高橋二三男
カナフレックス硬式野球部 コーチ #41 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 大阪府八尾市 |
生年月日 | 1948年5月15日(75歳) |
身長 体重 |
164 cm 65 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 外野手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト1位 |
初出場 | 1971年4月10日 |
最終出場 | 1978年8月16日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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高橋 二三男(たかはし ふみお、1948年5月15日 - )は、大阪府八尾市出身の元プロ野球選手(外野手)、野球指導者。
来歴・人物
プロ入り前
大鉄高校の2年生だった1965年の夏には、レギュラー外野手として、1年先輩の福本豊などと共に第47回全国高等学校野球選手権大会へ出場した。卒業後は、社会人野球の鐘紡や新日鐵広畑でプレー。新日鐵広畑時代の1970年に社会人ベストナインへ選出されると、同年のドラフト会議で西鉄ライオンズからの1位指名を受けて入団に至った。
プロ入り後
1971年には、新人ながら、一軍で外野のレギュラーポジションを獲得。1番打者として公式戦118試合に出場するとともに、22盗塁を記録した。西鉄最終年の1972年にも、102試合に出場した。
1973年には、西鉄の後継球団・太平洋クラブライオンズからの野球留学生として、アメリカマイナーリーグ・1Aのローダイ・ライオンズでプレー。1974年に太平洋ででNPBに復帰すると、2番打者として、一軍公式戦113試合に出場した。しかし、NPBの他球団から土井正博・白仁天などの大物選手が入団した1975年には、オープン戦の時点で選手兼任の一軍監督・江藤慎一による戦力構想から外れた。8月下旬から一軍に復帰した[1]ものの、公式戦では6安打にとどまったため、シーズン終了後にはNPBから自由契約選手として公示された。
1976年にロッテオリオンズへ移籍。移籍後の一軍公式戦では、試合途中からの守備要員として起用されることが多く、西鉄時代を上回るほどの成績を残せなかった。二軍生活に終始した1979年限りで、現役を引退。
現役引退後
西鉄・太平洋の本拠地であった福岡市の中州で、「スナックたかはし」を経営。パイプ、ホース、建材などの製造・販売を手掛けるカナフレックスコーポレーションが滋賀工場(滋賀県東近江市)で硬式野球部を創設した2013年からは、スナックの経営を続けながら、野球部の顧問を務めた。2014年11月には、旧知の間柄である河埜敬幸を第2代監督へ招聘するとともに、自身もコーチとして現場へ復帰[2]。2015年には、チームを初めての全国大会(第41回社会人野球日本選手権大会)出場に導いた[3]。
プレースタイル・人物
大鉄高校時代の福本と同じく、日本人選手としては小柄な体格ながら、左投左打の外野手としてたびたび俊足を披露。また、左打席からの流し打ちを得意にしていた。
太平洋時代には、NPBの現役選手で身長が最も低かった[1]。身長200cmのフランク・ハワードが入団した1974年には、ハワードが前年まで現役のメジャーリーガーだったことに対する注目の高さを背景に、島原春季キャンプで報道陣からのリクエストに応じてハワードとのツーショット撮影に駆り出されることが多かった[4]。ローダイ時代には、コマネズミのように俊敏な動きを披露したことから、ミッキーマウスにちなんで「ミッキー」という愛称が付けられた。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1971 | 西鉄 太平洋 |
118 | 386 | 365 | 36 | 91 | 7 | 4 | 1 | 109 | 8 | 22 | 9 | 5 | 1 | 13 | 0 | 2 | 29 | 3 | .249 | .278 | .299 | .577 |
1972 | 102 | 225 | 212 | 26 | 54 | 10 | 2 | 1 | 71 | 12 | 7 | 3 | 2 | 0 | 10 | 0 | 1 | 18 | 2 | .255 | .291 | .335 | .626 | |
1974 | 113 | 297 | 261 | 29 | 59 | 7 | 1 | 4 | 80 | 18 | 12 | 7 | 21 | 2 | 13 | 0 | 0 | 23 | 1 | .226 | .259 | .307 | .566 | |
1975 | 29 | 33 | 31 | 4 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | .194 | .194 | .226 | .420 | |
1976 | ロッテ | 54 | 84 | 80 | 12 | 19 | 2 | 1 | 1 | 26 | 4 | 1 | 1 | 1 | 2 | 1 | 0 | 0 | 12 | 0 | .238 | .241 | .325 | .566 |
1977 | 60 | 79 | 72 | 9 | 19 | 4 | 0 | 0 | 23 | 8 | 2 | 2 | 3 | 0 | 4 | 0 | 0 | 6 | 0 | .264 | .303 | .319 | .622 | |
1978 | 15 | 38 | 30 | 3 | 7 | 1 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | .233 | .281 | .267 | .548 | |
通算:7年 | 491 | 1142 | 1051 | 119 | 255 | 32 | 8 | 7 | 324 | 51 | 45 | 22 | 40 | 5 | 43 | 0 | 3 | 95 | 6 | .243 | .273 | .308 | .581 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 西鉄(西鉄ライオンズ)は、1973年に太平洋(太平洋クラブライオンズ)に球団名を変更
記録
- 初出場:1971年4月10日、対東映フライヤーズ1回戦(小倉球場)、6回裏にカール・ボレスの代走で出場
- 初安打:1971年4月11日、対東映フライヤーズ3回戦(平和台野球場)、5回裏に江本孟紀から二塁打
- 初先発出場:1971年4月13日、対南海ホークス1回戦(大阪球場)、9番・左翼手で先発出場
- 初打点:1971年4月24日、対ロッテオリオンズ2回戦(平和台野球場)、3回裏に佐藤政夫から
- 初本塁打:1971年8月8日、対ロッテオリオンズ20回戦(東京スタジアム)、6回表に成田文男から右越ソロ
背番号
- 1 (1971年 - 1972年)
- 14 (1974年 - 1975年)
- 33 (1976年 - 1979年)
- 41 (2015年 - )
脚注
- ^ a b 1975年時点での身長は164cmだった(『週刊ベースボール』同年8月25日号記事「帰ってきた球界一のチビッ子」)
- ^ “元南海名手、滋賀に新天地 カナフレックス監督に河埜氏就任”. 京都新聞 (2015年4月14日). 2015年11月29日閲覧。
- ^ “日本新薬、カナフレックス出場 社会人野球日本選手権”. 京都新聞 (2015年10月28日). 2015年11月29日閲覧。
- ^ 『俺たちの太平洋・クラウン 福岡ライオンズ、最後の6年間』(ベースボール・マガジン社、2015年)pp.20「『福岡野球』の風景 1974・1976」を参照。ハワードと高橋によるモノクロのツーショット写真も掲載されている。
関連項目
外部リンク
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference