コリューシュ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
コリューシュを模った花人形、2011年にヴォージュ県ジェラールメで行われたスイセン祭りにて

コリューシュ(Coluche)、本名ミシェル・コルッチ(Michel Colucci)は、フランス俳優である。主に喜劇俳優(コメディアンユーモリスト)だが、後年にはシリアスな役も少なからず演じた。1944年10月28日パリ14区生まれ、1986年6月19日アルプ=マリティム県オピオで没。

ローマ郊外フロジノーネ県カザルヴィエーリの出身である父のオノリオ・コルッチと母シモーヌ・ブイエの間に生まれた彼は、26歳の時に自らの苗字をフランス語風に綴ってコリューシュと名乗ってデビューした。

貪欲に、しかし彼の言葉によると「決して下品にならずに」、彼は皮肉やタブー、現代社会のモラルや政治への批判を交えながらミュージックホールで活躍し、1974年にパロディ満載のテレビ番組『Le Schmilblick (ル・シュミルブリック)』で人気を得た。 1976年以前に様々な映画で準主役の経験を積んだ彼は、1980年には主役として数々のコメディ映画に出演した。1984年には映画『Tchao Pantin (チャオ・パンタン)』でセザール賞主演男優賞を受賞している。

1981年にはフランス大統領選挙への出馬を試みたが、様々な圧力により辞退した。

社会的な人気を得た彼は、1985年に貧しい人への無料の食事の配給を行う団体『Les Restos du cœur(心のレストラン)』を立ち上げた。

1986年、バイク事故を起こして急逝した。

経歴[編集]

少年時代[編集]

モンルージュ[編集]

ミシェル・コルッチは1944年10月28日にパリ14区のノートルダム=ド=ボン=スクール病院で生まれた[1]。彼の母でモネットと呼ばれたシモーヌ・ブイエは、モンパルナス通りの花屋ボーマンに勤めていた。父のオノリオ・コルッチはイタリアラツィオ州の出身で、朝市で八百屋を営んでいた[n 1]。1947年に父が31歳で急性灰白髄炎により死去すると、母は一人で2人の子供を育てる羽目となり、父の家族に見放されると(父方の祖母のマリアだけは縁故を保っていたが)[2]、母とミシェル、一歳半年下の妹のダニエルは、一部屋と台所だけの狭い家に住んだ。母は子供の世話のために花屋の仕事は辞めたが、それでもなお小さな仕事を見つけてきて二人を育てた[3]。しかし脊柱側彎症にかかり、二人の子供を連れてパ=ド=カレー県のベルクで療養した。このような困難な状況にもかかわらず、二人の子供の暮らしは希望のあるものであった[3]。ミシェルは母や妹に迷惑をかけまいと、妹がお下がりで着られるような女の子好みの服を着るようになった。

ミシェルはパリ南部郊外モンルージュの小学校へ入学した。学業にはあまり興味が湧かなかったが、級友を笑わせるのを得意とし[n 2]、その人気で生徒会長を務めた。しかし学業は初等教育修了(CEP)までしか受けなかった。1958年6月のある日の朝、ディクテ(聞き取り試験)のたった一つの間違いによって泣きじゃくった彼は、午後の授業を休んだ[3]。そのうち級友と不良グループを作って町内で次々と小さな非行を働くようになり、度々警察の厄介になった。しかし15歳のある日、老女からひったくりをしようとしたところを通行人に阻止され、その悪徳に気づいて我が身を恥じた[3]

このような振る舞いはもちろん母を苛立たせ、将来を不安がらせた。ミシェルは小さな仕事を見つけてきては、どれも長く続かなかった。電報局員、皿屋、カフェギャルソン、本屋の店員、写真家の見習い、薬局の調剤師の助手、観光客向けの街頭写真屋、消防団員、八百屋や花屋の店員に至るまで[3]。この間、彼は音楽に興味を示した。多くの彼の世代の少年がそうであるように、彼もまたロックンロールの大ファンとなり、ビートルズジョニー・アリディレ・ショセット・ノワールエルヴィス・プレスリーに熱を上げた。一方でジョルジュ・ブラッサンスも好きであった。母モネットとの大激論の結果、彼は最初のギターを手に入れた。たとえそれまで一度も触ったことすらなかったにもかかわらず[3]

パリ彷徨[編集]

コリューシュが活動したパリのキャバレー「ラ・ヴィエイユ・グリル」

この頃から悪童時代を過ごした地元モンルージュを離れ、隣接するパリ市内へとその彷徨の足を延ばすようになる。修理工の仕事をしながら演劇やモータースポーツの世界に興味を示すが、やがてシテ島の花市の中の一軒に勤めるようになる。そして1964年に軍隊に入りロンス=ル=ソーニエの第60歩兵隊に勤めるが、不服従の罪で営倉に入れられた。任期を終えて市民生活に戻ると、母と共に花屋を営むようになり、パリ・リヨン駅の近くに店を構えた。しかしそのような仕事にはあまり興味を示さず、次第に母の目から逃れるように行方をくらますようになる[3]

1960年代の終盤、彼は音楽の道を志す。1966年から1967年にかけて、パリ5区ムフタール街のコントルスカルプ広場やサン・ミッシェル地区のカフェで流しの歌手としてボビー・ラポワントジョルジュ・ブラッサンスボリス・ヴィアンレオ・フェレ、またイヴ・モンタンの曲を歌った。そこでザヴィエル・ティボージャック・ドラポルトなどの音楽家と知り合い、モン・サント・ジュヌヴィエーヴ地区(パンテオンを頂上とするムフタール街の坂を上った丘の上)のキャバレー「シェ・ベルナデット」でジョルジュ・ムスタキと知り合い、彼の家に転がり込む。そこからカルチェ・ラタン地区の他のキャバレーへと活動範囲を広げ、フランス・パレとアラン・パレの兄弟と共にバンド「ひまわり」を結成し、また生涯に渡って師と仰いだロマン・ブテイユとも知り合った[3]

喜劇役者としてのデビュー[編集]

カフェ・ド・ラ・ガール[編集]

2013年現在の場所にあるカフェ・ド・ラ・ガール

ロマン・ブテイユとともに、コリューシュは1969年6月12日、「カフェ・ド・ラ・ガール(駅のカフェ)」の開店式に立ち会った。劇場カフェの象徴であるこの店は、多くの出自の異なる若い喜劇役者のデビューのきっかけとなり、パトリック・ドヴェールアンリ・ギベミュウミュウマルタン・ラモットらの俳優を生んだ。またその支持者にはジョルジュ・ムスタキレイモン・デヴォジャン・フェラジャック・ブレルレニ・エシュデロピエール・ペレジャン・ヤンネ、そして雑誌『ハラキリ』(現シャルリー・エブド)の記者らがいた。のちにはジェラール・ランヴァンルノー・セシャンルフュディアヌ・クリスコリーヌ・セローアネモーヌジェラール・ドパルデューティエリー・レルミットジョシアーヌ・バラスコ、またジェラール・ジュニョが時々その共同作業に加わった。ロマン・ブテイユによると、コリューシュは酒癖の悪さで度々問題を起こしたという。舞台『fr:Des boulons dans mon yaourt 僕のヨーグルトの中のネジ』の稽古中、彼は酔っ払った挙句にブテイユとドヴェールに乱暴を働き[n 3]、ドヴェールが引き止めたにもかかわらず、コリューシュはグループから去っていった[n 4]

テレビ[編集]

1971年10月、ジャック・マルタンはコリューシュを、ORTF(フランス放送協会)の番組『午後のマガジン』のプロデューサーであるジョルジュ・フォルゴアに紹介し、ダニエル・ジルベールとチームを組んでの出演を取り付けた。しかしこれは5日間しか続かなかったという。[4]

最初の舞台[編集]

1960年代末から1970年代初頭にかけて、コリューシュはORTFの様々なテレビドラマに出演した。例えば『fr:Madame êtes-vous libre ? (奥様、ちょっとよろしいですか?)』でドニーズ・ファーブルと共演し、また『fr:La Cloche tibétaine(チベットの鐘)』でフィリップ・レオタールと共演した。この間、カフェ・ド・ラ・ガールの他の仲間たちに倣って、彼もまた様々なラジオやテレビのコマーシャルに出演した。1970年には初めての長編映画『fr:Le Pistonné(コネがあるやつ)』に出演した。女優でコリューシュの恋人であったミュウミュウのインタビューによると、これは当初コリューシュが主役を演じる予定であったが、最終的にギイ・ベドスが主役を演じ、コリューシュは脇役での出演となった。[n 5]

ル・ヴレ・シック・パリジャン[編集]

1971年11月、コリューシュは新たな劇場カフェ「ル・ヴレ・シック・パリジャン(本当に粋なパリ市民)」を立ち上げ、「カフェ・ド・ラ・ガール」が移転した後の店舗にオープンした。最初の舞台『テレーズは悲しい』は、彼の友人であった漫画家ジャン=マルク・レイゼがポスターを描いた。

この時期、彼はのちの妻となる「良家の子女」でジャーナリスト志望の学生のヴェロニク・カントールと出会う。1975年10月16日に彼らは結婚し、2人の子供をもうけた。1972年生まれのロマンと、1976年生まれで俳優になったマリウス・コルッチである。

またもや酒癖の悪さとその振る舞いによって、彼はグループを去り、ソロ活動を始めることとなる。

成功[編集]

ソロのキャリア[編集]

彼の最初のスケッチ・コメディーコント)『C'est l'histoire d'un mec (ある野郎の物語)』は、愚弄しながら難しい笑い話を語る。この成功によって、彼はたちまち知名度を得て、その人気は衰えることはなかった。「彼は1970年代のバンリュー(郊外)の貧困層の持つイメージを作り上げ、とっつきやすいが短い言葉で、差別的な表現を含んで広告やラジオを揺さぶった」[5]「いつも粗野だったが、決して俗悪ではなかった」[n 6]

1974年、興行師でプロデューサーのポール・ルダーマンからブリュイエール劇場での『テレーズは悲しい』の延長公演を持ちかけられたが、しかしこれは大失敗に終わった。1974年2月15日から3月2日まで、オランピア劇場で『さらばミュージックホールよ』を演じ、その舞台でのサスペンダー付きズボンと黄色いTシャツの衣装は、彼のトレードマークとして広く知られることとなった。彼は舞台で有名人のものまねや、粗野で保守的でオーバーな表現で皮肉屋の市民たちを演じた。1974年3月10日、彼のコントを吹き込んだ最初のレコード『アデュー(さらば)』の契約に署名した。

1974年5月19日、プロデューサーでテレビ司会者のギイ・リュクスによって、フランソワ・ミッテラン大統領候補の演説の直前に、(政治的に皮肉な内容の)『ある野郎の物語』が放映された。

1975年、ギイ・リュクスとともに出演した『ル・シュミルブリック Le Schmilblick』でフランス全土の人気を得る。コントの中で演じたパピー・ムジョーという役は、のちにコリューシュの定番の役となる。

1976年にはエリゼ・モンマルトル劇場で、劇場カフェ「スプレンディド」の団員とともに『ジネット・ラカズ』を演じた。

1977年にはマルク・モネとコリューシュの共同監督で『fr:Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine アルザスロレーヌはもうないだろう』を撮影し、主役の王グロ・ピフ1世を演じた。この映画はコリューシュにとって唯一の監督作となった。

コリューシュが住んだパリ14区ガザン通りの一軒家

この時期よりパリ14区ガザン通りの一軒家を購入し、そこに住むようになる[6]

またこの時期には多くの映画に出演した。中でもルイ・ド・フュネスと主演を分かち合った『L'Aile ou la Cuisse(手羽先かモモ肉か)』(1976年、クロード・ジディ監督)は特によく知られる。

ラジオ[編集]

Europe 1にあるスタジオ・コリューシュ

この時期コリューシュは2つのラジオ局に出演したが、いずれも短期間で解雇された。1つめのヨーロッパ1ではボリス・ヴィアンのシャンソンのタイトルから借用した『fr:On n'est pas là pour se faire engueuler 怒鳴るために居るんじゃない』と題した寸劇を演じたが、あまりに挑発的な内容だったためにすぐにクビにされた。2つめのラジオ・モンテカルロでも毒舌を繰り返した挙句、わずか15日目(放送の第2週目)に「こんにちは、今日は売春宿から生中継です」と発言したために即刻クビにされたが、彼はこの期間の報酬は(彼のために働いたスタッフへの賃金を除いて)一銭も請求しなかった。

このように既存局から締め出しを食わされた後、コリューシュはFMラジオ局新設の規制緩和運動に加担した。1981年にはパトリック・メイエによるRFM局の開設運動に加わった。RFM局は423日間にわたって電波妨害を受けた。コリューシュは1981年10月から12月にかけてこの電波妨害に対する抵抗運動に加担し、同年12月24日にはサンタクロースに扮して文化・通信省大臣ジョルジュ・フィリウの退任を求めて、RFMの視聴者60万人の支持を得た。

政治と挫折[編集]

大統領選[編集]

選挙運動に使われたミニカー。「コリューシュに投票して」と書かれている

喜劇役者出身の大統領候補は実はコリューシュが初めてではない。コリューシュが敬愛したピエール・ダックは1965年に大統領選出馬を表明しているが、エリゼ宮シャルル・ド・ゴール)の圧力により、最終的に断念している[7]

コリューシュは1980年10月30日に、翌1981年のフランス大統領選への出馬を表明した。その時のスローガンは「私の出る前、フランスは2つに分かれていた。今後は4つに折れ曲がるだろう」「コリューシュ、出馬理由に嘘のない唯一の候補」であった。

世間の幾らかはそれを冗談と見る向きもあったが、しかしながら支持率は16%を獲得し、ピエール・ブルデューフェリックス・ガタリジル・ドゥルーズといった哲学者たちが支持を表明していた[8]。全ての党の候補が彼の出馬を懸念していた、とコリューシュ自身が後に語っている。最有力候補(で当選し大統領になった)フランソワ・ミッテランは、彼の属するフランス社会党の幹部2人を交代させ、コリューシュに出馬を思いとどまらせようとした。

ある候補が反コリューシュを標榜して出馬したが、誰もそれを顧みようとしなかった。しかしコリューシュ側近の助監督ルネ・ゴルランが暗殺され、様々な圧力がかけられた結果、コリューシュは最終的に1981年3月16日に出馬を断念した。ミッテランの当選の後、コリューシュは夜のテレビ・ラジオ番組に再出演するようになり、同年10月から3ヶ月の間パトリック・メイエによってRFM局の1時間の長番組『L'humour continue pendant les travaux ユーモアは工事中でも続く』に出演した。

暗黒の期間[編集]

1981年12月3日、彼は離婚を成立させた。この時期の雑誌『ハラキリ』の特集号で、コリューシュは親友パトリック・ドヴェールに22ロングライフルを贈る写真を載せた。この時期彼はグアドループに住み、靴作りに熱中した。彼はドヴェールの妻エリザ(エリザベート・マルヴィナ・シャリエ[n 7])を島に呼んだ。彼女はドヴェールを去り、コリューシュについて行った。しかしながらその間、彼はベルトラン・ブリエ監督の映画『fr:La Femme de mon pote (友達の女)』に出演するためにフランス本土へと帰った。このキャスティングはコリューシュを主役に、ドヴェールとそのパートナー(およびコリューシュの元恋人)のミュウミュウが予定されていた。映画の脚本はこの三人の実際の関係を元にしていた。

1982年7月16日、ドヴェールはミュウミュウと彼女との娘ローラが出かけた後、コリューシュから贈られた銃[9]で頭を撃ち抜いて自殺した。コリューシュは次第に酒と薬物に溺れていった。

ドヴェールの自殺の後、ミュウミュウはベルトラン・ブリエの映画のヒロイン役を辞退した。この2つの苦い経験の末、最終的に映画はイザベル・ユペールティエリー・レルミットとの共演によって撮影され、コリューシュはその中で自分の演技スタイルを変えていった。これは後の代表作『チャオ・パンタン』へと繋がっていく。

この暗黒期は、彼が正気に戻らないうちに、さらにもう一人の友人である漫画家のジャン=マルク・ライゼが死去したことで終わる。

舞台への復帰[編集]

コリューシュの俳優としての確立は、クロード・ベリ監督の映画『fr:Tchao Pantin チャオ・パンタン』でもたらされた。この映画で、彼は暗い過去を背負い酒と薬物に逃避するガソリンスタンドの夜間店員を演じ、それはコリューシュ自身の私生活に他ならなかった。彼はこの映画で1984年セザール賞主演男優賞を受賞する。

この成功の他にも、彼は多くの観衆の人気と名声を得た。1982年、ジャン・ヤンヌ監督の『Deux heures moins le quart avant Jésus-Christ (紀元前2時間15分前)』[n 8]ミシェル・セローと共演し、「ベン・ハー・マルセル」という役を演じた。またクロード・ジディ監督との3作目の共同作業となった『Banzaï (バンザイ)』に出演し、1984年ジェラール・ウーリー監督の『La Vengeance du serpent à plumes (蛇から羽までの復讐)』および1985年ディーノ・リージ監督の『戦争の狂人』では主演を務めた。後者ではベルトラン・ブリエの父親である俳優のベルナール・ブリエと共演した。

コリューシュはユーモリストだけでなく表現者としてのキャリアを広げようとしていった。彼はミシェル・ポラックの番組『返答の権利』に度々出演した[10]。1983年6月18日の放送回ではコリューシュの特集が組まれ、司会者によるその日のゲスト紹介の直後に(彼にとってトラウマである)銃による自殺をも演じて見せた[11]

1981年選挙の結果ミッテランが大統領になって以降、コリューシュは1984年9月15日に古巣であるパリのガザン通りの家に戻った。彼は『反差別の行進』『集中'84』と言ったイベントに参加し、ハーレム・デジールと共に『SOS差別』を立ち上げた。

1985年3月にはエチオピアの飢餓のために、他の賛同するアーティストと共に『国境なき歌手団』を立ち上げ、1980年代の代表的なフレンチシャンソン歌手(ダニエル・バラヴォワーヌジャン=ジャック・ゴールドマンなど)らと共に『SOSエチオピア』を歌い4ヶ月間活動した。

1985年6月15日にはギイ・ベロスと共に『SOS差別』のコンサートをコンコルド広場で行った。1985年9月25日には「壮大な悪ふざけ」として、女装してウェディングドレスを着たコリューシュと[12]、ティエリー・ル=リュロンとの(同性の)結婚式を行い、しかも著名アナウンサーのイヴ・ムルーシのテレビ中継された結婚式を再現した。その「前衛的同性愛結婚主義者」の鋭いパロディは、フランスの全メディアが報じた。

妹の夫でダカール・ラリーに参加したレーサーのルネ・メッジュの影響で、コリューシュはモータースポーツに興味を持ち続けていた。1985年9月29日、健康を取り戻した彼はヤマハ750(0W31)でイタリアナルドのサーキットで252.087kmの2輪レース世界新記録を出す[13] · [14] · [15]。彼は続けて自己の世界新記録を更新するためレースに出たがっていたが、しかしそれは後に彼の交通事故死の遠因となるのであった。

何度かの単発出演の後、彼はこの時期ラジオにも復帰した。1985年7月8日から1986年3月19日まで(7月中は放送時間11:00-12:30、8月以降16:30-18:00)、マリーズ(・ジルダ)と共にEurope 1のラジオ番組『全ての人のためにある』に出演し、また1985年10月から1986年2月まで有料テレビ局Canal+の番組『Coluche 1 faux (コリューシュ・アンフォ)』(1 faux, info, 共にアンフォと読み、「コリューシュのニュース番組」と「偽コリューシュ1号」という意味とを掛けている。ニュースアナウンサーの体裁を取りながら短いギャグを連発するコント番組)にも出演した。この時期、彼は貧しい人への無料の給食プロジェクト『Les Restos du cœur(心のレストラン)』を計画する。

1985年9月26日、コリューシュはラジオEurope 1で『心のレストラン』の計画を発表し、賛同者とスポンサーを募った。最初のキャンペーンはパリで1985年12月14日から翌年3月26日まで行われた。

パリのゼニッツで予定されていた新シーズンの出し物の準備のために、コリューシュはアルプ=マリティム県オピオ近郊のシャトーヌフ=グラースに滞在した[16]。そこで彼はプロデューサーのポール・レダーマンに送るための一人漫才の準備のために、政治家やスポーツ選手などを演じた多くのスケッチをカセットテープに録音した。この公演は9月23日より40日間続いた。彼は失業者を演じ、それから劇中で怪傑ゾロに変身した。ポスターには「コリューシュの新たな公演、全ての人のためにある」と銘打たれた。現在残る録音は編集されたものであり、観客の笑い声は彼の常連のゼニッツ劇場のものではなく後から追加されている。20年後のフレッド・ロマノのインタビューによると、幾つかの当時のスケッチ録音は、彼の事故死の追跡調査に際して散逸したという[17]

コリューシュは映画に復帰することはなかった。1984年に撮影され1985年に公開された『戦争の狂人 Le Fou de guerre』は、コリューシュの遺作映画となった。ベルトラン・ブリエはその次作を計画していたが、結局コリューシュを起用することはなかった。1982年の『La Femme de mon pote (友達の女)』での悲しい経験が、ブリエを迷わせていたのである。

彼はまたクロード・ベリ監督の映画『愛と宿命の泉 PARTI/フロレット家のジャン Jean de Florette』も準備していたが、ベリはもっと血気高い性格を探していたため、コリューシュはキャスティングを降り、最終的にダニエル・オートゥイユが演じることとなった。しかしそのコリューシュが参加していた撮影期間、彼は映画中で「パペ」役を演じたイヴ・モンタンと知り合った。それまでモンタンとはわずかにテレビ番組で顔を合わせたかすれ違っただけであったが、同じイタリアの家系出身であることがわかり、この機会に二人は仲良くなった。モンタンは『心のレストラン』計画に賛同し、コリューシュを多くの政治家に引き合わせ、また1985年には4年前にかつての大統領選で戦ったフランソワ・ミッテラン大統領にも謁見した。

[編集]

事故現場近くの追悼碑、オピオのピオル地区「ロンポワン・コリューシュ」の道路脇にある
モンルージュ墓地にあるコリューシュの墓

1986年6月19日、コリューシュは二人の友人、ルドヴィック・パリとディディエ・ラヴェルニュと共に、16時15分にオピオへ帰るためにバイク(ホンダ 1100 VFC)でカンヌを出発した。16時35分、彼は遺体で発見された。場所はフィリップ・ボッジオによると、彼が翌日まで借りていた貸家から4km弱であった。事故の原因となった重量積載トラックの運転手の証言には反して、憲兵隊の調査によると[18]、コリューシュはヘルメットを着けておらず、トラックは90キロ制限の道路を60キロで走っていた。後ろを走っていた二人の友人の証言によると[n 9]、トラックはヴァルボンヌとシャトーヌフ=グラースの二つの村を結ぶまっすぐな道(県道3号線)で、コリューシュの視界をふさいでいた。16時30分から35分までの間に事故は起こった[19]。直線の終わりにあるオピオ本村とピオル地区への分岐点で[12]、稼働荷台牽引トラックは急に方向転換をしようとした。コリューシュは何も対処できず、あるいはバイクをわざと転倒させてトラックの下に滑り込もうとしたがそれは叶わず、彼の頭はトラックの前照灯の高さで激突し、それは致命傷となった[12]

このような状況から、コリューシュの死には暗殺説が付きまとった。2006年には、1986年当時の憲兵隊と警察の調査書をまとめたドキュメント『コリューシュ、事故』がジャン・デピュッセとアントワーヌ・カジュボロにより出版された。本によると調査はカンヌ裁判所[20]の裁判官であったジャン=ポール・ルナールによって統括されており[21]、さらにカンヌ裁判所による法令順守の監査がわずかしか行われていなかった[22][23]と主張している[24]

長い沈黙の後[25]、トラウマに陥ったトラックの運転手[21]は2013年6月にニースの地方週刊紙「プチ・ニソワ」の短いインタビューに当時の状況を答えている[26]。しかしながらコリューシュの事故について扱った書籍にはどれも証言を残していない。

1986年6月24日、コリューシュはパリ14区オルレアン門の近くのモンルージュ墓地に埋葬された。多くの映画人が葬儀に出席した。葬儀ミサはアベ・ピエール神父によって行われ、「もし誰かが、彼は誰にも敬意を持っていなかったと言ったとしたら、それは違うと言ってやりなさい。私が証言者である」との言葉を残した[27]

毎年6月には、コリューシュを偲んで事故現場近くのピオルのロンポワン(ロータリー)にバイクファンが集う[15]。ロンポワンの脇には彼の似顔絵が電気設備小屋の壁に描かれており、常に多くの献花が飾られている[15]。この交差点「カルフール・ド・ピオル」[n 10]はロンポワンに改修され[n 11](GPS 43.661275,6.987775)2013年6月23日に「ロンポワン・コリューシュ」と改名された[28]

彼の死後、遺産相続を巡って、彼の2人の息子マリウス(最初彼は遺産相続を放棄したが、最終的に1990年に受諾した)およびロマンと、ポール・レダーマンの間で係争が続いている[29]。最初1998年に民事裁判、次いで2009年に刑事裁判が開かれた[30]

人道的な仕事[編集]

彼は喜劇役者として有名なだけでなく、『心のレストラン』の創立者としても知られる。「私は成金ではなく、元貧民である」という彼の語にあるように不利な出身であった彼は、フランスの大きな窮乏の実態と、最下層の人々への助け合いの必要性を世に知らしめた。この協会の活動によって、彼らの窮困は一時的に緩和されている。とはいえこのような社会の窮乏の歴史は常に続いている。そのような貧困を緩和されるための救済的な法律が1988年に可決されたが、この法律は俗に「コリューシュ法」と呼ばれるようになった。つまり、ある一定以上の規模の会社はその利益の一部を社会福祉のための団体に寄付するよう義務付けるものである。

コリューシュのトレードマークである青と白の縞のつなぎズボンは、もともとアベ・ピエール神父によって始められた貧困者に必要物資を配給する「エマウス運動」から来ている。彼の知名度によって神父の運動は「エレベーターに押し込むように」知名度が急上昇し、また神父も『心のレストラン』を支持し、相互の支持を行った。

オマージュ[編集]

テレビ番組[編集]

  • 1989年、当時のテレビ局ラ・サンクLa Cinq(現在の国営局チャンネルFrance 5で元は民放)がニュースの後に『ある野郎の物語』のタイトルのもと、コリューシュの遺した録画コントを毎週放映していた。
  • 1991年、ラ・サンク局で「コリューシュ、ル・リュロン、いつも」また「コリューシュ、ル・リュロン、本当に良い子?」と題して二人の録画コントや舞台録画の抜粋を放送した。最終回には上述の二人の結婚式パロディの録画が放送された[31] · [32]
  • 2006年には没後20周年を記念して3つの特集番組が放送された。『コリューシュ、20周年』ではディディエ・ギュスタンの司会でコント録画の傑作選が放送された[33]。『コリューシュ、フランスは常に君を欲している』という番組も放送され、彼の生涯が紹介された[34]フィリップ・ラブロによる『コリューシュ、答え無き死』は、事故死の真相に最も迫る番組であった。
  • 2008年8月にはFrance 2でのローラン・ドゥラウースによるレギュラー番組『ある日・ある運命』のある放送回で、コリューシュが特集された[35]
  • 2011年4月には没後25周年を記念し、France 5でのマリー・ドラッカーによる番組『これが私たちの歴史』で3回にわたってコリューシュが特集された[36]。またM6局の長時間番組『パリ・プルミエール』でもコリューシュが特集された[37]
  • 2011年11月(2013年3月に再放送)ではFrance 3でジャン=ルイ・ペレスによる56分のドキュメント『コリューシュ、国の敵の王冠』が放送された[38]
  • 2012年2月(同年10月に再放送)ではテレビジョン・モナコにてローランス・ボッコリーニの司会で『永遠のコリューシュ』が放送された[39]
  • 2012年9月にはFrance 4で、前番組『民衆の一番の友コリューシュ』[40]に続き、映画『コリューシュ、ある野郎の物語』[41]が放送された。
  • 2014年5月にはD8局で、コリューシュのテレビ番組デビュー40周年を記念して『シュミルブリックから心のレストランまで、コリューシュの気違い歴史』が放送された[42].。

映画[編集]

2008年10月15日、アントワーヌ・ド・コーヌ監督の映画『fr: Coluche, l'histoire d'un mec コリューシュ、ある野郎の物語』が公開された。主演のコリューシュ役はフランソワ=ザビエ・ドメゾンが演じた。興行収入は54万人の観客を得た[43]。1980-81年の大統領選の時期のコリューシュの私生活を題材としている。

音楽[編集]

  • ジェラール・ルノルマンは、コリューシュが大統領選に出馬する前年の1980年に『もしも僕が大統領だったら』という歌を発表した。その中で「コリューシュは僕らのおふざけ大臣で、すべての広場のメリーゴーランドに課税するだろう」と歌っている。
  • ルノーはコリューシュの友人であり、コリューシュはルノーの娘ロリータの代父カトリックにおける洗礼時の宗教的な父親役)にもなった。コリューシュの事故死から数日後、ルノーは『トラックの馬鹿野郎』と題した歌を発表し、コリューシュに捧げた。コリューシュは本名ミシェル・コルッチの名でルノーの楽曲『汚らしい太陽』の歌詞を提供している。またルノーは『僕のお気に入りのビストロ』でコリューシュの名を引用している。
  • フランスのパンク歌手ゴゴル・プルミエは、『でも誰が僕らを笑わせるんだ?』(1986年6月)と題した歌をコリューシュの死からわずか数時間後に完成させた。彼は映画『チャオ・パンタン』にも出演している。
  • ジャン=リュック・ラアイエは『やっぱり君を愛している(チャオ、コリューシュ)』と題した歌を発表し、その45回転EPレコードの裏面には『君は戻ってこなきゃならないだろう』という歌も入れた。2曲ともアルバム『優しさの犯罪の断片』(1986年9月)に収録されている。
  • フランスのヘビーメタルバンド「ヴルカン(火山)」は、コリューシュの事故の日付である『1986年6月19日』と題した歌をアルバム『ビッグ・ブラザーズ』(1986年)の中に収録した。
  • パロディ音楽グループVRPは楽曲『肥満の火曜日』の中の歌詞でコリューシュへのオマージュを捧げた。「偽コリューシュは君らを笑わせようとし・・・これがある野郎の物語だ」
  • 歌手グループ「レ・ウリッグル」は楽曲『陰謀』(1994年)の中でコリューシュの事故について「君らはコリューシュがトラックの下敷きでグチャグチャに轢かれたと信じるのかい?」と歌っている。
  • 歌手カルロスは楽曲『コルッチ』(1997年)を発表した。
  • 歌手ソプラノは楽曲『ヒロ』(2010年)の中でコリューシュへのオマージュを捧げ、「できるなら時間を戻して、彼のバイクのタイヤをパンクさせたい」と歌っている。
  • グループ「レ・ファタル・ピカール」は楽曲『あるスケの物語』で「お前がコリューシュの手を引っ張ったとでも思ってるんだろう」と歌っている。
  • ベルリエ・ノワールは楽曲『腹が減った』の中で「心のレストランにも挨拶しとかないとな。女子修道院よりずっとマシだ」と歌っている。
  • ラ・フイーヌは楽曲『最下層からの出発』(2011年)の中で「心のレストラン」について触れており、「買い物袋を隠して、ママ、コリューシュのところへ行く時には」と歌っている。
  • ジョルディは楽曲『卒業生』の中で「僕はジョン(・レノン)、コリューシュ、ゲンズブールのところへ行きたい。でも僕は天使とかそういう類のものは信じちゃいない」と歌っている。
  • ムッシューRは楽曲『僕のツラがどうしたって?』の中で「コリューシュのバカさ加減と同じくらい知られてる」と歌っている。
  • ドン・ショアは楽曲『コンクリートのジャングル』の中で「よおコリューシュ、君にレストランでおごるぜ」と歌っている。無論、心のレストランについての示唆である。
  • ブラックMは楽曲『俺は襲う』の中で「お前を泣かせたり笑わせたりするぜ、コリューシュみたいにな」と歌っている。

[編集]

バラの園芸品種「コリューシュ」

バラ園芸品種「コリューシュ」がメイアン社によって2003年に彼のオマージュのために名付けられた。赤色のフロリバンダである。例えばレンヌのタボル公園に植えられているのを見ることができる。(2015年現在、メイアン社のカタログには掲載されていない。)

その他[編集]

  • 小惑星番号170906は、コリューシュと名付けられている。

モニュメント[編集]

名前を持つ施設[編集]

  • アンドル=エ=ロワール県のルノー城にある「ミシェル・コルッチ飛行場」
  • ウール県ヴァル=ド=ルイユにある「コリューシュ学校」(幼稚園と小学校の複合体)
  • アティス=モンスにある「エスパス・コリューシュ」(エスパスは市民の集会所(一つの集会室ではなく建物全体)のような「スペース」を指す)
  • ジャンリスにある「エスパス・コリューシュ」
  • モンルージュにある「エスパス・コルッチ」(映画館及び劇場)
  • メッスにある「ミシェル・コルッチ幼稚園・小学校」
  • コンパン(ス)にある「サル・コリューシュ」(サルはホール、教室、集会室、映画館などを指す)
  • ノール県オンショートにある「サル・コリューシュ」
  • ローン=プラージュにある「サル・コリューシュ」
  • ラン=デュ=フィリエにある「サル・コリューシュ」
  • リスル・ダボーにある「ミシェル・コルッチ社会センター」
  • イストルにある「ル・コリューシュ映画館」
  • テリトワール・ド・ベルフォール県ルージュモン・デュ・シャトーにある「ミシェル・コルッチ中学校」。校名は市長の反対にもかかわらず生徒たちによって選ばれた。2006年11月7日にコリューシュの未亡人の出席で開校式が行われた。
  • ラジオEurope 1にある「スタジオ・コリューシュ」
  • イヴリーヌ県プレジールにある「エスパス・コリューシュ劇場」
  • ロマン=シュル=イゼールにある「コリューシュ地域会館」
  • アラスにある「ミシェル・コルッチ会館」
  • ロンジュモーにある「ミシェル・コルッチ会館」
  • モンペリエにある「ミシェル・コルッチ全人会館」
  • キャリエール=スー=ポワシーにある「ミシェル・コルッチ複合サービス施設」
  • セーヌ=エ=マルヌ県ショコナン=ヌフモンティエにある「サル・ミシェル・コルッチ」
  • パ=ド=カレー県ディヴィオンにある「サル・ミシェル・コルッチ」

道路、広場など[編集]

パリの「コリューシュ広場」の標識

2002年11月5日、パリ13区14区の境界にあるアレジア通りとトルビヤック通りに面する交差点が「コリューシュ広場」と命名された。しかし実際に命名式が行われたのは2006年で、この時初めて「コリューシュ広場」の道路標識が設置された。式典にはベルトラン・ドラノエ市長のほか、13区と14区の区長も出席した。未亡人と二人の息子、またジョルジュ・ムスタキルノーを始めとする親交のあった歌手や俳優が出席した。

その他、コリューシュの名を持つ道路や広場などはフランス全国にある。

フィルモグラフィー[編集]

監督[編集]

俳優[編集]

公開年 邦題 原題 原題の直訳 監督 役名 注釈
1970年 - fr:Le Pistonné コネのあるやつ クロード・ベリ fr:Claude Berri マルカン Marquand
1970年 - Peau d'Âne ロバの皮 ジャック・デミ fr:Jacques Demy 侮辱的な田舎者(ノンクレジット)
1971年 - fr:Laisse aller, c'est une valse そこを通せ、これがワルツだ ジョルジュ・ロトネル fr:Georges Lautner カフェの主人
1971年 - fr:Madame, êtes-vous libre ? 奥様、ちょっとよろしいですか ジャン=ポール・ル・シャノワ fr:Jean-Paul Le Chanois ジョルジュ Georges テレビ映画、全13回
1973年 - fr:Elle court, elle court la banlieue 彼女は走る、郊外を ジェラール・ピレ fr:Gérard Pirès ブブル Bouboule
1973年 西暦01年 fr:L'An 01 - ジャック・ドワイヨン fr:Jacques Doillon オフィスのボス
1973年 - fr:Themroc テムロック クロード・ファラルド fr:Claude Faraldo 隣の若い住人、労働者、警官
1973年 - fr:Le Grand Bazar グラン・バザール クロード・ジディ fr:Claude Zidi アパートの客
1973年 - La ligne de démarcation 境界線 ジャック・エルトー fr:Jacques Ertaud 脱獄犯ナンバー1 テレビ映画
1975年 - Salavin サラヴァン アンドレ・ミシェル fr:André Michel タスタール Tastard テレビ映画
1975年 - fr:La Cloche tibétaine チベットの鐘 セルジュ・フリードマン fr:Serge Frydman ミシェル・ウィン fr:Michel Wyn セシヨン Cécillon テレビ映画
1976年 - fr:L'ordinateur des pompes funèbres 葬儀屋のコンピュータ ジェラール・ピレ fr:Gérard Pirès - カメオ出演
1976年 - fr:Les Vécés étaient fermés de l'intérieur トイレは内側から閉まっていた パトリス・ルコント fr:Patrice Leconte シャルボニエ警部 l'inspecteur Charbonnier
1976年 - fr:L'Aile ou la Cuisse 手羽先かモモ肉か クロード・ジディ fr:Claude Zidi ジェラール・デュシュマン Gérard Duchemin
1977年 - fr:Drôles de zèbres 愉快なシマウマ ギイ・リュクス fr:Guy Lux 料理長
1977年 - fr:Vous n'aurez pas l'Alsace et la Lorraine アルザスとロレーヌはもうないだろう コリューシュ、マルク・モネ fr:Marc Monnet 王グロ・ピフ1世 le roi Gros Pif
1980年 - fr:Inspecteur la Bavure 失態警部 クロード・ジディ fr:Claude Zidi ミシェル・クレマン Michel Clément
1980年 - Reporters リポーター レイモン・ドパルドン fr:Raymond Depardon コリューシュ自身
1981年 - Signé Furax 大激怒 マルク・シメノン fr:Marc Simenon 二重エージェント098/099
1981年 - fr:Le Maître d'école 学校の先生 クロード・ベリ fr:Claude Berri ジェラール・バルビエ Gérard Barbier
1982年 - fr:Elle voit des nains partout ! 彼女は小人をそこら中に見る ジャン=クロード・シュスフェル fr:Jean-Claude Sussfeld (端役)
1982年 - fr:Deux heures moins le quart avant Jésus-Christ 紀元前2時間15分前 ジャン・ヤンネ fr:Jean Yanne ベン・ハー・マルセル Ben-Hur Marcel /Aminemephet
1983年 - Banzaï バンザイ クロード・ジディ fr:Claude Zidi ミシェル・ベルナルダン Michel Bernardin
1983年 - fr:La Femme de mon pote 友達の女 ベルトラン・ブリエ fr:Bertrand Blier ミッキー Micky
1983年 - fr:Tchao Pantin チャオ・パンタン クロード・ベリ fr:Claude Berri ランベール Lambert 1984年セザール賞主演男優賞受賞
1983年 - Soleil, Soleil 太陽、太陽 ジャン=バティスト・モンディーノ fr:Jean-Baptiste Mondino テレビ視聴者 歌手アハメド・ファクルンの音楽ビデオ
1984年 善良なる王ダゴベール Le Bon Roi Dagobert - ディーノ・リージ fr:Dino Risi ダゴベール1世 Dagobert 1er
1984年 - fr:La Vengeance du serpent à plumes スモモの蛇の復讐 ジェラール・ウーリー fr:Gérard Oury ルル・デュパン Loulou Dupin
1984年 - fr:Les Rois du gag ギャグの王たち クロード・ジディ fr:Claude Zidi ジョルジュ Georges
1985年 - fr:Sac de nœuds 結び目の袋(こじれた問題) ジョジアヌ・バラスコ fr:Josiane Balasko コヨット Coyotte
1985年 戦争の狂人 fr:Le Fou de guerre - ディーノ・リージ fr:Dino Risi オスカル・ピッリ Oscar Pilli
1986年 - :fr:Les restaurants du cœur 心のレストラン - コリューシュ自身 音楽ビデオ

テレビ番組[編集]

ラジオ番組[編集]

  • 1981年 ユーモアは工事中でも続く l'humour continue pendant les travaux

CD, DVD[編集]

  • 1991年 「ユーモアは工事中でも続く l'humour continue pendant les travaux」選集(CD 1枚)
  • 1996年 コリューシュ全集 Coluche intégral (CD 7枚組)ラジオ番組での音声コント集
  • 2002年 コリューシュ・スケッチ選集 (DVD 3枚組) Coluche : Ses plus grands sketches, Tf1 Vidéo
  • 2002年 テレビ番組「真実のゲーム Le Jeu de la vérité」選集 (DVD 1枚)コリューシュが出演した2回を含む[n 12] Tf1 Vidéo
  • 2011年 「戦争万歳 Vive la guerre」(DVD 3枚組)「コリューシュ・アンフォ」選集を含む Canal+

脚注・出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「皆知っているように、イタリアはヒットラーに加担し戦争を起こした。もちろんイタリアよりもドイツの方がヨーロッパを多く侵略したのだが、戦後イタリア人であるということは悪く思われた。私の父もその一人である。私はイタリア人としての肉体を持ったことは一度もない。」 (Rock and Folk, 1985).
  2. ^ 「学校ではクラスを引っ掻き回したが、それは皆を笑わせるためではなく、クラスを引っ掻き回すためだった。私は喜劇役者というよりは体制打倒者だった」(Rock and Folk, 1985).
  3. ^ マド・モーランのインタビュー、書籍『パトリック・ドヴェール、私の息子、私の真実』Patrick Dewaere mon fils, ma vérité (Le Cherche midi, 2006), page 132
  4. ^ 「私は人生で二度、鍋の一撃(チャンス)があった。(酒の)瓶でそれを見つけ、特に瓶で人生を変えた」 (Rock and Folk, 1974).
  5. ^ 2011年10月3日のFrance 5の番組「あなたのために」でのミュウミュウの回想による
  6. ^ 「もし私が愚弄者で差別主義者で馬鹿者を演じているとしたら、それは私が彼らを好きだからである。なぜなら私もちょっとは差別主義者で、ちょっとは馬鹿者で、ちょっとは愚弄者だからである。聴衆はそれに自分たち自身の姿も重ねる。」 (Le Figaro Magazine, 1984).
  7. ^ パリ14区の死亡届1982年第208号による
  8. ^ 映画タイトルを逐語訳したが、時間表記で正確に訳せば「紀元前1時間45分」となる。
  9. ^ ディディエ・ラヴェルニュ「現実的にありえない要素がいくつもある」「我々は方向転換をした。我々の後ろと前にカーブがあり、その間に直線道路があり、巨大なトラックがゆっくり走っていた。ウィンカーも出さず、その後ろに車もなかった。・・・コリューシュは私のすぐ前を走り、3メートルも離れていなかった。彼はトラックを追い抜くだろうと思っており、私もそうしようと考えていた。コリューシュがトラックに追いつくと、トラックの運転手は急に方向転換し、車の鼻先をコリューシュに向けた。コリューシュは道路に閉じ込められ、停車することも避けることもできなかった。・・・それで、コリューシュの頭はトラックに叩きつけられた。単純な出来事で、わずか1秒のことだった。もう1, 2メートルあれば、彼はブレーキをかけられただろう。しかしそんな瞬間にトラックが曲がるなんて、全く考えられなかった。全く驚くべきことで、そうとしか言いようがない。トラックの責任だ。」 AUJOURD'HUI ANNIVERSAIRE DE LA MORT DE COLUCHE .”. Actualités médiatique. 2015年6月17日閲覧。
  10. ^ 2006年のバイクファンの記念走行の写真で名前が確認できる。 C'est l'histoire d'un mec Stelle à COLUCHE à Opio (06)”. bicylindre for ever. 2015年6月17日閲覧。
  11. ^ 最初からロンポワンであれば一方通行の回転であるため、トラックが急激に方向転換することはあり得ない。
  12. ^ 番組のゲストが会場の観衆および電話での視聴者からの質問に答える番組。コリューシュは1985年5月と同年9月の2回出演した。番組のルールで答えたくない質問をパスできる「ジョーカー」を2回使えるが、5月の放送回でコリューシュは番組が始まって最初の2人の質問者がそれぞれ「こんにちは」と挨拶するや否や「ジョーカー!」と叫んで2つとも使ってしまい、自ら回答パスの権利を放棄した上でその後の質問に答えた。

出典[編集]

  1. ^ Coluche par Coluche, Paris, Le Cherche midi,‎ , 238 p., p. 337
  2. ^ Bernard Pascuito, Coluche Toujours vivant, éditions Payot, p. 15 2-228-90097-4.
  3. ^ a b c d e f g h Philippe Boggio, Coluche, J’ai lu,‎ (ISBN 2-277-23268-8), chap. I (« Montrouge »)
  4. ^ Template:Vid Miou-Miou dans l'émission C à vous diffusée sur France 5, le 3.
  5. ^ Philippe Boggio, Le Monde du 17 juin 1996
  6. ^ Sandro Cassati, Coluche, du rire aux larmes, éditions City, 29 juin 2011, p. 99.
  7. ^ Pierre Dac Président, article de l'hebdomadaire l'Express publié le 9
  8. ^ Coluche par Franck Tenaille (2e partie)
  9. ^ Émission Un jour, une heure diffusée le 25.
  10. ^ Droit de réponse : La littérature populaire, la violence et les feuilletons américains, sur le site Institut National de l'Audiovisuel, émission diffusée sur TF1 le 12
  11. ^ Coluche 25 ans déjà, sur le site de l'hebdomadaire l'Express publié le 19
  12. ^ a b c Template:VidDécès de Coluche - vidéo du Journal Télévisé de 20h, Antenne 2, sur le site de l'INA, le 19
  13. ^ Philippe Boggio, Coluche, Flammarion, 1991, p. 363 2-7242-6555-6.
  14. ^ RECORD DU MONDE A MOTO KILOMETRE LANCE : COLUCHE, 29 septembre 1985, site de l'INA.
  15. ^ a b c d Photos du lieu de l'accident, sur le site bicylindre.conceptforum.net, consulté le 10 avril 2013
  16. ^ “Coluche, 25 ans après : c'est l'histoire d'un manque”. Nice-Matin. (19 juin 2011). http://www.nicematin.com/article/cote-dazur/coluche-25-ans-apres-cest-l%E2%80%99histoire-d%E2%80%99un-manque%E2%80%A6.557437.html. 
  17. ^ Marc Bihan, « Interview de Fred Romano, la dernière compagne de Coluche », sur Lemague.net,‎
  18. ^ Jean Depussé および Antoine Casubolo, Coluche, l'accident, éditions Privé,‎ , 227 p. (ISBN 978-2350760261)
  19. ^ Coordonnées : (北緯43度39分37秒 東経6度59分26秒 / 北緯43.660402度 東経6.990543度 / 43.660402; 6.990543). Antoine Casubolo interviewé par Thierry Ardisson dans l'émission [[Tout le monde en parle (France)|]] du 17 sur France 2 : Coluche, l'accident — Contre-enquête (1/2)puis 2/2.
  20. ^ {{{1}}} (PDF) Décision du Conseil de discipline du CSM (voir page 179 et suivantes)
  21. ^ a b Coluche : le chauffeur à l'origine de l'accident a fait une dépression, Le Figaro, 28.
  22. ^ Le juge Renard sur la sellette, LCI, le 12.
  23. ^ 5,000 euros d'amende pour l'ex-juge Renard, Le Nouvel Observateur, 13 janvier 2006.
  24. ^ Les dessous de la justice niçoise. Le rapport qui accuse, Libération, 12.
  25. ^ Un dossier consacré à l'accident mortel de Coluche, Europe 1, 28.
  26. ^ Interview du chauffeur Albert Ardisson à l'origine de l'accident mortel de Coluche, Le Petit Niçois, juin 2013
  27. ^ Template:Vid - Obsèques de Coluche - vidéo du Journal Télévisé de 20h, Antenne 2, sur le site de l'INA, le 24
  28. ^ Coluche a désormais un rond-point à son nom à Opio, Nice-Matin, 23, consulté le 26 juin 2013.
  29. ^ Jean-Luc Wachthausen, « Les fils Coluche encaissent les droits d'auteur de leur père », sur Le Figaro,‎
  30. ^ « Un juge va enquêter sur l'héritage de Coluche », sur Le Parisien,‎
  31. ^ Coluche : - Le luron pour toujours, sur le site editingproductions.com, consulté le 24
  32. ^ 20.45 Variétés : Coluche, Le Luron, est-ce bien raisonnable?, sur le site du quotidien L'Humanité, le 7
  33. ^ À quelques semaines Template:20e la mort de Coluche, France 3...
  34. ^ Coluche, la France a besoin de toi !
  35. ^ - Un jour, un destin consacré à Coluche, France 2, sur le site de Télérama, le 16
  36. ^ - « C'est notre Histoire : Coluche », France 5, sur le site de CAPA, le 2
  37. ^ www.programme-tv.net/programme/toutes-les-chaines/2006-06-17/divertissement ainsi que le lien explicatif: Coluche : le 19 juin, Paris Première rend hommage au comique le plus célèbre de France
  38. ^ www.france3.fr, IMDb
  39. ^ - Éternel Coluche, TMC, sur le site de Télérama, le 18
  40. ^ - Coluche, l'ami public numéro 1, sur le site de Télérama, le 19
  41. ^ - Coluche, l'histoire d'un mec, sur le site television.telerama.fr
  42. ^ http://tvmag.lefigaro.fr/programme-tv/fiche/d8/documentaire/158762608/du-schmilblick-aux-restos-du-coeur-la-folle-histoire-de-coluche.html
  43. ^ CBO Box office en France.
  44. ^ Photo de la statue de Coluche du Vigan, sur le site henricomte.com.
  45. ^ {{{1}}}Monument voor Coluche, sur le site phonk.net, consulté le 11 avril 2013