パトリック・ドヴェール

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パトリック・ドヴェール
Patrick Dewaere
パトリック・ドヴェール Patrick Dewaere
1975年
本名 Patrick Maurin
生年月日 (1947-01-26) 1947年1月26日
没年月日 (1982-06-16) 1982年6月16日(35歳没)
出生地 フランスの旗 フランス サン=ブリユー
国籍 フランスの旗 フランス
著名な家族

マド・モランフランス語版(母)

ローラ・ドヴェール(娘)
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パトリック・ドベール(Patrick Dewaere, 1947年1月26日 - 1982年6月16日)はフランス俳優

来歴[編集]

フランスブルターニュ地域圏コート=ダルモール県サン=ブリユー生まれ。母は女優のマド・モランフランス語版

1950年、3歳のときにパトリック・モラン(Patrick Maurin)の芸名でシャイヨ宮国立劇場フランス語版の舞台を踏む。1951年に子役として映画デビュー。その後、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーの『スパイフランス語版』、ジーン・ケリーの『ハッピー・ロード英語版』などに出演した。

1965年、マリ・キュリーを題材にしたテレビドラマにジャック・イジュランフランス語版サビーヌ・オードパンフランス語版らスターとともに出演して注目されるようになる。これが、ルネ・クレマンの目に留まり、『パリは燃えているか』のレジスタンスの青年役で起用されるが、この時は名前を変えようとしていた時だったこともあり、無記名での出演となった。

1968年、TV版『嵐が丘』のヒースクリフの青年時代を演じるにあたって母方の曾祖母の名Devaëreのスペルを変えてPatrick de Waëreとして出演。その後、カフェ・テアトルフランス語版運動が台頭し、「カフェ・ド・ラ・ガールフランス語版」でコリューシュアンリ・ギユベフランス語版マルタン・ラモットフランス語版ルノー・セシャンミウ=ミウらと演劇を始める。

芸名のスペルがPatrick Dewaereとなったのちは、映画ではジャン=ポール・ラプノーの『コニャックの男』、クレマンの『パリは霧にぬれて』などに顔を見せるようになり、クロード・ファラルドフランス語版の問題作『Themroc』にも出演した。

1974年、ミウ=ミウジェラール・ドパルデューと共演したベルトラン・ブリエの『バルスーズ』で世界的名声を得る。以後、クロード・ミレールジョルジュ・ロートネルマルコ・ベロッキオなどの監督作品に出演し、セザール賞に6回ノミネートされるなどフランス映画界の有望株で将来を最も期待された俳優であったが、1982年にライフル自殺を遂げる。キャリアもうまく行っていた中での突然の自殺で衝撃を与えた。

1974年に女優ミウ=ミウとの間に儲けた娘アンジェル・エリーフランス語版は脚本家となった。1979年に別の女性との間に儲けた娘ローラ・ドヴェールフランス語版は女優となった。

2008年より、フランス映画およびフランス語圏の映画の若い男優に贈られる賞として、パトリック・ドヴェール賞が設立された。これは1981年にルイ・ド・フュネスの先導で設立されたジャン・ギャバン賞が、賞の運営委員会とギャバンの遺族との間で生じた問題により改名したものである。同じく若い女優に贈られるロミー・シュナイダー賞と提携関係にある。

主な作品[編集]

外部リンク[編集]