ル・クレムラン=ビセートル

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Le Kremlin-Bicêtre


行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) イル・ド・フランス地域圏
(département) ヴァル=ド=マルヌ県
(arrondissement) ライ=レ=ローズ郡
小郡 (canton) 小郡庁所在地
INSEEコード 94043
郵便番号 94270
市長任期 ジャン=リュック・ローラン
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr) メトロポール・デュ・グラン・パリ
人口動態
人口 25,859人
2007年
人口密度 16,792人/km2
地理
座標 北緯48度48分36秒 東経2度21分29秒 / 北緯48.81度 東経2.358056度 / 48.81; 2.358056座標: 北緯48度48分36秒 東経2度21分29秒 / 北緯48.81度 東経2.358056度 / 48.81; 2.358056
標高 平均:m
最低:45 m
最高:115m
面積 1.54km2
Le Kremlin-Bicêtreの位置(フランス内)
Le Kremlin-Bicêtre
Le Kremlin-Bicêtre
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ル・クレムラン=ビセートル (Le Kremlin-Bicêtre発音例)は、フランスイル・ド・フランス地域圏ヴァル=ド=マルヌ県コミューン

地理[編集]

パリ南東部、13区ポルト・ディタリー界隈に接している。

交通[編集]

歴史[編集]

18世紀に描かれたビセートル城の廃墟

ル・クレムラン=ビセートルの歴史は、18世紀までは周辺の地域に含まれたものであった。中世のビセートルは、西側に隣接するコミューン、ジャンティイの一部にすぎなかった。

1286年、ウィンチェスター司教ジャン・ド・ポントワーズが、打ち捨てられていた修道院施設を買い取り、城を建てた。ウィンチェスター(Winchester)がVinchestre、Bichestre、Bicetreとなり、城はビエーヴル城(Chateau de la Bievre)と呼ばれた。これがBicêtreになったとされる。

城の所有者は幾度も変わった。1294年、イングランド王エドワード1世と戦争中だったフィリップ4世が城を接収した。その後1304年にサヴォイア伯アメデーオ6世に売却された。1346年、アメデーオ6世はヴァロワ朝オルレアン公フィリップへ城を売った。

百年戦争中の1371年、イングランドの傭兵ロバート・ノウルズが指揮するイングランド軍の攻撃で、城は焼け落ちた。城を含む領地はフィリップ6世がサヴォイア伯アメデーオ7世へ売り渡された。1400年、城をベリー公ジャン1世が購入した。ベリー公は城を要塞として再建した。

1410年アルマニャック派ブルゴーニュ派による内戦が勃発した。ビセートル城はベリー公の本拠地となり、休戦協定が城内で結ばれた。しかし協定は破られ、民衆反乱を伴って反ベリー公派は抵抗し、武装した一団が1411年にビセートル城に放火、炎上した[1]

1632年、ルイ13世はビセートル城の破壊を命じ、跡地に傷病軍人用の病院を建てるよう命じた。アンリ4世がかつてルールシエンヌ通りに立てた軍病院が移設された。病院は事実上、ヴァンサン・ド・ポールによって運営され、その後は病院としても、国立刑務所としても、精神病院のビセートル病院としても名高くなっていった。その住環境は悪かった。18世紀、フィリップ・ピネル、ジャン=バティスト・ピュッサンの行動によって、病院に収容された患者の待遇に改善が見られた。フランス革命では、審判なしに収容された全ての収容者の解放を許可した。

18世紀終わりまで、現在のル・クレムラン=ビセートルの町は、大半が田畑であった。

フランス第一帝政期、1812年ロシア戦役で負傷した軍人たちが、ビセートルの病院へ収容された。病院の近くに、クレムリン(Kremlin)またはクレムリンの将校(Au sergent du Kremlin)という看板を掲げた宿屋があった。このクレムリン(フランス語ではクレムラン - Kremlin参照)という名が、病院の周囲で成長した定住地の地名となった。 1897年、ジャンティイから分離し、独立したコミューンとなる。

スータン着用禁止を記した1900年のポスター

20世紀初頭のコミューンは、労働運動と結びついた。当時ル・クレムラン=ビセートルに移り住んでいた世帯は穏健派であった。

1897年に選出された初代市長、ウジェーヌ・トマは、協同組合運動の後援を受けており、ルイ・オーギュスト・ブランキの門弟であった。急速に反教会政策が適用され、1897年には屋外での礼拝行進の禁止が布告され、1900年にはスータンの着用が禁止された。さらに、通りの名が革命や共和主義に関連した名称に改称された。トマは1919年に亡くなるまで市長の座にあった。次の市長であるジョルジュ・ジェラールも社会主義者であった。

市は、スラム街近くの不安定な土地の発展に努めた。市長は公営住宅の設置に努め、1920年代以降多くの開発が行われた。

第二次世界大戦中、ジョルジュ・ジェラールはヴィシー政権に忠誠を誓って市長職に残った。彼の職務室は、解放運動を行うレジスタンスに銃撃された。

1945年、共産主義者のガブリエル・ブリオンが市長に当選した。1947年に市長となったアントワーヌ・ラクロワは、第二インターナショナル・フランスfr)に所属して当選し、1983年までその職にあった。

経済[編集]

失業率は約8%。コミューン住民の労働者人口の約80%が、コミューン外で働いている。

関係者[編集]

出身者
居住死去その他ゆかりある人物

関連項目[編集]

  • シャベール大佐』 - バルザックの小説。アイラウの戦いの英雄であるシャベール大佐は、晩年をビセートルの老人ホームで過ごす(※bicêtrienとはフランス語でビセートルの老人ホームの住人を意味する古語)。

脚注[編集]

  1. ^ Jean Juvenel Des Ursins, Histoire du Roi Chalres VI, Paris,‎

外部リンク[編集]