五稜郭

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五稜郭
北海道
五稜郭タワーから望む五稜郭
五稜郭タワーから望む五稜郭
別名 亀田御役所土塁、箱館御役所、柳野城
城郭構造 稜堡式
天守構造 なし
築城主 江戸幕府
築城年 1866年
主な改修者 なし
主な城主 なし
廃城年 1869年
遺構 土塁、石垣、堀
指定文化財 特別史跡
位置 北緯41度47分48.84秒 東経140度45分25.06秒 / 北緯41.7969000度 東経140.7569611度 / 41.7969000; 140.7569611
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五稜郭(ごりょうかく)は、江戸時代末期に現在の北海道函館市に建造された星形城郭である。長野県佐久市龍岡城など、当時日本で建造された星形の城郭を「五稜郭」と通称するが、一般に「五稜郭」といえば函館のそれを指すことが多い。

建造中の名称は亀田御役所土塁(かめだおんやくしょどるい)、完成後の名称は箱館御役所(はこだておんやくしょ)。柳野城(やなぎのじょう)とも呼ばれる。国の特別史跡に指定され、「五稜郭と箱館戦争の遺構」として北海道遺産に選定されている。

概要

日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決するために徳川家定の命により築造された。設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎大砲による戦闘が一般化した後のヨーロッパにおける稜堡式の築城様式を採用し、堡を星型に配置している。総面積、74,990坪(約247,466m²)、施工は土工事を松川弁之助、石垣工事を井上喜三郎、奉行所の建築を中川源蔵が請け負った。

当初は外国の脅威に立ち向かうために築造が計画されたが、脅威が薄れていくとともに築造の目的が国家の威信になった。

構造

五稜郭付近の衛星写真(NASAによる資料)
五稜郭のステレオ空中写真(1976年) 国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
本来のヨーロッパの稜堡式の築城の例。オランダのブルタング要塞。

費用不足もあって、当初の計画は縮小された。半月堡も大手口に一箇所しか造られなかった。本来のヨーロッパの稜堡式の築城様式なら、半月堡は二重、三重に築かれ縦深防御を構成したが、たった一箇所の半月堡ではかなり見劣りがする。また箱館開港時に政庁箱館奉行所がおかれた。背の高い建造物は大砲の標的になるために築かないので、政庁を置くスペースがなく、純軍事施設として建造されるのが、本来の稜堡式の築城様式であり、それに反している。

当時の日本の城郭は、政治的変化や戦争と銃砲の発達を経験したヨーロッパと異なり、居住施設である宮殿と軍事施設である要塞の分離がほとんど行われておらず、居住施設(五稜郭の場合は役所)と軍事施設を兼務していた。そのため見かけだけの西洋式築城であるという評が一般的である。五稜郭以外に洋式築城が用いられたのは龍岡城や明治維新後の松尾城などであり、このほかに前橋城が部分的に擬似洋式築城を用いている。また、松前城や五島石田城など純和式の城郭に砲台を追加したものなども築造された。そのような旧式の城郭が大砲を備えた近代戦の攻防戦の舞台となればどういう目に遭うかは、会津若松城白河小峰城の休戦後の写真を見ればわかる。

実際、箱館戦争の際、写真にあるように箱館奉行所の建物の天辺にある楼閣が、官軍の軍艦の艦砲射撃の格好の的になった。それを知った旧幕府軍は慌てて楼閣部分を撤去したが、射撃角度をかなりの精度で知られてしまい、要塞内に次々と着弾。最早この時点で要塞としての機能は麻痺していた。

防御壁としては土塁を築き、砲弾のショックを吸収するのが稜堡式の築城様式の特徴である。しかし、五稜郭の場合は土塁を築こうにも北海道の寒冷な気候に適合せず、冬の間に凍った土塁が、春に温かくなると崩壊するという困難に直面した。そのためわざわざ石垣を築き、その上に土を盛るという手間をかけている。なお、土塁に固執しなくとも、南北戦争のサムター要塞のように、柔らかい煉瓦を使うという方法もあった。

一番の問題としては、既にヨーロッパでもこのような稜堡式の築城様式は、いささか旧式化していたことである。堡塁を重ねるのは小銃を防御兵器として用いるための方式であり、当時のヨーロッパでは大砲を掩体壕に据えての防御へと移行しつつあった時期である。現に同時期の普仏戦争において、フランスの稜堡式の要塞はプロイセン王国軍に簡単に突破・攻略され、要塞形式として旧式化していることを露呈していた(稜堡式の陣地を築いた例は近現代でもあるが、あくまで野戦築城であり、恒久的な要塞としての築城例は無い)。ちなみに同時期に東京湾に築かれた台場は、大砲を用いる要塞施設である。

これらのことから、五稜郭とは、政庁を豪華なものとするための価値はあっても、軍事施設としての価値はほとんどなかった(たとえ築城計画が縮小されていなかったとしても)という見方が一般的である。

歴史・沿革

江戸時代

箱館奉行所・五稜郭本陣
(明治元年冬撮影)
  • 1857年(安政4年) 工事開始。
  • 1864年(元治元年) 組立開始。
  • 1866年(慶応2年) 工事完了。

近代

復元された箱館奉行所(2010年8月撮影)

現代

  • 1952年(昭和27年) 特別史跡に指定される。
  • 1955年(昭和30年) 市立函館博物館五稜郭分館が開館。
  • 1964年(昭和39年) 入口付近に五稜郭タワーが建設される。
    • 現在は、サクラの名所としても知られる。また、毎年5月の土日に箱館五稜郭祭が開催される。
  • 1988年(昭和63年) 市民創作函館野外劇開始
  • 2005年(平成17年)11月20日、函館市中央図書館が五稜郭公園西側入口近くの渡島支庁旧庁舎跡地に開館。
  • 2006年(平成18年)4月1日、新しい五稜郭タワー(高さ107m)が開館。
  • 2006年(平成18年)7月13日から、函館市は当時の図面・古写真・文献資料に基づいて箱館奉行所の復元工事に着手した[1]
  • 2007年(平成19年)11月30日、市立函館博物館五稜郭分館が閉館[2]
  • 2010年(平成22年)7月29日、箱館奉行所の復元工事が完成し、一般公開が始まる[3]

催し物

現地情報

所在地
北海道函館市五稜郭町・本通1
交通アクセス

脚注

  1. ^ 五稜郭跡の「奉行所」復元工事を一般公開 (毎日新聞、2008年11月4日付)
  2. ^ 市立函館博物館五稜郭分館 閉館
  3. ^ 函館:五稜郭跡に「箱館奉行所」復元 一般公開に500人が列 (毎日新聞、2010年7月30日付)

関連項目

外部リンク

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