今西和男
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名前 | ||||||
カタカナ | イマニシ カズオ | |||||
ラテン文字 | IMANISHI Kazuo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1941年1月12日(83歳) | |||||
出身地 | 広島市中区平塚 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1963-1969 | 東洋工業 | ? (?) | ||||
代表歴2 | ||||||
1966 | 日本 | 3 (0) | ||||
監督歴 | ||||||
1982-1992 1992-1993 1994 1995-1999 2000-2002 2003-2007 1994-1997 1997-1999 1999-2002 2005-現在 2005-2007 2007-2009 2008-現在 |
マツダSC副部長・総監督 広島総監督 広島総監督・強化部長 広島総監督・取締役強化部長 広島総監督・取締役専務 広島顧問 JFA強化委員 JFA強化副委員長 JFA技術副委員長/強化本部委員 吉備国際大学総監督 岐阜顧問 岐阜GM 岐阜社長 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2007年10月15日現在。 2. 2007年10月15日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
今西 和男(いまにし かずお、1941年1月12日 - )は広島県広島市中区平塚出身の元サッカー日本代表選手(DF)・指導者(JFA 公認S級コーチ)。
人物
日本におけるゼネラルマネージャーの地位を確立させた人物。サッカー界では日本の元祖ゼネラルマネージャーとも称される[1]。
育成に実績があり、主なものでも、信藤克義(信藤健仁)や森保一・久保竜彦らの無名選手を発掘し、小林伸二や松田浩らの指導者を育成[2]した。また大分トリニータや愛媛FC・FC岐阜がJリーグ入りを目指していたころにアドバイザーとして参加もしている。
人望も厚く、若手選手に対して「一流のサッカー選手である前に、一流の社会人であれ」「サッカーバカにはなるな」「現役を引退してからのほうが人生は長い。そのために、現役時から社会の一般常識を身につけることが大切だ」と、一人前の社会人であることを厳しく求めた。
来歴
幼少/学生時代
広島市中心部の遊廓近く、平塚の生まれ育ち。父親は中国電力のサラリーマンだった。4歳の時、広島市への原子爆弾投下により被爆、全身の左半分に閃光が襲い左手足に今もケロイドが残る。
国泰寺中学の1年先輩に野村六彦、同級生に宮本輝紀がいたが、当時サッカー部の人数が多くて今西は入部できなかった。舟入高等学校へ入学すると柔道部へ入部するも、2年生の時に野村六彦に誘われサッカー部へ入部。デビュー戦となった広大付属戦では左フルバック(ディフェンダー)で出場、鬼武健二をマークして勝利を収めた。1958年の高校選手権にも出場。
その後、舟入高校の臨時コーチをつとめた東洋工業(現マツダ)・小沢通宏との出会いから東京教育大学へ進学すると1年生からレギュラーとして活躍した。当時は広島サッカーの黄金時代で、前述の選手ら数多くの広島出身者が関東の大学に進学。 東教大サッカー部も広島出身者が多数を占め「広島出身でなければサッカーマンに非ず」的ムードさえあり、部員の会話は広島弁になるほどだった[3]。
東洋工業/マツダ時代
1963年、地元東洋工業へ入社、東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)入り。下村幸男監督のもとで小沢・丹羽洋介・桑原弘之らと強靭なフルバックとして活躍、小城得達・桑原楽之・松本育夫・石井義信・船本幸路らとともに1965年から創設された日本サッカーリーグ(JSL)の初年度から1968年までの不滅の四連覇に大きく貢献した。1966年には日本代表(当時の名称は全日本)に選出されアジア競技大会(バンコク)出場。1967年、膝の靭帯を痛めたが当時のスポーツ医学では分からず、分かったのは1969年の引退後だった。その後は1971年までDF専門のコーチをしていた。
1972年、一切サッカーから離れ社業に専念、営業の現場でも優秀な成績を収めた。1982年から再びサッカー部に携わり副部長・総監督に就任。低迷が続くチームの浮上策として、新しい血の導入に外国人指導者招聘のため世界中を駆け廻り、選手育成に長けていたオランダのアヤックスやフェイエノールトに着目した。1984年、マツダSC監督につきハンス・オフトをコーチに招聘、1986年から日本リーグ1部にチームを復帰させるが、1988年再び2部に転落。1991年1部復帰の成果を得る。
Jリーグ初期
Jリーグ開幕に向け準備を進める中、親会社であるマツダが業務不振からJ参入に消極的な姿勢を取っていた。そこでチーム名に企業名が入らないことを逆手に取り、広島県内の企業にチームへ出資して貰うために走り回った[4]。1992年Jリーグ創設でサンフレッチェ広島が発足すると取締役強化部長兼・総監督に就任[5]。
この間、後に日本代表となる森保一ら若手の育成、ドイツ・ブンデスリーガでプレーしていた風間八宏をチームリーダーとして熱心に口説き入団させ、盧廷潤やイワン・ハシェックらの外国人選手やスチュワート・バクスター監督らの招聘、フジタ工業(現・湘南ベルマーレ)にいた高木琢也の獲得などで、Jリーグ創設2年目のファーストステージを制覇した。「サンフレッチェ一家のおおらかな親分」のような存在で、大きなガタイはいかにもエネルギッシュ、また面倒見のよさでまわりや選手達にも信頼された。
ノーマークの西端のチームの優勝は、驚きを持って迎えられ、当時はまだ爆発的サッカー人気が持続していたため、総監督として長年チーム作りに尽力した今西が「ゼネラルマネージャー(GM)」と称されTV、雑誌に大いに取り上げられた。サンフレッチェ優勝を伝えた1994年の写真週刊誌『FLASH』6月28日号9頁に、今西を「ゼネラルマネージャー」と紹介した記述が見られる。日本で「ゼネラルマネージャー」という言葉が定着したのはこの時からとされ、近年サッカー専門誌も今西を「日本におけるゼネラルマネージャーの元祖のような存在」「日本の元祖ゼネラルマネージャー」と評している[1]。
日本サッカー協会
1994年、新設された強化委員会の副委員長に就任して陣頭指揮にあたり、ユース年代の強化育成、指導者養成システムの拡充、五輪チーム、トップチームのサポートなどに腕を振るった。1997年には、フランスW杯アジア地区最終予選途中での加茂周監督更迭、岡田武史コーチの昇格を強硬に進言した。このため日本のワールドカップ初出場の最大の功労者、と評価されることもある。その後も日本サッカー協会技術副委員長[6]などの要職を務めた。
広島総監督/顧問時代
一方広島では、1996年ごろからJリーグバブルがはじけ、チームは経営不振となった。チーム存続のため、主力の減俸や高木琢也や森保一などの主力放出を断行し、他チームの戦力外選手を安く雇うなどをしながらも、若手を育て経営安定に努めた。 また、Jリーグ新規参入クラブとして活動しだした、大分トリニータや愛媛FCの創設にアドバイザーとして参加し、自身の持つノウハウを伝授した。
2002年に監督・外国人選手・主力の怪我人を埋める補強がすべてうまくいかずチームはJ2降格、シーズン後に責任を取るかたちで総監督を辞任した。翌2003年から広島顧問(ゼネラルアドバイザー)に就任。同時期に広島都市圏でのサッカー専用スタジアム建設を目指す「スタジアム推進プロジェクト」の事務局長し、広島市民球場跡地など候補を絞りプロジェクトを進めていたが、結果として結びつかなかった。2007年1月31日をもって広島顧問を退任。
現在
2005年から吉備国際大学スポーツ社会学科教授、サッカー部総監督に就任し、現在も在籍している。
同2005年、当時東海2部にいたFC岐阜の顧問に就任[7]し、アドバイザーとして翌年東海1部・翌々年JFL昇格を影から支えた。2007年2月1日からはFC岐阜のゼネラルマネージャーに就任、経営の改善努力などが実り、同年J2参入にこぎつけた。昇格後は岐阜社長も兼務、Jリーグ昇格前の負債を解消するため奔走した。2010年、服部順一にGM職を受け渡し、社業に専念することになった[8]。
略歴
- 広島市立国泰寺中学校
- 広島市立舟入高等学校
- 東京教育大学
- 1963年 - 1994年 : 東洋工業/マツダ
- 1992年 - 2002年 : サンフレッチェ広島総監督
- 1994年 : サンフレッチェ広島強化部長
- 1995年 - 1999年 : サンフレッチェ広島取締役強化部長
- 2000年 - 2002年 : サンフレッチェ広島取締役専務
- 1994年 - 1997年 : 日本サッカー協会強化委員
- 1997年 - 1999年 : 日本サッカー協会強化副委員長
- 1999年 - 2002年9月 : 日本サッカー協会技術副委員長/強化本部委員
- 2003年 - 2007年1月 : サンフレッチェ広島顧問
- 2005年 : Jリーグマッチコミッショナー
- 2003年 - 2007年1月 スタジアム推進プロジェクト事務局長
- 2005年 - 現在 : 吉備国際大学教授
- 2005年 - 現在 : 吉備国際大学サッカー部総監督
- 2005年 - 2007年1月 : FC岐阜顧問
- 2007年2月 - 2009年 : FC岐阜ゼネラルマネージャー
- 2008年 - 現在 : FC岐阜社長
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | - | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1965 | 東洋 | JSL | 9 | 0 | - | ||||||
1966 | 東洋 | JSL | 14 | 0 | - | ||||||
1967 | 東洋 | JSL | 14 | 0 | - | ||||||
1968 | 東洋 | JSL | 5 | 0 | - | ||||||
1969 | 東洋 | JSL | 0 | 0 | - | ||||||
1970 | 東洋 | JSL | 0 | 0 | - | ||||||
通算 | 日本 | JSL | 42 | 0 | - | ||||||
総通算 | 42 | 0 | - |
タイトル
- 年間優秀11人賞(ベスト11) : 1966年
代表歴
出場大会など
- アジア競技大会(1966)
試合数
- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1966)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1966 | 3 | 0 | 7 | 0 | 10 | 0 |
1967 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 8 | 0 | 11 | 0 |
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | JSL杯 | 天皇杯 | |||
1984 | JSL2部 | マツダ | 6位 | 18 | 18 | 7 | 4 | 7 | 準々決勝 | 2回戦 |
1985 | JSL2部・西 | マツダ | 準優勝 | 10 | 12 | 5 | 2 | 3 | 1回戦 | 準決勝 |
JSL2部・上位 | 10 | 11 | 3 | 5 | 2 | |||||
1986-87 | JSL1部 | マツダ | 7位 | 22 | 23 | 6 | 11 | 5 | 1回戦 | 2回戦 |
1988-89 | JSL2部・西 | マツダ | 5位 | 14 | 22 | 9 | 4 | 1 | 準々決勝 | 1回戦 |
JSL2部・上位 | 14 | 14 | 5 | 4 | 5 | |||||
1989-90 | JSL2部 | マツダ | 3位 | 30 | 67 | 20 | 7 | 3 | 2回戦 | 準々決勝 |
1990-91 | JSL2部 | マツダ | 準優勝 | 30 | 74 | 24 | 2 | 4 | 準々決勝 | 2回戦 |
1991-92 | JSL1部 | マツダ | 6位 | 22 | 27 | 7 | 6 | 9 | 準決勝 | 準々決勝 |
注釈
- ^ a b 『サッカー批評』44、2009年9月10日発行、双葉社、70頁。
- ^ 1987年頃から指導者同士による4・5人のグループ討論会を年に数回開き、コミュニケーションスキル向上を目指した。専門講師を招く等、本格的取り組みであった。また定期的に1泊2日の研修旅行も設け、リポート提出を義務づけた。日刊スポーツ・横田和幸コラム 2005年05月29日分より
- ^ 勝沢要『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』、テレハウス、1986年1月、102頁
- ^ 現在では普通だが、当時は親会社がほとんど出資するものだと考えられていた。
- ^ 今西 和男ゼネラルマネージャー就任のお知らせ|最新情報|FC岐阜
- ^ 技術委員会はその後2002年9月、大仁邦彌・小野剛らとともに、ジーコを日本代表次期監督として川淵三郎新会長に推薦しなかったことに端を発し、事実上の解散となった。
- ^ きっかけは1999年に広島に一時在籍していた森山泰行から「将来は地元に帰って小さなクラブを作り、大きく育てたい」というビジョンを聞かされたこと。その後森山はFC岐阜加入し、その直後に今西に顧問就任を要請、今西はこれを快諾した。
- ^ J2岐阜悲願の「1」へ 倉田監督「昇格争いだ」2010年1月20日付けスポーツニッポン
関連項目
- 広島県出身の人物一覧
- サッカー日本代表選出選手
- 高田豊治 - 今西退任後のサンフレッチェ広島GM
- 織田秀和 - 今西が育てた広島強化部長
- 石橋智之 - 愛媛FC創設に尽力した人物
- 溝畑宏 - 大分トリニータ創設に尽力した人物
- サンチェ - 広島マスコット。初代は今西をモデルにしていたという話がある。
- サンフレッチェ広島の下部組織
- 広島におけるサッカー専用スタジアム構想