杉村太蔵

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杉村 太蔵
すぎむら たいぞう
生年月日 (1979-08-13) 1979年8月13日(44歳)
出生地 北海道旭川市
出身校 北海道札幌藻岩高等学校
筑波大学体育専門学群中退
前職 派遣社員(派遣先:証券会社)
衆議院議員
現職 タレント
所属政党自由民主党→)
たちあがれ日本→)
無所属[1]
配偶者

選挙区 比例南関東ブロック
当選回数 1回
在任期間 2005年9月12日 - 2009年7月21日
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杉村 太蔵(すぎむら たいぞう、1979年〈昭和54年〉8月13日 - )は日本の元政治家タレント。前衆議院議員(1期)。杉村太蔵事務所所属。血液型O型。テレビでは、太蔵と呼ばれることが多い。

経歴

生い立ち

北海道旭川市に生まれる。父、祖父は歯科医、曾祖父は弁護士[2]。三兄弟の長男である。

学生時代

小学校4年生の時から、親の影響でテニスをはじめた[3]

北海道札幌藻岩高等学校在学時の1997年(平成9年)に、テニスなみはや国体少年男子ダブルスで優勝をした。

筑波大学体育専門学群にスポーツ推薦で入学した。

高校時代に知り合い大学2年までの約5年間交際していた女性を妊娠中絶させた[4]。その後、大学を中退した。

出馬・政界入り

学生時代に民主党鳩山由紀夫の事務所でアルバイトをしていたが、それ以外は特に政治の世界には関わっていなかった。

大学を中退後は就職ができず、自民党本部の近くにある山王パークタワービルで清掃員をしていたところ、ドイツ証券グレン・ウッドという人物から『キミは若いし、そんなに頭も悪そうじゃない。1週間後、うち(ドイツ証券)の入社試験をぜひ受けなさい』と声をかけられ、試験を受けて契約社員として働くようになる。ドイツ証券では株式調査部に派遣社員として勤務した。証券アナリストへ新聞や郵便の配達等、庶務業務を行っていた。

ある時、グレン・ウッドから郵政民営化の動向を調査するように依頼をされ、調査を行っている2005年(平成17年)の自由民主党の公式サイトをみて候補者公募を知り、その一次審査の論文課題が自分がまさに調査していた『郵政民営化と構造改革について』であったため応募した。翌日に自民党本部から『すぐ来られますか?』と電話があり、その後3度の面接を経て公募に合格した(元参議院議員で太蔵の「教育係」を勝手に名乗っていた大仁田厚の著書『国会デスマッチ』によると、太蔵の父親は元々北海道で当時自民党幹事長だった武部勤の後援会の有力支持者であるとのことだが、選挙にその父親が出るわけにはいかず息子である太蔵を比例名簿に登載させることにしたらしい)。

郵政解散を受けて行われた2005年(平成17年)9月11日第44回衆議院議員総選挙で、自由民主党福岡県支部連合会から福岡1区出馬の推薦を取り付けたが、党本部が難色を示したため、比例南関東ブロック35位での出馬となった。この総選挙は都市部を中心に自民党が圧勝し同ブロックの多くの候補者が次々と小選挙区で当選し順位が繰り上がったことで当選を果たした。そののち、テレビのインタビューで自分はヒラリーマン(ヒラのサラリーマン)にすぎない旨を述べ、『ヒラリーマン』という造語を一般に広めた。その後もインタビューで『黒塗りのハイヤーに乗って料亭通いしたい』、『議員宿舎への入居が楽しみでしょうがない』、『(選挙後)真っ先に国会議員の給料を調べました』、『議員報酬BMWを買いたい』など、自由奔放な発言を連発し、そこから「ニュータイプ政治家」と呼ばれ注目を浴びる。

国会議員として

本人はフリーター・ニート問題について主に取り組んでいると公言していた。

当選直後からテレビ取材での様々な発言をして、「棚からぼた餅という言葉は僕のためにあるような言葉」、「ゆかりタンと僕とでは同じ外資系でも天と地の差ですよ」、「120%小泉チルドレンでございます」、「歩き方も分からないのでキッチリ派閥に入って勉強します、ハイ…」(その後記者から「小泉が新人議員に派閥に入るなと指示」と聞かされ)「…え、総理が派閥に入るなと!?総理が!!?総理がおっしゃるならその通りだと」などがメディアで話題になった。国会議員としてあまりに軽率な発言が目立ったため、テレビ局の取材中に、当時の自民党幹事長であった武部勤から厳重注意を受ける。後に、党本部にて単独記者会見を行い、謝罪する結果となった。

「新しい風」の入会と退会

議員当選直後から武部に師事して、武部が作った勉強会「新しい風」に入会。同会の『夕張再生プロジェクト』の座長に就任した。その後も参院選の北海道選挙区総決起集会などに参加している。

しかし、2007年(平成19年)の自民党総裁選で武部が「新しい風」において福田康夫を推すことでまとめたことに対し反発して、「新しい風」を脱会した。総裁選挙では麻生太郎に投票した[5][6]

公認候補争い

第45回衆議院議員総選挙では北海道1区(札幌市中央区・南区・西区)からの小選挙区立候補を表明した。既に自民党の公認申請をしており、公認はまだ決定してなかったが、「いくら若くても、私は現職です。現職には現職の強みがあります。大臣に会おうと思えば会えるんです」「公認するかしないかは党の判断ですが、選挙に出るか出ないかは私の判断です。私は誰が何と言おうと北海道1区から出馬します」と宣言した[7]

候補者選考委員会は、杉村とYOSAKOIソーラン祭りの創始者である長谷川岳の両名による演説で、党員の意向を調整しようとしていたが、杉村はそれを無視[8]。2007年12月30日、選考委が長谷川を公認することを2008年(平成20年)1月8日の役員会で正式決定して、党本部に長谷川の公認申請を行なった。その後も無所属での出馬を模索していたが、最終的に出馬を断念して、2009年(平成21年)6月4日に自民党本部で記者会見を開き、次回総選挙への不出馬を表明した。記者会見では「いずれひと回りもふた回りも大きくなって、この場に挑戦したい。捲土重来を期したい」とコメントし、機会があれば国政復帰に挑戦したいとの意向を表明した[9]

2009年7月21日衆議院解散に伴い、1期で衆議院議員の任期を終えた。

その後

2010年(平成22年)6月3日たちあがれ日本第22回参議院議員通常選挙の比例代表候補に杉村を擁立すると発表して、同日、杉村は自民党に離党届を提出した[10]が、2010年7月11日投票の結果、党の候補者9人中6位の31,146票で落選した[11]。落選後、ビルの清掃員だった杉村を見出したドイツ証券のグレン・ウッドから「(ドイツ証券に)戻ってこないか?」と誘われた[要出典]が、テレビの出演依頼が入ってくるようになり、証券市場が冷え込んでいることもあり、タレントとしてCMやTVバラエティ番組などに出演するようになった。現在、タレントとしての主な活動はパチンコ営業で、マルハン各店舗など多くのパチンコ店を回って、サイン会などを行っている。

その他

自身も所属する小泉チルドレンによる83会について、「あんなの意味あるんですかね」、「学級会みたいじゃないですか[12]」、「おじさん、おばさんの井戸端会議状態」などと発言している。

2007年(平成19年)3月7日の自身のブログで赤ちゃんポストについて、「ここで政治家として国民の生命を守る責務を負った立場から一言申し上げると、どのようなご時世であろうとも、常識ではおよそ考えつかないような、とんでもなく無責任な親は、たとえ数は少なくても絶対数存在する、となると、『産んだはいいけど、育てられない』よって、例えば赤ちゃんをロッカーに入れてしまうだとか、捨ててしまうだとか、そうした胸が張り裂けそうになるような事件が起きているのも事実です。生まれてくる赤ちゃんには何の罪もないのに」と述べている[13]

SPA!2007年7月3日号で、自身が担当するコラムにて、新米親としての育児体験談の中に生後2か月の長女を議員宿舎に残して夫妻で1時間ほどの外食に出た際に、長女が脱水症状を起こしていたことを語った。『女性セブン』は2007年7月19日号でこれを取り上げ、ネグレクトであることを指摘し、脱水症状でショック状態を引き起こせば冗談事では済まされないことになったとも指摘している。杉村は長女の容態について「3ヶ月検診の結果、異常はみられなかった」と自身のブログで釈明している[14]

2007年7月12日の自身のブログにて、赤城徳彦農林水産大臣の「政治とカネ」の問題について、「はっきり申し上げて、いい加減にしていただきたいですね。うんざりでございます」などと批判した上、領収書を公開すべきだと主張した[15]

詳細や本人の会見などは開かれていないが、2008年8月28日公設秘書の一人が自殺を図り[16]、同年9月11日に死亡した[17]

2009年の衆院選出馬断念のあと、一旦、地元の旭川に戻り、その後政治の勉強をし直すために北米など世界各国を渡り歩き、雇用政策などに関する書籍約150冊を読むなど猛勉強したという[18][19]

2011年(平成23年)の東日本大震災の発生をうけ、サンデージャポンの番組企画において何度か被災地入りしている[20]

家族

衆議院議員在職中の2005年に結婚し現在は二児の父。[21]

出演

テレビ

他多数

テレビドラマ

CM

雑誌

  • SPA!』(2007年2月6日号)にて、かつて司法試験受験生であったと述べたものの、民法刑法の違いを問われしどろもどろになった。受験歴などについては一切触れていない。また、衆議院選挙に初当選直後、司法試験の受験指導を受けていた伊藤塾に赴き、当選を機にもう一度憲法を勉強し直したいと言って憲法の教材を購入した。

脚注

  1. ^ よくある質問 - たちあがれ日本”. 2012年1月1日閲覧。
  2. ^ 金曜日のキセキ』(2011年5月20日放送)で杉村自身が発言
  3. ^ 『スポーツ対談 杉村太蔵 氏: 杉山記一のブログ』(2011年1月25日 (火))
  4. ^ 週刊ポスト(2005年)
  5. ^ “太蔵議員「戦う姿勢に共感」麻生氏に投票”. 日刊スポーツ. (2007年9月24日). http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20070924-260518.html 2009年8月27日閲覧。 [リンク切れ]
  6. ^ 日本テレビ真相報道 バンキシャ!』(2007年9月23日放送)のカメラの覗き見によるもの。
  7. ^ “太蔵出馬へ強行突破宣言「出るかは私の判断!」”. 夕刊フジ. (2007年12月12日). http://www.zakzak.co.jp/top/2007_12/t2007121202_all.html 2007年12月12日閲覧。 [リンク切れ]
  8. ^ 『太蔵氏、討論会リタイアへ…「自民党公認」事実上消滅』 スポーツ報知、2007年12月15日。
  9. ^ “タイゾー議員、出馬断念 「大きくなってまた挑戦したい」”. 産経新聞. (2009年6月4日). http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/090604/stt0906041759007-n1.htm 2009年6月4日閲覧。 [リンク切れ]
  10. ^ たちあがれ日本、杉村太蔵氏を比例選に擁立”. 読売新聞 (2010年6月3日). 2011年1月14日閲覧。
  11. ^ 2010参院選”. 毎日新聞 (2010年7月). 2011年9月20日閲覧。
  12. ^ 杉村太蔵 (2006年2月2日). “それにしても83会。”. 杉村太蔵ブログ. 2006年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月27日閲覧。
  13. ^ 杉村太蔵 (2007年3月7日). “赤ちゃんポストについて”. 杉村太蔵ブログ. 2007年8月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月27日閲覧。
  14. ^ 杉村太蔵 (2007年7月5日). “娘の三か月検診がありました”. 杉村太蔵ブログ. 2007年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月27日閲覧。
  15. ^ 杉村太蔵 (2007年7月12日). “政治とカネについて”. 杉村太蔵ブログ. 2007年8月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年8月27日閲覧。
  16. ^ “杉村太蔵議員の秘書が自殺未遂”. 産経新聞. (2008年8月28日). http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080828/crm0808281211009-n1.htm 2009年8月27日閲覧。 [リンク切れ]
  17. ^ “重体だった杉村太蔵議員の秘書死亡”. 日刊スポーツ. (2008年9月11日). http://www.nikkansports.com/general/news/f-gn-tp3-20080911-407290.html 2009年8月27日閲覧。 
  18. ^ ワイド!スクランブル 2009年12月29日放送
  19. ^ “太蔵候補、大変心!?丸刈り頭で演説冒頭は謝罪”. スポーツ報知. (2010年7月4日). http://megalodon.jp/2010-0708-0821-18/hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20100704-OHT1T00080.htm 2010年7月29日閲覧。 
  20. ^ 政治&タレントどっちつかず 「杉村太蔵」今後の身の振り方”. j-castニュース (2011年6月12日). 2011年9月20日閲覧。
  21. ^ ライオンのごきげんよう(2011年7月12日放送)にて杉村自身が発言

関連項目

外部リンク