ナサール・アルアティヤ
![]() 2014年度 ラリー・ドイチュラントにて | |||||||||||||||
個人情報 | |||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
生誕 | 1970年12月21日(51歳) | ||||||||||||||
身長 | 1.75 m (5 ft 9 in)[1] | ||||||||||||||
ウェブサイト | 公式ウェブサイト | ||||||||||||||
スポーツ | |||||||||||||||
国 | ![]() | ||||||||||||||
競技 | ラリー, 射撃 | ||||||||||||||
|
ナサール・アルアティヤ(アラビア語: ناصر بن صالح العطية ナーセル・ビン・サーリフ・アル=アティーヤ、英: Nasser Salih Nasser Abdullah Al-Attiyah ナッサー・アルアティヤ、1970年12月21日 - )は、カタール出身のレーシングドライバーおよび射撃選手。世界的なラリードライバーの1人であり、ダカール・ラリーでは4度の総合優勝(2022年時点)がある。
ラリーレイド[編集]
1987年に地元のクロスカントリーラリーでナビゲーターとしてモータースポーツデビュー。総合3位で完走するもナビの面白さを感じられず、以降はドライバーに転身。パトロールを改造したマシンで1990~1995年のカタール国内選手権で一度も負けずに連続チャンピオンという金字塔を打ち立てた。しかし自費で参戦していたため資金難に陥り、一旦活動を停止した。
2004年に競技に復帰。三菱・パジェロでパリ・ダカールラリーにデビューし、総合10位で完走。2007年にも参戦して6位に入った。
その後BMWと契約し、2008年にはFIAクロスカントリーラリー・ワールドカップでチャンピオンを獲得した。
2010年にはフォルクスワーゲン(VW)に移籍し、四輪部門で同チームから参戦するカルロス・サインツに次ぐ総合2位に食い込む。2011年は引き続きVWから参戦し、ついにサインツを下して念願の初総合優勝を飾った。2011年限りでVWがダカール・ラリーから撤退したため、2012年はロビー・ゴードンチームに移籍しハマー・H3を駆ったが、第9ステージでリタイアに終わった。2013年のダカールはオリジナルのバギーで参戦した。
2015年にはMiniからダカール・ラリーにワークス参戦。同年、FIAクロスカントリーワールドカップで2度目のタイトルを獲得した。
2016年にはTOYOTA GAZOO Racing SA(南アフリカ法人)に移籍してラリーレイドを継続、2016年・2017年とワールドカップを3連覇している。またペルー単独開催となった2019年ダカールでは得意とする砂丘での強さを存分に活かし、自身3度目、トヨタにとっては初の総合優勝を果たした。2020年にはF1王者のフェルナンド・アロンソのチームメイトとしても注目を集めた。2022年のダカールもトヨタチームから出走し、4度目の総合優勝を果たしている[2]。
プライベーターとしても、2019年にカンナムのサイド・バイ・サイド・ビークル(SSV)でモロッコのメルズーガ・ラリーに挑戦しており、総合優勝を飾っている[3]。
射撃[編集]
資金難でラリーレイドを休止した後、クレー射撃の射手を育成するカタール政府のプログラムに参加。元々狩猟も嗜んでいたアルアティヤはわずか6ヶ月のトレーニングで、アジア大会2位を獲得。その後1996年アトランタオリンピックからカタール代表として夏季五輪に6大会連続出場した。1997年のワールドカップでは3位、2002年と2010年のアジア競技大会ではスキートで金メダルを獲得、2004年アテネオリンピックでも同種目で4位に入賞している。
2012年は、五輪代表選考会となるアジア射撃選手権がダカール・ラリーの期間中に行われるため、五輪代表の座を事実上あきらめていたが、皮肉にもダカール・ラリーで途中リタイアしたことからアジア選手権への参加が可能になり、同大会のスキート男子で優勝[4]、ロンドンオリンピックのカタール代表の座を手にした[5]。5度目の五輪となるロンドンではスキートで銅メダルを獲得した。
夏季五輪では北京オリンピックでカタール選手団の旗手も務めた。ロンドンオリンピックでも当初旗手を務める予定だったが[6]、結局旗手は他の選手に交代している。
ラリー[編集]
射撃の選手としてひとかどの評価を得ていたがラリーへの想いを諦めきれなかった2003年、カタール自動車連盟の誘いと支援により中東ラリー選手権(MERC)に参戦。以降同選手権で15度ものタイトルを獲得している。これはFIAの地域ラリー選手権では最多記録である[7]。また2019年にはキプロス・ラリーでERCの同一イベント最多連勝(6連勝)もマークしている。
2004年には世界ラリー選手権(WRC)の下部カテゴリーであるプロダクションカー世界ラリー選手権(PWRC)でインプレッサ WRX STIをドライブ。3年計画の3年目となる2006年に新井敏弘を破ってシリーズチャンピオンを獲得した。2010年にはSWRCに参戦。2年間参戦したが未勝利に終わった。2012年はシトロエンのサポートを受けてカタール・ワールド・ラリーチームからワークススペックのシトロエン・DS3 WRCを駆りスウェーデンを皮切りに8戦へ出場。ポルトガルでは自己最高位4位入賞を果たした。
フォードのワークス活動終了に伴い、それまでフォードワークスだったMスポーツをカタールが支援することになったため、アルアティヤは中東ラリー選手権を主戦場としつつも、MERCと日程が被らないWRCイベントにMスポーツのフォード・フィエスタで参戦した[8]。2013年は当初8戦に出場する予定だったが、体調不良やクラッシュでの怪我が影響し5戦の出場に留まった。第6戦アクロポリスではフォルクスワーゲンのアンドレアス・ミケルセンと4位争いを繰り広げたが、最終日に3連続ステージベストをマークしたミケルセンに逆転を許し5位に終わった。
2014年はWRC2に7戦に出場し4勝を挙げ2006年のプロダクションカー世界ラリー選手権(PWRC)以来となる2度目の世界チャンピオンを獲得。2015年にも3勝を挙げて連覇した。
サーキットレース[編集]
2015年、地元カタールで行われた世界ツーリングカー選手権(WTCC)最終戦にシボレー・クルーズでスポット参戦。第一レースは16位、第二レースは14位に終わっている。
人物[編集]
- 少年期はドーハ郊外に住んでおり、近くにあった広大な砂漠で11歳の頃から密かに自動車を乗り回した。初の愛車は17歳のときに父からもらった日産・パトロール。
- WRC王者とダカール総合優勝のどちらかを選べるなら、後者であると発言している。また射撃関係者からラリーをやめてくれと言われた時、「それなら射撃をやめる」と答えたと述懐している。
脚注[編集]
- ^ “Shooting - ALATTIYA Nasser Saleh - Biography”. Guanzhou Asian Games Organizing Committee (2010年). 2010年11月29日閲覧。
- ^ “Qatari driver Nasser al-Attiyah wins fourth Dakar Rally title”. アルジャジーラ (2022年1月14日). 2022年1月14日閲覧。
- ^ ナサール・アルアティヤ&マチュー・ボーメルがバギーに挑戦!Red Bull 2021年8月15日閲覧
- ^ FINAL Results Skeet Men - 12th Asian Championship
- ^ London 2012 - Dakar winner takes aim at fifth Games - Yahoo! Eurosport UK・2012年2月15日
- ^ ロンドン五輪出場目前、アルアティヤーの一問一答 - RALLYPLUS.NET・2012年6月26日
- ^ [1]
- ^ カタール、Mスポーツを全面援助へ - RALLYPLUS.NET・2012年11月3日
出典[編集]
『WRC PLUS WORLD RALLY MAGAZINE Vol.06』 2009年9月10日 三栄書房刊
外部リンク[編集]
- ナサール・アルアティヤ - Olympedia(英語)