カスリーン台風

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台風第9号
(Kathleen、カスリーン)
カテゴリー2の タイフーン  (SSHS)
発生期間 1947年9月8日 - 17日
寿命 約9日
最低気圧 960 hPa
最大風速
(気象庁解析)
最大風速
(米海軍解析)
90 knot
被害総額


死傷者数 死者 1,077名
行方不明者 853名
負傷者 1,547名
被害地域 日本

カスリーン台風(-たいふう、昭和22年台風第9号、国際名:カスリーン〔Kathleen〕)は1947年昭和22年)9月に発生し、関東地方東北地方に大きな災害をもたらした台風のこと。カスリン台風や、キャサリン台風などとも呼ばれる。台風本体の勢力の割には降水量が多い雨台風の典型例とされている。

当時、日本アメリカ軍を主とする連合国軍の占領下にあり、台風の英名についても1947年(昭和22年)から1953年(昭和28年)5月までアメリカ合衆国と同様に、A、B、C順に女性の名前が付けられていた(日本ではこの他にキティ台風ジェーン台風などが有名)。カスリーン台風の英名は「KATHLEEN」であるので、Aから数えると11番目となる。

なお、この11個の中には、アメリカ軍が英名を付けたにもかかわらず日本が台風と解析しなかった熱帯低気圧5個が含まれている。一方、カスリーン台風の前には、日本が台風と解析したにもかかわらずアメリカ軍が英名を付けなかった台風が3つ存在する。よって、カスリーン台風を日本の台風番号で表すと、11-5+3で9号となる。

規模および進路[ソースを編集]

カスリーン台風進路

現代とは観測方法が違うため、位置や強度についての正式な観測記録は残っていない。しかし、後の解析によると、カスリーン台風は1947年(昭和22年)9月8日未明マリアナ諸島東方において発生し、次第に勢力を増しながら9月14日未明には鳥島の南西 400 km の海上まで北上。このとき中心気圧は 960 mb (960 hPa)、最大風速は 45 m/s に達していたと推定されている。

その後台風は、15日未明に紀伊半島沖の南、北緯32度付近で進路を北東に変え、勢力を弱めながら同日早朝に遠州灘沖合いを通過(中心気圧は 970 mb と推定)。夜に房総半島南端をかすめ(上陸したとする見方もあるが、気象庁の公式見解では房総半島沖通過)、16日には三陸沖から北東に去っていったとされている。

台風そのものは本州に近づいたときにはすでに勢力を弱めつつあり、進路も東海地方から関東地方の太平洋岸をかすめただけであったため、強風による被害はあまり出ていない。しかし、台風接近時の日本列島付近には前線が停滞していたと推定されており、そこに台風によって南からの湿った空気が供給され前線が活発化。これが9月14日から15日にかけての戦後治水史上に残る大雨を降らせたものと考えられている。

被害状況[ソースを編集]

利根川堤防決壊碑

この台風による死者は1,077名、行方不明者は853名、負傷者は1,547名。その他、住家損壊9,298棟、浸水384,743棟、耕地流失埋没 12,927 ha など、罹災者は40万人を超え、戦後間もない関東地方を中心に甚大な被害をもたらした。

特に、群馬県赤城山麓や栃木県足利市などにおいては土石流や河川の氾濫が多発し、これらの被害者を中心に群馬県では592人、栃木県352人の死者を出している。また、利根川荒川などの堤防が決壊したため、埼玉県東部から東京都23区東部にかけての広い地域で家屋の浸水が発生した。この地域で大規模の洪水が発生するのは1910年明治43年)8月の大洪水(以下、「明治43年の大水害」と記す)以来であった。

なお、東北地方では北上川が氾濫。岩手県一関市などで被害が出ており、岩手県内では109人の死者を出している。

大きな被害が出た要因として、大量の雨がほぼ一日半の短い期間に降ったこと、戦時中戦後復興木材消費により山林が荒れ、保水力が低下していた事が挙げられている。

9月14日から15日にかけての主な降水量は、秩父 610 mm箱根 532 mm 、日光 467 mm 、前橋 391 mm 、熊谷 341 mm 、網代 329 mm 、尾鷲 256 mm 、宇都宮 217 mm 、仙台 186 mm となっている。

埼玉県・東京都の大洪水[ソースを編集]

利根川と荒川の破堤[ソースを編集]

洪水の範囲と主な決壊個所(関東地方)

カスリーン台風による大洪水の発端となったのは、埼玉県北埼玉郡東村(現在の埼玉県加須市大利根地域・北東部])での利根川堤防の破堤である。この場所は江戸時代に人工的に開削された新川通と呼ばれる直線河道であり、「明治43年の大水害」の時には破堤しなかったため、比較的楽観視されていた場所であった。

しかし実際には上流の遊水地帯開発によって消滅しているなど、「明治43年の大洪水」当時とは状況が変化しており、利根川の水は全て新川通に集中することになった。それに加え、下流の栗橋付近には鉄橋があり、そこに漂流物が引っかかって流れを悪くしていたほか、渡良瀬川との合流点もあるため、増水時には水の流れが悪くなるという構造的な問題を抱えていた。

こうした要因によって、15日午後9時ごろには堤防の上から水が溢れはじめ、16日午前0時過ぎに大音響とともに北埼玉郡東村の利根川右岸提が 340m にわたって決壊。濁流は南に向かい午前3時には北葛飾郡栗橋町(現在の久喜市[栗橋区域・北部])、午前8時には南埼玉郡鷲宮町(現在の久喜市[鷲宮区域・西部])、午前10時には北葛飾郡幸手町(現在の幸手市中心部付近)、午後1時には南埼玉郡久喜町(現在の久喜市[久喜区域・中心部付近])に到達する。濁流の進行速度は決して早いものではなかったが、濁流がどこに流れるか、どこに避難するべきかという情報に乏しかったため、避難はスムーズに行かなかった。

一方、荒川では15日夜に熊谷市付近で堤防が決壊しており、洪水は16日の午前中には北埼玉郡笠原村(現在の鴻巣市東部)に到達し、元荒川沿いに流下していく。

利根川の濁流は庄内古川古利根川周辺を中心にいくつも決壊を引き起こしながら、17日未明には南埼玉郡春日部町(現在の春日部市)、同日夜には元荒川からの水をあわせて北葛飾郡吉川町(現在の吉川市)に達し、現在の中川付近と江戸川に挟まれた地域を流下しながら、18日の夕方には埼玉県と東京都の境界付近である大場川および小合溜井の「櫻堤」(現在の水元公園付近)まで達し、そこで濁流の進行は一時的に食い止められる。

東京下町への被害拡大[ソースを編集]

しかし、水は「櫻堤」に堰き止められてどんどんと溜まる一方であり、これが決壊すれば東京の下町は一気に濁流に飲み込まれる事となる。そこで、東京都知事内務省埼玉県知事千葉県知事と協議の上、隣の江戸川右岸提を爆破して江戸川にを逃がす事を決定。進駐軍工兵隊が現場に急行するが、思いのほか堤防は頑強で爆破は失敗してしまう。そうしているうちに、19日未明ついに「櫻堤」が崩壊。その日のうちに金町柴又小岩付近は水没した。

19日午後3時ごろようやく爆破が成功し、「櫻堤」付近の水は江戸川へと流れ始めたが、同じころ南埼玉郡八條村(現在の八潮市)で中川の右岸が決壊、綾瀬川の東側も水没する。そして20日午前3時に亀有付近でも堤防が決壊し、夕方には立石四ツ木付近まで浸水する。金町方面に流れた水は、20日夕方には船堀付近に到達し、そこから荒川や旧江戸川を経て東京湾へと注ぎはじめた。

なお、利根川の決壊個所の復旧工事は70日あまりの期間で、のべ16万人が動員されたという。その後、利根川や江戸川ではこうした規模の洪水は発生していない。

影響[ソースを編集]

  • このカスリーン台風を教訓として、経済安定本部は水害による大都市への被害を防ぐことを目的に本格的な治水事業に乗り出す。1949年(昭和24年)に治水調査会は利根川を始め全国10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定し、ダムによる計画的な洪水調節を計画した。利根川では「利根川改訂改修計画」が策定され、利根川本川を始め烏川神流川吾妻川等に大規模なダムを8ヶ所建設する方針を立てた。これが利根川水系8ダムである。又、鬼怒川においても上流におけるダム建設が進み、五十里ダム川俣ダムの建設が始まる。更に江戸川においても改修計画の一環として行徳可動堰が作られることとなった。このときの河川流量などのデータがダムなどの治水施設や、河川改修の際の安全基準としてよく利用されている。
カスリーン公園のモニュメント
  • 利根川における大規模な破提の現場は、現在はカスリーン公園加須市)として整備されている。また、被害にあった埼玉県内の市町村では市街地の電柱に赤線や青線で当時の浸水深を表示することで被害の大きさを今に伝えている。
  • カスリーン台風のほぼ一年後にアイオン台風が襲来。カスリーン台風でも大きな被害を受けた一関市を中心に、岩手県では700名を超える死者・行方不明者を出した。そのため、一関市周辺ではアイオン台風はカスリーン台風とともに人々の記憶に深く刻まれることとなった。

関連項目[ソースを編集]

外部リンク[ソースを編集]