鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮 | |
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所在地 | 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1番31号 |
位置 | 北緯35度19分33.91秒 東経139度33分23.17秒 / 北緯35.3260861度 東経139.5564361度座標: 北緯35度19分33.91秒 東経139度33分23.17秒 / 北緯35.3260861度 東経139.5564361度 |
主祭神 |
応神天皇 比売神 神功皇后 |
社格等 |
旧国幣中社 別表神社 |
創建 | 康平6年(1063年) |
札所等 |
三大八幡 鎌倉江の島七福神(弁財天) 西山国師遺跡霊場客番 |
例祭 | 9月15日 |
地図 |
鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)は、神奈川県鎌倉市雪ノ下にある神社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として鎌倉八幡宮とも呼ばれる。武家源氏、鎌倉武士の守護神。鎌倉初代将軍源頼朝ゆかりの神社として全国の八幡社の中では関東方面で知名度が高く、近年では三大八幡宮の一社に入ることがある[注釈 1]。境内は国の史跡に指定されている。
祭神
現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。
歴史
概史
康平6年(1063年)8月に河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後社殿を中心にして、幕府の中枢となる施設を整備していった。建久2年(1191年)に、社殿の焼損を機に、上宮(本宮)と下宮(若宮)の体制とし、あらためて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し、一時衰退する。戦国時代には里見氏により焼き討ちにあうも(鶴岡八幡宮の戦い)、北条氏綱が再建を果たす。江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。また境内には、方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。
江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布[5]がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後真が残されている。
明治の近代社格制度では県社に列し、1882年に国幣中社に昇格。戦後は神社本庁の別表神社に列している。近年は全国一の宮会に加盟しており、相模国の一宮と扱われることもある(ただし歴史的には一宮は寒川神社である)。
年表
- 康平6年(1063年)8月、源頼義が河内源氏氏神の壷井八幡宮あるいは京都の石清水八幡宮を勧請(鶴岡若宮)
- 永保元年(1081年)2月、源義家が修復
- 治承4年(1180年)10月12日、源頼朝が現在の小林郷北山に遷座
- 建久3年(1192年)、源頼朝が征夷大将軍に就任
- 承元2年(1208年)、神宮寺創建
- 建保7年(1219年)、源実朝が甥の公暁に襲われ落命
- 文明10年(1479年)1月27日、江戸城西方の守護として太田道灌が鶴岡八幡を江戸番町に勧請
- 大永6年(1526年)11月12日、里見義豊・実堯と北条氏綱の間の合戦で社殿が焼失(鶴岡八幡宮の戦い)
- 天文9年(1540年)、大永の戦乱で焼失した社殿を北条氏綱が再建
- 文政11年(1828年)、江戸幕府11代将軍、徳川家斉の命により本殿等が造営
- 明治元年(1868年)3月、神仏分離令により廃仏毀釈開始
- 明治4年(1871年)5月14日、社格制度制定
- 大正6年(1917年)1月、段葛の八幡宮境内編入が許可[6]
- 大正12年(1923年)9月1日、関東大震災で、多くの建造物が崩壊・消失する
- 昭和3年(1928年)4月3日、鎌倉国宝館が開館
- 昭和26年(1951年)11月17日、平家池のほとりに神奈川県立近代美術館が開館
- 平成22年(2010年)3月10日、4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒壊
境内
本宮(上宮)は文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。本宮は大石段上にある。大石段は61段あり、登りきると桜門、その奥に拝殿とつながった本宮がある。石段下にある舞殿は、「下拝殿」ともいう。前面にある建築物は21世紀に入ってから増築されたもので、当初は朱塗りではなく白木造りであった[7]。
また境内入口には北条政子が掘らせたと伝える「源平池」と称する、左右2つに分かれた池がある。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産(三)と死(四)を表すという。池には鯉やすっぽんが生息し、水鳥も多い。夏期には蓮の花が一面を覆う。源氏池の島には旗上弁天社がある。源氏池と平家池を繋ぐ水路には石造の橋が架けられ「太鼓橋」と称される。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。北条氏の庶流・赤橋家の苗字はこの橋の名称に由来する。現行の石橋は二代目で、先代は大正12年(1923年)の関東大震災で崩壊。その後昭和2年(1927年)に再建された。橋は現在は柵で締め切られているが昭和時代までは自由に通行可能で、橋上は記念撮影のスポットとして良く使われていた[8]。なお、太鼓橋の左右には一般参拝者が通行可能な橋があり、赤橋の名を受け継ぐかの如く、赤く塗られている。
なお、源頼朝の求めに応じて舞った静御前が源義経を慕う次の歌を詠んだとされるが、当時はまだ舞殿は建立されておらず、若宮社殿の回廊で舞ったとされている。
「 | 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな |
」 |
源氏池のほとりには「ぼたん庭園」が設けられ、季節毎に様々な牡丹を見ることができる。対岸には「鶴岡幼稚園」が昭和25年(1950年)からあり、開園中は境内の敷地を臨時に仕切って運動場となる。また、隣接地には1980年代まで境内の鳩を飼っていた「高床式鳩舎」もあった。平家池のほとりには「神奈川県立近代美術館」が建てられた。しかし、同美術館は平成28年(2016年)1月をもって展示を終了。同年12月22日付で建物は鶴岡八幡宮に無償譲渡され、2019年6月に「鎌倉文華館鶴岡ミュージアム」として再オープンした[9]。なお、この建物は2016年11月22日に神奈川県の重要文化財に指定され、2020年には国の重要文化財に指定の予定である[10](官報告示を経て正式指定となる)。
また、境内東側には昭和3年(1928年)に開館した鎌倉市立博物館の鎌倉国宝館があり。市内の社寺等から寄託されている国宝や重要文化財を多数収蔵している。鎌倉国宝館の本館は登録有形文化財でもある。
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大石段
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太鼓橋
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源平池(夏期)
蓮に覆われている -
流鏑馬(2010年10月3日撮影)
大銀杏の倒伏
建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁が階段脇に生えていたこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、この大階段の13段目に降りてきた源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。この伝説が知られるようになったのは江戸時代になってからの事であり、当時の史料にはない話であり、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかったという説もあるため真偽は不明。伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり現在の樹は2代目であるとする説もある[11]。1955年(昭和30年)より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボル[11]として親しまれていた。樹齢800年とも1000年余ともいわれていた[11]。
2010年(平成22年)3月10日4時40分頃に、強風のために大銀杏は根元から倒れた。倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された[12]。残る2つは境内に保存される。倒壊から約1か月たち、再生への努力が実を結び、若芽(蘖・ひこばえ)が確認された[13]。
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倒れる前の大銀杏(2008年)
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倒れた大銀杏
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移植後の大銀杏
画像左が元地点に残った根から生えた蘖、右が移植された幹。
摂末社
- 旗上弁天社
- 源氏池の島に鎮座。周囲には源氏の二引きの白旗が多く見られる。明治の神仏分離令で一度は廃れたが、昭和55年(1980年)に文政年間の古図を元とし復元された。
- 白旗神社
- 祭神:源頼朝、源実朝
- 逸話として、豊臣秀吉が小田原征伐の後に参拝したが、その際に祀られていた頼朝像を見て「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」と言うと、笑いながら頼朝像の背中をポンポンと叩いたという。
- 丸山稲荷社
- 鶴岡八幡宮で最も古い室町期の建物で、社殿は商売繁昌を祈願する方から奉納された赤い旗で囲まれている。本殿は重要文化財に指定。
- 若宮(下宮)
- 祭神:仁徳天皇など3柱
- 祖霊社
- 終戦後、氏子崇敬者の「おみたま」(祖霊)と護国の霊を祀るために、昭和24年に創建。祖霊社の運営は、遺族を会員とする「祖霊社維持会」による。
- 今宮
- 祭神:後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇 - いずれも承久の乱で流された天皇
- 由比若宮(元八幡)
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旗上弁天社
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白旗神社
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丸山稲荷社(重要文化財)
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若宮(下宮)(重要文化財)
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祖霊社
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由比若宮(元八幡)
参道
鶴岡八幡宮の参道は若宮大路と呼ばれる。由比ヶ浜から八幡宮まで鎌倉の中心をほぼ南北に貫いており、京の朱雀大路を模して源頼朝が自らも加わり築いた。二の鳥居からは段葛(だんかずら)と呼ばれる車道より一段高い歩道がある。そこを抜けると三の鳥居があり、境内へと到る。
この段葛は、二の鳥居の辺りでは幅4メートルほどだが、三の鳥居では幅が約3メートル程度となっており、先に進むほど徐々に細くなっている。人間の目の錯覚を利用し、参道を実際より長く見せ、奥の本殿を厳かに見せるための設計との説がある[14]。段葛は鶴岡八幡宮境内の敷地とみなされており、扱いとしては神社の私道である(若宮大路自体は神奈川県道21号横浜鎌倉線の一部)[6]。
祭事
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文化財
国宝
- 工芸品
- 古神宝類(神服類)[15]
- 袿 白小葵地鳳凰文二重織(うちき しろこあおいじ ほうおうもん ふたえおり)
- 袿 紫地向鶴三盛丸文唐織(うちき むらさきじ むかいつるみつもりまるもん からおり)
- 袿 紫地向鶴三盛丸文唐織
- 袿 淡香地幸菱文綾織(うちき うすこうじ さいわいびしもん あやおり)
- 袿 黄地窠霰文二重織(うちき きじ かにあられもん ふたえおり)
- 古神宝類(刀剣武具類)[15]
- 朱漆弓 1張
- 黒漆矢(うち篦一筋欠) 30隻
- 沃懸地杏葉螺鈿平胡籙(いかけじ ぎょうようらでん ひらやなぐい) 1腰
- 沃懸地杏葉螺鈿太刀(いかけじ ぎょうようらでん たち) 1口
- 沃懸地杏葉螺鈿平胡籙 1腰
- 沃懸地杏葉螺鈿太刀(鐔欠) 1口
- 籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえ すずりばこ)[16]
- 太刀 銘正恒
重要文化財
- 建造物
- 大鳥居(一の鳥居)[17] - 徳川家慶建立
- 末社丸山稲荷社本殿[18]
- 摂社若宮 本殿、幣殿及び拝殿(1棟)[19]
- 上宮 3棟[19]
- 本殿、幣殿及び拝殿(1棟)
- 回廊
- 末社武内社本殿
- 旧神奈川県立近代美術館(建物の所有者は鶴岡八幡宮)[10][20] - 神奈川県立近代美術館の項を参照。
- 工芸品
- 太刀 3口(各銘相州住綱広、綱家作、康国作)・桐鳳凰蒔絵糸巻太刀拵(たちごしらえ)3口[21]
- 太刀 金銘国吉
- 太刀 銘長光
- 彫刻
- 木造舞楽面 5面(陵王、散手、貴徳鯉口、貴徳番子、二ノ舞)
- 木造弁才天坐像 文永三年(1266年)銘
- 木造菩薩面
- 古文書
- 鶴岡社務記録 2巻
- 鶴岡八幡宮文書(224通)15巻[23]
- 歴史資料
- 鶴岡八幡宮指図 天正十九年五月十四日[24]
以上の国宝・重要文化財のうち建造物以外の大部分は鎌倉国宝館に寄託されている[25]。
国の史跡
現地情報
- 所在地
- 交通アクセス
脚注
注釈
出典
- ^ 田中恆清『謎多き神 八幡神のすべて』 p.198 新人物往来社、2010年、ISBN 4404038291。
- ^ 神仏分離令(インターネットアーカイブ、2015年5月16日) - http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/s_tatu.htm
- ^ 『全国八幡神社名鑑(別冊歴史読本―神社シリーズ (99))』新人物往来社、2004年、ISBN 4404030991。
- ^ 白井永二、土岐昌訓『神社辞典』東京堂出版、1997年、ISBN 449010474X。
- ^ 安丸良夫・宮地正人編『日本近代思想大系5 宗教と国家』431ページ
- ^ a b 『鎌倉千年の歩み -段葛からのオマージュ-』、13-14頁。
- ^ バンダイビジュアル『うた∽かた』DVDBOX1、特典映像にて確認(2005年秋撮影)より。
- ^ 久美沙織コバルト文庫『ミッキーのおしゃれ読本』(1987年12月15日初版発行)より。
- ^ 「ミュージアムについて」(鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム公式サイト)(2019年6月23日閲覧)
- ^ a b “国宝・重要文化財(建造物)の指定について”. 文化庁. 2020年10月18日閲覧。
- ^ a b c “鶴岡八幡宮の大イチョウ倒れる 「実朝暗殺の舞台」”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2010年3月10日). オリジナルの2010年6月10日時点におけるアーカイブ。 2010年3月11日閲覧。
- ^ “鶴岡八幡宮の大銀杏、7メートル脇に移植完了「再生を期待」”. 産経ニュース (産経新聞社). (2010年3月15日). オリジナルの2010年11月11日時点におけるアーカイブ。 2010年3月15日閲覧。
- ^ “倒壊の大イチョウ、根元から若芽 鎌倉・鶴岡八幡宮”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2010年4月2日). オリジナルの2010年5月29日時点におけるアーカイブ。 2010年4月11日閲覧。
- ^ “不思議な「錯覚」アート展覧会 東京”. NHK. (2013年11月17日). オリジナルの2013年11月20日時点におけるアーカイブ。 2013年11月17日閲覧。
- ^ a b 1956年(昭和31年)6月28日文化財保護委員会告示第40号「重要文化財紙本著色地獄草紙等を国宝に指定する件」
- ^ 1952年(昭和27年)1月12日文化財保護委員会告示第2号「文化財保護法により重要文化財を国宝に指定」
- ^ 1904年(明治37年)8月29日内務省告示第57号「特別保護建造物ノ資格アルモノ」にて「鶴岡八幡宮大鳥居(一ノ鳥居)」として指定。1957年(昭和32年)2月19日文化財保護委員会告示第7号「重要文化財の名称又は構造及び形式についての記載事項を改める件」にて名称変更。
- ^ 1967年(昭和42年)6月15日文化財保護委員会告示第34号「文化財を重要文化財に指定する件」
- ^ a b 1996年(平成8年)7月9日文部省告示第134号「有形文化財を重要文化財に指定する件」
- ^ 令和2年12月23日文部科学省告示第140号
- ^ 1984年(昭和59年)6月6日文部省告示第85号「文化財を重要文化財に指定する件」
- ^ 重要文化財 木造弁才天坐像 1躯 - 鶴岡八幡宮、2020年2月8日閲覧。
- ^ 1983年(昭和58年)6月6日文部省告示第84号「文化財を重要文化財に指定する件」
- ^ 1905年(明治38年)4月4日内務省告示第58号「国宝ノ資格アル物件」にて「紙本墨書鶴岡八幡宮修営目論見絵図」として指定。2012年(平成24年)9月6日文部科学省告示第140号「重要文化財の名称を改める件」にて名称変更。
- ^ 『鎌倉国宝館収蔵名品目録』、鎌倉国宝館編集・発行、2011
- ^ 1967年(昭和42年)4月24日文化財保護委員会告示第13号「史跡鶴岡八幡宮境内を指定する件」
- ^ 『図説日本の史跡 6 中世』(同朋舎出版、1991)、p.210
関連項目
- 荏柄天神社 - 現社殿として鶴岡八幡宮旧社殿が移築され現存している。
- 八幡神
- 鎌倉幕府
- 鶴岡二十五坊
- 鶴岡八幡宮寺大塔
- 宇佐神宮、石清水八幡宮 - 日本三大八幡宮
- 富岡八幡宮、白岡八幡宮 - 日本三岡八幡宮
- 鎌倉市内の神社一覧
- 鎌倉八幡神社
外部リンク
- 鶴岡八幡宮(公式サイト)
- 鶴岡八幡宮ストリートビュー