相模 (戦艦)

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艦歴
発注 サンクトペテルブルク造船所
起工 1895年11月21日
進水 1898年5月19日
就役 1901年6月
その後 1917年1月4日戦没
性能諸元
排水量 基準:12,674 トン
満載:13,500トン
全長 129.2メートル
全幅 21.8メートル
吃水 8.3メートル
機関 ベルヴィール式石炭専焼水管缶
+垂直型三段式レシプロ機関(VTE)3基3軸推進
最大
出力
14,500 馬力
燃料 石炭 2,056トン
最大
速力
18ノット
航続
距離
10ノット/10,000海里(満載時)
乗員 783名
兵装 25.4cm(45口径)連装砲2基 4門
15.2cm(45口径)単装速射砲10基 10門
8cm単装速射砲16基 16門
45cm 魚雷発射管 4門
装甲 舷側:229mm(機関区側面)、178mm(主砲塔側面)
主甲板:37mm(水平面)、63mm(傾斜部)、76mm(艦首尾部)
最上甲板:19mm
主砲塔:229mm(前盾)、229mm(側盾)、37mm(天蓋)
副砲砲郭部:127mm(最大厚)
バーベット:203mm(最大厚)
司令塔:152mm(最大厚)

相模(さがみ)は、かつて日本海軍に所属した戦艦である。元は、帝政時代のロシア海軍の戦艦ペレスヴェートロシア語:Пересвет)で、日露戦争において日本海軍に鹵獲されたものである。

艦歴

1901年6月、サンクトペテルブルクで竣工。1904年旅順艦隊に編入。日露戦争において黄海海戦に参加。1904年12月7日日本陸軍の砲撃により旅順港内で沈没着底した。

1905年1月1日、日本海軍に捕獲され、5月15日から6月29日にかけて浮揚作業を実施。8月22日、艦籍に編入され、旧国名「相模国」にちなんで「相模」と命名し、一等戦艦に類別される。8月23日佐世保に到着、12月12日、等級を廃止し戦艦となる。

1907年10月、横須賀工廠での修理工事が完了した。

1912年8月28日、一等海防艦に類別変更。その後、日露親善のためロシア側に返還することとなり、1916年4月4日に日本艦籍から除籍し「ペレスヴェート」に艦名を戻し、ウラジオストクで引き渡された。5月下旬に同港外で座礁し、7月9日、日本海軍により浮揚され、8月に舞鶴工廠で修理を行った。

1917年1月4日白海へ回航の途中、ポートサイド北方で独潜水艦U-73が敷設した機雷に触れ沈没した。

艦長

日本海軍

参考文献

  • 「世界の艦船増刊第35集 ロシア/ソビエト戦艦史」(海人社)
  • 「世界の艦船増刊第79集 日本戦艦史」(海人社)
  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)

関連項目



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