会津戦争
会津戦争 | |
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会津戦争 | |
戦争:戊辰戦争 | |
年月日: (旧暦)慶応4年閏4月20日 - 明治元年9月22日 (グレゴリオ暦)1868年6月10日 - 1868年11月6日 | |
場所:陸奥国(現在の福島県) | |
結果:新政府軍(官軍)の勝利 | |
交戦勢力 | |
新政府軍 (奥羽先鋒総督府) |
旧幕府軍 ( 奥羽越列藩同盟) |
指導者・指揮官 | |
板垣退助 伊地知正治 |
西郷頼母 大鳥圭介 山川大蔵 斎藤一 |
戦力 | |
約75,000 | 約9,400 |
損害 | |
2,977 | |
会津戦争(あいづせんそう、慶応4年/明治元年(1868年))は、戊辰戦争の局面の一つであり、会津藩の処遇をめぐって、薩摩藩・土佐藩を中心とする明治新政府軍と、会津藩およびこれを支援する奥羽越列藩同盟などの徳川旧幕府軍との間で行われた戦いである。現在の福島県会津地方が主戦場となった。
なお、同時期に進行していた長岡藩をめぐる戦いは北越戦争として別記する。
背景
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、新撰組を配下にするなどして尊皇攘夷派志士の取り締まりを強力に推進し、禁門の変においても幕府方の中核として尊皇攘夷派の排除を行った。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が破れ、徳川慶喜と共に江戸に退去した容保は、新政府の追討令を受けた慶喜の恭順方針に従って自らも恭順の姿勢を示すため会津へ帰国し謹慎するが、藩内では主戦論が支配的であり、それを察知していた新政府側でも会津藩の恭順姿勢を信用してはいなかった。
慶応4年(1868年)3月11日、江戸城が無血開城され(江戸開城)、徳川慶喜が水戸で謹慎すると、薩摩藩・長州藩を中心とした新政府の矛先は佐幕派の重鎮として敵視されていた容保に向けられる。
追討を命じられていた仙台藩、米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、新政府の奥羽鎮撫総督九条道孝に嘆願書を提出したが、東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之(こ)れなく」という基本方針は既に決定しており[5]、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。
戦闘準備
会津藩家老西郷頼母は戦況が圧倒的に不利と見て藩主・松平容保に降伏を進めるが、容保は徹底抗戦を主張し徴兵に乗り出した。 また、藩側に逃げてきた農民や町人らも、武器を渡され戦うことを命じられることとなった。
しかし他の藩と同様に、会津藩も領民に対して苛酷な税金を課していたため、重税さらには戦争にまで巻き込まれる形となった領民たちの士気は低く逃走者が後を絶たなかった。意気揚々と鳥羽・伏見の雪辱に燃える会津藩士とは対照的であった。
とくに(藩の軍資金確保を名目に)資産のほとんどを徴発された会津の町人たちに至っては、征服者である新政府軍を「官軍様」と呼び、会津藩士を「会賊」と呼びすてにした。
また、新政府軍の拠点確保を阻止するため、一部の村々を焼き払ったことも領民たちの恨みを深くした。
そのため、後に進軍してくる新政府軍が、会津藩領の村々から大量の人夫・馬・軍資金などを徴発しても、反発するどころか歓迎してこれに応じる者までいる有様だった。
経過
白河口の戦い
白河藩は当時国替えにより藩主不在となり、幕府直轄領であった。旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、慶応4年閏4月20日 (旧暦)(1868年6月10日)に白河城を占領。これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、閏4月25日 (旧暦)(6月15日)に白河への攻撃を開始し、5月1日(6月20日)に白河城を落城させる。旧幕府軍は7月までの約3か月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返したが、奪回はならなかった。
二本松の戦い
慶応4年6月24日(1868年8月12日)に棚倉城が落城、7月16日(9月2日)に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。7月29日(9月15日)、藩兵の大半が白河口に出向いている隙をつき新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。二本松藩は少年兵部隊を動員しており、彼らは後世、二本松少年隊と呼ばれた。特に木村銃太郎率いる20名は攻城戦の最中にそのほとんどが戦死し、会津戦争の悲劇のひとつとして語り継がれた。
若松城下への侵攻
二本松領を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。板垣・伊地知の意見が通り会津藩を攻撃することとなった。
二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。慶応4年8月21日(1868年10月6日)、新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破り、40キロ余りを急進して同年8月23日(1868年10月8日)朝に若松城下に突入した。新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。このとき、西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃し、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃する[6]などの悲話が後世に伝えられている。
降伏
会津藩は若松城に篭城して抵抗し、佐川官兵衛、山口二郎(斎藤一)らも城外での遊撃戦を続けたが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。孤立した会津藩は明治元年9月22日(11月6日)、新政府軍に降伏した。同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後である。旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へ向かった(箱館戦争)。
会津藩が降伏したことで、今まで藩の重税に苦しんでいた農民たちにより、ヤーヤー一揆(会津世直し一揆)が起きた。[7]
戦後処理
薩摩藩の軍監・桐野利秋や長州藩の参謀・前原一誠[8]の計らいで容保は死一等を減じられて謹慎となり、養子の喜徳とともに江戸(東京)に護送されることになった。
本来であれば家老上席にあった西郷頼母、田中玄清、神保内蔵助が切腹するところであったが、西郷は行方知れず、神保と田中は城下での戦闘において自刃していたため、次席の萱野長修が戦争の責任を一身に負って切腹した。
江戸に送られることになった松平容保を、家臣たちは断腸の思いで見送りに来たが、これまで藩の重税に苦しめられてきた領民たちは何の関心も示さず、見送りにもほとんど現れなかった。[9]
会津藩の領土は明治政府の直轄地として占領され、会津若松城下には政府機関である「明治政府民政局」が設置された。
その後、各地で打ち壊しを行うヤーヤー一揆の農民たちに対して、明治政府は積極的に鎮圧はせず会津藩の旧村役人に交渉させ、一揆勢力の要求の多くを実現させた。
太平洋戦争の終戦後に書かれた『会津史談会誌第33号』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には、新政府軍の命令によって遺体の埋葬が禁じられたという記述がある。この情報を元にした歴史小説などには「会津藩士の遺体埋葬を禁止し、腐乱するまで放置した」という記述が多く見られる。なお『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』には「彼我の戦死者一切に対して」と記述してあり、会津側の遺体だけが放置されたとは記述されていない。他には、柴五三郎(柴五郎の兄)の著書『辰のまぼろし』に、町野主水が語った話として、原田対馬、町野主水、三沢仲三郎が遺体埋葬のため穢多に一千両を与えたが、死体が腐敗していたため埋葬をためらうなど雑に扱われたと書かれている。『辰のまぼろし』では遺体の一部埋葬をはじめたのは降伏した翌月の十月と記述されている。
領土を失った会津藩士は、転封先として「猪苗代(福島県耶麻郡)」と「斗南(現在のむつ市)」のどちらかを明治政府により提示され、最終的に斗南を選択し、移住して斗南藩を立てた。
後世への影響
近年でも以下のようなエピソードがあり、現在でも会津戦争の遺恨や因縁の例として上げられる事が多い。
- 西南戦争では、多くの会津人が薩摩の巨魁(きょかい)である西郷隆盛への恨みを晴らすために、政府軍に志願したといわれる。また会津藩出身の軍人・柴五郎などは、西郷や大久保利通など薩摩藩出身政治家の非業の死に対して「当然の帰結であり断じて喜べり」と語っている。
- 明治時代に制定され、会津地方を通る国道49号という、縁起が悪い忌み数「49」が当てられたのも、長州の嫌がらせだ、と述べる住人がいる[10]。
- 1986年(昭和61年)には長州藩の首府であった萩市が、会津藩の首府であった会津若松市に対して、「もう120年も経ったので」と、会津戦争の和解と友好都市締結を申し入れたが、会津若松市側は『まだ120年しか経っていない』と、これを拒絶した。
- 2007年(平成19年)山口県の衆議院議員で山口県第4区選出の内閣総理大臣安倍晋三は、会津若松市を訪問したときに「先輩がご迷惑をかけたことをお詫びしなければならない」と語った[10]。
- 2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災において、会津若松市は萩市から義捐金や核事故避難者用の救援物資の提供を受け[11]、会津若松市長が萩市をお礼の意味で訪問したが[12]、会津若松市長は「和解とか仲直りという話ではない」と述べた[10]。また、福島第一原子力発電所事故に置ける放射性物質の除染作業に、自衛隊の山口県の部隊が携わった際には、部隊長が福島県知事に直々に作業報告に出向いた。
- 2012年(平成24年)11月26日、萩市長は会津地方支援の一環として、会津若松市を訪問し、白虎隊士の墓前に献花を行った[13]。
会津戦争を描いた作品
書籍
- 綱淵謙錠『戊辰落日』(文藝春秋)、1978年。のち文春文庫。
- 早乙女貢『会津士魂』(歴史小説)
- 星亮一『会津白虎隊』(歴史小説)
- 宮崎十三八『物語会津戦争悲話』(歴史小説)
- 間島勲・小桧山六郎編『幕末・会津藩士銘々伝』
- 杉山義法、小島剛夕『白虎隊』日本テレビ放送網株式会社、1986年
映像作品
- 花の白虎隊(1954年 大映)
- 三姉妹(1967年NHK大河ドラマ)
- 獅子の時代(1980年NHK大河ドラマ)
- 白虎隊(1986年テレビドラマ/日本テレビ年末時代劇スペシャル)
- 白虎隊(2007年テレビドラマ/テレビ朝日)
- 白虎隊〜敗れざる者たち(2013年テレビドラマ/テレビ東京)
- 八重の桜(2013年NHK大河ドラマ)
脚注
- ^ 水戸藩・諸生党は奥羽越列藩同盟側に加勢、北越戦争参加後、1868年会津戦争・篭城戦で北越戦線から会津へ戻り会津藩内の婦女子を救済、各地で会津藩兵らと共に奮戦した。福島県会津若松市一箕町の白虎隊記念館敷地内に、会津で命を落とした水戸藩士らの「諸生党鎮魂碑」がある。『茨城新聞』2014年(平成26年)5月2日金曜日、17頁、福島会津若松、殉難志士の冥福祈る。
- ^ うち少年兵500余
- ^ 旧幕府兵・民兵など含む、諸説あり
- ^ 城内防衛
- ^ 大山柏『戊辰戦争史』
- ^ 最年少隊士の飯沼貞吉のみは蘇生し、昭和6年(1931年)まで生き抜いた。
- ^ 牧野登「会津人が書けなかった会津戦争」より
- ^ 敵ながら会津藩の態度や戦いぶりに、ある種の共感に似た感情を抱いていた前原は、木戸孝允に会津藩への厳罰を避ける旨の手紙を書いている(『幕末悲劇の会津藩主 松平容保』中経出版、2013年)
- ^ 中須賀哲朗・訳「英国公使館員の維新戦争見聞記」より
- ^ a b c 「会津VS長州だけじゃない日本の郷土紛争 彦根VS薩摩の争点」『週刊ポスト』2013年8月30日号、NEWSポストセブン、2015年7月11日閲覧。
- ^ 池田拓哉 (2011年4月2日). “2011年4月2日 会津若松へ長州・萩から義援金 旧敵でも「ありがたい」”. 朝日新聞デジタル (朝日新聞社) 2016年3月26日閲覧。
- ^ “萩市 平成23年 萩市の主な出来事”. 2012年11月25日閲覧。
- ^ “福島民報 2012年11月25日 山口の萩市長が観光支援で若松訪問”. 2012年11月25日閲覧。
関連項目