ヴェルフ家
ヴェルフ家(ドイツ語: Haus Welf)は、中世の神聖ローマ帝国で皇帝位を争った有力なドイツの諸侯。ヴェルフェン家(Haus Welfen)とも呼ばれる。同家の先祖はカール大帝時代の、バイエルンの高貴な家系出身のヴェルフ伯である[1] 。
概略
[編集]初期中世にバイエルンから発して、その分家がユーラブルグントの王となった。さらに初期ヴェルフ家の断絶後、その後を継いだヴェルフ=エステ家(ヴェルフェン=エステ家)が勢力を誇り、さらに分家であるブラウンシュヴァイク=リューネブルク家からイギリスのハノーヴァー王家が出ており、フェラーラとモデナのヴェルフ家が近代まで続いた。歴史に大きな足跡を残したのがヴェルフ=エステ家で、ザリエル朝、ホーエンシュタウフェン朝と帝位を争ったが、神聖ローマ皇帝となったのはオットー4世のみだった。叙任権闘争における教皇派(ゲルフ)とはこの家を指す。
初期ヴェルフ家
[編集]ヴェルフ家が歴史の表舞台に登場するのは、9世紀初めのことである。バイエルンの有力な家系に属する先祖のヴェルフ伯は、819年その娘ユーディト(Judith)がカロリング朝の皇帝ルートヴィヒ1世(敬虔王)に2番目の妃として嫁いだことによりカロリング朝における最有力貴族の一員となった。ところで、ルートヴィヒ1世はすでに817年に帝国整序令を発し、最初の妃との間の3人の息子、すなわち長男ロタール1世にイタリアと帝位を、次男ピピンにアクィタニアを、三男ルートヴィヒ2世にバイエルンを与えると決めていた[2]。
ところが823年にユーディトが四男カール(シャルル)を生み、ヴェルフ家は彼にも領土を要求する。ルートヴィヒ1世もこれに応えて829年にカールにアレマニア、アルザス、ブルグントなど広大な領域を与えることに決めたため、カロリング朝は親子兄弟の相続を巡る内戦に陥ることとなった。この内戦は843年のヴェルダン条約で決着し、この時既に亡くなっていたピピンを除く3兄弟がフランク帝国を分割することになった[3]。
ユーラ・ブルグンドのヴェルフ家
[編集]シュッセンガウ伯ヴェルフの直系の子孫はバイエルンやシュヴァーベンに勢力を誇ったが、ヴェルフの子コンラート1世の次男コンラート2世の家系はブルグント地方で勢力を拡大した。9世紀末、東フランク王でイタリア、帝位、西フランクをも束ねフランク王国を再統一したカール3世が甥のアルヌルフの反乱により廃位されると、フランク王国は混乱に陥った。この混乱に乗じ、888年、コンラート2世の息子のユラ伯ルドルフがユラ(ジュラ)山脈以北のブルグントを束ね、ブルグント王国(別名ユーラブルグント王国)を建国した。ユラ山脈以南にはアルル伯ユーグが割拠し、キスユラブルグント王国を建国した。
ルドルフ1世の息子ルドルフ2世はイタリアに積極的に介入し、922年にはイタリア王を称した。また、933年にはキスユラ・ブルグント王国に侵攻してこれを併合、アルル王国を建国して首都をアルルに置いた。
しかしルドルフ2世の孫ルドルフ3世には子供がなく、1032年の彼の死によりユーラ・ブルグントのヴェルフ家は断絶した。その王位はルドルフ3世の姉のギーゼラが神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の母親に当たるため、神聖ローマ皇帝に相続され、以後ブルグント王位は歴代皇帝が称することになった。
ヴェルフ=エステ家
[編集]バイエルンのヴェルフ家も1055年のケルンテン公ヴェルフ3世の死と共に断絶した。ヴェルフ3世の姉のクニグンデは9世紀から続くロンバルディアのエステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世と結婚していたため、バイエルンのヴェルフ家はエステ家に相続されることになった(このためヴェルフ=エステ家(Haus Welf-Este)、またはヴェルフェン=エステ家(Haus Welfen-Este)ともいう)。
ヴェルフ=エステ家は1070年にクニグンデとアルベルト・アッツォ2世の次男ヴェルフ4世がバイエルン公となってドイツに基盤を築いた。子のヴェルフ5世(肥満公)は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対立し、叙任権闘争においてローマ教皇と結び教皇派のトスカーナ女伯マティルデと結婚したため、教皇派はヴェルフ(ゲルフ)と呼ばれるようになる。しかし、ヴェルフ5世は子がなく弟のハインリヒ9世(黒公)がその後を継いだ。
ザリエル朝が断絶すると、ハインリヒ9世の長男でバイエルン公を継いだハインリヒ10世(尊大公)はホーエンシュタウフェン家のコンラート3世と帝位を争った。1140年のヴァインスベルクの戦いの「掛け声」からヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと呼ぶようになり、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ対ギベリン)となる。
ハインリヒ獅子公はザクセン公、バイエルン公を兼ね、舅のイングランド王ヘンリー2世と結び大勢力を誇ったが、フリードリヒ1世との争いに敗れ、ノルマンディーへ亡命している。ザクセンとバイエルンは没収され、それぞれアスカーニエン家のベルンハルト3世、ヴィッテルスバッハ家のオットー1世に与えられた。
ハインリヒ獅子公の嫡男オットー4世は皇帝ハインリヒ6世の死後、ハインリヒ6世の弟で、オットー4世の岳父でもあるフィリップと皇帝位を争った。当初形勢は不利だったが、フィリップが暗殺されたために念願の皇帝となった。しかし、ローマ教皇インノケンティウス3世と対立し(この時はヴェルフ派が皇帝派となり、ホーエンシュタウフェン派が教皇派となっている)破門され、1214年のブーヴィーヌの戦いに敗れ、フリードリヒ2世に皇帝位を奪われ、1218年に失意のうちに没した。
ちなみに、オットー4世の兄ハインリヒ5世はライン宮中伯(プファルツ系ヴェルフェン家)となっていたが、1214年に家督を譲った子のハインリヒ6世が嗣子がないまま急逝したため、姻戚関係にあるバイエルン公ルートヴィヒ1世(オットー1世の子)が相続し、ヴィッテルスバッハ家が代々世襲していった。
ハノーファーのヴェルフ家
[編集]オットー4世の弟・リューネブルク公ヴィルヘルムの子オットーは、子のないオットー4世の遺領も相続してブラウンシュヴァイク=リューネブルク公を称した。この家系はブラウンシュヴァイク=リューネブルク家として、しばしば領土の分割を重ねながら続いた。14世紀にはヴォルフェンビュッテル侯フリードリヒ1世がルクセンブルク家のヴェンツェルの対立王になっている。また、17世紀から18世紀にはハプスブルク家、ロマノフ家(ロシア)、ホーエンツォレルン家(ドイツ)、オルデンブルク家(デンマーク)と縁組を結ぶなど、勢力を増している。
1692年、その分枝に属するカレンベルク侯(ハノーファー公)エルンスト・アウグストが選帝侯となった。子のゲオルク・ルートヴィヒは1714年にイギリス王位を獲得してハノーヴァー朝を開き、その血統は現在まで続いている。
ハノーファー公国は1814年にハノーファー王国となり、1837年にヴィクトリア女王の即位により同君連合を解消した。ハノーファー王国は1866年にプロイセン王国に併合されたが、最後のハノーファー王ゲオルク5世の孫エルンスト・アウグスト3世に、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の別系統からのブラウンシュヴァイク公国の継承が認められ、その家系は現在まで続いている。
フェッラーラとモデナのヴェルフ家
[編集]バイエルンのヴェルフ家のクニグンデとエステ家のアルベルト・アッツォ2世の結婚により、ヴェルフ家とエステ家は合体した。しかしその権力は長男のヴェルフ4世がバイエルン公となる一方で、次男フォルコ1世がエステ辺境伯となることで、ドイツとイタリアに分割されることになる。フォルコ1世の子孫は後にフェラーラ公、モデナ公となった。
フェラーラとモデナのヴェルフ家は、1796年、モデナ公エルコレ3世がフランス革命政権に追放されて断絶した。エルコレ3世には息子はいなかったため、ウィーン会議でモデナ公国が再興された際、公位はエルコレ3世の娘マリア・ベアトリーチェとハプスブルク=ロートリンゲン家のフェルディナント・カール・アントンの息子で外孫に当たるフランチェスコ4世が相続することとなり、オーストリア=エステ大公と称するようになった。
系図
[編集]バイエルン公、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
[編集]古ヴェルフ家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クニグンデ | アルベルト・アッツォ2世 エステ辺境伯 | ガルセンダ (メーヌ伯エルベール1世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルフ4世(1世) バイエルン公 (1070-1101) | フォルコ1世 エステ辺境伯 | ユーグ5世 メーヌ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルフ5世(2世) バイエルン公 (1101-1120) | ハインリヒ9世 バイエルン公 (1120-1126) | ヴルフヒルト (ザクセン公マグヌス娘) | エステ家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ10世(傲慢公) バイエルン公 (1126-1138) ザクセン公 (1136-1138) | ヴェルフ6世 スポレート公 トスカーナ辺境伯 (1152-1160, 1167-1173) | ウタ (ライン宮中伯ゴットフリート・フォン・カルフ娘) | ユーディト | フリードリヒ2世 シュヴァーベン公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ホーエンシュタウフェン家 | ハインリヒ11世(獅子公) ザクセン公 (1142-1179) バイエルン公 (1156-1180) | ヴェルフ7世 スポレート公 トスカーナ辺境伯 (1160-1167) | フリードリヒ1世 神聖ローマ皇帝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグネス (ライン宮中伯コンラート娘) | ハインリヒ5世(1世) ライン宮中伯 (1195-1227) | オットー4世 神聖ローマ皇帝 (1198-1215) | ヴィルヘルム リューネブルク公 | ホーエンシュタウフェン朝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ハインリヒ6世(2世) ライン宮中伯 | アグネス | オットー2世 バイエルン公 ライン宮中伯 | オットー1世 ブラウンシュヴァイク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴィッテルスバッハ家 (ライン宮中伯) | ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 2147.
- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 2143 und 2147. -
- ^ Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 2147. - Lexikon des Mittelalters. Bd. V. München/Zürich: Artemis & Winkler 1991 (ISBN 3-8508-8905-X), Sp. 797.
参考文献
[編集]- 下津清太郎 編『世界帝王系図集 増補版』近藤出版社、1982年
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little, Brown & Company, 1981.
- Lexikon des Mittelalters. Bd. VIII. München: LexMA Verlag 1997 (ISBN 3-89659-908-9), Sp. 2147-2151.
- フリードリヒ・フォン・ラウマー『騎士の時代 ドイツ中世の王家の興亡』(柳井尚子訳)法政大学出版局 1992 (叢書・ウニベルシタス 386)(ISBN 4-588-00386-0)
関連項目
[編集]- 古ヴェルフ家
- ブラウンシュヴァイク君主一覧
- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク
- リューネブルク侯領
- リューネブルク君主一覧
- ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家
- ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領
- ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル君主一覧
- ゲッティンゲン侯領
- カレンベルク侯領
- ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家
- ハノーファー王国
- ハノーファー君主一覧
- ハノーヴァー朝
- ブラウンシュヴァイク公国
- オレシニツァ公国
- ゲルフ (オンタリオ州)(カナダ)
- ブルノン家(ブラウンシュヴァイク領の由来)
外部リンク
[編集]- Die Welfen(ドイツ語)