汪兆銘

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汪兆銘(汪精衛)
プロフィール
出生: 1883年5月4日
光緒9年3月28日)
死去: 1944年民国33年)11月10日
日本の旗 日本愛知県名古屋市
出身地: 広東省広州府三水県
職業: 政治家・革命家
各種表記
繁体字 汪兆銘(汪精衛)
簡体字 汪兆铭(汪精卫)
拼音 Wāng Zhàomíng (Wāng Jīngwèi)
ラテン字 Wang Chao-ming (Wang Ching-wei)
注音二式 Wāng Jàumíng
和名表記: おう ちょうめい(おう せいえい)
発音転記: ワン ヂャオミン (ワン ジンウェイ)
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汪 兆銘(おう ちょうめい、1883年5月4日 - 1944年11月10日)は中華民国の文人政治家[1]行政院長(第4代)・中国国民党副総裁[2]辛亥革命の父孫文の側近として活躍して党の要職を占め、国民党左派の中心人物として、独裁色の強い蒋介石とはしばしば対立した[2][3]

季新精衛(中華圏では「汪精衛」と呼ぶのが一般的である)[注釈 1]

知日派として知られ、1940年3月、南京新国民政府を樹立し、同年11月には正式に主席となった。1944年名古屋市にて病死[2]

広東省番禺の生まれ[1][2]。原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興市柯橋区)。著作に『汪精衛文存』などがある[2]

生涯

日本留学と革命運動への参加

汪(左)と陳璧君

光緒9年(1883年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれた。

日露戦争中の光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学した[1][2]。留学中に孫文の革命思想にふれて興中会に入り、光緒31年(1905年)8月、孫文の来日を機に中国革命同盟会に合流した[1][2]。汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務め、この頃から「精衛」という号を用いるようになった。日露戦後の汪は「心から日本を支持する」と述べ、一東洋人として日本の勝利に歓喜した[3]

光緒32年(1906年)6月、法政大学法政速成科を卒業。官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学専門部へ進み、革命運動を続けることとした。この頃、イギリス領マラヤのペナン島の有力華僑出身で、のちに汪の妻となる陳璧君も革命運動に参加している。

やがて清朝からの依頼を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれた。孫文は根拠地をフランス領インドシナの首府ハノイ、ついで英領マラヤシンガポールへと移した。汪は孫文から信頼を得ており、彼と行動を共にした。孫文がフランスへ去った後、汪はタイ王国以外は欧米の植民地支配下にあった当時の東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注いだ。汪は、「革命を志す者は、自己の身体を薪として4億の民に満ち足りた思いを味わわせることをめざすべき」と唱えた[3]

宣統2年(1910年)、汪は革命運動を鼓舞するため、清朝要人の暗殺を計画した[2]北京で写真屋になりすまし、密かに時限爆弾を用意、醇親王載灃をねらったが発覚し、未遂に終わった[2]。逮捕された汪は死刑を宣告され、自身もそれを覚悟していたが、その才能が惜しまれ、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向もあって罪一等を減ぜられ、終身禁固刑に処された[2]

辛亥革命とその後の動向

宣統3年(1911年)10月に革命軍が蜂起して勢力を広げるなか、11月には汪兆銘に清朝政府からの大赦が下り、釈放された[2]。12月、革命軍は南京を占領した[4]1912年民国元年)1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が成立した[4]。このとき、中華民国建国宣言の文章を起草したのが汪であった。2月には宣統帝が退位して清朝が崩壊、始皇帝以来の専制王朝体制が終わりを告げた(辛亥革命[4]。なお、この年、汪は革命運動の同志であった陳璧君と結婚している。

民国元年(1912年)3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、その後、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化した[2][4]フランスに渡って文学を学んでいた汪は帰国して、南北和議における南方派委員となり、袁世凱に深く接近して孫文との連携を画策したが、この動きは問題視されることもあった[1][2]。汪の工作は実らず、第二革命は失敗して、民国2年(1913年)、汪は再び渡仏し、孫文は日本に亡命した[2]。孫文は1914年6月、東京にて中華革命党を結成している。

民国5年(1916年)、広東政府要人となった汪は孫文をおおいに助け、民国6年には帰国して、孫文の下で広東政府の最高顧問を務めた[1][2]。民国7年(1918年)以降、袁世凱亡き後の北京政府の実権を握っていた北方軍閥の巨頭段祺瑞が、日本における原内閣の成立によって後ろ盾を失い、競争者である直隷派と争って敗れ、いったん失脚したものの、直隷派軍閥の曹錕が旧国会議員を買収して大総統となったことで国民の顰蹙を買い、奉天軍が北京に入城したものの民心が服さず段祺瑞の再出馬を要請するという混乱が生じた[5]。段祺瑞は広東にあった孫文を招請し、孫文は汪をともなって日本汽船に乗り込み、北京入りして提携を模索した[5]。孫文と汪は途中日本に立ち寄っている[5]

民国12年(1923年)、第一次国共合作成立後の汪は急進的な民族主義者として孫文にしたがい、国民党左派を率いて反帝国主義運動を積極的に推し進めた[2]。民国13年(1924年)、国民党中央執行委員となった[2]。汪はこのころ、覇権主義的な姿勢を強めた日本を「中国の災難、世界の不幸」とみなすようになり、「我々に残された唯一の道は、日本に抵抗することである」と述べ、日本に敵愾心をもつようになった[3]

汪兆銘は、国民党にあっては孫文直系の位置にあり、配下の有力者である陳公博周仏海はともに中国共産党の設立にかかわった[2][注釈 2]。民国14年(1925年)の孫文の死去に際しては、「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」との一節で有名な遺言を記した。汪はこれを、病床にあった孫文から同意を得たと伝えられる。

蒋介石との協力と対立

蒋介石と並び立つ汪兆銘

広州国民政府時代の容共路線

孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任した[1]。この政府(広州国民政府)は国民党右派を排除したもので、毛沢東中国共産党の党員も参加していた[2]。中国共産党中央委員候補であった毛を国民党中央宣伝部長代理に任命したのは汪であった[6]。広州政府は、列国からの承認は得なかったものの、国民党が直接掌握し、政治・軍事・財政・外交を統括する機関として来たるべき全国統一政権の規範となるものであった[7]。汪を委員長とする広州政府は、五・三〇事件から派生した香港海員スト(省港大罷工)の支援にみられるように民主的側面をもち、広州を国民革命の拠点とすることに成功した[2]。しかし、民国15年(1926年)3月、蒋介石戒厳令を布き、共産党員を逮捕し、ソビエト連邦顧問団の住居と省港ストライキ委員会を包囲する中山艦事件によって蒋とのあいだに対立が生じ、この事件によって蒋が国民党や軍において権勢を拡大したため、汪は自発的に職責を辞任してフランスに渡った[7]

1926年7月、蒋介石はみずから国民革命軍総司令となって、いわゆる「北伐」を開始した[2]。蒋を中心とする新右派は共産党抑圧を図ったが、共産党が譲歩して北伐に同意した[2]。また、すでに軍権を掌握した蒋介石は政権をも握ろうとして江西省南昌への遷都を図ったが、反蒋の左派と共産派はこれに抵抗し、民国16年(1927年)1月、武漢への遷都を強行した[2]。武漢国民政府の第二期三中全会では総司令職を廃して蒋介石を一軍事委員に格下げし、国民党と政府の大権を汪兆銘に託して蒋介石に対抗しようとした[2]

容共から反共へ-武漢国民政府時代-

1927年以前の汪兆銘

1927年4月1日の蒋介石の招電に応じ、4月3日に再帰国した汪は、中央常務委員、組織部長に返り咲いた[1]4月5日、汪は共産党の中心人物である陳独秀とともに「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも蒋総理の連共政策をうたがうことはできない」との共同声明を発表した[6][8]。この声明は、汪が国民党内でも蒋とのあいだに路線対立があることを公言し、共産党は汪との協力のもとで蒋排斥の立場にあることを示唆したことになる[8]。しかし、4月12日、蒋介石は反共クーデター(上海クーデター)を断行し、共産党弾圧に乗り出した[6]。これは、3月に南京入城を果たした国民革命軍が日本やイギリスの領事館、アメリカ合衆国系の大学などに侵入して略奪や暴行をはたらき、死傷者を出した事件(南京事件)の背後に、反帝国主義を掲げる中国共産党やソ連人顧問の使嗾とみられるものが多かったことに危機感を持ったためであった[6]

蒋はさらに4月18日南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢国民政府から離反した[9]。汪は武漢政府に残ったが、やがて共産党との決別を決意し、武漢にて清党工作を進めることとなった[10]6月1日スターリンからの新しい訓令が中国在留コミンテルン代表のインド人ロイのもとにもたらされた[10]。ロイはこの訓令を汪兆銘に示し、承認をせまったが、汪はこの内政干渉を含む訓令を拒否して共産党排除に動いた[10][注釈 3]。中国における革命運動の激化は、かえって汪兆銘をして共産党への警戒心を植え付けさせ、反革命の立場に立たせることとなったのである[1][10]7月13日、共産党は武漢政府から退去し、7月15日、中国国民党も従前の容共政策の破棄を宣言して第一次国共合作は崩壊した[10]

南京国民政府と反蒋運動

汪兆銘と閻錫山(1930年9月9日)
1930年頃の汪兆銘

「反共産党」の立場で汪と蒋の意見が一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野することで両政府は合体することとなった[10]。汪は新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に着いた。しかし、共産党による広州蜂起(広東コミューン事件)の混乱の責任をとるかたちで汪は政界引退を表明、再び渡仏した。国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が顕著になった[1][11]

民国17年(1928年)10月、国民党は中央常務委員会をひらき、立法・行政・司法・監察・考試の五院を最高機関とし、民衆運動を制限して一党独裁政治をおこなう国民政府を正式に発足させ、蒋介石が主席となった[11]。しかし、この政府は新軍閥の不安定な連合にすぎなかった[11]。実際、広西派の軍閥が反旗を翻したのを皮切りに各地で反蒋運動が起こったのである[11]。外遊していた汪は反蒋派から出馬を請われて民国18年(1929年)に帰国した[11]。翌1930年9月、北平(北京)で閻錫山を主席とする新国民政府が樹立され、各地の反蒋の政客がぞくぞくと北平に集まった[11]。そのなかに汪兆銘のすがたもあったが、北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権は1日で瓦解し、汪は国民党から除名処分を受けた[11]

汪はその後も反蒋運動をつづけ、しばらく香港に蟄居したのち、民国20年(1931年)5月、反蒋派の結集する広東臨時国民政府に参画した[1][2][12][13]。南京政府には蒋介石、宋子文張静江浙江財閥を背景にした一派が集い、広東政府には汪のほか、孫科許崇智唐紹儀ら反蒋勢力が集まり、広西派の軍人は反蒋介石の動きを強めた[13]

満州事変と蒋汪合作政権

1931年9月の柳条湖事件を契機として満州事変が起こると、汪は再び蒋政府と協力して日本に対峙する方針に転じた[1][14]。民国21年(1932年1月1日、汪と蒋を中心とし、孫科を行政院長とする南京国民政府(蒋汪合作政権)が成立した[1][2]。汪は蒋介石には軍事をまかせ、みずからは政務を分担した[2]1月28日、汪は南京国民政府の行政院長となり、鉄道部長も務めた[2][15]。同日、第一次上海事変が勃発した[15]。蒋介石は、これに対し、世界平和のために暴力を否定すると宣言するとともに長期抵抗の方針を示し、対日交渉を開始すると同時に洛陽への遷都を決定した[15]。汪は1月31日に蒋介石の方針を支持する講話を発表し、遷都は、日本の暴力に屈したのではなく、有効な抵抗を図るためであると国民に説明した[15]。同時に、日本との国交断絶には断固として反対しており、この方針を「一面抵抗、一面交渉」と表現した。2月15日には、「一面抵抗、一面交渉」と題する講演を行い、対日方針を全面的に開示した[15]。この年の3月、汪は、事変調査のために南京をおとずれたリットン調査団の一行とも面会している[16]

民国22年(1933年)、汪は外交部長を兼任した[2]。同年5月、汪は関東軍熱河作戦にともなう塘沽停戦協定の締結にかかわった[17]。実際に協定を締結したのは華北政権であったが、これは汪や孫科の承認のもとに結ばれたのである[17]。この協定は、実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった[15]

対日宥和路線と汪兆銘狙撃事件

タイムの表紙を飾る汪兆銘(1935年3月18日号)

汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めた。日本側では、広田弘毅外務大臣重光葵を外務次官とする和協外交は、「日満支三国の提携共助」によって対中国関係の改善を進めて平和を確保しようとする方向性をもっていた[18][注釈 4]。行政院長兼外交部長であった汪はこれに応じ、南京総領事の須磨弥吉郎に対し、満州国の承認には同意できないまでも、赤化防止の急務を高調して中国国民に満州問題を忘れさせる以外にないと語るまでに対日妥協姿勢を示した[18]

民国24年(1935年11月1日、汪兆銘は、国民党六中全会の開会式の記念撮影の際に狙撃された。汪は3発の弾を受けたが急所は外れており、生命に別状はなかった。ただし、このとき体内から摘出できなかった弾が、のちに骨髄腫の原因となり、汪の死期を早めたとされる。犯人一味はただちに捕らえられた。汪の対日外交への不満が犯行動機とされている[19]

療養のため汪は、民国25年(1936年)2月にヨーロッパへ渡り、友好国でもあるドイツで療養を行い、政府関係者とも交流を持って、翌年の民国26年(1937年)1月、中国に帰国した。

日中戦争と汪兆銘工作

民国26年 (昭和12年、1937年)7月、日中戦争(シナ事変)が始まった。徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害と中国の国力の低迷に心を痛め、「反共親日」の立場を示し、和平グループの中心的存在となった[2][3][20]。日本は、つぎつぎに大軍を投入する一方、外相宇垣一成がイギリスの仲介による和平の途を模索していた[21]。しかし、宇垣工作は陸軍の出先や陸軍内部の革新派からの強い反対を受け、頓挫した[21]。12月、日本軍は国民政府の首都南京を占領した。

トラウトマン工作の失敗を受けた近衛内閣は、軍部の強硬論の影響もあって、1938年1月に「今後は蒋介石の国民政府を交渉の相手にしない」という趣旨の近衛声明(第一次)を発表した[22][23]。南京占領後、日中戦争は徐州作戦武漢作戦広東作戦を経て戦争は長期持久戦となっていった[22]

民国27年(1938年)3月頃からは日中両国の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」へと発展した[20][21]。汪兆銘は、早くから「焦土抗戦」に反対し、全土が破壊されないうちに和平を図るべきだと主張していた[20]。汪とその側近である周仏海の意を受けた高宗武が渡日して日本側と接触、高の会談相手には参謀次長の多田駿も含まれていた[21]

1938年10月12日、汪はロイター通信の記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった[20]。日本では、11月3日に近衛文麿が「東亜新秩序」声明を発表していた(第二次近衛声明[23][24]。これは、日本が提唱する東亜新秩序に参加するならば、蒋介石政権であっても拒まないことを示しており、第一次声明の修正を意味していた[23][24]。一方、陸軍参謀本部今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる[25]

11月、上海で、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した参謀本部の今井や影佐禎昭との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「東亜新秩序」の受け入れや中国側の満州国の承認がなされれば日本軍が2年以内の撤兵することなどを内容とする「日華協議記録」を署名調印した[25][21][23]。そして、日華防共協定がむすばれるならば、日本は治外法権を撤廃し、租界返還も考慮するとされたのである[23]

この合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した[21]。汪兆銘は、このまま戦争が長引けば必ずや亡国に至るであろうと判断して重大な決断を下したのであるが、それでもなお、最終的な調印条件がもたらされた後になって、急にこれまでの決定をすべて覆して検討したいと述べるなど、その決断には大きな動揺をともなった[21]

12月18日、汪はついに重慶脱出を決行、昆明を経て、12月20日仏領インドシナの首府ハノイに着いた[21][23][26]。汪の脱出に前後して、陳公博陶希聖梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した[26]。しかし汪にとって期待はずれだったのは、昆明の竜雲、四川の潘文華第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちが、誰ひとりとして汪の呼びかけに応じなかったことである[20][23]。さらに打撃だったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)である[23]。声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、結果として汪グループに強い失望をいだかせた。

12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた[23]。これは、韻目代日による「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる[23][26]。ここで汪は「もっとも重要な点は、日本の軍隊がすべて中国から撤退するということで、これは全面的で迅速でなけらばならない」と述べ、それ以前の日本側との交渉内容を踏まえたものではあったが、汪に続く国民党幹部は決して多くなく、日本軍撤退もなかった[23]。蒋政権はこれに対し、ただちに汪を国民党から永久除名し、一切の公職を解いた[23][26]。日本では、民国28年(1939年)1月、近衛文麿が突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫してしまった[23]

当初の構想に変更を余儀なくされた汪は、しばらくそのままハノイに滞在した。民国28年(1939年3月21日、暗殺者がハノイの汪の家に乱入、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した。国民党が放ったとされる刺客は汪をねらったが、たまたま当日は汪と曽が寝室を取り替えていたため、曽が身代わりに犠牲になったものだった。日本側は、ハノイが危険であることを察知し、汪をハノイから脱出させることとした。影佐禎昭犬養健らがこの工作に携わり、4月25日、汪はハノイを離れて香港に移り、5月6日上海に到着した[26]

新国民政府の成立

汪兆銘を支持する政権側の標語

一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意するに至った[27]。これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものだった。

上海に移った汪は、ただちに日本を訪問し、新政府樹立への内諾を取り付けた。1939年8月28日より、国民党の法統継承を主張すべく上海で「第六次国民党全国大会」を開催、自ら党中央執行委員会主席に就任した。そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)が三分の一、王克敏臨時政府梁鴻志維新政府が両方で三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった[27]

次いで10月、新政府と日本政府との間で締結する条約の交渉が開始された。しかし日本側の提案は、従来の近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪工作への関わりが深い関係者も「権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった」[28]、「十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」[29]と回想している。

あまりの過酷な条件である華日新関係調整要綱に、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したほどであった。また民国29年(1940年)1月には、汪新政権の傀儡化を懸念する高宗武、陶希聖が和平運動から離脱して「内約」原案を外部に暴露する事件も生じたが、最終的には日本側が若干の譲歩を行ったこともあり、汪はこの条約案を承諾することとなった。

民国29年(1940年)3月30日南京国民政府の設立式が挙行された[1][22][24][27][30][注釈 5]。汪は、重慶政府との合流の可能性をも考慮して、当面のこととして新政府の「主席代理」に就任した(民国29年(1940年)11月「主席」就任)[27]。新政府では妻の陳璧君も重要な役割を果たした。また、戦後日本の総理大臣を務めた福田赳夫は汪兆銘政権の財政顧問であり、のちに中華人民共和国主席となった江沢民の父(江世俊)は、汪の南京国民政府の官吏であった。汪兆銘政権は、1940年11月30日、日華基本条約と日満華共同宣言に調印した[27]

新政権は誕生したものの、結局は汪の意図したような「重慶政府との和平」は実現せず、蒋政権と日本の戦争状態はつづいた[2]。一方で外交もおこない、満州国はもとより、1941年にはドイツとも外交関係をひらいた[27]。汪は、こののち重慶政府と日本との和平折衝のため数度訪日しており、民国31年(1942年)12月の訪日時には、大勲位菊花大綬章を授与された。

アメリカとの対立を深めた日本は、1940年11月、野村吉三郎を駐米大使として和平交渉にあたらせたが事態は好転しなかった[31]。民間においても日米和平が模索され、アメリカが日本軍の中国からの撤退と満州国承認を前提に汪兆銘・蒋介石両政権の合流をはかるという案には近衛も陸軍も賛成したが、アメリカ政府はこれに合意をあたえなかった[31]

太平洋戦争と汪政権

東條英機と汪兆銘(1942年12月)

民国30年(1941年12月8日太平洋戦争が始まったが、汪は事前に日本の開戦について知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けたという。汪は日本の国力では米英に対抗できないとの判断から開戦には反対だったが、結局は汪政権も枢軸国側として参戦することになり、民国32年(1943年)1月、米英に対し宣戦布告した[32]。同時に日本は汪兆銘政権との間に租界還付、治外法権撤廃の協定を結び、米英もその直後、蒋介石政権との間で不平等条約による特権を放棄する新条約を結んだ[32][33]。これにより中国は、中立国とヴィシー政権以外のあいだに結ばれていた不平等条約をすべて解消することとなった[32][33]

この年の8月にビルマ、10月にフィリピン自由インド仮政府をそれぞれ承認した日本は、同時に各国と同盟条約を結んだ[34][35]。汪兆銘政権とは10月30日日華同盟条約を結び、付属議定書では戦争状態終了後の撤兵を約束した[2][34][35]

同年11月5日から6日まで、東京では大東亜会議が開かれた[2][34][35]。汪は南京国民政府代表としてタイやビルマ、フィリピン、満州国、自由インドといった他のアジア諸国の首脳とともに出席した[2][34][35]。上述の独立承認・同盟条約締結の措置は、ここで調印・発表された大東亜宣言の前提をなすものであった[34]。なお、島本真の備忘メモによると、大東亜省ならびに中華民国国民政府の要請により、南京、上海蘇州において中華民国滑空士指導者講習会も行ったという。

汪兆銘の死とその後の南京国民政府

民国33年(1944年)に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。汪は若い頃から体質的な糖尿病を病んでおり、これが症状をさらに悪化させていた。3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院、多発性骨髄腫と診断された。汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。61歳。汪は晩年には家族に対して、「日本人に本当の友人はいない」と嘆いていたとも伝えられる。夫人の陳璧君は「魂兮帰来(祖国に帰ってきた魂)」の4字を書いて、夫の霊に捧げた[3]

遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭首相・重光葵外相ら当時の政府閣僚、近衛文麿東条英機重臣などが見送りに訪れた。南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリートで覆いがされた。

汪の後任の南京国民政府主席には汪の渡日以来主席代理を務めていた陳公博が就任した。国民政府は、ポツダム宣言受諾が公表された翌日の1945年8月16日に解散した[36]。日本占領下で治安維持にあたっていた南京国民政府の要人は、蒋介石によって叛逆罪として処刑された[37]。そのなかの一派は、姓名を変えて共産軍へと走った[37]

日本敗戦後の民国35年(1946年1月15日、国民党第七四軍は汪の墓を被覆したコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。遺体はまもなく火葬された後、遺灰は原野に廃棄されたという。「漢奸」(対日協力者)の墓を残すわけにはいかないとの考えからとみられる[38]

人物像

若い頃の汪兆銘は長身の美男子であり、スーツを好んで着こなしていた。

満州事変後、リットン調査団に同行したハインリッヒ・シュネーが南京国民政府の行政院長だった汪兆銘と会見した印象を書き残している(「満州国」見聞記)[16]。それによれば、汪の経歴を調べたシュネーは、会う前には断固たる決意をもった狂信的革命家であろうと想像していたのに反し、実際に会ったら、親しみやすく、柔和かつ魅力的な紳士であり、弁論、文学、芸術の能力がある「理想的タイプの人間」という印象をもった[16]。そして、「このような人物から、使徒や殉教者、また場合によっては宗教の創始者が出てくるのではないか」とさえ記して、その人柄に惚れ込んでいる[16]。さらに、汪が清朝要人暗殺の罪状で死刑が下されたのち、罪一等が減じられたのも、その周囲の好感を呼ぶ人柄、また、理想に燃えた、素質のすぐれた人物であることが影響したのではないかとしている[16]

一方、中国国民党の陳立夫は、汪は領袖中の領袖であることを自認していたが、抗日戦争に勝つ自信のない根っからの敗北主義者であったとし、頭脳明晰であったが人の上に立ちたがる欠点があったと自らの回想録(『成敗之鑑』)に記している[26]

政治上のライバルであった蒋介石は、南京に日本の傀儡政権をつくった汪兆銘について、1938年12月22日付の日記に軽蔑の念をこめて「図らずも、汪精衛のでたらめと卑劣さはここに至った。まことに救うべき薬はない」と記している[26]

家族

  • 妻:陳璧君
  • 子女
    • 汪文嬰(長男):アメリカ合衆国西海岸に移住
    • 汪文惺(長女):アメリカ合衆国東海岸に移住
    • 汪文彬(次女):インドネシアに移住。医師、カトリック教会修道女
    • 汪文恂(三女):香港に移住。香港大学講師
    • 汪文靖(次男):アメリカ合衆国にて夭逝
    • 汪文悌(三男):香港に移住。建築家
  • 妻の兄弟姉妹
    • 陳耀祖(陳璧君の弟):広東省主席
    • 褚民誼(陳璧君の妹陳舜貞の夫):駐日大使、広東省主席
    • 陳昌祖(陳璧君の弟):汪兆銘の祖国脱出を追ってハノイに行き、以後ともに行動

評価

中国では、対日協力政権に関わったり、日本側に協力したりした人物を「漢奸」と呼称し、民族の裏切り者、売国奴として扱われるのが一般的であり、汪兆銘はその典型的な例、すなわち「日本に寝返った最悪の裏切り者」とされる[3][39][40]。さらに、汪兆銘の政権は、中国においては「偽」の字を冠して「汪偽政権」のように表記されることが多い[39][注釈 6]。中国出身の歴史学者劉傑は、「日本人が汪兆銘を愛国者と評価することはもちろんのこと、彼に示した理解と同情も、中国人から見れば、歴史への無責任と映るのかも知れない」と述べている[41]

ただし、劉傑は一方では中国の国力の低迷を嘆いて日本軍占領地での「和平工作」にすべてを賭けた彼を、「現実的対応に徹した愛国者」として評価しており、少数ながら肯定的に汪政権をとらえる見方がないわけではない[3]。そして、実際上も汪兆銘政権が米英に宣戦布告したことが、日本側さらに米英の不平等条約解消につながるなど中国の主体性確保と国際的地位の向上に寄与した一面もある[32]。汪兆銘政権の経済関係省庁の文書をみると、水利建設などでは一定の主導性を有しており、また、日本国内の華僑のうちのほとんどは汪兆銘政権の管轄下にあり、東南アジアにおける日本占領下の地域に住む中国籍の人びとについても同様であった[42]

著作

  • 『汪兆銘全集』(和訳:河上純一訳、東亜公論社、1939年)
  • 『汪主席和平建国言論集』中央書報発行所、1940年
  • 『中国の諸問題と其解決』(和訳:日本青年外交協会研究部訳編、日本青年外交協会出版部、1939年)
  • 『日本と携へて』(和訳:黒根祥作訳、朝日新聞社、1939年)
  • 『汪精衛自敍伝』(和訳:安藤徳器編訳、講談社、1941年)
  • 『全面和平への道』(和訳:東亜聯盟中国総会編、改造社、1941年)
  • 『汪主席訪日言論集』上海特別市政府秘書処、出版年不明
  • 『双照楼詩詞藁』

伝記

  • 森田正夫『汪兆銘』(興亜文化協会 昭和14年(1939年))
  • 山中徳雄『和平は売国か  ある汪兆銘伝』(不二出版 平成2年(1990年))
  • 杉森久英 『人われを漢奸と呼ぶ 汪兆銘伝』(文藝春秋 平成10年(1998年))
  • 上坂冬子 『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実』(各(上・下)、講談社 平成11年(1999年)、文春文庫 平成14年(2002年))

脚注

マレーシアにて
後列左から2人目が汪、その左が陳璧君

注釈

  1. ^ 戦前・戦中期の日本でも、「汪精衛」の呼称を使用する例は決して少なくなかった。東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社(昭和16年)や『写真週報』などの出版物、さらに週間ニュース映画「日本ニュース」などでも「汪精衛」と表記している。
  2. ^ 陳公博と周仏海は、のちに国民党に転向して、さらに汪兆銘とともに「漢奸」として非難された。
  3. ^ 革命軍将校の土地を除いて土地革命を遂行しせよ。信頼できない将校を一掃し、2万人の共産党員を武装し、5万人の労農分子を選抜して新しい軍隊を組織せよ。国民党中央委員会を改造し、古い委員を労農分子に交代させよ。著名な国民党員を長とする革命法廷を組織して反動的な将校を裁判にかけよ、というのがコミンテルンからの訓令であった。小島・丸山(1986)p.119
  4. ^ 広田の和協外交は、列強の勢力を中国から排除する指向をもっていたと同時に、陸軍の中国政策に単純に追随するものではなく、政府による外交の自主性を保持しようというものであった。有馬(2002)p.199
  5. ^ 国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった。川島(2018)p.165
  6. ^ 日本敗戦後、中国では日本軍民に対する戦犯裁判とは別に、中国人の漢奸を摘発して「漢奸裁判」を行い、汪兆銘政権の要人はその多くが銃殺刑に処せられた。川島(2018)pp.148

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 里井(1975)p.155
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah コトバンク「汪兆銘」
  3. ^ a b c d e f g h 劉傑(2000)p.28
  4. ^ a b c d 小島・丸山(1986)pp.69-72
  5. ^ a b c 宮崎(1978)pp.559-562
  6. ^ a b c d 有馬(2002)pp.79-82
  7. ^ a b 小島・丸山(1986)pp.110-112
  8. ^ a b 保阪(1999)pp.119-123
  9. ^ 小島・丸山(1986)pp.115-118
  10. ^ a b c d e f 小島・丸山(1986)pp.118-120
  11. ^ a b c d e f g 小島・丸山(1986)pp.123-125
  12. ^ 小島・丸山(1986)pp.125-127
  13. ^ a b 保阪(1999)pp.151-153
  14. ^ 小島・丸山(1986)pp.139-141
  15. ^ a b c d e f 劉傑(1999)pp.150-158
  16. ^ a b c d e シュネー(2002)pp.68-77
  17. ^ a b 保阪(1999)pp.159-161
  18. ^ a b 有馬(2002)pp.197-201
  19. ^ 動機は対日外交反対派の暴挙と判明 政局に一大暗影を投じたが蒋、汪合作却って強化 汪氏狙撃事件の波紋”. 大阪朝日新聞. 神戸大学 (1936年11月2日). 2011年11月2日閲覧。
  20. ^ a b c d e 小島・丸山(1986)pp.170-172
  21. ^ a b c d e f g h 有馬(2002)pp.218-222
  22. ^ a b c 大門(2009)pp.110-112
  23. ^ a b c d e f g h i j k l m 川島(2018)pp.162-165
  24. ^ a b c 森(1993)p.130
  25. ^ a b 今井(1964)p.85
  26. ^ a b c d e f g 保阪(1999)pp.195-197
  27. ^ a b c d e f 川島(2018)pp.165-167
  28. ^ 今井(1964)p.103
  29. ^ 影佐(1966)
  30. ^ 森(1993)p.164
  31. ^ a b 森(1993)p.171
  32. ^ a b c d 川島(2018)pp.167-169
  33. ^ a b 小島・丸山(1986)pp.182-184
  34. ^ a b c d e 有馬(2002)pp.295-299
  35. ^ a b c d 森(1993)pp.249-251
  36. ^ 「汪精衛政権の基盤強化の戦略」土屋光芳(明治大学政経論叢第77巻第5・6号2009.3.30)[1][2]PDF-P.3に記述あり
  37. ^ a b 宮崎(1978)pp.568-572
  38. ^ 劉傑(2000)『漢奸裁判――対日協力者を襲った運命』(2000)
  39. ^ a b 川島(2018)pp.145-149
  40. ^ 【世界史の遺風】(62)汪兆銘 「漢奸」と断罪された「愛国者」1/4木村凌二
  41. ^ 【世界史の遺風】(62)汪兆銘 「漢奸」と断罪された「愛国者」4/4(木村凌二)
  42. ^ 川島(2018)pp.169-170

参考文献

  • 有馬学『日本の歴史23 帝国の昭和』講談社、2002年10月。ISBN 4-06-268923-5 
  • 今井貞夫『幻の日中和平工作 軍人今井武夫の生涯』中央公論事業出版、2007年11月。ISBN 4895142949 
  • 今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964年10月。ASIN B000JAF7EU 
  • 大門正克『日本の歴史第15巻 戦争と戦後を生きる』小学館、2009年3月。ISBN 978-4-09-622115-0 
  • 影佐禎昭「曾走路我記」『現代史資料13 日中戦争』みすず書房、1966年。ASIN B000J9I1DA 
  • 上坂冬子『我は苦難の道を行く 汪兆銘の真実 上巻』講談社、1999年10月。ISBN 4-06-209928-4 
  • 川島真「「傀儡政権」とは何か-汪精衛政権を中心に-」『決定版 日中戦争』新潮社〈新潮新書〉、2018年11月。ISBN 978-4-10-610788-7 
  • 小島晋治丸山松幸『中国近現代史』岩波書店岩波新書〉、1986年4月。ISBN 4-00-420336-8 
  • 小林英夫『日中戦争と汪兆銘』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2003年6月。ISBN 4642055584 
  • ハインリッヒ・シュネー 著、金森誠也 訳『「満州国」見聞記』講談社〈講談社学術文庫〉、2002年10月。ISBN 4-06-159567-9 
  • 里井彦七郎 著「汪兆銘」、日本歴史大辞典編纂委員会 編『日本歴史大辞典2 え―かそ』河出書房新社、1979年11月。 
  • 保阪正康『蒋介石』文藝春秋文春新書〉、1999年4月。ISBN 4-16-660040-0 
  • 宮崎市定『中国史 下』岩波書店〈岩波全書〉、1978年6月。 
  • 森武麿『日本の歴史20 アジア・太平洋戦争』集英社、1993年1月。ISBN 4-08-195020-2 
  • 劉傑『中国人の歴史観』文藝春秋〈文春新書〉、1999年12月。ISBN 4-16-660077-X 
  • 劉傑「汪兆銘」『朝日クロニクル 週刊20世紀-1944(昭和19年)』朝日新聞社、2000年8月。 
  • 劉傑『漢奸裁判――対日協力者を襲った運命』中央公論新社中公新書〉、2000年。 

関連項目

外部リンク

 中華民国の旗 中華民国国民政府
先代
胡漢民
(広東大元帥府大元帥)
広州国民政府主席委員
1925年7月 - 1926年3月
(1926年、譚延闓代理)
次代
(武漢国民政府主席に
改組)
先代
(広州国民政府から改組)
武漢国民政府主席
1926年12月 - 1927年8月
次代
(南京国民政府に合流)
先代
集団指導制:胡漢民ら4名
南京国民政府常務委員
1927年9月 - 1928年1月
(集団指導制:譚延闓胡漢民
蔡元培李烈鈞
次代
集団指導制:汪兆銘ら9名
先代
集団指導制:汪兆銘ら5名
南京国民政府常務委員
1928年1月 - 2月
(集団指導制:譚延闓胡漢民
蔡元培李烈鈞于右任蒋介石
孫科林森
次代
集団指導制:譚延闓ら5名
先代
(創設)
広東国民政府常務委員
1931年5月 - 1932年
(集団指導制:唐紹儀古応芬
鄧沢如孫科
次代
(廃止)
先代
孫科
行政院長
1932年1月 - 1935年12月
1932年8月 - 1933年3月
宋子文代理、
1935年7月 - 12月孔祥熙代理)
次代
蒋介石
先代
羅文幹
外交部長(署理)
1933年8月 - 1935年12月
次代
張群
  南京国民政府(汪兆銘政権
先代
(創設)
主席
1940年3月 - 1944年11月
(1940年11月まで代理)
次代
陳公博
先代
(創設)
行政院長
1940年3月 - 1944年11月
次代
陳公博