早坂文雄
はやさか ふみお 早坂 文雄 | |||||
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生年月日 | 1914年8月19日 | ||||
没年月日 | 1955年10月15日(41歳没) | ||||
出生地 | 日本・宮城県仙台市 | ||||
死没地 | 日本・東京都世田谷区砧 | ||||
民族 | 日本人 | ||||
職業 | 作曲家 | ||||
活動期間 | ? - 1955年 | ||||
配偶者 | 早坂憲子 | ||||
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クラシック音楽 |
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作曲家 |
ア-カ-サ-タ-ナ ハ-マ-ヤ-ラ-ワ |
音楽史 |
古代 - 中世 ルネサンス - バロック 古典派 - ロマン派 近代 - 現代 |
楽器 |
鍵盤楽器 - 弦楽器 木管楽器 - 金管楽器 打楽器 - 声楽 |
一覧 |
作曲家 - 曲名 交響曲 - ピアノ協奏曲 ピアノソナタ ヴァイオリン協奏曲 ヴァイオリンソナタ チェロ協奏曲 フルート協奏曲 弦楽四重奏曲 - オペラ 指揮者 - 演奏家 オーケストラ - 室内楽団 |
音楽理論/用語 |
音楽理論 - 演奏記号 |
演奏形態 |
器楽 - 声楽 宗教音楽 |
イベント |
音楽祭 |
メタ |
ポータル - プロジェクト カテゴリ |
早坂 文雄(はやさか ふみお、1914年8月19日 - 1955年10月15日)は、日本の作曲家である。宮城県仙台市出身。
生涯
幼少~青年期
1914年(大正3年)、宮城県仙台市に生れる。早坂家は代々宮城県志田郡の地主の家系で、祖父の代までは裕福だったと言われるが、父(順之助)の代には没落していた。幼時北海道札幌市に移住。家庭はこれといって音楽的環境ではなかったが、父は日本画をたしなみ、早坂も北海中学入学時には洋画家になろうと思っていたが、15歳の頃から作曲家を志すようになった。しかし16歳の時に父が出奔し、翌年には母も病没したため、2人の弟妹の面倒を一人で見なければならなくなり、音楽学校への進学を断念し、中学卒業ののち実社会に入った。
音楽への情熱は冷めやらず、ピアノが買えない彼は、ピアノの音が聴こえれば、見知らぬ家であろうとかまわずに、その家でピアノを弾かせてもらっていた。カトリック教会でオルガニストを務めていた1935年、《二つの讃歌への前奏曲》が日本放送協会「祝典用管弦楽曲」懸賞に第2位入選し、翌1936年(昭和11年)1月に放送初演される。この時上京し、清瀬保二、菅原明朗、江文也らに会う。3月には日本現代作曲家連盟に入会し、この頃から『音楽新潮』などに寄稿するようになっていく。また、同年来日したアレクサンドル・チェレプニンの指導・影響を受けた。
上京後
1937年(昭和12年)、ピアノ曲《夜曲第1番》(1936年)がチェレプニン楽譜no.31として出版される。翌年、管弦楽曲《古代の舞曲》(1937年)がワインガルトナー賞優等賞を受賞する。同年胸部疾患にかかり静養するが、1939年(昭和14年)東宝映画社長の植村泰二に認められて上京、東宝映画に音楽監督として入社した。トーキー音楽の新分野に多くの仕事をこなし、名声を確立していく。同年、荻原利次、石田一郎、塚谷晃弘の「独立作曲家協会」に加わる。
翌1940年、管弦楽曲《序曲ニ調》(1939年)が日本放送協会主催紀元二千六百年奉祝管弦楽曲懸賞に主席入選。5月、日本現代作曲家連盟創立十周年記念作品発表会で《ピアノのための五つの楽章》(1940年)が初演され、7月の連盟総会で第18回国際現代音楽祭に出品決定。同年、独立作曲家協会の第4回作品発表会で《五音音階によるピアノアルバム第1、第2》(1940年)などが初演された。
1941年(昭和16年)、日本大学芸術科講師となり、新設の「映画音楽」を担当した。同年、日本音楽文化協会が発足し、その作曲部委員に就任する。1942年(昭和17年)、《室内のためのピアノ小品集》(1941年)が日本音楽文化協会「第3回室内楽作品試演会」で初演される。また同年、東京交響楽団主催「現代日本の作曲」演奏会で《左方の舞と右方の舞》(1941年)が初演される。しかし、肺浸潤を発病し、医師に2年間の療養を勧告され、入院する。1944年(昭和19年)、退院し、映画音楽などの仕事を再開するが、秋に再発。再び療養生活に戻る。
戦後から亡くなるまで
終戦後、箕作秋吉によって「再結成」された「日本現代音楽協会」の作曲部推薦委員に就任する。同年、清瀬保二、伊福部昭、松平頼則、渡辺浦人、塚谷晃弘、荻原利次らと「新作曲派協会」を組織し、早坂は幹事として戦後の作曲家グループの先端の一翼を担った。
戦後は新作曲派協会において毎年作品を発表するなど精力的に活動を続けながら、同時に映画音楽の分野でも卓越した才能を発揮し、多忙な日々を送る。1947年(昭和22年)、新作曲派協会第1回作品発表会においてピアノ曲《詩曲》(1947年)などが初演される。同年、黒澤明と初めて会う。
翌1948年、《ピアノ協奏曲》(1948年)が「第11回東宝グランド・コンサート 日米現代音楽祭」で初演される。1949年(昭和24年)、第3回毎日映画コンクールにおいて、「酔いどれ天使」「富士山頂」「虹を抱く処女」の映画音楽で音楽賞を受賞する。翌1950年も「野良犬」で同賞を受賞。同年、東宝を離れ、「映画音楽家協会」を設立する。1951年(昭和26年)、音楽を担当した黒澤明監督の「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、その音楽も大きな話題となる。
1953年(昭和28年)、以前より次第に悪化していた結核により、一時危篤状態に陥るが、奇跡的に回復を果たす。同年秋、新作曲派協会、日本現代作曲家協会を脱会、また蔵書を売るなど身辺整理を始める。翌年、『音楽芸術』誌上で三浦淳史と「早坂文雄と汎東洋主義(パンエイシヤニズム)音楽論」と題して対談し、自作を語る。
1955年、交響的組曲《ユーカラ》(1955年)が東京交響楽団定期演奏会で初演される。その年の10月、映画「生きものの記録」作曲中に容態が急変し、亡くなった。没後、毎日映画コンクール音楽特別賞、芸術選奨が贈られた。
早坂はピアノ曲、管弦楽曲、室内楽曲、映画音楽の分野で作品を残している。特にピアノ曲は全創作期に渡っている。また映画音楽の分野では「羅生門」「七人の侍」他の黒澤明作品、「雨月物語」などの溝口健二作品など数多くの作品の音楽を手掛けた。
作風と後世への影響
早坂は「汎東洋主義」を唱え、日本的・東洋的な美学を、作品に生かそうと試みた。現在ではあまり演奏される機会はないが[1]、その理論は後の世代の作曲家(武満徹、佐藤慶次郎、黛敏郎など)にも影響を与えた。
著書に『日本的音楽論』がある。
作品リスト
管弦楽曲・協奏曲
- 古代の舞曲(1937年)
- 序曲ニ調(1939年)
- 左方の舞と右方の舞(1941年)
- 讃頌祝典之楽(1942年)
- 民族絵巻(1944年)
- ピアノ協奏曲(1948年)
- 管弦楽のための変容(1953年)
- 交響的組曲「ユーカラ」(1955年)
- 交響曲(スケッチのみ。未完)
室内楽曲
- キャプリチオ(1949年)
- 弦楽四重奏曲(1950年)
- ヴァイオリンとピアノのための二重奏(1950年)
ピアノ曲
- 君子の庵(1934年)
- 夜曲第1番(1937年)
- ピアノのための五つの楽章(1940年)
- 五音音階によるピアノアルバム第1、第2(1940年)
- 室内のためのピアノ小品集・第1集(1941年)
- ピアノのための4つの前奏曲(1942年)
- 詩曲(1947年)
- 夜曲第2番(1947年)
舞踊曲
- 若柳敏三郎氏のための舞踊曲『武曲三彩』(1941年)
歌曲
- 春夫の詩に拠る四つの無伴奏の歌(1947年、佐藤春夫詩)
- うぐひす
- 嫁ぎゆく人に
- 孤独
- 樟洲橋畔口吟(「樟」の字は本来、さんずい)
映画音楽
- リボンを結ぶ夫人(1939年/監督:山本薩夫)
- 指導物語(1941年/監督:熊谷久虎)
- 緑の故郷(1946年/監督:渡辺邦男)
- 民衆の敵(1946年/監督:今井正)
- 四つの恋の物語(1947年/監督:豊田四郎、成瀬巳喜男、山本嘉次郎、衣笠貞之助)
- ムクの木の話(1947年/監督:丸山章治)
- 女優(1947年/監督:衣笠貞之助)
- 富士山頂(1948年/監督:佐伯清)
- 虹を抱く処女(1948年/監督:青柳信雄)
- 酔いどれ天使(1948年/監督:黒澤明)
- 野良犬(1949年/監督:黒澤明)
- 醜聞(1950年/監督:黒澤明)
- 羅生門(1950年/監督:黒澤明)
- 雪夫人絵図(1950年/監督:溝口健二)
- 女性対男性(1950年/監督:佐分利信)
- 白痴(1951年/監督:黒澤明)
- めし(1951年/監督:成瀬巳喜男)
- 風雪二十年(1951年/監督:佐分利信)
- 生きる(1952年/監督:黒澤明)
- 慟哭(1952年/監督:佐分利信)
- 人生劇場 第一部(1952年/監督:佐分利信)
- 人生劇場 第二部(1953年/監督:佐分利信)
- 広場の孤独(1953年/監督:佐分利信)
- 雨月物語(1953年/監督:溝口健二)
- 広場の孤独(1953年/監督:佐分利信)
- 山椒大夫(1954年/監督:溝口健二)
- 七人の侍(1954年/監督:黒澤明)
- 近松物語(1954年/監督:溝口健二)
- 叛乱(1954/監督:佐分利信)
- 楊貴妃(1955年/監督:溝口健二)
- 新・平家物語(1955年/監督:溝口健二)
- 生きものの記録(1955年/監督:黒澤明)
親族
次女は元歌手の早坂絃子(いとこ)。写真家の北浦凡子(なみこ)は孫に当たる
脚注
関連項目
参考文献
- 『新訂標準音楽辞典』 音楽の友社、2008年3月