山口壯
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生年月日 | 1954年10月3日(69歳) |
出身地 |
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出身校 | 東京大学法学部、ジョンズ・ホプキンズ大学大学院 |
学位・資格 |
法学士 国際政治学博士 |
前職 | 国家公務員(外務省) |
世襲 | 無 |
選出選挙区 |
(兵庫12区→) (比例近畿ブロック→) 兵庫12区 |
当選回数 | 3回 |
所属党派 |
(新進党→) (無所属→) (無所属の会→) 民主党(羽田グループ) |
党役職 | 兵庫県第12区総支部長 |
会館部屋番号 | 衆議院第2議員会館521号室 |
ウェブサイト | 公式サイト |
山口 壮(やまぐち つよし、1954年10月3日- )は日本の政治家。民主党所属の衆議院議員(3期)、外務副大臣(野田内閣)。
内閣府副大臣(菅再改造内閣)、民主党政策調査会筆頭副会長等を務めた。
「壮」の字の正式な表記は「壯」。
来歴
兵庫県相生市生まれ。淳心学院高等学校、東京大学法学部卒業。ジョンズ・ホプキンス大学大学院で博士号を取得している。東大卒業後は外務省に入省した。
小沢一郎の誘いを受け外務省を退官し、1996年の第41回衆議院議員総選挙に新進党公認で兵庫県第12区から出馬したが、河本敏夫の子息で自由民主党公認の河本三郎に敗れ、落選。新進党解党後の2000年、第42回衆議院議員総選挙に再び兵庫12区から無所属で出馬し、前回敗れた河本を破り初当選を果たした。その後無所属の会に入党し、2003年の第43回衆議院議員総選挙には同党公認で出馬するが、河本に敗れた。
2005年、第44回衆議院議員総選挙では三度河本に兵庫12区で敗れたが、重複立候補していた比例近畿ブロックで復活し、2年ぶりに返り咲きを果たした。2006年、小沢一郎民主党代表(当時)の下、次の内閣の外務大臣に就任。
2009年の第45回衆議院議員総選挙では兵庫12区で河本を破り、3選を果たした。
2011年3月、「日本のグランド・デザイン」研究会を発足させ、代表世話人に就任した。同年7月、平野達男内閣府副大臣の復興担当相就任に伴い、後任の内閣府副大臣(国家戦略担当)に任命された。同年9月発足の野田内閣では外務副大臣に就任。
政策・主張
- 2006年10月13日の衆院本会議において、当時の安倍晋三首相が掲げたキャッチフレーズ「美しい国」について、「うつくしいくにはにくいしくつう(美しい国は憎いし苦痛)」であると批判した。
- 2009年9月11日、民主党の次の内閣防衛副大臣の立場で、自民党政権が進めてきたミサイル防衛について「役に立たない、撃ち落せる確率は100分の1か2ぐらいだ」、「爆撃機を対空防衛で落とせる確率は20〜30%と言われている」など、現在の軍備に疑問を呈している[1]。
- 北朝鮮への外交姿勢については「拉致問題で完全に北朝鮮が認めれば日本の援助が始まり、北朝鮮の民主的な傾向が強くなる。時間はかかるがそれしかない」との考えを示した[2]。
- 2009年5月15日、北朝鮮によるミサイル発射実験が行われると、「6者協議が機能していない。完全に麻生外交は破綻している」と麻生内閣を非難した[3]。
- 2010年10月20日、BSフジLIVE PRIME NEWSに出演した際、司会者から尖閣諸島中国漁船衝突事件で中国が日本に配慮したことが一度でもあるのかと訊かれ、「海保に拘束された中国の漁船員が日中関係を配慮し、海保側から受けた乱暴な取り扱いについて口をつぐんでいる」と発言した。
親族・親戚
- 妻の曽祖父 元衆議院議員の森国造
- 妻の祖父
- 妻の叔父
脚注
- ^ BSフジLIVE PRIME NEWS9/3日放送分
- ^ 民主・山口氏:ミサイル防衛「役に立たない」、縮小検討を(Bloomberg 2009年9月11日)
- ^ 許し難い暴挙」岡田民主幹事長 「強く抗議」福島社民党首 - 47NEWS(よんななニュース)[1]
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 伴野豊・高橋千秋 |
![]() 2011年 - 山根隆治と共同 |
次代 現職 |
先代 平野達男 |
![]() 2011年 東祥三・末松義規と共同 |
次代 石田勝之・後藤斎・中塚一宏 |