渡辺省亭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
「花鳥魚蝦畫冊」 画帖21図の1点 絹本着色 メトロポリタン美術館所蔵 明治20年頃
「四季花鳥図」4幅対のうち「夏(藤・鯉・金魚)」 クラクフ国立美術館所蔵 明治24年(1891年
「Roosters, Chicks, and Morning Glories」 絹本著色 ウォルターズ美術館所蔵 1890-1900年頃

渡辺 省亭(わたなべ せいてい、嘉永4年12月27日1851年1月18日) - 大正7年(1918年4月2日)は、明治時代から大正時代にかけての日本画家。洋風表現を取り入れた、洒脱な花鳥画を得意とした。

伝記[編集]

生い立ち[編集]

菊池容斎の門人。本姓は吉川、名は義復(よしまた)、俗称は良昭、幼名は貞吉、後に政吉。通称は良助。省亭は号。一昔前は専門家でも「しょうてい」と読んでおり、当ページの英語・仏語版でもそちらに従っている。しかし、省亭の末裔にあたる人々は「せいてい」と読んでおり、渡欧中の省亭に触れたフランスの文献でも「Sei-Tei」と紹介されていることから、「せいてい」が正しい。なお息子に俳人渡辺水巴がいる。

代々秋田藩廻船問屋を務める吉川家[1]に、吉川長兵衛の次男として、江戸神田佐久間町に生まれる。父は、前田夏蔭の門人で和歌を嗜んでいた。8歳の時、父が没し兄に養われる。13歳の時、牛込質屋奉公に出るが、絵ばかり描いてそれがなかなか上手かったため、店の主人が親元を説得し、16歳で容斎に弟子入りする。

容斎の教育[編集]

同門に松本楓湖梶田半古鈴木華邨三島蕉窓らがいる。容斎の指導は一風変わっており、そして極めて厳しかった。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられた。楷書王羲之かな藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言える。

ところが3年経つと、容斎は反対に放任主義を取った。容斎は粉本は自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を強く求めた。弟子時代の逸話として、容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという[2]。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想している。こうした厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていく。一説に、元々省亭は是真に弟子入りしようとしたが、菊池容斎の方がいいだろうという是真の紹介で、容斎に入門することになったという[3]。こうして容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継ぐ[4]

図案家として[編集]

明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職。濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨かれていく。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で、起立工商会社のために製作した金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得。これを機に、起立工商会社の嘱託社員として[5]パリに派遣された[6]。これは日本画家としては初めての洋行留学である。メンバーは副社長の若井兼三郎ら7名で、その中には林忠正もいる。省亭はこの時洋装ではなく、「法被股引」姿で欧州へ出かけたという[7]

印象派との交流[編集]

パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明だが[8]、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加している。エドモン・ド・ゴンクールの『日記』によると、1878年10月末から11月末頃に、省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたと逸話が見える[9]。また、同じくゴンクールの「ある芸術家の家」では、省亭がこの時の万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝えている。他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載されている[10]。省亭は彼らとの交流の中で、特にブラックモン風の写実表現を取り込み、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたと見られる。

帰国後の活躍[編集]

明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技三等賞を受賞。明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分からない。しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなる。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明される。ただし、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もある。

挿絵・口絵での省亭[編集]

省亭の本分はあくまで肉筆主体の日本画家であったが、他方で木版画口絵挿絵にもその才能を示し、庶民にはその分野で評判が高かった。挿絵の最初は、シェイクスピアジュリアス・シーザー』を坪内逍遥が翻訳した『該撒(しいざる)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』[11]とされる[12]。明治22年(1889年)刊行の山田美妙の小説『胡蝶』において裸婦を描いて評判となるが、後のいわゆる裸体画論争と端緒となった。翌年に『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行、鷺草桜草夾竹桃芍薬などを華麗に描いている。同じ明治23年(1890年)から明治27年(1894年)1月にかけて春陽堂より発行された『美術世界』全25巻では、編集主任として尽力する。『美術世界』は、「現存諸名家の揮毫を乞いて掲載」し「後進に意匠修練の模範」となるべく企画された美術雑誌で、実際に川辺御楯滝和亭、松本楓湖、三島蕉窓、久保田米僊菅原白龍月岡芳年荒木寛畝河鍋暁斎鈴木松年小林永興森川曾文今尾景年幸野楳嶺原在泉など流派にとらわれず多くの画家が描いている。末尾の論説は川崎千虎が執筆し、省亭自身は古画の縮模を担当する一方で自作も画家たちの中で最も多く手がけ、最後の第25巻は省亭花鳥画特集となっている。印刷も当代一流の彫師摺師と協力した美しい多色摺木版で印刷され、明治の美術雑誌の中でも格調高いものとして知られる。

自娯の晩年[編集]

師・容斎とは対照的に弟子を取らず(水野年方が1,2年入門しただけという)、親友と呼べる画家は平福穂庵平福百穂の父)と菅原白龍くらいで、一匹狼の立場を貫いた。これは容斎が、他人の悪口ばかり言いあう画家と交際するよりも一芸に秀でた者と交われ、との教えを守ったためとする説もあるが、単に省亭の性向によるものにも見える。そのため言いたいことは歯に衣着せずに言え、大正2年(1913年)第7回文展に出品された竹内栖鳳横山大観川合玉堂らの作品を、技法・技術面から画家の不勉強と指摘している。例えば、今日名作とされる栖鳳の「絵になる最初」(京都市美術館蔵)を、「先ず評判の栖鳳を見ましたね、いけない、あれは駄目だ、此前の「あれ夕立に」か、あれもそんなに佳いとは思わなかったが、今のよりはずっとよかった、あの時丈が一寸足りないと思ったが、今のは又ひどい、第一着物がいけませんよ、どうも塗り損なひぢゃないかと思う、それでなければ衣文の線がもっと見えなけりゃならない、一体あの紺と云う色は日本絵の具にはないのだからね、きっとありゃ塗り損ひだよ、うまく行かないから濃い墨で塗りつぶす、其上に藍をかけると丁度あんな紺に見えます、私もよくやった覚があるが……ハッハッ、それにあの手が骨ばって、女の手は肉で包んでなけりゃね、栖鳳と云う人は動物は描けるが人物は描けない人らしい、顔は大いし髪が又ひどいし、髪は生際が一番でね、西洋画ならいいが日本画ぢゃ生際が出来なければ髪が描けるとは云はれない、それから上方ではどうか知らぬがあの中を障子にして、上下にキラキラの型紙のある……あれは東京では引出茶屋にしか有りません、キラキラの型紙と云う奴がまた一番安っぽいものでね……」と談じている[13]

省亭は悠々自適な作画制作を楽しんだ後、日本橋浜町の自宅で68歳で亡くなった。墓所は台東区の潮江院。法名は法華院省亭良性修良居士。省亭の忌日を、親しい人々は花鳥忌と呼んだという。省亭の作品は当時の来日外国人に好まれ、多くが海外へ流出した。メトロポリタン美術館ボストン美術館大英博物館ヴィクトリア&アルバート博物館ライデン国立民族学博物館ベルリン東洋美術館ウィーン工芸美術館など、多くの国外美術館・博物館に省亭の作品が所蔵されている。

作品[編集]

肉筆[編集]

作品名 技法 形状・員数 所有者 年代 落款・印章 備考
花鳥魚蝦畫冊 絹本着色 画帖21図 メトロポリタン美術館 1887年(明治20年)頃
美人図 絹本着色 1幅 青梅市立美術館 1887-96年(明治20年代)
雪中群鶏図 絹本着色 1幅 東京国立博物館 1893年(明治26年) シカゴ万博博覧会出品
雪中牡丹に雀図 絹本着色 飯田市美術博物館 1898年(明治31年)
Roosters, Chicks, and Morning Glories 絹本著色 1幅 ウォルターズ美術館 1890-1900年頃
雪中鴛鴦之図 絹本着色 1幅 東京国立近代美術館 1909年(明治42年)
花鳥画帖迎賓館七宝額下絵帖 絹本着色 30図 東京国立博物館 1907-12年(明治40年代) 赤坂離宮饗宴之間(現迎賓館大食堂)壁に埋め込まれる七宝細工による額絵の下絵。荒木寛畝と競作。
不忍の蓮・枯野牧童図 絹本着色 双幅 根津美術館 明治後期
幽女図 1幅 全生庵
十二枚花写し 絹本著色 12幅 福島県桑折町種徳美術館
Flowers of the twelve months 絹本著色 六曲一双 アシュモレアン博物館
Twelve Seasons 絹本著色 六曲一双 ニューオリンズ美術館
Night Heron and Willow with Crescent Moon 絹本著色 1幅 ロサンゼルス・カウンティ美術館 1900年(明治33年)頃
木版画
  • 「省亭花鳥 額草」 彩色 ムラー・コレクション 大正5年(1916年)
  • 「省亭花鳥 銀杏に鴉」 彩色 ムラー・コレクション 大正5年(1916年)
  • 「省亭花鳥 鶏」 彩色 ムラー・コレクション 大正5年(1916年)
  • 「省亭花鳥 月に女郎花」 彩色 ムラー・コレクション 大正5年(1916年)

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 大野静方 『浮世絵と版画』 大東出版社、1942年1月。
  2. ^ 市橋(1928)pp.66-71
  3. ^ 岡田梅邨 「渡辺省亭の逸事」書画骨董雑誌244、昭和3年11月。なお後の鏑木清方は、酒井抱一柴田是真を経て省亭に至る流れを想定している(「渡辺省亭先生の画」『中央美術』1918年5月)。
  4. ^ 「渡辺省亭自筆画歴」(岡部(2007)p.225)。
  5. ^ 同じ起立工商会社で図案を描いていた琳派の画家・山本光一との抽選に勝って決まったという。
  6. ^ 大正7年4月に掲載された省亭の訃報記事では明治9年(1876年)にヨーロッパに遊学したとあるが、上記のようにこの時省亭は日本で活動しており、明らかに間違いである。
  7. ^ 市橋(1928)pp.75-76
  8. ^ 外務省に残る「海外行免状表」では、省亭への査証発行は明治11年2月で、返納は明治13年5月とあるが、訃報記事では3年とある。
  9. ^ 「小禽図」(マサチューセッツ州 スターリン・アンド・フランシーヌ・クラーク美術館蔵)。作品の左下には、毛筆で「ドガース君へ 省亭席画」と書かれている(横浜美術館他編集 『ドガ展』図録、2010年、19頁)。
  10. ^ ただし、芳翠の挿絵は掲載されているが、省亭のものは1点もない。
  11. ^ 近代デジタルライブラリーに掲載あり(外部リンク)。
  12. ^ 渡辺圭二 「渡辺省亭ノート」(『美術館だより』 弥生竹久夢二美術館、1998年6月。
  13. ^ 碧雲居生「名家探訪記(三) 渡邊省亭氏」『美術新報』 第十三巻第二号、1913年12月10日、p.89。

参考図書[編集]

雑誌論文
  • 岩切信一郎 「渡邊省亭考」、『一寸』 書痴同人、第22号、2005年4月
  • 美術誌『Bien(美庵)』Vol.34(2005年9・10月号 藝術出版社) 特集「忘れられた明治の画家を再評価せよ!!」(柴田是真小林永濯・渡辺省亭・尾形月耕山本昇雲) 執筆・悳俊彦 ISBN 4-434-06595-5
  • 岡部昌幸 「花鳥忌・渡辺省亭回顧─令息渡辺水巴、作品所在、美術世界自筆履歴」、帝京大学文学部史料科 『帝京史学』第22号、2007年2月、pp.191-247
  • 小金沢智 「渡辺省亭とその時代 ─『美術世界』覚書─」、明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻 『バンダライ』7号所収、2008年
  • 野地耕一郎 「近代初期「日本画」における西洋絵画表現の直接的受容 ─渡邉省亭の行跡をめぐって」、成城大学大学院文学研究科 『美学美術史論集』19号所収、2011年
美術全集
展覧会図録

関連項目[編集]

  • 渡辺水巴 - 息子、俳人。父譲りの達者な筆で絵を描き、しばしば父を追憶した文章を残している。例えば『燈影禮讃』では、父から「扇子は折目が大切なのである。その折目の高低に乗ってすらすらと筆を運べなければ、扇面に書く資格は無い。おまえのように一本一本お猪口にしては、こちらから見ていると如何にも無作法だし、それに折目が痛まぬとも限らない」と教わったと回想している。
  • 濤川惣助 - 七宝家。しばしば下絵を提供している。

外部リンク[編集]

  • 容斎派梁山泊(容斎派系図)[1]
  • Giovanni Peternolli: l'arte di Watanabe Seitei [2]