吉薗周蔵

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吉薗 周蔵(よしぞの しゅうぞう、明治27年(1894年)5月12日 - 昭和39年(1964年)10月)は、元帥陸軍大臣上原勇作個人付き陸軍特務を務めた人物。

「吉薗周蔵手記」という、陸軍特務時期の活動内容を記した手記を残している。

略歴[編集]

生い立ち[編集]

明治27年(1894年)5月12日、宮崎県西諸縣郡小林村(現在の宮崎県小林市)生まれ。父は吉薗林次郎、母はキクノ。吉薗家は山林を持ち、たばこなどの商品作物を栽培している富農であった。

周蔵は算数、数学、物理の能力に長けており、数学は独学で知識を深めていた。

陸軍特務(諜報活動従事者)となるまで[編集]

明治39年(1906年)に飛び級で宮崎県立都城中学校(旧制中学校)に入学したが、教えられる数学のレベルが低く他の教科にも興味が湧かなかったために10日間で退学してしまう。

その後、明治43年(1910年)に祖母のギンヅルが海軍大将の山本権兵衛と昵懇であったことから、特別に熊本工業学校の受験資格を得ることができたが、受験日の前日に友人たちと共に登楼して夜を明かしてしまい受験できずに終わってしまう。

熊本工業学校に入学ができず、地元に帰ることも憚って熊本でブラブラしていたところで、肥後国細川藩の薬事掛の家筋であった加藤邑と知り合う。加藤邑は、東大教授の呉秀三の優秀な弟子であったが、ハンセン病を患い地元熊本に戻っていた。

加藤邑の勧めで私立熊本医学専門学校を受験し合格したが、1年程通った辺りで知り合った女性と同棲した際に妊娠したので所帯を持つよう迫られたことに驚き、同棲先を飛び出し熊本医学専門学校も辞めてしまった[1]。後にこの妊娠は偽装妊娠(綿子)であったことが発覚するが、この偽装妊娠をした女性は後に武見太郎と親密となり、更にその後参院選挙に出馬したという[2]

その後、祖母ギンヅルは遠縁の武者小路実篤の書生として周蔵を送り込むが馴染めず帰郷してしてしまう。

ギンヅルはさらに別の出会いを用意し、大正元年(1912年)に当時陸軍中将で陸軍大臣であった上原勇作と会う。いくつかの質問の後、上原から出た言葉は以下であった。

おまんに を頼みたか。こんおいに おまんの命 あずけてたもんせ。
そいも 捨てるつもりで たのみもす。
草いうもんは いつ どこで死ぬかも 知れもさん。
そいも おまんの名前も 知られんと 無縁佛と なってしまう かもしれん。
おいは今 軍に對して 一つの 太っかこつ せんならん と思うちょります。
ほんまのこつ 云うと 陸軍は いま分岐点に きちょいもす。
おいが 思うちょること 誰かがためしてくれて そいが うまかいったら
こん日本の陸軍は 太っとか 軍になりもす。

後日、周蔵は上原のになる事に決めた[1]

「吉薗周蔵手記」の特徴[編集]

「吉薗周蔵手記」を解読した落合莞爾によると、主な特徴は次の2点としている[3]

  • 「本紀」は大正元年(1912年)から始まる[4]編年体の日誌で、その月の記事をまとめて「○月末ピ」として記すことが多い。
  • 個別事項については「別紙記載」に詳細しているが、「本紀」には「別紙」の存在を明記せず、傍線で仕切ることで「別紙」の存在を暗示している。

手記の内容[編集]

特務活動[編集]

アヘン研究と罌粟栽培[編集]

周蔵の特務としての主な任務は罌粟栽培とアヘン(特にモルフィン純度の高い特殊アヘン)製造である。

特務となった周蔵に対する上原勇作からの最初の指令は、諜報活動を行うにあたって海外視察の名目でパスポートが取りやすい技師の資格を得るために、東亜鉄道学院(現:開新高等学校)に入学して修了まで席を置くことであった。上原はこの入学指令以外にもう1つ指令を与えており、それがアヘン研究である[1]

大正元年(1912年)10月に東亜鉄道学院の2学年に編入した周蔵は、教科内容のレベルの低さで月に1〜2度登校するだけになった為、寮を出て出水の加藤邑邸に下宿しながら、もう1つの指令「アヘン研究」に着手することとした。

大正2年(1913年)1月より熊本医学専門学校麻薬研究部の無給助手として通い始め、アヘン研究と罌粟栽培の準備を開始。同年3月に種を蒔き、同年5月に初収穫。作付面積五反歩(約5000㎡)に対して僅か二十(70g)弱の収穫であったが、上原からは4月13日の面会時に三百円(現在の価値で200万円超)、初収穫のアヘンを届けた6月6日に今後の活動費と合わせて千円(現在の価値で約800万円)を渡されている。

兄事する加藤邑から薬用植物は雪を受ける土地のものが良いと聞いた周蔵は、罌粟の栽培地を東北北海道に展開すると決め、4月13日の上原との面会時にこれを説明。翌14日に上原から紹介された若松安太郎に会う。安太郎は上原から周蔵の立場を聞いているとの事で、北海道開拓事業を行なっている安太郎の父・若松忠次郎と相談の上、後日熊本に訪ねてくる事となった。安太郎は4月中に熊本に訪れ、周蔵が6月に北海道に行く事としたが、周蔵が函館の若松家を訪れたのは7月となった。北海道の調査ではたいした収穫は得られなかったが、若松安太郎は偉人だと、周蔵は手記に記している。

同じ頃、周蔵は鉄道学校の修了試験を1年繰り上げて受験し、1番で通過。5科目中4科目が満点で、国語だけ6点落としたという。手記には更に「退学願出すも 修了免状を与えらる」とある。

大正3年(1914年)2月に2年目となる罌粟栽培を開始。その春、周蔵は祖母ギンヅルから「一人前と見て良いかの肝試し」と称して、渡辺ウメノから罌粟に関わる書物を貰ってくるよう指示される。ウメノを訪ねた周蔵が辿り着いた先は京都綾部大本教教祖の住まいであった。周蔵がギンヅルの名前を出すと、ウメノは「哲長によう似ておる」と言って周蔵に書物と罌粟の種を渡した。周蔵はこの罌粟の種を「津軽より小粒で黒種もあったが この家[注釈 1]の貴重品であったらしい。乗り移りの行事にはかかせない薬とのこと」と記している。書物については「自白利用の手引書」とし「あの中から延命用としてのケシの極意の箇所だけは写し取った」としている。この時、周蔵が受け取った罌粟の種は、通常11%であるモルフィン(モルヒネ)含有量が90%もあり、寿命を延ばすことに有用なアヘンとなる特殊罌粟の種だった。

同年5月、1期目として作付面積四町歩(約4ヘクタール)から百(375g)のアヘンを収穫。同年6月、兄事していた加藤邑が死去。

7月3日、周蔵は東京司令部にいる上原に収穫したアヘンを届け、1年間の活動猶予を請う。猶予の理由を問われた周蔵は、3〜5年後に二貫目(7.5kg)のアヘンを収穫したいため、これまでの協力者の紹介を訪ねて土地と更なる協力者と医者を確保したいと上申。上原はこれを了承した。

周蔵は2期目の収穫(四町歩から六十二(約230g))を終えた後、10月から視察を開始。大正4年(1915年)春まで北海道東北の各地を回り、各地の有力者から罌粟栽培の協力を取り付けた。この年のアヘンの収穫量は四百(1.5kg)となった。

大正5年(1916年)6月から大正6年(1917年)6月まではABO式血液型分類法の入手のため渡欧。大正6年(1917年)9月にウィーンから帰国した周蔵は、アヘン研究を隠す表看板として癲狂院の派出所(精神カウンセラー)「救命院」を東京府豊多摩郡中野町に開設し、まもなく野方村にも分院を開設した。また、若松安太郎の縁者・藤根大庭から勧められた北沢の煙草小売店を三千円で購入。10月にはアヘン代金のロンダリングとして、この煙草小売店から久原鉱業の売店に煙草を卸す商談を久原房之助と行ない、取引を開始した。

ABO式血液型分類法の諜報エージェント[編集]

兄事する加藤邑から「上原閣下に會ったら輸血のこと話してみてほしか」と言われていた周蔵は、大正2年(1913年)6月6日に初収穫のアヘンを届けた際にこれを上原に伝えていた。以前呉秀三に師事していた加藤は、血液型判定法が確立していない当時の日本では輸血にリスクが伴う事、欧州では血液型判定法が確立し輸血の心配がなくなった事を知っていたので、陸軍を心配した上での発言であった[5]

大正3年(1914年)6月、兄事していた加藤邑が死去[5]

大正4年(1915年)7月、周蔵は上原勇作に第1次収穫のアヘンを届けるため上京。この時、上原から1日でも早く東京に出てくるよう命じられる[5]。この前年に勃発した第一次世界大戦で日本の交戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国首都ウィーンに潜入し、ABO式血液型分類法の技術を日本に持ち帰る事。これが周蔵に与えられた新たな任務であった[6]

9月に上京した周蔵は、日本語の出来る英国人から突貫で英会話を習い、10月より呉秀三による医学特訓を開始。加藤邑は生前、呉に手紙を送っており、周蔵の事を伝えていた[5]

大正5年(1916年)6月、久原鉱業技師・武田内蔵丞(くらのじょう)名義で横浜港を出発。欧州までは同じく久原鉱業技師・遠藤名義の石光真清が同行し、船上で諜報術を叩き込まれる。欧州に着いてからは、出発前に引き合わされた明石元二郎に紹介された下宿先を訪ねた。明石から渡された手紙を訪ね先に差し出すと、周蔵は次の下宿先まで案内され、10月26日、最後に辿り着いたのがウィーン大学学生寮の管理人の家であった[6]

彫りの深い顔立ちの周蔵は、たいていドイツ人トルコ人と思われ、日本人に見られたことは1度もなかった。大学の状況や様子を探っていた周蔵は、大正6年(1617年)2月にカール・ラントシュタイナーの助手フェデューレ・シーレと親しくなり、研究室に出入り可能となる。ラントシュタイナー教授の講義を受け、3月18日には研究室資料の筆写を終えた[6]

4月にドイツに入った周蔵は、石光からの連絡を受け、現地にいたバイオリン留学生・チエコを連れてフランスに移る。その後、英国シドニーシンガポールと経由して、6月に日本へ帰国した[6]

周蔵が持ち帰ったABO式血液型分類法は、呉秀三に依頼され陸軍で実用化される。後日、貴志弥次郎藤井茂太より輸血が誤りなく出来るようになって日本の有益になっていると聞き感動した事が手記に記されている[6]

佐伯祐三の美術学校への裏口入学仲介とアリバイ作り[編集]

大正6年(1917年)8月初め、上原から築地本願寺へ行き、話しを聞いてくるように言われる。築地本願寺からの依頼は、佐伯祐三東京美術学校(現・東京藝術大学)に裏口入学させてほしいというものであった。周蔵は海軍と関係が深い若松安太郎を通じて山本権兵衛に裏口入学を依頼[5]。若松より何とかなりそうだという回答を得た周蔵は、これを本願寺に伝えると、最大の頼み事として佐伯の裏を作って欲しいと更なる依頼を受ける[6]。周蔵は佐伯なる人物が本願寺の諜報員である事を察したが、深くは立ち入らなかった。

9月16日に佐伯と会った周蔵は、ものの考え方がかなり変わっている佐伯をどうすべきか迷うが、呉秀三藤根大庭と相談した上で、周蔵が開設した癲狂院の派出所「救命院」の客の1人として本人の望むよう診察日誌に記帳する事とした[6]

大正7年(1918年)佐伯は東京美術学校に合格[5]

その他[編集]

  • 満洲で張作霖との友好関係を深める任務にあった奉天特務機関長貴志弥次郎のサポート。
  • 大連のアヘン事情調査。
  • 主義者等の監視・偵察。
  • 渡欧して秘密黄金の輸送。(同じく陸軍特務であった画家の藤田嗣治と共に黄金を輸送)
  • 麻薬や炭疽菌等の研究。

事件に関する記述[編集]

シーメンス事件[編集]

大正6年(1917年)9月26日夜、大森上原勇作邸にアヘンを届けに行った周蔵は暫く待たされる。暫くしてから同じ待合部屋に入って来たのが以前会った事のある貴志弥次郎と、もう1人はシーメンス事件の藤井の兄藤井茂太だった。その後、奥の部屋で行われていた会合が終わり、玄関を出て行く顔ぶれを見て周蔵は驚いた。平田東助有地品之允田健治郎小松原英太郎江木千之、他政友会数名だった。上原と面会した後には、寺内正毅泰平組合関係者も訪れた。

周蔵はこの時、シーメンス事件では山本権兵衛は嵌められたものと推測し、この日の会合は、上原が泰平組合の事件化を抑えるための談合で、以前、東京司令部で見かけた島田三郎も上原に動かされたのは間違いないと見ている[6]

この年、祖母ギンヅルを通じて幼少の頃から敬愛し、同じ薩摩人として尊敬する山本権兵衛に、周蔵は「役に立つことあらば、いつでも命を下して下さい。自分はいつでも従います」と書いた手紙を送った。この時の返事はなかったが、後に薩摩人の園遊会で山本に会った際「オマンの心嬉しか」と言われ、周蔵の手を大きな両手で包んでくれたと記されている[7]

その他記載されている人物等[編集]

軍人・政治家・満鉄関係者[編集]

大正2年(1913年)、第3師団長に補された上原勇作は名古屋赴任の途中で発病し大阪赤十字病院へ緊急入院した。祖母・ギンヅルより罌粟丸薬と多量の浅山丸を急ぎ届けるよう指示された周蔵を待っていたのが元陸軍大臣の高島だった。この時、高島から「これからのこと上原閣下に任せて良いよ」と言われている[1][5]
大正2年(1913年)、大阪赤十字病院に上原を見舞いに来ているところを確認[5]。大正8年(1919年)6月に大森の上原邸に寄った時に、たまたま宇垣の中将内定祝いをしており、宇垣の時局講話を聴く[8]
大正3年(1914年)7月3日の東京司令部での上原との面会時に同席。上原への報告後に紹介された[5]。周蔵が尊敬する軍人の1人。
大正4年(1915年)7月18日、上原との面会時に紹介され「閣下の信望あつしと見る」[5]満州鉄道関係者。
大正5年(1916年)の渡欧前に上原によって引き合わされる。周蔵は明石に3度会って日露戦争時の苦労話を直接聞き、「まるで1人で勝利に結びつけたような人物」と手記の中で称賛している[6]。周蔵が尊敬する軍人の1人。
大正5年(1916年)の渡欧時と翌年の帰朝時に周蔵に同行。周蔵は渡欧時の船上で諜報術や心構えを教わった。「生きる道をどうしたら良いかと教えてくれた人物の一人」として尊敬した[6]
大正9年(1920年)1月、大森の上原邸を訪ねた際に鎌田彌助より紹介される。同年3月、周蔵宅に来訪し、伊達順之助なる人物を匿って欲しいという事で、これを了解する。

協力者[編集]

  • 若松安太郎(本名:堺誠太郎)
大正2年(1913年)に上原の紹介で知り合う。父とする若松忠次郎の元、東京を本拠として様々な事業に関わる[5]。周蔵をサポートした中心人物。子に堺誠一郎がいる[5]
  • 若松忠次郎
若松安太郎の父(と紹介されるが実際は叔父)で、函館で北海道開拓事業を支えた政商。家業としては海軍と関係が深いが、周蔵への協力は惜しまなかった[5]
  • 池田庄太郎
若松忠次郎の甥、安太郎の従兄弟。下北半島大畑湊で地方デパートを経営。周蔵の妻・巻(本名:ツヨミ)の父[5]
  • 阪井(名前不詳)
熊本医学専門学校麻薬研究部の事務主任。周蔵がアヘン研究を開始した熊本医専助手時代からの協力者。大正2年(1913年)秋に熊本医専を退職後した後は、妻の実家のある北海道雨竜郡に移り、樺太宗谷帯広周辺で特殊罌粟の栽培を行い周蔵を支援した[5]
久原鉱業株式会社社長。大正4年(1915年)11月3日、上原より紹介される[5]。数字には強い周蔵だがお金には無頓着のため、アヘンを陸軍に納めるに当たり取引上の顧客として間に入った。
  • 藤根大庭
大正6年(1917年)7月、若松安太郎より紹介される。若松家の縁者の請負師[6]
  • 布施一
大正6年(1917年)ウィーンから帰国した周蔵は、表の仕事として癲狂院の派出所(精神カウンセラー)「救命院」を開設する事とし、巣鴨病院院長となった呉秀三から個人講義を受ける傍ら、巣鴨病院の手伝いをする様になる。この時親しくなったのが事務長の布施一である[6]。大正8年(1919年)春に布施は巣鴨病院を退職するが、その後も救命院には度々訪れる[8]。布施が特高の諜報員である事を周蔵が知るのは17年後の昭和11年(1936年)だった[8][9]
  • 牧野三尹
大正6年(1917年)9月、藤根大庭から紹介された開業医[6]
  • 渡辺ウメノ
大本教の実祖父の妾をしておった女」で「哲長の妾であった」とし、「妾同志(ウメノとギンヅル)も本妻(山本芝野)も入り混じって気が合うらしい」としている[5]。周蔵は祖母ギンヅルの指示でウメノを訪ね、特殊罌粟の種と罌粟に関する書物を入手した[5]
  • 渡辺政雄
渡辺ウメノの孫。大正6年(1917年)10月に渡辺ウメノに呼ばれた祖母・ギンヅルに付き添い京都を訪れた際、ウメノから「医大に通う孫が結核を患い何とかして欲しい」と懇願され面倒を見る。外科医の資格を持つが、大本教と関わるのが嫌でウメノには伝えてないと言う[7]
  • 阿久津卯吉
大正6年(1917年)11月、若松安太郎から紹介された薬学者[6]。周蔵と共同で製薬会社を設立した[7]
  • 辺見十郎太(本名:牧口。名は不詳)
大正8年(1919年)10月、布施一から紹介された人物。布施からも辺見自身からもサンカだとして紹介される[8]
大正9年(1920年)10月、アヘン研究のため呉秀三から紹介され通い始めた「帝國針灸漢方医學校」の校長は周居應という老漢方医であった[10]。明けて大正10年(1921年)3月、第二救命院を訪れた周蔵は渡辺政雄が連れてきた2人の客人を見て驚愕する。1人は呉達閣で然程驚かなかったが、もう1人の見知らぬ客人に「ヨシソノさん、私の顔にヒゲをつけて見てくれないか」と言われ、意味が吞み込めずにいると「白ガまじりのヒゲをここに想像してみてご覧よ」と言われ、やっと周先生だとわかり、実に驚いた。それでも意味が理解出来ないでいる周蔵に、政雄が説明する。周蔵より2歳下の王希天が老人に化けて日本人相手に漢方の講義をしていたのが周居應であった。王希天と周居應が同一人物だと知っているのはポール・ラッシュメソジスト教会のポンピドー牧師だけだと聞き、周蔵は呆れた[11]通説では王希天は大正12年(1923年)9月に殺害されたとするが、周蔵の手記にはそれ以降にも登場する。

その他[編集]

周蔵の遠縁。大正3年(1914年)8月14日、農地を探して欲しいと実篤が訪れる。周蔵が手配した土地はその後「新しき村」となった[5]
大正3年(1914年)の東北視察の時に池田庄太郎に紹介された漢方医。玄範の息子と庄太郎の妹が夫婦。庄太郎が玄範から聞いた話しでは、玄範の父は出口王仁三郎の実父・上田吉松で、玄範と王仁三郎は異母兄弟。王仁三郎は上田吉松と吉松の娘との間に出来た子だという。玄範の幼名は鬼一郎[7]
大正6年(1917年)6月、ウィーンから帰国した足で若松安太郎の家に立ち寄った時に知り合う[6]
大正6年(1917年)10月2日、薩摩治郎八神田の薩摩邸で主催した会合で治郎八から紹介される。上原勇作からもらっていた要注意人物の名簿に載っているのは知っていたので嬉しくはない紹介だったが、度々周蔵を訪ねて来る[6]
渡辺政雄の面倒を見る事になった時、政雄と同じ下宿先に住んでいた、武芸に長け大道芸人たる大男の満人[7]。周蔵が渡辺ウメノに罌粟栽培の秘訣を請うたところ、ウメノは政雄と同じ下宿に住んでいる呉達閣に聞くようにと伝えた。ウメノはこの時「オマンの知りよる槇玄範とも心安い仲やで」と囁いたという[7]
呉達閣の下宿にいた居候。渡辺政雄の部屋で手記をかいていた時、部屋に入ってきて周蔵に声を掛けてきた。京大に行く資格があるが、毎日見物して遊んでいると聞き、日本を偵察しているのだろうと周蔵は推測した[7]
大正6年(1917年)11月2日、築地料亭に招かれ会う。佐伯祐三に「何としても画家としての権力を持たせたい」との話であった。大正8年(1919年)2月6日にも再び招かれ、この時の話は光壽會に参加して欲しいとの要請であったが、周蔵はこれを断った。この時、いつか坊主になりたいとは思っていると話したところ、法名をつけてやろうという話になり、光瑞の瑞をとって「瑞節」はどうかと言われるが、恐れ多いので字の似ている「端節」にして欲しいと伝え、これが周蔵の法名となった[8]
大正4年(1915年)5月、武者小路実篤に誘われ白樺派の集会に参加。「この集りの人物たちは構想と空論には秀でているようであるが思想というものを持たないようである」と感じたが、「その中で一人やや違った色違いの人物」が熊谷だった[5]。その後、美校生の佐伯祐三と引き合わせるなどするうちに、自分の考えと共通するところが多いと感じ[8]、長年に渡って交友を深める関係となった。

佐伯祐三との親交について[編集]

吉薗周蔵は、東京美術学校への裏口入学を斡旋した佐伯祐三と親交する。

アヘン製造で多額の蓄えを持っていた周蔵に対し日々金を無心してきていた祐三であったが、周蔵は金に頓着することなく返済の見込みのない金を貸し続けていた。 周蔵の妻となった池田巻は、祐三の絵画を買い取る形で資金を融通するようになったので、吉薗家には佐伯祐三の直筆絵画が多数収蔵されることとなった。なお、メニエール病の持病を持つ祐三に対し、周蔵はその持病を逆手にとって祐三にしか描けない画風を持ち味にすることをアドバイスし、この画風が祐三の特徴となった。 この辺りのことも手記に顛末が記されている。

周蔵が祐三の渡仏の費用も工面してくれたことで祐三は渡仏するが、性格にムラのあった祐三の絵画の仕上げを妻の佐伯米子が行い、米子の手が入った絵画の方がフランスで評価されることとなった。 後年、周蔵の一人娘であった吉薗明子が、河北倫明のサポートを受けて武生市に両親が祐三からもらっていた絵画を寄贈しようとした際に、佐伯祐三贋作事件を起こされてしまう。 これは、すでに米子の手が加わった祐三の絵画が市場価値を得ていたので、その価値が暴落するのを嫌った人々が吉薗明子の所有する絵画を贋作とされるように仕向けた事件であった[12]

親族[編集]

  • 祖母 吉薗ギンヅル - 上原勇作の実母・タカの異母妹で、上原の叔母にあたる。タカとギンヅルの父は四位次兵衛昌張。京都薩摩藩邸に老女として仕え、多くの薩摩人と親交を持った。
  • 父 吉薗林次郎 - 吉薗家の養女ギンヅルが生んだ藤原北家勧修寺流の公家堤哲長の子で、周蔵は堤哲長の孫にあたる。
  • 母 木下キクノ
  • 姉 ヨカ、ミキ
  • 妹 ケサヨ
  • 妻 吉薗巻(本名ツヨミ)
  • 娘 吉薗明子 - 平成6年(1994年)8月に自宅にあった佐伯祐三作品37点を福井県武生市に寄贈したが、これが真贋問題に発展してしまう[13]。真相究明のため「吉薗周蔵手記」の解読を落合莞爾に依頼した。

参考文献[編集]

  • 落合莞爾 『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』時事通信社、1997年5月。ISBN 4788797186 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[1] 「吉薗周蔵手記」が暴く日本の極秘事項 解読!陸軍特務が遺した超一級史料』成甲書房、2017年5月10日。ISBN 9784880863573 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[2] 國體アヘンの正体 大日本帝国を陰から支えた「天与のクスリ」』成甲書房、2017年8月10日。ISBN 9784880863597 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[3] 日本皇統が創めたハプスブルク大公家 國體ネットワークから血液型分類を授かった陸軍特務』成甲書房、2017年11月。ISBN 9784880863627 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[4] ワンワールド特務・周恩来の日本偵察 東アジアの勢力図を決した吉薗周蔵の奇縁』成甲書房、2018年4月。ISBN 9784880863672 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[5] 國體忍者となったタカス族とアヤタチ 周蔵手記が明かす「サンカ」の正体』成甲書房、2018年7月。ISBN 9784880863689 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[6] 活躍する國體参謀』落合吉薗秘史刊行会、2018年12月。ISBN 9784991073908 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[7] 三種の蝦夷の正体と源平藤橘の真実』落合吉薗秘史刊行会、2019年。ISBN 9784991073915 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[8] 応神・欽明王朝と中華南朝の極秘計画』落合吉薗秘史刊行会、2019年。ISBN 9784991073922 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[9] ハプスブルク大公に仕えた帝国陸軍國體参謀』落合吉薗秘史刊行会、2019年。ISBN 9784991073939 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[10] 神聖ローマ帝国の世襲皇帝になった南朝王子』落合吉薗秘史刊行会、2020年1月。ISBN 9784991073946 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[11] 國體共産党が近代史を創った』落合吉薗秘史刊行会、2020年7月。ISBN 9784991073953 
  • 落合莞爾 『落合・吉薗秘史[12] 石原莞爾の理念と甘粕正彦の策謀の狭間』落合吉薗秘史刊行会、2020年12月。ISBN 9784991073960 
  • 落合莞爾 『京都皇統と東京皇室の極秘関係 新発見の吉薗手記が日本を震撼させる』落合吉薗秘史刊行会、2022年1月。ISBN 9784991073977 

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ 大本教教祖の出口家

出典[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]