グレテ・ワイツ
| 獲得メダル | ||
|---|---|---|
| 女子 陸上競技 | ||
| オリンピック | ||
| 銀 | 1984年 ロサンゼルス | 女子マラソン |
| 世界陸上競技選手権大会 | ||
| 金 | 1983年 ヘルシンキ | 女子マラソン |
グレテ・ワイツ(Grete Waitz née Andersen、旧姓:アンデルセン、1953年10月1日 - 2011年4月19日)は、ノルウェーの女子陸上競技選手。中距離ランナーからマラソンに転向し、1970年代後半から80年代にかけて女子マラソンの記録を飛躍的に高めた。
目次 |
[編集] マラソン転向まで
ノルウェーの首都オスロで生まれる。小さい頃から運動能力に長けていたが、女性のスポーツへの理解と支援が十分ではなかった時代で、両親にスポーツへの取り組みを理解させるのに苦労したという。努力の甲斐あって1972年のミュンヘンオリンピックに1500mの代表として出場した。1975年には3000mで二度の世界記録を樹立するも、1976年のモントリオールオリンピックで再び出場した1500mでは準決勝で敗退する。これ以降、徐々にワイツは種目を中距離からクロスカントリーを含む長距離に切り替えていった。モントリオール五輪後に結婚し、ワイツ姓となる。ワイツはオスロで教員を務めながら走り続けていたが、彼女のスピードに注目していたニューヨークシティマラソン主催者のフレッド・リボウがマラソンに招待し、1978年の同マラソンに出場することとなった。
[編集] 世界最高での3連覇
初マラソンとなった1978年のニューヨークシティマラソンでは、いきなり2:32:30の世界最高記録で優勝する。実のところ、リボウはワイツがよいペースメーカーとなることを期待して招待したもので、完走するとは思っていなかったとのちにワイツは語っている。ワイツ自身、このレースで現役を引退することを秘かに考えていたが、結局教員をやめ専門の長距離ランナーとして走り続けることになった。
翌1979年には女性として初の2時間30分突破となる2:27:33で連覇。1980年の大会では、当時としては驚異的な2:25:42で3連覇を飾った。ワイツの出現は、ジョガー出身者が中心だった女子マラソンの世界に本格的なスピード時代の到来を告げるもので、3年間の記録向上は実に6分48秒にも及んだ。なお日本の女子選手が1980年のワイツにほぼ匹敵する記録を樹立するのは14年も後のことである。
[編集] ロサンゼルスオリンピックまで
4連覇が確実と目された1981年のニューヨークシティマラソンでは、足の痛みから初の途中棄権となる。このレースではニュージーランドのアリソン・ローがワイツの記録を上回る2:25:29でゴールし、世界記録更新と伝えられた。しかし、この年のレースは正規の距離より148m短かったことが3年後に判明し、実際にはこの時点でもワイツは世界記録保持者だった。
翌1982年4月のボストンマラソンにエントリーしたが、ここでも途中棄権に終わっている。しかしこの年10月から再びニューヨークシティマラソンで勝ち続け、1986年まで5連勝した。1983年のロンドンマラソンでは、2:25:29の自己ベストを記録する。この記録をめぐっては世界最高記録になるかどうかでちょっとした騒ぎになった。というのは、計時は10分の1秒まで行われており、厳密なタイムは2:25:28.7であった。この記録の発表に際し、マラソンなら10分の1秒は「切り上げ」になるところ、当初他の競技の「切り捨て」ルールを誤って適用し「世界最高記録」とされた。直後に誤りが判明し、上記のアリソン・ローと並ぶ「世界タイ記録」に訂正された。しかし、現在ではローの記録が取り消されているため、この時点ではワイツ自身の持つ世界記録の更新だったことになる。だが、いずれにせよ、翌日に開催されたボストンマラソンでアメリカのジョーン・ベノイトが2:22:43という大記録を打ち立て、わずか1日でワイツの記録は更新されたのだった。
とはいえ、ベノイトが記録を更新した後もワイツが女子マラソンの実力世界ナンバーワンという評価は揺らぐことはなかった。ベノイトの記録は、追い風8mという条件で全体としては下り坂の片道コースで樹立されたものであり(さらに、レポーターとして伴走した男子ランナーをペースメーカーに使ったのではないかという憶測を持たれたこともあって)、ワイツを凌ぐと見る関係者は少なかったのである[1]。同年夏、ヘルシンキで開かれた第1回世界陸上競技選手権のマラソンに出場し、実力通り優勝した。この結果は、初めて女子マラソンが正式採用される翌年のロサンゼルスオリンピックの金メダル最有力候補という評価をますます高めた。
そのオリンピック本番では、他の多くの有力選手と同様、高温の環境を懸念して序盤での飛び出しを控えた。ベノイトの飛び出しにも、無謀と判断して付いていかなかったが、その後もベノイトは下がってこなかった。このときワイツは腕時計をはめておらず(計時車の直後を走るからという意図だったのか、単なるミスかは不明)、20kmをすぎてから並走していた同じノルウェーのイングリッド・クリスチャンセンに時間を教えてもらって初めて自らの作戦ミスに気づき、あわてて追いかけるが時すでに遅かった。それでもワイツは2位を守り抜き銀メダルを獲得した。
[編集] その後
1980年代後半までワイツは第一線で活躍した。ニューヨークシティマラソンでは1986年までの5連覇の後、1988年にも優勝し、通算9回の優勝はもちろん大会記録である。1988年のソウルオリンピックでもマラソンの代表に選ばれ、開会式においてノルウェー選手団の旗手も務めた。しかし、膝の悪化に直面して、18マイル地点を過ぎた直後に棄権した。
ワイツの最後のフルマラソンは、1992年11月のニューヨークシティーマラソンで、旧友のフレッド・リボウの伴走をしたときである。これはリボウが1990年に脳腫瘍と診断されたのち、60歳の誕生日を記念しておこなわれたもので、5時間32分35秒で完走した。
その後は第一線を退いたが、ランニングと健康を伝えるための市民マラソンには出場を続けていた。また、知的発達障害者のためのスペシャルオリンピックスや、ケア・インターナショナルのボランティア活動も行っていた。
祖国ノルウェーでは、オスロのビスレット・スタディオン(ビスレットゲームズも参照)前に像が建てられ、切手の図柄にもなったほか、彼女の名前を冠した記念レースが開催されている。また数々の記録を残したニューヨークでは、ニューヨークロードランナーズクラブの後援で「グレテ・グレート・ギャロップ」ハーフマラソンが実施されている。
2005年6月、癌で闘病中であることを公表し、2011年4月19日にオスロ市内の病院で亡くなった[2]。57歳没。癌と診断された後には化学療法と放射線療法とを受けながら、毎朝トレッドミルで10km相当のランニング運動を行っていたという[3]。なお、癌に冒されている部位については本人の意思で公表されなかった[3]。
2009年8月、ワイツの長年のスポンサーであるアディダスが、ワイツが2007年に創設した癌治療基金「Aktiv mot kreft」と協力関係を結んだことが明らかにされた。これはアディダスの「グレテ・ワイツ」および「モダン・クラシック」ブランドの商品の売上から5%を基金が得るものである。これにより基金は年間5億ノルウェー・クローネを病院のトレーニングセンターやPETスキャナーへ投資することが可能となった。
[編集] その他
世界的なランナーでありながら、日本の大きなレースには一度も参加しなかった。このため、彼女とレースで走った日本人は少ないが、増田明美は1982年に北欧に遠征した際に何度か同走している。オスロのハーフマラソンでは、スタート直後に引き離されそうになった増田が思わずワイツのランニングパンツを手で引っ張ったところ、ワイツはその手をはたいて走り去った(レース結果はワイツが優勝、ベノイトが2位で増田は3位)[1]。
[編集] 記録
[編集] 脚注
- ^ a b 後藤新弥「1984年8月、ロスに集まる危険な勝負師たち」『Sports Graphic Number』No.89(1983年12月20日号)、文藝春秋、P26 - 30
- ^ グレテ・ワイツさん死去…女子マラソンで活躍 スポーツ報知 2011年4月19日閲覧
- ^ a b 徳島新聞2005年11月9日
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- グレテ・ワイツ - バイオグラフィーとオリンピックでの成績(英語)
- 3000Metres All Time - iaaf
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