神武東征

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月岡芳年大日本名将鑑」より「神武天皇」。明治時代初期の版画。

神武東征(じんむとうせい)は、日本神話において、初代天皇カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話。日向の都を大和に移す意味での「東遷」と呼ばれることも多く、宮崎県の印刷物は「神武東遷」と記述している。

あらすじ

古事記

古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国高島宮で8年過ごした。

浪速国の白肩津[1]に停泊すると、ナガスネヒコ(ナガスネヒコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持って来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。タカクラジからカムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢にアマテラス高木神(タカミムスビ)が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国は騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定に使った太刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とすから、天津神の御子の元に運びなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして運んだという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から大和の宇陀に至った。

宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、カムヤマトイワレビコに仕えるか尋ねさせたが、兄のエウカシは鳴鏑を射て追い返してしまった。

エウカシはカムヤマトイワレビコを迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、カムヤマトイワレビコに仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟のオトウカシはカムヤマトイワレビコにこのことを報告した。そこでカムヤマトイワレビコは、大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)をエウカシに遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」とエウカシに迫り、エウカシは自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。

忍坂の地では、土雲の八十建[2]が待ち構えていた。そこでカムヤマトイワレビコは八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。

その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちを服従させ、カムヤマトイワレビコは畝火の白檮原宮[3]で神武天皇として即位した。

その後、大物主の子である比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)を皇后とし、日子八井命(ヒコヤイ)、神八井耳命(カムヤイミミ)、神沼河耳命(カムヌナカワミミ、後の綏靖天皇)の三柱の子を生んだ。

日本書紀

日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。

菟田(うだ)より先は八十梟帥(ヤソタケル)や兄磯城(エシキ)に阻まれた。そこでカムヤマトイワレビコは椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)を老父(おきな)と老嫗(おみな)に変装させ天香山(あまのかぐやま)の巓(いただき)の土(はにつち)を取りに行かせた。この土をもって八十平瓮(やそひらか)・天手抉八十枚(あめのたくじりやそち)・厳瓮(いつへ)を造り、丹生(にふ)の川上(かわかみ)にて天神(あまつかみ)地祇(くにつかみ)を祭(いわいまつ)り、カムヤマトイワレビコは神の加護をうけ、八十梟帥(ヤソタケル)を撃ち破り斬ることができた。

ナガスネヒコとの戦いでは、戦いの最中、金色の鵄(とび)がカムヤマトイワレビコの弓の先にとまった。金鵄は光り輝き、ナガスネヒコの軍は眩惑されて戦闘不能になった。

ナガスネヒコはカムヤマトイワレビコの元に使いを送り、自らが祀る櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)は昔天磐船に乗って天降ったのであり、天津神が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。カムヤマトイワレビコとナガスネヒコは共に天津神の御子の印を見せ合い、どちらも本物とわかった。しかし、ナガスネヒコはそれでも戦いを止めなかったので、ニギハヤヒはナガスネヒコを殺してカムヤマトイワレビコに帰順した。

旧唐書・新唐書

旧唐書』には、日本は倭国の別種であると記載され、もともと小国であった日本が倭国を併合したとも記述されている。ただし、壬申の乱をもって「倭国(天智政権)」が倒されて「日本国(天武政権)」が成立したという当時の中国側の認識を示したものという意見もあり、神武東征と関連付ける根拠に乏しい。

新唐書』でも、日本は古くから交流のあった倭国とは別と捉えられており、日本の王の姓は阿毎氏であり、筑紫城にいた神武が大和を征服し天皇となり、600年頃に初めて中国と通じたと記述されている。これも984年に日本から北宋にもたらされた『王年代記』に依拠した記事であることが『宋史列伝巻四九一外国七日本国』に明らかであり、記紀の亜流的解釈が反映したに過ぎないので、独立した情報ではない。なお、新唐書のしるす「筑紫城」の個所は『王年代記』では「筑紫日向宮」となっているため、『新唐書』を北部九州説を支持する史料と見做すことができない。

解説

東征など神武天皇の事跡については内容が神話的であり、彼の実在も含めて、現在の歴史学・考古学ではそのままの史実であるとは考えられていない。 神話学の立場からは、三品彰英により高句麗建国神話との類似が指摘されている。

否定説

神武天皇を非実在とし、その東征を史実と認めない思潮は、津田左右吉以来文献史学の主流を占めている。考古学的研究者からも強固な支持を受け、定説の位置にあるといえる。

  • 西谷正は、北部九州が近畿を征服したとは考えにくいとする。主な理由として、近畿の方が石器の消滅が早く、鉄器の本格的な普及が早い。方形周溝墓は近畿から九州へも移動するが、九州の墓制(支石墓など)は近畿には普及していないなど[4]
  • 邪馬台国の時代の庄内式土器の移動に関する研究から、近畿や吉備の人々の九州への移動は確認できるが、逆にこの時期(3世紀)の九州の土器が近畿および吉備に移動した例はなく、邪馬台国の時代の九州から近畿への集団移住は考え難い[5]
  • 4世紀の九州の大和に見られるような大規模な古墳・集落遺跡が見られないので、この段階での九州勢力の東征は考えにくい(山中鹿次)。よって、応神期に東征があったとも捉え難い。
  • 原島礼二は、大和朝廷の南九州支配は、推古朝から記紀の完成にかけての時期に本格化したと想定され、608年の琉球侵攻に対して、琉球と隣接する南九州の領土権を主張する為に説話が形成されたとする[6]。本来は隼人の説話だったのを天皇家が取り入れたとも。

肯定説

安本美典は、卑弥呼天照大神として、卑弥呼死後の3世紀後半に神武天皇が邪馬台国の勢力を率いて近畿地方を征服して大和朝廷を開いたと考えている。ただし考古学的には否定されている。


神武東征の出発地については、古事記や日本書紀によると伝承地である南九州の日向になるが、戦後に新しく生まれた異説もいくつか存在する。

南九州説

日本書紀』の神武東征によれば、イワレヒコ(神武天皇)(庚午1月1日西暦紀元前711年2月13日)誕生と推定)は、西国の日向から東征し、数多の苦闘の末に大和・橿原の地に到達して、辛酉年春正月庚辰(西暦紀元前660年2月11日と推定)に即位し、初代天皇神武天皇となったとされる。

日向の高千穂を文字通り日向の国(宮崎県)の高千穂とする。根拠は以下の通り。

  • 日向は日向の国である。
  • 日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギは移動しているので天孫降臨の地を北九州とすると、神武東征の出発地は別の場所である。

ただし、高千穂を高千穂峰とする説、高千穂峡とする説等に分かれる。

  • 日向は日向の国である。
  • 律令国家形成(成務天皇)以前から既に日向国は宮崎と鹿児島であった。
  • 景行天皇は先祖を供養するために日向に滞在して日向高屋宮やさまざまな施設を建設し、そこに留まること6年であった。
  • 景行天皇の時に建てられたとする神社や遺跡は今も多数存在している。
  • 景行天皇の時の熊襲征伐は熊襲の領土と隣接する宮崎の日向から行われている。情報も日向から入手していた。襲国の場所も特定されていた。
  • 景行天皇の時代からすでに日向の地は宮崎と特定されていた。つまり第一世代第二世代前の紀元前に生まれた人も神武天皇の出生の地と記憶していた人々は数多く、それは九州の人々も大和朝廷の人々も同じであり、神武天皇の出征の地は宮崎だったのはほぼ間違いないと思われる。
  • 仲哀天皇の時の熊襲のいた地域は筑後の国辺りであり、彼らの地域は変転している。
  • 建日向日豊久士比泥別は九州の中部(熊本+宮崎)と考えられ、その中の日向は宮崎周辺と考えられていた
  • 舟軍で出発したのは現高千穂峰ではなく、美々津という場所であり、風を利用しながら北上している。
  • 日本書紀によると「太歳甲寅(日本書紀#太歳(大歳)記事参照)年の10月5日、磐余彦は兄の五瀬命らと船で東征に出て筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、姫を侍臣の天種子命と娶せた。11月に筑紫国崗之水門を経て、12月に安芸国埃宮に居る。」とあり、神武天皇が宮崎県から大分県で歓迎を受けて北九州でまた一か月ほど滞在して、それから広島県に移動したことが書かれている。

戦前はこれで間違いないとされていた。

  • 日本書紀によれば天孫降臨後、ニニギ降臨の場所は高千穂の峰であり、それは宮崎か鹿児島に属しており、その遺跡や関連の足跡も南九州にしかない。

戦後混乱期にそれ以外の説を唱えるものが出てきた。 高千穂を高千穂峰とする説、高千穂峡とする説等に分かれる。

  • 海幸彦山幸彦を祀る神社も古くから南九州に集中していた。

扶桑社の歴史教科書では旧国定教科書と同様の説を採るが、初版掲載の地図では、高千穂峰を宮崎市近くの海岸に設定し、神武一行は関門海峡手前で引き返し東に向かった形になっている。また、初版からの本文では(瀬戸内海に面していない)宮崎県を出発後瀬戸内海を東に進むと記述される。

北部九州説

本来の伝承を北部九州とする。根拠は以下の通り。

  • 日向国ではなく日向と記載され、日向国の地名の由来は景行天皇の言葉によるとあるので、それは神武天皇即位以前には存在しない。日向はヒュウガではなくヒムカと読み、東向き、南向きの意か美称である。
  • 『古事記』では天孫降臨で日向の高千穂を、「韓国(からくに・朝鮮半島南部の国家)に向かい笠沙の岬の反対側」としている。
  • 南九州を出発すると豊後海峡より流れの速い関門海峡を二度通ることになり、不自然である。
  • 寄港地の岡の水門(港)は北部九州の遠賀とされる。


呼称も含む異説

神武一行は軍隊ではなく神武が大和へ婿入りした、として「神武婿入り」と呼ぶ説

その他の異説

神武東征が、日本人の始祖が日本列島よりも遥か西の地から出た民族であること、事情により故郷を離れ、安住の地を目指して東方へ移動していって日本に到達したことを暗示すると、以下の通り主張する者もいる。

北のイスラエル王国アッシリアに滅ぼされ、祖国を追われた同国民がどこかに消えたのが西暦紀元前721年。世界史屈指の謎とされるイスラエルの失われた10支族である。神武天皇の誕生年は紀元前711年だが、イスラエル10支族が失踪したのは紀元前721年と、その差は僅か10年である。これらにより、神武天皇=失われたイスラエル10支族を意味し、東征神話=イスラエルから日本へ達した彼らの旅路を示すという説もある(日ユ同祖論を参照)。

脚注

  1. ^ 東大阪市附近。当時はこの辺りまで入江があった。
  2. ^ 数多くの勇者の意。
  3. ^ 畝傍山の東南の橿原の宮。
  4. ^ 山中鹿次 『神武東征伝承の成立過程に関して』
  5. ^ 『倭国誕生』白石太一郎編 2002年
  6. ^ 原島礼二 『神武天皇の誕生』 新人物往来社 1975年

関連事項