologises-to-Liverpool-over-Suns-coverage-of-Hillsborough-tragedy.html | title=News International chairman James Murdoch apologises to Liverpool over Sun's coverage of Hillsborough tragedy | publisher =[[デイリー・テレグラフ|Telegraph]] | date= 2011年11月10日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。

== 対応 ==
リヴァプールのジョン・スミス会長は4月16日、[[フットボールリーグ]]やFAカップの試合参加を当面の間は延期する事を発表<ref name="読売1989041702"/>。FAはヒルズボロの犠牲者に対し喪に服す為、リーグ戦を2週間延期した<ref name="読売1989041702"/><ref name="ストライカー198907"/>。中止されたFAカップ準決勝について、リヴァプールはFAから再試合に応じるか回答を求められていたが、遺族からの要望もあり出場が決定<ref name="ストライカー198907"/>。再試合は[[5月7日]]に[[マンチェスター]]の[[オールド・トラッフォード]]で行われることになった<ref name="サカダイ198907">{{Cite book|和書 |author=「英国サッカー史上最大の惨事! 人々は折り重なるように倒れた」|title=[[週刊サッカーダイジェスト|サッカーダイジェスト]] |volume= 1989年7月号 |publisher= |page=67頁 |isbn= }}</ref>。

イギリス政府はサッカークラブやファンに対し次の様な発表を行った<ref name="ストライカー198907"/>。{{Quotation|
#「メンバーシップ制度{{#tag:ref|同年に定められた「サッカー観戦者法(Football Spectators Act 1989)」の中の制度の一つ<ref name="文部科学省">{{cite web| url = http://www.mext.go.jp/component/a_menu/sports/detail/__icsFiles/afieldfile/2011/08/03/1309352_007.pdf | title= イギリス (UNITED KINGDOM) | publisher =[[文部科学省]] |format=PDF | date= | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。フーリガン対策としてサッカークラブから正式会員として認可された者のみ試合観戦を許可する事を定めた<ref name="文部科学省"/>。「サッカー観戦者法」には、フーリガン行為の嫌疑の掛かった者に対し、海外での試合開催日の際に渡航を禁止する内容も盛り込まれた<ref name="文部科学省"/>。|group=注}}」は予定通り実施する。
#立見席を全面的に廃止し椅子席に改修する様に各スタジアムに勧告する。}}
また、今回の事故で問題となったフェンスの是非についてFAは各クラブ、警察署、消防署の判断に任せるとした<ref name="ストライカー198907"/>。これを受けてリヴァプール、[[トッテナム・ホットスパーFC|トッテナム・ホットスパー]]、[[ダービー・カウンティFC|ダービー・カウンティ]]の3クラブと[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]が鉄柵の全面撤去を決定<ref name="ストライカー198907"/>。また、リヴァプールは[[1990年]]中に全席を椅子席に改修する事を発表した<ref name="ストライカー198907"/>。

== 試合 ==
{{Footballbox
|開催日= [[1989年]][[4月15日]]
|時間=
|チーム1=[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]
|スコア= 中 止
|aet =
|report=[http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/7992845.stm リポート]
|チーム2=[[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|得点者1=
|得点者2=
|観客数=53.000人
|主審= レイ・ルイス
|副審=
|副審=
|4審=
|競技場=[[ヒルズボロ・スタジアム]]
}}
再試合
{{Footballbox
|開催日= [[1989年]][[5月7日]]
|時間=
|チーム1=[[リヴァプールFC|リヴァプール]]
|スコア= 3 - 1
|aet =
|report=[http://www.lfchistory.net/SeasonArchive/Game/1686 リポート]
|チーム2=[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]
|得点者1=[[ジョン・オルドリッジ|オルドリッジ]] {{goal|3||58}}<br />({{仮リンク|ブライアン・ロウズ|label=ロウズ|en|Brian Laws}}) {{goal|72|o.g.}}
|得点者2={{仮リンク|ニール・ウェブ|label=ウェブ|en|Neil Webb}} {{goal|33}}
|観客数=38,000人
|主審= レイ・ルイス
|副審=
|副審=
|4審=
|競技場=[[オールド・トラッフォード]]
}}
再試合は[[5月7日]]に[[マンチェスター]]の[[オールド・トラッフォード]]で行われ3-1でリヴァプールが勝利し、決勝では[[エヴァートンFC|エヴァートン]]を延長戦の末に3-2で下し1985-86シーズン以来、4度目の優勝を果たした<ref name="サカダイ198907"/>。

=== 1988-89シーズンの影響 ===
リーグ戦を2週間延期した事により[[4月23日]]にホームで行われる筈だったリヴァプール対[[アーセナルFC|アーセナル]]戦は[[5月26日]]に延期されたが、リーグ最終戦として行われた試合は首位のリヴァプールを勝ち点差3で追うアーセナルとの優勝を掛けた直接対決となった<ref name="サカダイ198908">{{Cite book|和書 |author=「ドラマチックなフィナーレ…アーセナル9回目のリーグ優勝」|title=サッカーダイジェスト |volume= 1989年8月号 |publisher= |page=67頁 |isbn= }}</ref>。0-1でリヴァプールが破れても優勝が決まる条件だったが、1-0とアーセナルの1点リードで迎えた[[アディショナルタイム]]に更に1点を追加して2-0で試合終了。得失点差で両チームは並んだものの総得点で上回るアーセナルが優勝した<ref name="サカダイ198908"/>。リヴァプールはFAカップ決勝で延長戦を戦った3日後に試合をこなし、その2日後にこの試合を迎えるなど、過密日程が響いた形となった<ref name="サカダイ198908"/>。

== テイラー・レポート ==
{{main|:en:Taylor Report}}
事故調査を担当した[[高等法院 (イングランド・ウェールズ)|高等法院]]王座部の{{仮リンク|ピーター・テイラー (判事)|label=ピーター・テイラー|en|Peter Taylor, Baron Taylor of Gosforth}}主席判事は[[8月4日]]に中間報告書を発表し、警察が当日の14時52分にCゲートを開放した際に既に満員の状態だった第3・第4ブロックへ通ずる回廊を封鎖して、他のブロックへ誘導する対応を怠った事を指摘<ref name="BBC20120414"/>。スタジアム外に溢れていたファンの誘導の不備や、事故発生後の警察の対応の遅れについても非難する内容となった<ref name="BBC20120414"/>。これにより「ヒルズボロの悲劇の責任はリヴァプールサポーターにある」との疑惑<ref name="地球の歩き方プラスワン"/>や、「ヘイゼルの悲劇」に代表されるフーリガニズムとの関連性についての指摘も払拭した<ref name="マクギル241">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、241頁</ref>。

一方、警察側では事故原因として「リヴァプールサポーターの来場の遅れ」を挙げ<ref name="Taylor33-34">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] pp.33-34</ref>「彼らの多くは泥酔し非協力的で、尚且つチケットも所持していなかった。彼らが試合開始時間までに入場しようと試みたため入場ゲートでの混雑を誘発した」と主張していた<ref name="Taylor33-34"/>。これに対し、テイラー判事は「道路工事による[[渋滞|交通渋滞]]は想定の範囲内であり重大な影響は及ぼしていない<ref name="Taylor33-34"/>」「泥酔して威勢を示す者はごく少数であり、大多数は一般のサポーター達だった<ref name="Taylor33-34"/>」「第一にリヴァプールのサポーターは試合間近に入場する傾向がありその多くはチケット所持者である。第二に監視システムによる計測と実際に割り当てたチケット数とを照合した所、大きな差異は確認されなかった<ref name="Taylor35">[[#Taylor 1989|Taylor (1989)]] p.35</ref>」として警察側の主張を否定した。

[[1990年]]1月に発表された最終報告書では{{Quotation|サッカーはわが国の国技であり世界中に影響を与えてきた。しかし、老朽化したスタジアムと貧弱な設備、サポーターの暴力と過剰な飲酒、スタジアム管理に責任を負うべき者達のリーダーシップの欠如により、「観るためのスポーツ」としての価値を損ない国家のイメージそのものを貶めている。スタジアムの安全性と群集行動には密接な関連性があり、責任者はこれらを全て考慮する必要がある。}}とサッカー界の問題点を指摘<ref name="Taylor 1990-5">[[#Taylor 1990|Taylor (1990)]] p.5</ref>。その上で「安全対策上の最善の方策ではない」と前置きをしつつ「立見席の廃止と椅子席の導入を達成する事で、より多くの結果をもたらす」として<ref name="Taylor 1990-12">[[#Taylor 1990|Taylor (1990)]] p.12</ref>、イングランドとスコットランドの1部リーグと2部リーグに所属するサッカークラブの使用するスタジアムに対し「テラス」の廃止を提唱した<ref name="地球の歩き方プラスワン"/><ref name="Taylor 1990-12">[[#Taylor 1990|Taylor (1990)]] p.76</ref><ref name="ミニョン167">[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、167頁</ref>。また、サッチャー政権下で協議が進められていたIDカード導入計画については入場ゲートでの混雑を更に誘発するだけだとして否定<ref name="ミニョン167"/>する一方、「サッカー観戦者法」 (Football Spectators Act 1989) の中で定められた「スタジアム内でのアルコール類販売禁止」「危険物持ち込み禁止」の内容を支持した<ref name="ミニョン167"/>。また、スタジアム内での猥褻表現や人種差別的行為などのサポーターによる問題行動に対し新たに法規制を設けるように提案した<ref name="ミニョン168">[[#ミニョン 2002|ミニョン 2002]]、168頁</ref>。

テイラー判事によるレポートを受けてイギリス政府はスタジアムの建設基準を改正し従来の立見席を廃止し椅子席に改修する事を義務化<ref name="イギリス文化史"/>。フーリガン対策として設置され事故の要因となったフェンスは廃止され<ref name="イギリス文化史"/>、それに代わる対策として監視カメラがスタジアム内の各所に設置される事になった<ref name="イギリス文化史"/>。IDカードの導入については最終報告書を受けて撤回する決定を下した<ref name="ダニング234">[[#ダニング 2004|ダニング 2004]]、234頁</ref>ほか、スタジアム内でのサポーターによる問題行動への措置については[[1991年]]に「サッカー犯罪防止法」(Football (Offences) Act 1991) として法制化された<ref name="ミニョン168"/>。

== 裁判 ==
テイラー判事により報告書が提出されたにも関わらず、1990年[[8月14日]]に公訴局長は証拠不十分を理由にいかなる個人や団体に対し[[刑事告訴]]を執り行わない評決を下した<ref name="BBC20120414"/>。[[1996年]]に{{仮リンク|ジミー・マクガヴァーン|en|Jimmy McGovern}}監督による「ヒルズボロの悲劇」についての[[ドキュメンタリー]]ドラマが放送され世論の関心を集めると、[[ジャック・ストロー]]内務大臣は事故原因の再調査を指示した<ref name="BBC20120414"/>。問題は高等法院での審査に持ち込まれたが、ストロー内務大臣は「新たな証拠は見つからなかった」として調査の中止を命じた<ref name="BBC20120414"/>。

[[1998年]]、遺族は[[民事訴訟]]を起こし、事故の際に治安維持の最高責任者だったデイヴィッド・ダッケンフィールド警視正と、グラウンド管理の責任者だったバーナード・マレー[[警視]]の2人を[[殺人罪]]で告訴した<ref name="BBC20120414"/>。[[2000年]]に行われた裁判ではダッケンフィールドが事故直後にFAに対し虚偽の報告を行い隠蔽を諮った理由が明らかにされ「真実を認めた場合に騒動が起こることを懸念した為」と指摘されると<ref name="マクギル243">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、243頁</ref>、一転して「事故原因はリヴァプールサポーターにある」と発言した事を謝罪した<ref name="マクギル243"/>。6週間の審議の結果、マレーは無罪となったが<ref name="BBC20120414"/>、ダッケンフィールドについては規定時間内に陪審員の評決がまとまらなかったとし<ref name="BBC20120414"/>、裁判を担当したフーバー判事は陪審を解散させた<ref name="BBC20120414"/>。この判断に対し弁護側も詰め寄ったが再審については「公正な裁判は不可能である」として拒否した<ref name="BBC20120414"/>。

[[2006年]]、遺族は2000年の裁判の判決を不服として[[欧州人権裁判所]]に提訴した<ref name="BBC20120414"/>。


== 影響 ==
== 影響 ==
テイラー・レポートを受けて政府から[[1994年]]までに達成する様に義務化されたスタジアムの近代化の問題は各クラブの財政を圧迫した<ref name="ワールドサッカーグラフィック">{{Cite book|和書 |author=「変わりゆくサポーターたち」|title=[[ワールドサッカーグラフィック]] |volume= 2000年2月号|publisher=[[ビクターエンタテインメント]] |year= |page=64-65頁 |isbn= }}</ref>。一部の資金をフットボール基金から援助されたものの総改築費の4分の1程度に過ぎず<ref name="ワールドサッカーグラフィック"/>、テラスの廃止により財政収入が激減する事は免れない事もあり、各クラブは入場料の値上げに踏み切った<ref name="ワールドサッカーグラフィック"/>。
この惨劇はイングランドの全スタジアムの管理体制を再考させるのに十分な数字であった。政府主導のもとに施設の安全基準が設けられ、新しいスタジアムの建設を余儀なくされたクラブが多数出てきた。スタジアムの建設費を払えないクラブが続出し、英国フットボールクラブは[[株式上場]]の道を歩むことになる。<ref name=MPG>[http://www.mpgfootball.com/column/48 欧州フットボールの株式上場に関する考察(1)] - MPG Loves Football 2008年06月26日</ref>


またテレビ放映権料の分配率の不満に端を発した新リーグ設立の機運が高まる中で1991年7月に構想が具体化し<ref name="ワールドサッカーダイジェスト">{{Cite book|和書 |author=「FOOTBALLの事件史 第3回 1992年の出来事「プレミアリーグ創設」」|title=[[ワールドサッカーダイジェスト]] |volume= 2010年11月4日号|publisher= |year= |page=100頁 |isbn= }}</ref>、[[フットボールリーグ]]1部に所属する全22チームがリーグを脱退し[[プレミアリーグ]]を設立<ref name="ワールドサッカーダイジェスト"/>。同リーグは[[ルパード・マードック]]が経営するニューズ・コーポレーション傘下の[[BスカイB]]とのスポンサー契約により巨額の放映権料を獲得し<ref name="ワールドサッカーダイジェスト"/><ref name="西岡61">[[#西岡 2009|西岡 2009]]、61頁</ref>、さらに収益を上げる為に[[株式]]を公開し上場するサッカークラブが登場するなど積極的な経営努力が行われる様になった<ref name="ワールドサッカーグラフィック"/>。これにより当初、懸念されていたスタジアムでの大規模な改修や設備投資が可能となったほか<ref name="ワールドサッカーダイジェスト"/>、世界的なスター選手が加入するなど移籍市場が活発化しリーグとしての実力の底上げが計られた<ref name="ワールドサッカーダイジェスト"/>。
イングランドのスタジアムにおいて、立ち見席は全廃された。<ref name=jiji />


入場料が高騰した事により従来の観客層だった平均所得の低い労働者階級の人々は淘汰され<ref name="ワールドサッカーグラフィック"/>、代わりに[[中流階級]]の人々や女性や家族連れの観客が増加<ref name="ワールドサッカーグラフィック"/>。[[1980年代]]には数々のトラブルが発生した事により1980年代末には最盛期の1960年代から1970年代(1,400万人以上)に比べて半数にまで減少していたトップディヴィジョンの年間観客数は<ref name="ワールドサッカーグラフィック"/>、プレミアリーグ発足後の1998-88シーズンの調査では2,500万人を記録するなど最盛期を上回る数値を示した<ref name="マクギル19">[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、19頁</ref>。
== その後 ==
前述の通りFSFは、事故の原因は立ち見席ではないとして、その復活を求めている。FSFの[[世論調査]]によると、9割以上のサッカーファンが立ち見席の復活を望んでいる。<ref name=jiji />


「ヒルズボロの悲劇」における混乱の原因の一つとなった立見席の廃止とそれに伴う法制定によりスタジアム内の安全性が確保され暴力行為が追放された<ref name="サッカー批評20">[[#サッカー批評 2009|サッカー批評 2009]]、20頁</ref>結果、サポーターの熱意だけが残され<ref name="サッカー批評20"/>、女性と子供が安心して観戦の出来る環境も整い<ref name="ワールドサッカーダイジェスト"/>、リーグの魅力を国内外に示す事が可能となった<ref name="ワールドサッカーダイジェスト"/>。その一方、入場料金の高騰に伴い旧来の観客層である平均所得の低い階層や若者の試合観戦が困難な状態にある事に疑問を呈す意見もあり<ref>[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、31頁</ref>、[[1990年代]]に1部リーグと2部リーグに相当するトップディヴィジョンにおいて全座席式スタジアムが義務化された後もサポーター達による立見席復活を求める活動が行われている<ref>[[#マクギル 2002|マクギル 2002]]、33頁</ref>。[[2010年代]]においても{{仮リンク|フットボール・サポーター連盟|en|Football Supporters' Federation}} (FSF) は「古き伝統への懐古ではなく、[[ドイツ]]や[[オーストリア]]や[[アメリカ合衆国]]の事例が示すように、座席と立見席の中から選択が出来るように法規制を緩和するべきである」として立見席の復活に向けた署名活動を行っている<ref name="Independent20100422">{{cite news| url = http://www.independent.co.uk/sport/football/news-and-comment/lib-dems-call-for-return-to-safe-standing-on-terraces-1950535.html| title= Lib Dems call for return to 'safe' standing on terraces | publisher =[[インデペンデント|The Independent]] | date=2010年4月22日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。また連立与党第2党の[[自由民主党 (イギリス) |自由民主党]]は立見席の復活を政策として掲げ活動を行っている<ref name="Independent20100422"/>。
[[自由民主党 (イギリス)|自由民主党]]は立ち見席の復活を[[政策]]に掲げている。<ref name=jiji />

== 追悼式典 ==
[[ファイル:Hillsborough Memorial, Anfield.jpg|thumb|200px|[[リヴァプールFC|リヴァプール]]のホームスタジアム「[[アンフィールド]]」に併設されている記念碑。]]
[[1999年]]4月15日にリヴァプールのホームスタジアムである[[アンフィールド]]で行われた10周年追悼式典には約1万人のファンが参加した<ref name="BBC19990416">{{cite news| url = http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/319927.stm | title= Plea for Hillsborough justice | publisher =BBC News | date=1999年4月16日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。犠牲者を弔う為の[[ロウソク]]に火が点火され、10年前の試合と同じ審判のレイ・ルイスの笛と共に試合が中止された15時06分の時間に合わせて黙祷が捧げられた<ref name="BBC19990416"/>。式典には[[ジェラール・ウリエ]]監督、現役選手の[[ロビー・ファウラー]]や[[スティーブ・マクマナマン|スティーヴ・マクマナマン]]、OBの[[アラン・ハンセン]]らが参加<ref name="BBC19990416"/>。司教により犠牲者の名前が読み上げられ、[[ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン]]を合唱して式典を終えた<ref name="BBC19990416"/>。

式典に際して[[トニー・ブレア]]首相は「10年前の事故を思い起こすのに時間がかかることは正しい。あの日の出来事を決して繰り返してはならない」とメッセージを送り<ref name="BBC19990416"/>、式典に参加した[[トニー・バンクス]]スポーツ大臣は「サッカーファンの記憶から決して消し去ってはならない」とコメントした<ref name="BBC19990416"/>。

[[2009年]]4月15日に同じくアンフィールドで20周年追悼式典が行われ、リヴァプールの[[ラファエル・ベニテス]]監督や選手や関係者のほか、エヴァートンの[[デイヴィッド・モイーズ]]監督など約2万5千人のファンが参加した<ref name="Goal.com 20090416">{{cite news| url = http://www.goal.com/jp/news/74/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89/2009/04/16/1211962/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%81%8C%E5%83%95%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%92%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%81%9F| title= ジェラード:「ヒルズボロが僕のキャリアを決めた」 | publisher =Goal.com | date=2009年4月16日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>。10周年式典の際と同様に試合の中止された時刻と同じ15時6分には、リヴァプール、ヒルズボロ・スタジアム周辺、[[ノッティンガム]]で2分間の黙祷がささげられ<ref name="afpbb20090416">{{cite news| url = http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2592769/4033482 | title= 「ヒルズボロの悲劇」追悼式典が開催される
| publisher =AFPBB News | date=2009年4月16日 | accessdate = 2012年3月11日}}</ref>、犠牲者の名前が読み上げられ教会の鐘が慣らされロウソクに火が燈された<ref name="afpbb20090416"/>。式典の際にはエリザベス女王と[[ゴードン・ブラウン]]首相からのメッセージが読み上げられた<ref name="afpbb20090416"/>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
<references />
<references group="注" />
=== 脚注 ===
{{Reflist}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=[[サッカー批評]]編集部 |title=世界のサッカー応援スタイル |publisher=カンゼン |year=2009 |isbn=978-4862550446 |ref=サッカー批評 2009}}
* {{Cite book|和書 |author=エリック ・ダニング著、大平章訳 |title=問題としてのスポーツ--サッカー・暴力・文明化 |publisher=[[法政大学出版局]] |year=2004 |isbn=978-4588022227 |ref=ダニング 2004}}
* {{Cite journal |first=Peter |last=Taylor |url =http://badconscience.files.wordpress.com/2010/06/hillsborough-stadium-disaster-final-report.pdf | title= Lord Taylor's interim report on the Hillsborough stadium disaster |format=PDF |year=1989 |ref=Taylor 1989}}
* {{Cite journal |first=Peter |last=Taylor | url =http://badconscience.files.wordpress.com/2010/06/hillsborough-stadium-disaster-final-report.pdf | title= Lord Taylor's final report on the Hillsborough stadium disaster |format=PDF |year=1990 |ref=Taylor 1990}}
* {{Cite book|和書|author=[[西岡明彦]]|year=2009|title=プレミア最強ガイド |publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062158589 |ref=西岡 2009}}
* {{Cite book|和書|author=クレイグ・マクギル著、田邊雅之訳|year=2002|title=サッカー株式会社|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4163581804|ref=マクギル 2002}}
* {{Cite book|和書|author=パトリック・ミニョン著、堀田一陽訳|year=2002|title=サッカーの情念--サポーターとフーリガン|publisher=[[社会評論社]]|isbn=978-4784503988|ref=ミニョン 2002}}

== 外部リンク ==
* {{en icon}}[http://www.liverpoolecho.co.uk/liverpool-news/hillsborough/ Hillsborough tragedy - the 1989 disaster remembered]
* {{en icon}}[http://www.liverpoolfc.tv/history/hillsborough Hillsborough - Liverpool FC]
* {{en icon}}[http://www.hfsg.co.uk/ Hillsborough Family Support Group]


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[[Category:イングランドのサッカー]]
[[Category:イングランドのサッカー]]

2012年3月11日 (日) 03:29時点における版

ヒルズボロの悲劇
ヒルズボロの悲劇の記念碑
場所 イングランドの旗 イングランドシェフィールド
日付 1989年4月15日
原因 サウス・ヨークシャー警察による観客誘導の失敗
死亡者 96人
負傷者 766人
対処 イギリス政府により1部・2部リーグに所属する全サッカークラブの使用するスタジアムに対し、全ての観客席を立見席から椅子席へ改装する事を義務化。事故当日の警備責任者であるサウス・ヨークシャー警察の警視正と警視は2000年に行われた民事裁判の結果、警視は無罪。警視正は陪審による評決の合意に達せず取下げ。
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ヒルズボロの悲劇[注 1](ヒルズボロのひげき、英語: Hillsborough disaster)は、1989年4月15日イングランドシェフィールドヒルズボロ・スタジアムで行われたFAカップ準決勝のリヴァプールノッティンガム・フォレスト戦において発生した群集事故である。「テラス英語版」と呼ばれるゴール裏の立見席に収容能力を上回る大勢のサポーターが押し寄せたことにより死者96人、重軽傷者766人を出す惨事となった。この事故はイギリスのスポーツ史上最悪の事故と評されており[9][10]、事故原因について当初はフーリガニズムとの関連性が指摘されたが[11]、その後の調査により警備側の観客誘導の失敗が直接の原因だったことが明らかとなった[9][12]

背景

フーリガニズム

1985年5月29日ベルギーブリュッセルで行われたUEFAチャンピオンズカップ 1984-85決勝・リヴァプール対ユヴェントス戦の際に両チームのサポーターの衝突がきっかけとなり39人が死亡した事故(ヘイゼルの悲劇)の制裁措置としてイングランドの全クラブは欧州サッカー連盟 (UEFA) から5年間の欧州での国際試合出場禁止処分(事件当事者のリヴァプールは7年)を受けたが、この事件以降は自粛ムードが強まり[13]、イギリス政府はフーリガン排除を目的とした「サッカー観戦者法案」を提出し法案成立に向け与野党間での協議が続けられていた[13][14]。法案はサッカー場の入場者に対し顔写真入りのIDカードの掲示を求め、暴力事件を引き起こしたものに対しては年単位での入場や国際大会の際の渡航を禁止する内容が盛り込まれていたが野党からは「警察国家へと繋がる」と反対意見が挙がっていた[14]

1989年4月11日、UEFAは「サポーター達が自重自戒を続ける」ことを条件に1990-91シーズンからのイングランドの作家^クラブの国際大会復帰の決定を下した[14]

スタジアム

1980年代当時のスタジアムの多くは建築から50年以上を経過した老朽化したものであり、スタジアム内の半数から3分の2までが立見席で占められていた[14]。こうした立見席には椅子席とは異なり多くの観客を収容する事が可能となっていた為、サッカークラブにとっては大きな収入源となっていた[14]

立見席には熱狂的なサポーター達が集まりやすく、牧歌的な時代には試合終了と共にファンがピッチへと飛び降り人気選手にサインを求める風景も見られたが[15]、1960年代頃から暴力的サポーター同士による抗争などのトラブルが頻発すると、立見席では観客の安全性確保や警備上の対策のための対策が講じられるようになった[15]。最前部には高いフェンスが張り巡らされて侵入を阻止する対策が採られ、側部は群衆整理の為の鉄柵で仕切られ、いくつかのブロック毎に区分された[15]。サポーター達はそれぞれの区画に押し込められる環境の中での観戦を強いられたが、この鉄柵による区画は「家畜檻」(pen) と呼ばれた[15]

一方で立見席では1946年3月9日ボルトンで行われたボルトン・ワンダラーズストーク・シティ戦で鉄柵が超満員の群集の圧力に耐え切れず崩壊したことにより群集雪崩が発生し33人が死亡、500人以上が負傷する事故 (Burnden Park disaster) や、1971年1月2日スコットランドグラスゴーで行われたグラスゴー・レンジャーズセルティック戦の終了間際に退場する群集と再度入場しようと試みる群集の波が衝突した事により66人が死亡、200人以上が負傷した事故 (Ibrox disaster) が発生するなど安全性の面で問題視されていた[14]。グラスゴーでの事故後の1975年にスポーツ競技場安全法が採択され、事故防止に向けた公式入場者数を削減する条件が適用されていたが[16]、更にスタジアムから立見席を撤廃し椅子席に改修するには多額の費用を捻出する必要があった[14]

テラスの文化

格安の料金で観戦が可能となるテラスには労働者階級を中心としたサポーター達が集い[17]、彼らが歌う贔屓のチームを後押しする手拍子とチャント(応援歌)による野太い声援は独特な雰囲気を作り出していたが[18]、この応援スタイルは1962年チリで行われたFIFAワールドカップでのブラジル代表サポーターの応援を参考にリヴァプールのサポーター達が独自にアレンジしたものに由来している[19]。リヴァプールのサポーター達による伝統的な楽曲[20]や流行歌[19]の歌詞を自分達のクラブへのメッセージに置き換える応援スタイルは他チームのサポーター達に影響を与え[19]、各地へと伝播していった[19]

こうした応援には自分達のチームを後押しするチャントだけでなく、やがて審判や相手サポーターを猥褻な台詞で侮辱する内容のチャントや[17][20]、さらに黒人選手に対する人種差別的内容のチャントも加わるようになった[20]。また、テラスでは公序良俗に反する様な悪戯[21]や、敵対するチームのサポーター同士での(人を殺さない程度に抑止された)暴力活動が常態化していた[21]

テラスに陣取るサポーターは大きく三つの年齢層に分類されており[22]、スタジアムに通い始めて日の浅い駆け出しの少年少女達はテラスの最前部に位置し、そこで周囲のサポーターたちの行動様式を体感し学習していった[22]。一通りの行動様式を学び年齢を重ね周囲から一人前と認められた者はテラスの最後尾に下がりサポーターを統率する者や相手チームのサポーターとの間で暴力沙汰を起こす「フーリガン」と化する者へと変化した[22]。更に年齢を重ねると、先鋭的な行動からは身を引きメインスタンドの椅子席などで静かにサッカー観戦をする者、あるいはテラスに残りつつも目立った行動を控える者などに分かれた[22]

概要

運営

シェフィールドの位置(イングランド内)
シェフィールド
シェフィールド
シェフィールドの位置

ヒルズボロ・スタジアムではこれまで1966 FIFAワールドカップやFAカップ準決勝の会場として何度も使用された実績があり、1987-88シーズンのFAカップ準決勝でも使用された[23]。スタジアム警備を担当するサウス・ヨークシャー警察英語版の警備責任者(前年度のFAカップ準決勝を担当した[23])はフットボール・アソシエーション (FA) が1989年3月にFAカップ準決勝の会場としてヒルズボロ・スタジアムを指定した時までは職務に就いていたが[23]3月27日限りで退任し新任のダッケンフィールド警視正へと引き継がれた[23]

事故当日はメインスタンドとバックスタンドにはリヴァプールとノッティンガムのサポーターが混在し、熱狂的なサポーターが集まるテラスに関してはスパイオン・コップ (Spion Kop End) と呼ばれる東側スタンド(収容数21,000人)をノッティンガムに割り当て、レッピング・レーン・エンド (Leppings Lane End) と呼ばれる西側スタンド(収容数14,600人)をリヴァプールに割り当てた[24]。レッピング・レーン・エンドは上段と下段の2層に分割されており下段は立見席だったが、立見席の最前部は色に塗装されたフェンスで覆われ[9]、側部は群衆整理のための鉄柵により5つのブロックに分割されていた[9]

リヴァプールはノッティンガムに比べて多くのサポーターを保持していることで知られ、事故当時のリヴァプールの平均入場者数が4万人であるのに対し、ノッティンガムは1万7千人と下回っていた[25]。サッカーの試合に関してはサポーター数の多いクラブに対しチケットを多く配分される傾向があり通常であればリヴァプールに多くのチケットが配分されることになるが[24]、この試合に際してはノッティンガムのサポーター用に2万9千枚のチケットを配分し、リヴァプールのサポーター用に2万4千枚のチケットを配分された[24]。この配分に対してリヴァプール側からは不満が沸き起こっていた[25]

事故の経過

事故現場となったヒルズボロ・スタジアムの全景。

12時00分、シェフィールド市内の最寄り駅からスタジアムへ繋がる動線では両チームのサポーターによる衝突を回避するため、リヴァプールサポーターに対しては警察当局により、迂回路を通行するように誘導がされていた[24]。シェフィールド周辺には74のパブがあり、それぞれの店で20から100人以上のサポーターにアルコール飲料を販売したが、大きなトラブルは報告されなかった[26]

リヴァプールサポーターは当日の正午頃からスタジアム周辺に到着し、スタンドへの入場を待ち構えていた[26]。正午の時点で「レッピング・レーン・エンド」の入場ゲートは開放され53人の警察官が配備されていたが[26]、スタジアム周辺に集まるサポーターに対しチケットを所持している者については速やかにスタジアムに入場するように誘導を行った[26]

14時00分、警備本部では監視カメラの映像によりノッティンガム側のスタンドがほぼ満席であったのに対し[26]、リヴァプール側のスタンドでは第3・第4ブロックには満員に近いサポーターで埋め尽くされていたものの、それ以外のブロックはほぼ空席に近い状態だった事が確認された[26]。14時から14時30分の間に「レッピング・レーン・エンド」の入場ゲート周辺では入場するファンで混雑が始まり[26]騎馬警官達は群集整理の対処に追われていたものの、この時点において群集の間で大きなトラブルは確認されなかった[26]

14時30分、試合開始時間が近づいた事もあり「レッピング・レーン・エンド」の入場ゲートでは混雑が激しくなった[27]。回転式のゲートを使用していたが数が少ない上に老朽化が進んでいたこともあり、当日のサポーターの入場に支障を来たしており[9][27][28]、入場の進まない事に苛立ったサポーターと群衆整理に当たっていた騎馬警官達が一触即発の状態になるなど統制を失い始めた[27]

14時45分、スタジアム西側にある入場ゲート付近で入場出来ない5,000人のリヴァプールサポーター達で溢れていた[27]。これらのサポーターが試合開始時間までに入場する事は困難であり[27]、スタジアム外に配置された警官から「試合開始時間を遅らせるように」との要請が行われたが[27]警備本部からこの要請は拒絶された[27]

14時50分、「テラス」の中央部に位置する第3・第4ブロックは既に満員のサポーターで溢れかえっていたが[9]、その一方でスタジアムの外部には数千人のリヴァプールサポーターが入場出来ない状況にあった[9]。なお第3・第4ブロックを併せた収容人数は公式には2,200人としていたが、3年前に設置された鉄柵は公式な安全基準を満たさないとして1,600人にまで削減する様に求められていた[9]。ダッケンフィールド本部長は、入場の出来ないサポーターが暴徒化することを懸念し[14]入場ゲートの脇にあるスタジアムからの退場者専用に設定されたCゲートを開放し、スタジアム外に溢れていた大勢のサポーターを入場させる命令を下し、14時52分にCゲートは開放された[9][27]

事故現場となったヒルズボロ・スタジアムの西側スタンド「レッピング・レーン・エンド」の全景。スタンドは上段と下段の2層に区分されており下段は全て立見席だった。立見席の中央部にあたる第3・第4ブロックに警察の誘導ミスもあって収容能力を上回る大勢の観客が押し寄せたことにより多数の死者を出す惨事となった。

14時52分、Cゲートを開放した事により約2,000人のサポーターが「テラス」の中央部に位置する第3・第4ブロックへ繋がるトンネルへと押し寄せた[9]。なお、Cゲートの開放により入場した多くのサポーター達はチケットを事前に所持していた可能性が高いが[27]、チケットを所持せずに入場した者も間違いなく含まれていた[27]。この流入により第3・第4ブロックはサポーターで過密状態となり身動きとれなくなるなどの深刻な状況に陥り、他の密集度の低い第1・第5ブロックへと避難する者やフェンスによじ登り難を逃れようとする者が続出した[9]。なお、Cゲートが開放されてから試合開始までの時点で安全基準の2倍にあたる約3,000人のサポーターが寿司詰めになっていたと推測されている[9]

15時00分、主審のレイ・ルイス英語版の笛が鳴らされ試合開始。第3・第4ブロックは依然として超満員の状態にあったが、解放されたCゲートからは次々に観客が押し寄せた[29]。最前部にいたサポーター達は後方から押し寄せるサポーター達の圧迫によりフェンスに押し付けられ熱気と圧力で次々と気を失った[29]。中にはフェンスをよじ登りピッチへと逃れようと試みる者もいたが[29]、ピッチへの乱入行為と考えた警官により追い返された[29]

15時04分、リヴァプールのピーター・ベアズリーが放ったシュートがクロスバーに直撃すると歓声が上がり[29]、この歓声と共に第3・第4ブロック内では群集による大きなうねりが発生した[29]。第3ブロック内では観客が密集し安全基準を上回る荷重が掛かった事により各ブロックを隔てていた鉄柵が崩壊[9][29]。これにより第3ブロック内で将棋倒しが発生し、観客は互いの体に押しつぶされた[9][29][注 2]。「テラス」から上段にある2階席へとよじ登り難を逃れようとする者が続出した[9]

15時06分、警官がピッチ内にいるルイス主審に向かって駆け寄り試合中止を指示[9]。これを受けて主審は試合の中止を宣言した[9]。犠牲者は直立のまま意識を失っており[31]瞳孔が開きチアノーゼ反応を起こし嘔吐失禁をした状態だった[31]。その一方で、警察や消防による救出活動は即座に進行せず、警察や事故現場を写真に収めるカメラマンに批判が沸き起こるなど混沌とした状態となった[31]

15時12分、ピッチとスタンドを隔てるフェンスの除去が行われ、第3・第4ブロック内にいる被害者の救出が始まった[31]。サポーター達は応急措置としてスタジアムにある広告看板を担架として代用し負傷者の搬出と人工呼吸心臓マッサージなどの応急手当てが行われた[9][31]。一方で、負傷者を救出する為の消防や救急車の要請が行われていたが、警備関係者から「群集によるトラブル」が報告されていた為、スタジアム内に到着するまでに時間が掛かる事になった[9]

15時15分、FAの最高経営責任者であるグラハム・ケリーやシェフィールド・ウェンズデイの関係者が情報収集の為に警備本部を訪れた際、ダッケンフィールド本部長はCゲートに設置されていた監視カメラからの映像を指し「リヴァプールサポーターがゲートを破壊して場内に侵入した」と説明[32]

15時20分、ピッチはスタンドから運び出された死傷者で溢れた[25]。スタジアム外には救急車が到着を始め、合計42台の救急車[33]で、16時30分までに約172人の負傷者を近隣の病院へ搬送した[33]

16時10分、主催者側により試合中止が発表された[33]

犠牲者

この事故により4月15日のうちに10歳から68歳までの94人が死亡し766人が重軽傷を負ったが、4月19日に14歳の男性が病院で死亡し死者の数は95人となった[34]。死者の多くはリヴァプールサポーターの若者や子供であり[35]、そのうち7人が女性だった[33]。年齢層別では20才未満が38人[33]、20代が39人[33]、50歳以上は3人となった[33]。死因は胸部を圧迫された事による酸欠窒息が多く[33][35]、内臓破裂や頭部を強打した事による死亡した者もいた[33][35]。死者の多くは立見席の最前部で亡くなり[33]、そのうちの殆どが第3ブロックの最前部で亡くなったが[33]、第4ブロックでは5人[33]が、第2・第3ブロック後方部でも数人が亡くなった[33]。証拠品や犠牲者の親族や友人の証言により死者のうちの16人から21人は14時52分にゲートが解放された後に入場した者だった事が判明した[33]

犠牲者の中には後にリヴァプールやイングランド代表の選手となるスティーヴン・ジェラードの従兄弟も含まれていた[36]。従兄弟は当時10歳であり最年少の犠牲者となった[36]。また、事故当時22歳の男性は植物状態のまま生命維持装置が取り付けられ延命措置が施されていたが1993年3月に取り外され、最終的な死者は96人となった[37]

国際社会の反応

イギリスの旗 イギリス

マーガレット・サッチャー首相は事故の一報をニュースで知り「信じられない出来事」と発言し事故原因の真相解明を指示[25]。翌4月16日、サッチャー首相はダグラス・ハード内務大臣やコリン・モイニハン英語版スポーツ大臣らと共に事故現場を視察し[25][28]、サッカー観戦における新たな規制を設ける可能性を明らかにした[28]。元首のエリザベス2世は4月15日にシェフィールド市長宛に見舞いのメッセージを送り弔意を示した[25]。負傷者の入院する病院にはサッチャー首相、モイニハン・スポーツ大臣、チャールズ皇太子ダイアナ妃らが見舞いに訪れた[24]。犠牲者の葬儀にはリヴァプールのケニー・ダルグリッシュ監督や選手らが参列した[2]

国際サッカー連盟 (FIFA)

ゼップ・ブラッター総務主事は4月16日、「(来年度から予定されていた)イングランドのクラブのUEFA主催の国際大会への復帰は厳しくなった」との声明を発表した[38]

欧州サッカー連盟 (UEFA)

マイグナー総務主事は、FIFAが厳しいコメントを残したのに対し「当面はイギリス政府とFAの対応を静観する」との方針を示した[38]。一方、ジャック・ジョルジュ英語版会長は4月17日フランスラジオ局のインタビューに応じ「「イングランドのサポーターはまるで野獣だ。UEFA主催の国際大会への復帰はありえない」と発言した[24][39]。これに対しイングランドのサッカー界を統括するFAや多数の犠牲者を出したリヴァプールの関係者は「犠牲者に不謹慎[39]」「現実を知らない無責任な会長は即刻辞めるべきだ[24]」と批判した。ジョルジュ会長は4月18日、FAのバート・ミリチップ会長に宛て「事故に衝撃を受けたあまり言葉が過ぎた」との謝罪文を送った[39]

メディアの反応

『ザ・サン』の購買ボイコットを呼びかけるポスター

サンデー・タイムズは事故の内容を大きく報じる一方で警察の不手際と、これまで幾度かの事故が発生していたにも関わらず抜本的な対策を怠っていた主催者側の姿勢を批判した[28]英国放送協会 (BBC) は「警察が14時52分に入場ゲートを開放しスタジアム外に溢れていた数千人のファンを入場させた判断は適切だったのか」について検証する番組を放送した[28]

一方、事故直後には「酩酊したサポーターが入場ゲートを破壊しスタジアム内に侵入した事が主原因」とする報道も行われた[40]ほか、大衆紙の『ザ・サン』は事故の翌日に「The Truth」(真実)と題し「一部のファンが犠牲者のポケットから財布を盗んだ[40][41]」「警官に向かって排尿した[42]」といった内容の記事を掲載した。

『ザ・サン』によるサポーターが人道に反する行為を行ったとする報道は裏付けとなる証拠が見つからなかった事から後に謝罪を行った[41]が、リヴァプール市民は一連の報道に反発して『ザ・サン』の購買をボイコットする活動を展開[40][42][43]。それまでリヴァプールでは平均20万部の売り上げがあったが、ボイコット運動により平均1万部にまで減少した[43]

『ザ・サン』を傘下に置くニューズ・コーポレーションの副最高執行責任者であるジェームズ・マードック英語版2011年11月、「記事は間違いだった。22年前の私はまだ若く、遠く離れた場所にいた為に関係を持たなかったが、記事の掲載により人々に苦痛を与えた事は認識している」と謝罪した[44]

対応

リヴァプールのジョン・スミス会長は4月16日、フットボールリーグやFAカップの試合参加を当面の間は延期する事を発表[25]。FAはヒルズボロの犠牲者に対し喪に服す為、リーグ戦を2週間延期した[25][24]。中止されたFAカップ準決勝について、リヴァプールはFAから再試合に応じるか回答を求められていたが、遺族からの要望もあり出場が決定[24]。再試合は5月7日マンチェスターオールド・トラッフォードで行われることになった[45]

イギリス政府はサッカークラブやファンに対し次の様な発表を行った[24]

  1. 「メンバーシップ制度[注 3]」は予定通り実施する。
  2. 立見席を全面的に廃止し椅子席に改修する様に各スタジアムに勧告する。

また、今回の事故で問題となったフェンスの是非についてFAは各クラブ、警察署、消防署の判断に任せるとした[24]。これを受けてリヴァプール、トッテナム・ホットスパーダービー・カウンティの3クラブとウェンブリー・スタジアムが鉄柵の全面撤去を決定[24]。また、リヴァプールは1990年中に全席を椅子席に改修する事を発表した[24]

試合

ノッティンガム・フォレスト 中 止 リヴァプール
リポート
ヒルズボロ・スタジアム
観客数: 53.000人
主審: レイ・ルイス

再試合

リヴァプール 3 - 1 ノッティンガム・フォレスト
オルドリッジ 3分にゴール 3分58分
ロウズ英語版72分にゴール 72分 (o.g.)
リポート ウェブ 33分にゴール 33分
オールド・トラッフォード
観客数: 38,000人
主審: レイ・ルイス

再試合は5月7日マンチェスターオールド・トラッフォードで行われ3-1でリヴァプールが勝利し、決勝ではエヴァートンを延長戦の末に3-2で下し1985-86シーズン以来、4度目の優勝を果たした[45]

1988-89シーズンの影響

リーグ戦を2週間延期した事により4月23日にホームで行われる筈だったリヴァプール対アーセナル戦は5月26日に延期されたが、リーグ最終戦として行われた試合は首位のリヴァプールを勝ち点差3で追うアーセナルとの優勝を掛けた直接対決となった[47]。0-1でリヴァプールが破れても優勝が決まる条件だったが、1-0とアーセナルの1点リードで迎えたアディショナルタイムに更に1点を追加して2-0で試合終了。得失点差で両チームは並んだものの総得点で上回るアーセナルが優勝した[47]。リヴァプールはFAカップ決勝で延長戦を戦った3日後に試合をこなし、その2日後にこの試合を迎えるなど、過密日程が響いた形となった[47]

テイラー・レポート

事故調査を担当した高等法院王座部のピーター・テイラー英語版主席判事は8月4日に中間報告書を発表し、警察が当日の14時52分にCゲートを開放した際に既に満員の状態だった第3・第4ブロックへ通ずる回廊を封鎖して、他のブロックへ誘導する対応を怠った事を指摘[9]。スタジアム外に溢れていたファンの誘導の不備や、事故発生後の警察の対応の遅れについても非難する内容となった[9]。これにより「ヒルズボロの悲劇の責任はリヴァプールサポーターにある」との疑惑[40]や、「ヘイゼルの悲劇」に代表されるフーリガニズムとの関連性についての指摘も払拭した[48]

一方、警察側では事故原因として「リヴァプールサポーターの来場の遅れ」を挙げ[49]「彼らの多くは泥酔し非協力的で、尚且つチケットも所持していなかった。彼らが試合開始時間までに入場しようと試みたため入場ゲートでの混雑を誘発した」と主張していた[49]。これに対し、テイラー判事は「道路工事による交通渋滞は想定の範囲内であり重大な影響は及ぼしていない[49]」「泥酔して威勢を示す者はごく少数であり、大多数は一般のサポーター達だった[49]」「第一にリヴァプールのサポーターは試合間近に入場する傾向がありその多くはチケット所持者である。第二に監視システムによる計測と実際に割り当てたチケット数とを照合した所、大きな差異は確認されなかった[50]」として警察側の主張を否定した。

1990年1月に発表された最終報告書では

サッカーはわが国の国技であり世界中に影響を与えてきた。しかし、老朽化したスタジアムと貧弱な設備、サポーターの暴力と過剰な飲酒、スタジアム管理に責任を負うべき者達のリーダーシップの欠如により、「観るためのスポーツ」としての価値を損ない国家のイメージそのものを貶めている。スタジアムの安全性と群集行動には密接な関連性があり、責任者はこれらを全て考慮する必要がある。

とサッカー界の問題点を指摘[51]。その上で「安全対策上の最善の方策ではない」と前置きをしつつ「立見席の廃止と椅子席の導入を達成する事で、より多くの結果をもたらす」として[52]、イングランドとスコットランドの1部リーグと2部リーグに所属するサッカークラブの使用するスタジアムに対し「テラス」の廃止を提唱した[40][52][53]。また、サッチャー政権下で協議が進められていたIDカード導入計画については入場ゲートでの混雑を更に誘発するだけだとして否定[53]する一方、「サッカー観戦者法」 (Football Spectators Act 1989) の中で定められた「スタジアム内でのアルコール類販売禁止」「危険物持ち込み禁止」の内容を支持した[53]。また、スタジアム内での猥褻表現や人種差別的行為などのサポーターによる問題行動に対し新たに法規制を設けるように提案した[54]

テイラー判事によるレポートを受けてイギリス政府はスタジアムの建設基準を改正し従来の立見席を廃止し椅子席に改修する事を義務化[15]。フーリガン対策として設置され事故の要因となったフェンスは廃止され[15]、それに代わる対策として監視カメラがスタジアム内の各所に設置される事になった[15]。IDカードの導入については最終報告書を受けて撤回する決定を下した[55]ほか、スタジアム内でのサポーターによる問題行動への措置については1991年に「サッカー犯罪防止法」(Football (Offences) Act 1991) として法制化された[54]

裁判

テイラー判事により報告書が提出されたにも関わらず、1990年8月14日に公訴局長は証拠不十分を理由にいかなる個人や団体に対し刑事告訴を執り行わない評決を下した[9]1996年ジミー・マクガヴァーン英語版監督による「ヒルズボロの悲劇」についてのドキュメンタリードラマが放送され世論の関心を集めると、ジャック・ストロー内務大臣は事故原因の再調査を指示した[9]。問題は高等法院での審査に持ち込まれたが、ストロー内務大臣は「新たな証拠は見つからなかった」として調査の中止を命じた[9]

1998年、遺族は民事訴訟を起こし、事故の際に治安維持の最高責任者だったデイヴィッド・ダッケンフィールド警視正と、グラウンド管理の責任者だったバーナード・マレー警視の2人を殺人罪で告訴した[9]2000年に行われた裁判ではダッケンフィールドが事故直後にFAに対し虚偽の報告を行い隠蔽を諮った理由が明らかにされ「真実を認めた場合に騒動が起こることを懸念した為」と指摘されると[56]、一転して「事故原因はリヴァプールサポーターにある」と発言した事を謝罪した[56]。6週間の審議の結果、マレーは無罪となったが[9]、ダッケンフィールドについては規定時間内に陪審員の評決がまとまらなかったとし[9]、裁判を担当したフーバー判事は陪審を解散させた[9]。この判断に対し弁護側も詰め寄ったが再審については「公正な裁判は不可能である」として拒否した[9]

2006年、遺族は2000年の裁判の判決を不服として欧州人権裁判所に提訴した[9]

影響

テイラー・レポートを受けて政府から1994年までに達成する様に義務化されたスタジアムの近代化の問題は各クラブの財政を圧迫した[57]。一部の資金をフットボール基金から援助されたものの総改築費の4分の1程度に過ぎず[57]、テラスの廃止により財政収入が激減する事は免れない事もあり、各クラブは入場料の値上げに踏み切った[57]

またテレビ放映権料の分配率の不満に端を発した新リーグ設立の機運が高まる中で1991年7月に構想が具体化し[58]フットボールリーグ1部に所属する全22チームがリーグを脱退しプレミアリーグを設立[58]。同リーグはルパード・マードックが経営するニューズ・コーポレーション傘下のBスカイBとのスポンサー契約により巨額の放映権料を獲得し[58][59]、さらに収益を上げる為に株式を公開し上場するサッカークラブが登場するなど積極的な経営努力が行われる様になった[57]。これにより当初、懸念されていたスタジアムでの大規模な改修や設備投資が可能となったほか[58]、世界的なスター選手が加入するなど移籍市場が活発化しリーグとしての実力の底上げが計られた[58]

入場料が高騰した事により従来の観客層だった平均所得の低い労働者階級の人々は淘汰され[57]、代わりに中流階級の人々や女性や家族連れの観客が増加[57]1980年代には数々のトラブルが発生した事により1980年代末には最盛期の1960年代から1970年代(1,400万人以上)に比べて半数にまで減少していたトップディヴィジョンの年間観客数は[57]、プレミアリーグ発足後の1998-88シーズンの調査では2,500万人を記録するなど最盛期を上回る数値を示した[60]

「ヒルズボロの悲劇」における混乱の原因の一つとなった立見席の廃止とそれに伴う法制定によりスタジアム内の安全性が確保され暴力行為が追放された[61]結果、サポーターの熱意だけが残され[61]、女性と子供が安心して観戦の出来る環境も整い[58]、リーグの魅力を国内外に示す事が可能となった[58]。その一方、入場料金の高騰に伴い旧来の観客層である平均所得の低い階層や若者の試合観戦が困難な状態にある事に疑問を呈す意見もあり[62]1990年代に1部リーグと2部リーグに相当するトップディヴィジョンにおいて全座席式スタジアムが義務化された後もサポーター達による立見席復活を求める活動が行われている[63]2010年代においてもフットボール・サポーター連盟英語版 (FSF) は「古き伝統への懐古ではなく、ドイツオーストリアアメリカ合衆国の事例が示すように、座席と立見席の中から選択が出来るように法規制を緩和するべきである」として立見席の復活に向けた署名活動を行っている[64]。また連立与党第2党の自由民主党は立見席の復活を政策として掲げ活動を行っている[64]

追悼式典

リヴァプールのホームスタジアム「アンフィールド」に併設されている記念碑。

1999年4月15日にリヴァプールのホームスタジアムであるアンフィールドで行われた10周年追悼式典には約1万人のファンが参加した[65]。犠牲者を弔う為のロウソクに火が点火され、10年前の試合と同じ審判のレイ・ルイスの笛と共に試合が中止された15時06分の時間に合わせて黙祷が捧げられた[65]。式典にはジェラール・ウリエ監督、現役選手のロビー・ファウラースティーヴ・マクマナマン、OBのアラン・ハンセンらが参加[65]。司教により犠牲者の名前が読み上げられ、ユール・ネヴァー・ウォーク・アローンを合唱して式典を終えた[65]

式典に際してトニー・ブレア首相は「10年前の事故を思い起こすのに時間がかかることは正しい。あの日の出来事を決して繰り返してはならない」とメッセージを送り[65]、式典に参加したトニー・バンクススポーツ大臣は「サッカーファンの記憶から決して消し去ってはならない」とコメントした[65]

2009年4月15日に同じくアンフィールドで20周年追悼式典が行われ、リヴァプールのラファエル・ベニテス監督や選手や関係者のほか、エヴァートンのデイヴィッド・モイーズ監督など約2万5千人のファンが参加した[66]。10周年式典の際と同様に試合の中止された時刻と同じ15時6分には、リヴァプール、ヒルズボロ・スタジアム周辺、ノッティンガムで2分間の黙祷がささげられ[67]、犠牲者の名前が読み上げられ教会の鐘が慣らされロウソクに火が燈された[67]。式典の際にはエリザベス女王とゴードン・ブラウン首相からのメッセージが読み上げられた[67]

脚注

注釈

  1. ^ 英語名のHillsborough disasterDisasterを日本語訳すると「災害」「惨事」「災難」になるが、日本では「悲劇」 (Tragedy) と表記されることが慣例化している[1][2][3][4][5][6]。1980年代以降に出版された翻訳書では「ヒルズバラの惨事[7][8]」といった表記もある。
  2. ^ 群集の密度が1平方メートルあたり8人から10人に近づくと身動きが取れなくなり、圧力の衝撃波が伝播し将棋倒しが発生やすい状態となる[30]。その際、体は持ち上げられ、衣服は破れ、熱気と圧力で体力が急速に消耗する[30]
  3. ^ 同年に定められた「サッカー観戦者法(Football Spectators Act 1989)」の中の制度の一つ[46]。フーリガン対策としてサッカークラブから正式会員として認可された者のみ試合観戦を許可する事を定めた[46]。「サッカー観戦者法」には、フーリガン行為の嫌疑の掛かった者に対し、海外での試合開催日の際に渡航を禁止する内容も盛り込まれた[46]

脚注

  1. ^ 『ワールドサッカー歴史年表』カンゼン、2008年、130-131頁頁。ISBN 978-4862550156 
  2. ^ a b マクギル 2002、240頁
  3. ^ 西岡 2009、184頁
  4. ^ “「ヒルズボロの悲劇」の未公開文書開示を要求、英下院”. AFPBB News. (2011年10月18日). http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2835845/7949165 2012年3月11日閲覧。 
  5. ^ “ヒルズボロの悲劇”. 賀川サッカーライブラリー. http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=67 2012年3月4日閲覧。 
  6. ^ “UEFA、ヒルズボロの悲劇を考慮”. asahi.com. (2009年3月17日). http://www.asahi.com/sports/fb/world/goal/GOC200903170039.html 2012年3月11日閲覧。 
  7. ^ トニー・メイソン著、松村高夫、山内文明訳『英国スポーツの文化』同文館、1991年、56頁頁。 
  8. ^ ダニング 2004、257頁
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad “How the Hillsborough disaster happened”. BBC News. (2009年4月14日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/7992845.stm 2012年3月11日閲覧。 
  10. ^ “1989: Football fans crushed at Hillsborough”. BBC ON THIS DAY. http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/april/15/newsid_2491000/2491195.stm 2012年3月11日閲覧。 
  11. ^ ミニョン 2002、165頁
  12. ^ ミニョン 2002、166頁
  13. ^ a b 「失業ヤング多い地方都市 「乱闘防止」裏目に」『読売新聞』 1989年4月17日 14版 4面。 
  14. ^ a b c d e f g h 「紳士の国なぜ惨事?英サッカー場事故」『朝日新聞』 1989年4月25日 13版 6面。 
  15. ^ a b c d e f g 川端康雄「サッカー場の変貌」『愛と戦いのイギリス文化史 1951-2010年』慶應義塾大学出版会、2011年、168頁頁。ISBN 978-4-7664-1878-1 
  16. ^ デズモンド・モリス著、白井尚之訳『サッカー人間学--マンウォッチング 2』小学館、1983年、276頁頁。ISBN 978-4096930090 
  17. ^ a b ミニョン 2002、127頁
  18. ^ サッカー批評 2009、12-13頁
  19. ^ a b c d サッカー批評 2009、16-17頁
  20. ^ a b c Taylor (1990) p.6
  21. ^ a b ミニョン 2002、128-129頁
  22. ^ a b c d 後藤健生「バックスタンドからの目 ⑪ 日本にフーリガン問題は無縁か?」『ストライカー』 1989年9月号、118頁頁。 
  23. ^ a b c d Taylor (1989) p.7
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m 「ストライカーワールドスコープ世界サッカー情報 イングランド 悪夢再現!95人の死者を出す大惨事」『ストライカー』 1989年7月号、35頁頁。 
  25. ^ a b c d e f g h 「金網で失神する女、子供 英サッカー場惨事ドキュメント」『読売新聞』 1989年4月17日 14版 4面、118頁頁。 
  26. ^ a b c d e f g h Taylor (1989) pp.9-10
  27. ^ a b c d e f g h i j Taylor (1989) pp.11-12
  28. ^ a b c d e 「死者93人、負傷者170人に 英サッカー場観客将棋倒し 警備に手落ちか」『日本経済新聞』 1989年4月17日 14版 31面。 
  29. ^ a b c d e f g h Taylor (1989) p.13
  30. ^ a b 釘原直樹『グループ・ダイナミックス--集団と群集の心理学』有斐閣、2011年、111頁頁。ISBN 978-4641173781 
  31. ^ a b c d e Taylor (1989) p.15
  32. ^ Taylor (1989) pp.16-17
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n Taylor (1989) pp.17-18
  34. ^ Hillsborough 96 - Lee Nicol, 14”. Liverpool Echo (2009年4月15日). 2012年3月11日閲覧。
  35. ^ a b c 「死者93人 負傷者200人に 英サッカー場惨事」『朝日新聞』 1989年4月17日 14版 31面。 
  36. ^ a b “ジェラード「ヒルズボロの傷は決して癒えない」”. FOOTBALL WEEKLY. (2009年4月11日). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/april/15/newsid_2491000/2491195.stm 2012年3月11日閲覧。 
  37. ^ 1992: Hillsborough victim allowed to die”. BBC ON THIS DAY. 2012年3月11日閲覧。
  38. ^ a b 「イングランド再び制裁か サッカー大惨事」『毎日新聞』 1989年4月17日 14版 22面。 
  39. ^ a b c 「UEFA会長が釈明」『毎日新聞』 1989年4月20日 14版 22面。 
  40. ^ a b c d e 「Another Side of Football リヴァプールの優勝と2つの悲劇」『地球の歩き方プラスワン405 欧州サッカー観戦ガイド』ダイヤモンド社、2005年、350頁頁。ISBN 978-4478037744 
  41. ^ a b 西岡 2009、185頁
  42. ^ a b Liverpool's 23-year boycott of The Sun newspaper”. BBC News (2012年2月24日). 2012年3月11日閲覧。
  43. ^ a b 西岡 2009、186頁
  44. ^ News International chairman James Murdoch apologises to Liverpool over Sun's coverage of Hillsborough tragedy”. Telegraph (2011年11月10日). 2012年3月11日閲覧。
  45. ^ a b 「英国サッカー史上最大の惨事! 人々は折り重なるように倒れた」『サッカーダイジェスト』 1989年7月号、67頁頁。 
  46. ^ a b c イギリス (UNITED KINGDOM)” (PDF). 文部科学省. 2012年3月11日閲覧。
  47. ^ a b c 「ドラマチックなフィナーレ…アーセナル9回目のリーグ優勝」『サッカーダイジェスト』 1989年8月号、67頁頁。 
  48. ^ マクギル 2002、241頁
  49. ^ a b c d Taylor (1989) pp.33-34
  50. ^ Taylor (1989) p.35
  51. ^ Taylor (1990) p.5
  52. ^ a b Taylor (1990) p.12 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "Taylor 1990-12"が異なる内容で複数回定義されています
  53. ^ a b c ミニョン 2002、167頁
  54. ^ a b ミニョン 2002、168頁
  55. ^ ダニング 2004、234頁
  56. ^ a b マクギル 2002、243頁
  57. ^ a b c d e f g 「変わりゆくサポーターたち」『ワールドサッカーグラフィック』 2000年2月号、ビクターエンタテインメント、64-65頁頁。 
  58. ^ a b c d e f g 「FOOTBALLの事件史 第3回 1992年の出来事「プレミアリーグ創設」」『ワールドサッカーダイジェスト』 2010年11月4日号、100頁頁。 
  59. ^ 西岡 2009、61頁
  60. ^ マクギル 2002、19頁
  61. ^ a b サッカー批評 2009、20頁
  62. ^ マクギル 2002、31頁
  63. ^ マクギル 2002、33頁
  64. ^ a b “Lib Dems call for return to 'safe' standing on terraces”. The Independent. (2010年4月22日). http://www.independent.co.uk/sport/football/news-and-comment/lib-dems-call-for-return-to-safe-standing-on-terraces-1950535.html 2012年3月11日閲覧。 
  65. ^ a b c d e f “Plea for Hillsborough justice”. BBC News. (1999年4月16日). http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/319927.stm 2012年3月11日閲覧。 
  66. ^ “ジェラード:「ヒルズボロが僕のキャリアを決めた」”. Goal.com. (2009年4月16日). http://www.goal.com/jp/news/74/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89/2009/04/16/1211962/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%AD%E3%81%8C%E5%83%95%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%92%E6%B1%BA%E3%82%81%E3%81%9F 2012年3月11日閲覧。 
  67. ^ a b c “「ヒルズボロの悲劇」追悼式典が開催される”. AFPBB News. (2009年4月16日). http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uk/2592769/4033482 2012年3月11日閲覧。 

参考文献

外部リンク

座標: 北緯53度24分41秒 西経1度30分2秒 / 北緯53.41139度 西経1.50056度 / 53.41139; -1.50056