大洲城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Mio0908 (会話 | 投稿記録) による 2012年2月28日 (火) 12:59個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (Wikipedia:雑草とり)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

logo
logo
大洲城
愛媛県
本丸から見た天守建築群
本丸から見た天守建築群
別名 比志城、地蔵ヶ嶽城、大津城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 複合連結式層塔型(1609年・非現存)(2004年・木造復元)
築城主 宇都宮豊房
築城年 元徳3年(1331年)
主な改修者 藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰
主な城主 宇都宮氏、藤堂氏、脇坂氏
加藤氏
廃城年 1871年
遺構 櫓、石垣、堀
指定文化財 国の重要文化財(台所櫓・南隅櫓・
高欄櫓・苧綿櫓)、愛媛県史跡
再建造物 天守・多聞
位置 北緯33度30分34.34秒 東経132度32分28.07秒 / 北緯33.5095389度 東経132.5411306度 / 33.5095389; 132.5411306
テンプレートを表示

大洲城(おおずじょう)は伊予国喜多郡大洲(四国愛媛県大洲市大洲)にあったである。別名としては地蔵ヶ嶽城比志城大津城(大洲の旧称)などがある。

概要

大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道がある。また、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があり、大洲は歴史的にはややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所にあった。宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた。

江戸時代初期、藤堂高虎らによって大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えた。伊予大洲藩の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していた。

また、明治維新後から現在にいたる地元住民の城郭への保護活動と、2004年平成16年)に主に市民による寄付によって完成した往時を出来る限り忠実に復元した4重4階の天守も特筆すべき点である。江戸時代から残る台所櫓・南隅櫓など4棟の櫓が国の重要文化財、城跡一帯が県指定史跡に指定されている。

歴史・沿革

大洲城の位置(日本内)
大洲城
大洲城
代表紋章:蛇の目紋

この地に初めて築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏宇都宮豊房で、1331年元徳3年)のことであるといわれている。

豊房には子がなく筑後宇都宮氏宇都宮貞泰の子の宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行うが、永禄の末期に毛利氏の伊予出兵によって降伏した。天正初年[1]に土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われた。しかし1585年天正13年)にはその大野直之も豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって攻め滅ぼされ、その小早川隆景が35万石で伊予に入封し、大洲城は一支城となった。その後戸田勝隆が城主として入ったが、1595年文禄4年)に藤堂高虎が入城すると近世の城郭として整備され、1609年慶長14年)には淡路洲本から脇坂安治が入城し、この2人の時代に天守[2]をはじめとする建造物が造営された。

また脇坂安治の時代に従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更(異説あり)された。1617年元和3年)に伯耆米子から6万石で加藤貞泰が入り、以後加藤氏が12代に渡り大洲藩主として治め明治維新を迎えた[3]。維新後は城内のほとんどの建築物は破却されたものの、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓は一部保存された。しかし天守は老朽化と構造上の欠陥[4]のために1888年明治21年)に解体された。現在の天守は伝統工法を用い、2004年(平成16年)に復元されたものである。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(82番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

2007年(平成19年)3月、河辺地域浪漫八橋長浜大橋とともに美しい日本の歴史的風土準100選に選定された。

肱川越しに望む
二の丸からみた天守と台所櫓
三の丸南隅櫓
苧綿櫓と肱川、冨士山
大洲城天守内の吹き抜け
天守と高欄櫓

天守

天守は本丸の南東隅に建てられ、北に高欄櫓、西に台所櫓を配置し渡り櫓で連結した複合連結式層塔型4重4階である。中央付近に心柱が通され、それに伴い2階の床には吹き抜けが造られていた。外観は、下見板張りで、比翼千鳥破風、千鳥破風、向唐破風で屋根を飾り、窓には連子窓が多用されたが、2階には華頭窓のみが並べられていた。

復元

現在の天守は、大洲市市制施行50周年記念事業として2004年(平成16年)に竣工したもので、戦後初の当時の工法・木造で復元されたものである。明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたため、往時の姿をほぼ正確に復元することができた。このように、多くの資料が残ることは稀である。

また天守の高さは石垣の上から19.15mあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模[5]であったため、当時の建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったが、大洲市により2年近い折衝を経て、保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の復元に至った。天守の復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されている。

遺構

建築物

以下はいずれも国の重要文化財に指定されている。

  • 台所櫓
  • 高欄櫓
  • 苧綿櫓(肱川堤防上にある)
  • 三の丸南隅櫓(大洲城最古の建築物)

作品

現地情報

アクセス

天守観覧

  • 開館時間: 9時〜17時 
  • 休館日: 12月29日〜31日
  • 観覧料: 大人500円、小人200円(中学生以下)
    • 臥龍山荘との共通観覧券: 大人800円、小人300円

5歳以下の幼児、高齢者手帳もしくは身体障害者手帳の所持者とその付添いは無料。団体割引あり

利用情報

  • 日本100名城スタンプラリー スタンプ設置場所
    • 台所櫓入口(大洲城内入口)

脚注

  1. ^ 1573年から1575年あたりか
  2. ^ 建築様式が慶長年間のものであるため、淡路の洲本城天主を移設したとの説がある。
  3. ^ このため城の代表紋章は「蛇の目紋」となっている(全国城郭管理者協議会「城のしおり」による)。
  4. ^ 1・2層の間に設けられた吹き抜け構造が原因
  5. ^ 建築基準法施行令 第59条の2「高さ13メートル又は軒の高さが9mを超える建築物にあっては、国土交通大臣が定める構造方法により、鉄筋、鉄骨または鉄筋コンクリートによって補強しなければならない。」

関連項目

外部リンク