浅利純子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Championship2006 (会話 | 投稿記録) による 2015年10月15日 (木) 09:50個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (カテゴリ変更)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

獲得メダル
日本の旗 日本
陸上競技
世界陸上選手権
1993 シュトゥットガルト 女子マラソン

浅利 純子(あさり じゅんこ、現姓・高橋純子。1969年昭和44年)9月22日 - )は、1990年代に活躍した秋田県鹿角市出身の元女子マラソン選手。現在三児の母。

女子マラソンで日本人初の世界チャンピオン、アトランタオリンピック代表。現役時はダイハツ所属。身長164cm。

略歴

  • 1988年3月 - 秋田県立花輪高等学校卒業(高校の後輩に2001年世界陸上エドモントン大会男子マラソン代表の高橋健一2008年北京オリンピック長距離走代表の松宮隆行らがいる)。同年4月ダイハツ工業入社。
  • 1991年1月27日 - 大阪国際女子マラソン12位。2時間37分01秒(初マラソン。優勝はカトリン・ドーレ、2位は当時日本女子最高記録達成の有森裕子)。レース前半で先頭から遅れ、優勝争いには殆ど絡めずじまいに終わった。
  • 1992年1月26日 - 大阪国際女子マラソン6位。2時間28分57秒。(優勝はチームメイトで当時日本女子最高記録達成の小鴨由水、同年のバルセロナオリンピック代表となった。2位は松野明美で同じく日本女子最高をマーク)。浅利は終盤36km付近までは先頭グループにいたが、小鴨のペースについていけずに後退。その後は松野や山本佳子(4位)等にも抜かれてしまい、バルセロナ五輪代表を逃した。大阪国際では小鴨は本来浅利のペースメーカー役だったが、この後は逆に浅利がオリンピック代表となった小鴨の練習相手を務めることになった。
  • 1992年8月30日 - 北海道マラソン2位。2時間32分14秒(優勝はオルガ・アペル)。33km辺りまでアペルと優勝争いを繰り広げたものの、その後脱落。念願の初優勝は次のレースへ持ち越しとなった。
  • 1993年1月31日 - 大阪国際女子マラソン初優勝。2時間26分26秒(2位の安部友恵とは1秒差)。当時日本女子最高タイ記録。レースの終盤、長居陸上競技場の手前まで安部と二人で激しいデッドヒートを繰り広げたが、安部が競技場へ入る直前、先導車につられてコースを大回りするミスにより、浅利がタナボタで先頭に立つ。残り100mで安部が追い付くも、その後浅利がスパートしてゴールとなった。
  • 1993年8月15日 - 世界陸上シュトゥットガルト大会女子マラソン優勝。2時間30分03秒(3位は安部友恵で銅メダル獲得、松野明美は11位)。当時日本女子陸上選手としての金メダル獲得は、オリンピックも含めて初の快挙である。レース後半の33Km付近で一度は先頭に立ったポルトガルマヌエラ・マシャド(2位)を、浅利が36kmの下り坂で逆転、その後は独走してのフィニッシュとなった。
  • 1994年1月30日 - 大阪国際女子マラソン3位。2時間26分10秒(優勝は1秒差で当時日本女子最高記録達成の安部友恵、2位は安部と同タイムの藤村信子)。長居第2陸上競技場へは浅利・安部・藤村の三人がほぼ同時に入ったが、ゴールライン100m手前のホームストレートで安部がスパートをかけると浅利はついていけず、そして藤村にもわずかに追い越されてしまった。
  • 1995年11月19日 - 東京国際女子マラソン優勝。2時間28分46秒(2位のワレンティナ・エゴロワとは2秒差)。前回から1年10か月ぶりのフルマラソン出走。レース終盤の38km付近、二人の選手(吉田直美・後藤郁代)と交錯し、転倒するというハプニングに見舞われる。一時は転ばなかった原万里子に約60mの差をつけられたが、残り4Kmからはペースの落ちた原との差を徐々に詰めていった。その後国立競技場直前で原に追いつき、それからは抜きつ抜かれつのデッドヒートとなる。残り300mでは原がスパートして浅利を一旦引き離すも、残り200mで浅利が再逆転、そのまま浅利がトップでゴール、アクシデントを乗り越えての優勝を果たした。この成績により、翌年のアトランタオリンピック女子マラソン代表に選出された。
  • 1996年7月28日 - アトランタ五輪女子マラソン17位。2時間34分31秒(優勝はファツマ・ロバ、2位はワレンティナ・エゴロワ、3位は有森裕子で銅メダル獲得。真木和は12位)。浅利は金メダル有力候補だったが、レース序盤で裸足で履いたシューズが左足に合わず靴擦れを起こし、出来たマメが潰れてからは左足裏全体の皮膚が裂け、出血するという思わぬトラブルに見舞われた。その影響で五輪優勝はおろか、メダル・8位以内の入賞争いからも完全に脱落しての敗北となってしまった。
  • 1997年4月21日 - ボストンマラソン6位。2時間31分12秒(優勝はファツマ・ロバ)。アトランタ五輪の惨敗から復活をかけたレースで、「満足のいく結果では無かったが、次に繋がるレースが出来た」とゴール後笑顔を見せた。
  • 1998年4月19日 - ロッテルダムマラソン2位。2時間26分11秒(2秒差で自己ベスト更新を逃す。優勝は当時世界女子最高記録達成のテグラ・ロルーペ)。途中までは当時の日本女子最高記録(高橋尚子の2時間25分48秒)を上回るペースだったが、後半ペースダウンして日本最高も自己最高もかなわなかった。
  • 1998年11月15日 - 東京国際女子マラソン優勝。2時間28分29秒(ゴール直前で市橋有里をかわす。市橋は同タイムながら2位)。38kmからは市橋との争いとなる。そのまま二人同時に競技場へ入った後、残り80mでは市橋が先に仕掛けたが、残りわずか30mで浅利が追いつき逆転してゴール。僅差の勝利だったが、浅利のマラソン優勝はこれが最後となった。
  • 1999年8月29日 - 世界陸上セビリア大会女子マラソン16位。2時間31分39秒(優勝はチョン・ソンオク、2位は市橋有里で銀メダル獲得。小幡佳代子は8位入賞、市河麻由美17位、高橋尚子欠場。国別対抗上位3名のタイム合計では日本女子が団体優勝)。浅利はレース前に練習過多による足の故障を抱えての出走となり、レース中盤までのスローペースにはなんとかついたものの、後半の30km過ぎで先頭集団がペースアップとなると、浅利はついていけずに後退してしまった。
  • 2000年1月30日 - 大阪国際女子マラソン途中棄権(優勝はリディア・シモン、2位は弘山晴美)。スタートから16分台のハイペースについたものの、5km付近で浅利は先頭集団から早々脱落。太股がつるというアクシデントでその後ズルズル遅れ、15km地点を過ぎて鈴木従道監督を発見した浅利は、「足が痛い」と悔し泣きしながらコースを外れ、走るのを辞めてしまった。浅利自身初めてのフルマラソンでのリタイアとなり、シドニーオリンピックへの出場も絶たれる形となった。
  • 2001年1月 - 現役引退を表明。昨年の大阪国際が浅利の競技生活最後のレースとなった。その後ダイハツ陸上部のコーチへ就任となる。
  • 2005年10月 - 鈴木監督が60歳の定年退職を機に、浅利自身もダイハツを退社となる。
  • 2006年3月 - チームミズノアスレティックに加入。同年3月に花輪高校陸上部時代の1年先輩で郵便局員の男性と結婚。
  • 2007年3月 - 37歳の高齢出産だったが無事長男を儲ける。同年8月25日大阪世界陸上開会式に、谷口浩美鈴木博美と共に世界陸上の歴代優勝者としてゲスト出演した。
  • 2007年11月 - 故郷の秋田県鹿角市で「浅利純子杯争奪 第1回鹿角駅伝」が開催、浅利もゲストランナーで参加。
  • 2008年2月 - 東京マラソン2008にゲスト参加したが、20Km付近で途中棄権となった。
  • 2015年4月 - 鹿角市役所生涯学習課所管の学校支援コーディネーターとなった。

マラソン自己ベスト記録

  • 2時間26分10秒(1994年1月30日・大阪国際女子マラソン)

受賞

関連書籍

外部リンク